宝物
今私が見ている光景を1ミリの相違も無く、真っ白のままのキャンパスに描く事が出来たらどれだけ素晴らしい事だろう。
教室の窓から射し込む太陽の光、黒板の方を向く先生の目を盗んでこそこそと回される女子達のお手紙、そして銀色の髪を光輝かせながら窓際の席で外を見つめる人一倍目立つ彼。
私の席から見える構図は完璧なのだ。思わず国語のノートの後ろのページを開き、私はシャーペンで今見ている光景を軽く描き出した。
ここの席は隣の席の男子と雑談をしている女子。そしてこっちには真剣に授業を受ける子、その正反対の机に顔をふせて居眠りをする子。
先生は教科書を朗読していた。ふと目が合う。黒板を書き写すわけでもなく絵を描いている私に他事をしていないか名指しで注意をし、気弱な上には恥ずかしがり屋な私は顔を真っ赤にして静かに俯くしかなかった。
「ねえさっき何描いてたの?」
純粋に疑問をぶつけるその明るい声に、私は心臓がきゅっと縮んでいくのと共に緊張を顔にまとった。
「………え、いや、何も描いてないよ」
「えーそうなの?さっき必死になんか描いてるなーって後ろの席から見てたんだけど」
特に深い意味もなく純粋な気持ちで質問してきたのであろう、私の後ろの席の千石君はニコニコと笑いながら首を傾げた。
私は落書きをしていた国語のノートを恥ずかしく思い、そっと机の中にしまって誤魔化すような苦笑いを千石君に向けた。千石君はにこりと笑い返し、笑顔もかわいいね!と恥ずかしげもなく言った。私は彼の笑顔とお世辞らしき言葉に負け、苦笑いのまま下を向いた。
「そういえばさ、俺この前君の描いた絵見たよ!廊下に飾ってあったやつ!」
「…あ、美術部の課題で描いたんだ。先生が飾ってくれたの」
「凄い上手だったよー、俺あんな綺麗に色とか塗れないから!」
どうやって塗るの?なんで沢山の色を混ぜて汚くならないの?てかどうやって上手に線を描くの?
千石君から質問攻めに、私はあたふたしながら一つずつ答えた。あまり話した事ないのに千石君は相槌や頭を頷かせ丁寧に回答を聞き、最後にはいやー凄いねーなんて関心の素振りを見せてくれた。
「さっきも絵描いてたんでしょ?そんな感じの動きだった!」
絵上手だもんね〜、ニコニコと警戒心を解くように話しかける彼に、まんまと意識を持っていかれそうになる。
そう、ちょっとだけ描いてたよ。こっそり呟くと千石君は笑顔のままやっぱり!そう言って優しく笑った。
彼は警戒心を解く天才なのだろう。何でも話してしまうような千石君の雰囲気に、私はのまれ始めている。
「今度の課題でね、描きたい風景が私の席から見える光景なの」
「光景って…この教室って事?」
先生と生徒しか見えないけどいいの?俺がモデルじゃなくていい?映えるよ?いつでも言って!
千石君は私から笑いを誘い出し、満足したような笑顔を向けた。
授業に集中してる子もいれば、友達とお喋りしてる子もいて面白い光景だよ。そういうと千石君は頷き、さっき描いてた絵もその光景なの?聞き出し、私はその言葉に魔法をかけられたかの様に先程隠した国語のノートを机の中から取り出した。
ページをペラペラと後ろの方までめくり、シャーペンで描いた殴り書きのような教室を見せた。千石君はそれを見てすぐに凄い上手じゃん!と褒め、才能あるよーと何度も褒めた。
私はまた恥ずかしくなり、苦笑いのままノートをそっと片付けようとした。
けれどその前に、ノートに置かれた千石君の人差し指。そこの場所だけ、机も椅子も描かれていない白紙の部分。
「さっきの光景だとさ、ここに亜久津居たじゃん。何も描いてないけど描かないの?」
千石君が言うように、先程の授業の時は亜久津君が座っていた席。ノートの中の殴り書きの絵の中の他の席には、クラスメイトの後ろ姿が描かれている。
「描きたいんだけど…課題で出すからモデルとして出てもらうのに許可がいるでしょ?」
「…ははーん、なるほど」
「絵に描いた数人の子達は許可してくれると思うんだけど…亜久津君は…その…」
はいはいはい、と何度も頷いた千石君は手のひらを私に見せながらみなまで言うな。そんな雰囲気を醸し出した。
「大丈夫、俺に任せて」
「…?」
俺を誰だと思ってるの?全世界の女の子の味方、千石清純だよ!
そう言うと彼はフフン、と笑いながら胸をわざとらしく拳で軽く叩いた。大船に乗ったつもりでいなさい!そう付け足して。
「って訳で亜久津、モデルにならない?」
授業が終わった後のテニス部の部室。コートから聞こえるボールの音と部員達の声。しばらく部室でサボっていたのだろうか、机に足を乗っけてこちらを睨んでいる亜久津君からは、返事すら聞こえない。
「あと授業にもちゃんと出てくれない?ほら、モデルがいないと描けないでしょ!」
「…お前」
殺すぞ。酷く物騒な言葉が彼から発せられた時、私の心臓がぎゅっと縮んだ。心無しか部室の温度だって下がった様に思える、変わってないはずだけれど。
「いやいや、亜久津は絵になる。俺が保証する!だって見てみてよ!地味ーずの2人を!」
地味ーず?謎の言葉と共に千石くんは部室の端を人差し指で指した。
背中を丸め、部室のロッカーの掃除をしていた南くんと東方君。確かに派手な煌びやかさはないかもしれないけど…彼らには彼らの落ち着いた雰囲気がある…と、私はひっそりと心の中で呟く。
なんだなんだ?とこちらを伺い始めた2人から既に目を離した千石君。いつのまにか亜久津君の隣の椅子に腰を下ろし、彼を下から覗き込むように机に顔を伏した。
「ま、冗談はさておき。彼女が亜久津がいる教室の風景を描きたいんだってさ」
彼女、の言葉に亜久津君の鋭い視線が私に向けられる。誰だお前、そんな感じの目だった。私は背筋が凍る様な気持ちになる。一応クラスメイトなんだけど、亜久津君は私の事を認知しているのだろうか。
「知るか、俺に関係ねえだろ」
「普段通りの教室の絵が描きたいんじゃん?ほら、亜久津がいたら絵になるしさ」
「誰が俺を描けなんて言った、勝手な事すんな」
「そ…そうだよねごめんね…亜久津君がいた方が良い絵になるかなって…」
まーたそうやって女の子を泣かす!千石君は亜久津君を茶化すように明るく言い、私は何も言えずただ怯えながら彼の反応を待つだけだった。
亜久津君は舌打ちをし、乱暴に椅子から立ち上がったと思うと大股でイラついた様子で歩き、部室の扉を大きく音を立てて閉め出て行った。最後に一瞬私を見た目は、やはり恐ろしく冷たい目をしていた。
「あーあ。ごめんね、失敗したかも」
扉の向こうを見る千石君の言葉に、私は話をしてくれたお礼を言いつつ頭を上下に頷く事しか出来ず、大きく動く心臓の動悸と共に怯えていた。
私が授業中に密かに描くキャンパスの下書きは既にほぼ完成していた。風に揺れるカーテン、床に落ちている誰かの消しゴムなどの細かな描写。ただ亜久津君の後ろ姿が描かれていないだけ。
この美術部顧問の先生からも清書しろと、ここ最近の部活で顔を見る度に言われるようになっていた。もうそろそろ取りかからないと提出にも間に合わない事も理解している。
もー今日描いちゃえ!千石君の大胆さが移った様な気持ちになった私は、上手く描けるといいなと何となくに願いつつ、千石くんと南君と東方くんに再度お礼を言って美術部の部室へと向かった。
亜久津君に断られてから二週間。
真っ白だったキャンパスには教室に黒板、そして描かれる事に許可をくれたクラスメイト達の姿。私の絵に協力してくれた彼ら達に感謝をし、私は部室で何度も何度も筆を重ねていた。
もう完成でいいかなと思う頃には亜久津君の周辺は描かずに、無理やりに完成直前までになった。ここにパッと目を引くような亜久津君が描く事が出来たらもっといい作品になったかもしれないと、惜しいような気持ちも持ち合わせていたけれど許可が貰えなかったなら仕方がない。
私は自分の絵に「程々」に満足した日、このまま空席にして描こうと決めた。
その程々に満足した日の次の日。
教室の窓から差し込む西陽の眩しい光、授業が終わり楽しそうに友達と談笑するクラスメイト達、誰も座っていない窓際の席。
部室に向かおうと私は友人達と荷物をまとめた。教室から出ていく人が多い中、ふと廊下を見ると手ぶらのままの亜久津君が教室に入ってくるのが見えた。授業にあまり出ないのになんで学校の終わりがけに来るのだろうと、亜久津君に来るの遅いよーと笑いながら絡みに行く千石君を見ながら私は教室を出た。
そして部活が始まり筆箱を取り出そうとした時。私は筆箱を教室に忘れた事に気が付き、取りに戻るからと美術部の友人達に告げた。
部活動がもう少しで始まります、帰宅部の人は早く帰りましょう、と女子生徒の声で録音された声のチャイムが廊下に鳴り響いていた。パタパタと部活に急ぐ女の子達、それを見て何を考えているのか顔がにやける男の子達。私はなんだかんだいって、こういう学校の日常にある光景が好きだった。
大人になったら味わえないこの景色を、今回絵に残せてよかったなと私はぼんやりと考えていた。
歩いていてもどこの教室も人声はない。廊下の窓の外から運動部の掛け声が聞こえる。そしてお目当ての教室が見えてきて、特に何も考えずに閉まっている扉に手をかけた。
ガラガラと音を立てて横にスライドさせた扉を開けると目に入った。教室の窓から射し込む西陽の眩しい光、いつも騒がしいはずの教室は静かさに包まれ、銀色の髪を光輝かせながら窓際の席で顔を伏せて寝ている一倍目立つ彼。
この光景に私は静かに心踊らせた。この姿が描けたらいいのに。そう心を踊らせはしたが、寝ている亜久津君を起こすわけにはいかない。私は自分の席までそっと歩き、音を出さないように椅子を動かした。机の中の筆箱をゆっくりと取り椅子を戻そうとした時。教室の開いている窓から蜂のような虫が羽音を立てて私の方に飛んできた。私は驚き、ついうっかり。身体が勝手に虫を避ける様に動いて周りの机に体当たりしてしまった。その瞬間に机の衝撃音や、椅子の擦れる音が派手に鳴る。静かさに包まれた廊下にもこの音が届いただろう。
虫は羽音を立ててすぐに外へと旅立って行った。私の奏でた雑音によって、起きた不機嫌そうな亜久津君と私を残して。彼の鋭い目つきに睨まれ、先ほど踊らせた心は今は手にギュッと掴まれたかのように苦しくなっている。
「あ、あの、ごめんね!虫がいてびっくりして…起こしちゃった?」
「………」
亜久津君は気だるそうに前髪をかきあげて、周りを見渡した。もうクラスメイト達は部活動か帰宅をして教室には私達2人だけ。彼は帰宅もせずに教室に昼寝…というか夕寝をしにきたのかなと思ったけれど、私は訊けずにいる。
「…虫なんていねえじゃねえか」
不機嫌そうに低い声で呟いた亜久津君に、なんて返答しようかと緊張してしまう。この重たそうな鋭い目に見られてると思うと何も言えなくなる。けれど話さないと気まずいし逃げ道がない。心臓をばくばくと動かしながら口を聞く。
「さっきまでいたんだけど、すぐ出て行ったの。蜂みたいな大きい虫でびっくりして…」
「…刺されたか」
「え?」
「刺されたのかって聞いてんだよ」
「え…いや…刺されてないよ!」
「自分の運の良さに感謝するんだな」
鼻で笑うように亜久津君は呟いた。わ、私…亜久津君と千石君抜きで会話してる…。しかも心配なのか嫌味なのか分からない言葉をかけられたことに、自分でもまさかと驚いている。
愛想笑いをしながらそうだねー…、なんて適当な返答をして私は足早に去ろうとした。まだ眠そうな亜久津君は歩き出した私の手の中の筆箱に目線を落とし、ぽつりと呟く。
「お前、絵完成したのかよ」
まさか。亜久津君が私が絵を描いている事を覚えているなんて。そしてその進歩がどうかの雑談を持ちかけるなんて。不思議な気持ちになり、足を止める。
「あとちょっとで完成なんだけど…うん」
あははと小さな声で笑って誤魔化した私に、亜久津君は顔を曇らせた。俺か。そう小さく呟いて。
いやーあはは、なんて私は愛想笑いを焦りながらした。あなたの場所だけ完成していませんなんて、言えるわけない。
亜久津君は描いてないから安心してね、私は下手くそな笑顔で彼にそう伝える。亜久津君の顔は不機嫌そうなまま変わらない。
「…顔は描かねえだろ」
「顔は…描かないよ。私の席から見た光景が描きたくて」
「なら俺は後ろ姿か」
「うん。亜久津君の場所はまだ描けてないけど」
「ならいい、描け」
その言葉に驚いて目を開かせた私に、嫌なら無理して描かなくていいと言い放った亜久津君。これって許可が取れたんだよね?私は信じられずにそのまま立ちすくんでいた。
「嫌じゃない…?本当に描いていいの?」
「俺描かねえと完成しねえんだろ」
あの馬鹿もうるせえし。そう付け足し、そっぽを向きまた机に顔を伏せた彼の髪が、西陽で輝く。
馬鹿って…千石君の事?静かに問いた私に低い声で短く肯定の一言を呟いた亜久津君。
ずっと描きたかった光景の最後の許可が降りた。キャンパスも、いつも落書きしているノートも今はない。けれど全て頭の中に入っている。
教室の窓から射し込む太陽の光、黒板の方を向く先生の目を盗んでこそこそと回される女子達のお手紙、そして銀色の髪を光輝かせながら窓際の席で外を見つめる人一倍目立つ彼。私がずっと描きたかった光景が。
突然教室のスピーカーから部活動開始を知らせるチャイムが鳴った。もう部室に戻らないとまずい。他の部員達はまだ戻らない私の事を遅いねー何してるんだろうなんて笑っているだろう。
「あの、亜久津君ありがとう。上手に描けるように頑張るね」
亜久津君は声で返答しなかった。顔を伏せたまま、右手で軽く手を振った。いや、振ったというか追い払ったというか。どちらともとれる彼の返答にもう一度お礼を言い、もう一度目が合うこともなく私は筆箱を持ち教室を出た。
廊下に出てちらりと彼の方を見る。私の事はやはり見ていない。今私が見た光景は、西陽のせいか嬉しさのせいか。やはり亜久津君だけ輝いて見えた。
「うーん、やっぱり凄いよ!君!」
特にこの自然な感じの生徒達がいいね、あとこの机も書くの上手、今のうちにサイン貰っておこうかな!千石君はわざとらしく顎に指をつけ、廊下に飾られた私の絵を見ながら大きな声で褒めた。休み時間で周りに人が沢山いるのに。恥ずかしいからそんなに褒めないで、照れた私の顔を千石君は覗き込むように見て一言、うーん可愛い。今度はニヤけながら顎を触った。
「でも、この絵が完成したのは千石君のおかげだよ」
「でっしょ〜?ほら、この絵見てよ!亜久津がやっぱ絵になってるよね〜」
えへん!と聞こえてきそうなくらいの誇らしい顔をして、拳で軽く鳩尾を叩く千石君。だから言ったもんね!あいつの扱いは任せてってさ!笑顔でそう言う千石君。そこまで言ってたかな、記憶を辿るけど細かなことは覚えていない。
「ところでさ、なんで題名これにしたの?」
「…うーん、なんでだろう?」
何となくそう思ったからかも。そう答えた私に千石君は不思議そうに首を傾げ、君、変わってるね。これまた不思議そうな顔のまま不思議そうに呟いた。
題名の横には「宝物」の文字、そしてその下には私の名前。
少し建て付けが悪くて開けにくい学校の窓、黒板の下の折れたチョーク、仲が良いのか悪いのか分からない様なクラスメイト達、この学校の何気ない光景が。大人になったらきっと宝物になる気がする、そう思ってこのタイトルをつけた。
人通りが多い廊下で、ふと視線を感じた気がした。
振り返ると太陽の光や西陽が射しているわけでもないのに、キラキラと輝いて見えた銀髪の後ろ姿。
ありがとうと亜久津君を見ながら小さな声で呟いた私に、隣の千石君はそんな感謝しなくても〜今度デートでもする?そう言って、私を小さく笑わせてくれた。
教室の窓から射し込む太陽の光、黒板の方を向く先生の目を盗んでこそこそと回される女子達のお手紙、そして銀色の髪を光輝かせながら窓際の席で外を見つめる人一倍目立つ彼。
私の席から見える構図は完璧なのだ。思わず国語のノートの後ろのページを開き、私はシャーペンで今見ている光景を軽く描き出した。
ここの席は隣の席の男子と雑談をしている女子。そしてこっちには真剣に授業を受ける子、その正反対の机に顔をふせて居眠りをする子。
先生は教科書を朗読していた。ふと目が合う。黒板を書き写すわけでもなく絵を描いている私に他事をしていないか名指しで注意をし、気弱な上には恥ずかしがり屋な私は顔を真っ赤にして静かに俯くしかなかった。
「ねえさっき何描いてたの?」
純粋に疑問をぶつけるその明るい声に、私は心臓がきゅっと縮んでいくのと共に緊張を顔にまとった。
「………え、いや、何も描いてないよ」
「えーそうなの?さっき必死になんか描いてるなーって後ろの席から見てたんだけど」
特に深い意味もなく純粋な気持ちで質問してきたのであろう、私の後ろの席の千石君はニコニコと笑いながら首を傾げた。
私は落書きをしていた国語のノートを恥ずかしく思い、そっと机の中にしまって誤魔化すような苦笑いを千石君に向けた。千石君はにこりと笑い返し、笑顔もかわいいね!と恥ずかしげもなく言った。私は彼の笑顔とお世辞らしき言葉に負け、苦笑いのまま下を向いた。
「そういえばさ、俺この前君の描いた絵見たよ!廊下に飾ってあったやつ!」
「…あ、美術部の課題で描いたんだ。先生が飾ってくれたの」
「凄い上手だったよー、俺あんな綺麗に色とか塗れないから!」
どうやって塗るの?なんで沢山の色を混ぜて汚くならないの?てかどうやって上手に線を描くの?
千石君から質問攻めに、私はあたふたしながら一つずつ答えた。あまり話した事ないのに千石君は相槌や頭を頷かせ丁寧に回答を聞き、最後にはいやー凄いねーなんて関心の素振りを見せてくれた。
「さっきも絵描いてたんでしょ?そんな感じの動きだった!」
絵上手だもんね〜、ニコニコと警戒心を解くように話しかける彼に、まんまと意識を持っていかれそうになる。
そう、ちょっとだけ描いてたよ。こっそり呟くと千石君は笑顔のままやっぱり!そう言って優しく笑った。
彼は警戒心を解く天才なのだろう。何でも話してしまうような千石君の雰囲気に、私はのまれ始めている。
「今度の課題でね、描きたい風景が私の席から見える光景なの」
「光景って…この教室って事?」
先生と生徒しか見えないけどいいの?俺がモデルじゃなくていい?映えるよ?いつでも言って!
千石君は私から笑いを誘い出し、満足したような笑顔を向けた。
授業に集中してる子もいれば、友達とお喋りしてる子もいて面白い光景だよ。そういうと千石君は頷き、さっき描いてた絵もその光景なの?聞き出し、私はその言葉に魔法をかけられたかの様に先程隠した国語のノートを机の中から取り出した。
ページをペラペラと後ろの方までめくり、シャーペンで描いた殴り書きのような教室を見せた。千石君はそれを見てすぐに凄い上手じゃん!と褒め、才能あるよーと何度も褒めた。
私はまた恥ずかしくなり、苦笑いのままノートをそっと片付けようとした。
けれどその前に、ノートに置かれた千石君の人差し指。そこの場所だけ、机も椅子も描かれていない白紙の部分。
「さっきの光景だとさ、ここに亜久津居たじゃん。何も描いてないけど描かないの?」
千石君が言うように、先程の授業の時は亜久津君が座っていた席。ノートの中の殴り書きの絵の中の他の席には、クラスメイトの後ろ姿が描かれている。
「描きたいんだけど…課題で出すからモデルとして出てもらうのに許可がいるでしょ?」
「…ははーん、なるほど」
「絵に描いた数人の子達は許可してくれると思うんだけど…亜久津君は…その…」
はいはいはい、と何度も頷いた千石君は手のひらを私に見せながらみなまで言うな。そんな雰囲気を醸し出した。
「大丈夫、俺に任せて」
「…?」
俺を誰だと思ってるの?全世界の女の子の味方、千石清純だよ!
そう言うと彼はフフン、と笑いながら胸をわざとらしく拳で軽く叩いた。大船に乗ったつもりでいなさい!そう付け足して。
「って訳で亜久津、モデルにならない?」
授業が終わった後のテニス部の部室。コートから聞こえるボールの音と部員達の声。しばらく部室でサボっていたのだろうか、机に足を乗っけてこちらを睨んでいる亜久津君からは、返事すら聞こえない。
「あと授業にもちゃんと出てくれない?ほら、モデルがいないと描けないでしょ!」
「…お前」
殺すぞ。酷く物騒な言葉が彼から発せられた時、私の心臓がぎゅっと縮んだ。心無しか部室の温度だって下がった様に思える、変わってないはずだけれど。
「いやいや、亜久津は絵になる。俺が保証する!だって見てみてよ!地味ーずの2人を!」
地味ーず?謎の言葉と共に千石くんは部室の端を人差し指で指した。
背中を丸め、部室のロッカーの掃除をしていた南くんと東方君。確かに派手な煌びやかさはないかもしれないけど…彼らには彼らの落ち着いた雰囲気がある…と、私はひっそりと心の中で呟く。
なんだなんだ?とこちらを伺い始めた2人から既に目を離した千石君。いつのまにか亜久津君の隣の椅子に腰を下ろし、彼を下から覗き込むように机に顔を伏した。
「ま、冗談はさておき。彼女が亜久津がいる教室の風景を描きたいんだってさ」
彼女、の言葉に亜久津君の鋭い視線が私に向けられる。誰だお前、そんな感じの目だった。私は背筋が凍る様な気持ちになる。一応クラスメイトなんだけど、亜久津君は私の事を認知しているのだろうか。
「知るか、俺に関係ねえだろ」
「普段通りの教室の絵が描きたいんじゃん?ほら、亜久津がいたら絵になるしさ」
「誰が俺を描けなんて言った、勝手な事すんな」
「そ…そうだよねごめんね…亜久津君がいた方が良い絵になるかなって…」
まーたそうやって女の子を泣かす!千石君は亜久津君を茶化すように明るく言い、私は何も言えずただ怯えながら彼の反応を待つだけだった。
亜久津君は舌打ちをし、乱暴に椅子から立ち上がったと思うと大股でイラついた様子で歩き、部室の扉を大きく音を立てて閉め出て行った。最後に一瞬私を見た目は、やはり恐ろしく冷たい目をしていた。
「あーあ。ごめんね、失敗したかも」
扉の向こうを見る千石君の言葉に、私は話をしてくれたお礼を言いつつ頭を上下に頷く事しか出来ず、大きく動く心臓の動悸と共に怯えていた。
私が授業中に密かに描くキャンパスの下書きは既にほぼ完成していた。風に揺れるカーテン、床に落ちている誰かの消しゴムなどの細かな描写。ただ亜久津君の後ろ姿が描かれていないだけ。
この美術部顧問の先生からも清書しろと、ここ最近の部活で顔を見る度に言われるようになっていた。もうそろそろ取りかからないと提出にも間に合わない事も理解している。
もー今日描いちゃえ!千石君の大胆さが移った様な気持ちになった私は、上手く描けるといいなと何となくに願いつつ、千石くんと南君と東方くんに再度お礼を言って美術部の部室へと向かった。
亜久津君に断られてから二週間。
真っ白だったキャンパスには教室に黒板、そして描かれる事に許可をくれたクラスメイト達の姿。私の絵に協力してくれた彼ら達に感謝をし、私は部室で何度も何度も筆を重ねていた。
もう完成でいいかなと思う頃には亜久津君の周辺は描かずに、無理やりに完成直前までになった。ここにパッと目を引くような亜久津君が描く事が出来たらもっといい作品になったかもしれないと、惜しいような気持ちも持ち合わせていたけれど許可が貰えなかったなら仕方がない。
私は自分の絵に「程々」に満足した日、このまま空席にして描こうと決めた。
その程々に満足した日の次の日。
教室の窓から差し込む西陽の眩しい光、授業が終わり楽しそうに友達と談笑するクラスメイト達、誰も座っていない窓際の席。
部室に向かおうと私は友人達と荷物をまとめた。教室から出ていく人が多い中、ふと廊下を見ると手ぶらのままの亜久津君が教室に入ってくるのが見えた。授業にあまり出ないのになんで学校の終わりがけに来るのだろうと、亜久津君に来るの遅いよーと笑いながら絡みに行く千石君を見ながら私は教室を出た。
そして部活が始まり筆箱を取り出そうとした時。私は筆箱を教室に忘れた事に気が付き、取りに戻るからと美術部の友人達に告げた。
部活動がもう少しで始まります、帰宅部の人は早く帰りましょう、と女子生徒の声で録音された声のチャイムが廊下に鳴り響いていた。パタパタと部活に急ぐ女の子達、それを見て何を考えているのか顔がにやける男の子達。私はなんだかんだいって、こういう学校の日常にある光景が好きだった。
大人になったら味わえないこの景色を、今回絵に残せてよかったなと私はぼんやりと考えていた。
歩いていてもどこの教室も人声はない。廊下の窓の外から運動部の掛け声が聞こえる。そしてお目当ての教室が見えてきて、特に何も考えずに閉まっている扉に手をかけた。
ガラガラと音を立てて横にスライドさせた扉を開けると目に入った。教室の窓から射し込む西陽の眩しい光、いつも騒がしいはずの教室は静かさに包まれ、銀色の髪を光輝かせながら窓際の席で顔を伏せて寝ている一倍目立つ彼。
この光景に私は静かに心踊らせた。この姿が描けたらいいのに。そう心を踊らせはしたが、寝ている亜久津君を起こすわけにはいかない。私は自分の席までそっと歩き、音を出さないように椅子を動かした。机の中の筆箱をゆっくりと取り椅子を戻そうとした時。教室の開いている窓から蜂のような虫が羽音を立てて私の方に飛んできた。私は驚き、ついうっかり。身体が勝手に虫を避ける様に動いて周りの机に体当たりしてしまった。その瞬間に机の衝撃音や、椅子の擦れる音が派手に鳴る。静かさに包まれた廊下にもこの音が届いただろう。
虫は羽音を立ててすぐに外へと旅立って行った。私の奏でた雑音によって、起きた不機嫌そうな亜久津君と私を残して。彼の鋭い目つきに睨まれ、先ほど踊らせた心は今は手にギュッと掴まれたかのように苦しくなっている。
「あ、あの、ごめんね!虫がいてびっくりして…起こしちゃった?」
「………」
亜久津君は気だるそうに前髪をかきあげて、周りを見渡した。もうクラスメイト達は部活動か帰宅をして教室には私達2人だけ。彼は帰宅もせずに教室に昼寝…というか夕寝をしにきたのかなと思ったけれど、私は訊けずにいる。
「…虫なんていねえじゃねえか」
不機嫌そうに低い声で呟いた亜久津君に、なんて返答しようかと緊張してしまう。この重たそうな鋭い目に見られてると思うと何も言えなくなる。けれど話さないと気まずいし逃げ道がない。心臓をばくばくと動かしながら口を聞く。
「さっきまでいたんだけど、すぐ出て行ったの。蜂みたいな大きい虫でびっくりして…」
「…刺されたか」
「え?」
「刺されたのかって聞いてんだよ」
「え…いや…刺されてないよ!」
「自分の運の良さに感謝するんだな」
鼻で笑うように亜久津君は呟いた。わ、私…亜久津君と千石君抜きで会話してる…。しかも心配なのか嫌味なのか分からない言葉をかけられたことに、自分でもまさかと驚いている。
愛想笑いをしながらそうだねー…、なんて適当な返答をして私は足早に去ろうとした。まだ眠そうな亜久津君は歩き出した私の手の中の筆箱に目線を落とし、ぽつりと呟く。
「お前、絵完成したのかよ」
まさか。亜久津君が私が絵を描いている事を覚えているなんて。そしてその進歩がどうかの雑談を持ちかけるなんて。不思議な気持ちになり、足を止める。
「あとちょっとで完成なんだけど…うん」
あははと小さな声で笑って誤魔化した私に、亜久津君は顔を曇らせた。俺か。そう小さく呟いて。
いやーあはは、なんて私は愛想笑いを焦りながらした。あなたの場所だけ完成していませんなんて、言えるわけない。
亜久津君は描いてないから安心してね、私は下手くそな笑顔で彼にそう伝える。亜久津君の顔は不機嫌そうなまま変わらない。
「…顔は描かねえだろ」
「顔は…描かないよ。私の席から見た光景が描きたくて」
「なら俺は後ろ姿か」
「うん。亜久津君の場所はまだ描けてないけど」
「ならいい、描け」
その言葉に驚いて目を開かせた私に、嫌なら無理して描かなくていいと言い放った亜久津君。これって許可が取れたんだよね?私は信じられずにそのまま立ちすくんでいた。
「嫌じゃない…?本当に描いていいの?」
「俺描かねえと完成しねえんだろ」
あの馬鹿もうるせえし。そう付け足し、そっぽを向きまた机に顔を伏せた彼の髪が、西陽で輝く。
馬鹿って…千石君の事?静かに問いた私に低い声で短く肯定の一言を呟いた亜久津君。
ずっと描きたかった光景の最後の許可が降りた。キャンパスも、いつも落書きしているノートも今はない。けれど全て頭の中に入っている。
教室の窓から射し込む太陽の光、黒板の方を向く先生の目を盗んでこそこそと回される女子達のお手紙、そして銀色の髪を光輝かせながら窓際の席で外を見つめる人一倍目立つ彼。私がずっと描きたかった光景が。
突然教室のスピーカーから部活動開始を知らせるチャイムが鳴った。もう部室に戻らないとまずい。他の部員達はまだ戻らない私の事を遅いねー何してるんだろうなんて笑っているだろう。
「あの、亜久津君ありがとう。上手に描けるように頑張るね」
亜久津君は声で返答しなかった。顔を伏せたまま、右手で軽く手を振った。いや、振ったというか追い払ったというか。どちらともとれる彼の返答にもう一度お礼を言い、もう一度目が合うこともなく私は筆箱を持ち教室を出た。
廊下に出てちらりと彼の方を見る。私の事はやはり見ていない。今私が見た光景は、西陽のせいか嬉しさのせいか。やはり亜久津君だけ輝いて見えた。
「うーん、やっぱり凄いよ!君!」
特にこの自然な感じの生徒達がいいね、あとこの机も書くの上手、今のうちにサイン貰っておこうかな!千石君はわざとらしく顎に指をつけ、廊下に飾られた私の絵を見ながら大きな声で褒めた。休み時間で周りに人が沢山いるのに。恥ずかしいからそんなに褒めないで、照れた私の顔を千石君は覗き込むように見て一言、うーん可愛い。今度はニヤけながら顎を触った。
「でも、この絵が完成したのは千石君のおかげだよ」
「でっしょ〜?ほら、この絵見てよ!亜久津がやっぱ絵になってるよね〜」
えへん!と聞こえてきそうなくらいの誇らしい顔をして、拳で軽く鳩尾を叩く千石君。だから言ったもんね!あいつの扱いは任せてってさ!笑顔でそう言う千石君。そこまで言ってたかな、記憶を辿るけど細かなことは覚えていない。
「ところでさ、なんで題名これにしたの?」
「…うーん、なんでだろう?」
何となくそう思ったからかも。そう答えた私に千石君は不思議そうに首を傾げ、君、変わってるね。これまた不思議そうな顔のまま不思議そうに呟いた。
題名の横には「宝物」の文字、そしてその下には私の名前。
少し建て付けが悪くて開けにくい学校の窓、黒板の下の折れたチョーク、仲が良いのか悪いのか分からない様なクラスメイト達、この学校の何気ない光景が。大人になったらきっと宝物になる気がする、そう思ってこのタイトルをつけた。
人通りが多い廊下で、ふと視線を感じた気がした。
振り返ると太陽の光や西陽が射しているわけでもないのに、キラキラと輝いて見えた銀髪の後ろ姿。
ありがとうと亜久津君を見ながら小さな声で呟いた私に、隣の千石君はそんな感謝しなくても〜今度デートでもする?そう言って、私を小さく笑わせてくれた。
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