★彼氏と彼女
SNSのトップ画を二人の写真にしないのは、彼氏がやめてほしいと言ったから。部活動に入らないのは、放課後に彼氏の家に遊びに行くから。スカートの丈が短いのは、彼氏がこの丈が好きだと言ったから。下着が同じ系統ばかりなのは、彼氏の好みだから。
私は、一つ年上の彼氏が大好きだ。
「お前の男、浮気してるぞ」
心臓がどくんと音を立てずに波打った。亜久津君と二人きりの美術室は静かで、廊下にすら人がおらずしんとしていた。掃除の為だけに開けられた窓からは暖かい風が吹き、ふざけて遊ぶ男子達の楽しそうな声がどこからか聞こえた。どういう事?私は亜久津君が言った言葉の意味が理解できず、何の冗談だろうと笑いながら聞き返した。
二人で掃除するように設定されたまあまあ広いこの美術室で、堂々と一人掃除をサボる亜久津君への好感度は低い。更に言えば喋った事も関わった事もない、怖い不良のイメージしかない彼の好感度は元より最底辺に近い。そんな彼は、いきなり爆弾のような台詞を吐いた。
「クソみたいな男だな」
どういう事、の返答は貰えないようだった。浮気してるって、クソみたいな男って。それが例え本当の事であっても、亜久津君に何か関係があるんだろうか。
彼の突然の言葉に動揺した私は、ゴミを集めたちりとりを落としそうになった。それを見た亜久津君は鼻でため息をついていた。言葉の意味を理解できないままの私を置いて、彼は再度口を開いた。
「昨日の夜、同じ高校の女といた」
「昨日って…」
「腕組んで駅前歩いてた」
亜久津君は顔色一つ変えずに淡々と私に告げていった。昨日って、確か彼氏はバイトだったはずだ。だから私と会う予定を入れなかったし、まさか他の女の子と会っているなんて。そんな事考えたくも、聞きたくもなかった。半信半疑のまま嘘言わないで、私はそう言って苦笑いをした。
「亜久津君、私の彼氏知ってるの?」
「よく学校まで迎えに来てんだろ、性欲丸出しの馬鹿面晒して」
「せ…性欲って…」
「やりたいだけってのが丸わかりなんだよ」
亜久津君は机の上に座り、つまらなさそうに校庭を見ながら呟いた。窓から吹き込んだ風が彼の髪を揺らす。なんだか見慣れないこの光景に、私は息が詰まりそうだった。
先生達によって決められたクラスが偶然同じで、運で決まった席が近くて班が一緒だった。みんなが口を揃えて嫌がった亜久津君との美術室の掃除を、班の人達は押し付け合い半ば強制的に私に決められた。だから今週の掃除場所は亜久津君と私の二人だけ。たったそれだけの共通点。
亜久津君と私は殆ど会話をしたことがない。思い返しても一言二言、言葉を交わしたことがあるかどうか分からないくらい。
だから亜久津君が私の彼氏の顔を覚えているのにはかなり驚いた。彼は私の名前や顔なんて覚えておらず、クラスメイトだとさえ認識していないと思っていたから余計にかもしれない。私は亜久津君が先生から呼び出しをくらったり、同じクラスの千石君とごく稀に会話をしているのを何度か見かけていた。そんな深くもなんともない、あっさりとしているつまらない関係性だった。
彼はこの学校では有名な手のつけようのない不良で、私は模範的なただの中学生。彼は私をどうしたいのだろうか、からかっているのか、貶 しているのか、まさか慰めるつもりなのか。突然の言葉に私は困惑していた。
「それ言いにわざわざここに来たの?」
私は浮気してるなんて信じないからね。
落ち着いて、ゆっくりと、なるべく平然を装って返答をした。いつもは掃除の時間にはどこかに消えてしまうのに、私の彼氏が浮気しているという事だけを彼は伝えにきたのか。いい身分だね、嘘か本当か分からないような事を伝えられた私の気持ちも考えずに。
胸が苦しく息詰まった。本当は今にも泣き出しそうだけれど、泣いてしまえば亜久津君の思い通りになる気がした。誤魔化すために下を向き、たった今綺麗にしたばかりの床を箒ではいた。
「あいつはやめとけ」
亜久津君は私をいつもの鋭い目つきでちらりと見て、そのまま教室から出て行った。
今日は一体何だったんだろう。いつも掃除の時には姿を見せる事なく、ホームルームでさえすっぽかして帰るような人なのに。
「…変な男なんかじゃないよ、亜久津君に何が分かるの」
一人きりになった美術室で、私は小さく呟いた。
「待ってたよ、遅かったね!」
今日も学校を終えた彼氏が、山吹の校門までわざわざ私を迎えに来てくれた。
今日は疲れた?、宿題ある?、俺見てやるから家来いよ。にこにこと笑顔を作り言葉巧みに私の機嫌をとる彼氏を見て、性欲丸出しの馬鹿面。亜久津君の言葉を思い出し、少し笑ってしまった。その通りかも、彼は意外にも彼氏の事を的確に表しているかもしれない。
その言葉の後に続いた「やりたいだけってのが丸わかり」。それも当たってるな、私は妙にテンションの高い彼氏の横を歩きながらそう思った。現に彼氏は人目も憚 らずに私の腰に手を回し、隙を見て胸を触ろうとしてくる。
恥ずかしいしみっともないからやめようよ、別にいいじゃん気にすんなよ!
反抗しても彼氏はヘラヘラと笑い、男の強い力で私の肩を抱く。多少の不快感を感じながらも私は反論も否定もできず、いつものように彼氏の家に向かう。初めて付き合った彼氏だし、毎日のように学校まで迎えに来るし、連絡も頻繁にとっている。きっと彼は私の事を本気で好いてくれているんだ、私は付き合ってからそう思い続けてきた。
あの男はやめとけ。今日亜久津君に言われた言葉が頭にふっと浮かんだ。私は今この状態を誰かに見られていないか心配になり、周りをそっと見渡した。どうかした?、彼氏のヘラヘラとした笑いに私はまた誤魔化され、何でもないよ。そう言って亜久津君の言葉を忘れようとした。この姿をどうか亜久津君に見られていませんように。不安にさせられる話なんてもう聞きたくない。
早く家行こうぜ。急かす彼氏に優しく手を繋がれて、私はそのまま指を絡めた。私はこの優しい彼氏が大好きだ。でも彼氏が優しくしてくれるのは行為をする直前まで。それを幾度となく知らされている私は自分自身をごまかし、言われるがままに彼氏の家へと向かった。
「じゃあね、帰り気をつけて!」
うん、またね。私が玄関の外で小さく手を振ると、彼氏は笑いながらゆっくりと扉を閉めた。家に向かう時はあんなに私の体調を気遣い、場を盛り上げる為に饒舌 になり、身体をベタベタと触っていたのに。事が済み、私が帰宅する時にはあっさりと玄関の扉を締めて一人で帰路につかせる。
寂しいな、少しでもいいから送ってくれたら嬉しいな。そんなわがままなのか悩んでしまうような事を、伝えたら彼氏はどんな反応をするのだろう。きっと面倒くさがり不機嫌になるか、適当にヘラヘラと笑って誤魔化すだろう。大好きな彼氏に嫌われたくない。そう思っている私には言えるはずもなく、私は一人孤独に家に向かった。
「お前の男、浮気してるぞ」
亜久津君の放った言葉が、一人で歩く私の頭を駆け巡った。
SNSのトップ画を二人の写真にしないのは、私の存在を友達に知られたくないから。私に部活をしてほしくないのは、放課後にセックスができなくなるから。スカートの丈が短いのはただの興奮材料。下着は全部、彼氏の趣味。
なんとなく気がついていた、最初から彼氏が私に本気じゃない事は。行為の前だけ優しくなったりだとか、たまに数時間連絡が取れなくなったりした事とか。私は今までわざと気づかないように目をそらしてきたのに。
浮気してる、やりたいだけ、あいつはやめとけ。そうやって亜久津君は、私が自分自身にもひた隠しにした本当の事をあっさりと述べた。
恐らく彼の言う事は本当の事だろう。私は真実なんか知りたくなかった、知ったところで何にもならない。今までの自分のしてきたことが無駄になり、騙されていると気づくのにひどく怯えていた。
私は彼氏に愛されていないのかもしれない。その心配はいつしか常につきまとう不安となり、そして今日は確信に変わった。
家までの帰り道、もうすでに夕空は暗くなり始めていた。楽しそうに会話をして歩く女子高校生達。彼氏と電話しているであろう女の子。手を繋ぎ一緒に帰宅している、制服を着た仲睦まじい私と同世代の恋人。
周りを歩く人がみんな幸せそうに見えた。私は胸を押しつぶされているような気分になって思わず泣きそうになり、必死に地面を向いて歩いた。
その次の日。ひどく憂鬱な気分になりながらも真面目な私は朝からしっかりと授業を受け、いつも通りに給食を残さず食べ、休み時間には友達と当たり障りのない会話をして過ごした。
もうすぐ掃除の時間が来る。けれど未だ姿を現さない亜久津君に、私は安堵していた。全く接点のなかった私に突然彼氏の悪口をいい、付き合うのをやめろと忠告をした亜久津君。昨日の彼は一体何だったんだろう。
休み時間終了を知らす聴き慣れたチャイムが教室のスピーカーから聞こえた。私は友達と会話をするのをやめ適当な挨拶をし、一人で掃除場所の美術室へと向かおうとした。閉まったままのドアを開けて出ようとすると、教室に入ろうとした男子生徒とぶつかりそうになった。
ぶつかるギリギリの所で私はなんとか立ち止まることができ、ごめんね。そう言って謝り顔をあげると、目の前にいたのは今一番会いたくない亜久津君だった。全ての授業が終わり、もう掃除しかする事がないのに。堂々と大遅刻をして手ぶらで登校してきた亜久津君は、いつもの不機嫌そうな顔で私をちらりと見た後、一言も交わす事なくそのまま教室へと入っていった。彼が横を通るとふわりと煙草の匂いがした。そんな香りを嗅いだ私は、やけに気が重かった。
「昨日もあの男と帰っただろ」
イラついたように亜久津君は口を開いた。昨日と変わらない態度に、彼氏と付き合うなの意味を込めた言葉。
「あいつ昨日の夜も駅前に違う女といたぞ」
馬鹿じゃねえの、あんだけ忠告してやったのに。攻撃にも近い刺々しい言葉を私に浴びせて、私は一人だけ真面目に箒をはきながら亜久津君を睨んだ。
まるで掃除だけをしにきた様な彼に、私は顔を合わせたくなかった。二人でやることになっている掃除を一人で黙々とする私に構うことなく、亜久津君は窓際の机の上に座り堂々と掃除をサボっていた。やっぱり私の彼氏の悪口を言いにきただけなのか、そう思うとさっきよりも気が重くなった。
「昨日はバイトって言ってたから人違いだよ」
「俺は記憶力いいから間違わねぇ」
「それが本当でも亜久津君には関係ないよ、私達の問題だもん」
売り言葉に買い言葉。いつも人と口喧嘩なんてしない私は珍しく反抗をした。あのな、そう呟いて亜久津君は黙り込み、苛立ちを隠さずにいた。私はそんな亜久津君を無理やりにでも無視をする。そんなの信じていません、亜久津君には関係ないです。私はその一点張りで突き通そうとした。
「自分を大事にしろって言ってんだよ」
彼は少し声を荒げた。私は驚き思わず手を止めて顔を上げ、身体を震わせた。そんな私を今度は亜久津君が無視をし、私に言い聞かせる様に喋り続けた。
「自分で分かってんだろ、そいつに大事にされてないのが。考えりゃ分かるだろ」
普段教室で見る時よりも怖い顔をしている彼はいつもより怒っているのか、これが本当の顔なのか。普段喋った事のない私には分からずに、只々彼の言葉を聞くことしかできなかった。
亜久津君は腰を下ろしていた机から突然立ち上がり、私の方に向かい歩き出した。
私は思わず後退りをした。けれど亜久津君は私の目の前まで遠慮なく進み、立ち止まると私をほぼ真上から見下ろした。
「そいつと別れて俺と付き合え。絶対にお前を大事にしてやるから」
目の前に立つ亜久津君が、私に告白らしきものをした。私の大好きな彼氏を散々馬鹿にして、そいつと別れて俺と付き合え、確かにそう言った。
突然の事に一瞬たじろいだ私は床を見た。亜久津君は本気なのか、私をからかいたいだけなのか。普段から関わりのない彼の本心が読み取れず、私はどういう顔をすればいいのか分からなくなった。
顔をあげて亜久津君の反応を見る勇気もない。冗談やめてよ、そんな風に笑いながらこの場を茶化せる陽気さもない。意味もなくはきつづけたゴミひとつない床を、私は見るしかなかった。
「馬鹿にしないでよ、亜久津君は私をどうしたいの?」
「馬鹿になんざしてねえよ」
「彼氏がやりたいだけとか、亜久津君と付き合えだとか、そんなに私をからかって楽しい?」
思わず声を張り上げた。この学校で亜久津君に意見出来る人は先生くらいしかいないだろう。真面目で、特に目立つ様な生徒でもなんでもない私が。山吹一の不良とされる亜久津君に、こんなに堂々と意見する日が来るとは思いもしなかった。
亜久津君は私が反論しても驚くどころか何事もない様な顔をして黙っていた。目が泳ぐ様子も、引く様子もない。平然と私を見下ろしている彼の目を見て、今度ははっきりと告げた。
「もう私に構わないで、からかったりしないで」
殆ど喋ったこともないのに、私の何が分かるの?
そういったけれど、本当は図星だったのだ。彼氏が浮気をしている事も薄々感づいていたし、本気で好かれていない都合のいい女だという事も、それでも彼氏の事が好きで好きで仕方がない事も。全て、認めたくない事をあっさりと亜久津君に指摘されてしまった。私はそれが悔しかったし恥ずかしかった。
「悪い」
亜久津君はそれだけ言い残してついに引き下がり、私を美術室に残して出ていった。亜久津君の背中が廊下の向こうへと消えていく。私は箒を持ったままその姿を見ていた。
大好きな彼氏を馬鹿にした事も、気づかないようにしていた本当の事を見透かして指摘されるのも、私は全部嫌だった。
「私は亜久津君の事なんかちっとも好きじゃない」
本人に伝えるべき言葉は、声が小さすぎて届かなかった。突然外から強い風が吹き、音を立てて教室へと入り込んできた。ベージュのカーテンが独りでに風を受けて大きく揺れる。さっきまで煙草の匂いがしていた風が今はただ、やんわりと暖かいだけだった。
私は、一つ年上の彼氏が大好きだ。
「お前の男、浮気してるぞ」
心臓がどくんと音を立てずに波打った。亜久津君と二人きりの美術室は静かで、廊下にすら人がおらずしんとしていた。掃除の為だけに開けられた窓からは暖かい風が吹き、ふざけて遊ぶ男子達の楽しそうな声がどこからか聞こえた。どういう事?私は亜久津君が言った言葉の意味が理解できず、何の冗談だろうと笑いながら聞き返した。
二人で掃除するように設定されたまあまあ広いこの美術室で、堂々と一人掃除をサボる亜久津君への好感度は低い。更に言えば喋った事も関わった事もない、怖い不良のイメージしかない彼の好感度は元より最底辺に近い。そんな彼は、いきなり爆弾のような台詞を吐いた。
「クソみたいな男だな」
どういう事、の返答は貰えないようだった。浮気してるって、クソみたいな男って。それが例え本当の事であっても、亜久津君に何か関係があるんだろうか。
彼の突然の言葉に動揺した私は、ゴミを集めたちりとりを落としそうになった。それを見た亜久津君は鼻でため息をついていた。言葉の意味を理解できないままの私を置いて、彼は再度口を開いた。
「昨日の夜、同じ高校の女といた」
「昨日って…」
「腕組んで駅前歩いてた」
亜久津君は顔色一つ変えずに淡々と私に告げていった。昨日って、確か彼氏はバイトだったはずだ。だから私と会う予定を入れなかったし、まさか他の女の子と会っているなんて。そんな事考えたくも、聞きたくもなかった。半信半疑のまま嘘言わないで、私はそう言って苦笑いをした。
「亜久津君、私の彼氏知ってるの?」
「よく学校まで迎えに来てんだろ、性欲丸出しの馬鹿面晒して」
「せ…性欲って…」
「やりたいだけってのが丸わかりなんだよ」
亜久津君は机の上に座り、つまらなさそうに校庭を見ながら呟いた。窓から吹き込んだ風が彼の髪を揺らす。なんだか見慣れないこの光景に、私は息が詰まりそうだった。
先生達によって決められたクラスが偶然同じで、運で決まった席が近くて班が一緒だった。みんなが口を揃えて嫌がった亜久津君との美術室の掃除を、班の人達は押し付け合い半ば強制的に私に決められた。だから今週の掃除場所は亜久津君と私の二人だけ。たったそれだけの共通点。
亜久津君と私は殆ど会話をしたことがない。思い返しても一言二言、言葉を交わしたことがあるかどうか分からないくらい。
だから亜久津君が私の彼氏の顔を覚えているのにはかなり驚いた。彼は私の名前や顔なんて覚えておらず、クラスメイトだとさえ認識していないと思っていたから余計にかもしれない。私は亜久津君が先生から呼び出しをくらったり、同じクラスの千石君とごく稀に会話をしているのを何度か見かけていた。そんな深くもなんともない、あっさりとしているつまらない関係性だった。
彼はこの学校では有名な手のつけようのない不良で、私は模範的なただの中学生。彼は私をどうしたいのだろうか、からかっているのか、
「それ言いにわざわざここに来たの?」
私は浮気してるなんて信じないからね。
落ち着いて、ゆっくりと、なるべく平然を装って返答をした。いつもは掃除の時間にはどこかに消えてしまうのに、私の彼氏が浮気しているという事だけを彼は伝えにきたのか。いい身分だね、嘘か本当か分からないような事を伝えられた私の気持ちも考えずに。
胸が苦しく息詰まった。本当は今にも泣き出しそうだけれど、泣いてしまえば亜久津君の思い通りになる気がした。誤魔化すために下を向き、たった今綺麗にしたばかりの床を箒ではいた。
「あいつはやめとけ」
亜久津君は私をいつもの鋭い目つきでちらりと見て、そのまま教室から出て行った。
今日は一体何だったんだろう。いつも掃除の時には姿を見せる事なく、ホームルームでさえすっぽかして帰るような人なのに。
「…変な男なんかじゃないよ、亜久津君に何が分かるの」
一人きりになった美術室で、私は小さく呟いた。
「待ってたよ、遅かったね!」
今日も学校を終えた彼氏が、山吹の校門までわざわざ私を迎えに来てくれた。
今日は疲れた?、宿題ある?、俺見てやるから家来いよ。にこにこと笑顔を作り言葉巧みに私の機嫌をとる彼氏を見て、性欲丸出しの馬鹿面。亜久津君の言葉を思い出し、少し笑ってしまった。その通りかも、彼は意外にも彼氏の事を的確に表しているかもしれない。
その言葉の後に続いた「やりたいだけってのが丸わかり」。それも当たってるな、私は妙にテンションの高い彼氏の横を歩きながらそう思った。現に彼氏は人目も
恥ずかしいしみっともないからやめようよ、別にいいじゃん気にすんなよ!
反抗しても彼氏はヘラヘラと笑い、男の強い力で私の肩を抱く。多少の不快感を感じながらも私は反論も否定もできず、いつものように彼氏の家に向かう。初めて付き合った彼氏だし、毎日のように学校まで迎えに来るし、連絡も頻繁にとっている。きっと彼は私の事を本気で好いてくれているんだ、私は付き合ってからそう思い続けてきた。
あの男はやめとけ。今日亜久津君に言われた言葉が頭にふっと浮かんだ。私は今この状態を誰かに見られていないか心配になり、周りをそっと見渡した。どうかした?、彼氏のヘラヘラとした笑いに私はまた誤魔化され、何でもないよ。そう言って亜久津君の言葉を忘れようとした。この姿をどうか亜久津君に見られていませんように。不安にさせられる話なんてもう聞きたくない。
早く家行こうぜ。急かす彼氏に優しく手を繋がれて、私はそのまま指を絡めた。私はこの優しい彼氏が大好きだ。でも彼氏が優しくしてくれるのは行為をする直前まで。それを幾度となく知らされている私は自分自身をごまかし、言われるがままに彼氏の家へと向かった。
「じゃあね、帰り気をつけて!」
うん、またね。私が玄関の外で小さく手を振ると、彼氏は笑いながらゆっくりと扉を閉めた。家に向かう時はあんなに私の体調を気遣い、場を盛り上げる為に
寂しいな、少しでもいいから送ってくれたら嬉しいな。そんなわがままなのか悩んでしまうような事を、伝えたら彼氏はどんな反応をするのだろう。きっと面倒くさがり不機嫌になるか、適当にヘラヘラと笑って誤魔化すだろう。大好きな彼氏に嫌われたくない。そう思っている私には言えるはずもなく、私は一人孤独に家に向かった。
「お前の男、浮気してるぞ」
亜久津君の放った言葉が、一人で歩く私の頭を駆け巡った。
SNSのトップ画を二人の写真にしないのは、私の存在を友達に知られたくないから。私に部活をしてほしくないのは、放課後にセックスができなくなるから。スカートの丈が短いのはただの興奮材料。下着は全部、彼氏の趣味。
なんとなく気がついていた、最初から彼氏が私に本気じゃない事は。行為の前だけ優しくなったりだとか、たまに数時間連絡が取れなくなったりした事とか。私は今までわざと気づかないように目をそらしてきたのに。
浮気してる、やりたいだけ、あいつはやめとけ。そうやって亜久津君は、私が自分自身にもひた隠しにした本当の事をあっさりと述べた。
恐らく彼の言う事は本当の事だろう。私は真実なんか知りたくなかった、知ったところで何にもならない。今までの自分のしてきたことが無駄になり、騙されていると気づくのにひどく怯えていた。
私は彼氏に愛されていないのかもしれない。その心配はいつしか常につきまとう不安となり、そして今日は確信に変わった。
家までの帰り道、もうすでに夕空は暗くなり始めていた。楽しそうに会話をして歩く女子高校生達。彼氏と電話しているであろう女の子。手を繋ぎ一緒に帰宅している、制服を着た仲睦まじい私と同世代の恋人。
周りを歩く人がみんな幸せそうに見えた。私は胸を押しつぶされているような気分になって思わず泣きそうになり、必死に地面を向いて歩いた。
その次の日。ひどく憂鬱な気分になりながらも真面目な私は朝からしっかりと授業を受け、いつも通りに給食を残さず食べ、休み時間には友達と当たり障りのない会話をして過ごした。
もうすぐ掃除の時間が来る。けれど未だ姿を現さない亜久津君に、私は安堵していた。全く接点のなかった私に突然彼氏の悪口をいい、付き合うのをやめろと忠告をした亜久津君。昨日の彼は一体何だったんだろう。
休み時間終了を知らす聴き慣れたチャイムが教室のスピーカーから聞こえた。私は友達と会話をするのをやめ適当な挨拶をし、一人で掃除場所の美術室へと向かおうとした。閉まったままのドアを開けて出ようとすると、教室に入ろうとした男子生徒とぶつかりそうになった。
ぶつかるギリギリの所で私はなんとか立ち止まることができ、ごめんね。そう言って謝り顔をあげると、目の前にいたのは今一番会いたくない亜久津君だった。全ての授業が終わり、もう掃除しかする事がないのに。堂々と大遅刻をして手ぶらで登校してきた亜久津君は、いつもの不機嫌そうな顔で私をちらりと見た後、一言も交わす事なくそのまま教室へと入っていった。彼が横を通るとふわりと煙草の匂いがした。そんな香りを嗅いだ私は、やけに気が重かった。
「昨日もあの男と帰っただろ」
イラついたように亜久津君は口を開いた。昨日と変わらない態度に、彼氏と付き合うなの意味を込めた言葉。
「あいつ昨日の夜も駅前に違う女といたぞ」
馬鹿じゃねえの、あんだけ忠告してやったのに。攻撃にも近い刺々しい言葉を私に浴びせて、私は一人だけ真面目に箒をはきながら亜久津君を睨んだ。
まるで掃除だけをしにきた様な彼に、私は顔を合わせたくなかった。二人でやることになっている掃除を一人で黙々とする私に構うことなく、亜久津君は窓際の机の上に座り堂々と掃除をサボっていた。やっぱり私の彼氏の悪口を言いにきただけなのか、そう思うとさっきよりも気が重くなった。
「昨日はバイトって言ってたから人違いだよ」
「俺は記憶力いいから間違わねぇ」
「それが本当でも亜久津君には関係ないよ、私達の問題だもん」
売り言葉に買い言葉。いつも人と口喧嘩なんてしない私は珍しく反抗をした。あのな、そう呟いて亜久津君は黙り込み、苛立ちを隠さずにいた。私はそんな亜久津君を無理やりにでも無視をする。そんなの信じていません、亜久津君には関係ないです。私はその一点張りで突き通そうとした。
「自分を大事にしろって言ってんだよ」
彼は少し声を荒げた。私は驚き思わず手を止めて顔を上げ、身体を震わせた。そんな私を今度は亜久津君が無視をし、私に言い聞かせる様に喋り続けた。
「自分で分かってんだろ、そいつに大事にされてないのが。考えりゃ分かるだろ」
普段教室で見る時よりも怖い顔をしている彼はいつもより怒っているのか、これが本当の顔なのか。普段喋った事のない私には分からずに、只々彼の言葉を聞くことしかできなかった。
亜久津君は腰を下ろしていた机から突然立ち上がり、私の方に向かい歩き出した。
私は思わず後退りをした。けれど亜久津君は私の目の前まで遠慮なく進み、立ち止まると私をほぼ真上から見下ろした。
「そいつと別れて俺と付き合え。絶対にお前を大事にしてやるから」
目の前に立つ亜久津君が、私に告白らしきものをした。私の大好きな彼氏を散々馬鹿にして、そいつと別れて俺と付き合え、確かにそう言った。
突然の事に一瞬たじろいだ私は床を見た。亜久津君は本気なのか、私をからかいたいだけなのか。普段から関わりのない彼の本心が読み取れず、私はどういう顔をすればいいのか分からなくなった。
顔をあげて亜久津君の反応を見る勇気もない。冗談やめてよ、そんな風に笑いながらこの場を茶化せる陽気さもない。意味もなくはきつづけたゴミひとつない床を、私は見るしかなかった。
「馬鹿にしないでよ、亜久津君は私をどうしたいの?」
「馬鹿になんざしてねえよ」
「彼氏がやりたいだけとか、亜久津君と付き合えだとか、そんなに私をからかって楽しい?」
思わず声を張り上げた。この学校で亜久津君に意見出来る人は先生くらいしかいないだろう。真面目で、特に目立つ様な生徒でもなんでもない私が。山吹一の不良とされる亜久津君に、こんなに堂々と意見する日が来るとは思いもしなかった。
亜久津君は私が反論しても驚くどころか何事もない様な顔をして黙っていた。目が泳ぐ様子も、引く様子もない。平然と私を見下ろしている彼の目を見て、今度ははっきりと告げた。
「もう私に構わないで、からかったりしないで」
殆ど喋ったこともないのに、私の何が分かるの?
そういったけれど、本当は図星だったのだ。彼氏が浮気をしている事も薄々感づいていたし、本気で好かれていない都合のいい女だという事も、それでも彼氏の事が好きで好きで仕方がない事も。全て、認めたくない事をあっさりと亜久津君に指摘されてしまった。私はそれが悔しかったし恥ずかしかった。
「悪い」
亜久津君はそれだけ言い残してついに引き下がり、私を美術室に残して出ていった。亜久津君の背中が廊下の向こうへと消えていく。私は箒を持ったままその姿を見ていた。
大好きな彼氏を馬鹿にした事も、気づかないようにしていた本当の事を見透かして指摘されるのも、私は全部嫌だった。
「私は亜久津君の事なんかちっとも好きじゃない」
本人に伝えるべき言葉は、声が小さすぎて届かなかった。突然外から強い風が吹き、音を立てて教室へと入り込んできた。ベージュのカーテンが独りでに風を受けて大きく揺れる。さっきまで煙草の匂いがしていた風が今はただ、やんわりと暖かいだけだった。
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