★恋に浸る
君が何を考えているのか分からない。高校に入学してすぐ、顔も名前もよく知らないまま付き合った彼氏にそう言われた。
結局の所、彼とはあっさりと破局をした。自分でも驚くほど早く終わった恋だった。彼は悪い男ではなく、むしろ世間一般ではいい男だと分類されると思う。真面目で、気が使えて、顔も悪くない。けれど私はどうしても彼を好きになる事ができなかった。一緒にいても楽しいと思えず、好きにもなることもできず、興味すら湧いてこなかった。
一緒に登校する度、会話をする度、手を繋ぐ度。彼が何かをする度に仁はこうだった、仁だったらああ言うだろう、これが仁だったらよかったのに。相手の事を好きになれない、失礼な考えが私の頭から離れなかった。
私は真剣に付き合ってくれている彼に対して罪悪感を感じ、好きになれないと正直に話して別れを告げた。君が何を考えているのか分からない、彼は困ったように呟いていた。
一人になった私を襲ったのは、仁を求め続けている感情だった。もう会えない、会っても付き合えない。そう思えば思うほど仁に会いたいと、付き合いたいと思った。
友達といる時は寂しさが紛れた。だから私は学校が終われば夜が明けるまで、友達とずっと一緒に遊んでいた。もう補導にも、警察からかかってくる家と学校への電話にも慣れてしまった。好きなだけ遊び歩いても、どれだけ警察が電話をかけても、朝まで警察署にいようと。相変わらず私の親は迎えには来なかった。
前は優紀ちゃんだけが私を受け入れてくれた。でももう今は、誰も私を迎えに来ない。
両親が離婚をして母親に引き取られた私は、前よりも母親に叱られなくなった。
良く言えば放任主義、悪く言えば成長した子供の育児放棄。しかし私はそれをちょうどいいと思い、中学の頃よりも酷く遊んだ。
家を売り払った為に母親が借りたアパートには殆ど帰らず、友達の家に寝泊まりするようになった。学校が終われば友人と朝まで遊び帰宅し、昼頃起きて嫌々登校する。一緒にいる相手が仁から友達数人に変わっただけ。そう思って荒んだ毎日を過ごしていた。
けれどいつでも私の側には仁の名残があった。
補導をされても隣に仁はいない。私が吸っている煙草の銘柄は仁が吸っていた物と同じ。私の左耳に開いているピアスは仁が開けてくれたもの。
私はそれらを更生する気も辞めるつもりも外すつもりもなく、心の奥にずっとやりきれない気持ちを飼っていた。
自分の気持ちが整理出来ないだけだったら、まだ良かっただろう。
登校して教室にいればテニス部の子達から「山吹の亜久津が強い」と、仁の話が聞こえてきたりした。私はその話に乗るわけでも聞き耳をたてるわけでもなく、逃げるように話をする子達から離れた。
また、同じ学校の荒んだガキっぽい男子達は、私のことを山吹の亜久津と絡んでた女だと意味もなく騒ぎ立てた。
喧嘩してる時に亜久津の後ろにいただろ、亜久津と付き合うの辞めたの?、亜久津はお前みたいな女が好きなんだ。
憶測で好き勝手に語る男子達に私はひどく腹を立てた。
「亜久津は不良だったけれど更生した。だから未だに中途半端な私を捨てた」
彼等はそう私を馬鹿にして、稀に私と同じく仁の事も馬鹿にした。
お前らに仁の何が分かるんだよ、対して会話したこともないくせに。くだらない事に日々イラつきながら生活していた私はそんな毎日に嫌気がさし、素行の悪い友達と共に段々と学校に行かなくなっていった。
仁の事を早く忘れてしまいたい。
そう常に思っていた私は、自分に嘘をつき続け次第に恋に溺れていった。付き合う男はなるべく仁と正反対の男を選んだ。車持ちの年上、スポーツが嫌いな他校のやさぐれた奴、学校を中退した職人かぶれの若い奴。
めでたく高二の17歳になった私は荒みに荒み、男と付き合ってはすぐに別れ、また違う男と付き合う。これを何度も繰り返した。
でも付き合った彼等にも、どこか仁の面影があった。仁が吸っていた物と同じ銘柄の煙草を吸う男、髪が傷みきった銀髪の男、どこか仕草が仁に似ている男。私は自然と仁に似ている所を探していたのかもしれない。
しかし私は彼らと恋愛する意味を見出す事が出来なかった。付き合った中には何度か身体を重ねた人もいた。だがやはり私は相手を好きになることは出来ず、ただひたすらに不快な時間を過ごしただけだった。
また、恋愛を語った歌の歌詞の様な薄っぺらい言葉で私の事を本気で好きだと、離さないだとかいう男もいた。
「前好きだった男なんて忘れさせてやる」
「俺が幸せにする」
「君と結婚したい」
でも私はそう言ってくれた彼等から離れていった。
「仁の事を忘れる事ができなかった」、そう告げると相手は怒ったり悲しんだり、もしくは呆れたり。
「あれだけ優しくしてやったのに」
「俺はお前の事好きだったのに」
「好きでもないのに付き合うなんて」
相手からの最もな怒りの言葉を受ける度に私は謝罪をして、神経をすり減らした。
私は何度も一人になり、またすぐに相手を作り、またそのうちに一人になり。
数えきれない何度目かの破局を繰り返し、恋は無理にするものではなく落ちるものだと、そう気づいた時にはもう既に遅かった。
素行の悪い友人達は高二にもなれば出席日数が足りないだとか、妊娠しただとか、学校に行かずに働くとか理由をつけて高校を中退していった。
その中で私はなんとか高校だけでも卒業したいと思った。仁とこれ以上差がついてしまったら、もしどこかで会えても話しかける勇気が無くなる。仁も頑張ってるんだから、私も頑張らなくてはいけない。そう思って一人で必死に学校に通い続けた。
仁も友達も失った私は、友情を求めているのか、恋を求めているのか、私を愛してくれる男を求めているのか、仁を求めているのか。明確に自分自身で理解していた。
すっかり辞められなくなった煙草を吸う度に、私は17歳になっても未だに仁の事を思い出していた。
出席日数と学力は最底辺のまま、なんとか高校三年生になれた私は未だに恋に溺れていた。仁の事を忘れられるくらい好きになれる人がいたら。私はそんな人を高校生になってからずっと探し続けていた。
仁に連絡がとれたら、会えたら、付き合えたら。ずっとそう考えている。携帯にある電話帳の「亜久津仁」と表記された電話番号を、押す勇気が私にはない。電話をして彼が出て「お前誰」と言われるのが私は怖くて仕方がない。きっと彼はもう私の事を忘れて、中学の時に付き合ったようなかわいい女の子と一緒にいるだろう。
そう決めつけている私は仁の連絡先を消してしまえばいいのに、何故か仁の連絡先だけは頑丈な鍵がかかっているかのように感じて、消す事が出来ずにいた。
まだ夏休みに入る前の7月。たまたま仁の家の付近を通った。
そこで私は二年半ぶりくらいに優紀ちゃんと歩く仁を見た。一緒に買い物にでも行ったのだろうか、仁は重たそうな買い物袋を優紀ちゃんの代わりに持っていた。優紀ちゃんが笑顔で何か話しかけて、仁はそれに一言二言、満更でもなさそうに返答をしていた。
中学の頃の仁とは全く違う、もう反抗期を終えたのだろうか。ちゃんと母親と向き合い笑顔で会話が出来て、母親のことを気遣い、二人で仲良く幸せそうに歩けるようになったのか。
あの頃は私がいないと会話どころか、一緒にいる事も出来なかった二人なのに。私がいなくても彼らは大丈夫だったんだ、時間が仁と優紀ちゃんの距離を詰めてくれたんだ。胸が痛んだけれど、立派になった仁を遠くからでも見れてよかった、そう思った。
会いたかった、声をかけたかった、でもそれ以上に怖かった。もし二人の邪魔になるとしたら、嫌な顔をされたらと足がすくみ怯えた。
私は声もかけることも出来ず一人で、遠くから幸せそうな二人をただ見ていた。
高校では夏に一度目の進路希望調査の紙が配られた。
山吹とは違い偏差値の低い私が通う高校は、就職を選ぶ人が大半だった。私もその大半のうちの一人で、就職、そう書かれた大きい文字に丸を打ち提出をした。
その日久しぶりに母親のアパートに帰宅すると、珍しく家にいた母親は私におずおずと話しかけた。
「高校卒業したらこのアパートを出て行って欲しい」
長々と遠回りに言われた言葉を要約するとこういう事だった。私に自立してほしい、社会に出て勉強してほしい、だから一人暮らしを進めたい。そう言った母親の魂胆を私は知っている。
少し前にいい関係の男が出来て、それでたまに帰って来る私が邪魔になったのだ。絶対にそう、私は普段の母親の様子を見て前から察していた。
分かったよ、私は母親に対して一言だけ返事をした。
どうせ昔から家に帰ってなかったし、今は学校でも一人だし、別に生活も何も変わらない。
私は私の生活に、私の周りに、なにも上手くいかない私自身に腹を立てながら、必需品だけ持って家を出た。
まだ21時を回る前だった。
カラオケだとか居酒屋が立ち並んでいる先の、雑居ビルの階段に腰を下ろした。
そういえば中一の頃にこの辺で仁と出会ったんだっけ。私はまた一人で思い出に浸っている。
面倒だな、学校も、恋愛も、親も。
行き場のないやるせなさを誤魔化すために、残り数本となった煙草に火をつけた。夏といえどこの時間になればもう周りはかなり暗く、私の煙草の火は暗闇の中で目立っていた。
二口目を吸った後、私の前で一人立ち止まった男がいた。警察だったらまた補導かな。何故まだ自分は成人していないのかと私は馬鹿げた疑問を抱きながら、地面に向けていた顔をあげた。
「何してんだ」
前で立ち止まった男は悩む事なく私に突然話しかけた。
相変わらずの銀髪と髪型で、中学の時より背が少し伸び大人びた男は一人、私の前で佇んでいる。
仁だ、あの仁だ。どれだけ忘れようと、他の男と付き合おうと、何回も会いたいと願った。私が13歳の頃からずっと求め続けた仁が、今私の目の前にいる。
「暇つぶし、仁は?」
私は震えそうになった声を必死に抑えて平然を装った。会いたかった、仁に会いたくて仕方がなかった。それが目の前の彼にバレてないといい。
「暇つぶし」
「じゃあ仲間じゃん」
「仲間じゃねえよ」
そういえば出会った時もこういう会話をした気がする。突然の懐かしさを身を纏いながら私は、仁の匂いだった煙草の煙を空に上げている。
「馬鹿みたいに目立つ所で、煙草吸ってる女がいると思ったから声かけた」
「あぁ、目立ってたから昔補導されたのかな」
「多分そうだろうな」
仁は中学の頃と何も変わらない笑い方をした。なんだ、仁そんなに変わってないじゃん。私は何故か少し安堵をし、つられて笑った。
私は約六年前、世間も男も何も知らないクソガキだった頃の、仁と一緒にされた補導の事を思い出した。あれはたしか初めての補導だった気がする。
初めて煙草を吸った時の高揚感も、警察署で隣にふてぶてしく座る仁も、優しく私を迎え入れてくれた優紀ちゃんも。つい昨日の事のように思い出せる。
今の私達は、世間に馴染めない惨めで金も足もなくて時間だけが有り余ってるような、ただの13歳のクソガキのままではない。
背も伸びて、母親に優しく接し、テニスで活躍をする立派になった仁がいる。何とかしがみついて高校生になり、自立して就職しようとしている私がいる。
「仁も座ったら」
私は腰を上げて座っていた階段の端に移動した。
仁は一言も発する事なく、私の横の今さっき空いたばかりのスペースに腰を下ろした。地面のコンクリートには、通りの店のライトの光で出来た私達の影がいた。影は不安定ながらも不恰好に斜めに映し出され、出会った頃の私達みたいだった。
「仁かなり背伸びたね」
「そんなに変わってねえ」
「そうだっけ」
「忘れてんじゃねえよ」
仁は私を見る事もなく前の道路の方を見て小さく呟いた。昔と違って、今日はパトカーをまだ一台も見ていない。
「忘れてないよ、私中学の頃からずっと仁の事考えてたもん」
一緒に登校する時も、授業をサボり二人で煙草を吸っている時も、仁の家で寝泊まりしていた頃も、少し距離を置き仁が彼女を作った頃も。
「仁、私から離れていくんだもん」
高校生になって友達と馬鹿騒ぎしている時、他の男と一緒にいる時。仁と出会った時から会えなくなるまでずっと。ずっと仁の事考えてた。
「離れてねえよ、お前が離れてったんだろ」
お前が男作った時、相手を殴ってやろうかと思った。
それどういう意味?、そう聞く私に対して、別に。仁が無愛想にぽつりと答えになってない返答を呟いた時。私達の目の前を、まだ中学生らしき若い男の子と女の子が横切って行った。多分、彼等も昔の私達みたいに都合の悪い事に怯えながらこそこそと遊びに行くのだろう。手を繋いで歩く姿は微笑ましく、彼等はまだ背徳感を感じて喜び楽しんでいるのだと思った。
「あの子達、昔の私達みたいだね」
「俺らは付き合ってなかっただろ」
そうだね。仁の言葉は私を的確に仕留めていく。付き合ってなかったもんね、私は悲しみに負けそうになりながらも感情を押し殺して小さく笑った。
「前にお前の家行ったら、違うやつが住んでた」
「いつ来たの?」
「高校入って少し経った頃」
「あぁ、その少し前に親が離婚してあの家売っちゃったんだよね」
自分から話したくせに、興味なさそうに適当な返事をした仁が私には懐かしく、荒んだ心を満たしていった。
「何しにうちに来たの?」
「お前に会いに行った」
仁がひどく真剣に呟くので私はなんだよと笑いながら身構え、煙草を地面に捨てて靴で踏み潰した。
「言いたい事があった」
「今言って、聞きたい」
「お前が好き」
仁は、私が知らない真剣な表情をして私と目を合わせた。
私が息を止めながら靴をどかせば、その下には私の煙草の吸殻と、黒くなったコンクリートがあった。
結局の所、彼とはあっさりと破局をした。自分でも驚くほど早く終わった恋だった。彼は悪い男ではなく、むしろ世間一般ではいい男だと分類されると思う。真面目で、気が使えて、顔も悪くない。けれど私はどうしても彼を好きになる事ができなかった。一緒にいても楽しいと思えず、好きにもなることもできず、興味すら湧いてこなかった。
一緒に登校する度、会話をする度、手を繋ぐ度。彼が何かをする度に仁はこうだった、仁だったらああ言うだろう、これが仁だったらよかったのに。相手の事を好きになれない、失礼な考えが私の頭から離れなかった。
私は真剣に付き合ってくれている彼に対して罪悪感を感じ、好きになれないと正直に話して別れを告げた。君が何を考えているのか分からない、彼は困ったように呟いていた。
一人になった私を襲ったのは、仁を求め続けている感情だった。もう会えない、会っても付き合えない。そう思えば思うほど仁に会いたいと、付き合いたいと思った。
友達といる時は寂しさが紛れた。だから私は学校が終われば夜が明けるまで、友達とずっと一緒に遊んでいた。もう補導にも、警察からかかってくる家と学校への電話にも慣れてしまった。好きなだけ遊び歩いても、どれだけ警察が電話をかけても、朝まで警察署にいようと。相変わらず私の親は迎えには来なかった。
前は優紀ちゃんだけが私を受け入れてくれた。でももう今は、誰も私を迎えに来ない。
両親が離婚をして母親に引き取られた私は、前よりも母親に叱られなくなった。
良く言えば放任主義、悪く言えば成長した子供の育児放棄。しかし私はそれをちょうどいいと思い、中学の頃よりも酷く遊んだ。
家を売り払った為に母親が借りたアパートには殆ど帰らず、友達の家に寝泊まりするようになった。学校が終われば友人と朝まで遊び帰宅し、昼頃起きて嫌々登校する。一緒にいる相手が仁から友達数人に変わっただけ。そう思って荒んだ毎日を過ごしていた。
けれどいつでも私の側には仁の名残があった。
補導をされても隣に仁はいない。私が吸っている煙草の銘柄は仁が吸っていた物と同じ。私の左耳に開いているピアスは仁が開けてくれたもの。
私はそれらを更生する気も辞めるつもりも外すつもりもなく、心の奥にずっとやりきれない気持ちを飼っていた。
自分の気持ちが整理出来ないだけだったら、まだ良かっただろう。
登校して教室にいればテニス部の子達から「山吹の亜久津が強い」と、仁の話が聞こえてきたりした。私はその話に乗るわけでも聞き耳をたてるわけでもなく、逃げるように話をする子達から離れた。
また、同じ学校の荒んだガキっぽい男子達は、私のことを山吹の亜久津と絡んでた女だと意味もなく騒ぎ立てた。
喧嘩してる時に亜久津の後ろにいただろ、亜久津と付き合うの辞めたの?、亜久津はお前みたいな女が好きなんだ。
憶測で好き勝手に語る男子達に私はひどく腹を立てた。
「亜久津は不良だったけれど更生した。だから未だに中途半端な私を捨てた」
彼等はそう私を馬鹿にして、稀に私と同じく仁の事も馬鹿にした。
お前らに仁の何が分かるんだよ、対して会話したこともないくせに。くだらない事に日々イラつきながら生活していた私はそんな毎日に嫌気がさし、素行の悪い友達と共に段々と学校に行かなくなっていった。
仁の事を早く忘れてしまいたい。
そう常に思っていた私は、自分に嘘をつき続け次第に恋に溺れていった。付き合う男はなるべく仁と正反対の男を選んだ。車持ちの年上、スポーツが嫌いな他校のやさぐれた奴、学校を中退した職人かぶれの若い奴。
めでたく高二の17歳になった私は荒みに荒み、男と付き合ってはすぐに別れ、また違う男と付き合う。これを何度も繰り返した。
でも付き合った彼等にも、どこか仁の面影があった。仁が吸っていた物と同じ銘柄の煙草を吸う男、髪が傷みきった銀髪の男、どこか仕草が仁に似ている男。私は自然と仁に似ている所を探していたのかもしれない。
しかし私は彼らと恋愛する意味を見出す事が出来なかった。付き合った中には何度か身体を重ねた人もいた。だがやはり私は相手を好きになることは出来ず、ただひたすらに不快な時間を過ごしただけだった。
また、恋愛を語った歌の歌詞の様な薄っぺらい言葉で私の事を本気で好きだと、離さないだとかいう男もいた。
「前好きだった男なんて忘れさせてやる」
「俺が幸せにする」
「君と結婚したい」
でも私はそう言ってくれた彼等から離れていった。
「仁の事を忘れる事ができなかった」、そう告げると相手は怒ったり悲しんだり、もしくは呆れたり。
「あれだけ優しくしてやったのに」
「俺はお前の事好きだったのに」
「好きでもないのに付き合うなんて」
相手からの最もな怒りの言葉を受ける度に私は謝罪をして、神経をすり減らした。
私は何度も一人になり、またすぐに相手を作り、またそのうちに一人になり。
数えきれない何度目かの破局を繰り返し、恋は無理にするものではなく落ちるものだと、そう気づいた時にはもう既に遅かった。
素行の悪い友人達は高二にもなれば出席日数が足りないだとか、妊娠しただとか、学校に行かずに働くとか理由をつけて高校を中退していった。
その中で私はなんとか高校だけでも卒業したいと思った。仁とこれ以上差がついてしまったら、もしどこかで会えても話しかける勇気が無くなる。仁も頑張ってるんだから、私も頑張らなくてはいけない。そう思って一人で必死に学校に通い続けた。
仁も友達も失った私は、友情を求めているのか、恋を求めているのか、私を愛してくれる男を求めているのか、仁を求めているのか。明確に自分自身で理解していた。
すっかり辞められなくなった煙草を吸う度に、私は17歳になっても未だに仁の事を思い出していた。
出席日数と学力は最底辺のまま、なんとか高校三年生になれた私は未だに恋に溺れていた。仁の事を忘れられるくらい好きになれる人がいたら。私はそんな人を高校生になってからずっと探し続けていた。
仁に連絡がとれたら、会えたら、付き合えたら。ずっとそう考えている。携帯にある電話帳の「亜久津仁」と表記された電話番号を、押す勇気が私にはない。電話をして彼が出て「お前誰」と言われるのが私は怖くて仕方がない。きっと彼はもう私の事を忘れて、中学の時に付き合ったようなかわいい女の子と一緒にいるだろう。
そう決めつけている私は仁の連絡先を消してしまえばいいのに、何故か仁の連絡先だけは頑丈な鍵がかかっているかのように感じて、消す事が出来ずにいた。
まだ夏休みに入る前の7月。たまたま仁の家の付近を通った。
そこで私は二年半ぶりくらいに優紀ちゃんと歩く仁を見た。一緒に買い物にでも行ったのだろうか、仁は重たそうな買い物袋を優紀ちゃんの代わりに持っていた。優紀ちゃんが笑顔で何か話しかけて、仁はそれに一言二言、満更でもなさそうに返答をしていた。
中学の頃の仁とは全く違う、もう反抗期を終えたのだろうか。ちゃんと母親と向き合い笑顔で会話が出来て、母親のことを気遣い、二人で仲良く幸せそうに歩けるようになったのか。
あの頃は私がいないと会話どころか、一緒にいる事も出来なかった二人なのに。私がいなくても彼らは大丈夫だったんだ、時間が仁と優紀ちゃんの距離を詰めてくれたんだ。胸が痛んだけれど、立派になった仁を遠くからでも見れてよかった、そう思った。
会いたかった、声をかけたかった、でもそれ以上に怖かった。もし二人の邪魔になるとしたら、嫌な顔をされたらと足がすくみ怯えた。
私は声もかけることも出来ず一人で、遠くから幸せそうな二人をただ見ていた。
高校では夏に一度目の進路希望調査の紙が配られた。
山吹とは違い偏差値の低い私が通う高校は、就職を選ぶ人が大半だった。私もその大半のうちの一人で、就職、そう書かれた大きい文字に丸を打ち提出をした。
その日久しぶりに母親のアパートに帰宅すると、珍しく家にいた母親は私におずおずと話しかけた。
「高校卒業したらこのアパートを出て行って欲しい」
長々と遠回りに言われた言葉を要約するとこういう事だった。私に自立してほしい、社会に出て勉強してほしい、だから一人暮らしを進めたい。そう言った母親の魂胆を私は知っている。
少し前にいい関係の男が出来て、それでたまに帰って来る私が邪魔になったのだ。絶対にそう、私は普段の母親の様子を見て前から察していた。
分かったよ、私は母親に対して一言だけ返事をした。
どうせ昔から家に帰ってなかったし、今は学校でも一人だし、別に生活も何も変わらない。
私は私の生活に、私の周りに、なにも上手くいかない私自身に腹を立てながら、必需品だけ持って家を出た。
まだ21時を回る前だった。
カラオケだとか居酒屋が立ち並んでいる先の、雑居ビルの階段に腰を下ろした。
そういえば中一の頃にこの辺で仁と出会ったんだっけ。私はまた一人で思い出に浸っている。
面倒だな、学校も、恋愛も、親も。
行き場のないやるせなさを誤魔化すために、残り数本となった煙草に火をつけた。夏といえどこの時間になればもう周りはかなり暗く、私の煙草の火は暗闇の中で目立っていた。
二口目を吸った後、私の前で一人立ち止まった男がいた。警察だったらまた補導かな。何故まだ自分は成人していないのかと私は馬鹿げた疑問を抱きながら、地面に向けていた顔をあげた。
「何してんだ」
前で立ち止まった男は悩む事なく私に突然話しかけた。
相変わらずの銀髪と髪型で、中学の時より背が少し伸び大人びた男は一人、私の前で佇んでいる。
仁だ、あの仁だ。どれだけ忘れようと、他の男と付き合おうと、何回も会いたいと願った。私が13歳の頃からずっと求め続けた仁が、今私の目の前にいる。
「暇つぶし、仁は?」
私は震えそうになった声を必死に抑えて平然を装った。会いたかった、仁に会いたくて仕方がなかった。それが目の前の彼にバレてないといい。
「暇つぶし」
「じゃあ仲間じゃん」
「仲間じゃねえよ」
そういえば出会った時もこういう会話をした気がする。突然の懐かしさを身を纏いながら私は、仁の匂いだった煙草の煙を空に上げている。
「馬鹿みたいに目立つ所で、煙草吸ってる女がいると思ったから声かけた」
「あぁ、目立ってたから昔補導されたのかな」
「多分そうだろうな」
仁は中学の頃と何も変わらない笑い方をした。なんだ、仁そんなに変わってないじゃん。私は何故か少し安堵をし、つられて笑った。
私は約六年前、世間も男も何も知らないクソガキだった頃の、仁と一緒にされた補導の事を思い出した。あれはたしか初めての補導だった気がする。
初めて煙草を吸った時の高揚感も、警察署で隣にふてぶてしく座る仁も、優しく私を迎え入れてくれた優紀ちゃんも。つい昨日の事のように思い出せる。
今の私達は、世間に馴染めない惨めで金も足もなくて時間だけが有り余ってるような、ただの13歳のクソガキのままではない。
背も伸びて、母親に優しく接し、テニスで活躍をする立派になった仁がいる。何とかしがみついて高校生になり、自立して就職しようとしている私がいる。
「仁も座ったら」
私は腰を上げて座っていた階段の端に移動した。
仁は一言も発する事なく、私の横の今さっき空いたばかりのスペースに腰を下ろした。地面のコンクリートには、通りの店のライトの光で出来た私達の影がいた。影は不安定ながらも不恰好に斜めに映し出され、出会った頃の私達みたいだった。
「仁かなり背伸びたね」
「そんなに変わってねえ」
「そうだっけ」
「忘れてんじゃねえよ」
仁は私を見る事もなく前の道路の方を見て小さく呟いた。昔と違って、今日はパトカーをまだ一台も見ていない。
「忘れてないよ、私中学の頃からずっと仁の事考えてたもん」
一緒に登校する時も、授業をサボり二人で煙草を吸っている時も、仁の家で寝泊まりしていた頃も、少し距離を置き仁が彼女を作った頃も。
「仁、私から離れていくんだもん」
高校生になって友達と馬鹿騒ぎしている時、他の男と一緒にいる時。仁と出会った時から会えなくなるまでずっと。ずっと仁の事考えてた。
「離れてねえよ、お前が離れてったんだろ」
お前が男作った時、相手を殴ってやろうかと思った。
それどういう意味?、そう聞く私に対して、別に。仁が無愛想にぽつりと答えになってない返答を呟いた時。私達の目の前を、まだ中学生らしき若い男の子と女の子が横切って行った。多分、彼等も昔の私達みたいに都合の悪い事に怯えながらこそこそと遊びに行くのだろう。手を繋いで歩く姿は微笑ましく、彼等はまだ背徳感を感じて喜び楽しんでいるのだと思った。
「あの子達、昔の私達みたいだね」
「俺らは付き合ってなかっただろ」
そうだね。仁の言葉は私を的確に仕留めていく。付き合ってなかったもんね、私は悲しみに負けそうになりながらも感情を押し殺して小さく笑った。
「前にお前の家行ったら、違うやつが住んでた」
「いつ来たの?」
「高校入って少し経った頃」
「あぁ、その少し前に親が離婚してあの家売っちゃったんだよね」
自分から話したくせに、興味なさそうに適当な返事をした仁が私には懐かしく、荒んだ心を満たしていった。
「何しにうちに来たの?」
「お前に会いに行った」
仁がひどく真剣に呟くので私はなんだよと笑いながら身構え、煙草を地面に捨てて靴で踏み潰した。
「言いたい事があった」
「今言って、聞きたい」
「お前が好き」
仁は、私が知らない真剣な表情をして私と目を合わせた。
私が息を止めながら靴をどかせば、その下には私の煙草の吸殻と、黒くなったコンクリートがあった。