審神者&特務司書inTwistedWonderland
オクタヴィネルの三人は、普段の余裕そうな態度を繕うこともなく、表情を強ばらせていた。先の刀剣男士や文豪の発言を聞いたばかりだったからだ。
「俺たちの国には八尾比丘尼伝説というものがあるんだ」
あくまで伝説の中の人物である、八尾比丘尼。見知らぬ男らに誘われたとある男は、人魚の肉が調理されている光景を見てしまう。男は気味悪がって御馳走として出された肉を食べずに、土産として持ち帰るのだ。そのことを知らずに、男の妻か娘が食べてしまい、不老長寿を得るという話だ。伝説上では女性が食べたという記録しか分かっていないので、妻か娘と記述されている。そうして夫や知り合いに先立たれた女は出家して、比丘尼となった。これが、八尾比丘尼伝説だ。
いくら弱肉強食とはいえ、人魚食なんてツイステッドワンダーランドでは普及していないどころか、想像も出来ないことだ。どうしてこの話を小林が始めたのか。
「ところで、ボクたちが一番恨みを持つ寮が、何処か分かりますか?」
まるで軽い調子で物吉は質問する。物吉貞宗には、帯びて出陣すると必ず勝利を得ていたという逸話がある。まさしく幸運の王子という二つ名が似合う、しかし戦に長けている立派な刀剣男士だ。現在の主人である純恋の近侍を何度か経験していることもあり、彼女を邪険に扱おうとする輩を一切許さないという強い忠誠心も持ち合わせている。
「それはですね……………お二人を貶し住居を奪ったオクタヴィネルと、身も心も破壊しようとしたスカラビアです」
その言葉にカリムとジャミルまでも驚愕の表情を見せた。
「おいおい、何そんな驚いた顔してんだよ」
そこに現れたのは、彼らの反応を見て不思議そうにした坂口を先頭にした無頼派文豪と、殺気を隠しきれていない江刀剣だった。
オンボロ寮を二号店として活用しようと企んでいたアズールは、そこの住人となった純恋と萌愛に契約を持ちかけた。イソギンチャクとなってしまった生徒たちの解放を条件に、オンボロ寮の所有権を預けること。魔力も無ければ後ろ盾も無い、お人好しだと噂の彼らなら簡単に契約出来ると考えていた。
結果として、契約した後は寮を追い出された二人と一匹は、野宿のために学園裏にある森の近くに向かおうとしていた。そこにイソギンチャクになってしまったエースとデュース、今回の事件に協力してもらったジャックが現れた。ツナ缶だけが入った袋を持ったグリムに反して、純恋と萌愛は登下校の際に持ち寄るカバンのみだった。その中にはサムからもらったワンピースもあるが、これから着ることは無いだろうと考えていた。折角、好意で貰ったものだというのに残念だと思いつつ、今後は如何にオクタヴィネルの奴隷としてこの世界の調査をする方法を心中で模索していた。
しかし、ジャックの提案とレオナの難題を見事に突破した後は、そのままレオナの部屋に宿泊することになったのだが。
「え?こちらはテーブルがある談話室で十分ですよ」
「これから調べ物をするので、机と椅子があれば事足ります」
案内しようとした寮生を止めて、純恋は談話室にある机と椅子に目線を向ける。萌愛はカバンから数冊の分厚い本を取り出すと、寮生に見せつけた。その本は珊瑚の海に関する書籍で、他にも何百冊もの本をカバンから出していく。
「と、いうわけでグリムと荷物をそちらに置いてやってください」
純恋がずい、とラギーに差し出したグリムは「ふなっ!?」と驚愕した。首だけを勢いよく純恋に向けて抗議する。
「そんなの聞いてないんだゾ!?」
「言ってないからね」
萌愛はそれだけ言うと、談話室のテーブルにノートや本を広げ始めた。席に着いてペンを取ればページを捲り、滑らかなペンの音が、傍で流れる滝の音に掻き消されていく。
「じゃあ、グリムのことよろしくお願いします」
「え、あ、了解っす………」
無表情のままの純恋に、ラギーは大人しくグリムを受け取るように抱えた。同じくして純恋もまた、自身のカバンからノートと本を二冊ほど取り出して筆を走らせる。時々、不明点を質問し合いながら、まるで作戦を立てているかのような会話をしているようだ。
ラギーは恐る恐るレオナの方を向いて、どうしたらいいか問おうとする。その時のレオナの表情はどこか複雑そうだったが、すぐさまマジカルペンを手にすると、ノートや本に目を向ける二人の席を包むように魔法をかけた。一方の純恋と萌愛は、突然周囲が綺麗な光に包まれたことに気が付いた。
「レ、レオナさん?一体何を………?」
「…………防音魔法を張った。好きに調べ物しとけ、俺は寝る」
欠伸をしながら自室に戻ろうとするレオナと、その後を付いて行くラギー。抱えられたグリムは心配そうに二人を見つめながら、ツナ缶が入った袋を握り締めていた。暫くしてから、「無理だけはすんなよ」とだけ言い残して、ジャックが自室へと戻って行った。
「………それで?そこで立てたある一つの作戦で、アンタらは普通に負けたわけか」
「まぁ、主の策で負けるわけがないよね。サバナクローの生徒を焚き付けたのは良い案だったと思う」
「うん、持っている手駒を全て使う…………あの人らしいや」
坂口はソファに座り高らかに笑うと、桑名や村雲は付け足すように同意する。
純恋の審神者としての手腕は、時の政府が一目置くほどだ。彼女を担当している担当官の女性は、その実力と刀剣男士からの人望を心から尊敬し、彼女のことを審神者名の『紫陽花様』と呼ぶ。その担当官は純恋よりも幾つか年上なのだが、それはまた別の話。監査官からもその腕を見込まれているほどの純恋は、レオナを説得(という名の脅迫紛いの読書会:作品厳選は藤宮萌愛)した上でサバナクロー寮生を動かし、オクタヴィネル寮が運営しているモストロ・ラウンジを混乱に陥れる計画を立てた。それはまるで夢物語のように上手くいき、結果としてアズールはオーバーブロットした。純恋としては、契約書をレオナに持っていてほしかっただけなのだが。契約書そのものは、あくまで人質のような扱いだったので、後で純恋の方から全て返す手筈だった。
他人から奪ったもので、一番になっても虚しいだけである。結局のところ、時間をかけて培った努力がものを言うのだ。
純恋も萌愛も疑問に思っていた。過去百年分の試験範囲を調べ上げられる集中力、それを不特定多数の生徒に分かりやすくした虎の巻を作れるほどの分析力。アズールのような頭脳と力量は、審神者でも特務司書でもやっていけるだろう。だと言うのに、どうして期末テストの時のようなことを起こしたのか、二人には分からなかった。何故、わざわざ立地も交通便も悪そうなオンボロ寮を二号店に選んだのか。
どうして、たかだか期末テストの対策程度に百年分という無駄過ぎる情報を詰め込んだのか。入学試験ですら過去問題は三、四年ほどやり込めば十分な対策になる。はっきり言ってしまえば、今回アズールがしたことは無駄な努力でしかない。
「そういえば萌愛ちゃん言っとったけど、何であんな役に立たなそうなオンボロ寮なんか欲しかったん?」
頭の後ろで手を組んでいる織田は、アズールを見ると思い出したかのように聞いた。利用価値があると考えていたものを役に立たなそう、と言われてむっとしながらもアズールは答える。
「………僕たちオクタヴィネル寮では、モストロ・ラウンジという飲食店を経営しています。その二号店としてオンボロ寮に目を付け、イソギンチャクの件を持ちかけた…………といったところです」
「ほーん、ちょっとは考えられた理由やなぁ」
うんうんと満足そうに頷く織田に対して、アズールはほっとした表情になる。
「ほんで、何もおもんないな」
「え、」
「そんなしょーもない理由で、萌愛ちゃんから仮住まい奪ったんか」
織田作之助は難波の美男子を自称するだけあって、顔のパーツは全て整っている。萌愛から見れば初期文豪ではないにしろ、数いる頼れる兄のような存在だ。助手の時には萌愛が錬金術の研究に成功しようが失敗しようが、一緒に笑ったり悲しんでくれる。彼に本気で怒られたことは殆どなく、それは他の無頼派の三人も同じだった。
その織田が、今まさに怒りを抑え込んでいた。右足を貧乏揺すりのように揺らしていることで、無頼派だけではなく刀剣男士やアズールたちにも伝わっている。
「…………あるところに、一人の女の子がいました」
織田とは違った声がそう話し始めた。それは太宰のものであり、彼の語りはこの場にいた全員聞き入っていた。
「その子は男を知りませんでした。何故なら、その子の父は母だった少女を妊娠させた挙句、他にも数多の女と関係を持っていて勘当されたからです」
太宰の語りは当然ながら、その内容にも驚きを隠せない。少なくとも、この内容はツイステッドワンダーランドでは二十歳を迎えていないと見れないものだ。
「その子が知る男は、父の父…………祖父だけでした。祖父は最初で最後の孫であるその子を、とても可愛がっていました。彼女が欲しがるものは全て買え与え、聞きたい物語を読み聞かせてあげていました。ですがその子はいつも祖父に、『おじいちゃん達がいれば嬉しい!それ以外は大丈夫!』としか言いませんでした」
女の子の台詞のところは少々高いトーンで喋った、太宰の語りは止まるところを知らない。
大人でもある教師たちは、この語りに心臓を掴まれていた。特に二人の娘を持つトレインは、祖父を自分に、孫を娘たちの子どもに置き換えて考えてしまった。
「その子と母親は世間の厳しい目に晒されながらも生きていました。彼女は母に似て、心優しい女の子に成長しました。高校生………こっちだとハイスクールか、になった彼女に、初めての恋人が出来ました」
脳内には十六歳になった少女と、その恋人である少年が対面している情景が浮かぶ。恋愛はツイステッドワンダーランドに生まれた少年少女たちの大好物だ。義母や義姉に虐げられながらもプリンスと結ばれた灰かぶりの少女や、城に投獄された父の代わりに罪人となった少女が城主の野獣と踊った話などが残されているくらいだ。
「けれど」
それまで穏やかだった太宰の声が変わった。その先を知る文豪や刀剣男士は目を伏せた。
「その恋人は…………あのクソ男は、あの子を裏切った」
太宰はソファから立ち上がり、ブーツを鳴らしてアズールたちの方へと歩き出した。
「あの子を暗い倉庫に呼び出して、友人を使ってあの子の服を剥ぎ取って、嫌がるあの子の初めてを奪ったのです。
…………あぁ、初めては痛いって聞くからなぁ。それは毎日続いてさ、あの子はやりたくない奉仕とかやらされたんだよ。母親と同じように」
それまで状況を理解出来なかった一同は、皆揃って口を覆っていた。女性の同意もなく行為に及ぶのは、ツイステッドワンダーランドでは斬首されてもおかしくない。まして、それが日常のように行われているとなれば、命が消えても同然だろう。
「それから、心を病んでしまった彼女は部屋に引きこもるようになりました。自宅では本を読み漁り、休憩にゲームをやるだけの生活をしていました」
多少動機は違えど、いじめられていたアズールには胸に刺さるものがあった。確かにこれだけのことをされたら、安全な場所に閉じこもりたくなるのも無理はない。
「ですがその子はその読書の中で救われました…………そして、この読書をきっかけに特務司書になったのです。
図書館で、自分を変えようと決意しました。
元々賢い子でしたが、必死に勉強して高卒認定試験に合格しました。
縁のなかったメイクやファッション、ネイルを動画サイトを見ながら実践したりして、俺たち文豪の隣に立ちたいと言って努力しました。
持久走大会では常に五位以内に入っていたその子は、脚力を鍛えることにしました。中学………ミドルスクールでは陸上部に勧誘されたほどの実力でした。今、その足は蹴り技に特化していました。
勉強も、運動も、お洒落も、家事も、仕事も………何一つ手を抜くことを赦さないその子は、俺たち文豪にとっての、俺にとっての『光』であって『偶像』なんだ」
太宰の語りはそこで終わり、そこでようやく話の中に出てきた少女の正体を理解した。これまで太宰が話していた少女とは、萌愛のことだったのだと。
「………なぁ、お前もあの子から、萌愛ちゃんから全部奪うのか?あのクソガキ連中みたいにさ!」
座ったままで震えるアズールの前で止まった太宰は、ただ彼を見下ろすだけだった。
藤宮萌愛という少女は、太宰治という作家を敬愛していた。彼の作品を読み漁り、現状では彼だけを先生と呼んで慕っている。転生当初の太宰は、まるで芥川先生に対する自分はこう見えているのだろうか、と考えたこともある。なので萌愛の図書館における太宰は基本的に大人しく冷静で、無闇に自殺をしようとは考えない。萌愛の過去を知ってからは、自分が守らなければならない、と少々過保護になっているのだが。
だからこそ、アズールが仕掛けた行動には、誰よりも怒り狂っていた。
「自分より弱そうだったら何してもいいんだな…………いじめっ子じゃないと出来ない発想だよなぁ」
俯くアズールの前で立ち止まった太宰は拳を握りしめていた。けれどそれで殴られる、ということは無かった。
「おい太宰、そこまで言う必要はねえだろ」
坂口が太宰の肩を叩き、後ろに追いやった。
「………安吾、優しすぎない?」
「お前も分かってんだろ、あの時に此奴は契約書を全部………」
「なぁ安吾、これなーんだ?」
そう巫山戯たように言って太宰が懐から取り出したのは、二つのスマートフォン端末だ。ピンクとライトグリーンのグラデーションが美しいものと、紫陽花が描かれた紫で統一されたものの二つ。前者は萌愛で、後者は純恋のスマートフォンのカバーだ。
「それ、萌愛のスマホだろ?」
「その花があしらわれているカバーは………間違いなく主様のものですね」
「正解!」
坂口と篭手切の解答に答えた太宰はピンク色の端末を操作すると、会話の音声が流れ始めた。
「…………え、これって………」
………萌愛の端末に録音されていたのは、純恋と萌愛が『オンボロ寮の監督生』として契約した時のものだった。そして純恋の方には、アズールが用意した契約書の写真が写し出されている。
「ちょっとブレてっけど………白エビちゃんの写真めっちゃ綺麗に撮れてんね」
「えぇ………それに、メアさんがまさかこの日の会話を録音していたとは………」
「甘エビちゃん、本当に準備いいよね〜」
まさか全ての記録を取られていたとは思いもしなかったアズールとは反対に、ジェイドとフロイドは素直に感想を言い合う。白エビとは銀白色の髪を持つ純恋のことであり、甘エビは髪の毛にピンク色が入っている萌愛のあだ名だ。フロイドはこの二人をまとめて小エビちゃん、と呼ぶこともあった。
そうこうしている間にも、会話音声は止まることを知らない。アズールの声が、純恋と萌愛に住居であるオンボロ寮を差し出すように契約を迫っていた。それだけではない。
『スミレさんもメアさんも魔法の力をお持ちでない。美しい声もなく、一国の跡継ぎというわけでもない。ほんとうにごく普通の人間だ』
この言葉で、篭手切たちは拳を握り締めた。村雲は以前、その場の勢いで殴ってしまったとはいえ、五月雨が横にいたからか幾分落ち着いてはいた。けれど彼らは、ただでさえ守ると誓った少女を身勝手に奪われた忠誠心の強い刀剣男士。つい本音を口にしてしまうのは仕方ないことだ。
「あいつは……その『ごく普通の人間』の女の子になりたかったっつーのに………」
「………アズールくん、だったっけ。彼は果報者だね、その場に主だけだったら、すぐに死んでたんじゃないかな」
豊前と松井の独り言だろう。それでも、アズールたちの耳にははっきりと聞こえていた。
「へぇ、その時の契約書がこれかぁ………って、ん?」
織田が純恋撮影の契約書を眺めていた。すると、あることに気が付いた。
「この契約書の名前、おっしょはんと審神者はんの名前とちゃうやろ」
「え!?」
そんな衝撃的な指摘から、刀剣男士も文豪も純恋が撮影した端末を見る。彼らは契約書に書かれた名前を見て、まるで飲み会の如く笑い出した。
「萌愛………恋愛ゲームで使うフルネームを書いたんだな」
「へぇ、主もオンラインゲームで使ってる中二病みたいな名前書いてるね」
「……そういえばここってほとんどが英語圏だったな。コイツらじゃ漢字なんて分かんねえか」
「確かに、ナイトレイブンカレッジって英語で書かれてたもんねえ」
ツイステッドワンダーランドでは公用語として、英語が使われている。萌愛の調査記録に綴られていたのを、文豪は覚えていた。
「……最初から、契約は成立していなかった………?」
アズールは無くなってしまったとはいえ、契約書に書かれた名前が二人の名前ではなかった。それはつまり、最初から契約不履行だったということだ。
つまり、あの契約がアズールの勝利だったとしても、オンボロ寮が手に入ることは無かった。
名前を必要とするユニーク魔法だと聞いた純恋と萌愛は、「じゃあ趣味で使ってる名前でも問題ないよね」という認識で、適当な名前を書いてから荷物の少ないオンボロ寮を後にした。これが、オクタヴィネル事件の真相だ。
『………もしもし、そちら仮拠点・オンボロ寮で間違いありませんか?』
沈黙が続いた時、鈴のように可憐な少女らしき声が談話室に響く。その正体に気が付いた坂口は、適当に相槌を打ちながら暖炉の上に置いてあったパソコンを操作する。どうやら通話用のアプリを最初から立ち上げていたらしく、今ようやく繋がったのだろう。
「こちら仮拠点・オンボロ寮、文豪の坂口安吾だ」
『ありがとうございます。こちら、帝国図書館所属、特務司書兼任アルケミスト………現在は特務司書代表代理を務める菊川莉卯です』
『同じく帝国図書館所属、特務司書兼任アルケミスト、現在は菊川莉卯の補佐を務める東郷絃です』
最初に断りを入れたのは菊川莉卯という名前らしい。次に自己紹介をした方の東郷絃という女性も、凛々しさの中に愛らしさが残る声色だった。
「………ん?音舞のやつはどうした?」
『藤宮萌愛の補佐である烏丸音舞は現在、そちらとの道を繋げる最終段階の調整に当たっています。暫くすれば、合流するかと』
「そうか、じゃあ映像繋げるぞ」
『はい』
『よろしくお願いします』
そう言うと坂口はマウスを少し動かしてから一回クリックした。暖炉がある壁に貼られていた大きめのスクリーンに、四分割されたリアルタイムの映像が映し出される。そのうちの二つには、莉卯と絃の姿があった。
莉卯はおそらく背中まで伸ばしているだろう黒く長い髪をストレートにしている小柄な少女だった。蜂蜜色の瞳が実に美しいが、何故か前髪で左の方だけ隠されている。
絃は肩まである翠色の髪をまっすぐ切り揃えており、ハーフアップにしていた。マゼンタに近いようなピンク色の瞳は、どこか微睡んでいるようにも見える。
「莉卯、絃、そっちは何か報告あるか?」
『えぇ、萌愛ちゃんと純恋ちゃんの容態について観察が終わったので』
「そうか、続けてくれ」
はい、とだけ返事をすると、絃はボードとペンを手にしながら説明を始める。
『まず、そちらに派遣した文豪と刀剣男士の皆さんに頼んで、二人の身体を検査にかけていただきました』
「はっ!?いつの間にそんなことしたわけ!?」
『あ~………おそらく仮拠点に汚染体が入り込んでいた時期ですかね?』
「東郷女史の仰る通りです。主様の眠る居宅に、ここに在籍する生徒が何度か侵入を試みていたことは確認済みです」
防犯カメラで監視役をしていたイデアが珍しく声を荒げると、絃は面倒そうに答えた。籠手切が説明していたが、それでも疑問は尽きない。
どうやら、純恋と萌愛が眠りについて間も無いうちに、全てが始まっていたらしい。幾つか質問したいことはあったが、今は二人の容態とやらを全て聞いてからにしよう。
『えっとですね~………二人の体から、体の構造を変化させる汚染物質が検出されました』
「汚染物質………ってのは?」
『例えばですねぇ………人間の呼吸方法を変えちゃうタイプのお薬です』
「………ま、さか」
「は、汚染……って何?」
「………アズールの作った魔法薬、ですよね?」
上からアズール、フロイド、ジェイドだ。三人揃って冷や汗を流している。
『へぇ、そこは普通の学生でも薬物なんて作るんですねぇ。まぁ、こっちでは毒品のような汚物だったので、二人の体内から即刻浄化手続きしました』
「絃ちゃん、おおきに~!」
「良かった………あの人に何も無くて……」
「…………ふぅん、そういうことか」
織田と村雲が安堵した中、坂口だけは眼鏡をかけ直すと、スクリーンに背を向け、そのまま躊躇なく歩き出した。
「ぐッ!?」
「……あーそうか、太宰が正しかったんだな」
アズールの前まで来た途端、ネクタイを掴み上げる。首が締め上げられる苦しみに悶える彼を、両隣に座っていたジェイドとフロイドが助け出そうと立ち上がった。だがその前に二人は、背中で両手を拘束され床の上にうつ伏せで倒れてしまった。ジェイドには村雲、フロイドには五月雨がそれぞれ上に乗っている。
「ぃ………ってぇ……!んだよコレ………!」
「くっ……!流石、戦場に立つだけのことは………っ」
海のギャングであるはずのウツボ二匹ですら容易に留めてしまう刀剣男士の力量に、その場の誰もが呼吸を飲み込んだ。次に全員の注目は、その中心にいるアズールと坂口だった。坂口の眼差しは、眼鏡がなくても分かりやすいくらい、怒りで燃えていた。
「今回は無事だったからとか、そんなの関係ねえ」
そう言うと坂口は、アズールのネクタイを手放す。解放されたことから咳き込むアズールを坂口、太宰、織田、檀の四人は冷たく見下ろしていた。
「俺たち無頼派は、アンタを一生赦しはしない」
四人の脳裏には、自分たちの文学の傾向が大好きだと惜しげもなく言ってくれた文学少女の姿があった。
「俺たちの国には八尾比丘尼伝説というものがあるんだ」
あくまで伝説の中の人物である、八尾比丘尼。見知らぬ男らに誘われたとある男は、人魚の肉が調理されている光景を見てしまう。男は気味悪がって御馳走として出された肉を食べずに、土産として持ち帰るのだ。そのことを知らずに、男の妻か娘が食べてしまい、不老長寿を得るという話だ。伝説上では女性が食べたという記録しか分かっていないので、妻か娘と記述されている。そうして夫や知り合いに先立たれた女は出家して、比丘尼となった。これが、八尾比丘尼伝説だ。
いくら弱肉強食とはいえ、人魚食なんてツイステッドワンダーランドでは普及していないどころか、想像も出来ないことだ。どうしてこの話を小林が始めたのか。
「ところで、ボクたちが一番恨みを持つ寮が、何処か分かりますか?」
まるで軽い調子で物吉は質問する。物吉貞宗には、帯びて出陣すると必ず勝利を得ていたという逸話がある。まさしく幸運の王子という二つ名が似合う、しかし戦に長けている立派な刀剣男士だ。現在の主人である純恋の近侍を何度か経験していることもあり、彼女を邪険に扱おうとする輩を一切許さないという強い忠誠心も持ち合わせている。
「それはですね……………お二人を貶し住居を奪ったオクタヴィネルと、身も心も破壊しようとしたスカラビアです」
その言葉にカリムとジャミルまでも驚愕の表情を見せた。
「おいおい、何そんな驚いた顔してんだよ」
そこに現れたのは、彼らの反応を見て不思議そうにした坂口を先頭にした無頼派文豪と、殺気を隠しきれていない江刀剣だった。
オンボロ寮を二号店として活用しようと企んでいたアズールは、そこの住人となった純恋と萌愛に契約を持ちかけた。イソギンチャクとなってしまった生徒たちの解放を条件に、オンボロ寮の所有権を預けること。魔力も無ければ後ろ盾も無い、お人好しだと噂の彼らなら簡単に契約出来ると考えていた。
結果として、契約した後は寮を追い出された二人と一匹は、野宿のために学園裏にある森の近くに向かおうとしていた。そこにイソギンチャクになってしまったエースとデュース、今回の事件に協力してもらったジャックが現れた。ツナ缶だけが入った袋を持ったグリムに反して、純恋と萌愛は登下校の際に持ち寄るカバンのみだった。その中にはサムからもらったワンピースもあるが、これから着ることは無いだろうと考えていた。折角、好意で貰ったものだというのに残念だと思いつつ、今後は如何にオクタヴィネルの奴隷としてこの世界の調査をする方法を心中で模索していた。
しかし、ジャックの提案とレオナの難題を見事に突破した後は、そのままレオナの部屋に宿泊することになったのだが。
「え?こちらはテーブルがある談話室で十分ですよ」
「これから調べ物をするので、机と椅子があれば事足ります」
案内しようとした寮生を止めて、純恋は談話室にある机と椅子に目線を向ける。萌愛はカバンから数冊の分厚い本を取り出すと、寮生に見せつけた。その本は珊瑚の海に関する書籍で、他にも何百冊もの本をカバンから出していく。
「と、いうわけでグリムと荷物をそちらに置いてやってください」
純恋がずい、とラギーに差し出したグリムは「ふなっ!?」と驚愕した。首だけを勢いよく純恋に向けて抗議する。
「そんなの聞いてないんだゾ!?」
「言ってないからね」
萌愛はそれだけ言うと、談話室のテーブルにノートや本を広げ始めた。席に着いてペンを取ればページを捲り、滑らかなペンの音が、傍で流れる滝の音に掻き消されていく。
「じゃあ、グリムのことよろしくお願いします」
「え、あ、了解っす………」
無表情のままの純恋に、ラギーは大人しくグリムを受け取るように抱えた。同じくして純恋もまた、自身のカバンからノートと本を二冊ほど取り出して筆を走らせる。時々、不明点を質問し合いながら、まるで作戦を立てているかのような会話をしているようだ。
ラギーは恐る恐るレオナの方を向いて、どうしたらいいか問おうとする。その時のレオナの表情はどこか複雑そうだったが、すぐさまマジカルペンを手にすると、ノートや本に目を向ける二人の席を包むように魔法をかけた。一方の純恋と萌愛は、突然周囲が綺麗な光に包まれたことに気が付いた。
「レ、レオナさん?一体何を………?」
「…………防音魔法を張った。好きに調べ物しとけ、俺は寝る」
欠伸をしながら自室に戻ろうとするレオナと、その後を付いて行くラギー。抱えられたグリムは心配そうに二人を見つめながら、ツナ缶が入った袋を握り締めていた。暫くしてから、「無理だけはすんなよ」とだけ言い残して、ジャックが自室へと戻って行った。
「………それで?そこで立てたある一つの作戦で、アンタらは普通に負けたわけか」
「まぁ、主の策で負けるわけがないよね。サバナクローの生徒を焚き付けたのは良い案だったと思う」
「うん、持っている手駒を全て使う…………あの人らしいや」
坂口はソファに座り高らかに笑うと、桑名や村雲は付け足すように同意する。
純恋の審神者としての手腕は、時の政府が一目置くほどだ。彼女を担当している担当官の女性は、その実力と刀剣男士からの人望を心から尊敬し、彼女のことを審神者名の『紫陽花様』と呼ぶ。その担当官は純恋よりも幾つか年上なのだが、それはまた別の話。監査官からもその腕を見込まれているほどの純恋は、レオナを説得(という名の脅迫紛いの読書会:作品厳選は藤宮萌愛)した上でサバナクロー寮生を動かし、オクタヴィネル寮が運営しているモストロ・ラウンジを混乱に陥れる計画を立てた。それはまるで夢物語のように上手くいき、結果としてアズールはオーバーブロットした。純恋としては、契約書をレオナに持っていてほしかっただけなのだが。契約書そのものは、あくまで人質のような扱いだったので、後で純恋の方から全て返す手筈だった。
他人から奪ったもので、一番になっても虚しいだけである。結局のところ、時間をかけて培った努力がものを言うのだ。
純恋も萌愛も疑問に思っていた。過去百年分の試験範囲を調べ上げられる集中力、それを不特定多数の生徒に分かりやすくした虎の巻を作れるほどの分析力。アズールのような頭脳と力量は、審神者でも特務司書でもやっていけるだろう。だと言うのに、どうして期末テストの時のようなことを起こしたのか、二人には分からなかった。何故、わざわざ立地も交通便も悪そうなオンボロ寮を二号店に選んだのか。
どうして、たかだか期末テストの対策程度に百年分という無駄過ぎる情報を詰め込んだのか。入学試験ですら過去問題は三、四年ほどやり込めば十分な対策になる。はっきり言ってしまえば、今回アズールがしたことは無駄な努力でしかない。
「そういえば萌愛ちゃん言っとったけど、何であんな役に立たなそうなオンボロ寮なんか欲しかったん?」
頭の後ろで手を組んでいる織田は、アズールを見ると思い出したかのように聞いた。利用価値があると考えていたものを役に立たなそう、と言われてむっとしながらもアズールは答える。
「………僕たちオクタヴィネル寮では、モストロ・ラウンジという飲食店を経営しています。その二号店としてオンボロ寮に目を付け、イソギンチャクの件を持ちかけた…………といったところです」
「ほーん、ちょっとは考えられた理由やなぁ」
うんうんと満足そうに頷く織田に対して、アズールはほっとした表情になる。
「ほんで、何もおもんないな」
「え、」
「そんなしょーもない理由で、萌愛ちゃんから仮住まい奪ったんか」
織田作之助は難波の美男子を自称するだけあって、顔のパーツは全て整っている。萌愛から見れば初期文豪ではないにしろ、数いる頼れる兄のような存在だ。助手の時には萌愛が錬金術の研究に成功しようが失敗しようが、一緒に笑ったり悲しんでくれる。彼に本気で怒られたことは殆どなく、それは他の無頼派の三人も同じだった。
その織田が、今まさに怒りを抑え込んでいた。右足を貧乏揺すりのように揺らしていることで、無頼派だけではなく刀剣男士やアズールたちにも伝わっている。
「…………あるところに、一人の女の子がいました」
織田とは違った声がそう話し始めた。それは太宰のものであり、彼の語りはこの場にいた全員聞き入っていた。
「その子は男を知りませんでした。何故なら、その子の父は母だった少女を妊娠させた挙句、他にも数多の女と関係を持っていて勘当されたからです」
太宰の語りは当然ながら、その内容にも驚きを隠せない。少なくとも、この内容はツイステッドワンダーランドでは二十歳を迎えていないと見れないものだ。
「その子が知る男は、父の父…………祖父だけでした。祖父は最初で最後の孫であるその子を、とても可愛がっていました。彼女が欲しがるものは全て買え与え、聞きたい物語を読み聞かせてあげていました。ですがその子はいつも祖父に、『おじいちゃん達がいれば嬉しい!それ以外は大丈夫!』としか言いませんでした」
女の子の台詞のところは少々高いトーンで喋った、太宰の語りは止まるところを知らない。
大人でもある教師たちは、この語りに心臓を掴まれていた。特に二人の娘を持つトレインは、祖父を自分に、孫を娘たちの子どもに置き換えて考えてしまった。
「その子と母親は世間の厳しい目に晒されながらも生きていました。彼女は母に似て、心優しい女の子に成長しました。高校生………こっちだとハイスクールか、になった彼女に、初めての恋人が出来ました」
脳内には十六歳になった少女と、その恋人である少年が対面している情景が浮かぶ。恋愛はツイステッドワンダーランドに生まれた少年少女たちの大好物だ。義母や義姉に虐げられながらもプリンスと結ばれた灰かぶりの少女や、城に投獄された父の代わりに罪人となった少女が城主の野獣と踊った話などが残されているくらいだ。
「けれど」
それまで穏やかだった太宰の声が変わった。その先を知る文豪や刀剣男士は目を伏せた。
「その恋人は…………あのクソ男は、あの子を裏切った」
太宰はソファから立ち上がり、ブーツを鳴らしてアズールたちの方へと歩き出した。
「あの子を暗い倉庫に呼び出して、友人を使ってあの子の服を剥ぎ取って、嫌がるあの子の初めてを奪ったのです。
…………あぁ、初めては痛いって聞くからなぁ。それは毎日続いてさ、あの子はやりたくない奉仕とかやらされたんだよ。母親と同じように」
それまで状況を理解出来なかった一同は、皆揃って口を覆っていた。女性の同意もなく行為に及ぶのは、ツイステッドワンダーランドでは斬首されてもおかしくない。まして、それが日常のように行われているとなれば、命が消えても同然だろう。
「それから、心を病んでしまった彼女は部屋に引きこもるようになりました。自宅では本を読み漁り、休憩にゲームをやるだけの生活をしていました」
多少動機は違えど、いじめられていたアズールには胸に刺さるものがあった。確かにこれだけのことをされたら、安全な場所に閉じこもりたくなるのも無理はない。
「ですがその子はその読書の中で救われました…………そして、この読書をきっかけに特務司書になったのです。
図書館で、自分を変えようと決意しました。
元々賢い子でしたが、必死に勉強して高卒認定試験に合格しました。
縁のなかったメイクやファッション、ネイルを動画サイトを見ながら実践したりして、俺たち文豪の隣に立ちたいと言って努力しました。
持久走大会では常に五位以内に入っていたその子は、脚力を鍛えることにしました。中学………ミドルスクールでは陸上部に勧誘されたほどの実力でした。今、その足は蹴り技に特化していました。
勉強も、運動も、お洒落も、家事も、仕事も………何一つ手を抜くことを赦さないその子は、俺たち文豪にとっての、俺にとっての『光』であって『偶像』なんだ」
太宰の語りはそこで終わり、そこでようやく話の中に出てきた少女の正体を理解した。これまで太宰が話していた少女とは、萌愛のことだったのだと。
「………なぁ、お前もあの子から、萌愛ちゃんから全部奪うのか?あのクソガキ連中みたいにさ!」
座ったままで震えるアズールの前で止まった太宰は、ただ彼を見下ろすだけだった。
藤宮萌愛という少女は、太宰治という作家を敬愛していた。彼の作品を読み漁り、現状では彼だけを先生と呼んで慕っている。転生当初の太宰は、まるで芥川先生に対する自分はこう見えているのだろうか、と考えたこともある。なので萌愛の図書館における太宰は基本的に大人しく冷静で、無闇に自殺をしようとは考えない。萌愛の過去を知ってからは、自分が守らなければならない、と少々過保護になっているのだが。
だからこそ、アズールが仕掛けた行動には、誰よりも怒り狂っていた。
「自分より弱そうだったら何してもいいんだな…………いじめっ子じゃないと出来ない発想だよなぁ」
俯くアズールの前で立ち止まった太宰は拳を握りしめていた。けれどそれで殴られる、ということは無かった。
「おい太宰、そこまで言う必要はねえだろ」
坂口が太宰の肩を叩き、後ろに追いやった。
「………安吾、優しすぎない?」
「お前も分かってんだろ、あの時に此奴は契約書を全部………」
「なぁ安吾、これなーんだ?」
そう巫山戯たように言って太宰が懐から取り出したのは、二つのスマートフォン端末だ。ピンクとライトグリーンのグラデーションが美しいものと、紫陽花が描かれた紫で統一されたものの二つ。前者は萌愛で、後者は純恋のスマートフォンのカバーだ。
「それ、萌愛のスマホだろ?」
「その花があしらわれているカバーは………間違いなく主様のものですね」
「正解!」
坂口と篭手切の解答に答えた太宰はピンク色の端末を操作すると、会話の音声が流れ始めた。
「…………え、これって………」
………萌愛の端末に録音されていたのは、純恋と萌愛が『オンボロ寮の監督生』として契約した時のものだった。そして純恋の方には、アズールが用意した契約書の写真が写し出されている。
「ちょっとブレてっけど………白エビちゃんの写真めっちゃ綺麗に撮れてんね」
「えぇ………それに、メアさんがまさかこの日の会話を録音していたとは………」
「甘エビちゃん、本当に準備いいよね〜」
まさか全ての記録を取られていたとは思いもしなかったアズールとは反対に、ジェイドとフロイドは素直に感想を言い合う。白エビとは銀白色の髪を持つ純恋のことであり、甘エビは髪の毛にピンク色が入っている萌愛のあだ名だ。フロイドはこの二人をまとめて小エビちゃん、と呼ぶこともあった。
そうこうしている間にも、会話音声は止まることを知らない。アズールの声が、純恋と萌愛に住居であるオンボロ寮を差し出すように契約を迫っていた。それだけではない。
『スミレさんもメアさんも魔法の力をお持ちでない。美しい声もなく、一国の跡継ぎというわけでもない。ほんとうにごく普通の人間だ』
この言葉で、篭手切たちは拳を握り締めた。村雲は以前、その場の勢いで殴ってしまったとはいえ、五月雨が横にいたからか幾分落ち着いてはいた。けれど彼らは、ただでさえ守ると誓った少女を身勝手に奪われた忠誠心の強い刀剣男士。つい本音を口にしてしまうのは仕方ないことだ。
「あいつは……その『ごく普通の人間』の女の子になりたかったっつーのに………」
「………アズールくん、だったっけ。彼は果報者だね、その場に主だけだったら、すぐに死んでたんじゃないかな」
豊前と松井の独り言だろう。それでも、アズールたちの耳にははっきりと聞こえていた。
「へぇ、その時の契約書がこれかぁ………って、ん?」
織田が純恋撮影の契約書を眺めていた。すると、あることに気が付いた。
「この契約書の名前、おっしょはんと審神者はんの名前とちゃうやろ」
「え!?」
そんな衝撃的な指摘から、刀剣男士も文豪も純恋が撮影した端末を見る。彼らは契約書に書かれた名前を見て、まるで飲み会の如く笑い出した。
「萌愛………恋愛ゲームで使うフルネームを書いたんだな」
「へぇ、主もオンラインゲームで使ってる中二病みたいな名前書いてるね」
「……そういえばここってほとんどが英語圏だったな。コイツらじゃ漢字なんて分かんねえか」
「確かに、ナイトレイブンカレッジって英語で書かれてたもんねえ」
ツイステッドワンダーランドでは公用語として、英語が使われている。萌愛の調査記録に綴られていたのを、文豪は覚えていた。
「……最初から、契約は成立していなかった………?」
アズールは無くなってしまったとはいえ、契約書に書かれた名前が二人の名前ではなかった。それはつまり、最初から契約不履行だったということだ。
つまり、あの契約がアズールの勝利だったとしても、オンボロ寮が手に入ることは無かった。
名前を必要とするユニーク魔法だと聞いた純恋と萌愛は、「じゃあ趣味で使ってる名前でも問題ないよね」という認識で、適当な名前を書いてから荷物の少ないオンボロ寮を後にした。これが、オクタヴィネル事件の真相だ。
『………もしもし、そちら仮拠点・オンボロ寮で間違いありませんか?』
沈黙が続いた時、鈴のように可憐な少女らしき声が談話室に響く。その正体に気が付いた坂口は、適当に相槌を打ちながら暖炉の上に置いてあったパソコンを操作する。どうやら通話用のアプリを最初から立ち上げていたらしく、今ようやく繋がったのだろう。
「こちら仮拠点・オンボロ寮、文豪の坂口安吾だ」
『ありがとうございます。こちら、帝国図書館所属、特務司書兼任アルケミスト………現在は特務司書代表代理を務める菊川莉卯です』
『同じく帝国図書館所属、特務司書兼任アルケミスト、現在は菊川莉卯の補佐を務める東郷絃です』
最初に断りを入れたのは菊川莉卯という名前らしい。次に自己紹介をした方の東郷絃という女性も、凛々しさの中に愛らしさが残る声色だった。
「………ん?音舞のやつはどうした?」
『藤宮萌愛の補佐である烏丸音舞は現在、そちらとの道を繋げる最終段階の調整に当たっています。暫くすれば、合流するかと』
「そうか、じゃあ映像繋げるぞ」
『はい』
『よろしくお願いします』
そう言うと坂口はマウスを少し動かしてから一回クリックした。暖炉がある壁に貼られていた大きめのスクリーンに、四分割されたリアルタイムの映像が映し出される。そのうちの二つには、莉卯と絃の姿があった。
莉卯はおそらく背中まで伸ばしているだろう黒く長い髪をストレートにしている小柄な少女だった。蜂蜜色の瞳が実に美しいが、何故か前髪で左の方だけ隠されている。
絃は肩まである翠色の髪をまっすぐ切り揃えており、ハーフアップにしていた。マゼンタに近いようなピンク色の瞳は、どこか微睡んでいるようにも見える。
「莉卯、絃、そっちは何か報告あるか?」
『えぇ、萌愛ちゃんと純恋ちゃんの容態について観察が終わったので』
「そうか、続けてくれ」
はい、とだけ返事をすると、絃はボードとペンを手にしながら説明を始める。
『まず、そちらに派遣した文豪と刀剣男士の皆さんに頼んで、二人の身体を検査にかけていただきました』
「はっ!?いつの間にそんなことしたわけ!?」
『あ~………おそらく仮拠点に汚染体が入り込んでいた時期ですかね?』
「東郷女史の仰る通りです。主様の眠る居宅に、ここに在籍する生徒が何度か侵入を試みていたことは確認済みです」
防犯カメラで監視役をしていたイデアが珍しく声を荒げると、絃は面倒そうに答えた。籠手切が説明していたが、それでも疑問は尽きない。
どうやら、純恋と萌愛が眠りについて間も無いうちに、全てが始まっていたらしい。幾つか質問したいことはあったが、今は二人の容態とやらを全て聞いてからにしよう。
『えっとですね~………二人の体から、体の構造を変化させる汚染物質が検出されました』
「汚染物質………ってのは?」
『例えばですねぇ………人間の呼吸方法を変えちゃうタイプのお薬です』
「………ま、さか」
「は、汚染……って何?」
「………アズールの作った魔法薬、ですよね?」
上からアズール、フロイド、ジェイドだ。三人揃って冷や汗を流している。
『へぇ、そこは普通の学生でも薬物なんて作るんですねぇ。まぁ、こっちでは毒品のような汚物だったので、二人の体内から即刻浄化手続きしました』
「絃ちゃん、おおきに~!」
「良かった………あの人に何も無くて……」
「…………ふぅん、そういうことか」
織田と村雲が安堵した中、坂口だけは眼鏡をかけ直すと、スクリーンに背を向け、そのまま躊躇なく歩き出した。
「ぐッ!?」
「……あーそうか、太宰が正しかったんだな」
アズールの前まで来た途端、ネクタイを掴み上げる。首が締め上げられる苦しみに悶える彼を、両隣に座っていたジェイドとフロイドが助け出そうと立ち上がった。だがその前に二人は、背中で両手を拘束され床の上にうつ伏せで倒れてしまった。ジェイドには村雲、フロイドには五月雨がそれぞれ上に乗っている。
「ぃ………ってぇ……!んだよコレ………!」
「くっ……!流石、戦場に立つだけのことは………っ」
海のギャングであるはずのウツボ二匹ですら容易に留めてしまう刀剣男士の力量に、その場の誰もが呼吸を飲み込んだ。次に全員の注目は、その中心にいるアズールと坂口だった。坂口の眼差しは、眼鏡がなくても分かりやすいくらい、怒りで燃えていた。
「今回は無事だったからとか、そんなの関係ねえ」
そう言うと坂口は、アズールのネクタイを手放す。解放されたことから咳き込むアズールを坂口、太宰、織田、檀の四人は冷たく見下ろしていた。
「俺たち無頼派は、アンタを一生赦しはしない」
四人の脳裏には、自分たちの文学の傾向が大好きだと惜しげもなく言ってくれた文学少女の姿があった。