幸か不幸か巡りあう
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次の授業まであと五分、開始ギリギリの時間になっても科学の教科書は借りられそうになかった。友達のクラスはよりによって科学の無い日で、一人ぐらい置き勉している子がいるはずだと友達の友達まで頼ったんだけど、みんな家に置いてあるとのこと。もういいや、たかが一時間、隣の子に見せてもらえば済む話だと余裕ぶっこいていた私に、友達が気の毒そうな顔をして教えてくれた。
「科学の先生、忘れ物したときの説教長いらしいよ」
その場に立たせて忘れた理由を聞くらしい。忘れたもんは忘れたのだからそれ以上の理由が出てくる訳もない。何を答えたとしても、たるんでいるだのなんだのと晒し者にされるそうだ。うちのクラスで初の説教イベントが始まってしまうなんてまっぴらごめんなので、こうして駆け回るはめになっている。
友達のいないクラスにも聞くだけ聞いてみようと覗いたが、すでに電気も消されて人っ子一人いなかった。いや、一人だけ机に伏せてるやつがいる。どうやら男子生徒らしいそいつは、静まりかえった教室の隅で席についたまま微動だにしない。移動教室であろう時間に一人残る生徒。このまま素通りしたら後が面倒くさいかも、と考え、そいつに声をかけることにした。
「あのお、すみませーん」
「んん……」
彼をゆさゆさと動かすと、血管の透けているまぶたがしぶしぶといった感じで開いた。焦点の合っていない虚ろな目。血の気の感じられない顔。目の下に隈まである彼はどう見たって病人だった。さすがの私も、具合の悪い人に教科書を求めるのは気が引けた。見えているのかも怪しい赤い瞳を向けられながら、おそるおそる提案する。
「体調よくないなら保健室行った方がいいんじゃない?」
「あー、大丈夫、です……」
「そっか」
消え入りそうな声に否定され、私はあっさり頷いてしまった。大丈夫そうに見えないけど本人が大丈夫だって言うなら大丈夫なんだろうし。生まれつき不健康そうな顔をしているタイプの人かもしれない。病人じゃないなら、初対面ではあるけどダメ元で聞いてみようかな。
「ねえ、科学の教科書持ってない? あったら貸してほしいんだけど」
「かがく?」
のろのろと自分の机を漁る彼と、無慈悲なスピードで進んでいく時計の針を交互に見やる。忘れ物に厳しいのなら、チャイムに間に合わなくても怒られるんじゃないか。そわそわする私に、名前も知らない彼が、ん、と教科書を差し出した。そして、ぼんやりとしていた彼の表情がぴしりと固まった。
「てかお前誰?」
「ごめん急いでるから後で! 教科書ありがとね! ちゃんと返しにくるから!」
「ちょっと待て、おい!」
移動教室急いだ方がいいよ、と付け足し、言うが早いか私は駆け出していた。廊下にはもう誰もおらず、私のクラスメイト達がお利口に着席しているのが簡単に想像できた。上履きの音を最小限に、けれど最高速度で歩く私は端から見たら変な動きになっているかもしれない。もう気にしてもいられないんだけど。
どうにか教室に滑り込んだ私の手に教科書があるのを見て、よかったね、と口の動きだけで友達が言った。私はどや顔で親指を立ててそれに答える。
しれっとした顔で席に戻ると同時に、チャイムが鳴った。この世の全てを憎んでいそうな顔で科学の先生は教壇に立ち、特に私に目を向けることもなく号令を急かしている。それを見てようやく、怒られることは無さそうだと胸を撫で下ろした。日直の声にあわせて礼をしながら、教科書の裏表紙に目を落とす。インクの切れかけたペンで書いたらしい、薄くひしゃげた不二美という三文字が表記されていた。
この時のことを、不二美は後に
「山賊かと思った」
と語った。いや山賊ってなんだよ。
「人の物強奪してさっさといなくなるんだから賊だろ」
「一応許可とったじゃん」
「寝ぼけた状態の返事は許可になりません」
教科書を返しにいった私に、眠気のさめた不二美が向けた目を今でも覚えている。あれは確かに犯罪者を見る目だった。あと、結局移動教室には間に合わなかったらしい。
「起きたら知らない女しかいなかった俺の衝撃が分かるか?」
「他の人が声かけたって言ってたよ。大丈夫だって言い張ったあんたの自業自得」
「動き出すまでやらなきゃ起こしたとは言わねーんだよ」
不二美は私に対してふてぶてしい。初対面のときにあんだけ心配したのがバカみたいに思えるほどふてぶてしい。たぶん私にだけじゃない。慣れてくると本性を現すやつだったっぽい。弱々しい態度も寝起きの低血圧のせいだった。体が強くないとかなんとか聞いたけど定かではないので保留として。無茶ぶりもよくしてくるし。
もともと内弁慶のきらいがあるけど、他の友達、特にバンドの後輩への優しさと私への態度は雲泥の差だ。たまたま後輩くん達との会話を聞いちゃったときはめちゃくちゃ驚いた。相手の気持ちを考えて言葉を発してる不二美。『後輩の意見をまとめて引っ張っていくいい先輩』な不二美。ぐだぐだしてだれてる感もあったけど、甘えからきてそうな態度だった。人ってこんなに態度変えられるんだ……、としみじみ思ってしまうぐらいにはびっくりした。そのことについて特に異論は無い。私だってそうだし。
不二美への態度と友達への態度は全く違う自覚がある。一切の配慮も遠慮もしない振る舞いを、私は不二美にだけ向けている。何が私をそうさせるか分からない。普通に友達になってしまえばいいのに、親しくする気がこれっぽっちもおきない。自分の気持ちに向き合うのはダルい作業ナンバーワンなのでここで思考停止している。
例え不快にさせたことで即座に切られても悲しくならない、わざわざ仲良くする気もないし、必要なときだけ頼れればいい。
こんなささやかで細い繋がり、本当は生まれるはずがなかった。見知らぬ女から教科書を回収して二度と関わりたくないと思ったはずの不二美は、他のクラスに友達がいなかったばかりに私の元にやって来た。ふてくされた顔で、この前貸してやったんだから今度はお前が貸せ、と言ってきたあの瞬間から私達の関係は始まってしまった。以前の借りを返してはまた借りて。単純な繰り返しが不二美アキラと私を繋いでいる。
まあ、そんなこんなで氷の溶けたオレンジジュースよりも薄い関係が今でも続いているのでした。
「科学の先生、忘れ物したときの説教長いらしいよ」
その場に立たせて忘れた理由を聞くらしい。忘れたもんは忘れたのだからそれ以上の理由が出てくる訳もない。何を答えたとしても、たるんでいるだのなんだのと晒し者にされるそうだ。うちのクラスで初の説教イベントが始まってしまうなんてまっぴらごめんなので、こうして駆け回るはめになっている。
友達のいないクラスにも聞くだけ聞いてみようと覗いたが、すでに電気も消されて人っ子一人いなかった。いや、一人だけ机に伏せてるやつがいる。どうやら男子生徒らしいそいつは、静まりかえった教室の隅で席についたまま微動だにしない。移動教室であろう時間に一人残る生徒。このまま素通りしたら後が面倒くさいかも、と考え、そいつに声をかけることにした。
「あのお、すみませーん」
「んん……」
彼をゆさゆさと動かすと、血管の透けているまぶたがしぶしぶといった感じで開いた。焦点の合っていない虚ろな目。血の気の感じられない顔。目の下に隈まである彼はどう見たって病人だった。さすがの私も、具合の悪い人に教科書を求めるのは気が引けた。見えているのかも怪しい赤い瞳を向けられながら、おそるおそる提案する。
「体調よくないなら保健室行った方がいいんじゃない?」
「あー、大丈夫、です……」
「そっか」
消え入りそうな声に否定され、私はあっさり頷いてしまった。大丈夫そうに見えないけど本人が大丈夫だって言うなら大丈夫なんだろうし。生まれつき不健康そうな顔をしているタイプの人かもしれない。病人じゃないなら、初対面ではあるけどダメ元で聞いてみようかな。
「ねえ、科学の教科書持ってない? あったら貸してほしいんだけど」
「かがく?」
のろのろと自分の机を漁る彼と、無慈悲なスピードで進んでいく時計の針を交互に見やる。忘れ物に厳しいのなら、チャイムに間に合わなくても怒られるんじゃないか。そわそわする私に、名前も知らない彼が、ん、と教科書を差し出した。そして、ぼんやりとしていた彼の表情がぴしりと固まった。
「てかお前誰?」
「ごめん急いでるから後で! 教科書ありがとね! ちゃんと返しにくるから!」
「ちょっと待て、おい!」
移動教室急いだ方がいいよ、と付け足し、言うが早いか私は駆け出していた。廊下にはもう誰もおらず、私のクラスメイト達がお利口に着席しているのが簡単に想像できた。上履きの音を最小限に、けれど最高速度で歩く私は端から見たら変な動きになっているかもしれない。もう気にしてもいられないんだけど。
どうにか教室に滑り込んだ私の手に教科書があるのを見て、よかったね、と口の動きだけで友達が言った。私はどや顔で親指を立ててそれに答える。
しれっとした顔で席に戻ると同時に、チャイムが鳴った。この世の全てを憎んでいそうな顔で科学の先生は教壇に立ち、特に私に目を向けることもなく号令を急かしている。それを見てようやく、怒られることは無さそうだと胸を撫で下ろした。日直の声にあわせて礼をしながら、教科書の裏表紙に目を落とす。インクの切れかけたペンで書いたらしい、薄くひしゃげた不二美という三文字が表記されていた。
この時のことを、不二美は後に
「山賊かと思った」
と語った。いや山賊ってなんだよ。
「人の物強奪してさっさといなくなるんだから賊だろ」
「一応許可とったじゃん」
「寝ぼけた状態の返事は許可になりません」
教科書を返しにいった私に、眠気のさめた不二美が向けた目を今でも覚えている。あれは確かに犯罪者を見る目だった。あと、結局移動教室には間に合わなかったらしい。
「起きたら知らない女しかいなかった俺の衝撃が分かるか?」
「他の人が声かけたって言ってたよ。大丈夫だって言い張ったあんたの自業自得」
「動き出すまでやらなきゃ起こしたとは言わねーんだよ」
不二美は私に対してふてぶてしい。初対面のときにあんだけ心配したのがバカみたいに思えるほどふてぶてしい。たぶん私にだけじゃない。慣れてくると本性を現すやつだったっぽい。弱々しい態度も寝起きの低血圧のせいだった。体が強くないとかなんとか聞いたけど定かではないので保留として。無茶ぶりもよくしてくるし。
もともと内弁慶のきらいがあるけど、他の友達、特にバンドの後輩への優しさと私への態度は雲泥の差だ。たまたま後輩くん達との会話を聞いちゃったときはめちゃくちゃ驚いた。相手の気持ちを考えて言葉を発してる不二美。『後輩の意見をまとめて引っ張っていくいい先輩』な不二美。ぐだぐだしてだれてる感もあったけど、甘えからきてそうな態度だった。人ってこんなに態度変えられるんだ……、としみじみ思ってしまうぐらいにはびっくりした。そのことについて特に異論は無い。私だってそうだし。
不二美への態度と友達への態度は全く違う自覚がある。一切の配慮も遠慮もしない振る舞いを、私は不二美にだけ向けている。何が私をそうさせるか分からない。普通に友達になってしまえばいいのに、親しくする気がこれっぽっちもおきない。自分の気持ちに向き合うのはダルい作業ナンバーワンなのでここで思考停止している。
例え不快にさせたことで即座に切られても悲しくならない、わざわざ仲良くする気もないし、必要なときだけ頼れればいい。
こんなささやかで細い繋がり、本当は生まれるはずがなかった。見知らぬ女から教科書を回収して二度と関わりたくないと思ったはずの不二美は、他のクラスに友達がいなかったばかりに私の元にやって来た。ふてくされた顔で、この前貸してやったんだから今度はお前が貸せ、と言ってきたあの瞬間から私達の関係は始まってしまった。以前の借りを返してはまた借りて。単純な繰り返しが不二美アキラと私を繋いでいる。
まあ、そんなこんなで氷の溶けたオレンジジュースよりも薄い関係が今でも続いているのでした。