月歌。
この日、ツキノ寮の共有ルームには午前中だけの仕事を終えて帰宅していた如月恋が、ソファーに座り雑誌を眺めていた。室内にはページを捲る音しか聞こえない。
「……あ、涙だ」
ぽつりと呟く。恋の視線の先には、兄弟的位置にあるユニット、Procellarumのメンバー水無月涙が雑誌の中で微笑んでいた。表紙には大きく『ギャップ特集』と書かれていたからか、普段の涙の雰囲気とは違い、男らしく写っていた。おそらく、インドア派のイメージを覆そうと撮られた写真なのだろう。不覚にも釘付けになるが、次のページを開く。すると、涙の相方である神無月郁が取り上げられていた。郁は涙とは反対に女性的なメイクを施されており、服装も所謂ジェンダーレスに分類されるものを身につけていた。そのページを数秒見ただけで、恋は雑誌を閉じてテーブルの上に投げ置く。未読のページは多く残っていたが、構わずソファーに寝転んだ。
如月恋は、神無月郁が嫌いだ。
その理由は恋自身も分かっていない。ただ、郁を見るたび、郁のことを考えるほど良い感情を抱けないのは事実だ。だから、きっと自分は神無月郁という男が嫌いなのだと思うようになった。
普段からイケメン爆発しろなどと口にしているように、確かに郁も見た目はイケメンに分類されるだろう。さらに、郁は性格も良い。恋から見れば、神無月郁の存在は眩しい以外の何者でもなかった。ツキノ寮で過ごして数年が経つが、恋の郁嫌いは全く変わらなかった。今も雑誌の中の郁の顔を見ようともしない。
(どうせ向こうは俺なんて気にしてないだろうし……)
それでも、恋と郁は駆と涙と共に年少組と呼ばれている。さらに二人は少し似ている傾向があるため、二人だけでの仕事も当然ある。最近では、それが増えているように思う。だからといって、恋は郁との仕事を蔑ろにするようなことは一切しなかったし、そんなことはしようとも思わなかった。表に出る職業なのだから、悪い噂が広まれば自分以外のメンバーにも迷惑がかかってしまう。それだけは絶対に避けたかったので、郁の前ではその感情を押し殺すように心掛けている。
(あー眠い……)
今朝が早かった所為か、睡魔が恋を襲う。寝るなら部屋で寝ようと思うものの、体は動かない。
(ちょっとだけ寝て……その後部屋に戻ろう)
少し経つと、恋の静かな寝息だけが聞こえるようになった。
***
「ん……ぁ?」
目を覚ますと、布団の柔らかな感触と見慣れた天井が視界に現れた。
「あ、れ……?俺の部屋?」
共有ルームで寝ていたはずなのに、と思いながらここまで運んでくれた誰かに心の中でお礼を言う。
(もう帰ってきてるのかな?直接言いに行こう)
寝室から出ようと、ドアノブに触れようとしたところでドアが開く。
「わっ!?」
「あれ、恋起きたの?」
「!」
目の前に現れたのは恋が嫌っている男、神無月郁だった。何故ここに、という疑問は思い返してすぐ掻き消された。
「え、っと……郁がここまで運んできてくれた?」
「うん、だって風邪引くだろ?」
「そっ、そうだね……ありがとう」
予想もしていなかった相手に動揺してしまい、変に緊張した話し方になる恋。気付いていないのか、またはそのフリをしているだけなのかは分からないが、郁は変わらず笑みを浮かべているだけだった。
「でも郁のおかげでもう大丈夫だよ!」
出来ればもう話したくないから早く出ていってくれ、という思いを隠して笑顔を貼り付ける。恋の頭の中は、郁を追い出すことでいっぱいだった。
「そう?恋、今日は朝早かったし疲れてるのかなって思ってハーブティー持ってきたんだけど……」
「えっ」
「恋のこと運んでる時ちょうど葵さんが帰ってきたんだ。それで、戻ってきたら葵さんが淹れてくれてたんだよ」
ふと郁の後ろを見ると、ティーポットと二つのティーカップが乗ったお盆がテーブルの上に置いてあった。郁と二人だけというのが耐えられないが、葵の優しさも無下に出来なかった。
「それじゃあ葵さんに甘えて頂こうかな、郁もどう?」
「いいの?」
「もちろん、カップも二つあるし」
郁と一緒に、というのは少し癪に障るが恋は仕方ないと諦めた。一時間程度なら我慢しよう、そう思いながら郁の横を通り抜けた。
「恋って、好きな子いるの?」
「ぶっ!はい!?」
何の脈絡もなくその質問を投げつけられて、恋は思わず飲んでいたハーブティーを吹き出してしまった。郁はそんな恋を気に留めず、汚れたテーブルの上をティッシュで拭き始める。
「い、いきなり何!?好きな子なんていないし、そもそも俺達アイドルだよ!?恋愛禁止だからね!!?」
「だって、最近恋とこんなにゆっくり話せてなかったし。たまにはこういう話してもいいだろ?」
「う、うん、まぁ……」
何故その話を選んだのか、という疑問が生まれるが構いなく郁は話を続けた。
「じゃあ逆に嫌いな人は?こういう人が苦手だとか」
「えっ」
つい、お前だよと零しそうになり口を押さえる。まさか自分の考えを当てられたのかと恋は焦るが、顔に出さないよういつも通りの笑みを浮べて堪える。
「……そんな人いないよ?」
「でもいつもリア充が何とかって言ってない?」
「別に本気で言ってるわけじゃないよ!?ただ俺もそういうの憧れるなーっていうだけ!……まあ、嫉妬ってやつ?」
「ふーん」
楽しそうに質問しておいて興味無さそうに返事するな、とハーブティーを啜る郁に、心の中で舌打ちをした。
「そういう郁は?俺に聞いたんだし、郁も答えろよ!」
笑顔を貼り付けて、恋は煽るように問う。郁がこの程度の質問で慌てるような男ではないことは分かっていた。どうせまた純粋な気持ちを吐き出すのだろうと予想している。
「……俺、ちょっと悩んでてさ」
「へぇ、好きな子のこと?」
「んー……まぁ、そういうことになるのかな」
歯切れの悪い回答に違和感を覚えたが、恋は気のせいだと思い郁に質問を飛ばす。
「郁が気になる程の子か、どんな子なの?」
少し嫌味を含んだようなニュアンスになってしまったが、郁はそれに気付いていないらしい。それどころか、憂いを帯びた表情を見せる。
「とてもいい子だよ。誰にでも優しいし、笑顔は元気で可愛いし……でもその子は俺とはあまり話してくれなくてさ。話しかけようとすると、すぐ逃げちゃうし」
「照れてるんじゃないの?ほら、郁ってかっこいいこと平気で言うから、その子も郁のこと好きだったりして」
この腹が立つくらいに輝く顔を崩してやろうかと思った恋は、郁を茶化すことにした。だが、その考えは郁の意外な返答によって掻き消された。
「……それはないな。多分あの子俺のこと大嫌いだよ」
「え、なんで?」
「この前聞いちゃったんだよね、あの子の本性っていうの?可愛い声で俺のこと嫌いだって、何回も言ってた」
「へー……ってそれ実際に聞いたの?」
「そうだよ」
珍しい女の子もいるんだなと、この時だけは郁に少し同情した。恋は大嫌いとまではいかないが、「恋くんってちょっと残念だよね」と直接はもちろん、陰でも言われることが多い。陰口ほど傷付くものはないだろう。
(郁でも女の子から嫌われることとかあるんだ……意外だな…)
ハーブティーを口にしながら郁の顔を盗み見ると、恋が見たこともないほど俯いていて、落胆した表情をしていた。
「……えっと、あのさ郁。その子に聞けば?」
恋の心の中で留めておくはずだった言葉が、気が付けば声に出ていた。顔を上げた郁に、今度は自然に笑ってみせた。
「どんな子かは分からないけど、その子は最初に郁が言ったみたいにいい子だと思うよ。郁のことが嫌いっていうのも……郁の全部が嫌いだとか、そういう意味じゃないと思う」
(……俺はお前のこと嫌いだけど。まあ、応援だけしてやるか…)
よくこれほど綺麗なアドバイスが流れてくるなと自分自身に驚きつつ、郁の反応を伺う恋。
(何故か郁の恋愛相談になったけどいいか……これで出ていってくれるはず……)
ちょうど郁の方も解決したようで、落ち込んでいた表情が消えて恋の苦手ないつもの顔へと戻っていた。ようやく郁と二人だけという時間が終わる。そう思い、無意識に安堵の声を漏らした時だった。
「ありがとう恋!そうだ、恋にまだ聞きたいことあるんだけど」
「え、なに?」
(まだ帰らないのかよ!)
気付かれないように心の中で悪態をつく恋。苛つく感情を隠して笑みを張り付ける恋に、郁は軽く問う。
「恋って俺のこと嫌いなの?」
恋は思いもよらない質問に体を強ばらせた。
(まさか、ばれた?)
いや、きっとそこまで考えのない質問なのかもしれない。そう思い込むことにした恋は普段通り答えた。
「何言ってんだよ、俺が郁のこと嫌いになるわけないじゃん!」
「……」
郁は恋の目を何も言わずに見つめる。普段とは違って真意の見えない郁の瞳に恐怖を覚え、恋は郁から視線を逸らす。
「確か……『完璧すぎて腹が立つ』だったっけ」
「は……?」
「覚えてないの?三日前に言ってただろ。口癖みたいに爆発しろって言ってるから、それと同じかなって思ってたけど……聞いてるとそういうわけじゃないみたいだ」
盗み聞きしたのか、と理解した。
「……悪趣味」
「聞こえてきたんだから仕方ないだろ」
口角を上げただけの怪しげな笑みを浮かべる郁。全てを知っていると言わんばかりの堂々とした表情が、恋は許せなかった。
「……ああそうだよ。俺はお前が嫌いだ」
もう何でもいいと、そう思い本音を吐き出した。これ以上隠し続けるのも疲れてしまった。だったらこの場ではっきりと言ってしまえばいい。
「今だって、全部分かってるような顔してるのムカつく。お前はすぐかっこいいこと言えるし、それを何とも思ってない態度も嫌い。お前に弱点とか、恥ずかしいとかないのかって……そんなことばかり考えてる」
一度出てしまったものは止まることなく溢れ続けて、次から次へと郁への不満が口に出る。
「大体、俺がお前のこと嫌いなの知ってるなら放っておけばいいだろ!他のメンバーには迷惑かけないし、郁と一緒でも、仕事だったら耐えられたのに!なんで……なんで!!」
ここまで言うつもりはなかったのに。恋は止まらず、気付いた時には立ち上がり、もう全ての気持ちを声に出していた。何も言わない郁を見ると、顔を下げていて表情は見えなかった。ただ、僅かに肩を震わせていた。
「……どうしたの、俺に嫌われて悲しいの?」
郁の方へと近付き、ざまあ見ろと捨て吐く。が、郁からは何の反応もない。
「何か言い返……っ!?」
言い終わる前に、郁は押し殺すような声を出し始めた。最初は泣いているのかと思ったが、段々違うように聞こえてきた。
「………っは、ははははっ……あははははははっ!!!」
頬を紅くしながら狂ったように笑い出した郁に、恋は戦慄した。女の子なら、頬を染めた郁を見て黄色い歓声を上げるのだろう。だが、今はそこに狂気的な笑いが足されていた。
「はー……恋は本当に面白いな。見てて飽きない」
郁が立ち上がり恋に近付こうとする。恋は怖さ故に郁から離れようと一歩ずつ後退していく。
「い、郁……っ!」
背後を見ていなかった所為か、恋は壁にぶつかってしまった。郁を遠ざけようと郁の両肩を押すが、その手を掴まれて壁に縫い付けられる。同じ高さにある目線を強く向けられると、寒気が恋を襲った。郁の目は笑っていないどころか、欲深い獣のような眼光になっていた。
「知ってた?恋は俺のこと見る時、一瞬だけ嫌そうな顔するんだ。その恋ったらとても可愛いんだ」
恋の目を見ながら、慈しむように言う郁を恐ろしげに見る。
(こいつ……頭おかしい!)
男に、しかも自分に向かって可愛いと言う郁を狂っていると認識する。お世辞かと思ったが、郁の目が冗談ではないということを思い知らされる。
「な、に……言って…」
「俺ね、恋のこと大好きだよ」
「………えっ?」
「あぁ、もちろん恋のこと可愛いって思ってるから、性的な意味で大好きだよ」
恋の理解力が追いついていない。郁が自分を好いていることはいいが、それが友情の意味ではないとあっさり明かされたのだ。
「お前……そっち系?俺そんな趣味ないから、あと気持ち悪い」
「俺も同性愛の趣味はないよ。恋だから好きになったんだよ」
「意味分かんない。離せ」
「嫌だ」
両手を掴んでいる手を振り解こうとするも、結局壁に固定されてしまう。郁を睨みつけるが、郁は気に留めず微笑みながら恋の耳元に顔を近付ける。吐息が耳に吹きかけられ、恋は背筋を凍らせる。
「……今も俺のこと、嫌いだと思ってる?」
郁の低く、優しめの声でそう囁かれる。
「……………う」
「ん?何?」
「うわああああああ!!!!!!」
「わっ!」
恋の突然の叫び声に驚いた郁は掴んでいた手を離す。その際に恋は、郁の頬を叩いてしまった。その場に尻餅をついた郁を見下ろす恋。その顔は紅く染まっていた。
「……っお前のこと、余計大ッ嫌いになったよ!郁の馬鹿!!」
言い捨てて恋は部屋から飛び出していった。恋の部屋に残された郁は叩かれた頬に触れる。赤く腫れたような跡が見えない、本気で叩かれたわけではないようだった。
「手加減してくれたのかな?」
左の頬を愛おしそうに撫でる。
「やっぱり、恋が欲しいな」
誰もいない室内に、郁の怪しい笑い声が響く。その瞳は、獲物を見つけた獣そのものだった。
***
「はぁ…はぁ……」
恋は気付けば部屋を飛び出し、共有ルームのドアの前に立っていた。
(何なんだあいつは……俺なんか揶揄って楽しいの!?)
思い出すだけで怒りが募り、ドアノブを強く握り共有ルームのドアを開けた。
「うわっ!?恋?」
「えっ、あ、葵さん!?」
部屋にいたのは恋と同じユニットで、恋より一つ年上の皐月葵だった。先程まで恋が眠っていたソファーに座り、ティーカップを片手に本を読み込んでいる。おそらく、葵が出演する作品の台本だろう。
「お、驚かせてすいません!」
「大丈夫、それより恋はもう起きて平気なの?」
「はい!あ、ハーブティーありがとうございました。美味しかったです!」
「そっかぁ、よかった……」
恋は葵の態度に少し違和感を感じた。何やら恋を見る葵の目が申し訳無さそうに思えたのだ。
「葵さん?どうかしました?」
「えっ!?い、いや、何でもないよ!」
何でもない、と言うが明らかに嘘であることは分かった。葵の名前を再度呼ぶと、吃ったが少しずつ話し出した。
「………あの、さ。恋と郁って、どういう関係?」
「……………………はい?」
恋は葵からの質問にすぐに答えられなかった。何故、自分と郁の関係について聞いてきたのだろうか。恋には全く分からなかった。
「どういうって……同じ事務所のアイドルで、プライベートでも普通の友達ですよ。それがどうしたんですか?」
「えっ」
「えっ?」
ピシッ、という音が葵から聞こえたような気がした。
「ふ、普通の……友達?」
「そ、そうですよ?」
葵が俯いて体を震わせる。尋常ではない空気を察知するが、宥めようとする恋の言葉を遮るように葵は叫んだ。
「普通の友達同士はお姫様抱っこなんてしないよ!?」
「……………ん?」
葵の言葉を脳内で再生させる。『普通の友達同士はお姫様抱っこなんてしない』と言っていた。それでは、まるで郁が恋を部屋まで運ぶ際に姫抱きをしたように聞こえる。
「……あの、葵さん。俺寝てたんで記憶無いんですけど、俺を部屋まで運んだのって郁なんですよね?」
「え?そうだけど……俺がここに入ってきた時に恋のこと、その……抱きかかえてたから。ほら、恋は今朝早かったでしょ?最初は俺がお茶持っていこうとしたんだけど、ちょうど郁が戻ってきたから二人きりにしてあげた方がいいのかなって思って……」
つまり葵は、恋と郁が普通ではない親密な関係にあるのだと勘違いをして、二人きりの時間を与えてしまったのだ。
「郁に『他のみんなには内緒にしておいてくださいね』って言われたから、その、そういう関係にあるのかなって思ったんだぁ」
「へぇ………え?」
聞き逃したらいけないようなセリフが聞こえた気がしたが、気付けば葵はティーカップと台本を持って部屋を出ていってしまった。さらにすれ違う形で部屋に郁が来てしまった。
「恋、こんなところにいたんだ」
「い、郁……お前なんてことを………!!」
「え?……あぁ、もしかして葵さんから聞いたの?」
「しかも他のみんなには内緒にしておけってなんだよ!!絶対誤解された!どうしてくれるんだ!!」
必死の形相で郁に詰め寄る恋。
「別にいいだろ。さっきも言ったけど俺は恋のこと好きだから、誤解されてもいいよ」
「俺はよくないんですー!!俺は郁なんか嫌いだから余計誤解されたくないんだよ!!」
「恋って、もしかして陽が言ってたツンデレってやつ?」
「違う!!俺は本気だから!本気で郁のこと大ッ嫌いだから!!」
「へぇ、なら俺は恋のこと大好きだよ。本気で愛してる」
「は……っ!?」
愛してる、なんて恋人にしか伝えることがないような台詞を同性である郁から言われ、顔を紅くする。
「決めた。俺、恋に好きになってもらえるように頑張るね」
「…………は?」
「そのうち、俺がいないと駄目なくらいにしてあげるよ」
恋の手首に触れた郁は、そのまま手首に口付けを落とす。鋭い眼光に反して、優しげな笑みを浮かべる郁を見ることが出来ず視線を逸らす。
「これ隼さんから聞いたんだけど恋は知ってる?手首にキスする意味」
「し、知らない………」
「じゃあ教えてあげる」
郁の顔が恋の耳元へと近付く。吐息混じりに囁かれる。
「手首にキスは、“欲望”って意味なんだって」
「……あ、涙だ」
ぽつりと呟く。恋の視線の先には、兄弟的位置にあるユニット、Procellarumのメンバー水無月涙が雑誌の中で微笑んでいた。表紙には大きく『ギャップ特集』と書かれていたからか、普段の涙の雰囲気とは違い、男らしく写っていた。おそらく、インドア派のイメージを覆そうと撮られた写真なのだろう。不覚にも釘付けになるが、次のページを開く。すると、涙の相方である神無月郁が取り上げられていた。郁は涙とは反対に女性的なメイクを施されており、服装も所謂ジェンダーレスに分類されるものを身につけていた。そのページを数秒見ただけで、恋は雑誌を閉じてテーブルの上に投げ置く。未読のページは多く残っていたが、構わずソファーに寝転んだ。
如月恋は、神無月郁が嫌いだ。
その理由は恋自身も分かっていない。ただ、郁を見るたび、郁のことを考えるほど良い感情を抱けないのは事実だ。だから、きっと自分は神無月郁という男が嫌いなのだと思うようになった。
普段からイケメン爆発しろなどと口にしているように、確かに郁も見た目はイケメンに分類されるだろう。さらに、郁は性格も良い。恋から見れば、神無月郁の存在は眩しい以外の何者でもなかった。ツキノ寮で過ごして数年が経つが、恋の郁嫌いは全く変わらなかった。今も雑誌の中の郁の顔を見ようともしない。
(どうせ向こうは俺なんて気にしてないだろうし……)
それでも、恋と郁は駆と涙と共に年少組と呼ばれている。さらに二人は少し似ている傾向があるため、二人だけでの仕事も当然ある。最近では、それが増えているように思う。だからといって、恋は郁との仕事を蔑ろにするようなことは一切しなかったし、そんなことはしようとも思わなかった。表に出る職業なのだから、悪い噂が広まれば自分以外のメンバーにも迷惑がかかってしまう。それだけは絶対に避けたかったので、郁の前ではその感情を押し殺すように心掛けている。
(あー眠い……)
今朝が早かった所為か、睡魔が恋を襲う。寝るなら部屋で寝ようと思うものの、体は動かない。
(ちょっとだけ寝て……その後部屋に戻ろう)
少し経つと、恋の静かな寝息だけが聞こえるようになった。
***
「ん……ぁ?」
目を覚ますと、布団の柔らかな感触と見慣れた天井が視界に現れた。
「あ、れ……?俺の部屋?」
共有ルームで寝ていたはずなのに、と思いながらここまで運んでくれた誰かに心の中でお礼を言う。
(もう帰ってきてるのかな?直接言いに行こう)
寝室から出ようと、ドアノブに触れようとしたところでドアが開く。
「わっ!?」
「あれ、恋起きたの?」
「!」
目の前に現れたのは恋が嫌っている男、神無月郁だった。何故ここに、という疑問は思い返してすぐ掻き消された。
「え、っと……郁がここまで運んできてくれた?」
「うん、だって風邪引くだろ?」
「そっ、そうだね……ありがとう」
予想もしていなかった相手に動揺してしまい、変に緊張した話し方になる恋。気付いていないのか、またはそのフリをしているだけなのかは分からないが、郁は変わらず笑みを浮かべているだけだった。
「でも郁のおかげでもう大丈夫だよ!」
出来ればもう話したくないから早く出ていってくれ、という思いを隠して笑顔を貼り付ける。恋の頭の中は、郁を追い出すことでいっぱいだった。
「そう?恋、今日は朝早かったし疲れてるのかなって思ってハーブティー持ってきたんだけど……」
「えっ」
「恋のこと運んでる時ちょうど葵さんが帰ってきたんだ。それで、戻ってきたら葵さんが淹れてくれてたんだよ」
ふと郁の後ろを見ると、ティーポットと二つのティーカップが乗ったお盆がテーブルの上に置いてあった。郁と二人だけというのが耐えられないが、葵の優しさも無下に出来なかった。
「それじゃあ葵さんに甘えて頂こうかな、郁もどう?」
「いいの?」
「もちろん、カップも二つあるし」
郁と一緒に、というのは少し癪に障るが恋は仕方ないと諦めた。一時間程度なら我慢しよう、そう思いながら郁の横を通り抜けた。
「恋って、好きな子いるの?」
「ぶっ!はい!?」
何の脈絡もなくその質問を投げつけられて、恋は思わず飲んでいたハーブティーを吹き出してしまった。郁はそんな恋を気に留めず、汚れたテーブルの上をティッシュで拭き始める。
「い、いきなり何!?好きな子なんていないし、そもそも俺達アイドルだよ!?恋愛禁止だからね!!?」
「だって、最近恋とこんなにゆっくり話せてなかったし。たまにはこういう話してもいいだろ?」
「う、うん、まぁ……」
何故その話を選んだのか、という疑問が生まれるが構いなく郁は話を続けた。
「じゃあ逆に嫌いな人は?こういう人が苦手だとか」
「えっ」
つい、お前だよと零しそうになり口を押さえる。まさか自分の考えを当てられたのかと恋は焦るが、顔に出さないよういつも通りの笑みを浮べて堪える。
「……そんな人いないよ?」
「でもいつもリア充が何とかって言ってない?」
「別に本気で言ってるわけじゃないよ!?ただ俺もそういうの憧れるなーっていうだけ!……まあ、嫉妬ってやつ?」
「ふーん」
楽しそうに質問しておいて興味無さそうに返事するな、とハーブティーを啜る郁に、心の中で舌打ちをした。
「そういう郁は?俺に聞いたんだし、郁も答えろよ!」
笑顔を貼り付けて、恋は煽るように問う。郁がこの程度の質問で慌てるような男ではないことは分かっていた。どうせまた純粋な気持ちを吐き出すのだろうと予想している。
「……俺、ちょっと悩んでてさ」
「へぇ、好きな子のこと?」
「んー……まぁ、そういうことになるのかな」
歯切れの悪い回答に違和感を覚えたが、恋は気のせいだと思い郁に質問を飛ばす。
「郁が気になる程の子か、どんな子なの?」
少し嫌味を含んだようなニュアンスになってしまったが、郁はそれに気付いていないらしい。それどころか、憂いを帯びた表情を見せる。
「とてもいい子だよ。誰にでも優しいし、笑顔は元気で可愛いし……でもその子は俺とはあまり話してくれなくてさ。話しかけようとすると、すぐ逃げちゃうし」
「照れてるんじゃないの?ほら、郁ってかっこいいこと平気で言うから、その子も郁のこと好きだったりして」
この腹が立つくらいに輝く顔を崩してやろうかと思った恋は、郁を茶化すことにした。だが、その考えは郁の意外な返答によって掻き消された。
「……それはないな。多分あの子俺のこと大嫌いだよ」
「え、なんで?」
「この前聞いちゃったんだよね、あの子の本性っていうの?可愛い声で俺のこと嫌いだって、何回も言ってた」
「へー……ってそれ実際に聞いたの?」
「そうだよ」
珍しい女の子もいるんだなと、この時だけは郁に少し同情した。恋は大嫌いとまではいかないが、「恋くんってちょっと残念だよね」と直接はもちろん、陰でも言われることが多い。陰口ほど傷付くものはないだろう。
(郁でも女の子から嫌われることとかあるんだ……意外だな…)
ハーブティーを口にしながら郁の顔を盗み見ると、恋が見たこともないほど俯いていて、落胆した表情をしていた。
「……えっと、あのさ郁。その子に聞けば?」
恋の心の中で留めておくはずだった言葉が、気が付けば声に出ていた。顔を上げた郁に、今度は自然に笑ってみせた。
「どんな子かは分からないけど、その子は最初に郁が言ったみたいにいい子だと思うよ。郁のことが嫌いっていうのも……郁の全部が嫌いだとか、そういう意味じゃないと思う」
(……俺はお前のこと嫌いだけど。まあ、応援だけしてやるか…)
よくこれほど綺麗なアドバイスが流れてくるなと自分自身に驚きつつ、郁の反応を伺う恋。
(何故か郁の恋愛相談になったけどいいか……これで出ていってくれるはず……)
ちょうど郁の方も解決したようで、落ち込んでいた表情が消えて恋の苦手ないつもの顔へと戻っていた。ようやく郁と二人だけという時間が終わる。そう思い、無意識に安堵の声を漏らした時だった。
「ありがとう恋!そうだ、恋にまだ聞きたいことあるんだけど」
「え、なに?」
(まだ帰らないのかよ!)
気付かれないように心の中で悪態をつく恋。苛つく感情を隠して笑みを張り付ける恋に、郁は軽く問う。
「恋って俺のこと嫌いなの?」
恋は思いもよらない質問に体を強ばらせた。
(まさか、ばれた?)
いや、きっとそこまで考えのない質問なのかもしれない。そう思い込むことにした恋は普段通り答えた。
「何言ってんだよ、俺が郁のこと嫌いになるわけないじゃん!」
「……」
郁は恋の目を何も言わずに見つめる。普段とは違って真意の見えない郁の瞳に恐怖を覚え、恋は郁から視線を逸らす。
「確か……『完璧すぎて腹が立つ』だったっけ」
「は……?」
「覚えてないの?三日前に言ってただろ。口癖みたいに爆発しろって言ってるから、それと同じかなって思ってたけど……聞いてるとそういうわけじゃないみたいだ」
盗み聞きしたのか、と理解した。
「……悪趣味」
「聞こえてきたんだから仕方ないだろ」
口角を上げただけの怪しげな笑みを浮かべる郁。全てを知っていると言わんばかりの堂々とした表情が、恋は許せなかった。
「……ああそうだよ。俺はお前が嫌いだ」
もう何でもいいと、そう思い本音を吐き出した。これ以上隠し続けるのも疲れてしまった。だったらこの場ではっきりと言ってしまえばいい。
「今だって、全部分かってるような顔してるのムカつく。お前はすぐかっこいいこと言えるし、それを何とも思ってない態度も嫌い。お前に弱点とか、恥ずかしいとかないのかって……そんなことばかり考えてる」
一度出てしまったものは止まることなく溢れ続けて、次から次へと郁への不満が口に出る。
「大体、俺がお前のこと嫌いなの知ってるなら放っておけばいいだろ!他のメンバーには迷惑かけないし、郁と一緒でも、仕事だったら耐えられたのに!なんで……なんで!!」
ここまで言うつもりはなかったのに。恋は止まらず、気付いた時には立ち上がり、もう全ての気持ちを声に出していた。何も言わない郁を見ると、顔を下げていて表情は見えなかった。ただ、僅かに肩を震わせていた。
「……どうしたの、俺に嫌われて悲しいの?」
郁の方へと近付き、ざまあ見ろと捨て吐く。が、郁からは何の反応もない。
「何か言い返……っ!?」
言い終わる前に、郁は押し殺すような声を出し始めた。最初は泣いているのかと思ったが、段々違うように聞こえてきた。
「………っは、ははははっ……あははははははっ!!!」
頬を紅くしながら狂ったように笑い出した郁に、恋は戦慄した。女の子なら、頬を染めた郁を見て黄色い歓声を上げるのだろう。だが、今はそこに狂気的な笑いが足されていた。
「はー……恋は本当に面白いな。見てて飽きない」
郁が立ち上がり恋に近付こうとする。恋は怖さ故に郁から離れようと一歩ずつ後退していく。
「い、郁……っ!」
背後を見ていなかった所為か、恋は壁にぶつかってしまった。郁を遠ざけようと郁の両肩を押すが、その手を掴まれて壁に縫い付けられる。同じ高さにある目線を強く向けられると、寒気が恋を襲った。郁の目は笑っていないどころか、欲深い獣のような眼光になっていた。
「知ってた?恋は俺のこと見る時、一瞬だけ嫌そうな顔するんだ。その恋ったらとても可愛いんだ」
恋の目を見ながら、慈しむように言う郁を恐ろしげに見る。
(こいつ……頭おかしい!)
男に、しかも自分に向かって可愛いと言う郁を狂っていると認識する。お世辞かと思ったが、郁の目が冗談ではないということを思い知らされる。
「な、に……言って…」
「俺ね、恋のこと大好きだよ」
「………えっ?」
「あぁ、もちろん恋のこと可愛いって思ってるから、性的な意味で大好きだよ」
恋の理解力が追いついていない。郁が自分を好いていることはいいが、それが友情の意味ではないとあっさり明かされたのだ。
「お前……そっち系?俺そんな趣味ないから、あと気持ち悪い」
「俺も同性愛の趣味はないよ。恋だから好きになったんだよ」
「意味分かんない。離せ」
「嫌だ」
両手を掴んでいる手を振り解こうとするも、結局壁に固定されてしまう。郁を睨みつけるが、郁は気に留めず微笑みながら恋の耳元に顔を近付ける。吐息が耳に吹きかけられ、恋は背筋を凍らせる。
「……今も俺のこと、嫌いだと思ってる?」
郁の低く、優しめの声でそう囁かれる。
「……………う」
「ん?何?」
「うわああああああ!!!!!!」
「わっ!」
恋の突然の叫び声に驚いた郁は掴んでいた手を離す。その際に恋は、郁の頬を叩いてしまった。その場に尻餅をついた郁を見下ろす恋。その顔は紅く染まっていた。
「……っお前のこと、余計大ッ嫌いになったよ!郁の馬鹿!!」
言い捨てて恋は部屋から飛び出していった。恋の部屋に残された郁は叩かれた頬に触れる。赤く腫れたような跡が見えない、本気で叩かれたわけではないようだった。
「手加減してくれたのかな?」
左の頬を愛おしそうに撫でる。
「やっぱり、恋が欲しいな」
誰もいない室内に、郁の怪しい笑い声が響く。その瞳は、獲物を見つけた獣そのものだった。
***
「はぁ…はぁ……」
恋は気付けば部屋を飛び出し、共有ルームのドアの前に立っていた。
(何なんだあいつは……俺なんか揶揄って楽しいの!?)
思い出すだけで怒りが募り、ドアノブを強く握り共有ルームのドアを開けた。
「うわっ!?恋?」
「えっ、あ、葵さん!?」
部屋にいたのは恋と同じユニットで、恋より一つ年上の皐月葵だった。先程まで恋が眠っていたソファーに座り、ティーカップを片手に本を読み込んでいる。おそらく、葵が出演する作品の台本だろう。
「お、驚かせてすいません!」
「大丈夫、それより恋はもう起きて平気なの?」
「はい!あ、ハーブティーありがとうございました。美味しかったです!」
「そっかぁ、よかった……」
恋は葵の態度に少し違和感を感じた。何やら恋を見る葵の目が申し訳無さそうに思えたのだ。
「葵さん?どうかしました?」
「えっ!?い、いや、何でもないよ!」
何でもない、と言うが明らかに嘘であることは分かった。葵の名前を再度呼ぶと、吃ったが少しずつ話し出した。
「………あの、さ。恋と郁って、どういう関係?」
「……………………はい?」
恋は葵からの質問にすぐに答えられなかった。何故、自分と郁の関係について聞いてきたのだろうか。恋には全く分からなかった。
「どういうって……同じ事務所のアイドルで、プライベートでも普通の友達ですよ。それがどうしたんですか?」
「えっ」
「えっ?」
ピシッ、という音が葵から聞こえたような気がした。
「ふ、普通の……友達?」
「そ、そうですよ?」
葵が俯いて体を震わせる。尋常ではない空気を察知するが、宥めようとする恋の言葉を遮るように葵は叫んだ。
「普通の友達同士はお姫様抱っこなんてしないよ!?」
「……………ん?」
葵の言葉を脳内で再生させる。『普通の友達同士はお姫様抱っこなんてしない』と言っていた。それでは、まるで郁が恋を部屋まで運ぶ際に姫抱きをしたように聞こえる。
「……あの、葵さん。俺寝てたんで記憶無いんですけど、俺を部屋まで運んだのって郁なんですよね?」
「え?そうだけど……俺がここに入ってきた時に恋のこと、その……抱きかかえてたから。ほら、恋は今朝早かったでしょ?最初は俺がお茶持っていこうとしたんだけど、ちょうど郁が戻ってきたから二人きりにしてあげた方がいいのかなって思って……」
つまり葵は、恋と郁が普通ではない親密な関係にあるのだと勘違いをして、二人きりの時間を与えてしまったのだ。
「郁に『他のみんなには内緒にしておいてくださいね』って言われたから、その、そういう関係にあるのかなって思ったんだぁ」
「へぇ………え?」
聞き逃したらいけないようなセリフが聞こえた気がしたが、気付けば葵はティーカップと台本を持って部屋を出ていってしまった。さらにすれ違う形で部屋に郁が来てしまった。
「恋、こんなところにいたんだ」
「い、郁……お前なんてことを………!!」
「え?……あぁ、もしかして葵さんから聞いたの?」
「しかも他のみんなには内緒にしておけってなんだよ!!絶対誤解された!どうしてくれるんだ!!」
必死の形相で郁に詰め寄る恋。
「別にいいだろ。さっきも言ったけど俺は恋のこと好きだから、誤解されてもいいよ」
「俺はよくないんですー!!俺は郁なんか嫌いだから余計誤解されたくないんだよ!!」
「恋って、もしかして陽が言ってたツンデレってやつ?」
「違う!!俺は本気だから!本気で郁のこと大ッ嫌いだから!!」
「へぇ、なら俺は恋のこと大好きだよ。本気で愛してる」
「は……っ!?」
愛してる、なんて恋人にしか伝えることがないような台詞を同性である郁から言われ、顔を紅くする。
「決めた。俺、恋に好きになってもらえるように頑張るね」
「…………は?」
「そのうち、俺がいないと駄目なくらいにしてあげるよ」
恋の手首に触れた郁は、そのまま手首に口付けを落とす。鋭い眼光に反して、優しげな笑みを浮かべる郁を見ることが出来ず視線を逸らす。
「これ隼さんから聞いたんだけど恋は知ってる?手首にキスする意味」
「し、知らない………」
「じゃあ教えてあげる」
郁の顔が恋の耳元へと近付く。吐息混じりに囁かれる。
「手首にキスは、“欲望”って意味なんだって」
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