神立の向こう、遠い光
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この時期にしては長い雨が続いている。
ふと雨音が遠のいていく向こうに、古い井戸と祠のある風景が見えた。
色々なことを思い出す、懐かしい場所。
そうだ、あれは"あの"井戸だと駆け出した時、
ゆるさない
唐突に耳元で囁かれた声に、咲耶ははっと息を呑むようにして跳ね起きた。
肌寒さに肩をさすりながら辺りを見回しても、そこは直前まで転寝をしていた自分の部屋。未だはっきりしない頭でも分かるほどに、何も変わったところはない。
だとしたら、妙にリアルなあの声は何だったのか。
機械的な訳ではないのに抑揚がなく、生身の人の声とは思えないような、言葉にはしがたい幻想的な響き。
寝起きで霞がかっていた思考が晴れてきたかと思うと、外では急に雨足が強まり、雨粒はバラバラと音を立てて窓を叩き始めた。その音は、不穏な胸騒ぎを起こさせる。
耳を澄ますように集中してみれば、やはり。
夕暮れの闇間と雨音に紛れて、霧のようにかすかな瘴気が漂ってくる。
——————
翌日、何日かぶりに雨は止んだものの、いつまた降り出してもおかしくはないほどにどよんとした低い雲が空を覆っている。
どうにも前日のことが気になり、夢で見た井戸のある山————実家近くの公園の裏山、その麓まで来ていた。
予想はしていたが、あのかすかな瘴気は、この山へ近づくほどに強くなった。
「あー……ただでさえ気が滅入る天気なのに、これは参るわ。絶っっっ対泥だらけになる」
うんざりするほどに水を吸ってぬかるんだ山道、その上には、たっぷりの雨水を受けて頭を垂れた木々が生い茂っている。
そこへ辿り着くどころかまだ足を踏み入れてもいないのに、既に心が折れそうだ。
『それにしても、随分な瘴気だな』
ついてきていた二人の小鬼————東雲と早天が、ふわりと傍らに下りてくる。
東雲の言う瘴気だけではなく、多湿な山の空気にむせ返るような生臭さも混じっていた。瘴気とは違う、この臭いは何なのか。
『咲耶、この山は本当に水神の山なのか?』
早天は、仮面の奥で眉をひそめたようだった。
それほどに、「水神様の山」として親しまれているこの場所には、神聖さや清浄さがないのだ。
「この状況じゃちょっと信じられないけどね。でも、私は知ってる。私は多分、ここの水神様に会ったことがある」
それは、東雲や早天に出会うよりもっと以前のことで、会ったことがあるという表現が正しいのかも分からないが。
それでも、遠い記憶が確かにあり、咲耶を呼ぶのだ。
意を決して山道に入ろうとしたとき、東雲の小さな手が咲耶の肩を掴んだ。
咲耶を挟み、東雲とは反対側にいた早天がくるりと後ろを振り返る。
『何者だ』
普段爽やかな声音をしているだけに、こうも声を低められると空気がピンと張り詰めるような気がする。
そういえば、瘴気や臭いにばかり気を取られていたが、離れたところに人の気配がある。
背後から、じゃり、と水気を含んだ足音が聞こえた。
そっと振り返り、こちらにやってくる人影を確認する。
目深に被った帽子に、丈の長い上着。
甘く整った容貌に似つかわしくない、首元に浮かんだタトゥーのようなトカゲのシルエット。
「…なんだ、おどかさないでもらえます?」
大仰に溜め息をついて見せれば、目の前までやってきた青年————名取周一は、困ったように笑んだ。
「相変わらず祓い屋には冷たいね。まあ、そこが魅力なんだけど」
こちらに戻ってきてから夏目のことで連絡を取り合うことはあったが、こうして実際に顔を合わせるのは随分と久々かもしれない。
俳優としての名取周一はテレビでもよく目にしているため、久々なようで久々ではないような、なんとも不思議な感覚がした。
それにしても、と思う。
「絶妙なタイミングで現れましたね。地元の人間でも滅多に来ない、こんな裏山に」
名取でなければ偶然ということもあっただろう。しかし、この男は祓い人だ。
名取は眼鏡を押し上げ、咲耶の背後にある山を見上げた。
「仕事の依頼があったわけじゃないけれど、君の実家の近くだったことが気になってね」
聞けば、最近″祓い人″に参入した某人が、この山で何らかの呪詛を行ったのだという。
「本当に呪詛を行ったのか、だとしたら何のためにやったのか、それは成功したのかなどなど、詳細不明の噂話だったんだ。……だけど、どうやら本当らしいじゃないか。この様相を見たらね」
咲耶は名取を見上げ、首を傾げた。
名取の言うことは嘘ではないと思う。しかし、何かが気になった。
「……そんなに可愛い仕草で見つめられては困ってしまうな」
「さすが、慣れてますね」
「心外だなあ」
根拠が掴めないまま質問しても、はぐらかされて終わりだ。そうであるなら、今は気にかける必要はない。
さっさと歩き出せば、名取も後に続いた。
『おい咲耶、優男がついてくるぞ。いいのか?』
「聞こえてるぞ、赤鬼君」
「構わないわよ。妙な真似したら……貴方達に任せるわ」
「咲耶さん、ちょっと待って」
妙な真似をしたらどうしてもらおうか考えたところ、あまり面白い案が浮かばず、意図せず意味ありげな間が空いてしまった。
その”間”を恐ろしい意味と捉えたらしい名取の口から、「ひっ」と小さな声が漏れた。
ぬかるんだ山道を進み、苔の生えた石段を慎重に上る。
その先にある、こじんまりとした木の鳥居をくぐれば、そこには白竹の蓋を被せた古井戸が祀られている。
そのはずだったのだが。
「これは……!」
目の前の光景に、思わず鼻と口を覆ってしまった。
白竹の蓋が外されており、露わになった円形の井戸の縁には何かの獣の毛と血がべったりとこびりついている。
そして、その血は井戸の中へと続いているようだった。
「……ご丁寧に、注連縄まで切られているね」
名取は井戸のそばに屈み、無惨にちぎられ、泥に汚れた注連縄をそっと持ち上げる。
咲耶には、井戸の周囲の地面からじわじわと滲み出る、黒いもやのような瘴気が見えていた。
「何てこと……」
ふと雨音が遠のいていく向こうに、古い井戸と祠のある風景が見えた。
色々なことを思い出す、懐かしい場所。
そうだ、あれは"あの"井戸だと駆け出した時、
ゆるさない
唐突に耳元で囁かれた声に、咲耶ははっと息を呑むようにして跳ね起きた。
肌寒さに肩をさすりながら辺りを見回しても、そこは直前まで転寝をしていた自分の部屋。未だはっきりしない頭でも分かるほどに、何も変わったところはない。
だとしたら、妙にリアルなあの声は何だったのか。
機械的な訳ではないのに抑揚がなく、生身の人の声とは思えないような、言葉にはしがたい幻想的な響き。
寝起きで霞がかっていた思考が晴れてきたかと思うと、外では急に雨足が強まり、雨粒はバラバラと音を立てて窓を叩き始めた。その音は、不穏な胸騒ぎを起こさせる。
耳を澄ますように集中してみれば、やはり。
夕暮れの闇間と雨音に紛れて、霧のようにかすかな瘴気が漂ってくる。
——————
翌日、何日かぶりに雨は止んだものの、いつまた降り出してもおかしくはないほどにどよんとした低い雲が空を覆っている。
どうにも前日のことが気になり、夢で見た井戸のある山————実家近くの公園の裏山、その麓まで来ていた。
予想はしていたが、あのかすかな瘴気は、この山へ近づくほどに強くなった。
「あー……ただでさえ気が滅入る天気なのに、これは参るわ。絶っっっ対泥だらけになる」
うんざりするほどに水を吸ってぬかるんだ山道、その上には、たっぷりの雨水を受けて頭を垂れた木々が生い茂っている。
そこへ辿り着くどころかまだ足を踏み入れてもいないのに、既に心が折れそうだ。
『それにしても、随分な瘴気だな』
ついてきていた二人の小鬼————東雲と早天が、ふわりと傍らに下りてくる。
東雲の言う瘴気だけではなく、多湿な山の空気にむせ返るような生臭さも混じっていた。瘴気とは違う、この臭いは何なのか。
『咲耶、この山は本当に水神の山なのか?』
早天は、仮面の奥で眉をひそめたようだった。
それほどに、「水神様の山」として親しまれているこの場所には、神聖さや清浄さがないのだ。
「この状況じゃちょっと信じられないけどね。でも、私は知ってる。私は多分、ここの水神様に会ったことがある」
それは、東雲や早天に出会うよりもっと以前のことで、会ったことがあるという表現が正しいのかも分からないが。
それでも、遠い記憶が確かにあり、咲耶を呼ぶのだ。
意を決して山道に入ろうとしたとき、東雲の小さな手が咲耶の肩を掴んだ。
咲耶を挟み、東雲とは反対側にいた早天がくるりと後ろを振り返る。
『何者だ』
普段爽やかな声音をしているだけに、こうも声を低められると空気がピンと張り詰めるような気がする。
そういえば、瘴気や臭いにばかり気を取られていたが、離れたところに人の気配がある。
背後から、じゃり、と水気を含んだ足音が聞こえた。
そっと振り返り、こちらにやってくる人影を確認する。
目深に被った帽子に、丈の長い上着。
甘く整った容貌に似つかわしくない、首元に浮かんだタトゥーのようなトカゲのシルエット。
「…なんだ、おどかさないでもらえます?」
大仰に溜め息をついて見せれば、目の前までやってきた青年————名取周一は、困ったように笑んだ。
「相変わらず祓い屋には冷たいね。まあ、そこが魅力なんだけど」
こちらに戻ってきてから夏目のことで連絡を取り合うことはあったが、こうして実際に顔を合わせるのは随分と久々かもしれない。
俳優としての名取周一はテレビでもよく目にしているため、久々なようで久々ではないような、なんとも不思議な感覚がした。
それにしても、と思う。
「絶妙なタイミングで現れましたね。地元の人間でも滅多に来ない、こんな裏山に」
名取でなければ偶然ということもあっただろう。しかし、この男は祓い人だ。
名取は眼鏡を押し上げ、咲耶の背後にある山を見上げた。
「仕事の依頼があったわけじゃないけれど、君の実家の近くだったことが気になってね」
聞けば、最近″祓い人″に参入した某人が、この山で何らかの呪詛を行ったのだという。
「本当に呪詛を行ったのか、だとしたら何のためにやったのか、それは成功したのかなどなど、詳細不明の噂話だったんだ。……だけど、どうやら本当らしいじゃないか。この様相を見たらね」
咲耶は名取を見上げ、首を傾げた。
名取の言うことは嘘ではないと思う。しかし、何かが気になった。
「……そんなに可愛い仕草で見つめられては困ってしまうな」
「さすが、慣れてますね」
「心外だなあ」
根拠が掴めないまま質問しても、はぐらかされて終わりだ。そうであるなら、今は気にかける必要はない。
さっさと歩き出せば、名取も後に続いた。
『おい咲耶、優男がついてくるぞ。いいのか?』
「聞こえてるぞ、赤鬼君」
「構わないわよ。妙な真似したら……貴方達に任せるわ」
「咲耶さん、ちょっと待って」
妙な真似をしたらどうしてもらおうか考えたところ、あまり面白い案が浮かばず、意図せず意味ありげな間が空いてしまった。
その”間”を恐ろしい意味と捉えたらしい名取の口から、「ひっ」と小さな声が漏れた。
ぬかるんだ山道を進み、苔の生えた石段を慎重に上る。
その先にある、こじんまりとした木の鳥居をくぐれば、そこには白竹の蓋を被せた古井戸が祀られている。
そのはずだったのだが。
「これは……!」
目の前の光景に、思わず鼻と口を覆ってしまった。
白竹の蓋が外されており、露わになった円形の井戸の縁には何かの獣の毛と血がべったりとこびりついている。
そして、その血は井戸の中へと続いているようだった。
「……ご丁寧に、注連縄まで切られているね」
名取は井戸のそばに屈み、無惨にちぎられ、泥に汚れた注連縄をそっと持ち上げる。
咲耶には、井戸の周囲の地面からじわじわと滲み出る、黒いもやのような瘴気が見えていた。
「何てこと……」
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