このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

特等席

憂鬱だった補習は四日目を迎えた。この補習期間で私が学んだ事は上手く空気と化す方法、亜久津君の機嫌を損ねない方法、この二つだけ。残念ながら補習内容の数学は何となくしか理解していない。
そっと扉を開けると教室には誰もいなかった。一番乗りか。私はゆっくりと扉を閉め、いつも通り廊下側の後ろの席に座った。先生今日も遅いな。私は机に肘をつき、一人教室で暇を持て余す。


そのうちに廊下から足音が聞こえてきた。私は悲しい事にこの四日間で覚えてしまった、この足音は先生ではなく亜久津君だ。今日も先生が来るまで二人きりの気まずい教室なのか。
憂鬱になった私の予感はばっちり当たっていて、私が閉めた扉を少し乱暴に開けたのはやはり恐怖の亜久津君だった。ちらりと見ればいつも通り怖い顔をしている。今日も私は空気、貴方の邪魔はしません。亜久津君はいつもの窓際の席に座るかと思いきや、気だるそうに私の方に近づいてくる。
何で?、怖すぎる。私は空気なので、亜久津君とは関係ないです、すみません。その思いを感じ取ってもらうために肩をすくめて下を向いた。
だがその行為に意味は持たず、亜久津君はおい、と私を呼び机の前で立ち止まる。私の名前は「おい」ではないです。それが言えたら苦労はしない。恐る恐る顔をあげた。相変わらず彼の顔は怖い。

「これ書いて提出しろだとよ」

亜久津君はメモ帳サイズの付箋が貼ってあるプリントを私に三枚手渡した。ありがとう。怖気付きながらもお礼を言い受け取れば、彼はすぐにいつもの窓際の後ろの席に移動した。亜久津君からもらったプリントの付箋に目を通せば、補習の先生の殴り書きの伝言があった。

「このプリントが終わったら職員室までに届けに来てください」

要約するとそう書いてあった。それってプリントを終えるまで、この教室で亜久津君と二人きりって事?
身体から血の気が引いたのが分かった。顔も青ざめているかもしれない。もしかしたら倒れるかもしれない。
今まで先生が居たから何とか生き延びてこれたのに!一刻も早くプリントを終わらせて、ダッシュで帰ろう。生き残る方法はそれしかない。急いで鞄から筆箱を取り出して氏名と書かれた欄に自分の名前を書いた。
問題数も大したことない!これなら何とかなる!問1、問2の空欄に数字を埋めていく。
だが私のシャーペンはそこで止まってしまった。やばい、全く分からない。プリントに沢山載っているxだとかyは先生が説明してくれていた気がする。でも殆ど覚えていない、だってこの四日間は空気になる事に徹底していたから。そういえば私は数学が大の苦手だったと思い出し焦り、先生の伝言が書かれた付箋を見る。下の方に書かれた赤いボールペンで書かれた文字が目に入る。

「プリントができなかった場合は来週も補習」

なんてこった。絶望的な文字を私は発見してしまった。絶対に補習は嫌だ!友達と遊びに行きたいし、夕方の再放送のドラマも見れないし。絶対に来週の補習は逃れたい。
ちらりと反対側の窓際に座る亜久津君を見る。ヤンキーだから多分こんなプリント真面目にやらないんだろうな。しかし私のその考えは崩れ落ちた。少しも迷う事なくすらすらとシャーペンを動かし、プリントを進めている。なんでこういう時には真面目なんだ!私は内心めちゃくちゃに焦っていた。このままじゃプリントは終わらない。
今から校内に残っている友達を探して教えてもらおうか、いやだめだ、もう仲良い子達はさっき集団で帰っていった。更に血の気が引いた気がする。何故たった学年で二人だけの補習の相手が亜久津君なのだろう。友達だったら楽しんで補習を受けることが出来たのに。
私は反対側の遠くの席から亜久津君をガン見していた。回答が分からないので教えて下さい、そうお願いしたら殺されるかどうか考えながら。

「何見てんだよ」

亜久津君が私の目線に気がついた。いつもの怖い顔のまま、私を睨んだ。やはり空気になっておくべきだった、怖すぎる。今更になって後悔した。

「あの、本当に、本当に申し訳ないんですけど…答えが分からないので教えてもらえると嬉しいです」

「なんで敬語なんだよ、お前隣のクラスの奴だろ」

そりゃあ亜久津君が怖いからだよって笑ってみようかと悩んだけどやめた。私の命の保証はない。
ちょっと緊張してて…と適当に愛想笑いして、私は自分のプリントに目線を戻した。亜久津君に聞いた私が悪かった、ただ自分の寿命を縮めただけになってしまった。
来週も補習を受けるか、私は適当な答えで白枠を埋めていくことにした。これはy3、これはなんとなく2って書いておこう。間違っている事を確信しながら、早くプリントを終えてしまいたい一心で筆を早めた。

「どこだよ」

静かだった教室に亜久津君の声が小さく響いた。多分、私に話しかけたんだ。驚いて亜久津君の方を見る。相変わらず顔は怖いままだった。

「どこが分かんねえのかって聞いてんだよ」

「え、亜久津君教えてくれるの?」

「誰も教えねぇとは言ってないだろ」

早く言えよ、亜久津君は少しイラついた様子で私の方を向く。私は少し怯えながらも急いで問3の問題を口にした。早く言わないと殴られるかもしれない。

「なんでこんな簡単な問題が分かんねーんだよ」

亜久津君は呆れたように言い、私を見る。
そうですよね、仰る通りです。でもこの四日間、私は空気になるのに忙しかったんです。貴方が怖すぎて。
ごめんねと謝り、へらへらと亜久津君に笑った。それを見た彼は眉間にしわを寄せて舌打ちをした。怖い、もう一生笑わない。今、心に決めた。

「こっち来い」

亜久津君は座っている隣の席を指差しした。確かに空いている。誰も座っていない。こっちに来いって事は、私にそこに座れと言っているのだろうか。私は恐怖で倒れそうになりながら固まる。

「早くしろ」

「でも」

「うるせえ早くこっち来いって言ってんだろ」

これは、ほぼ命令だ。亜久津君に言われたら行くしかない。逆らう勇気が私にはない。私は机の上の筆箱とプリント三枚を持ち、席を立ち恐る恐る亜久津君の席の近くに向かう。
早く座れ、亜久津君は自分が座る隣の席を目配せし、私に座るように指示をした。
やっぱり、亜久津君の隣の席に座れって事か!私は驚き、亜久津君の顔色を伺った。やっぱり凄く怖い顔してた。恐怖で身の危険を感じた私は、素直に彼の隣の席に着席した。

「こ、こんな隣の席だなんて緊張しちゃうね」

「早く問題解けよ」

せっかく場を和ませようとしたのに!キレられた!彼の隣の席の女の子は、毎日さぞかし怖い思いをしているだろう。今、顔も知らない彼女に凄く同情している。
今すぐに逃げ出したい気持ちを抑えて、シャーペンを手に取りプリントに向かう。やはり問3から解く事ができない。

「何でこの答えがy3になるんだよ。お前、公式間違えてんだろ」

「やっぱり間違えてる?公式覚えるの苦手で…」

「んなもん教科書に載ってるのを覚えるだけだろ」

出た!頭の良い人が言う「公式は覚えるだけ」!私には無縁の台詞を亜久津君はさらりと口にした。
しかも私の名前は「お前」じゃないです。それも言えない、怖いから。隣からの威圧感が凄い。亜久津君、座ってても背高いんだね。

「最初からやってみろ、見ててやるから」

上から目線だけど心強い。彼は肘をつきながらも私の手元を見てくれている。不良の亜久津君が頭が良い事に驚きながらも、私は無い頭を使い計算していく。
そこが違う、どこ?、今書いた所はこうすんだよ。
亜久津君は私が座る机に少し身体を寄せて、机の上のプリントに指を置いた。シャーペンの先と亜久津君の指が触れる、私の指とは全く違う男の子の指先が。
彼は馬鹿だとか、何で分かんねぇんだよと威圧しながらも、私に問題の解き方を教えてくれた。驚く事に亜久津君の教え方はとても分かりやすく、怖い事を除けば先生より優れているのではないかと私は密かに思った。(褒めたらうるさいと殴られるかもしれない)
亜久津君の腕が時たま私の身体に触れそうになり、隣に座る私は身構えていた。彼はそれを意識していないのか特に気にする様子もなく、私に教えながら自身のプリントを終わらせていた。
プリントから視線を移して亜久津君の様子を伺おうと彼の顔をそっと下から覗きこんだ。当然、彼の顔を見るのだから目線が合う。そうだ、この前拾ってくれたペンのお礼言ってない、彼の怖い顔を見て思い出した。

「何だよ見てんじゃねえよ」

「この前、ペン拾ってくれてありがとう」

「…んなもん知るか」

「え、でも、先生が亜久津君が拾ってくれたの見たって言ってたよ」

「うるせえ。さっさと忘れろ」

早く問題解けよ。彼は照れ隠しのように話題をそらして、私のシャーペンの先を指で跳ねた。
今のは照れ隠しなのか?あの不良で手のつけられない亜久津君が?照れた?
今さっきまで私は亜久津君の事は怖い、乱暴、傍若無人のイメージでしかなかった。たった今、亜久津君の新たな一面を少し見ただけで、彼に対する怖いというイメージが一瞬にして崩れた。
頼まれてもいないのにペンを拾いお礼を求める事もなく、態度は悪いけれど私に勉強を教えてくれたり。

「亜久津君って、本当は優しいんだね」

「ふざけてんなら教えてやんねーぞ」

「ごめんね、やっぱり優しくないです」

何だよと亜久津君は口角をあげて笑い、それを見た私は一瞬、身を焦がすような感情にさいなまれた。
いやいや、ない。まさか、あの恐怖の亜久津君にときめいたなんてありえない。早く次に進めと急かす彼の声にハッとし、私は鼓動が早くなった自身の胸に気付かないふりをして再度プリントに向かった。
亜久津君は、隣の席で変わらず暇そうにしている。その横に座る、一人ドキドキしている私。
いつも無言だった教室は、私達の話し声が小さく響いている。胸の音が他人に聴こえない音でよかった、密かに思った私は問題を解く事に無理やり集中した。



ついに憂鬱だった補習は五日目を迎えた。
昨日は結局私のプリントが終わるまで、亜久津君は隣の席で解き方を教えてくれた。
あれから暇を度々みつけ、彼と少し喋ることが出来た。
何で頭良いのに補習に呼ばれたのかと聞けば、授業をサボりまくったからだと彼は答え、私は納得し静かに笑った。
プリントを何とか終わらせた私は、教えてもらったお礼に亜久津君の分のプリントも先生まで渡しに行った。教室に戻った時には既に彼は帰宅していて、それがまた亜久津君らしいと私は教室で一人で再度笑った。
昨日の補習は今までの補習の中で一番有意義だったと思う。地獄だったはずの一時間は、昨日は確かに亜久津君との楽しい(?)一時間だった。
怖いはずの彼の隣が凄く居心地がよかった。私はそれに驚いているし、私を隣に座らせた亜久津君に対して少し興味を抱いている。
今日で補習が終わる。明日は土曜日。一昨日の私だったら大喜びしていただろう。今の私はこの補習が終わるのを寂しいとまで思っている。これを友達に話したら恐らく馬鹿にされて笑われるだろう。
教室の扉を開ける。中にはいつもの窓際の席に座る亜久津君だけ。彼はいつもの怖い顔で私を見た。初日は鬱陶しそうな顔をしていた彼も、私に慣れたのかもしれない。
私は扉も閉めずに、恐る恐る特等席に向かう。その特等席に座るには、彼の許しを貰わなければならない。亜久津君の席に近づいた私は、彼に問いかける。

「亜久津君の隣に座ってもいい?」

勝手にしろ。興味なさそうに返事をした亜久津君の隣の椅子を引き腰を下ろせば、今日は教えねぇぞと耳が痛くなる言葉を私に投げつけた。
最終日には遅刻しなかった先生が教室に入ってくるなり、窓際の席に隣同士で座る私達を見て驚いていた。声には出さなかったものの、一瞬立ち止まり困惑した表情を見せた先生に対して私は静かに笑った。なんだなんだと先生は独り言のように呟き、私達に声をかけた。

「くっついて座るなら真ん中の席に座れよ」

先生は困ったように苦笑いをして、教卓にプリントと教科書を置き最後の補習を開始した。
2/2ページ