導火線はまだ燃えている
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一目見て分かるほど安っぽくて小さな花瓶が目の前に置かれている。たぶん百均の。司書が花といっしょに持ってきたやつだ。こんなガラス製のものなんて、おれ達小学生の手にかかれば一日もたたずに割られてしまうだろう。
「どこに置くの?」
「そうだねえ。その辺じゃ危ないし、司書室の奥にでも置いとこうかな」
既に水のそそがれた花瓶が、日差しを受けてきらきら輝く。花瓶の模様の影響か、影はぐにゃぐにゃとした光を描いていた。
「それならわざわざここでやらなくてもいいでしょ」
「いや、この花の美しさを不二美君とも共有したいと思ってね」
「いいよそんなの……」
迷惑だという気持ちを隠さない声で返事をしながら、鞄の中の音楽プレーヤーをそっと撫でる。
今日は保健室登校ならぬ図書室登校の日だ。保健室と同じく、図書室でこれを使う許可は得ていた。「他の子には内緒ね」といたずらっぽく笑われたのは記憶に新しい。この司書が融通のきくタイプでよかった。その反面、「今何聞いてるの? あ、へえー、そう」と興味もないのにたずねては話を打ちきるところはどうにも合わない。こいつの前では絶対にプレーヤーを出さないようにしよう、と決意したのも仕方のないことだと思う。
つまり、こいつが図書室からいなくならないとおれは好き勝手動けない。さっさと作業を終わらせてくれ、と願うおれをよそに、司書はいろんな角度から花をながめている。一輪だけいけられたその花は、見覚えはあるけど名前があいまいだ。家にある図鑑をもっと読んでおくべきだった。
「やっぱりお日さまに当てた方が映えるんだよね」
「早く置いてきなよ」
「おお、そうだそうだ。結構ごちゃごちゃしてるから、倒れても大丈夫なとこにしなくちゃな」
聞いてもないことをべらべら喋りながら司書は貸し出しカウンターの奥に消え、帰ってきたときにはいくつか書類を持っていた。
「先生な、これから職員室行ってくるから留守番頼むわ」
「……はい」
授業中に来るやつなんていないよ。いつもなら口に出していた言葉も今は我慢できた。その甲斐あって司書は満足げに頷き、きしんだ音をたてて扉を閉めた。
これでやっと自由になった! 慣れた手つきでイヤホンをつけ、お気に入りの曲を流す。読みかけだった本も用意したら完璧だ。本当はヘッドホンの方が好きなのだけど、さすがに荷物になるので持ってこられなかった。
授業中の図書室。誰もいない空間。おれの特等席。折り目がつかないように気をつけてページをめくれば、おれはあっという間に自分の世界へと入っていった。
誰かがそばに立っている気配がした。視線だけそちらに向ける。見知らぬ女子がおれを覗きこんでいた。
つやのある髪、シワのない服、血色のいい頬。
学級委員っぽい顔立ちをしたそいつは、お手本のような笑顔を作って時計を指さした。曲を流したままなので何を言っているか聞こえない。窓を背に、日差しを遮って立っているせいか、顔に影が落ちている。ぱっちりと開かれた目もハイライトが入っていないように見えて、なんだか恐ろしくなりイヤホンを外した。
そのとたん、小さな鳩が現れて五時を告げる。のんきな鳩の鳴き声を受け、女子が閉館の時間だよ、と念を押してくる。たいした声量でもないくせに、やけに通る声だった。
「時計見れば分かるって」
「そう? もう閉めちゃうから早めに帰る準備してね」
かすかな微笑みをたずさえて、女子はカウンターに戻った。首から下げられた図書委員の札が、女子の動きと共にゆらゆら揺れる。胸元の名札には名字と角ばった文字で書かれていた。図書委員が仕事をして、その上終えようとしているということは、とっくに放課後がきていた事実を示す。いつもなら人が来る前に帰っているのに、どんだけ集中してたんだ、と自分で自分に呆れる。
名字は、おれがイヤホンをしていたことには一切触れずに淡々と受付用コンピューターの電源を落とした。委員長とはいかなくても他の生徒に見つかればぐちぐちと文句を言われると思っていたから、そんな態度に拍子抜けしてしまった。そもそも図書委員以外の生徒もおれの姿を見ていたはずで、なにかしらちょっかいをかけられてもおかしくなかった。なんで何事もなく帰れるんだ、おれ。
おれが疑問符を浮かべている間にも名字は一定のスピードで片付けを終え、ランドセルまで背負ってからくるりとこちらを向いた。あからさまに鍵を揺らしてみせてくる。はいはい。分かりましたよ。荷物をまとめてよたよたと扉に向かう。少女はそんなおれを一瞥してまたあの笑顔を見せた。
こうして無言の圧力に屈したおれは、今度からもっと見つかりにくい場所で本を読んだ方がいいのではと思い始めていた。
▽▽▽
「ああ、名字さんね」
翌日。おれのお守りをしにやってきた――させられていると言った方が正しいだろうけど――ちあきへ、あの図書委員の話題をふった。あいつの名前をあげると、ちあきはすぐに誰だか理解した。と同時に不思議そうな顔をしておれを見た。
「珍しいね。アキラくんが人のこと聞くなんて」
「たまたま気になっただけ」
適当な言い訳を述べると、ちあきは納得いかない声で相づちをうつ。そして、同じクラスではないけど、と前置きして話し出した。
「いい人だよ。たぶん。いつもにこにこしてて、他の人のてつだいも何気なくできちゃう子。頭もいいってウワサ」
「たぶんってなんだよ」
「ぼくは名字さん本人と話したことないから……」
「ふうん」
ちあきの話からして、道徳の教科書にそのまま載せても問題なさそうな素行。いい子の代名詞って感じ。つまらない。でも、『いい子』ならおれの行動を咎めるはずだ。教科書通り、常識通りに、「勉強に関係ないものを持ってきちゃいけません」とか言いそうな顔をしておいて、実際は知らないふりをして帰っていった。単なるいい子じゃないのかも。
まあそんなこと、本を読み出したときにはさっぱり忘れていたけれど。
特等席から外れ、図書室のすみっこにおれはいた。今の本を読みきるまで帰りたくないが故の苦肉の策だった。案の定すでに生徒がちらほらやってきていて、移動しておいてよかったと胸をなでおろす。
受付カウンターを見ると、例のあいつが座っていた。手元には問題集が置かれていて、貸し出しを求められる度、にぱっと笑う。ささくれ一つない小さな手のひらがあっという間にバーコードを読み込んで、なめらかな声で返却日を伝えている。すみからじろじろと不躾な視線を向けるおれにも、目があえば微笑みで返してくる。一連の動作には、不自然なほどに不愉快なところがない。別に笑うのがいけないって訳じゃない。ただ、名字の全てが作り物めいていた。
今日はやけに借りにくるやつが多い日だった。本来二人でやるはずの作業をなぜか一人でこなす名字の顔に、次第に疲れがあらわになっていく。せっかく広げている宿題も進められないほど、次から次へとあいつのサービスを求める利用者が並ぶ。手際よく捌いていき、時たま友人から話しかけられて軽く冗談を飛ばすのも忘れない。彼女は明らかに無理をしている。
そうして波が終わって一息ついたときには、名字の顔は強ばっていた。
「あれ!? もう一人の子はどうしたの?」
「病院行かなきゃいけないらしくて。私一人でもどうにかなりましたし、大丈夫です」
「そう……? これ司書室に置いてきてくれたら帰っていいからね。お疲れさま」
「分かりました。ありがとうございます」
司書から数冊の本を受け取り、また口角をあげようとして失敗したのが見えた。司書はそれに気づくこともなく、すぐに戻ってくるから、と席を外した。本くらい自分で置きにいかせればいいのに、彼女は何も言い返さず引き受けた。失敗した顔は修正もされず、不恰好な笑みのままぼうっと手元の本を眺めている。
おれはそんな名字をただ見ていた。こいつが疲れていようとおれには関係ない。この数時間で名字の振る舞い方はなんとなく理解したし、いつもこうやって周りの仕事までやらされているのがわかる動きだった。嫌ならなんで断らないんだろう。
名字が司書室に入っていくのを確認して、おれはカウンターへと近寄った。広げられたノートはまだ一ページほどしか埋まっていない。おれにも配られていたのかもしれない問題集の表紙は、何枚ものシールで埋め尽くされている。クラスにめったに顔を出さないからよく知らないけど、「がんばったね!」と褒め称える内容ばかりだからご褒美かなにかか。こんなちっぽけなシールを勲章のように扱うやつらの気がしれない。宝石箱みたいになっている表紙を、軽い気持ちでめくろうとした。
「それ私のだから、触らないで」
いつの間にか、名字が扉のところまで戻ってきていた。おれの動きを察知して駆けつけたらしい。
とげとげしい声で吐き捨てられた言葉。人好きのするいつもの振る舞いとは打って変わって、あらゆる人間に威嚇するような、泣いてるみたいな声だった。なんだかぼろぼろになった動物が抵抗しているみたいで、苛立ちより哀れみの方が大きくなった。
「……わかってるよ」
下手に言い返したら名字の威嚇はもう何段階か上がってしまいそうで、悪気はない、とだけ示して元の場所に戻った。おれの返事が終わるよりも先に彼女は歩き始めていたから、こんな気づかいいらなかったかもしれない。
目当ての本も読みきったことだし、さっさと帰ってしまおう。いや、今外に出るとクラブ活動のやつらと鉢合わせするか? 頭の中でいろいろ考えつつ、ランドセルを取りに戻る。
カウンターから離れた瞬間、司書室の奥から名字の悲鳴があがる。少し遅れて、かたいなにかが壊れる音。おれはため息をつく。どうしようかな。
音の感じからして何が割れたかなんて分かっていたけど、おれの野次馬根性が働いたので司書室をひょいと覗きこんだ。
予想通り、名字が割れた花瓶の側でへたりこんでいた。おおかた、ふらついたこいつがそこらに手をついたとか、運悪く花瓶に当たったってとこだろう。やっぱり一週間ももたずに花瓶が割れた。あの司書の顔がさらにまぬけになるのが簡単に想像できた。
砕けたガラスをまとった花、囲いがなくなってじわじわと広がっていく水、それを吸って色の変わったスカート。片付けるのが大変そう、というのが率直な感想。出入口でたたずむおれをよそに、名字がふらりと立ち上がった。おれは手伝う気なんてさらさらないが、掃除用具の場所ぐらいは教えてやることにした。
「あの棚の向こうに掃除用具入れあるから。あと雑巾は――」
――――ダンッ!
少女の白い足が、ガラスめがけて踏み下ろされた。何度も、何度も。
ギチ、と踏みつけられたガラスが、上履きのゴムと擦れあって嫌な音をたてる。名字はそんな音聞こえないようだった。きっとおれのことだって、能面のような顔で下を向くこいつの目には写っていない。
目的はどうやらガラスではなく花だったらしい。司書が嬉しそうに持ってきたあの花が、今じゃ原型もとどめないほどすりつぶされていた。あまりに突然で、おれは突っ立って見ているしかなかった。ただ花の残骸だけを見つめる名字に、かける言葉が見つからなかった。
ひと欠片だって無事では済まさない。そんな勢いで花を踏みしめる少女は、なにを考えているのやら。
始まるのも突然だったけど、終わるのはもっと急だった。こいつはぴた、と動きを止めて、おおきなおおきなため息をついた。そして。
「どうしよう」
と呟いた。声色からして、さっきまでの流れを完全になかったことにしたい感じだったので、おれはそれにのることにした。また爆発されても困るし。二度目なら逆に余裕をもって見物できるかもしれないが。
「……どうしようもなにも、片付けるしかないだろ」
「そうだね」
名字はガラスの中から、花の残骸だけを器用に取り除く。こいつの整えられた爪は、ぐちゃぐちゃになる前の花びらによく似ていた。彼女は汚いものかのように残骸をつまみ、ぽい、と窓際のゴミ箱に捨てていく。がさがさとゴミ箱の中身に何かしているあたり、冷静そのものという感じで、親の仇かと思うほどガラスを踏みつけていたやつとは同一人物に見えなかった。
「この状況でゴミ漁りしてんのかよ」
「ちがうよ。奥の方に押しこんでおかなきゃ、ぐちゃぐちゃにしたのバレちゃうじゃん」
まあ、そんなこと考えたってしょうがない。暴れていたのは事実なのだから。
というかこのまま見ていたら、こいつ、おれがやったことにするんじゃないか? すでにこれ以上下がりそうにない評価をされていると思うけど、さすがのおれも濡れ衣着せられた後図書室にいられる気がしない。優等生の名字が「不二美アキラがやった」と言えば、それは『本当』になる。少なくとも、おれの言葉より信用されるのは確実だ。そこでおれが真実を話したところで、「優等生に罪をなすりつけようとした」と判断されるだろう。濡れ衣を着せられる前にとっとと報告してやろう。
無言で見つめるおれの意図に気付いたのか、大丈夫だよ、と口にした。何が大丈夫なのか。
「君は心配そうにしておいて。私がそれらしくやっておくから」
代わりに掃除しておくよ、みたいなノリで名字は言う。その流れでガラスを一つ掴み、そのままぎゅうっと握りしめた。
つるつるしていたガラスは割れたとたんに鋭利になって、少女の皮ふを切り裂く。白い手のひらがあっという間に鮮血で覆われる。滴った血がぽたぽたとガラスの山を染めていく。名字は用済みになったガラスを、吸い殻を道端に捨てるような気軽さで山のてっぺんに置いた。
何? マジで何? 何も大丈夫じゃない。
「お前何してんの?」
「割れた花瓶とケガした私、どっちが優先されると思う?」
至極当然だと言いたげに問い返された。そんなの、あの司書のことだから。
おれが返事をする前に、遠くで立て付けの悪い扉が開く音がした。おれは司書室の前で立ちすくんだまま動けやしない。名字は棒立ちのまま手のひらから新しい血を垂らし続け、一瞬だけめんどくさそうな顔をした。自分の手のひらの傷にも、濡れたスカートにも、ガラスの山にすら興味がないようだった。
まだおれたちのランドセルは図書室のあちらこちらに置いてある。司書もそれに気が付いたのか、あれえ、と間の抜けた声を出しながら司書が歩いているのが分かる。足音が近づいてくるにつれ、名字の顔がぐしゃぐしゃに歪み、目が潤んでいく。無表情だった顔は今にも泣き出しそうなものへと変わっていた。
「不二美君、まだ帰ってなかったの、って、名字さん!?」
「せん、せえ……」
司書室の扉を開け放ち困った顔をしたおれと、血まみれで佇む名字を目にした司書はすっとんきょうな叫び声をあげ、慌てて彼女の手をとった。血で汚れるのも厭わずに駆け寄る司書は、きっと教師として真っ当なやつなんだと思う。そんな司書を、そして自分のこれまでを利用して、名字は『かわいそうな優等生』を作り上げていく。
名字はうう、と鼻声になって司書の名を呼ぶ。司書が駆け寄ってくると同時に溜まっていた涙が溢れだし、しゃくりあげながらもなんとか説明しようとする少女を演出し始めた。演出だと知っているのはおれだけで、一分前のやり取りが無ければおれも信じてしまっただろう。
「ごめんなざいっ、わだじぶつかっちゃっでっ」
「まさか素手で片付けようとしたの? 危ないでしょう! こんなに血を流して……」
「ぜんぜえのおはなにっ、血がついちゃっだがら、」
「そんなのまた買ってくるから! ほら、保健室行くよ!」
「あのっ、見にきてくれて、ありがとね」
「……うん」
ずび、と鼻をすすりながら名字は言う。溢れ出す涙の奥に、余計なこと言うなよ、と念を押すような目がぎらついていた。潤んできらきらしていても分かる、明らかな圧力。さすがのおれもビビってしまい目をそらす。発した言葉に自分で驚いている。普段のおれなら「こいつ睨んできた」くらいのこと言えたはずなのに、血まみれの少女というのは思っていたよりおれに衝撃を与えていたようで、どうにもいつも通りの動きができなかった。
司書はおれたちのやり取りに気付かず、名字の怪我した手をハンカチで止血し、そこでようやくおれの方に振り向いた。
「ごめん不二美君、君は先に帰っていいからね。先生は名字さん保健室に連れていくから」
「あ、はい」
なんの面白みもない返事をしたおれは一人カウンターに取り残され、『かわいそうな優等生』の震える背中をながめていた。
名字のすすり泣きと慰める司書の声が遠ざかるにつれ、おれは落ち着きを取り戻していく。窓から落ちる外の明かりは弱々しいものに変わっていて、とうに下校時刻になっていたと気づく。
電灯一つつけていなかった司書室は暗く寒々しい。まあ、どうせすぐ帰るからつけなくてもいいか。そう思って荷物を取りにいこうとしたとたん、ひときわ甲高い笑い声が聞こえて眉をひそめた。
窓際に近付くと、外に生徒が並んでいるのが見えた。クラブ活動も委員会も終え、校庭の隅に集まって下校班を作り出している。ランドセルを投げるやつ、つまらなそうに地面に絵を描いているやつ、友達との話に夢中で並ぶ気のないやつ。どいつもこいつもうるさいったらありゃしない。
おれはあの中に入れない。入りたいとも思わない。名字はどうだろう。いつもだったら誰より早く整列して、班員を仕切っているのかも。集団の中にいることに固執していそうなやつだった。自分をねじ曲げてでも馴染むことを優先しているような。もっとも、これだって偏見でしかないけど。
「キャラ」を維持するためなら自分を傷つけることすら厭わない。そんな彼女の生き方がばかばかしく思えて、少しだけ怖かった。
▽▽▽
名字は人より早く登校する。
生き物係として花壇に水やりをしているのは、一階にある図書室からも見えていた。『誰か』が水やりをしている、という認識から、つい最近『名字』が水やりをしていると認識するようになった。
おれが顔すら覚えようとしてないやつにも名前がある。そうして、背景の有象無象でなく、一個体として扱うようになる。
背筋をぴんと張った少女が外に現れたのを見て、おれも下駄箱へと向かった。
「おい女優」
「それほどでもないって」
「褒めてねェよ」
子どもは案外純粋じゃない。自分のイメージを利用して、しでかしたことをうやむやにだってする。こいつはそれに長けた人間で、ここぞという時にやりとげる。おれはそこに居合わせてしまった不幸な人ってわけだ。
いきなり声をかけたのに、名字はおれが来ることがわかっていたのか動揺せず茶化してみせた。けろりとした彼女の目もとはまだ赤い。司書の前だけでなく、親の前でももう一泣きしたのかもしれない。もしくは、『罪悪感で一晩中泣いていた繊細な子』を演出しようとしたのか。手は包帯でぐるぐる巻きにされている。実際のケガより大げさに巻かれたそれを、名字は照れくさそうに振った。
「お母さん達が心配してさ、私はいいって言ったんだけど」
返事をしないおれにも優しく語り続ける。おれ以上のクソガキを転がしてきたであろう名字にとって、無視されるくらいどうってことないようだった。
水を一旦止め、しゃがんで花壇の具合を確認し始めた名字の横におれも並ぶ。花壇に差しこまれた小さいプレートは学年とクラスが記されていて、どうやらクラス単位で植えた花のようだぞ、とはからずも知る。おれは一切クラスの活動に関わっていないから、なんでこの花を植えたかも知らない。
名字の細い指がたわむれにパンジーの花びらを持ち上げる。それを見つめる彼女の目は弧を描いていた。描いているだけだった。こいつの瞳をきちんと覗きこんだなら、きっと司書室のときのような無感情が見つかることだろう。
「おれMD持ちこんでるじゃん」
「持ちこんでたね」
「他のやつになんか言われてなかった?」
「そういうの気にするんだ? 意外」
前フリもなく始まった話に名字はたやすくついてきて、おどけたように応じた。
「あの日でしょ? アキラくんがめずらしく残ってた日。そうだね、MDもだし、みんなしゃべりたがってたよ」
「でも誰も邪魔しにこなかった」
「邪魔って。そのへんは私がね、なんかこう、そっとしとこ〜的な流れにもっていった感じで」
説明する彼女の口調はゆるい。朝早いからなのかまだ万全とは言えない喋りだ。貸出カウンターの中ではピシッとしていたのに、今はなんだかふわふわしている。もしくは、クラス政治の外側にいるおれ相手だから油断しているのかもしれない。
今なら踏みこめる。おれは何の根拠もなくそう思った。
「なあ」
「なに?」
「あいつのこときらいなの?」
司書の顔を思い浮かべながら問いかける。名字はきょとんとした表情でおれを見た。
「んーん、先生のことはみんな好きだよ」
「じゃあなんであんなに花を踏みつけてたわけ」
「疲れてたの」
傍から聞けば答えになっていないように思えるそれも、おれには伝わっていた。いわば八つ当たりだ。破壊衝動に巻きこまれた花のことなんて、これっぽっちも考えちゃいない。クラスの花壇は慈しんでも、事故で落っこちた花は踏みにじることのできる少女。生き物係についていなければ、花壇だって目もくれずに通りすぎるタイプだな、これは。
そんなふうに考えていたのがバレたのか、名字はけらけら笑った。
「言いふらしてもいいよ? 優等生がおかしくなった〜って。みんな面白がって聞いてくれるよ。それきっかけにしてクラスに馴染めるかもよ」
絶対やらないって分かってるからこそ、名字はおれを煽ってきた。そんなこと一ミリも思ってないって知ってるくせに。それでも、この瞬間の名字の笑顔は図書室にいたときより自然に見えた。
「疲れるんならいい子でいるのやめればいいのに」
「簡単に言ってくれるなあ~」
名字は雑草を抜いていく。小さなものなら根っこもそれほど張っていないのであっさり抜ける。包帯を巻いていない方の手とはいえ、洗うのが大変だぞと口を出したが本人はへらへらするばかりだった。
「うまくやっていくには多少の我慢も必要だもん。アキラくんだって、我慢してることあるでしょ?」
「ない」
「うそだあ」
口先で強がってみたものの、彼女はおれの表情からやすやすと察したらしい。ちょっと目を見開いて、へえ、とだけこぼした。「やっぱり」と言わなかったのは温情なのか、単に興味がなかったのか。
「ま、大人になるまでのしんぼうだから」
大人になれば、もっと自由にやれるはずだから。名字は繰り返し言った。目の前のおれではなく、自分に言い聞かせているみたいな口ぶりだった。
「きゅうくつな生き方だな。そんなんで生きてるって言えんの?」
「それを決めるのはアキラくんじゃないよ」
ちあきの時とは違う、確固たる拒絶があった。こいつは本当に時間が何とかしてくれると思っているのだ。大人になる、という漠然とした希望だけを頼りに、いい子の枠に収まろうとしている。おれ一人の言葉ではどうにもできない祈り。
本来はまらないはずの枠にねじ込んだ体は、そのうち抜け出せなくなるだろう。そうして成長していき、枠が壊れるのが先か、こいつが潰れるのが先か。その前に爆発するかもしれない。あの時のように。
「アキラくん、教室寄ってく?」
「……今日はいかない」
「そっか。一人じゃ入りにくいとかだったら気軽に声かけてね。別クラスだけど、入り口までなら許されると思うし」
おれの質問をひらりとかわして別の話題に移してしまう。言外に、これ以上入ってくるなと線引きされた。おれと連れ立って下駄箱に行く彼女はまた仮面みたいな笑顔に戻っていて、距離は近くとも心が遠くにあるのだと分かった。こっちだって興味本位で踏み込んだだけだから、ここで引くことにする。こいつと話すのはこれきりだろうな、という予感がした。
今日は保健室だから、と言えば名字は朗らかに笑って手を振った。さっきまで土いじりをしていた方の手のひらだった。
学年が上がると名字は別の委員会に入ったらしく、図書室で見かけることが極端に減った。それでも本を借りにきた彼女と顔を合わせる日もあって、お互い無言で会釈して終わる。すれ違う一瞬、あいつの目がちょっぴり細められる。そこに何の感情もないのだと、ただの反射的な動きなのだと、おれは知っている。
一方生き物係は継続していたようで、窓ガラス越しに名字をながめたりもする。うららかな陽気の中、咲きほこる花々を前に慈愛の笑みを浮かべる少女の姿は、窓枠効果もあってまるで絵画みたい完璧だ。図書室登校のおれのことなんて忘れてしまったのか、名字はこちらに見向きもしない。水しぶきを見つめているようなその視線は、実際のところ虚空に向けられている。
宙を舞う水滴が、日の光を含んできらめいた。その中で名字はいつものようにまっすぐ前を向き、つまらなそうに微笑んでいた。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
人の声を避けて一人ぼっちでいた小学生時代。打って変わって、高校生になった俺は、まあいろいろあって今のバンドを結成した。で、バンドメンバー(全員後輩)とのダラけた時間を楽しんでしまっている。
今日だって放課後の買い物ついでにどこかで食べる流れとなり、たかしの「ハンバーグ食べたい」発言から駅前のファミレスを覗いていた。
「混んでんな、別んとこ行くか」
「前に何組かしかいませんよ! ちょっと待てばすぐですって」
そうだそうだ、と頷いて列の最後尾に並ぶ後輩達。おれはというと、たかしが名簿に名前を書きこむのをなんとなく眺めていた。マガミの三文字の上には結構な量の名字が並んでいて、その大半はすでに案内済で斜線によって消されている。
小さい頃からの癖なのか、俺はどうでもいい情報でも文字があると読んでしまう。四名、二名、六名、喫煙席、と飛ばしぎみに見ていた先に、角ばった文字があった。
名字。
記憶の片隅で、割れたガラスがちらついた。
「名字、あたし先に払っていい?」
「いいよー」
たった一言でも、レジ前から待機列の最後尾まで聞こえるほど通る声がした。たかしが「終わりましたよ」と俺を列に誘う。後輩達が授業の愚痴やら課題の進捗やらを話しているのを流しつつ、俺の意識はレジに向いていた。
財布を取り出す女二人。和気あいあいと話を弾ませていた片方は、遠い昔ガラスを踏みつけていたあいつだった。ペンキより鮮やかな血を流しても眉一つ動かさなかった名字が、普通の人のような顔をして普通の生活を送っていた。
店員にお礼を言うときの微笑みで、図書室のカウンターにいた彼女だと確信した。名だたる進学校の制服を身にまとった少女は、手入れのされた髪を揺らして笑う。ピンと伸ばした背筋は相変わらずだった。
名前を見てすぐ思い出すほど仲がよかった訳じゃない。最後に話したのだって日常の一コマみたいなものだ。それなのに俺の頭の中には名字が残っていたらしい。
考え込んで油断していた俺が顔を背けるのよりも早く、名字が何の気なしに振り向いた。
視線が合う。くるんとしたまつげの奥から、あの無を湛えた瞳が俺を見る。一瞬、怪訝そうに目が細まった。
それでも彼女はにこ、と笑った。花壇の前の笑顔じゃなくて、カウンターで浮かべていた接客の笑み。完成された外向きの「優等生」。
名字は足を止めず、会釈一つせず俺達の横を通り過ぎていく。連れの少女と会話の続きを始めていて、きゃあきゃあと高い声で笑いあう。それすら演技だと疑ってしまう。彼女はまだ枠の中にいる。あの祈りは叶いそうか、と聞けないまま、軽快な退店音と共に名字は去っていく。
「今の人、アキラさんの知り合いですか?」
「……いや、人違いだった」
小首をかしげて訊ねてきたたかしに、俺は嘘をついた。たかしは不思議そうな顔をしつつも頷いた。
かつての同級生だけど向こうは覚えていないなんてよくあることで、わざわざ後輩の耳に入れるもんじゃない。たかが数日、会話した時間を合わせたら一日にも満たないような交流しかなかった相手だ。覚えている方がおかしい。
だからまあ、それだけの話なのだ。
「どこに置くの?」
「そうだねえ。その辺じゃ危ないし、司書室の奥にでも置いとこうかな」
既に水のそそがれた花瓶が、日差しを受けてきらきら輝く。花瓶の模様の影響か、影はぐにゃぐにゃとした光を描いていた。
「それならわざわざここでやらなくてもいいでしょ」
「いや、この花の美しさを不二美君とも共有したいと思ってね」
「いいよそんなの……」
迷惑だという気持ちを隠さない声で返事をしながら、鞄の中の音楽プレーヤーをそっと撫でる。
今日は保健室登校ならぬ図書室登校の日だ。保健室と同じく、図書室でこれを使う許可は得ていた。「他の子には内緒ね」といたずらっぽく笑われたのは記憶に新しい。この司書が融通のきくタイプでよかった。その反面、「今何聞いてるの? あ、へえー、そう」と興味もないのにたずねては話を打ちきるところはどうにも合わない。こいつの前では絶対にプレーヤーを出さないようにしよう、と決意したのも仕方のないことだと思う。
つまり、こいつが図書室からいなくならないとおれは好き勝手動けない。さっさと作業を終わらせてくれ、と願うおれをよそに、司書はいろんな角度から花をながめている。一輪だけいけられたその花は、見覚えはあるけど名前があいまいだ。家にある図鑑をもっと読んでおくべきだった。
「やっぱりお日さまに当てた方が映えるんだよね」
「早く置いてきなよ」
「おお、そうだそうだ。結構ごちゃごちゃしてるから、倒れても大丈夫なとこにしなくちゃな」
聞いてもないことをべらべら喋りながら司書は貸し出しカウンターの奥に消え、帰ってきたときにはいくつか書類を持っていた。
「先生な、これから職員室行ってくるから留守番頼むわ」
「……はい」
授業中に来るやつなんていないよ。いつもなら口に出していた言葉も今は我慢できた。その甲斐あって司書は満足げに頷き、きしんだ音をたてて扉を閉めた。
これでやっと自由になった! 慣れた手つきでイヤホンをつけ、お気に入りの曲を流す。読みかけだった本も用意したら完璧だ。本当はヘッドホンの方が好きなのだけど、さすがに荷物になるので持ってこられなかった。
授業中の図書室。誰もいない空間。おれの特等席。折り目がつかないように気をつけてページをめくれば、おれはあっという間に自分の世界へと入っていった。
誰かがそばに立っている気配がした。視線だけそちらに向ける。見知らぬ女子がおれを覗きこんでいた。
つやのある髪、シワのない服、血色のいい頬。
学級委員っぽい顔立ちをしたそいつは、お手本のような笑顔を作って時計を指さした。曲を流したままなので何を言っているか聞こえない。窓を背に、日差しを遮って立っているせいか、顔に影が落ちている。ぱっちりと開かれた目もハイライトが入っていないように見えて、なんだか恐ろしくなりイヤホンを外した。
そのとたん、小さな鳩が現れて五時を告げる。のんきな鳩の鳴き声を受け、女子が閉館の時間だよ、と念を押してくる。たいした声量でもないくせに、やけに通る声だった。
「時計見れば分かるって」
「そう? もう閉めちゃうから早めに帰る準備してね」
かすかな微笑みをたずさえて、女子はカウンターに戻った。首から下げられた図書委員の札が、女子の動きと共にゆらゆら揺れる。胸元の名札には名字と角ばった文字で書かれていた。図書委員が仕事をして、その上終えようとしているということは、とっくに放課後がきていた事実を示す。いつもなら人が来る前に帰っているのに、どんだけ集中してたんだ、と自分で自分に呆れる。
名字は、おれがイヤホンをしていたことには一切触れずに淡々と受付用コンピューターの電源を落とした。委員長とはいかなくても他の生徒に見つかればぐちぐちと文句を言われると思っていたから、そんな態度に拍子抜けしてしまった。そもそも図書委員以外の生徒もおれの姿を見ていたはずで、なにかしらちょっかいをかけられてもおかしくなかった。なんで何事もなく帰れるんだ、おれ。
おれが疑問符を浮かべている間にも名字は一定のスピードで片付けを終え、ランドセルまで背負ってからくるりとこちらを向いた。あからさまに鍵を揺らしてみせてくる。はいはい。分かりましたよ。荷物をまとめてよたよたと扉に向かう。少女はそんなおれを一瞥してまたあの笑顔を見せた。
こうして無言の圧力に屈したおれは、今度からもっと見つかりにくい場所で本を読んだ方がいいのではと思い始めていた。
▽▽▽
「ああ、名字さんね」
翌日。おれのお守りをしにやってきた――させられていると言った方が正しいだろうけど――ちあきへ、あの図書委員の話題をふった。あいつの名前をあげると、ちあきはすぐに誰だか理解した。と同時に不思議そうな顔をしておれを見た。
「珍しいね。アキラくんが人のこと聞くなんて」
「たまたま気になっただけ」
適当な言い訳を述べると、ちあきは納得いかない声で相づちをうつ。そして、同じクラスではないけど、と前置きして話し出した。
「いい人だよ。たぶん。いつもにこにこしてて、他の人のてつだいも何気なくできちゃう子。頭もいいってウワサ」
「たぶんってなんだよ」
「ぼくは名字さん本人と話したことないから……」
「ふうん」
ちあきの話からして、道徳の教科書にそのまま載せても問題なさそうな素行。いい子の代名詞って感じ。つまらない。でも、『いい子』ならおれの行動を咎めるはずだ。教科書通り、常識通りに、「勉強に関係ないものを持ってきちゃいけません」とか言いそうな顔をしておいて、実際は知らないふりをして帰っていった。単なるいい子じゃないのかも。
まあそんなこと、本を読み出したときにはさっぱり忘れていたけれど。
特等席から外れ、図書室のすみっこにおれはいた。今の本を読みきるまで帰りたくないが故の苦肉の策だった。案の定すでに生徒がちらほらやってきていて、移動しておいてよかったと胸をなでおろす。
受付カウンターを見ると、例のあいつが座っていた。手元には問題集が置かれていて、貸し出しを求められる度、にぱっと笑う。ささくれ一つない小さな手のひらがあっという間にバーコードを読み込んで、なめらかな声で返却日を伝えている。すみからじろじろと不躾な視線を向けるおれにも、目があえば微笑みで返してくる。一連の動作には、不自然なほどに不愉快なところがない。別に笑うのがいけないって訳じゃない。ただ、名字の全てが作り物めいていた。
今日はやけに借りにくるやつが多い日だった。本来二人でやるはずの作業をなぜか一人でこなす名字の顔に、次第に疲れがあらわになっていく。せっかく広げている宿題も進められないほど、次から次へとあいつのサービスを求める利用者が並ぶ。手際よく捌いていき、時たま友人から話しかけられて軽く冗談を飛ばすのも忘れない。彼女は明らかに無理をしている。
そうして波が終わって一息ついたときには、名字の顔は強ばっていた。
「あれ!? もう一人の子はどうしたの?」
「病院行かなきゃいけないらしくて。私一人でもどうにかなりましたし、大丈夫です」
「そう……? これ司書室に置いてきてくれたら帰っていいからね。お疲れさま」
「分かりました。ありがとうございます」
司書から数冊の本を受け取り、また口角をあげようとして失敗したのが見えた。司書はそれに気づくこともなく、すぐに戻ってくるから、と席を外した。本くらい自分で置きにいかせればいいのに、彼女は何も言い返さず引き受けた。失敗した顔は修正もされず、不恰好な笑みのままぼうっと手元の本を眺めている。
おれはそんな名字をただ見ていた。こいつが疲れていようとおれには関係ない。この数時間で名字の振る舞い方はなんとなく理解したし、いつもこうやって周りの仕事までやらされているのがわかる動きだった。嫌ならなんで断らないんだろう。
名字が司書室に入っていくのを確認して、おれはカウンターへと近寄った。広げられたノートはまだ一ページほどしか埋まっていない。おれにも配られていたのかもしれない問題集の表紙は、何枚ものシールで埋め尽くされている。クラスにめったに顔を出さないからよく知らないけど、「がんばったね!」と褒め称える内容ばかりだからご褒美かなにかか。こんなちっぽけなシールを勲章のように扱うやつらの気がしれない。宝石箱みたいになっている表紙を、軽い気持ちでめくろうとした。
「それ私のだから、触らないで」
いつの間にか、名字が扉のところまで戻ってきていた。おれの動きを察知して駆けつけたらしい。
とげとげしい声で吐き捨てられた言葉。人好きのするいつもの振る舞いとは打って変わって、あらゆる人間に威嚇するような、泣いてるみたいな声だった。なんだかぼろぼろになった動物が抵抗しているみたいで、苛立ちより哀れみの方が大きくなった。
「……わかってるよ」
下手に言い返したら名字の威嚇はもう何段階か上がってしまいそうで、悪気はない、とだけ示して元の場所に戻った。おれの返事が終わるよりも先に彼女は歩き始めていたから、こんな気づかいいらなかったかもしれない。
目当ての本も読みきったことだし、さっさと帰ってしまおう。いや、今外に出るとクラブ活動のやつらと鉢合わせするか? 頭の中でいろいろ考えつつ、ランドセルを取りに戻る。
カウンターから離れた瞬間、司書室の奥から名字の悲鳴があがる。少し遅れて、かたいなにかが壊れる音。おれはため息をつく。どうしようかな。
音の感じからして何が割れたかなんて分かっていたけど、おれの野次馬根性が働いたので司書室をひょいと覗きこんだ。
予想通り、名字が割れた花瓶の側でへたりこんでいた。おおかた、ふらついたこいつがそこらに手をついたとか、運悪く花瓶に当たったってとこだろう。やっぱり一週間ももたずに花瓶が割れた。あの司書の顔がさらにまぬけになるのが簡単に想像できた。
砕けたガラスをまとった花、囲いがなくなってじわじわと広がっていく水、それを吸って色の変わったスカート。片付けるのが大変そう、というのが率直な感想。出入口でたたずむおれをよそに、名字がふらりと立ち上がった。おれは手伝う気なんてさらさらないが、掃除用具の場所ぐらいは教えてやることにした。
「あの棚の向こうに掃除用具入れあるから。あと雑巾は――」
――――ダンッ!
少女の白い足が、ガラスめがけて踏み下ろされた。何度も、何度も。
ギチ、と踏みつけられたガラスが、上履きのゴムと擦れあって嫌な音をたてる。名字はそんな音聞こえないようだった。きっとおれのことだって、能面のような顔で下を向くこいつの目には写っていない。
目的はどうやらガラスではなく花だったらしい。司書が嬉しそうに持ってきたあの花が、今じゃ原型もとどめないほどすりつぶされていた。あまりに突然で、おれは突っ立って見ているしかなかった。ただ花の残骸だけを見つめる名字に、かける言葉が見つからなかった。
ひと欠片だって無事では済まさない。そんな勢いで花を踏みしめる少女は、なにを考えているのやら。
始まるのも突然だったけど、終わるのはもっと急だった。こいつはぴた、と動きを止めて、おおきなおおきなため息をついた。そして。
「どうしよう」
と呟いた。声色からして、さっきまでの流れを完全になかったことにしたい感じだったので、おれはそれにのることにした。また爆発されても困るし。二度目なら逆に余裕をもって見物できるかもしれないが。
「……どうしようもなにも、片付けるしかないだろ」
「そうだね」
名字はガラスの中から、花の残骸だけを器用に取り除く。こいつの整えられた爪は、ぐちゃぐちゃになる前の花びらによく似ていた。彼女は汚いものかのように残骸をつまみ、ぽい、と窓際のゴミ箱に捨てていく。がさがさとゴミ箱の中身に何かしているあたり、冷静そのものという感じで、親の仇かと思うほどガラスを踏みつけていたやつとは同一人物に見えなかった。
「この状況でゴミ漁りしてんのかよ」
「ちがうよ。奥の方に押しこんでおかなきゃ、ぐちゃぐちゃにしたのバレちゃうじゃん」
まあ、そんなこと考えたってしょうがない。暴れていたのは事実なのだから。
というかこのまま見ていたら、こいつ、おれがやったことにするんじゃないか? すでにこれ以上下がりそうにない評価をされていると思うけど、さすがのおれも濡れ衣着せられた後図書室にいられる気がしない。優等生の名字が「不二美アキラがやった」と言えば、それは『本当』になる。少なくとも、おれの言葉より信用されるのは確実だ。そこでおれが真実を話したところで、「優等生に罪をなすりつけようとした」と判断されるだろう。濡れ衣を着せられる前にとっとと報告してやろう。
無言で見つめるおれの意図に気付いたのか、大丈夫だよ、と口にした。何が大丈夫なのか。
「君は心配そうにしておいて。私がそれらしくやっておくから」
代わりに掃除しておくよ、みたいなノリで名字は言う。その流れでガラスを一つ掴み、そのままぎゅうっと握りしめた。
つるつるしていたガラスは割れたとたんに鋭利になって、少女の皮ふを切り裂く。白い手のひらがあっという間に鮮血で覆われる。滴った血がぽたぽたとガラスの山を染めていく。名字は用済みになったガラスを、吸い殻を道端に捨てるような気軽さで山のてっぺんに置いた。
何? マジで何? 何も大丈夫じゃない。
「お前何してんの?」
「割れた花瓶とケガした私、どっちが優先されると思う?」
至極当然だと言いたげに問い返された。そんなの、あの司書のことだから。
おれが返事をする前に、遠くで立て付けの悪い扉が開く音がした。おれは司書室の前で立ちすくんだまま動けやしない。名字は棒立ちのまま手のひらから新しい血を垂らし続け、一瞬だけめんどくさそうな顔をした。自分の手のひらの傷にも、濡れたスカートにも、ガラスの山にすら興味がないようだった。
まだおれたちのランドセルは図書室のあちらこちらに置いてある。司書もそれに気が付いたのか、あれえ、と間の抜けた声を出しながら司書が歩いているのが分かる。足音が近づいてくるにつれ、名字の顔がぐしゃぐしゃに歪み、目が潤んでいく。無表情だった顔は今にも泣き出しそうなものへと変わっていた。
「不二美君、まだ帰ってなかったの、って、名字さん!?」
「せん、せえ……」
司書室の扉を開け放ち困った顔をしたおれと、血まみれで佇む名字を目にした司書はすっとんきょうな叫び声をあげ、慌てて彼女の手をとった。血で汚れるのも厭わずに駆け寄る司書は、きっと教師として真っ当なやつなんだと思う。そんな司書を、そして自分のこれまでを利用して、名字は『かわいそうな優等生』を作り上げていく。
名字はうう、と鼻声になって司書の名を呼ぶ。司書が駆け寄ってくると同時に溜まっていた涙が溢れだし、しゃくりあげながらもなんとか説明しようとする少女を演出し始めた。演出だと知っているのはおれだけで、一分前のやり取りが無ければおれも信じてしまっただろう。
「ごめんなざいっ、わだじぶつかっちゃっでっ」
「まさか素手で片付けようとしたの? 危ないでしょう! こんなに血を流して……」
「ぜんぜえのおはなにっ、血がついちゃっだがら、」
「そんなのまた買ってくるから! ほら、保健室行くよ!」
「あのっ、見にきてくれて、ありがとね」
「……うん」
ずび、と鼻をすすりながら名字は言う。溢れ出す涙の奥に、余計なこと言うなよ、と念を押すような目がぎらついていた。潤んできらきらしていても分かる、明らかな圧力。さすがのおれもビビってしまい目をそらす。発した言葉に自分で驚いている。普段のおれなら「こいつ睨んできた」くらいのこと言えたはずなのに、血まみれの少女というのは思っていたよりおれに衝撃を与えていたようで、どうにもいつも通りの動きができなかった。
司書はおれたちのやり取りに気付かず、名字の怪我した手をハンカチで止血し、そこでようやくおれの方に振り向いた。
「ごめん不二美君、君は先に帰っていいからね。先生は名字さん保健室に連れていくから」
「あ、はい」
なんの面白みもない返事をしたおれは一人カウンターに取り残され、『かわいそうな優等生』の震える背中をながめていた。
名字のすすり泣きと慰める司書の声が遠ざかるにつれ、おれは落ち着きを取り戻していく。窓から落ちる外の明かりは弱々しいものに変わっていて、とうに下校時刻になっていたと気づく。
電灯一つつけていなかった司書室は暗く寒々しい。まあ、どうせすぐ帰るからつけなくてもいいか。そう思って荷物を取りにいこうとしたとたん、ひときわ甲高い笑い声が聞こえて眉をひそめた。
窓際に近付くと、外に生徒が並んでいるのが見えた。クラブ活動も委員会も終え、校庭の隅に集まって下校班を作り出している。ランドセルを投げるやつ、つまらなそうに地面に絵を描いているやつ、友達との話に夢中で並ぶ気のないやつ。どいつもこいつもうるさいったらありゃしない。
おれはあの中に入れない。入りたいとも思わない。名字はどうだろう。いつもだったら誰より早く整列して、班員を仕切っているのかも。集団の中にいることに固執していそうなやつだった。自分をねじ曲げてでも馴染むことを優先しているような。もっとも、これだって偏見でしかないけど。
「キャラ」を維持するためなら自分を傷つけることすら厭わない。そんな彼女の生き方がばかばかしく思えて、少しだけ怖かった。
▽▽▽
名字は人より早く登校する。
生き物係として花壇に水やりをしているのは、一階にある図書室からも見えていた。『誰か』が水やりをしている、という認識から、つい最近『名字』が水やりをしていると認識するようになった。
おれが顔すら覚えようとしてないやつにも名前がある。そうして、背景の有象無象でなく、一個体として扱うようになる。
背筋をぴんと張った少女が外に現れたのを見て、おれも下駄箱へと向かった。
「おい女優」
「それほどでもないって」
「褒めてねェよ」
子どもは案外純粋じゃない。自分のイメージを利用して、しでかしたことをうやむやにだってする。こいつはそれに長けた人間で、ここぞという時にやりとげる。おれはそこに居合わせてしまった不幸な人ってわけだ。
いきなり声をかけたのに、名字はおれが来ることがわかっていたのか動揺せず茶化してみせた。けろりとした彼女の目もとはまだ赤い。司書の前だけでなく、親の前でももう一泣きしたのかもしれない。もしくは、『罪悪感で一晩中泣いていた繊細な子』を演出しようとしたのか。手は包帯でぐるぐる巻きにされている。実際のケガより大げさに巻かれたそれを、名字は照れくさそうに振った。
「お母さん達が心配してさ、私はいいって言ったんだけど」
返事をしないおれにも優しく語り続ける。おれ以上のクソガキを転がしてきたであろう名字にとって、無視されるくらいどうってことないようだった。
水を一旦止め、しゃがんで花壇の具合を確認し始めた名字の横におれも並ぶ。花壇に差しこまれた小さいプレートは学年とクラスが記されていて、どうやらクラス単位で植えた花のようだぞ、とはからずも知る。おれは一切クラスの活動に関わっていないから、なんでこの花を植えたかも知らない。
名字の細い指がたわむれにパンジーの花びらを持ち上げる。それを見つめる彼女の目は弧を描いていた。描いているだけだった。こいつの瞳をきちんと覗きこんだなら、きっと司書室のときのような無感情が見つかることだろう。
「おれMD持ちこんでるじゃん」
「持ちこんでたね」
「他のやつになんか言われてなかった?」
「そういうの気にするんだ? 意外」
前フリもなく始まった話に名字はたやすくついてきて、おどけたように応じた。
「あの日でしょ? アキラくんがめずらしく残ってた日。そうだね、MDもだし、みんなしゃべりたがってたよ」
「でも誰も邪魔しにこなかった」
「邪魔って。そのへんは私がね、なんかこう、そっとしとこ〜的な流れにもっていった感じで」
説明する彼女の口調はゆるい。朝早いからなのかまだ万全とは言えない喋りだ。貸出カウンターの中ではピシッとしていたのに、今はなんだかふわふわしている。もしくは、クラス政治の外側にいるおれ相手だから油断しているのかもしれない。
今なら踏みこめる。おれは何の根拠もなくそう思った。
「なあ」
「なに?」
「あいつのこときらいなの?」
司書の顔を思い浮かべながら問いかける。名字はきょとんとした表情でおれを見た。
「んーん、先生のことはみんな好きだよ」
「じゃあなんであんなに花を踏みつけてたわけ」
「疲れてたの」
傍から聞けば答えになっていないように思えるそれも、おれには伝わっていた。いわば八つ当たりだ。破壊衝動に巻きこまれた花のことなんて、これっぽっちも考えちゃいない。クラスの花壇は慈しんでも、事故で落っこちた花は踏みにじることのできる少女。生き物係についていなければ、花壇だって目もくれずに通りすぎるタイプだな、これは。
そんなふうに考えていたのがバレたのか、名字はけらけら笑った。
「言いふらしてもいいよ? 優等生がおかしくなった〜って。みんな面白がって聞いてくれるよ。それきっかけにしてクラスに馴染めるかもよ」
絶対やらないって分かってるからこそ、名字はおれを煽ってきた。そんなこと一ミリも思ってないって知ってるくせに。それでも、この瞬間の名字の笑顔は図書室にいたときより自然に見えた。
「疲れるんならいい子でいるのやめればいいのに」
「簡単に言ってくれるなあ~」
名字は雑草を抜いていく。小さなものなら根っこもそれほど張っていないのであっさり抜ける。包帯を巻いていない方の手とはいえ、洗うのが大変だぞと口を出したが本人はへらへらするばかりだった。
「うまくやっていくには多少の我慢も必要だもん。アキラくんだって、我慢してることあるでしょ?」
「ない」
「うそだあ」
口先で強がってみたものの、彼女はおれの表情からやすやすと察したらしい。ちょっと目を見開いて、へえ、とだけこぼした。「やっぱり」と言わなかったのは温情なのか、単に興味がなかったのか。
「ま、大人になるまでのしんぼうだから」
大人になれば、もっと自由にやれるはずだから。名字は繰り返し言った。目の前のおれではなく、自分に言い聞かせているみたいな口ぶりだった。
「きゅうくつな生き方だな。そんなんで生きてるって言えんの?」
「それを決めるのはアキラくんじゃないよ」
ちあきの時とは違う、確固たる拒絶があった。こいつは本当に時間が何とかしてくれると思っているのだ。大人になる、という漠然とした希望だけを頼りに、いい子の枠に収まろうとしている。おれ一人の言葉ではどうにもできない祈り。
本来はまらないはずの枠にねじ込んだ体は、そのうち抜け出せなくなるだろう。そうして成長していき、枠が壊れるのが先か、こいつが潰れるのが先か。その前に爆発するかもしれない。あの時のように。
「アキラくん、教室寄ってく?」
「……今日はいかない」
「そっか。一人じゃ入りにくいとかだったら気軽に声かけてね。別クラスだけど、入り口までなら許されると思うし」
おれの質問をひらりとかわして別の話題に移してしまう。言外に、これ以上入ってくるなと線引きされた。おれと連れ立って下駄箱に行く彼女はまた仮面みたいな笑顔に戻っていて、距離は近くとも心が遠くにあるのだと分かった。こっちだって興味本位で踏み込んだだけだから、ここで引くことにする。こいつと話すのはこれきりだろうな、という予感がした。
今日は保健室だから、と言えば名字は朗らかに笑って手を振った。さっきまで土いじりをしていた方の手のひらだった。
学年が上がると名字は別の委員会に入ったらしく、図書室で見かけることが極端に減った。それでも本を借りにきた彼女と顔を合わせる日もあって、お互い無言で会釈して終わる。すれ違う一瞬、あいつの目がちょっぴり細められる。そこに何の感情もないのだと、ただの反射的な動きなのだと、おれは知っている。
一方生き物係は継続していたようで、窓ガラス越しに名字をながめたりもする。うららかな陽気の中、咲きほこる花々を前に慈愛の笑みを浮かべる少女の姿は、窓枠効果もあってまるで絵画みたい完璧だ。図書室登校のおれのことなんて忘れてしまったのか、名字はこちらに見向きもしない。水しぶきを見つめているようなその視線は、実際のところ虚空に向けられている。
宙を舞う水滴が、日の光を含んできらめいた。その中で名字はいつものようにまっすぐ前を向き、つまらなそうに微笑んでいた。
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人の声を避けて一人ぼっちでいた小学生時代。打って変わって、高校生になった俺は、まあいろいろあって今のバンドを結成した。で、バンドメンバー(全員後輩)とのダラけた時間を楽しんでしまっている。
今日だって放課後の買い物ついでにどこかで食べる流れとなり、たかしの「ハンバーグ食べたい」発言から駅前のファミレスを覗いていた。
「混んでんな、別んとこ行くか」
「前に何組かしかいませんよ! ちょっと待てばすぐですって」
そうだそうだ、と頷いて列の最後尾に並ぶ後輩達。おれはというと、たかしが名簿に名前を書きこむのをなんとなく眺めていた。マガミの三文字の上には結構な量の名字が並んでいて、その大半はすでに案内済で斜線によって消されている。
小さい頃からの癖なのか、俺はどうでもいい情報でも文字があると読んでしまう。四名、二名、六名、喫煙席、と飛ばしぎみに見ていた先に、角ばった文字があった。
名字。
記憶の片隅で、割れたガラスがちらついた。
「名字、あたし先に払っていい?」
「いいよー」
たった一言でも、レジ前から待機列の最後尾まで聞こえるほど通る声がした。たかしが「終わりましたよ」と俺を列に誘う。後輩達が授業の愚痴やら課題の進捗やらを話しているのを流しつつ、俺の意識はレジに向いていた。
財布を取り出す女二人。和気あいあいと話を弾ませていた片方は、遠い昔ガラスを踏みつけていたあいつだった。ペンキより鮮やかな血を流しても眉一つ動かさなかった名字が、普通の人のような顔をして普通の生活を送っていた。
店員にお礼を言うときの微笑みで、図書室のカウンターにいた彼女だと確信した。名だたる進学校の制服を身にまとった少女は、手入れのされた髪を揺らして笑う。ピンと伸ばした背筋は相変わらずだった。
名前を見てすぐ思い出すほど仲がよかった訳じゃない。最後に話したのだって日常の一コマみたいなものだ。それなのに俺の頭の中には名字が残っていたらしい。
考え込んで油断していた俺が顔を背けるのよりも早く、名字が何の気なしに振り向いた。
視線が合う。くるんとしたまつげの奥から、あの無を湛えた瞳が俺を見る。一瞬、怪訝そうに目が細まった。
それでも彼女はにこ、と笑った。花壇の前の笑顔じゃなくて、カウンターで浮かべていた接客の笑み。完成された外向きの「優等生」。
名字は足を止めず、会釈一つせず俺達の横を通り過ぎていく。連れの少女と会話の続きを始めていて、きゃあきゃあと高い声で笑いあう。それすら演技だと疑ってしまう。彼女はまだ枠の中にいる。あの祈りは叶いそうか、と聞けないまま、軽快な退店音と共に名字は去っていく。
「今の人、アキラさんの知り合いですか?」
「……いや、人違いだった」
小首をかしげて訊ねてきたたかしに、俺は嘘をついた。たかしは不思議そうな顔をしつつも頷いた。
かつての同級生だけど向こうは覚えていないなんてよくあることで、わざわざ後輩の耳に入れるもんじゃない。たかが数日、会話した時間を合わせたら一日にも満たないような交流しかなかった相手だ。覚えている方がおかしい。
だからまあ、それだけの話なのだ。
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