H-55

わずか三歳のオッドアイの少女は、メンデル遺伝子研究所の白く無機質な廊下で立ちすくんでいた。耳に入ってくるのは規則的な機械音と、冷徹な研究員たちの話し声。それは自分の存在が、あくまでも『サンプル』としてしか認識されていないことを、改めて痛感する瞬間だった。

「H-55の反応はどうだった?」
「あれは感情の波が大きすぎる、予測不可能だ」
「それで、遺伝子解析の進捗は?」
「なかなか難しい。まったく、あのサンプルときたら、我々をどこまで手こずらせてくれるんだか……」

彼女はその言葉を聞いて足を止めた。胸の奥に冷たいものが広がる。サンプルナンバー『H-55』——それが研究所での、彼女の呼び名だった。生後5日でこの場所に連れてこられた彼女の『アーヤ』という本来の名前は、もはや誰も呼ぶことがない。意味のない番号だけが与えられ、それが彼女の全てであると、誰もが思っている。

その時、廊下の向こうから若き博士が現れた。豊かな黒い長髪と、長身で細身なシルエット——間違いなく、彼女の主任研究員である十七歳のギルバート・デュランダル博士だ。少女はその姿にすぐさま反応し、目を見開く。彼が近づくにつれて、少女の心はほんの少しだけ温かくなった。
デュランダルは少女の前にしゃがんで、優しく微笑むと、軽く声をかけた。

「アーヤ、何をしているのかな?」

その言葉に、少女は無意識に涙が溢れそうになった。彼が自分を『アーヤ』と名前で呼ぶことの意味を痛いほど感じていた。

「にーにー……」

アーヤは小さく答えると、ついには涙が頬を伝った。

「あのね……みんな『えいちごーごー』って、よぶの……」

デュランダルはすぐにその涙に気付き、静かにアーヤを抱きしめた。

「君はアーヤだ。ちゃんと名前を持っている」

その言葉は、小さなアーヤにとってどれほど温かく、どれほど大きな支えだっただろうか。

「君が『H-55』であっても、それはただの記号にすぎない」

デュランダルの声は穏やかで、どこか力強さを感じさせられる。彼はアーヤの背中を優しく撫でながら続けた。

「君が『アーヤ』であること、それが一番大事なんだよ」

その言葉を聞いて、アーヤは静かに目を閉じた。彼の腕の中で、心が少しずつ軽くなっていくのを感じた。自分が何者であるか、幼い彼女にはまだ理解できないことが多い。でも、世界でただ一人、にーにーだけでも彼女を『アーヤ』と呼ぶのなら、彼女は『アーヤ』でいられるのだ。
デュランダルは少し顔を近づけて、優しくアーヤの髪を撫でる。

「君が何者であろうと、君は僕にとって何よりも大切な存在だ」

アーヤはその温かさに身を任せ、デュランダルの白衣にギュッとしがみつく。

「ありがとう、にーにー……」

研究所の冷たい空気の中で、デュランダルの存在だけがアーヤにとっての灯りだった。そして彼に『アーヤ』という名前で呼ばれるたびに、アーヤは少しずつ、自分が『H-55』ではない『アーヤ』であることを感じ取っていく。ゆっくりと少しずつ、人間として生きることを許されていく。
その夜も、アーヤはデュランダルのそばで、柔らかく微笑みながら目を閉じるのだった。
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