神立の向こう、遠い光
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生き物を犠牲にしてまで穢された神聖な場所。
明らかな呪詛の痕跡に、ざわりと心が波立った。
この行為を行った人物への怒りや今すぐこの場で殴れないことへのもどかしさ、傷付けられた動物への悼み、悲しみ。
そして、この場所にいたであろう水神への申し訳なさ。
様々な負の感情が、意識を黒く染めるのが分かる。
その時、小さな手が右肩に載った。
『咲耶、君がこの瘴気に呑まれてどうする。しっかりしろ』
柔らかくも力強い叱咤。
傍を見ると、白い仮面の奥の金色の瞳と目が合った。
途端に、意識を塗り潰そうとしていた黒い感情が掻き消される。
そうだ、自分がしっかりしなければ。
早天に頷いて見せた時、その後ろで東雲が何かに気付いた。
『何か来る』
井戸の底から、ヒュウウと風を切るようなかすかな音がする。
かと思うと、次の瞬間にはごうっという大きな音を立てて、勢いよく何かが飛び出してきた。
見上げてみると、中空でゆらりと動きを緩めたそれは、黒くぶよぶよとした物体だった。
意識を持ったスライムのように動くそれの中央あたりに、じわりと二つの顔が浮かび上がり、真っ直ぐに咲耶を見下ろす。
一つは、憂いを帯びてなお美しい白い能面の顔、もう一つは、赤黒く醜い悪鬼の顔。
白い能面の顔の方に見覚えがあったのは咲耶だけではないようで、すぐ近くから「やはり」と奥歯を噛むような呟きが聞こえた。
『くく……喰って、やる……た、祟ってやる、ぞ…………喰って……ややる、やる……』
二つある顔のどちらの声か分からないが、不気味に響く声を押し出した黒い妖は、咲耶をめがけて飛びかかってくる。
「咲耶さん!」
名取が庇うように前へ出てくれたが、それを両手で押し退ける。
「祓い給い清め給え」
咲耶の唱え言葉により、妖はすんでのところでぴたりと動きを止めた。まるで、そこだけ時間が止まったかのように。
悪鬼の顔の方は、未だブツブツと呪いの言葉を吐いている。
一方で、能面の伏された目からは、涙のようなものがこぼれた。
ずきりと痛んだ心を隠すように、咲耶は二度開手 を打ち、口元で両手を合わせる。
「白き腕よ、彼の者を連れ帰り給え」
直後、ひとつの塊だった妖はそれぞれに分離し、白い能面は水に溶けるように静かに浄化され、消えていった。
表情がないはずのその顔は穏やかに見え、頬を伝った涙の跡も、悲しげには見えなかった。
そして、
『この雑魚は向こうに捨ててくるぜ。二度とこっちの世界に来れねえようにな』
未だ暴れる悪鬼を引き摺った東雲と早天は、咲耶の返事など聞かず、あっという間にどろんと姿を消してしまう。
静寂が戻ったかと思うと、麓を走る自動車の音だけがやけに耳についた。
振り返り、名取を見る。
夏目のことで割と頻繁に連絡を取り合うようになっていたというのに、何の連絡も無く突然この山を訪れた名取。
それも、咲耶がこの瘴気に気付いたタイミングで。
「周一先輩は知ってましたね。ここで呪詛を行った誰かというのは”三上”という祓い屋で、その呪詛はどんなに醜悪なものなのか」
前に三上が実家を訪れた際に見たことがある。
あの能面の顔をした妖は、三上の式だった。
温和な性質の妖でも、凶暴な妖と融合させる術を用いれば、より強力で容易に人間を襲う悪鬼を作ることが出来るという。
代わりに、元となる妖の自我は消えてしまう。
不完全とはいえ、あの二つの顔を持った黒い妖がそれだったのだ。
醜悪なのは、術ではなくそれを行った人間の方だ。
名取の表情に、笑みは無い。
「……あの人は、そこそこ有名な呪術師達をしつこく懐柔しようとしている人で、私のところにもよく来ていた。それがおとなしくなったかと思ったら、今度は咲耶さんに近付いていると知ってね」
その時に今回の呪詛の件を耳にし、急遽この山に来たのだという。
「すまなかったね。もっと早く、対処するべきだった」
申し訳なさそうな表情に、自分を責めるような苦しい声音。
そこに、偽りは無いと感じる。
名取の話を聞きながら冷静さを取り戻すと、これはむしろ自分が招いたことなのではないかと思う。
あの時、三上を激昂させるようなことをしなければ。
しかし、それは口には出さない。
まだふつふつと怒りは湧いてくるが、まだ何も終わっていないのだ。
「……お互い、悔いるのは後にしましょう」
この間も漂い続けている生臭さと瘴気。
咲耶は、この井戸に関することを名取に話した。
この古い井戸には、大昔からこの地一帯の水脈を護る水神が棲んでいること。水神とはいっても本当の神ではなく、神格に近い水の精であること。しかし、姿を視せる相手を選ぶことが出来たり、天候を操る力を持つなど、人智の及ばない存在だということ。
「眠りが水脈の安定を保つそうで、水神の眠りを妨げれば水は穢れて山は崩れると聞いています。信仰の全盛を過ぎてなお強い力を持つのは、この場所を祀るのが神崎家だからでしょう」
聞きながら、名取は顎に手を当てる。
「水神の寝床である井戸は三上の呪詛によって穢されていた。となると、その水神は一体どこへ……?」
明らかな呪詛の痕跡に、ざわりと心が波立った。
この行為を行った人物への怒りや今すぐこの場で殴れないことへのもどかしさ、傷付けられた動物への悼み、悲しみ。
そして、この場所にいたであろう水神への申し訳なさ。
様々な負の感情が、意識を黒く染めるのが分かる。
その時、小さな手が右肩に載った。
『咲耶、君がこの瘴気に呑まれてどうする。しっかりしろ』
柔らかくも力強い叱咤。
傍を見ると、白い仮面の奥の金色の瞳と目が合った。
途端に、意識を塗り潰そうとしていた黒い感情が掻き消される。
そうだ、自分がしっかりしなければ。
早天に頷いて見せた時、その後ろで東雲が何かに気付いた。
『何か来る』
井戸の底から、ヒュウウと風を切るようなかすかな音がする。
かと思うと、次の瞬間にはごうっという大きな音を立てて、勢いよく何かが飛び出してきた。
見上げてみると、中空でゆらりと動きを緩めたそれは、黒くぶよぶよとした物体だった。
意識を持ったスライムのように動くそれの中央あたりに、じわりと二つの顔が浮かび上がり、真っ直ぐに咲耶を見下ろす。
一つは、憂いを帯びてなお美しい白い能面の顔、もう一つは、赤黒く醜い悪鬼の顔。
白い能面の顔の方に見覚えがあったのは咲耶だけではないようで、すぐ近くから「やはり」と奥歯を噛むような呟きが聞こえた。
『くく……喰って、やる……た、祟ってやる、ぞ…………喰って……ややる、やる……』
二つある顔のどちらの声か分からないが、不気味に響く声を押し出した黒い妖は、咲耶をめがけて飛びかかってくる。
「咲耶さん!」
名取が庇うように前へ出てくれたが、それを両手で押し退ける。
「祓い給い清め給え」
咲耶の唱え言葉により、妖はすんでのところでぴたりと動きを止めた。まるで、そこだけ時間が止まったかのように。
悪鬼の顔の方は、未だブツブツと呪いの言葉を吐いている。
一方で、能面の伏された目からは、涙のようなものがこぼれた。
ずきりと痛んだ心を隠すように、咲耶は二度
「白き腕よ、彼の者を連れ帰り給え」
直後、ひとつの塊だった妖はそれぞれに分離し、白い能面は水に溶けるように静かに浄化され、消えていった。
表情がないはずのその顔は穏やかに見え、頬を伝った涙の跡も、悲しげには見えなかった。
そして、
『この雑魚は向こうに捨ててくるぜ。二度とこっちの世界に来れねえようにな』
未だ暴れる悪鬼を引き摺った東雲と早天は、咲耶の返事など聞かず、あっという間にどろんと姿を消してしまう。
静寂が戻ったかと思うと、麓を走る自動車の音だけがやけに耳についた。
振り返り、名取を見る。
夏目のことで割と頻繁に連絡を取り合うようになっていたというのに、何の連絡も無く突然この山を訪れた名取。
それも、咲耶がこの瘴気に気付いたタイミングで。
「周一先輩は知ってましたね。ここで呪詛を行った誰かというのは”三上”という祓い屋で、その呪詛はどんなに醜悪なものなのか」
前に三上が実家を訪れた際に見たことがある。
あの能面の顔をした妖は、三上の式だった。
温和な性質の妖でも、凶暴な妖と融合させる術を用いれば、より強力で容易に人間を襲う悪鬼を作ることが出来るという。
代わりに、元となる妖の自我は消えてしまう。
不完全とはいえ、あの二つの顔を持った黒い妖がそれだったのだ。
醜悪なのは、術ではなくそれを行った人間の方だ。
名取の表情に、笑みは無い。
「……あの人は、そこそこ有名な呪術師達をしつこく懐柔しようとしている人で、私のところにもよく来ていた。それがおとなしくなったかと思ったら、今度は咲耶さんに近付いていると知ってね」
その時に今回の呪詛の件を耳にし、急遽この山に来たのだという。
「すまなかったね。もっと早く、対処するべきだった」
申し訳なさそうな表情に、自分を責めるような苦しい声音。
そこに、偽りは無いと感じる。
名取の話を聞きながら冷静さを取り戻すと、これはむしろ自分が招いたことなのではないかと思う。
あの時、三上を激昂させるようなことをしなければ。
しかし、それは口には出さない。
まだふつふつと怒りは湧いてくるが、まだ何も終わっていないのだ。
「……お互い、悔いるのは後にしましょう」
この間も漂い続けている生臭さと瘴気。
咲耶は、この井戸に関することを名取に話した。
この古い井戸には、大昔からこの地一帯の水脈を護る水神が棲んでいること。水神とはいっても本当の神ではなく、神格に近い水の精であること。しかし、姿を視せる相手を選ぶことが出来たり、天候を操る力を持つなど、人智の及ばない存在だということ。
「眠りが水脈の安定を保つそうで、水神の眠りを妨げれば水は穢れて山は崩れると聞いています。信仰の全盛を過ぎてなお強い力を持つのは、この場所を祀るのが神崎家だからでしょう」
聞きながら、名取は顎に手を当てる。
「水神の寝床である井戸は三上の呪詛によって穢されていた。となると、その水神は一体どこへ……?」