あなたの指に何度でも神を見る
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※モブが登場します。
仕事を終えた人々が家路を急ぎ、あちこちに明かりが灯る頃。屋台がひしめき合う通りを抜けた先に、ぽつんと小さな机が置いてあった。テーブルクロスが敷かれた机上には「占い」の文字が掲げられ、側には占い師らしき女が座っている。顔の上半分を黒いベールで隠し、闇夜のようなドレスを着て全身を黒で統一したその女は、怪しげな出で立ちとは裏腹に、ピンと背筋を伸ばして新たな客を待っていた。
あまりジロジロ見ていては声をかけられてしまう。そう思って視線を外した瞬間、喧騒に負けないほどよく通り、それでいて耳元で囁かれているかのような、矛盾を孕んだ声が男の耳に届いた。
「悩んでいらっしゃいますのね」
誰にでも言ってるんだろう、と茶化すにはあまりにも魅惑的な声色だったものだから、通り過ぎようとしていた男は思わず足を止めた。再度そちらを向けば女は艶やかに微笑み、男の発言を促す。言うつもりのなかった悩みが自然と口からこぼれ落ちる。
「ああ、おれ今、人を探してて……」
「まァそうでしたの。わたくし、お力になれましてよ。さ、おかけになって」
小さいながらに座り心地の良さそうな椅子を勧められ、なぜかすんなり座ってしまう。正面から向かい合っても不思議とベールの奥は見えなかったが、この椅子を蹴飛ばしてまで逃げようとは思えず、彼女のほっそりとした手がタロットカードを整える様を眺めていた。
机上に置かれたランタンが手元を照らす。空がますます暗くなっていく。いつもならとうに帰宅している時間だと察したが、男はもうこの女に頼ろうという気になっていた。財布の中身はどれくらいあっただろうか、と考えながら口を開く。
「その……悪く思わないでほしいんだが、おれが探してるのは別の占い師でよ。同業の伝手で居場所が分かったりしねェか?」
ぴく、と占い師の頬が引きつったように見えたが錯覚だろう。ベールの下から覗く真っ赤な唇は余裕たっぷりに弧を描いている。彼女は小首をかしげ、どうかしら、と呟いた。
「……もしかしたら、わたくしの存じ上げている方かもしれませんわ。探し人のお名前は?」
「バジル・ホーキンス。魔術師バジル・ホーキンスを探してくれ!」
女は占うまでもないというようにカードから手を離し、いともたやすく承諾した。この様子なら、すぐにでも見つけてくれそうだ。男が期待で胸を躍らせながら女を見れば、ゆったりとした微笑みが返ってきて、自分の考えが正しいと確信する。
――彼女が、机の下で自らの手をつねっていることなど知らずに。
***
彼のいる場所まで導いてさしあげます。
占い師はそう言って客になるはずだった男を連れ、島で一番大きな酒場を訪れた。酒臭さと騒ぎ声でも島一番のこの場所には、ありとあらゆる人間が集まっている。仕事を終えた老若男女がみっちり詰まったその空間を、彼女は何の迷いもなくかき分けていく。
「悪ィ、通してくれ! お、っとと、ありがとよ! ……さっきからすげェ勢いで歩いてるが、待ち合わせでもしてたのか?」
「いいえ」
「じゃあ居場所を知ってんのか?」
「いいえ……けれど、わたくしの行く先にはいつだってあの男がおりますの。今回だってきっとそう。それに、陸に着いた海賊がすることなんて限られていますから」
場違いな女がガラの悪い連中に目をつけられるのではとヒヤヒヤしていたが、周囲は奇妙なほどに反応しなかった。人を押しやりながら奥へ奥へと進む。男は女に手を引かれ、誰にも絡まれることなく目的地へとたどり着いた。
この酒場には、特別な客のための部屋がいくつか設けられている。静かに飲みたい者や密談をしたい者、身内だけで盛り上がりたい者など用途は様々だが、いずれにしろ部外者がズカズカと入り込んでいい場所ではない。
占い師はそこまで来ると、店員に声をかけた。ホーキンスの名をあげたところで相手が客の情報を簡単に漏らす訳もなく、すげなく追い返されそうになっている。それでも彼女は怯まず、自らの名を淡々と名乗った。
「彼にお伝えください。あなたとの逢瀬を待ち望んでいる女がいる、と」
その自信に満ちた振る舞いから、愛人を呼んだとでもあたりをつけたのだろう。店員は追求せず、確認してまいります、と部屋のある方角へ消えた。
待っている間、占い師は客の男にニコ、と笑いかけた。暗闇から出た彼女は比較的とっつきやすく見えたが、依然として触れてはならない世界の者と思わせる何かがあった。肌のほとんどが布で覆い隠されているけれども、不審さよりも神秘性が勝る。酔った男達がぎゃあぎゃあと騒ぐ酒場でも凛とした佇まいを崩さない。そんな占い師が俗世に身を置く様に違和感を覚え、苦笑いで返す。
しばらくすると店員が帰ってきて、部屋への案内を申し出た。先導する彼を追いながら、男は興奮を抑えきれずに占い師へと話しかけた。
「名前を言うだけで通してもらえるとは……相当仲がいいんだな」
「……それなりに顔を合わせてはいます」
男だって多少は心の機微を察することができるので、深入りするのをやめた。彼女にも何か事情があるのだろう。人の恋愛沙汰となれば興味を引かれてしまうものだが、ここまでしてくれる恩人に不義理をしたくはない。
ぽつぽつ会話をしながら案内に従って歩いていくと、店員はある扉の前で立ち止まった。物音一つ聞こえないが、この向こうに目当ての人物かいる。ついにあのバジル・ホーキンスと相対するのだ。おれの依頼を受けてくれるだろうか。
不安でざわつく気持ちを誤魔化そうと、占い師の女に目をやった。彼女ならば力強く後押ししてくれると思ったからだ。しかし女もなぜだか緊張した面持ちで――いや、少し違う。まるで因縁の相手と会うかのように、その肩が震えていた。
店員が中の客に許可を取り、扉を開く。そいつの仕事はそこまでで、一礼して去っていってしまう。残された男は占い師の女の後に続き、海賊の待ち構える部屋へ踏み込んだ。
海賊の宴ともなれば豪快に食べ散らかすものだ。普段船上で生活している彼らが陸地に降り立つ貴重な時間。それはホーキンス海賊団にも当てはまっていたようで、テーブル下に転がる大量の酒瓶からは彼らの宴が盛り上がっていたと察することができた。しかし、楽しみを邪魔した女達への敵意は思いの外少なかった。ちくちくと野次を飛ばされるものの、殺伐とした空気は無い。やはり女が知人であったことが功を奏したのだろう。不躾な視線が突き刺さるが、この程度で臆していては船長と対峙するなど不可能である。堂々と闊歩する占い師を羨みながら、男はどうにかこうにか進んでいった。
ローブの集団を慣れた様子であしらって、占い師の女は一つのテーブルの前に立った。男もその斜め後ろに立つ。横に並ぶにはまだ度胸が足りなかった。他の席は一人掛けなのに対し、このテーブルにはゆったりと座ることのできるソファが添えられている。特別なはずのそこに一人腰掛ける者、つまりはこの集団の長の前に男達は立っていた。
女の肩越しに、手入れされた長い金髪と三角形の眉が見えた。手配書でしか見たことの無い顔が今、剣の切っ先より鋭い瞳でこちらを値踏みしていた。
バジル・ホーキンス。ホーキンス海賊団の船長であり、「魔術師」の異名を持つ男。
彼はその浮世離れした雰囲気で場を支配していた。女と同類の、いいやそれ以上に腹の底が読めない海賊は、不機嫌を隠しもせず吐き捨てた。声を張っている訳でもないのに、彼の低音はやけに響いた。
「男連れで逢瀬とは笑わせる」
「そちらだって大所帯じゃありませんの……あなたにお客様がいらしているわ」
「知らん。客になるかはカード次第だ」
「とのことですから、詳細はこの……バジル・ホーキンスにお話しくださいませ」
占い師の女はそうして客に話を振った。ホーキンスはすでにタロットカードを切っていた。あのカードが、ひいてはその結果が男の命運を左右する。しかし彼女がこうして依頼の場を設けてくれたのだ、あとは自分で交渉しなくてはならない。崖っぷちでいきなり手を離されたような不安感を堪えながら、占い師へ礼を述べた。
「あ、ああ! ありがとよ嬢ちゃん! 恩に着るぜ!」
「いいえ、お気になさらず。これもまた、縁ですから……」
せめてもの案内賃として金を渡そうとしたが断られてしまい、男は取り出した財布を彷徨わせる。彼女は手をそっと握って財布をしまわせた。
「占っておりませんもの、いただくことはできませんわ。この男をお頼りになるのなら、特に」
占い師の女はそう言い切った。彼女の視線の先にいるホーキンスはタロットカードとの対話を終えたのか、憮然とした表情でこちらを見ている。慌てて男が向き直ると、彼は広げたカードに目を落として結果を読み上げた。
「お前の依頼を請け負うと運気が上がる確率、88%……いいだろう、話を聞いてやる」
承諾されたというのに、男は震えが止まらなかった。ホーキンスの発する圧に慄く男の背を、占い師が優しく押した。それに励まされたのは事実だが、眼前の海賊からの視線がさらに鋭くなったような気もして、一秒でも早くこの部屋から出るために依頼内容の説明に移ったのだった。
▲▲▲
客の男に愛想よく振る舞っていた女は、相手の視線がそれると即座にホーキンスの方を向いた。おそらくはベールの奥から睨みつけているのだろうが、数多の海賊と戦ってきたホーキンスからすれば子猫が唸っているようなものだ。無視して客の話を聞く。乱れなく紅をひいた唇がギィ、とひん曲がるのが視界の端に見え、ほんの少し愉快な気分になる。
客の頼みは世界にまで範囲を広げた失せ物探しで、ホーキンスの力を以てすれば解決できなくもない。それに、報酬としてこちらが求めた物を用意できると言った。占いによるとその発言が嘘ではない確率が高かったため、男の依頼を正式に引き受けることにした。
占う対象をイメージしながら、カードをシャッフルする。客がおお、と感嘆のため息を漏らすのが聞こえた。彼の背後から向けられる眼差しがさらに真剣なものになったことだって、ホーキンスは感じ取っていた。
女は人の占いを妨げることだけはしない。ホーキンスが空中にペタリペタリとカードをはりつけていくのをじっと見ている。睨んでいると言った方が正確であろうその気迫は、見て覚えろと言い渡された弟子のような必死さがあった。
女は常に研鑽を怠らなかった。いつかの島で巡り合った際、主たる「姫様」のために力をつけておかなくてはならないのだと言っていたのを思い出す。今おこなっている占いも彼女の糧となるのだろうが、ホーキンスは特に隠すことなくいつも通りに進めていく。不愉快になった自分が不思議だったが、そんな気持ちもすぐに消え失せた。
並べ終えたカードをめくる。一枚一枚の持つ意味を照らし合わせ、解釈に移る。今回なら、これは――。
顔を上げると、固唾を呑んで見守っていたであろう客が目に入る。次いで、彼を支えるように立つ女も。ベール越しに目があった気がしたが、ぱっと視線をそらして本題に戻る。
「……西の海にある確率が高い」
「新世界じゃねェんだな!? よ、よかった……! まだなんとかなる……!」
「目当てのものが移動する確率は90%。狙ってるやつが多いとなりゃ、お前が取り返す前に隠されるのも時間の問題だろう」
「ああ、わかってる……西の海の、どのあたりかは……」
広げたカードをまとめ、再度占う姿勢を見せることで返事とする。詳細な場所を占い、その結果を伝えると、客は「それなら伝手がある」と安堵の息をついた。
あとは自分で探せ。そう言い放つと、客はこくこくと勢いよく頷き、露骨に扉を意識し始めた。ホーキンスが仲間に目配せすれば、仲間は男の行く手を阻むように立つ。報酬を確保するまでの段取りを決めなくてはならない。
もうホーキンスのやることはないため、カードを片付けグラスを傾ける。同じく仕事が終わったはずの女に声をかけようとしたが、彼女は客の側を離れなかった。海賊相手に怯える男に微笑みかけ、彼が不利にならないよう取引に口を出し続けているのだ。ここにホーキンスがいるというのに彼女は他の男を優先している。ホーキンスは何も言わずワインを口に含んだ。わざわざ用意させた気に入りの一本だ。今日は殺生を避けるべき日であるし、このボトルが空になるまでは待ってやろう、と思いながら、仲間と女の押し問答を眺めていた。
「お前は関係ねェだろ! 引っ込んでろ!」
「あら、わたくしがお連れした方でしてよ。最後までお付き合いするのが道理じゃありませんこと?」
「じ、嬢ちゃん、そんなに言ったら殺されちまうよ……」
「殺されるのならとっくに首をはねられているはずです。今わたくしが死んでないのだから今日は問題ありませんわ。安心してくださいませ。彼らは海賊ですけれど、こういう時の取引は誠実です。彼らの神に誓ってくださいますもの、ね?」
「……ああ」
「なんか間があったぞ今……」
力は無いが口だけはやたらと回る女だった。仲間がこちらに訴えかけるような視線を向けてきたが、ホーキンスは首を横に振って返した。殺生をすると運気が下がる日なのだ。この女に出会う日は毎回そうだ。天は彼女にばかり味方する。そうして仲間は腰に携えた剣を抜くのを必死にこらえ、あくまでも冷静に話をする羽目になったのだった。
女が連れてきた客を見送り、バタンと扉が閉まる。彼女の妖しげな笑みが崩れ、船員達を押し退けながらホーキンスに詰め寄った。ようやくおれを見たな、と言おうとしたが、金切り声に遮られる。
「またあなたなのバジル・ホーキンス!!」
「それはこちらのセリフだ。またお前か。さっさと諦めて別の職についたらどうだ」
「これが私の天職なんです! 私の占いがそう言っているんだから間違いありません!」
「そうか。お前の天職が占い師である確率……」
「占うな!」
女のあの口調は単なるキャラ付けである。占い師たるもの信用を得るための雰囲気作りも重要なのだと言い張っていたが、おおかた例の主の振る舞いを形だけ真似ているのだろう。こうして感情が昂った時に垣間見える女の素の姿は、その身なりに反して幼く見えた。
バジル・ホーキンスがこの占い師の女と関わるようになったのは、海賊として海に出てからのことだった。まだ懸賞金もつかないうちから女と出会い、彼女が連れてきた客をホーキンスが占い、彼女に恨まれて終わる。その繰り返し。行く先は伝えていない、ましてや彼女が海賊王を目指している訳でもないのに、なぜかホーキンス達の停まる島には女がいた。一度「後をつけられているのでは」と疑いもしたが、自らの占いがそれを否定し、女の性格からしてもあり得ないと結論づけた。どうやったって巡り合う二人。運命と呼んでも過言ではない関係……と思っているのは、ホーキンスだけのようだったが。
女が連れてくる客は一様にしてホーキンスの求めるものを持っていた。それは次の島に進むための海図であったり、必要な人材であったり、ただ略奪するだけでは手に入らないであろうものばかりだった。
船員が面白がってこう呼んだことがある。「おれ達の女神」と。ホーキンスはそれを笑わなかった。彼女と出会う日は運気が上がる。たとえそこに因果関係が無いのだとしても、験担ぎには十分な理由だ。
今日の「女神」はまだ立ち去っていない。占うなと言っておきながら、結果が出るのを待っているらしい。ホーキンスがカードの内容を読み取ったと見るやいなや、女は恐る恐る尋ねた。
「……どうでした?」
「気になるのか」
「今後にかかわってきますから」
ホーキンスが鼻で笑っても女は動かない。じ、と見つめると、レースの隙間からちらちら不安げな目が見つめ返してくる。その乞い願うような瞳に免じて教えてやることにした。
「……99%」
「どっちが?」
「さあな」
「はぐらかすなんて占い師の風上にも置けませんわ」
拗ねた物言いに興が乗り、戯れるように結果を伏せる。それに、ホーキンスが何と言おうと女が占術をやめることはないのだ。ここで答えを明かさずとも問題はない。
ホーキンスの口を開かせようと女が試行錯誤していると、仲間が集まってきて口々に彼女を批判した。とはいえ酒の席の軽口であり、少なくともニヤニヤとした顔で茶化す彼らに悪意はなかった。
「ホーキンス船長、わざわざそいつに構うことないですって!」
「そうそう、負け犬の遠吠えなんですから」
「そうは言ってもうるさくてかなわん」
「船長に似て失礼極まりない船員ですこと……!」
お前の指導はどうなっているんだ、と責めるような視線を送られたが何のその。どんなに粘っても追求を躱される上にあれこれ言われて嫌になったのか、女はドレスの裾を翻して叫んだ。
「とにかく、わたくしはもう役目を果たしましたっ! お暇させていただきます!」
「おう帰れ帰れ!」
「誰も呼んでねェっての!」
「キィー!! なんて品のない人達……!」
そんな捨て台詞を吐いても、女は扉を静かに閉めていく。それがどうにもおかしくて、船員達がどれたけ悪口を叩いても場の空気は和やかだった。
あの女、まだ生きていたのか。元気そうだったな。どこかで野垂れ死んでるとばかり思っていたが。バカ言え、あの面を見たら分かるだろ、あいつはそうそうくたばらねェよ。
何度も出くわしていれば馴染み深くもなるものである。船長に楯突く生意気な女だが、悪いやつではない。たまに殺してやりたくなるが、まァ生かしておいても構わない。仲間の中で彼女はそういった認識になっていた。顔見知りの無事を知れたのがそんなに嬉しかったのか、船員の一人が思いついたように提案した。
「船長、次会ったらあいつを宴に誘いませんか?」
「悪くない……もう誘い文句の出番が来たようだぞ」
「えっ?」
コンコン、と控えめなノック。扉の向こうから「またあなたに依頼したいという方が来ているのだけど……」と、感情を押し殺した声が聞こえたものだから、ホーキンス以外がドッと湧いたのも無理のないことだった。
何度も宴を邪魔したのだからそれ相応の償いをするべきだ、と難癖めいたことを言えば、女はムッとした顔でしばらく黙り込み、ホーキンスの望みを問うた。
「ここに座れ」
自身の隣を――さっきまでいた船員はそそくさと立ち退いて遠くの席から見物している――指し示す。身構えていた女はホッとした顔に、そして怪訝そうな顔へと変わった。しかし食い下がってこれ以上の難題を突きつけられるのは避けたかったのか、彼女はあっさり頷いた。
命じた場所から少し離れたところに座ろうとした女をじとりと睨む。「な、なんです」と動揺した答えが返ってくる。
「おれはここに、と言ったんだ。そこじゃおれの声が聞こえねェだろう」
「そんなわけ……分かりましたから、そう怒らないでください」
負い目を感じている時の女はそれなりに神妙な態度をとるようで、身じろぐだけで肩が触れ合うような距離に座らされてもそれ以上の文句は言わなかった。居心地悪そうに、けれど商売中とそう変わらぬ姿勢の良さで、彼女はソファにちょこんと収まっていた。
部屋中が客人が訪れる前と同じくらいの盛り上がりに至っても、ホーキンスと女のいるテーブルだけは無言が続いていた。座ってしばらくの間はそわそわしていた女も、次第に慣れてきたのか、仲間達の交流や喧嘩を眺め出す。ベールの下に見える横顔はよそ見ばかりしている。
女の視界にホーキンスはいない。こんなにも近くにいるというのに、彼女はホーキンスを見ようとしなかった。時折机上に目を向けるが、グラスが空いているかどうかの確認だけで、自分は一切ものを口にせずただ座っていた。なぜホーキンスが自分を侍らせたのか、それすら気づいていないようだった。
ホーキンス自身、この女をどう思っているのか定かではない。顔を合わせても不快ではなく、視線が逸れるとなぜか苛立つ。その程度のものだ。こうして横に座らせたのも、ただほんの少し、彼女を振り向かせてみたい、と魔が差しただけで。
――とはいえ、他者を口説くのに長けているとは言えない身である。ご機嫌取りをする気もさらさらないホーキンスは、思い浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「おれに客を取られてばかりのようだが、生活は成り立っているのか」
「奪っている側の人間がいけしゃあしゃあとまァ……飢え死なない程度には、稼がせていただいております」
「今日の晩飯は」
「…………」
「どうやら「稼ぎ」の基準が違うらしいな」
フォークを手に取ると、近くの皿から肉――仲間が食べていたものだ――を一切れ持ち上げ、彼女の前に差し出す。目を丸くしているのを感じるが、気にせず続ける。
「食え」
「……お言葉に甘えさせていただきます。でも自分で食べますからお手伝いはいりません」
「ほう、断ると。お前はなぜここにいる? 空気を乱した罪を償う気はあるのか?」
「……あなたってそういう言い方しかできませんの?」
何がしたいのか分からないわ、とぼやきつつ、女は口を開けた。ホーキンスの手ずから与えた食べ物が紅をひいた唇に吸い込まれていく。艶めいた赤に食べかすがつく。本人はソースをこぼさないことに気を取られているが、あっという間に口紅が落ち、素の唇が露わになっていた。食べるために接近したことでベールの中も見えた。肉を口に収めきった女は、ふと目線を上げた。ホーキンスと目があって今の自分の様子を恥じたのか、気まずそうに目をそらす。その些細な仕草に体の奥の燻るのを感じたが、なかったことにして餌付けを続けた。
こうして宴に参加する許可が降りたというのに、女は水と食事ばかりを口に入れていた。宴の空気にも呑まれず酔う気配一つ見せなかった。ホーキンスや仲間達との会話でも一定のラインから先に踏み込まれないよう気をつけている。女と食事を共にするのはこれが初めてではないが、そういえば彼女の酔った姿を見たことがないな、と思い至ったホーキンスは、女にワインを注ぐよう命じた。特に反発することなく注ぎだした彼女の手元にグラスを一つ追加すると、訝しげな視線を投げられた。
「注げ」
「どなたのグラスですか?」
「お前の分だ」
「あら、気持ちはありがたいですがお構いなく。今はそういう気分じゃありませんから」
勝手に断って注ぐのをやめた彼女からボトルとグラスを奪い、ホーキンス自ら注いでいく。横から動揺した声が聞こえたが手を止める気はない。
「えっ……いや、だからいらな……ああ……」
「てめェホーキンス船長の酒が飲めねぇってのか!?」
「死んでも飲め!!」
「元気な殿方ばかりですわねこの海賊団は……!」
横から首を突っ込んできた仲間達に言い返しながら、女はしぶしぶワイングラスに口をつけた。乗り気じゃなさそうな割に、酒の感想を述べる余裕がある。案外飲める口らしい。
――と思ったのもつかの間、彼女はすぐに顔を真っ赤にしてぽやぽやとし始めた。見るからに気が緩み、今にも寝てしまいそうな様子だが、本人にその自覚はないようだった。
女は酔いが回り始めると口数が減った。その分私的な話をポツポツとこぼすようにもなった。
「どうしてかしら……頼るのは、わたくしでもよかったはずですのに……」
「お前じゃムリムリ!」
「客だって察してたんだろうよ。こいつにゃ近所の迷い猫を探すのが精一杯だってな」
「うううう……できます、できますわ! だってできなくちゃ帰れませんもの。世界で一番の占い師になって帰るって、姫様と約束したんです……」
「世界一の占い師ィ? お前が?」
「皆のためなんです。私の占いで全部決めるなら、ちゃんと占えるようにならなきゃ……」
女はとある国名を口にした。確か以前ホーキンスも聞かされた名前だが、調べてもあまり情報が出てこなかったあたり、小さな国なのだろう。幼少期から親しくしていた「姫様」とやらは女をひどく気に入って重用したそうだが、あまりに全ての物事を占いで決めようとするものだから、怖気づいてしまったのだと。修行する、と無理を言って旅に出て、今に至るのだと。女はそういった内容をくだけた口調で、あちらこちらに脱線しながら話し終えた。その間、ホーキンスは突如占術という道案内を失った「姫様」の気持ちに思いを馳せていた。
「姫様が無事なのはわかってるの。毎日占ってるから。でもやっぱり心配で……あァ姫様、泣いてないといいんだけど……」
その「姫様」の求める手を振り切ったのはお前だろう、お前が泣かせたんじゃないのか。ホーキンスがそう指摘すると、女は唇をぎゅっと噛んだ。弱り果てた表情が、そんなにも心奪われる相手がいるのだと示す様が、ホーキンスはなぜか面白くなかった。
▲▲▲
酔いつぶれた女を介抱するなど、普段のホーキンスならばそうそうしない。だからこそ船員達は、船長が女を抱きかかえて宿の一室に向かったのを見て浮ついていたし、船長――ホーキンスはそれを否定すること無く酒場をあとにした。
女は野宿でもするつもりだったのか、宿の手配すらしていなかった。もっとも、部屋をとっていたところで、ホーキンスが彼女を運んでやることはない。自らが泊まる予定であった一室へ女を連れ込んだ。
船長のために、と仲間が用意したのはこの島でも上等な部屋だったらしく、一歩踏み入れるときらびやかな空間が広がっていた。室内の明かりに照らされた家具や設備が輝かんばかりに並んでいるが、一番反応しそうな女はまだ起きない。ホーキンスも起こすことのないままベッドルームに入る。
広々としたベッドに女を座らせようとしたが、自分で座ることもできないのかぐにゃりと倒れてしまう。倒れた拍子にベールがずれた。そっとベールを外せば素顔が露わになる。化粧の力で強く見せているが、こうして神秘のベールを暴かれた彼女は至って普通の女に過ぎない。きちんと横たわらせてやり、乱れた髪を整えれば、魔法で眠らされた姫のように穏やかな寝姿となった。
姫。今のホーキンスにとって、心がささくれ立つ言葉。
この女がホーキンスと向き合うのは「客を取られた」と怒る時だけ。占う際に向けられる熱い視線すらも「姫様」のためのものなのだ。だからどうした、と思う。ただの顔馴染みの言動なんてどうでもいいはずだ。どうしてこんなにも心乱れているのか。何度占っても明確にならない。それならいっそ、一度寝てしまおう、と。欲を満たせば何か変わるだろうと予想して女の体に触れた。
ホーキンスが覗き込んだと同時、女が目を開き、こちらを見た。ぼんやりとした目がホーキンスの顔を通り過ぎ、ウェーブのかかった髪へと向かう。視線は合わない。女が笑う。屈託のない笑み。
「姫様」
反射的に首を締めそうになった己の手をどうにか押し留めた。女と間違われることは少なくない。占いが許せば毎回その場で切り殺してきた。今日は殺生をしてはならない日であるから、見逃してやる。誰に伝えるわけでもない言い訳を脳内に並べながら心を落ち着かせた。命の危機が迫っていたとも知らずに、女はふわふわと笑っていた。
彼女はこの場にいない者をホーキンス越しに見ていた。世間で魔術師と呼ばれる恐ろしい男に軽々しく手を伸ばし、金髪に指を通す。くすぐったさに身をよじると、女は身を起こして戯れのように追いかけた。
「姫様、姫様、御髪を梳かしてさしあげます。こちらにいらして」
歌うように呼びかけるけれども、ホーキンスは姫様ではない。行ってやる義理などないから距離をとった。呼んでも微動だにしないのがそんなに悲しかったのか、女の目に涙が浮かんだ。野宿をしても、柄の悪い男に囲まれても決して泣かない女が。
いつまでも自分以外に夢中なのが気に入らなくて、ホーキンスは女に近寄った。ぱあっと輝いた彼女の顔に手を添える。夢見心地なぼんやりした瞳と目を合わせながら唇を奪う。「姫様」ならばしない行為をしばらく続けると、夢から覚めた女が、もういい、と伝える程度の強さでホーキンスの胸を叩いた。
「ちょっと、あなたね……」
「ようやくお目覚めか」
「……私、寝てたの?」
女はぼうっとしたままホーキンスを見た。至近距離にいる恋人でもない男の顔をしげしげと見つめ、先程までされていたことを思い返しているらしかった。見知らぬ宿の一室で二人きりになっているし、どうやらベッドの上にいるらしいぞ、と酔いの回った頭でたどり着いたようだが、それでも彼女は焦る様子を見せない。彼女は眠たげに何度か瞬き、もう帰ります、と呟いた。
「どこに帰るつもりだ。ここらの宿はもう部屋がうまっているはずだが」
「んん……船に戻って寝るから……」
「このままおれに身を任せるのはどうだ」
「……あなたがいいと仰るのなら」
女はそう言うと少し横にずれて、ぱたんとベッドに倒れ込む。ホーキンスはしばらく無言で女を見つめた後、女の服に手をかけた。女は抵抗しなかった。それは同意ではなく、単に彼女が眠気に負けただけなのだと気付いた瞬間また殺意が芽生えたが、健やかな呼吸と共に上下する胸を見て諦めた。無意識のうちにため息がこぼれた。この状況で寝るなんてどうかしている。かと言って無理に事を進めてしまえばホーキンスばかりが求めているようで腹立たしい。どうしてこんな女に心乱されているのか。いっそのこと早く消してしまいたいが、また占ったところでその許しは出ない。殺してはならない、という結果に少し安堵した自分がいて、その事実にまた苛ついた。
部屋の主を差し置いてぐっすりと眠る女を眺めながら、ホーキンスの脳内では、女のとろけるような声と笑顔が繰り返し映し出されていた。
あの笑みが正真正銘自分に向けられたものならば、どれほど心躍っただろう。
そんな馬鹿馬鹿しいことを考えてしまった。深夜の魔力とはかくも恐ろしいものである。
その気が失せたホーキンスは女をベッドに放置すると決め、気分を変えるために風呂へ向かった。
▲▲▲
カーテンを閉めて寝たはずなのに、朝日の眩さで目が覚めた。隣にいたはずの女は体温すら残さずベッドから消えていた。横たわったままぼんやりしていると、支度を終えたらしい女がベッドルームの外から顔を出し、朝の挨拶と共に、今日出港するという旨を告げた。ベールはまだつけておらず化粧で整えられた顔がさらされている。きれいに取り繕われたそこに、昨夜の腑抜けた様子は感じられない。
いつもは日が落ちてから出会うことが多いため、太陽の光を浴びて立つ彼女はなんだか物珍しく映った。決して本人に言うつもりはないが、彼女自身がほのかに輝いている気さえしてくる。月明かりは彼女の妖艶さを引き出すが、日差しの中にいる姿は、まるでそこが本来いるべき場所かのようにしっくりときていた。
「よく眠れたようだな」
「おかげさまで。昨晩はありがとうございました。お礼に占ってさしあげます」
「必要ない」
「もう準備を始めてしまいましたから最後まで聞いていってくださいまし」
ベッドサイドに回り込み、サイドテーブルで好き勝手し始めた女を、ホーキンスは止めずにいた。あまり手の込んだことをするつもりはないのか、準備と言っても周囲を軽く清めるくらいのものだったため、遮ることも立ち去ることもできた。しかしホーキンスはその場に留まった。お互い自分の占いこそを信じて生きているが、女がホーキンスのために占うというのは初めてのことだった。
こまめに手入れをしているのか、彼女の指先にはささくれ一つなかった。海賊の男と比べれば細く頼りない手が踊るようにカードを捌く。ホーキンスにとっての日常でもあるその行為は、彼女がおこなうと別の儀式のように見えた。仲間以外の占いをまじまじと見る機会が少ないからこその錯覚なのかもしれない。神託を受け迷いなく動く指先がホーキンスを導こうとしている。
カードの配置で、彼女の意図を察した。ワンオラクル。シャッフルした中から一枚引くだけのシンプルなもの。
「何を占っている」
「あなたのこれからを」
「お前に任せずとも――」
女は手慣れた動きでカードを捌き、一枚引いた。表面には正位置の太陽。この女によく似た、力に溢れたカードだ。ホーキンスが反応するより早く、彼女の表情が明るくなった。本人を差し置いて、占った側である彼女が一番この結果に喜んでいた。
「あなたの船路は希望に満ちたものとなるでしょう!」
カードと同じくらいに輝く笑顔で、女はホーキンスにそう断言した。あまりに漠然としすぎている。「信用を得るための雰囲気作り」とやらはどうしたのかと言いたくなる。もっと言いようがあるだろうに、と。
けれども彼女の自身に満ちた顔を見ると、何があっても大丈夫だという気にさせられる。たとえ大丈夫でなかったとしても、彼女の助言があればなんとかなる。そんな根拠のない自信が湧いてくる。「姫様」もこれにやられて重用したのだろう。占いの腕はともかく、そういった面での適性はあるらしい。
心の内を明かさずに女を見つめていたが、ホーキンスは視線を外し、自身の日課を行うために使い慣れたカードを展開した。期待した反応を得られなかった女は一瞬ムッとした顔になるも、すぐ切り替え、ベッド横に椅子を持ってきて座る。カーテンを開け放った部屋には日の光が差し込み、今日の運勢を占おうとする男も、その様子を見学している女も等しく照らした。そうして、占い師二人の静かな朝が過ぎていった。
勝手に部屋を出ようとした女を引き止め、自分の支度が終わるまで待てと言いつける。「見送ってくださるの?」なんて言葉は無視した。
仲間に連絡を入れた後、港までの道を共に歩く。海賊としてそれなりに名の知れたホーキンスが横にいるからか、誰一人女に近づいてこない。客になりうる人間も、弱者を狙う荒くれ者も。
この世界で非力な女の一人旅となれば、即踏み荒らされて終わるのが常だ。しかし目の前の女は違った。故郷を恋しく思うほどの期間、誰にも傷つけられずに旅を続けることができている。航海士もいないのに貧相な小船でありとあらゆる海を乗り切ってきたというのだから訳が分からない。
それが真実ならば――奇しくも巡り合ってばかりいるホーキンスこそが証人なのだが――どれだけ金を積んだところで手に入らない幸運に恵まれていることになる。持ち主たる女はその価値に気づいているのかいないのか微妙なところだ。
島中の店が開店準備をしているのを横目に歩みを進める。女のスピードに合わせてやりながら、ホーキンスは話を切り出した。
「行き先は決まっているのか」
「わたくし、型にはまった生き方はいたしませんの。気の向くままに、わたくしの占いを求める方がいる場所こそが次の目的地ですわ」
「毎回おれと同じ島に着くのは偶然だとでも?」
「あら、てっきりあなたがわたくしを求めてらっしゃるのだとばかり。違って?」
「…………」
「冗談のつもりはなくってよ」
知人でもいたのか、通りすがりの島民に手を振りながら女は答えた。活気が出てきた街のざわめきにかき消されない程度の声で、わずかながらに本心が明かされる。
「あなたと何度も出会うのはわたくしにとっても不思議ですけれど、実のところ……お会いする度安心しておりますの」
それを聞いたと同時に、ホーキンスはふと思い至る。運が彼女に味方するのなら、ホーキンスとの縁もまた、彼女の望むものなのかもしれない。女の一人旅という心細い道中、次の島でも知り合いがいてくれたら、と本人も気づかぬうちに思っているのでは。だがこれはホーキンスに都合のいい考えに過ぎない。確証が持てるまでは、と口をつぐんだ。女は隣を歩く男の思考に気づかず話し続けていた。
「お客様の取り合いに関しては、まァ……声を荒げてしまうことがありますけど……わたくしの実力不足故ですもの。本気で恨んだりしませんわ」
「自覚があって何よりだ」
「口を挟まないでいただけます?」
女から非難されたが、ホーキンスは気にせず問いかけた。すでに目的地である港が遠くに見え始めていた。グラッジドルフ号も女の乗ってきた小さな船もそこに並んでいる。別れの時が迫ってきていた。
「いつまで一人旅を続ける気だ」
「国を背負えるほどの実力を――」
「何を以て実力がついたと言える? そんな甘い考えでよく生きてこられたものだな」
「……わたくしもそう思いますけれど……あなたの言葉には含みがあるように聞こえます。伝えたいことがあるのならはっきり仰ってください」
「おれの船に乗れ。占いの腕を上げるにも身を守るにも、それが一番の選択だ」
「……なぜ?」
心底不思議そうな声色だった。なんでそこまで私に手を貸すの。そう言いたげな問いに、ホーキンスの口は自然と答えていた。
「お前を側に置きたい」
答えながら、おれはこう思っていたのか、と腑に落ちる。彼女はぽかんと口を開けていたが、気を取り直すと「……もう一押しほしいですわね」などとねだってみせた。これ以上を求めるなと言いたいところだが、なんとか言葉をひねり出す。
「おれにもお前の占いが必要だ」
「先ほど必要ないと自分で仰っていたじゃありませんか」
「お前がカードと向き合っている時の顔は好ましく見える」
愛する者への眼差しが、こちらに向けばとすら思う。そこまでは口に出さなかった。女はぱちくりと瞬いて微笑むだけ。眉間にシワを寄せたホーキンスを見てさらに笑みを深くした。
「私もあなたのこと、結構好きですよ」
言うつもりはなかったのですけれど。取り繕ったように付け足したそれを最後に、彼女は駆け出した。軽やかに船へと近寄って、瞬く間に準備を終えてしまう。たいして大きくもない船だから、出港できる状態になるまでそう時間はかからなかった。
船に乗り込む直前、何か言い残したことはないか、と言いたげに彼女が振り向いた。ホーキンスにはもう付け足すことはなかった。波の音に耳を傾けた後、女がぽつりと呟いた。
「あなたって、海賊なのにわたくしを奪おうとはしないのね」
「体を奪ったところで、心が手に入らなければ虚しいだけだ」
実のところ、何度か占ったことがある。この女を攫ったらどうなるのか。こういう時の占いはホーキンスに味方しない。ことごとく「運気の低下」「関係の悪化」「女の自決」と悪い結果しか出なかった。だがそういった事情は全て伏せ、ホーキンスは別の本心を口にした。嘘ではない。例の姫様とやらに勝てないまま、蹂躙され萎れていく女を手元に置いたとて自らの欲は満たされないだろう。
女はその背景すらも見通しているのか、ニコ、と笑った。いつもの如く、乱れのない口紅が弧を描いた。
「賢い人。わたくし、いいえ、私……あなたのそういうところに惹かれたのかも」
「思わせぶりな態度は身を滅ぼすぞ」
「ご忠告ありがとう。その理性に免じてご褒美をさしあげてよ」
女がホーキンスの側に歩み寄り、少ししゃがむよう頼んだ。応じてやると、顔に手を添えられた。昨夜、ホーキンスが彼女にしたように。唇がほんの一瞬触れ合って、離れた。
「……もう少しだけ」
呟くやいなや、彼女はまた唇を重ねた。ここが港でなければ、昨日のあの部屋であればこのまま全てを暴いてやったのに、と思いながらホーキンスはされるがままになっていた。抱きしめでもしたら、先程の言葉を無に返してしまいそうな予感がした。
自身の唇を彩っていた紅がホーキンスの唇に移ったのを確認すると女は満足したのか、そっと耳元に口を寄せた。
「物足りない?」
「分かっているのならもう一晩この島に留まれ。今度は何があろうと最後までやるぞ」
「あら怖い。でも今日発つって決めたから。ごめんなさいね」
わざとつけたくせに、細い指がホーキンスの唇から紅を拭い取っていく。彼女の唇に負けず劣らず柔い指の腹が、彼女の痕跡を消し去ってしまう。
「わたくしとあなたの縁ですし、次があるでしょう。その時お相手してくださいな」
「次があると信じているのか」
「もちろん。まァ、会えなくても問題ありません。何の手がかりもなくたって探し出してみせます。わたくし、世界一の占い師になるんですもの。あなた一人探すのくらいどうってことないわ」
口に出すことで望みが叶うとでも思っているのか、女は威勢のいいことばかり言ってのける。彼女の名を呼ぶと、窘めるかのように名を呼び返された。棘のない、やわらかい声がホーキンスの名を音にする。
「何度別れたってまた会える。そうでしょう」
それが世界の理だ、と続けそうな口ぶりだった。そんなはずがないのに。けれども彼女がこう断言したのなら、きっと叶うだろうと思ってしまう。この女は魔術師と呼ばれる男すらも転がして、誰にも縛られずに旅を続けるのだ。
軽快に、しかし優雅にドレスを揺らしながら船へ飛び乗った彼女は、指の先まで美しく動かして別れを告げた。
「それではごきげんよう!」
日の光を浴びてきらめく海を船が行く。船上でお淑やかに手を振る彼女の、無邪気さの滲み出る笑顔が太陽よりも眩しく映る。
欲しいものが手に入らなかったというのに、なぜかホーキンスは満たされていた。昨夜抱いた愚かな望みが、あの表情が、今自分に向けられている。たったそれだけで、今回は見逃してやろうという気分になった。
次相まみえるのはいつになるのか。今別れたばかりだというのに、あの女がひどく恋しくなっていた。いつか会えるその日を指折り数えて――なんてことは、さすがにしなかったけれど。
仕事を終えた人々が家路を急ぎ、あちこちに明かりが灯る頃。屋台がひしめき合う通りを抜けた先に、ぽつんと小さな机が置いてあった。テーブルクロスが敷かれた机上には「占い」の文字が掲げられ、側には占い師らしき女が座っている。顔の上半分を黒いベールで隠し、闇夜のようなドレスを着て全身を黒で統一したその女は、怪しげな出で立ちとは裏腹に、ピンと背筋を伸ばして新たな客を待っていた。
あまりジロジロ見ていては声をかけられてしまう。そう思って視線を外した瞬間、喧騒に負けないほどよく通り、それでいて耳元で囁かれているかのような、矛盾を孕んだ声が男の耳に届いた。
「悩んでいらっしゃいますのね」
誰にでも言ってるんだろう、と茶化すにはあまりにも魅惑的な声色だったものだから、通り過ぎようとしていた男は思わず足を止めた。再度そちらを向けば女は艶やかに微笑み、男の発言を促す。言うつもりのなかった悩みが自然と口からこぼれ落ちる。
「ああ、おれ今、人を探してて……」
「まァそうでしたの。わたくし、お力になれましてよ。さ、おかけになって」
小さいながらに座り心地の良さそうな椅子を勧められ、なぜかすんなり座ってしまう。正面から向かい合っても不思議とベールの奥は見えなかったが、この椅子を蹴飛ばしてまで逃げようとは思えず、彼女のほっそりとした手がタロットカードを整える様を眺めていた。
机上に置かれたランタンが手元を照らす。空がますます暗くなっていく。いつもならとうに帰宅している時間だと察したが、男はもうこの女に頼ろうという気になっていた。財布の中身はどれくらいあっただろうか、と考えながら口を開く。
「その……悪く思わないでほしいんだが、おれが探してるのは別の占い師でよ。同業の伝手で居場所が分かったりしねェか?」
ぴく、と占い師の頬が引きつったように見えたが錯覚だろう。ベールの下から覗く真っ赤な唇は余裕たっぷりに弧を描いている。彼女は小首をかしげ、どうかしら、と呟いた。
「……もしかしたら、わたくしの存じ上げている方かもしれませんわ。探し人のお名前は?」
「バジル・ホーキンス。魔術師バジル・ホーキンスを探してくれ!」
女は占うまでもないというようにカードから手を離し、いともたやすく承諾した。この様子なら、すぐにでも見つけてくれそうだ。男が期待で胸を躍らせながら女を見れば、ゆったりとした微笑みが返ってきて、自分の考えが正しいと確信する。
――彼女が、机の下で自らの手をつねっていることなど知らずに。
***
彼のいる場所まで導いてさしあげます。
占い師はそう言って客になるはずだった男を連れ、島で一番大きな酒場を訪れた。酒臭さと騒ぎ声でも島一番のこの場所には、ありとあらゆる人間が集まっている。仕事を終えた老若男女がみっちり詰まったその空間を、彼女は何の迷いもなくかき分けていく。
「悪ィ、通してくれ! お、っとと、ありがとよ! ……さっきからすげェ勢いで歩いてるが、待ち合わせでもしてたのか?」
「いいえ」
「じゃあ居場所を知ってんのか?」
「いいえ……けれど、わたくしの行く先にはいつだってあの男がおりますの。今回だってきっとそう。それに、陸に着いた海賊がすることなんて限られていますから」
場違いな女がガラの悪い連中に目をつけられるのではとヒヤヒヤしていたが、周囲は奇妙なほどに反応しなかった。人を押しやりながら奥へ奥へと進む。男は女に手を引かれ、誰にも絡まれることなく目的地へとたどり着いた。
この酒場には、特別な客のための部屋がいくつか設けられている。静かに飲みたい者や密談をしたい者、身内だけで盛り上がりたい者など用途は様々だが、いずれにしろ部外者がズカズカと入り込んでいい場所ではない。
占い師はそこまで来ると、店員に声をかけた。ホーキンスの名をあげたところで相手が客の情報を簡単に漏らす訳もなく、すげなく追い返されそうになっている。それでも彼女は怯まず、自らの名を淡々と名乗った。
「彼にお伝えください。あなたとの逢瀬を待ち望んでいる女がいる、と」
その自信に満ちた振る舞いから、愛人を呼んだとでもあたりをつけたのだろう。店員は追求せず、確認してまいります、と部屋のある方角へ消えた。
待っている間、占い師は客の男にニコ、と笑いかけた。暗闇から出た彼女は比較的とっつきやすく見えたが、依然として触れてはならない世界の者と思わせる何かがあった。肌のほとんどが布で覆い隠されているけれども、不審さよりも神秘性が勝る。酔った男達がぎゃあぎゃあと騒ぐ酒場でも凛とした佇まいを崩さない。そんな占い師が俗世に身を置く様に違和感を覚え、苦笑いで返す。
しばらくすると店員が帰ってきて、部屋への案内を申し出た。先導する彼を追いながら、男は興奮を抑えきれずに占い師へと話しかけた。
「名前を言うだけで通してもらえるとは……相当仲がいいんだな」
「……それなりに顔を合わせてはいます」
男だって多少は心の機微を察することができるので、深入りするのをやめた。彼女にも何か事情があるのだろう。人の恋愛沙汰となれば興味を引かれてしまうものだが、ここまでしてくれる恩人に不義理をしたくはない。
ぽつぽつ会話をしながら案内に従って歩いていくと、店員はある扉の前で立ち止まった。物音一つ聞こえないが、この向こうに目当ての人物かいる。ついにあのバジル・ホーキンスと相対するのだ。おれの依頼を受けてくれるだろうか。
不安でざわつく気持ちを誤魔化そうと、占い師の女に目をやった。彼女ならば力強く後押ししてくれると思ったからだ。しかし女もなぜだか緊張した面持ちで――いや、少し違う。まるで因縁の相手と会うかのように、その肩が震えていた。
店員が中の客に許可を取り、扉を開く。そいつの仕事はそこまでで、一礼して去っていってしまう。残された男は占い師の女の後に続き、海賊の待ち構える部屋へ踏み込んだ。
海賊の宴ともなれば豪快に食べ散らかすものだ。普段船上で生活している彼らが陸地に降り立つ貴重な時間。それはホーキンス海賊団にも当てはまっていたようで、テーブル下に転がる大量の酒瓶からは彼らの宴が盛り上がっていたと察することができた。しかし、楽しみを邪魔した女達への敵意は思いの外少なかった。ちくちくと野次を飛ばされるものの、殺伐とした空気は無い。やはり女が知人であったことが功を奏したのだろう。不躾な視線が突き刺さるが、この程度で臆していては船長と対峙するなど不可能である。堂々と闊歩する占い師を羨みながら、男はどうにかこうにか進んでいった。
ローブの集団を慣れた様子であしらって、占い師の女は一つのテーブルの前に立った。男もその斜め後ろに立つ。横に並ぶにはまだ度胸が足りなかった。他の席は一人掛けなのに対し、このテーブルにはゆったりと座ることのできるソファが添えられている。特別なはずのそこに一人腰掛ける者、つまりはこの集団の長の前に男達は立っていた。
女の肩越しに、手入れされた長い金髪と三角形の眉が見えた。手配書でしか見たことの無い顔が今、剣の切っ先より鋭い瞳でこちらを値踏みしていた。
バジル・ホーキンス。ホーキンス海賊団の船長であり、「魔術師」の異名を持つ男。
彼はその浮世離れした雰囲気で場を支配していた。女と同類の、いいやそれ以上に腹の底が読めない海賊は、不機嫌を隠しもせず吐き捨てた。声を張っている訳でもないのに、彼の低音はやけに響いた。
「男連れで逢瀬とは笑わせる」
「そちらだって大所帯じゃありませんの……あなたにお客様がいらしているわ」
「知らん。客になるかはカード次第だ」
「とのことですから、詳細はこの……バジル・ホーキンスにお話しくださいませ」
占い師の女はそうして客に話を振った。ホーキンスはすでにタロットカードを切っていた。あのカードが、ひいてはその結果が男の命運を左右する。しかし彼女がこうして依頼の場を設けてくれたのだ、あとは自分で交渉しなくてはならない。崖っぷちでいきなり手を離されたような不安感を堪えながら、占い師へ礼を述べた。
「あ、ああ! ありがとよ嬢ちゃん! 恩に着るぜ!」
「いいえ、お気になさらず。これもまた、縁ですから……」
せめてもの案内賃として金を渡そうとしたが断られてしまい、男は取り出した財布を彷徨わせる。彼女は手をそっと握って財布をしまわせた。
「占っておりませんもの、いただくことはできませんわ。この男をお頼りになるのなら、特に」
占い師の女はそう言い切った。彼女の視線の先にいるホーキンスはタロットカードとの対話を終えたのか、憮然とした表情でこちらを見ている。慌てて男が向き直ると、彼は広げたカードに目を落として結果を読み上げた。
「お前の依頼を請け負うと運気が上がる確率、88%……いいだろう、話を聞いてやる」
承諾されたというのに、男は震えが止まらなかった。ホーキンスの発する圧に慄く男の背を、占い師が優しく押した。それに励まされたのは事実だが、眼前の海賊からの視線がさらに鋭くなったような気もして、一秒でも早くこの部屋から出るために依頼内容の説明に移ったのだった。
▲▲▲
客の男に愛想よく振る舞っていた女は、相手の視線がそれると即座にホーキンスの方を向いた。おそらくはベールの奥から睨みつけているのだろうが、数多の海賊と戦ってきたホーキンスからすれば子猫が唸っているようなものだ。無視して客の話を聞く。乱れなく紅をひいた唇がギィ、とひん曲がるのが視界の端に見え、ほんの少し愉快な気分になる。
客の頼みは世界にまで範囲を広げた失せ物探しで、ホーキンスの力を以てすれば解決できなくもない。それに、報酬としてこちらが求めた物を用意できると言った。占いによるとその発言が嘘ではない確率が高かったため、男の依頼を正式に引き受けることにした。
占う対象をイメージしながら、カードをシャッフルする。客がおお、と感嘆のため息を漏らすのが聞こえた。彼の背後から向けられる眼差しがさらに真剣なものになったことだって、ホーキンスは感じ取っていた。
女は人の占いを妨げることだけはしない。ホーキンスが空中にペタリペタリとカードをはりつけていくのをじっと見ている。睨んでいると言った方が正確であろうその気迫は、見て覚えろと言い渡された弟子のような必死さがあった。
女は常に研鑽を怠らなかった。いつかの島で巡り合った際、主たる「姫様」のために力をつけておかなくてはならないのだと言っていたのを思い出す。今おこなっている占いも彼女の糧となるのだろうが、ホーキンスは特に隠すことなくいつも通りに進めていく。不愉快になった自分が不思議だったが、そんな気持ちもすぐに消え失せた。
並べ終えたカードをめくる。一枚一枚の持つ意味を照らし合わせ、解釈に移る。今回なら、これは――。
顔を上げると、固唾を呑んで見守っていたであろう客が目に入る。次いで、彼を支えるように立つ女も。ベール越しに目があった気がしたが、ぱっと視線をそらして本題に戻る。
「……西の海にある確率が高い」
「新世界じゃねェんだな!? よ、よかった……! まだなんとかなる……!」
「目当てのものが移動する確率は90%。狙ってるやつが多いとなりゃ、お前が取り返す前に隠されるのも時間の問題だろう」
「ああ、わかってる……西の海の、どのあたりかは……」
広げたカードをまとめ、再度占う姿勢を見せることで返事とする。詳細な場所を占い、その結果を伝えると、客は「それなら伝手がある」と安堵の息をついた。
あとは自分で探せ。そう言い放つと、客はこくこくと勢いよく頷き、露骨に扉を意識し始めた。ホーキンスが仲間に目配せすれば、仲間は男の行く手を阻むように立つ。報酬を確保するまでの段取りを決めなくてはならない。
もうホーキンスのやることはないため、カードを片付けグラスを傾ける。同じく仕事が終わったはずの女に声をかけようとしたが、彼女は客の側を離れなかった。海賊相手に怯える男に微笑みかけ、彼が不利にならないよう取引に口を出し続けているのだ。ここにホーキンスがいるというのに彼女は他の男を優先している。ホーキンスは何も言わずワインを口に含んだ。わざわざ用意させた気に入りの一本だ。今日は殺生を避けるべき日であるし、このボトルが空になるまでは待ってやろう、と思いながら、仲間と女の押し問答を眺めていた。
「お前は関係ねェだろ! 引っ込んでろ!」
「あら、わたくしがお連れした方でしてよ。最後までお付き合いするのが道理じゃありませんこと?」
「じ、嬢ちゃん、そんなに言ったら殺されちまうよ……」
「殺されるのならとっくに首をはねられているはずです。今わたくしが死んでないのだから今日は問題ありませんわ。安心してくださいませ。彼らは海賊ですけれど、こういう時の取引は誠実です。彼らの神に誓ってくださいますもの、ね?」
「……ああ」
「なんか間があったぞ今……」
力は無いが口だけはやたらと回る女だった。仲間がこちらに訴えかけるような視線を向けてきたが、ホーキンスは首を横に振って返した。殺生をすると運気が下がる日なのだ。この女に出会う日は毎回そうだ。天は彼女にばかり味方する。そうして仲間は腰に携えた剣を抜くのを必死にこらえ、あくまでも冷静に話をする羽目になったのだった。
女が連れてきた客を見送り、バタンと扉が閉まる。彼女の妖しげな笑みが崩れ、船員達を押し退けながらホーキンスに詰め寄った。ようやくおれを見たな、と言おうとしたが、金切り声に遮られる。
「またあなたなのバジル・ホーキンス!!」
「それはこちらのセリフだ。またお前か。さっさと諦めて別の職についたらどうだ」
「これが私の天職なんです! 私の占いがそう言っているんだから間違いありません!」
「そうか。お前の天職が占い師である確率……」
「占うな!」
女のあの口調は単なるキャラ付けである。占い師たるもの信用を得るための雰囲気作りも重要なのだと言い張っていたが、おおかた例の主の振る舞いを形だけ真似ているのだろう。こうして感情が昂った時に垣間見える女の素の姿は、その身なりに反して幼く見えた。
バジル・ホーキンスがこの占い師の女と関わるようになったのは、海賊として海に出てからのことだった。まだ懸賞金もつかないうちから女と出会い、彼女が連れてきた客をホーキンスが占い、彼女に恨まれて終わる。その繰り返し。行く先は伝えていない、ましてや彼女が海賊王を目指している訳でもないのに、なぜかホーキンス達の停まる島には女がいた。一度「後をつけられているのでは」と疑いもしたが、自らの占いがそれを否定し、女の性格からしてもあり得ないと結論づけた。どうやったって巡り合う二人。運命と呼んでも過言ではない関係……と思っているのは、ホーキンスだけのようだったが。
女が連れてくる客は一様にしてホーキンスの求めるものを持っていた。それは次の島に進むための海図であったり、必要な人材であったり、ただ略奪するだけでは手に入らないであろうものばかりだった。
船員が面白がってこう呼んだことがある。「おれ達の女神」と。ホーキンスはそれを笑わなかった。彼女と出会う日は運気が上がる。たとえそこに因果関係が無いのだとしても、験担ぎには十分な理由だ。
今日の「女神」はまだ立ち去っていない。占うなと言っておきながら、結果が出るのを待っているらしい。ホーキンスがカードの内容を読み取ったと見るやいなや、女は恐る恐る尋ねた。
「……どうでした?」
「気になるのか」
「今後にかかわってきますから」
ホーキンスが鼻で笑っても女は動かない。じ、と見つめると、レースの隙間からちらちら不安げな目が見つめ返してくる。その乞い願うような瞳に免じて教えてやることにした。
「……99%」
「どっちが?」
「さあな」
「はぐらかすなんて占い師の風上にも置けませんわ」
拗ねた物言いに興が乗り、戯れるように結果を伏せる。それに、ホーキンスが何と言おうと女が占術をやめることはないのだ。ここで答えを明かさずとも問題はない。
ホーキンスの口を開かせようと女が試行錯誤していると、仲間が集まってきて口々に彼女を批判した。とはいえ酒の席の軽口であり、少なくともニヤニヤとした顔で茶化す彼らに悪意はなかった。
「ホーキンス船長、わざわざそいつに構うことないですって!」
「そうそう、負け犬の遠吠えなんですから」
「そうは言ってもうるさくてかなわん」
「船長に似て失礼極まりない船員ですこと……!」
お前の指導はどうなっているんだ、と責めるような視線を送られたが何のその。どんなに粘っても追求を躱される上にあれこれ言われて嫌になったのか、女はドレスの裾を翻して叫んだ。
「とにかく、わたくしはもう役目を果たしましたっ! お暇させていただきます!」
「おう帰れ帰れ!」
「誰も呼んでねェっての!」
「キィー!! なんて品のない人達……!」
そんな捨て台詞を吐いても、女は扉を静かに閉めていく。それがどうにもおかしくて、船員達がどれたけ悪口を叩いても場の空気は和やかだった。
あの女、まだ生きていたのか。元気そうだったな。どこかで野垂れ死んでるとばかり思っていたが。バカ言え、あの面を見たら分かるだろ、あいつはそうそうくたばらねェよ。
何度も出くわしていれば馴染み深くもなるものである。船長に楯突く生意気な女だが、悪いやつではない。たまに殺してやりたくなるが、まァ生かしておいても構わない。仲間の中で彼女はそういった認識になっていた。顔見知りの無事を知れたのがそんなに嬉しかったのか、船員の一人が思いついたように提案した。
「船長、次会ったらあいつを宴に誘いませんか?」
「悪くない……もう誘い文句の出番が来たようだぞ」
「えっ?」
コンコン、と控えめなノック。扉の向こうから「またあなたに依頼したいという方が来ているのだけど……」と、感情を押し殺した声が聞こえたものだから、ホーキンス以外がドッと湧いたのも無理のないことだった。
何度も宴を邪魔したのだからそれ相応の償いをするべきだ、と難癖めいたことを言えば、女はムッとした顔でしばらく黙り込み、ホーキンスの望みを問うた。
「ここに座れ」
自身の隣を――さっきまでいた船員はそそくさと立ち退いて遠くの席から見物している――指し示す。身構えていた女はホッとした顔に、そして怪訝そうな顔へと変わった。しかし食い下がってこれ以上の難題を突きつけられるのは避けたかったのか、彼女はあっさり頷いた。
命じた場所から少し離れたところに座ろうとした女をじとりと睨む。「な、なんです」と動揺した答えが返ってくる。
「おれはここに、と言ったんだ。そこじゃおれの声が聞こえねェだろう」
「そんなわけ……分かりましたから、そう怒らないでください」
負い目を感じている時の女はそれなりに神妙な態度をとるようで、身じろぐだけで肩が触れ合うような距離に座らされてもそれ以上の文句は言わなかった。居心地悪そうに、けれど商売中とそう変わらぬ姿勢の良さで、彼女はソファにちょこんと収まっていた。
部屋中が客人が訪れる前と同じくらいの盛り上がりに至っても、ホーキンスと女のいるテーブルだけは無言が続いていた。座ってしばらくの間はそわそわしていた女も、次第に慣れてきたのか、仲間達の交流や喧嘩を眺め出す。ベールの下に見える横顔はよそ見ばかりしている。
女の視界にホーキンスはいない。こんなにも近くにいるというのに、彼女はホーキンスを見ようとしなかった。時折机上に目を向けるが、グラスが空いているかどうかの確認だけで、自分は一切ものを口にせずただ座っていた。なぜホーキンスが自分を侍らせたのか、それすら気づいていないようだった。
ホーキンス自身、この女をどう思っているのか定かではない。顔を合わせても不快ではなく、視線が逸れるとなぜか苛立つ。その程度のものだ。こうして横に座らせたのも、ただほんの少し、彼女を振り向かせてみたい、と魔が差しただけで。
――とはいえ、他者を口説くのに長けているとは言えない身である。ご機嫌取りをする気もさらさらないホーキンスは、思い浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「おれに客を取られてばかりのようだが、生活は成り立っているのか」
「奪っている側の人間がいけしゃあしゃあとまァ……飢え死なない程度には、稼がせていただいております」
「今日の晩飯は」
「…………」
「どうやら「稼ぎ」の基準が違うらしいな」
フォークを手に取ると、近くの皿から肉――仲間が食べていたものだ――を一切れ持ち上げ、彼女の前に差し出す。目を丸くしているのを感じるが、気にせず続ける。
「食え」
「……お言葉に甘えさせていただきます。でも自分で食べますからお手伝いはいりません」
「ほう、断ると。お前はなぜここにいる? 空気を乱した罪を償う気はあるのか?」
「……あなたってそういう言い方しかできませんの?」
何がしたいのか分からないわ、とぼやきつつ、女は口を開けた。ホーキンスの手ずから与えた食べ物が紅をひいた唇に吸い込まれていく。艶めいた赤に食べかすがつく。本人はソースをこぼさないことに気を取られているが、あっという間に口紅が落ち、素の唇が露わになっていた。食べるために接近したことでベールの中も見えた。肉を口に収めきった女は、ふと目線を上げた。ホーキンスと目があって今の自分の様子を恥じたのか、気まずそうに目をそらす。その些細な仕草に体の奥の燻るのを感じたが、なかったことにして餌付けを続けた。
こうして宴に参加する許可が降りたというのに、女は水と食事ばかりを口に入れていた。宴の空気にも呑まれず酔う気配一つ見せなかった。ホーキンスや仲間達との会話でも一定のラインから先に踏み込まれないよう気をつけている。女と食事を共にするのはこれが初めてではないが、そういえば彼女の酔った姿を見たことがないな、と思い至ったホーキンスは、女にワインを注ぐよう命じた。特に反発することなく注ぎだした彼女の手元にグラスを一つ追加すると、訝しげな視線を投げられた。
「注げ」
「どなたのグラスですか?」
「お前の分だ」
「あら、気持ちはありがたいですがお構いなく。今はそういう気分じゃありませんから」
勝手に断って注ぐのをやめた彼女からボトルとグラスを奪い、ホーキンス自ら注いでいく。横から動揺した声が聞こえたが手を止める気はない。
「えっ……いや、だからいらな……ああ……」
「てめェホーキンス船長の酒が飲めねぇってのか!?」
「死んでも飲め!!」
「元気な殿方ばかりですわねこの海賊団は……!」
横から首を突っ込んできた仲間達に言い返しながら、女はしぶしぶワイングラスに口をつけた。乗り気じゃなさそうな割に、酒の感想を述べる余裕がある。案外飲める口らしい。
――と思ったのもつかの間、彼女はすぐに顔を真っ赤にしてぽやぽやとし始めた。見るからに気が緩み、今にも寝てしまいそうな様子だが、本人にその自覚はないようだった。
女は酔いが回り始めると口数が減った。その分私的な話をポツポツとこぼすようにもなった。
「どうしてかしら……頼るのは、わたくしでもよかったはずですのに……」
「お前じゃムリムリ!」
「客だって察してたんだろうよ。こいつにゃ近所の迷い猫を探すのが精一杯だってな」
「うううう……できます、できますわ! だってできなくちゃ帰れませんもの。世界で一番の占い師になって帰るって、姫様と約束したんです……」
「世界一の占い師ィ? お前が?」
「皆のためなんです。私の占いで全部決めるなら、ちゃんと占えるようにならなきゃ……」
女はとある国名を口にした。確か以前ホーキンスも聞かされた名前だが、調べてもあまり情報が出てこなかったあたり、小さな国なのだろう。幼少期から親しくしていた「姫様」とやらは女をひどく気に入って重用したそうだが、あまりに全ての物事を占いで決めようとするものだから、怖気づいてしまったのだと。修行する、と無理を言って旅に出て、今に至るのだと。女はそういった内容をくだけた口調で、あちらこちらに脱線しながら話し終えた。その間、ホーキンスは突如占術という道案内を失った「姫様」の気持ちに思いを馳せていた。
「姫様が無事なのはわかってるの。毎日占ってるから。でもやっぱり心配で……あァ姫様、泣いてないといいんだけど……」
その「姫様」の求める手を振り切ったのはお前だろう、お前が泣かせたんじゃないのか。ホーキンスがそう指摘すると、女は唇をぎゅっと噛んだ。弱り果てた表情が、そんなにも心奪われる相手がいるのだと示す様が、ホーキンスはなぜか面白くなかった。
▲▲▲
酔いつぶれた女を介抱するなど、普段のホーキンスならばそうそうしない。だからこそ船員達は、船長が女を抱きかかえて宿の一室に向かったのを見て浮ついていたし、船長――ホーキンスはそれを否定すること無く酒場をあとにした。
女は野宿でもするつもりだったのか、宿の手配すらしていなかった。もっとも、部屋をとっていたところで、ホーキンスが彼女を運んでやることはない。自らが泊まる予定であった一室へ女を連れ込んだ。
船長のために、と仲間が用意したのはこの島でも上等な部屋だったらしく、一歩踏み入れるときらびやかな空間が広がっていた。室内の明かりに照らされた家具や設備が輝かんばかりに並んでいるが、一番反応しそうな女はまだ起きない。ホーキンスも起こすことのないままベッドルームに入る。
広々としたベッドに女を座らせようとしたが、自分で座ることもできないのかぐにゃりと倒れてしまう。倒れた拍子にベールがずれた。そっとベールを外せば素顔が露わになる。化粧の力で強く見せているが、こうして神秘のベールを暴かれた彼女は至って普通の女に過ぎない。きちんと横たわらせてやり、乱れた髪を整えれば、魔法で眠らされた姫のように穏やかな寝姿となった。
姫。今のホーキンスにとって、心がささくれ立つ言葉。
この女がホーキンスと向き合うのは「客を取られた」と怒る時だけ。占う際に向けられる熱い視線すらも「姫様」のためのものなのだ。だからどうした、と思う。ただの顔馴染みの言動なんてどうでもいいはずだ。どうしてこんなにも心乱れているのか。何度占っても明確にならない。それならいっそ、一度寝てしまおう、と。欲を満たせば何か変わるだろうと予想して女の体に触れた。
ホーキンスが覗き込んだと同時、女が目を開き、こちらを見た。ぼんやりとした目がホーキンスの顔を通り過ぎ、ウェーブのかかった髪へと向かう。視線は合わない。女が笑う。屈託のない笑み。
「姫様」
反射的に首を締めそうになった己の手をどうにか押し留めた。女と間違われることは少なくない。占いが許せば毎回その場で切り殺してきた。今日は殺生をしてはならない日であるから、見逃してやる。誰に伝えるわけでもない言い訳を脳内に並べながら心を落ち着かせた。命の危機が迫っていたとも知らずに、女はふわふわと笑っていた。
彼女はこの場にいない者をホーキンス越しに見ていた。世間で魔術師と呼ばれる恐ろしい男に軽々しく手を伸ばし、金髪に指を通す。くすぐったさに身をよじると、女は身を起こして戯れのように追いかけた。
「姫様、姫様、御髪を梳かしてさしあげます。こちらにいらして」
歌うように呼びかけるけれども、ホーキンスは姫様ではない。行ってやる義理などないから距離をとった。呼んでも微動だにしないのがそんなに悲しかったのか、女の目に涙が浮かんだ。野宿をしても、柄の悪い男に囲まれても決して泣かない女が。
いつまでも自分以外に夢中なのが気に入らなくて、ホーキンスは女に近寄った。ぱあっと輝いた彼女の顔に手を添える。夢見心地なぼんやりした瞳と目を合わせながら唇を奪う。「姫様」ならばしない行為をしばらく続けると、夢から覚めた女が、もういい、と伝える程度の強さでホーキンスの胸を叩いた。
「ちょっと、あなたね……」
「ようやくお目覚めか」
「……私、寝てたの?」
女はぼうっとしたままホーキンスを見た。至近距離にいる恋人でもない男の顔をしげしげと見つめ、先程までされていたことを思い返しているらしかった。見知らぬ宿の一室で二人きりになっているし、どうやらベッドの上にいるらしいぞ、と酔いの回った頭でたどり着いたようだが、それでも彼女は焦る様子を見せない。彼女は眠たげに何度か瞬き、もう帰ります、と呟いた。
「どこに帰るつもりだ。ここらの宿はもう部屋がうまっているはずだが」
「んん……船に戻って寝るから……」
「このままおれに身を任せるのはどうだ」
「……あなたがいいと仰るのなら」
女はそう言うと少し横にずれて、ぱたんとベッドに倒れ込む。ホーキンスはしばらく無言で女を見つめた後、女の服に手をかけた。女は抵抗しなかった。それは同意ではなく、単に彼女が眠気に負けただけなのだと気付いた瞬間また殺意が芽生えたが、健やかな呼吸と共に上下する胸を見て諦めた。無意識のうちにため息がこぼれた。この状況で寝るなんてどうかしている。かと言って無理に事を進めてしまえばホーキンスばかりが求めているようで腹立たしい。どうしてこんな女に心乱されているのか。いっそのこと早く消してしまいたいが、また占ったところでその許しは出ない。殺してはならない、という結果に少し安堵した自分がいて、その事実にまた苛ついた。
部屋の主を差し置いてぐっすりと眠る女を眺めながら、ホーキンスの脳内では、女のとろけるような声と笑顔が繰り返し映し出されていた。
あの笑みが正真正銘自分に向けられたものならば、どれほど心躍っただろう。
そんな馬鹿馬鹿しいことを考えてしまった。深夜の魔力とはかくも恐ろしいものである。
その気が失せたホーキンスは女をベッドに放置すると決め、気分を変えるために風呂へ向かった。
▲▲▲
カーテンを閉めて寝たはずなのに、朝日の眩さで目が覚めた。隣にいたはずの女は体温すら残さずベッドから消えていた。横たわったままぼんやりしていると、支度を終えたらしい女がベッドルームの外から顔を出し、朝の挨拶と共に、今日出港するという旨を告げた。ベールはまだつけておらず化粧で整えられた顔がさらされている。きれいに取り繕われたそこに、昨夜の腑抜けた様子は感じられない。
いつもは日が落ちてから出会うことが多いため、太陽の光を浴びて立つ彼女はなんだか物珍しく映った。決して本人に言うつもりはないが、彼女自身がほのかに輝いている気さえしてくる。月明かりは彼女の妖艶さを引き出すが、日差しの中にいる姿は、まるでそこが本来いるべき場所かのようにしっくりときていた。
「よく眠れたようだな」
「おかげさまで。昨晩はありがとうございました。お礼に占ってさしあげます」
「必要ない」
「もう準備を始めてしまいましたから最後まで聞いていってくださいまし」
ベッドサイドに回り込み、サイドテーブルで好き勝手し始めた女を、ホーキンスは止めずにいた。あまり手の込んだことをするつもりはないのか、準備と言っても周囲を軽く清めるくらいのものだったため、遮ることも立ち去ることもできた。しかしホーキンスはその場に留まった。お互い自分の占いこそを信じて生きているが、女がホーキンスのために占うというのは初めてのことだった。
こまめに手入れをしているのか、彼女の指先にはささくれ一つなかった。海賊の男と比べれば細く頼りない手が踊るようにカードを捌く。ホーキンスにとっての日常でもあるその行為は、彼女がおこなうと別の儀式のように見えた。仲間以外の占いをまじまじと見る機会が少ないからこその錯覚なのかもしれない。神託を受け迷いなく動く指先がホーキンスを導こうとしている。
カードの配置で、彼女の意図を察した。ワンオラクル。シャッフルした中から一枚引くだけのシンプルなもの。
「何を占っている」
「あなたのこれからを」
「お前に任せずとも――」
女は手慣れた動きでカードを捌き、一枚引いた。表面には正位置の太陽。この女によく似た、力に溢れたカードだ。ホーキンスが反応するより早く、彼女の表情が明るくなった。本人を差し置いて、占った側である彼女が一番この結果に喜んでいた。
「あなたの船路は希望に満ちたものとなるでしょう!」
カードと同じくらいに輝く笑顔で、女はホーキンスにそう断言した。あまりに漠然としすぎている。「信用を得るための雰囲気作り」とやらはどうしたのかと言いたくなる。もっと言いようがあるだろうに、と。
けれども彼女の自身に満ちた顔を見ると、何があっても大丈夫だという気にさせられる。たとえ大丈夫でなかったとしても、彼女の助言があればなんとかなる。そんな根拠のない自信が湧いてくる。「姫様」もこれにやられて重用したのだろう。占いの腕はともかく、そういった面での適性はあるらしい。
心の内を明かさずに女を見つめていたが、ホーキンスは視線を外し、自身の日課を行うために使い慣れたカードを展開した。期待した反応を得られなかった女は一瞬ムッとした顔になるも、すぐ切り替え、ベッド横に椅子を持ってきて座る。カーテンを開け放った部屋には日の光が差し込み、今日の運勢を占おうとする男も、その様子を見学している女も等しく照らした。そうして、占い師二人の静かな朝が過ぎていった。
勝手に部屋を出ようとした女を引き止め、自分の支度が終わるまで待てと言いつける。「見送ってくださるの?」なんて言葉は無視した。
仲間に連絡を入れた後、港までの道を共に歩く。海賊としてそれなりに名の知れたホーキンスが横にいるからか、誰一人女に近づいてこない。客になりうる人間も、弱者を狙う荒くれ者も。
この世界で非力な女の一人旅となれば、即踏み荒らされて終わるのが常だ。しかし目の前の女は違った。故郷を恋しく思うほどの期間、誰にも傷つけられずに旅を続けることができている。航海士もいないのに貧相な小船でありとあらゆる海を乗り切ってきたというのだから訳が分からない。
それが真実ならば――奇しくも巡り合ってばかりいるホーキンスこそが証人なのだが――どれだけ金を積んだところで手に入らない幸運に恵まれていることになる。持ち主たる女はその価値に気づいているのかいないのか微妙なところだ。
島中の店が開店準備をしているのを横目に歩みを進める。女のスピードに合わせてやりながら、ホーキンスは話を切り出した。
「行き先は決まっているのか」
「わたくし、型にはまった生き方はいたしませんの。気の向くままに、わたくしの占いを求める方がいる場所こそが次の目的地ですわ」
「毎回おれと同じ島に着くのは偶然だとでも?」
「あら、てっきりあなたがわたくしを求めてらっしゃるのだとばかり。違って?」
「…………」
「冗談のつもりはなくってよ」
知人でもいたのか、通りすがりの島民に手を振りながら女は答えた。活気が出てきた街のざわめきにかき消されない程度の声で、わずかながらに本心が明かされる。
「あなたと何度も出会うのはわたくしにとっても不思議ですけれど、実のところ……お会いする度安心しておりますの」
それを聞いたと同時に、ホーキンスはふと思い至る。運が彼女に味方するのなら、ホーキンスとの縁もまた、彼女の望むものなのかもしれない。女の一人旅という心細い道中、次の島でも知り合いがいてくれたら、と本人も気づかぬうちに思っているのでは。だがこれはホーキンスに都合のいい考えに過ぎない。確証が持てるまでは、と口をつぐんだ。女は隣を歩く男の思考に気づかず話し続けていた。
「お客様の取り合いに関しては、まァ……声を荒げてしまうことがありますけど……わたくしの実力不足故ですもの。本気で恨んだりしませんわ」
「自覚があって何よりだ」
「口を挟まないでいただけます?」
女から非難されたが、ホーキンスは気にせず問いかけた。すでに目的地である港が遠くに見え始めていた。グラッジドルフ号も女の乗ってきた小さな船もそこに並んでいる。別れの時が迫ってきていた。
「いつまで一人旅を続ける気だ」
「国を背負えるほどの実力を――」
「何を以て実力がついたと言える? そんな甘い考えでよく生きてこられたものだな」
「……わたくしもそう思いますけれど……あなたの言葉には含みがあるように聞こえます。伝えたいことがあるのならはっきり仰ってください」
「おれの船に乗れ。占いの腕を上げるにも身を守るにも、それが一番の選択だ」
「……なぜ?」
心底不思議そうな声色だった。なんでそこまで私に手を貸すの。そう言いたげな問いに、ホーキンスの口は自然と答えていた。
「お前を側に置きたい」
答えながら、おれはこう思っていたのか、と腑に落ちる。彼女はぽかんと口を開けていたが、気を取り直すと「……もう一押しほしいですわね」などとねだってみせた。これ以上を求めるなと言いたいところだが、なんとか言葉をひねり出す。
「おれにもお前の占いが必要だ」
「先ほど必要ないと自分で仰っていたじゃありませんか」
「お前がカードと向き合っている時の顔は好ましく見える」
愛する者への眼差しが、こちらに向けばとすら思う。そこまでは口に出さなかった。女はぱちくりと瞬いて微笑むだけ。眉間にシワを寄せたホーキンスを見てさらに笑みを深くした。
「私もあなたのこと、結構好きですよ」
言うつもりはなかったのですけれど。取り繕ったように付け足したそれを最後に、彼女は駆け出した。軽やかに船へと近寄って、瞬く間に準備を終えてしまう。たいして大きくもない船だから、出港できる状態になるまでそう時間はかからなかった。
船に乗り込む直前、何か言い残したことはないか、と言いたげに彼女が振り向いた。ホーキンスにはもう付け足すことはなかった。波の音に耳を傾けた後、女がぽつりと呟いた。
「あなたって、海賊なのにわたくしを奪おうとはしないのね」
「体を奪ったところで、心が手に入らなければ虚しいだけだ」
実のところ、何度か占ったことがある。この女を攫ったらどうなるのか。こういう時の占いはホーキンスに味方しない。ことごとく「運気の低下」「関係の悪化」「女の自決」と悪い結果しか出なかった。だがそういった事情は全て伏せ、ホーキンスは別の本心を口にした。嘘ではない。例の姫様とやらに勝てないまま、蹂躙され萎れていく女を手元に置いたとて自らの欲は満たされないだろう。
女はその背景すらも見通しているのか、ニコ、と笑った。いつもの如く、乱れのない口紅が弧を描いた。
「賢い人。わたくし、いいえ、私……あなたのそういうところに惹かれたのかも」
「思わせぶりな態度は身を滅ぼすぞ」
「ご忠告ありがとう。その理性に免じてご褒美をさしあげてよ」
女がホーキンスの側に歩み寄り、少ししゃがむよう頼んだ。応じてやると、顔に手を添えられた。昨夜、ホーキンスが彼女にしたように。唇がほんの一瞬触れ合って、離れた。
「……もう少しだけ」
呟くやいなや、彼女はまた唇を重ねた。ここが港でなければ、昨日のあの部屋であればこのまま全てを暴いてやったのに、と思いながらホーキンスはされるがままになっていた。抱きしめでもしたら、先程の言葉を無に返してしまいそうな予感がした。
自身の唇を彩っていた紅がホーキンスの唇に移ったのを確認すると女は満足したのか、そっと耳元に口を寄せた。
「物足りない?」
「分かっているのならもう一晩この島に留まれ。今度は何があろうと最後までやるぞ」
「あら怖い。でも今日発つって決めたから。ごめんなさいね」
わざとつけたくせに、細い指がホーキンスの唇から紅を拭い取っていく。彼女の唇に負けず劣らず柔い指の腹が、彼女の痕跡を消し去ってしまう。
「わたくしとあなたの縁ですし、次があるでしょう。その時お相手してくださいな」
「次があると信じているのか」
「もちろん。まァ、会えなくても問題ありません。何の手がかりもなくたって探し出してみせます。わたくし、世界一の占い師になるんですもの。あなた一人探すのくらいどうってことないわ」
口に出すことで望みが叶うとでも思っているのか、女は威勢のいいことばかり言ってのける。彼女の名を呼ぶと、窘めるかのように名を呼び返された。棘のない、やわらかい声がホーキンスの名を音にする。
「何度別れたってまた会える。そうでしょう」
それが世界の理だ、と続けそうな口ぶりだった。そんなはずがないのに。けれども彼女がこう断言したのなら、きっと叶うだろうと思ってしまう。この女は魔術師と呼ばれる男すらも転がして、誰にも縛られずに旅を続けるのだ。
軽快に、しかし優雅にドレスを揺らしながら船へ飛び乗った彼女は、指の先まで美しく動かして別れを告げた。
「それではごきげんよう!」
日の光を浴びてきらめく海を船が行く。船上でお淑やかに手を振る彼女の、無邪気さの滲み出る笑顔が太陽よりも眩しく映る。
欲しいものが手に入らなかったというのに、なぜかホーキンスは満たされていた。昨夜抱いた愚かな望みが、あの表情が、今自分に向けられている。たったそれだけで、今回は見逃してやろうという気分になった。
次相まみえるのはいつになるのか。今別れたばかりだというのに、あの女がひどく恋しくなっていた。いつか会えるその日を指折り数えて――なんてことは、さすがにしなかったけれど。
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