有閑錬金術師の心配事
「心配事」というのは、至って非合理的なものだ。ほんの些細な事がらであっても、一度脳裏に現れれば、思考の邪魔をする。そしてその「心配」について時間をかければかける程より肥大化していく、つまり悪循環に陥る。
私は、今まさに心配事に悩まされている。書斎の窓から見える色は曇天、雨粒が地上へ降りるのを今か今かと待ち侘びているようだ。先に言っておくが、私は外に洗濯物を干していないし、これから出掛ける予定もない。ただ、彼女が傘を持っているかどうかが心配なだけだ。
彼女__カタリナは、なかなかどうして頼りない少女だ。うっかりは日常茶飯事だし、感情の起伏も激しい。年長者である私にもため口をきく。それは構わないが、そろそろ少し落ち着いても良い年齢だと私は考える。生まれ持っての性質なのだろうか? それはどうでもいい。ただ、私は彼女がまた「うっかり」を繰り返さないかと、案じているだけに過ぎない。
それは数日前のこと、丁度三時を過ぎた頃から雨が降り出した日、私は客と店員のいない喫茶室で存分に寛いでいた。心地の良い香りが漂う、雨音だけが微かに響く店内。カウンターにいくつかの書類、それと関連する書物を並べていく。講義の構成を考える事には、少しだけ楽しさを感じられる。
トリスメギストスの客員教授としての役割は大したものではない。毎月本校に赴き、錬金術についての簡単な講義を行うだけだ。私は教師になりたくてこの仕事を請け負ったわけでも、錬金術の知識を後世に残したいわけでもない。トリスメギストスの実質的な所有者__現在の双魚宮であるクラウス・ヴァン・マーネンから提示された破格の条件に、私の興味を刺激するものがあった。それだけの理由だ。過去の天秤宮としての地位は無論、稀代の錬金術師やら尾鰭のついた肩書きがこの仕事を呼び込んだのだろう。
普段、雨の日だけに限らず、この喫茶店に客が来る心配はない。しかしその日は土砂降りの雨が降っていたにも関わらず、突然扉に掛けられたドアベルが音を立てた。思わず私が振り向くと、見知った銀髪の少女__カタリナが、鞄を抱えながら扉から顔を出していた。
「こんにちは、外はすごい雨なの。傘忘れちゃったから誰か貸してくれない?」
「……それどころではないと思う」
「そうね、自分がひどい姿でいるのはわかってるけど、この雨の中家まであと10分も走れる気がしないのよ」
「待っていなさい。すぐ拭く物を持ってくるから」
「あら、カタリナ……マスター、私が持ってきます」
「ああ、そうしてくれ」
私が席を立とうとした瞬間に奥から現れたイルは、彼女を見るなりタオルを取りに戻って行った。
「学校に折り畳み傘や傘は置いていないのか?」
「バッグがいっぱいだったから折り畳み傘は家に置いてきたの。貸出用の傘はあたしが見た時にはもうなくなってたし……やっぱりみんな考えることは同じね。だから、ここに喫茶店があってすごく助かったわ」
「喫茶店は濡れた服を乾かす場所ではない」
「カタリナ、これで拭いてください。全く、びしょ濡れじゃないですか」
戻ってきたイルは当たり前のようにタオルを渡したが、彼女はれっきとした“冷やかし”であり、客にならない存在だ。このように、この喫茶店アルキュミアには、何故か客に非ずの冷やかしばかりが訪れる。一つの理由として、歩いて数分の場所に学校があるからだろう。彼女もそこの生徒だ。
「こんな時は誰か迎えを呼びなさい。風邪をひいてしまいますよ」
「走ればなんとか帰れると思ったの……」
この店が道楽と化した理由は他にもあるが、今はやめておく。兎に角、彼女は数いる冷やかしの中でも頻繁に店へ訪れる。それは構わない。
「ユイは何してるの? この本、ボロボロじゃない、どんな内容……外国語なの? 見たことない文字だわ」
私が散らかした本を彼女が覗き見る。前時代の言語で書かれた文章は彼女に読める筈ないが、少しひやりとした。
「人の本を覗き見るとは、君は本当に良い趣味をしている」
彼女の視線を遮り、私は本を閉じたが、当の本人は構わず表紙を眺めている。この通り、彼女は私にちょっかいをかけるのが好きなようだ。私は彼女の興味、琴線に触れるような回答をした記憶はないが、彼女からするとそれは違うようで、何かと声をかけてきては、私が返事をするまで一方的に話しかけてくる。しかしそこに何かしらの相槌を打てば、必然的に私の作業が止まる事になる。けれども、不思議なことに、それは不快ではない。彼女の無邪気な言動は、忘れ難き思い出を彷彿とさせる。その度に私が身勝手な罪悪感を抱いていることを、彼女は知る由もない。
「エーカ、ある程度服と髪が乾いたなら、もう帰りなさい。傘は店の物を貸してやるから」
「わかったわ。ありがと、ユイ」
彼女はエカテリーナではない。けれど、この感情が、私の頭を誤解させる。
月日が流れる程、しがみついていた物を手放せなくなる。この癖も、今更どうやって彼女と向き合うべきなんだ? ただ、何も気づかない、擦り切れた白痴のふりをして、彼女に悟られていないとは言い切れない。それも、いつか赦される時が来るだろうか? 目の前の人間が見えないふりをして、その姿に朧げな記憶を写していたとしても。
ぼやけた終業のチャイムが聞こえる。階段に備え付けられた小窓からは、降り出した小雨がレンガの道を色濃く濡らしていく様子が見える。私は空のマグカップを持って、喫茶室へと降りて行った。
「マスター、お茶のおかわりですか?」
「ああ」
イルは私が一階へ降りてくる理由を把握している。長い年月の間、こうして私に茶を入れていたからだろうか。彼女にカップを渡すと同時に、窓へと目をやる。
「雨が降っているな」
「そうですね、お昼までは晴れていたのに」
「陽の光がないといりこさんの気分も上がらない」
喫茶室のガラス窓からは、ちらほらと帰路につく生徒たちが傘を差しながら歩いているのが見える。無意識に彼女の姿を探したが、見当たらない。
「彼女は傘を持っているだろうか」
ふと、そんな言葉がこぼれ落ちた。
「心配なんだな!」
「迎えに行けば良いじゃないですか」
「何故私が?」
「心配なさっているのはマスターですよね?」
「イラはどこへ行った」
「イラは洗濯物回収しに行ったけど、なんか用か?」
「いや、聞いただけだ」
カップを受け取り書斎へ戻ろうとしたが、イルが見当たらない。仕方がない、カップをカウンターに探しに行こうとしたその時、
「マスター」
奥の扉から出てきたイルは、私に傘を押し付けた。二本のうち、一つは私の物、もう一つは、繊細なレースに飾られた淡色の傘。これは彼女の物だろう。
「このように燻っているままなのは、あなたの最も嫌うことではありませんか。あの子が傘を持っていなければこれを渡し、持っていたなら、何も言わずに帰ってくればいいだけの話です」
「正しくその通りだ」
それだけの事に、私は何を躊躇っていたのだろう? 簡単なことじゃないか。彼女は抜けているが、続けて同じ間違いをするような子ではないはずだ。きっと傘を持っているし、顔だけ見て来れば気も済むだろう。私は喫茶室の扉を開け、傘を差した。
「あれ? ユイ、何でここに?」
結論からすると、彼女は傘を持っていた。ただ、戻ろうとした私に気づいてわざわざ走って追いかけてきてきたのだ。彼女は傘を差したまま駆け寄るが、その露先が私の腕に当たっていることに気づかない。いつもこうだ。
「誰かを迎えにいくつもりだったの?」
「いいや」
「あたしをでしょ」
「そうとは言ってない」
「あたりね」
私達は同じ方向へと歩きながら、そんな言葉を交わした。私が水溜りを避けて通ると、彼女はそれを軽やかに飛び越える。
「だって、あなたが迎えに行くような人間、あたし以外に誰がいるって言うの?」
「さあ」
彼女の言う通り、私は雨の日にわざわざ人を出迎えるような人間ではない。勿論相手が傘を持ち合わせていないことが明確であるか、連絡の一つでも入れば届ける事もある。けれど大抵は、喫茶店の内部においてそのような事が起これば私以外の誰かがすぐに出向く。その点において彼らは皆気立が良いし、そうでなくても自室に篭り文書や薬剤と見つめ合う人間にわざわざ頼む事は少ないだろう。
暫くの間、沈黙が流れる。纏わりつくようなペトリコールと雨音が脳裏で溶けていく。
この奇妙な関係をどう形容するべきだろう。私達はどこで終わりを迎えるべきだろうか。その答えを出すにはまだ早いと、方耳を塞いでいる。
記憶は時間と共に褪せていく。思い出さなければ忘れてしまうし、そうでなくとも変容するものだ。彼女への想いは、青年期の一時的な、純粋への盲目な崇拝であったと認めたくはない。この想いが、手放すことのできない、私自身を構築する一つへ変化した事を悟った時、おかしな事に、ふっと気が楽になった。ある意味において、自分自身を許してしまった瞬間なのかもしれない。
もうずっと古い記憶にある過去の私は、雨の日には決まって自室に篭り、ただ本を読んでいた。紅茶の緩やかな香りと湿った空気に身を預けては、日焼けた紙に手を滑らせた。父母、祖父母__そしてずっと前の世代の錬金術師たちが残した古い書物は、私の心の支えであり、真実心の底から敬愛するもの、また、私の至るべき境地である。終わりが見えない程の教えを、決まって雨の日に享受した。
霧雨の降る昼下がり、ふと窓へと目をやると、遠くに彼女の姿が見えることがあった。雨の日だというのに明るい色の服を着て、私の祖父が育てた庭を眺めて歩く姿は__私がもしイカれた画家なら、その光景を何枚も額縁に収めていただろう。
美しいものだった。露に濡れた葉先へ触れる指先、湿気を含み柔らかく広がる白銀の髪が、目の前にいる少女の姿と重なるのだ。どうか私の方を向いて笑わないでほしい。傘を持つ白魚のような手は、私の掴み損ねたものと変わらないように見える。紫陽花を目にして微笑む所もそっくりだ。頭が痛い。私が目の前にいる彼女の為に出来ることは、何もない。おかしくなりそうだ。
「ありがと、ここまででいいわ」
喫茶店が目の前に見えると共に、彼女は立ち止まった。霧のような雨粒が彼女の前髪を濡らしている。
「早く入って? じゃないとあたし、帰れないわ」
「そういった事は本来私の仕事だと思うよ」
「あたしの家まで着いてくるつもり? 構わないけど、お兄様になんて言い訳するの?」
私が相当おかしな顔をしていたのか、彼女は笑っていた。
「あたし、帰るわね。今日はありがと、嬉しかったわ」
「ああ。私はもう入るから、気をつけて帰りなさい」
「うん。またね、ユイ」
彼女は全くわからない子だ。傘を持っているのに迎えが来て嬉しいとは。
彼女の背を見送り、家に戻った。濡れてしまった上着を脱いで、コートハンガーに掛けておく。これは何かのついでにクリーニングに出すことにする。
シャワーを浴びて自室に戻ると、いつの間にか雨は止んでいた。少し前まで靄に視界を奪われていたレンガ道の水溜まりが、雨上がりの空を写している。どのような空も、過ぎ去る物だ。この美しく愛おしい日々が、いつか跡形もなく消えてしまうように。
永遠にも近しい生を手に入れた魔術師は、そう多くない。しかし、確かに存在する。事実、私の知り合いにも片手で数えられる程の人数が存在している。ただ、口伝や書物によれば、その大半が何処かで自ら生を途絶えさせているという。
私は眠りと覚醒を繰り返し、精神の消耗を最低限にしてきたが、それでもふとした瞬間狂気に呑まれそうになることがある。
何の理由もなく永遠を手に入れようとする魔術師はいない。かつての私にも理由があった。けれど、今はどうだろうか? 本当にこのまま、過ぎゆく日々を眺めているだけで良いのだろうか? 研究室にいた頃とは違う。友人と共に彼の願いを一旦は叶えたが、それは彼の望みだ。私の願いはもう届かないところにある。それなら、私は既に、必要のない存在ではないだろうか? もしそうなら、誰が終わらせてくれるんだ?
答えのない考えだ。このような心配事に陥った時、私は大抵、喫茶室へ向かうか、或いはそのまま外へ出る。他の物を頭に詰め込み、心配という事柄の割合を小さくするためだ。この時に限り、人混みと雑音は多ければ多いほど良い。無論、解決できる方法がある場合にはそちらの方が好ましいだろう。私は再び喫茶室へと降りて行った。
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