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薄氷の割れる日/夢主
※夢主(子供)の売春および性的シーンがあります。アルマがまだ歩くのもおぼつかなかった頃、両親にくっついて夜歩きをしたのを覚えている。
何か理由があって家に置いておけなかったのだろう。その日の両親は店員に金を握らせて短時間の子守を頼んだ。
店員は面倒くさがりながらも承諾し、アルマをカウンターの裏側に連れ込んだ後、静かにしているよう命じた。言われずともアルマは騒ぐつもりはなかったのだが、あらゆるものに興味をひかれる時期ではあったので、裏口からひょこっと顔を出してみたりして遊んでいた。
そして何度か繰り返した時、酒場の裏で絡み合う男女とかち合った。
体を絡み合わせ、時折水音めいたものも聞こえてくる。ずいぶん近くでお話するんだなあ、なんてぼんやり見上げていたら、場違いな子供の存在に気がついた二人はアルマを煩わしそうに追い返したのだった。
今考えれば、彼らは盛り上がっている最中だったに違いない。場所を変えずおっぱじめるくらいに熱い夜なんて想像もつかないが、そこにガキがやってきたとなればそりゃあ邪魔である。アルマ達のように幼い子供が知識どころか実践までしているなんてよくあることだが、それでも子供に見られるというのは、やはり気まずいものがあるのかもしれない。
実際に見られる側に立つと、あの時の男女はよく怒らなかったな、なんて思う。
少し広めの路地裏で、アルマは木箱の上にいた。宿代を惜しんだ客に体を揺さぶられながら、ちょうど大通りから逃げ込んできた兄弟と目が合った。彼らに見せたことのない白いワンピースを腰上までまくり上げ、肌を晒して男と抱き合うアルマを、二人は呆然と見上げていた。
今日の彼らは比較的傷が浅い。血もあまり滲んでいないし、両手にパンやら果物やらを抱えている。遠くで怒り狂った罵声が聞こえるあたり、店に石でも投げつけたのか。数日前なんて虫の息で逃げ帰るのを目撃してしまったから、元気そうでなによりだ。
しかしなるほど、これは追い払いたくもなる。何をしているんだ、と言わんばかりにちび――ロシナンテが口を開けているのを見ると、表情豊かでないアルマでも眉をひそめそうになった。
一方ドフラミンゴは、知識が無いなりに異様な雰囲気を感じ取ったのか、慌てて弟の手を引き迂回しようとしていた。焦ったあまり、彼の手の隙間からりんごが一つ落ちるのが見えた。
ころころ転がったそれは、客の靴にぶつかって止まる。
客の男は腰をふるのを止め、足元を見、りんごがやってきた方向を確認した。明らかに盗みを働いた子供二人が足早に逃げる背中を捉え、首を傾げている。後ろ姿では例の「元」天竜人の子供達だと分からなかったらしい。
けれども自分より弱いやつを痛めつけるのが好きな男なので、このままでは追いかけ回しかねない。中に入れられている「それ」も固さを失いつつあり、慌ててアルマは男の胸に抱きついた。
「おい、邪魔だ!」
「まだ終わってないでしょ? あんなやつらどうでもいいじゃん」
「今日はもういい、萎えちまった」
「そう言わないで、途中で邪魔が入った分サービスするからさ」
以前見かけた色気たっぷりの先達を思い出しながら、アルマは指の先まで気合いを入れて誘いをかけた。男の胸に手を這わせ、目を伏せ気味に言葉を紡ぐ。
うまくいくかは賭けだった。この客は稼いだ金のほとんどを女に費やすほどの色好みだが、暴力だって同じくらい好きなのだ。一歩間違えれば矛先はアルマに向く。自分の目が泳いでいないかだけが心配だった。
――しかしそれも杞憂に終わった。
男の目の色が変わる。少女が「女」として振る舞ったときに向けられる、ぎらついた目。この瞬間、客達の顔つきそのものが変わっている気がして、アルマはいつも逃げたくなってしまう……逃げられるものなら。この目がを向けられる限り、アルマは商売ができる。売り物が逃げてはならないのだ。
とにかく、通常の値段のまま好待遇を仄めかされたことで男は上機嫌になっている。普段淡々と仕事をこなすアルマに誘われたというのも男の優越感をくすぐったらしい。
そうだ、そのまま私だけを見ていろ。食い荒らすなら私でいいだろう。
興奮を煽るように、男の脂ぎった肌へゆっくりと触れる。
ここから先どう動くかを考えながら、アルマはそっと足元に目をやった。艷やかなりんごが誰にも拾ってもらえぬままにぽつんと転がっている。さりげなく足先でつつくと、真っ赤な果実はあっけなく視界の端から消え去った。
街で見かける兄弟はいつだってぼろぼろだ。兄が弟の手を引いて、日に日に苛烈になっていく暴力の隙間を縫って生きている。
何不自由なく暮らしていたであろう子供が自分達と同じくらい落ちぶれた姿は、アルマの気持ちをほんの少し晴れやかにし、それ以上の苦痛を与えた。母親が死んで泣く。そんな弱さを持つ生き物だと知った今、アルマは振り上げた拳を彷徨わせている。
だが周囲は違う。
彼らは「天竜人」が憎いのだ。表立ってやり返すことを許されなかったこれまでの鬱憤を一家に向けている。現状を耐え忍ぶ中、それを生きがいにしている人もいる。復讐は活力になり得る。対象が、行いがこの様でなければアルマだって推奨したかもしれない。
深入りするんじゃなかった、と何度思ったことだろう。あの日の出会いさえなかったら、ここまで苦しまずに済んだはずなのに。関わる道を選んでしまったのは自分だ。どれだけ理由をつけようと、アルマ自身が選択したという結果だけが残る。
アルマは善人ではない。両親の気を狂わせた天竜人とあの一家は別人だと知っているだけだ。
もし両親の仇が目の前に現れたのなら、神であろうと生物であろうと殺しに行っただろう。一家を殺せば元の暮らしに戻れると言われたならば、迷わずに手をかける。苦しみが長引かないように、さっさと殺してみせる。
自分がそんな人間だと分かっているからこそ、アルマは正しさを人に説くことができなかった。みんなの前で「こんなことやめよう」だなんて、言えるはずがない。人々の怨嗟の声が理解できる身で、そんな綺麗事など。
そして甚振られたときの痛みも知っているアルマは、一家の惨状から目を背けることもできないのだ。
いつか痛みに慣れる日がくる。殴られるのが当たり前で、傷が完治することはなくて、罵声を浴びせられながら生活を続けていく。
すでに大人になってしまったあの父親はともかく、幼い兄弟であれば適応していける。人々は彼らをきっと、そう、殺しはしないだろう。かけがえのない「元天竜人」をいかに長く苦しめるか。それを優先するはずだから、死にはしない。大丈夫。彼らは少しずつ生きのび方を学んできているし、みんなの怒りをぶつけられたってかわせるようになる。
アルマは胸の内で繰り返す。助けなくていい理由を必死に探そうとしている。
少女の理性が嘲笑する。幻聴が現実の音と混ざり合う。
――――眼前に突如大柄な男が現れる。いや、ずっといたのだ。どれだけの間気を抜いていた? 客の様子は?
アルマはすぐさま仕事用の顔を作り、男の対応に戻る。男は怪訝な顔をしたまま金をぶらぶらとさせた。
「――おい、いらねェのか?」
「あ、いりますいります! ありがとう。ごめんなさい、ぼーっとしちゃって」
「はァ? 大丈夫かよ。病気になったらウリに来んなよ」
「もちろん」
へら、と笑みを浮かべ、投げられた金を落とさないように受け取って頭を下げる。機嫌を損ねないように下手に出ておけば、気の済んだ男は雑踏へと消えた。足止めのための「サービス」にも満足したようだし、因縁もつけられなかった。今日は無傷で過ごせそうだ。少女は静かに息を吐く。
軽く身支度を整えたし、次の客をとりにいこう。アルマがそう思って街中を歩いていると、建物の隙間からスッと小さな手が伸びてきて、彼女の腕を掴んだ。振り払う間もなくアルマはよろめき、手の持ち主の元に倒れ込む。
「わあ! いてて……」
「おい、ロシーを下敷きにするな」
のん気な声をあげた子供がアルマの下でうめいており、慌てて立ち上がる。その時触れた体のやわらかさも、少女を叱責した声も、なんだか懐かしいものだった。
「あんたら、まだいたんだ」
「もう少し食べ物確保してからにしようって、兄上が」
「そういう意味じゃなくて……」
ロシナンテに皮肉が通じずペースが崩れたが、兄――ドフラミンゴの方は口をひん曲げていたので少し安心する。ロシナンテはといえば、前髪のすき間から見える瞳がきらめいていて。明るい表情でアルマに話しかけるその頬はやわく、そして薄汚れていた。
「えっと、アルマさん、久しぶり!」
「……ん」
「さっき見かけたから、お話したいなと思って。その、転けさせちゃってごめんなさい」
「それは別にいいけど」
アルマのひねくれた精神では、ぶつかってしまったとしてもロシナンテへの謝罪は出力されない。ドフラミンゴの眉がキッと上がるのを横目に、恒例の「許してやる」顔で話を聞く。ロシナンテはなぜか言葉に詰まっていて、促す気持ちも込めてアルマは黙っていた。ドフラミンゴも弟を手助けするつもりはないようだった。
ドフラミンゴの立ち姿は、初めて会った時と比べてずいぶん貧民街に馴染んでいる。かつて貴族だったと言ってもすぐには信じてもらえないであろうその様は、アルマのような人間が触れても許されそうな雰囲気があった。
「…………」
「なに見てんだ」
「あんたも頑張ってんだな」
ふと「人間らしくなったね」と喉まで出かかって、なんとか別の言葉で誤魔化した。ドフラミンゴは「はァ?」と言わんばかりに顔を歪め、実際に言った。
しばらく見ないうちに、ドフラミンゴは「だえ」と言わなくなっていた。人々の会話から学び、自ら馴染むかのように言動を変えた。変えなくてはならなかった、と言うのが正しいかもしれない。
この街で生まれ育ったかのように荒々しい言葉を使い、粗野な振る舞いをする姿を見て、すぐに元天竜人だと気づく人はいないだろう。空より高いプライドを持ちながらも変化して見せたのが意外だった。
互いに街で見かけることはあれど、接触は極端に減った。これが久方ぶりの会話だった。彼の母が亡くなって以降、アルマは例の小屋に寄りつかないようにしていたのである。
彼らもある程度は生活に慣れてきたようであったし、ドフラミンゴ達の身のこなしも多少はマシになっている。何より、これ以上彼らに時間を割いていてはみんなに怪しまれる。この機会に縁を切るべきなのだ。奴らが生きようと死のうと関係ない。何度出ていけと言ってもついぞ出ていかなかったのが悪い。
言い訳を並べるアルマの脳内に、いつかの小舟がよぎる。かつて、一家を逃すために使ってやろうと思っていたあの舟が。
あれから一年以上の時が過ぎ、馬鹿なアルマにも現実が見えてくる。あんな小舟では北の海を越えられない。越えられるだけの強度があったとして、今度は飢えに苦しむことになる。一家全員――死んだ母親を抜きにしてもだ――を乗せてどこまで行ける? 陸で嬲り殺されるか海に沈んで水死体になるか。どちらもろくでもない結末が待っている。
そう分かった上で、アルマは舟をまだ残していた。叶わなくとも、夢物語めいた希望を自ら壊す勇気はなかった。
「アルマさんっ」
「なに」
ロシナンテの呼びかけが、ぐるぐる回るアルマの思考を打ち破る。なにかを決意したように彼が言う。問いかける声はやはり幼い。
「なんで最近来てくれなくなっちゃったの?」
「……あのね、そもそもあんたらんとこに行ってたのがおかしかったの。今が正常。それに、もう自分達だけで生きていけるでしょ」
「そんなことない! ぼく達頑張ってるけど、でも、ぼく、アルマさんに会いたかった。なのに……」
これは悪い流れだぞ、と察するのは早かった。アルマはロシナンテの拙い抗議をはいはいと打ち切り、「じゃあ行けそうな時行くから」と誤魔化して逃げようとした。
くっ、となにかに阻まれる。気のせいかと思うほどささやかな抵抗感。少女はしまったと言わんばかりに眉を寄せ、ゆっくり振り返る。
犯人なぞ分かっている。ロシナンテだ。
幼い少年がワンピースの裾をおそるおそるつまみ、しわにならない程度に引っぱっていた。振りほどこうとすれば簡単にできてしまう、なんてことない弱々しい力。その指先は震えている。ちらりと覗く瞳だけは、しっかりとアルマを見据えていた。
それがアルマを引き留めたいがための行動だと察してしまったものだから、あまりのいじらしさに少女はしばし無言になり、視線だけで兄の方へ助けを求めた。成り行きを見守る姿勢をとったドフラミンゴは、弟をたしなめるのをとうに諦めていたのだろう。アルマの視線を退け、顎で返事を促した。そんなドフラミンゴに舌打ちし、うなり声をあげた後、少女は言葉を絞り出す。
「仕事、あるから」
「いつ終わる?」
「……夜まであるし、そっち行く余裕ない」
「それなら、ぼく達が街に来る。ちょっとでも話してっ、ぼく達を無視しな――」
「――――だから! いっしょにいるとこ見られたくないんだってば!!」
ハッとして口を塞ぐ。衝動的に叫んだはずなのに、響き渡らないよう声を抑えていた。こんな状況でも人々の目を気にしている自分が滑稽だった。
少女の叫びは雑踏に紛れて消えた。拾い上げたのは、納得した顔のドフラミンゴと、前髪でも隠せないほど愕然としたロシナンテだけだ。
怒鳴られた衝撃でロシナンテの手が離れ、アルマはすり抜けるように立ち去った。これ以上顔を見てしまえば自分が何を口走るか分からなかった。
もしも目の前で泣かれたら、抱きしめてしまいそうな気がした。
***
アルマは客を取り続けた。何も考えたくなくて、人々のためになっているのだと思い込みたくて、その身を売り物にした。引き換えにいくばくかの金を得た。生活を楽にするには到底足らない、今日を生きぬく金に変わった。
この商売をしているとき、アルマは自分自身を切り替えられる。少なくとも、客がつく程度には媚を売れる。
それが少女にとって幸運であるのかは、生き延びた先の彼女しか知らないことだった。
夜が更け、春を売る者達にとってはここからが本番とも言える時間。少女は場を後にした。
疲れ果てた人々は酒と薬と女で苦しみを誤魔化している。そうでなければ、明日に備えて眠っている。
たかが少女一人、誰も気にしていないと知っていた。叔母ですら、少女がいなくなったってどうでもいいと思うだろう。
少女は街の一区画へ走っていく。この街で一番大きな場所。アルマの両親の眠る、墓場へと。
満月が生者と死者を等しく照らす。擦り切れたアルマの服が夜風で揺れる。いい加減次の靴を調達しなくちゃな、と考えながら墓地の土を踏む。
墓と呼ぶにはあまりにみすぼらしいそこに、両親はいた。正確には、両親を含む街の住民達が。
身元不明の死体は墓すら作られず一纏めにされる。家族がいる者でも、一人一つの墓を作ってやる余裕はない。アルマ達もその対象だった。
合同で建てられた墓に、両親の名前が刻まれている。ただそれだけだが、どこに行けば両親に会えるのかはっきりしているのは、重要なことだ。
――合わせる顔がないから、と避けるためにも。
両親は天竜人に連れて行かれたせいでおかしくなってしまった。帰ってきた彼らは、聖地でなにがあったのかを話すことすらできなかった。
自我を失うほどに耐え難い苦痛を与えられたのだろう。捨てられた後、運良く生きて戻ってきた。アルマは今の自分が幸福であるとは露とも思わないが、両親の受けた仕打ちに比べたら天国のようなものなのだと理解していた。愛する両親がそんな目に合わされて腸が煮えくり返っていた。
それなのに。アルマは天竜人を守ろうとしている。
自分の都合で両親を殺した挙げ句、復讐対象の天竜人を庇っている。
親不孝者どころではない。どの面下げて墓参りに行けばいいのか。自分の行いが街の人々に気づかれることを恐れると同時に、その罪深さで押しつぶされそうになっていた。ずっとずっと、墓場の近くにすら寄れなかった。
「お父さん、お母さん、ごめんなさい」
謝ることはたくさんあった。一つ一つ挙げ連ねたのなら夜が明けてしまう。それでもアルマは全部を打ち明けたくて、口を開いた。声がつまる。
――――何から謝ればいいの。
両親の命を奪い、そこまでしたのに不幸面していることも、叔母達に負担をかけていることも、重大な過ちだ。そして今、謝罪すべきは他にもある。天竜人の一家に肩入れして、街の人々を裏切っている事実を――。
――――謝らなくちゃ。私の考えは間違いでしたって、金輪際関わらないって宣言しなくちゃ、きっとお父さん達は安心して眠れない。
墓地に漂う淀んだ空気を吸い込みながら、アルマの頭の中ではすべきことがはっきりと示されていた。
けれど。それだけは駄目だと。心の内で、頭の隅で、誰かが言っていた。
その誰かが他でもない自分なのだと気づいた瞬間、彼女は無理やり言葉を絞り出した。
「わ、たし、もうあいつらに……天竜人、なんかに。関わらない……。馬鹿なことして、ごめんなさい。これからはちゃんとする。だから……」
「ちゃんとする」とはなんなのか。アルマ自身もよく分からない。だが、ドフラミンゴ達を害するのだと口にすることは避けてしまった。
死者は喋らない。少女の卑怯さを咎めるどころか、恨み言さえ言ってはくれない。アルマの懺悔は風に乗り流れていく。それすら誰にも届かない。
結局は自己満足なのだ。アルマは口を歪めた。ここで何を言おうと現状は変わりやしない、自分の気持ちを軽くするための茶番。
月光に照らされたことで、墓に記された両親の名前が一際浮かび上がって見え、アルマは手をかたく握りしめた。単なる文字だというのに、今の少女には責め立てる言葉として映った。
彼女は、きっとこれも自分の思い込みなのだと察していた。
バレずに済むのが一番いい。しかしアルマはこの綱渡りめいた状況が終わるのを待っていた。天竜人の一家が何らかの形で救われるか、もしくは。
ふと頭をよぎった考えに寒気がして、振り払うように墓から目をそらした。どれだけの時間ここにいたのだろう。いくら叔母達がアルマを気にかけていないとはいっても、さすがに限度がある。一人きりの墓場で両親に再度詫びると、少女は帰路についた。
***
本心だ。現状を変えたかったとしても、破滅を望む者などいないはずなのだから。
***
最後に叱られたのはいつだったか。
いたずらのつもりでしたことが両親の怒りを買って、想定以上に説教が長引いた。そんな遠い記憶が蘇る。自分の知らないうちに悪事が見つかって、心の準備をする間もなく怒られたんだっけ。
とある日。家に帰った夕暮れ時。玄関ドアを開けたアルマは、かつての両親が纏っていた雰囲気を感じ取った。家具の配置も、壁の汚れだってそのままなのに、なにかおかしいと気づいてしまった。人の気配がする。今の時間からして、おそらく叔母だ。いつもなら帰宅したアルマに出迎えの声すらかけない彼女が、ゆっくり近づいてきている。
玄関で佇んだままのアルマに、叔母が静まり返った目を向ける。以前からこんな目つきだっただろうか。
「叔母さん、ただいま」
「アルマ」
名前を呼ばれた瞬間、少女はこの後の展開を悟る。脳内でありとあらゆる説教のパターンを思い浮かべ、どう答えるべきかを考えつく前に叔母は宣告した。
「ちょっと来なさい」
叔母がアルマの部屋ではない方の一室に入っていく。アルマもその後を追う。古びたテーブルと椅子が並ぶそこに足を踏み入れる。
アルマが叔母達と食卓を囲んだことはない。引き取られてすぐ部屋を与えられ、そこで済ませるよう言いつけられたからだ。この部屋にはアルマを抜いた家族の数だけ椅子がある。
「座りなさい」
自分のための場所がない空間はひどく居心地が悪い。けれども叔母の物言いに逆らう余地は無く、誰かの椅子に浅く腰かける。叔母はテーブルを挟んだ真向かいに座った。冷たい視線が突き刺さる。
「最近、街にいないことが増えただろう。どこ行ってるんだい?」
「……あ……ごめんなさい。海を見に行ってたの。その、この島以外の場所ってどんな感じなのか、気になって」
「そうかい」
「……置いてもらってる身なのに、サボってすみません。今後はもっときちんと稼いでくるから……」
叔母の返事の簡素さに嫌な汗をかきながら、用意していた言い訳を並べていく。遊ぶ余裕なんてないのにふらふら出歩いていたというのは叱られるに十分だ。これまでのアルマなら泣き出してしまうところだが、それ以上の悪事をした自覚のある彼女は目を潤ませるのみで抑えた。「あれ」がバレるのに比べたら、こっちを咎められる方が――――。
「じゃあ、これに心当たりはないんだね?」
ぱさり、とテーブル上に投げ出されたのは。
例の兄弟に譲ったはずのブランケットだった。
心臓に氷を入れられたみたいに息が止まる。まさか、あの一家になにかあった? 小屋を襲撃されたのか?
ちがう。この反応は正しくない。嘘をつけば、まだ、まだ誤魔化せる。
「それ……! どこで見つけたの!? ずっと探してた、」
「天竜人のガキが持ってたよ。大事そうに抱きかかえてね」
「……天竜人がこんな古いものをありがたがるんだ」
やはり兄弟と接触したのか。叔母はあまり積極的に甚振りにいく方ではなかったから油断していた。同じ街にいる以上、彼女の目にとまることだってある。なぜブランケットを持ち歩いていたかは謎だが、そこで見つかったらしい。奪い取られた時、彼らは何を思い、なんと言ったのだろう。人の心配をしている場合じゃないのに、少女の思考はそちらに割かれてしまう。
あの夜中の宣言通り、アルマはこれまで以上にドフラミンゴ達を避けた。目くばせすらしなかったのだ。繋がりがあったと知られては、いや、以前の交流を見られていたら、あるいは。
「姉さんが縫ったもんだろう」
「……うん。見つけてもらえて助かった」
「大切にしてるんだね」
「もちろん」
この家に持ち込んだ、数少ないアルマの私物だった。母がくれたそれを、ほつれる度に直してもらった。孤独に耐えられない夜には抱きしめて眠った一枚のブランケット。
兄弟に譲ったのだって軽い気持ちでしたことではない。あの冬の寒さは一際厳しかったから。着の身着のままの彼らはいつも凍えていた。アルマ達だってそうだ。だからこそ、そのつらさが分かった。
稼ぎは生活費とドフラミンゴに渡す薬代――あの時はまだ必要だった――に使っていて、防寒具を買ってやる余裕はなかった。彼らにすぐ渡せるものなど。
そうしている間にも彼らの体力は刻一刻と削られていく。アルマにできることは限られている。何かを得るには何かを失わなくてはならない。少女は選択した。
……結局、手元に戻ってきてしまったけれど。
「あのガキ、盗んだんだって言ってたよ」
「そう、盗まれ――」
「最初は、もらったなんてぬかしてたけど」
鋭い目がアルマの一挙一動を見逃さないとばかりにねめつける。ただ盗まれたというだけならここまで刺々しい雰囲気にはならない。背中を汗が伝っていく。骨の髄から冷え切っているような感覚に襲われる。
「天竜人が来てから、あんたはずいぶん熱心に稼ごうとしてた。たまに夜中抜け出してた。そうだろ」
「…………」
「最初は、男ができたんじゃないかって、見逃してやるつもりでいたんだ。姪が天竜人と仲良くしてる可能性を考えるよりは、ずっとマシだったからね」
断定的に告げられていく内容に反論も誤魔化しもできそうになかった。息一つままならなくなっていた。
叔母はとっくに気づいた上で、証拠を掴むために揺さぶりをかけにきたのだ。少女の振る舞いの不自然さが日々の違和感を生み、ドフラミンゴ達の様子を見て確信に変わったのだろう。
秘密はいつか暴かれる。そうは言っても、この程度の追求、賢い人間ならたやすく取り繕えるはずだ。揺さぶりといっても証拠写真がある訳でもない。白を切ればどうとでもなった。
しかしアルマは賢くなかった。そして、疲れ果てていた。
アルマは叔母の言葉を否定せずうつむいた。テーブルに刻まれた傷がやけに目についた。
叔母もまた、しばらく何も言わなかった。大きく息を吸い込み、怒りを押し出すが如く、ため息をつく。
アルマがおそるおそる顔を上げた途端、勢いよく首元を引かれた。
「私達がこれまでどんな目にあわされてきたか、分かっててやったんだね?」
ひんやりとした声に、しかめられた顔に、抑えきれなかった憎しみが乗っていた。最後のチャンスをくれてやる、と。全身全霊で詫びれば取り計らってやると、血の繋がり故の情がまだあった。
ごめんなさい。アルマがこぼした一言は震えていたが、後悔の念はない。
その瞬間、少女の体が吹き飛んだ。一拍置いて、殴られたのだと気づく。殺されていないことを不思議に思う。
先の見えない細い綱がぷつりと切れ、渡っていた少女は抵抗する間もなく落ちていく。訪れる死を予期していながら、アルマの心には奇妙なまでの安堵があった。
ああ、やっと裁かれるのだ。