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サファイアブルーの空を飛んで

彼女の家からここまでは想像以上に近かった。
「じっちゃん!! 先生を……!」
「どうした、アル……待ってろ、すぐ呼ぶ」
言葉にすることもままならないくらいに動転しているアルフレッドを見ると同時に、ジョンは横抱きにされた顔色の悪い少女の存在に気が付く。
何かを察し、深くは追求せずに電話をかけはじめた。
アルフレッドの腕の中に居る少女は相変わらず体から力が抜けたままだ。一刻も早く横にさせたかったが、リビングのソファーでは申し訳ないと思い、急いで自室へ向かった。
ベッドに降ろすと、少女はうめき声とともに薄っすら瞳を開けた。冷や汗を浮かべ、小さい声で何か喋り始めた。
一緒だ。言葉は違うがーー水が頭を包んだあの時と。記憶が蘇り、アルフレッドは背筋を凍らせた。
もぞ、と彼女の右手が動く。咄嗟に身構えたが、それは自身の胸を二、三度撫でただけで、そのまま動かなくなった。
一体何だったのだろうか、と顔に目をやる。冷や汗は消え、穏やかな表情を浮かべながら瞳を閉じ、規則正しい寝息を立てている。
突然のことに唖然としていると、弱々しいノックの音と共にドアが開いた。

診察はあっという間だった。
ジョンに呼んでもらった先生とはこの街に唯一あるこじんまりとした診療所の医師・サイラスのことだ。腕は確かだがマイペースなところが玉に瑕で、少女の顔を見るなり「ああ可愛らしい顔だねえ」なんてからから笑うものだから、アルフレッドは冷たい目線を送った。
そんなことはお構いなしにサイラスは少女のあちこちを調べ、にっこりと笑った。
「貧血ってところかね」
胸を撫で下ろすジョン。重症でないことを喜びつつも戸惑うアルフレッド。
(やっぱり、さっきの言葉で回復した? 彼女は一体……?)
それより、とサイラスはアルフレッドの腕を指差す。少女に掴まれた箇所だ。しげしげと見つめ、変な形だとまたからから笑った。
「そっちの方が酷いねえ。今すぐ冷やした方が良いよ」
指摘され、傷はじわじわと熱を帯び始める。正確にはずっと痛みを感じていたが、それどころでは無かった、と言うべきか。
「ほら! 早く当てろ!」
袋に包まれた山盛りの氷が、顔を目掛けて乱暴に飛んできた。自分よりもよっぽど冷静さを失っているジョンがなんだかおかしくて、アルフレッドは久しぶりに笑った。

薄曇りだった空から、一ヶ月ぶりに太陽がそっと顔を見せた。
日が傾いても少女は一向に起きる気配はなく、依然すやすやと眠り続けている。
ジョンは診療所までサイラスを送りに行った。目を覚ますまで傍に居てやれ、と言い残して。
太陽の光に照らされ、きらきらと輝くグレーの髪。無意識にアルフレッドは手を伸ばした。さらさらした髪はするりと指から滑り落ちる。より一層輝きながら。
もう一度手を伸ばした時。少女の瞳がゆっくりと開いた。
アルフレッドは髪を撫でていた事を気取られないよう、慌てて自分の首元へ手を持っていった。
けれど少女の視界にそれは入っていたようで、動きに合わせて顔を向けーー目が、合った。
「……!!」
「あ、えっと……おはよう」
どう声を掛けて良いものか分からず、たじろぎながら挨拶をした。と同時に、少女はすぐさまベッドの上で正座し、頭を思い切り下げた。
「本当にごめんなさい!!」
これは日本の伝統文化・土下座だ。初めて見た。
しばらくの間なんとなく見つめていたが、少女は一向に喋らないし動くこともない。
これじゃ埒が明かない。何か言葉を、とあれこれ考えていたときだった。
ぐうぅ。
沈黙を切り裂く短い重低音。
お腹の音だ。アルフレッドからではない。慌てて顔を上げ、お腹を押さえた少女から発されたものだ。少女は顔をほんのりと赤く染めながら、聞こえてませんように、と祈りを込めた眼差しをアルフレッドに向けた。勿論、祈りは届かなかったが。
ーーその様子が、拳を交えた時の彼女とは余りにも差がありすぎて。
「ふっ……ははっ」
「……笑わないでください」
姿勢を元に戻し、恥ずかしそうに顔を手で覆う。
「ごめんごめん。なにか食べ物持ってくるよ」
「そこまでしてもらう訳には」
「聞きたいこと沢山あるんだから、まずは腹ごしらえといこうよ」
椅子から立ち上がり、上体をぐっと反らす。一ヶ月程寝たきりだったのに、昨日今日と急に体を使いすぎてあちこちがぎしぎしと軋んでいる気がする。
はたと気付く。そうだ、何より先に聞くべきことが一つ。
「ねえ、名前教えてよ」
「リツカ、です」
名前を聞いた途端、アルフレッドの胸が高鳴る。ドクンドクンと脈打つ理由は分からない。けれど確かにこれから始まる『何か』を感じ取っていた。
再びぐう、と音がする。
無理もない、半日も眠っていたのだから。しかし、故意ではないとはいえまるで急かされてるような丁度いいタイミングで鳴るものだから、アルフレッドはまたくすくすと笑う。
リツカの顔は夕日に照らされたように真っ赤だった。
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