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ここは奈落の花溜り/ドフィ
その日は空も海も凪いでいた。恐ろしいくらいに静かな朝だった。***
朝の冷え込みで目を覚ました兄弟が真っ先に目にしたのは、ベッドの傍らで立ちつくす父の姿だった。どんなに疲れていても挨拶だけは欠かさない父が、ベッドに手をかけて母を覗き込んだまま硬直している。兄弟が声をかけても、微動だにしない。
ドフラミンゴの全身から血の気が引いた。いやだ。そんなわけない。脳裏によぎった最悪をかき消して、必死に否定を繰り返す。けれども父がそんなふざけ方をする性格ではないと分かっていたから、聡明なドフラミンゴはいち早く察してしまった。
貰い物のブランケットに包まりながら、弟はきょとんとして兄と父を交互に見た。ガタガタと震えだした兄が凍えていると思ったのか、寝起きのあたたかな体でドフラミンゴに抱きついた。血の巡る、生存の証。手荒に扱えば壊れてしまいそうな弟が、まだ生きてこの手の中にいる。その事実が彼をドンキホーテ・ドフラミンゴたらしめた。取り乱さずに状況確認をする、そんな余裕を作り上げた。
「父上?」
ブランケットをロシナンテに預け、ドフラミンゴは父に近寄った。まだ引いた血の気は戻ってきていない。大した距離でもないのに、ずいぶんと時間がかかった気がした。
父はただ固まっているのではなかった。母の耳元で、必死に何か呼びかけている。至近距離にいるドフラミンゴにも、その囁きが聞こえてしまう。
「起きてくれ、頼む、いかないでくれ……!」
絞り出すように紡がれた言葉は、この現実を知らしめるのに十分だった。
あれほど病で苦しそうだった母は、まるで眠っているかのように安らかな表情をしていた。今にもぱちりと目を覚ましそうな白い顔。息をしていないこと以外は、いつもと変わりない姿。きっと母自身も眠ったとしか感じなかっただろう。最後は苦しまずに済んだようで、そこだけはよかったと安堵する。
いくら泣きついたって、微笑んではくれない。慰めてくれる母はもういない。
ドフラミンゴはおそるおそる母に触れ、その身の冷たさに全てを諦めてしまった。思っていることも言いたいことも山ほどあって、何一つ外に出せないまま、少年の小さな体の中で渦巻いている。ロシナンテの号泣する姿が目に映る。咎める者などいないのに、ドフラミンゴの体はそれに倣わなかった。
なぜ、とこの地に降りてから幾度も考えた。母はこんな場所で死んでいい存在ではない。毎日暴力に怯え、飢えに苦しみ、病に苛まれた末命を落とすなど、母にふさわしい末路とは呼べない。母が何をした? ここまで追いつめられて然るべき所業を、か弱い母がしたというのか。
背後から父のすすり泣きが聞こえる。ドフラミンゴの口は恨み言を吐いていた。
「父上……こんな汚い場所で暮らすから、母上は病気で死んだえ」
もう「なぜ」とは聞かなかった。父はドフラミンゴの言葉に何の弁解もせず、か細い声で謝り続けた。意味のない行為だ。ついに取り返しのつかないところまで来てしまったのだから。
そう告げてどうなるというのだろう。激情が頂点を通り越し、冷静さにたどり着く。ドフラミンゴの苛立ちを煽るだけの謝罪を無心で聞き流した。なにより、母の目の前で父を罵れば、誰よりも母が悲しむと思った。
よたよたと小屋の外へ向かっても、誰もドフラミンゴを止めなかった。ロシナンテは泣き叫ぶあまりに気づいていないし、父は長男に口出しできる状況ではない。軋む扉を押しのけて、うっすら明るんできた日の下に行く。
一人になりたくて外へ出たのに、またあいつがいた。ドフラミンゴが一人になる度に出くわす憎いやつ。例の如くしかめっ面をしたアルマは、小屋にほど近い場所で座り込んでいた。こんな朝早くから、と思ったが、先日の母の様子でそう長くないと悟っていたのかもしれない。他の理由もあるのだろうが、ドフラミンゴにはどうでもいいことだ。
ふっ、と少女と視線が交差する。ドフラミンゴをうつしたその瞳に、憐れみが、同情が乗った。
――気がつくと、少女に馬乗りになっていた。彼女は何も言わない。光のない瞳でドフラミンゴを捉え、次の動きを待っている。少年は少女の首に手をかけた。
首を締めてやろうと思った。いや、殴りつけてこみ上がる感情の全てをこいつにぶつければ、この苦しみも薄まるはず。そう思いたかった。
アルマの凪いだ瞳が数回瞬きをした。震えている。ちがう。これは。
「う、うぅ、ううぅっ……」
溢れる嗚咽を抑え込もうとして、無様な声が漏れ出した。震えているのは自分で、濡れた不快感は涙を流しているせいだった。勝手に視界がぼやけていくのを止めたくて、どうにもできなくて。サングラスが水浸しになっていく。
憐れみの目はまだ注がれていた。その目をやめろと言うつもりで開いた口からは、しゃくりあげる音しか出てこない。サングラスでは受け止めきれなかった滴がぽたぽたと少女の顔に垂れる。彼女は体を少し持ち上げ、ゆっくりと片手を伸ばした。
細い指だ。爪は短く切り揃えられていて、ひび割れこそないもののカサついた印象を受ける。そして先端が冷えきっている。体温を失った母の様がよぎり、一瞬息が止まった。ドフラミンゴの頬をも冷やしながら、彼女の指先は目元に到達した。いつでも振り払えるようなスピードでサングラスを奪われ、視界が開けていく。弱みを見せたくないのに、ドフラミンゴには抵抗する気力がなかった。
ぐちゃぐちゃになったドフラミンゴの顔を確認しても、アルマは無表情を貫いている。サングラスを脇に置くと、また頬を撫でた。次々とこぼれ落ちてくる涙を拭い、やさしくやさしく撫でた。
――その手つきは、あの日の母に似ていた。
「っ、あ、ああああ……!」
堪えようとしていた全てが堰を切って溢れ出す。息が苦しい。同時に、胸に渦巻いていたものが少しずつ表出する。怒り、悲しみ、恐れ、自分の中でありとあらゆる感情が混ざり合っていたのだと知る。
いつの間にか、アルマの首から手を離していた。彼女は上半身を起こし、呼吸の乱れたドフラミンゴの背中をさすっている。真正面から腕を回されたことによってまるで抱きしめられているようだったけれども、ドフラミンゴは少女の腕の中にいた。アルマの肩に顔をうずめ、流れ出す涙を止めずにわあわあ泣いた。振り払えなかったぬくもりが、そんなドフラミンゴを慰めていた。
▽▽▽
擦りすぎて真っ赤になったドフラミンゴの顔を見て、ふとアルマが身じろいだ。吹きすさぶ風とそう変わらぬ体温の指が少年の頬を包み込む。
「うわっ!!」
「冷やしてあげようと思ったのに」
「やめろ!! や、ほんとにやめるえ!!」
体自体はあたたかいのに彼女の手は氷みたいだ。逃れようと暴れるドフラミンゴに対して、少女はにやりと笑う。わざとらしい、嫌味な表情だった。
はたと正気に戻ったドフラミンゴとアルマは、無言で視線を合わせて立ち上がった。こんなことをしている場合ではない。母の遺体をどうするか決めなくては。立ちすくんだまま考え込もうとしたドフラミンゴに少女は小屋を指し示した。そちらに目を向けると、戸の隙間からこちらを覗く二人がいた。今のを見られていたのか、と冷や汗が流れる。隠し事などできる距離ではないが、それにしたってきまりが悪い。
アルマを突き飛ばすように離れ、拾い上げたサングラスをかけながら弟の呼びかけに応じる。
「兄上……?」
「なんでもないえ。ロシーは落ち着いたかえ?」
「う、うん……」
ロシナンテは泣いた後の兄とどう接するべきか悩んでいる様子だった。ごまかしも兼ねて涙でべちょべちょの顔を拭ってやれば、兄がいつも通りに動くつもりなのだと分かったのか、表情が多少明るくなる。父もほっとしたような、しかし何か言いたげな目線をよこしたが、それを無視して小屋に入っていく。なぜか足音が一つ多い。振り向くと黒い少女がこちらを見ていた。
「これからどうするの」
軋む床板を踏みつけて少女は訊ねた。誰か答えろと言わんばかりの眼差しに父が負けた。
「……落ち着いたら、どこか静かな場所へ埋めにいこうと思っている」
「具体的には? この辺は墓場に向いてないし、下手な場所じゃ見つかって掘り返されちゃうよ」
アルマに指摘された父は言葉に詰まる。そもそも天竜人として暮らしてきたドフラミンゴ達には穴掘りの経験などない。そう簡単に埋葬できないと予想がつく。少女も同じことを考えたのか、父の返事を辛抱強く待ちつつも期待はしていないらしかった。このひねくれた少女ですら母の身を案じている。やはり彼女は失われるべきではなかったのだ。
喪失の実感がドフラミンゴを襲う中、父は青い顔でうつむいていた。待ちくたびれたアルマがついに話を再開しようとした瞬間、父は彼女の側にしゃがみ込む。
「どうか、妻を安らかに眠らせてあげられる場所を教えてくれないか……」
問いかける父の姿はあまりにも小さかった。彼はいつもの笑顔を浮かべようとしたらしい。実際に出来上がったのはぐしゃぐしゃでしわくちゃで、今にも泣き出しそうな笑みだった。
少女は父のやつれた顔を見て舌打ちをした。自分を抱きしめるように腕を組み、しばらく目を閉じる。そして突如頭を搔きむしった後、彼女は選択した。
「ここから少し離れたとこに、人目につきにくい場所があるの。
父はアルマの言葉を聞き、張り詰めていた糸が切れたように崩れ落ちた。ありがとう、ありがとう、と震える声で繰り返す。枯れることのない涙がぼろぼろと流れ落ち、床板の色を変えた。
アルマは、様子をうかがっていた兄弟に視線を向けた。自分の口元がひん曲がっている自覚はある。しゃくりあげつつも泣き止んだロシナンテが、睨み合う二人に気づいておろおろし始めている。
言わなくてはならない。言いたくない。ドフラミンゴの中で葛藤しつつ、不機嫌さを示す唇を開ける。何か言おうとパクパクさせた後、結局黙って足元に顔を背けた。ほんのわずかに頭を下げて。
少女はすぐにドフラミンゴの意図を察した。彼女がからかいもなく頷くだけにとどめたのは、きっとお互いのためだった。
***
心の整理をしておくように、と彼女は言った。
明日、人々が寝静まったらまた来る。そう付け加えて去っていったアルマは、月が登ると同時に現れた。胸元に届くほどの大きなシャベルを二本携えて。
「これしかなかったの。棺はある?」
「……なかったえ」
「そう。じゃ、行こうか」
少女は夜道を行く。疲れてうとうとしていたロシナンテを叩き起こし、手を繋いで後を追う。一番後ろを、母を抱えた父がとぼとぼ歩く。
月光のみを頼りにして、アルマは迷う素振りもなく進んでいった。以前ドフラミンゴを背負って帰った道と似通った景色が続く。シャベルの重みなど気にもとめずに道なき道を歩いているあたり、彼女の中では辿るべきルートをなぞっているだけなのかもしれない。
木の根も草むらもひょいと乗り越える少女に対し、一家はおぼつかない足取りで必死に食らいついていた。視界は最悪。ロシナンテが転びそうになる度にフォローしつつ、彼女の背中を見失わないようについていく。
しばらくすると足下の感触が微妙に変化した。土の種類が違うのかもしれない、とドフラミンゴが考えたあたりで、アルマは足を止めた。
「ここなら掘りやすいし、人も来ない。肉食動物も掘り返さない、はず」
動物の事情までは把握しきれないから、その時は諦めてよね。少女は憎たらしい口ぶりでそう続けたが、そうなったのなら誰より自分を責めそうな様子だった。
冬だというのに周囲は大小様々な木が生い茂っていて、木の葉の隙間からかすかに差し込む光がドフラミンゴ達をぼんやりと照らす。そのわずかな明かりでも、この場所の手入れが行き届いていないことがありありと分かる。確かにここに不自然な跡があったとて、伸びきった草花で覆い隠されてしまうだろう。
すり切れたシーツに包まれた母を、父は静かに地面へ横たえた。思わずロシナンテの手を握りしめる。強く握り返されたことで落ち着いていく。
「じゃあ、あんたはこの辺掘って。私こっちやる」
有無を言わさず父にシャベルを渡し、少女はさっさと地面を掘りだした。その魂胆が分からず、反射的に嚙みついた。
「は? なんでお前が掘るんだえ。道案内だけでいいえ」
「私はあんたより力が強い。以上」
「ドフィは途中で交代しておくれ」
なぜか父がアルマの味方をしたせいで、部外者は出しゃばるなと言えなくなってしまう。見守る兄弟の前で少女達の側に土の山ができていく。
慣れない作業を行う中、父は場をもたせるためかアルマへと話しかけた。
「掘り慣れているようだが、そういう仕事をしたことでもあるのかい」
「仕事はまた別。この前もあっちの方に死体埋めたから、慣れてるといえば慣れてるのかも」
自身が指さした方向をぎょっとした顔で見やる三人に、少女はシャベルを握り直しながら言う。記憶の彼方、自分と重ねているかのような語り口。
「見たことない? 街にいられなくなって、海辺にたどり着いた人。冬を越せなくて死んでたの」
一言ごとにアルマはシャベルを土に突き刺しては持ち上げるのを繰り返し、表面から少しずつ削っていく。夜明けまでに大人一人埋められる穴を掘らなくてはならない。自分と関わりのない人間のためにこんな重労働をしたという。
にわかに信じがたい話だが、彼女ならやるだろうという納得もあった。ドフラミンゴ達が憎いと責め立てたくせに、今こうして協力してみせるおかしな少女。そんな彼女なら、なにかと理由をつけて他人の死体を運ぶのも不思議ではない。
憐れみだけで、本当にここまでできるものなのか。ドフラミンゴには理解不能だ。彼女だって理解されたくてやっている訳ではないだろうが、自分となにか決定的な違いがあると判明した今、この「優しさ」も不気味に思えた。
きんと冷えた夜風にさらされ続け、手足の動きが悪くなってきたらしい。アルマは時折掘るのを止めて両手に息を吹きかけている。父も腰をさする回数が多くなってきた。穴と呼べるものが出来てきたが、母を寝かせるにはまだ足りない。その様子を見ていたロシナンテが「あ」と声をあげた。
「母上にあげるお花、用意してない……」
弟の気づきに父が反応したものの、さすがの彼も叶えられないと首を振る。
「こんな時期に咲いている花はないだろう。諦めなさい、ロシー」
「でも、一人ぼっちはさびしいよ……」
母は一人土の下に眠る。副葬品どころか手向ける花もないとなれば、確かに送り出すには侘しすぎる。
土を掘り返していたアルマはそのやり取りにじっと耳を傾けていたが、親子の押し問答が終わらないと見るやいなや動きを止めた。
「……あるよ。貧相なのしかないけど。場所教えたげるから休憩がてら行ってこれば? 穴が完成するまでもうちょっとあるし」
ロシナンテの後押しをする発言に、父は困り果てた顔で彼女を見た。しかしだのでもだの並べていたけれど、アルマに淡々と道順を説明され断れなくなってしまったらしい。穴を出てドフラミンゴに相対した父は「本当にいいのだろうか」と言いたげな面持ちであった。
「ドフィ、私達が帰ってくるまでの間頼んだよ」
手渡されたシャベルの無機質な冷たさに思わず取り落としそうになる。が、同じくらいの無を乗せた視線に貫かれ、慌てて持ち直す。見た目通りの身に余る重さだ。しかしアルマができることなら自分だってやれるはずなのだ。体の重心を持っていかれないよう細心の注意を払いながらも、ドフラミンゴは平気なふりをした。
興味を失ったアルマは穴を掘り進める作業に戻る。それに合わせてドフラミンゴもシャベルを地面に突き立てた。
月の光がかすかに届く穴に二人きり。どこかで鳥が鳴いている気がしたのは、あまりに無言が続いたからかもしれない。互いの息と土のえぐれる音だけが響く空間で、アルマはなんでもないことのように切り出した。
「ほんとはね、追い出された人、弔っちゃいけないの」
何の話だ、と視線を投げれば、向こうもこちらを見ていた。白い息がもれる。手は止めずに彼女の話が続く。
「この前も埋めたって言ったでしょ。ほんとは、野ざらしで腐っていくのも罰の内だから、手出ししちゃいけないんだって。そういうルールがあるの」
土地によって独自の決まりがある。それは聖地でも同様であったため驚きはなかった。なぜ今その話をするのか問いたいところだが、黙って先を促す。
「今度は私かもしれない」
かもしれない、と言いながら、半ば確信を持っているようだった。理由など聞かずとも分かる。アルマは人間共を裏切っている。いくらドフラミンゴを罵倒していても人目を忍んで手を貸すその様は言い逃れができない。こいつと揃って殴られる日も近いな、と想像したが、なぜだか笑みは浮かばなかった。
ざくり。シャベルいっぱいに土を乗せ、傍らへ除ける。少女と少年は交互に土を掘り進む。
「埋め方覚えておいて。私が死んでたら、放っておかれてたら、埋めてほしいの」
「……どうしておれが」
「そのくらいはいいでしょ。手伝ってあげたんだし」
「勝手にやったくせに」
毒づきながらも、彼女の行動が単なる善意でなかったことに心が満ちていく。こいつは聖女なんかじゃない。見返り目的で行動する、いたって普通の人間なのだ。「憐れみ」だって彼女の自己満足のためである。そう考えればいくらか気持ちが楽になった。
正直なところ、差し伸べられた手を素直に掴む精神的余裕なんてなかった。今の自分達を何の思惑もなく手助けするやつなどいないのは嫌というほど分かったし、害意から身を守るためにはあらゆるものを警戒するほかない。
彼女の言う「助ける」には意図的であろうとなかろうと傲慢が潜んでいる。苛立たしく思う反面、行動の理由が明確で――優越感に浸るにしては過剰な「手助け」をすることがあるものの――安心感があった。善意の名のもと無邪気に向けられたとなれば耐えられなかっただろう。
同時に、この地獄から救ってくれる存在を渇望していた。いないと分かっていても、ドフラミンゴは心のどこかで期待するのをやめられずにいた。
救世主になり得ない少女は土にまみれて地面と奮闘している。貧相な子供。こいつも誰かに助けてほしいと願ったことがあるのか、と思う。思うだけだ。
「埋めるのがだめなら……やっぱりなんでもない」
アルマは何か言おうとしてやめた。ドフラミンゴは彼女が一瞬遠くに思いを馳せる目をしたのを見逃さなかったが、拾い上げてやるほどの仲ではない。寒さから意識をそらそうと戯れに会話をつなぐ。
「お前もここに埋まるのかえ」
「それもいいかもね。あんたの母親を一人にしなくてすむし」
「……お前の親は?」
「いないよ」
不自然なほどに感情を押し殺した声色だった。裏切り者だから罪悪感でもあるのだろうか。他にも理由を含んでいる気がして、でもやはり掘り下げようとは思わなかった。
大人一人寝かせるのに十分な穴が出来上がってきたあたりで父達は帰ってきた。花を一本手に持ったロシナンテが、パタパタと寄ってくる。
「お花あったよ! 母上にあげるの!」
「……よかったな」
「うん」
ぎゅっと握りしめた茎が折れかけているのが見えたが、ドフラミンゴは指摘せずに口角をあげた。
白い花だ。贈るにしては些かみすぼらしいものの、母への慰めにはなるだろう。
ついに別れの時が来た。ドフラミンゴはサングラスの下でこみ上げる涙をこらえていた。隠しきったはずの悲しみはロシナンテにも伝染し、弟の鼻からずびずびと音がし始める。父が母を抱き上げて穴へと連れていく。彼の背中は震えていたが、決して母を落とすような真似はしなかった。
この場には枯れ草か、はたまた以前降った雨の名残なのか、土の匂いが充満している。むせ返るようなその匂いが肺に忍び込む。きれいな空気で肺を清めたくなったが、そんなものはどこにもない。森を抜けたところで別の悪臭が鼻をつく。ドフラミンゴ達はやがてそれにも慣れるだろう。悪臭を悪臭と気づけなくなる。それが一番恐ろしい。
父は母を手放すことを躊躇した。子供達より重たいものなど持った経験のない父が、母を横抱きにしたまま動かない。
母の体は刻一刻と腐っていく。早く埋めてしまわなくては無惨な姿を晒す羽目になる。この場の誰もがそれを理解していて、その上で父を急かせずにいた。アルマは父に何か言おうとしたが、母に負けず劣らず青白くなった顔を見て押し黙る。
秒針が何周したか分からないほど時間が経って、ようやく父は動き出した。穴の底にシーツを敷き、母の体を寝かせた。少しでも居心地がいいようにと手を胸の前で組ませ、足を伸ばしてやっている。
母の亡骸は場違いなほどにうつくしかった。うつくしいまま、踏み荒らされることのないまま送り出せるのは数少ない幸運だ。ロシナンテが父に花を渡す。父が母の手を開き、花を持たせる。母との別れに花束すら贈れない今の状況が憎かった。
我慢の限界に達したロシナンテが予告のような嗚咽をもらした後、大声で泣き出した。つられて父の目から涙がこぼれる。また意味のない謝罪を繰り返している。
視界がぼやけていく。先日と同じ失敗をしたくなくて、深呼吸で誤魔化そうとして、しくじった。
「……っ」
「…………」
ロシナンテの泣き声にかき消されても、彼女はドフラミンゴの様子を目ざとく見ていた。しかし一瞥しただけで、何も言わずに数歩下がる。
母を囲む円から外れ、少女は離れて静かに待っていた。地面に目を落とし、手にこびりついた土を繰り返し擦る。薄暗さも相まって表情は読み取れないが、彼女だけ平然としている。
恨めしげなドフラミンゴの視線に気づいたのか、アルマは言い訳を口走った。
「家族じゃないんだから、泣く資格なんてないでしょ」
「……そんなことはない。せめて妻のために、別れの挨拶をしてやってくれないか」
父の言葉にアルマは息をのみ、沈黙が落ちた。暗がりより出てきた彼女の眼はうっすらと水分を纏っていたが、瞬けばすぐに消えてしまう。何事もなかったかのようにつかつかと母へ近づいていく。
穴の側で座り込み、母の頭上からぼそぼそと話しかけている。さすがに邪魔はしない。そんなに話すことがあるのか疑問に思ってはいるが。
彼女が別れを言い終わると、今度は誰がシャベルを持つか無言の駆け引きが始まった。母を隠すために土を盛る。母の上に土をかける。しなければならないと分かっている父が率先してシャベルを一本手に取った。残り一本。手を伸ばしたドフラミンゴを押しのけてアルマが前に出た。
「っ、おい!」
「弟泣き止ませといて」
「…………わかったえ」
不服そうに返事をして、しゃくりあげるロシナンテの横に立つ。心のどこかで、ほっとしてしまっていた。
ドフラミンゴがそうされたように、弟の背中をやさしく撫でる。この行為に意味があるのか怪しいが、自分はこれで落ち着いたから。ロシナンテがひしと抱きついてきたので抱き返す。泣き声が小さくなっていく。
もう穴を覗き込もうと思えなくて、ドフラミンゴは二人が土を盛っていくのをぼうっと見ていた。掘るのはあんなに大変だったのに、埋める作業はあっという間に進む。うつくしい母が汚されていく。肉体が土に還るまでどれだけかかるのか。
その時、自分はどうなっているのだろうか。
整えた地面の上に周囲の草を戻す。今日の出来事は跡形もなくなった。家族を失ったというのに、その証はどこにもない。目印を置いてバレてしまっては本末転倒だから、一家は自らの記憶だけを頼りに探すこととなる。
いつか絶対迎えにくる。ドフラミンゴが呟くとロシナンテもこくんと頷いた。
「帰るよ。夜が明けちゃう」
湿り気を帯びた重たい空気を切り裂くように、アルマははっきりと告げた。無慈悲と言われたって撤回しない。そんなかたい声色で。けれどもそれは悲しみから動けなくなっている家族に向けた、区切りの合図でもあった。
***
月はいつの間にか雲の向こうに隠れていた。行きよりも危うくなった足元に注意を向けつつ帰り道を急ぐ。そうして森を抜け、段差やらなにやらを乗り越え、小屋がようやく見えてきた矢先。視界にちらちらと白いものが写る。ロシナンテもすぐに気づき、兄の手を引いて空を指さした。
「ねえ見て兄上、雪が降ってきたよ」
「そうだな、雪だ」
つめたいだけの固まりがしんしんと降りそそぐ。兄弟の肌に薄く積もり出したので、ロシナンテのものもいっしょに払い落とす。この冷え込み様では、朝になる頃には一面雪景色となるかもしれない。濡れると体温が奪われる。そう長居をしたくはないけれど、落ち込む弟の気を引けるのであればもうしばらくいるべきかと悩む。
ちらりと前を見れば、先頭を突き進んでいたアルマも足を止めて土で汚れた手のひらを広げている。
雪の粒が体温で消えていく。それを見届けた彼女はそっと手を握りしめ、ドフラミンゴ達と共にぼんやりと空を仰いでいた。