10.満ちなければ欠けもしないのだと
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母の示した場所は島の端も端、船着き場からも村からも離れた海岸だった。奇妙なほど人気がなく、木々のざわめきや波の音だけが響く。海賊達は物資の略奪や殺人を目的としているためここまで来なかったのかもしれないが、それにしたって静まり返っている。喧騒が遠のくほど、私の頭は警鐘を鳴らした。
出入りするのも難しい岩の並びを通り抜けると、人影が行く手を阻む。
整った身なりがずたずたに、顔に殴られた跡があっても彼はいつものように穏やかな笑みを浮かべていた。
「……お義父さん?」
「無事にたどり着いたんだね。待っていたよ」
お義父さんは帆が畳まれた小船の側に立ち、言葉を失った私のことなど気にも留めず、見てくれ、と言った。
暗闇の中ひっそりと浮かぶ船の上に、血まみれで荒い息をするホーキンスが横たわっていた。
服には血が滲み、その下の傷の深さが見て取れる。暗闇でも分かるほど真っ青な顔には汗が伝い、乱れた金髪が貼りついていた。
「ホーキンス!!」
「安心してくれ、まだ生きてる。ついさっきまで戦っていたんだ」
「て、手当てを」
「必要なものはすでに積んである。乗ってくれ」
言われるがままに乗り、指示通り救急箱を見つけて開く。重傷者にも対応できるほどの中身が詰まっている。
お義父さんを振り返った。雲で月が隠された今、彼の表情は読み取れない。屋敷で花嫁修業をしていた頃のように、私がやるべきことを淡々と説明していく。
「書斎の本を読んでいた君のことだ、舵の取り方は分かるね。行き先はホーキンスの占いで、と言いたいところだが、回復するまでは星に従って凌いでくれ。今なら海も落ち着いている。さ、早く」
「どういうことですか」
「時間がない。船を出すのは今がチャンスなんだ」
「まだ戦ってるんですよ……? 皆、傷だらけで、あいつらに立ち向かってるんです、まだ、まだ終わってない!!」
「そうだよ。「まだ」終わっていない」
その口ぶりは、もう無理だと言外に伝えようとしていた。わがままを言う子どもを窘めるために現実を見せる、大人の声だった。
こみ上げた感情を抑えたまま顔を背ける。今優先すべきはホーキンスだ。汚れた手を最低限清潔にした後、傷口から血が溢れるのを少しでも食い止めようと、なけなしの知識で彼の命を引き留めようとする。その中でなんとか絞り出した私の返事は、みっともなく揺れていた。
「……最後まで戦います。皆が命をかけてるのに、私だけ逃げるなんて、そんな——」
「ホーキンスがいる」
「っ……!!」
私達の視線の先には愛する夫が、息子がいた。争いの中心はホーキンスだった。
「見て分かるだろう? 最前線で戦っていたホーキンスは重傷だ。今手当てしなければ助からない。逆に言えば、今逃げ出せば、君が付きっきりで看病してくれれば、生き長らえることができる」
心臓が嫌な音を立てていた。異様な速さで脈打つそれは、私の思考を残酷なほど表している。
ホーキンスの手当てをする。当然だ。でもその後は? 少しの治療でどうにかなる傷じゃないのは見て分かる。すぐに復帰することは不可能。できるならお医者様を呼びたいくらいだ。
うちの医者は殺されたよ。真っ先にね。
お義父さんは私の脳内を覗いたかのように答えた。使用人も役目を果たして全滅した、と。
「このまま戦い続けたところで、戦力差は覆らない。ぼく達は負ける。全滅だ。誰一人生き残れない。ならせめて、自分の子どもだけでも生きてほしいと思うのは、そんなにいけないことかな」
「……みんな、みんなそうです。どこのおじさんもおばさんも、みんな、子どもに生きててほしかった。でも、未来のために戦うことを選んだ」
「話を逸らすな。皆はもういない。全てを助けることはできない。選ぶんだ」
言い返そうにも私の口はうまく動いてくれない。戦い続けてどうにかなる状況はとうに過ぎ去ったのだと、敵の声 で満ちた島から察していた。だからって私だけ、私達だけが生き延びるなんて許されるはずがない。いいや、ホーキンスには生きていてほしい。死ぬのは私だけでいい。
お義父さんは言葉に詰まった私の肩に手を置いた。背後から「君しかいないんだ」と言われるのだって、こんな状況でなければ嬉しかったはずだ。少なくとも、銃口を突きつけ決断を迫られている感覚にならずに済んだ。
優しくも切実な懇願が耳に流れ込む。
「君の夫を、ホーキンスを、どうか」
その時、かすかな囁きが聞こえた。波のさざめきにかき消されそうなほど小さな呼び声。
「エヴィ……?」
ホーキンスの口元に顔を寄せる。彼の虚ろな目は私に向いているが、どうやら完全には見えていないようだった。
「どこだ……」
「っここ! 私、ここにいるよ……!」
手を握るとホーキンスは私を探し求めるのを止めた。今抱きしめたら傷に障りそうだ、と距離を保つ。血が流れすぎて寒さを感じているのか、彼は震えながらうわ言のように言った。
「そばにいてくれ、おれと、共に、」
喋ることすら辛いのだろう、途切れ途切れの願いがぷつりと終わる。彼が本当は何を望んでいたのかも不明なまま、私は言葉を紡ぐ。
「大丈夫だよ。私がずっと側にいるから、なんにも心配いらないよ。助けに行けなくてごめんね。今度はちゃんと駆けつける、だから……」
なんにも大丈夫じゃないのに。
それでもホーキンスはほんの少し安心したように見えた。私の言葉が嘘ばかりで意味のないものだったとしても、彼の慰めとなったのなら全てが許された気がした。
顔を上げると、船の近くで佇むお義父さんと目があった。何もかもを見通しているかのような瞳。なぜか私は反抗的に言い訳を口走る。
「……あなたに頼まれたからじゃありません。私は私の意思で、ホーキンスを選びます。あなたには何の責任もない。これから先の人生で起きることは、私が選んだ結果です」
「……君は何も知らないんだよ」
「知らなくたって、今私がホーキンスを選んだのは私の選択です。あなたのものじゃない。だから、そんな顔しないでください」
月明かりすらないこの場に目が慣れてきたのか、彼の顔が少しだけ見えた。上手くいったと安堵するような、誰かに懺悔したがっているような、曖昧な表情だった。少なくとも死が目前に迫っているとは思えない。諦めたにしては安らかすぎる。
私の言葉を聞いたお義父さんは「君は本当にいい子だね」と呟いた。彼の言う「いい子」は褒められた気がしない。言葉の裏に違う意味を乗せるのはやめてほしい。私は気づいた上で知らないふりをする。お義父さんはそれを望んでいるからだ。
「私の選択」だなんて見栄張っちゃって。思わず声に応えたってだけなのに。こんな状況になってまで私はかっこつけるのをやめられないらしい。自分で自分が嫌になる。
お義父さんはそんな自己嫌悪すらもお見通しなのか、笑いながら返り血まみれの私の髪の毛をくしゃくしゃと撫でた。
「ぼく達はちょいとばかし暴れてくるから、君達はその隙に逃げなさい。この島が見えなくなっても進み続けるんだ。できることなら北の海を出てほしいが……無理でも、奴らの縄張りを抜けられるように」
彼は軽く言うけれど、この年まで島以外の世界を見たことのない私でもさすがに無理だと分かる。近隣の島や海賊の縄張りはおおよそ把握しているが、無事に進める保証はない。北の海を出るなんてなおさらだ。それでもやるしかない。まずはホーキンスを安静にできる場所を探さなくては。
「あなたは?」
「導くだのなんだの言っておいて、土壇場でずるをしようとしているんだもの。ぼくは自分の後始末をしなくちゃね」
いたずらっぽく笑うのは、私が罪悪感を抱かないようにするための配慮なのかもしれない。彼は私の複雑な表情を見て取ると、初めて会った日のように目を細めた。
「大丈夫。君はいい顔してるよ。生き残る。だからぼくも妻も君に託そうと思ったんだ」
それは私の言う「大丈夫」とは比べ物にならないくらいに力のある激励だった。
お義父さんもお義母さんも、人を導くことに長けている。私は導かれる。不満はない。辿り着いた先が破滅だったとしても彼らを憎むことはできないだろう。
島全体の声 に耳を傾けると、海賊達以外に村人が数人残っているのが分かった。そこにはお母さんもいた。動きからして単なる戦闘ではない。何か、人目を忍んで罠や爆弾を仕掛けているような――。
はたと気づく。
「ぼく達って……まさか」
そりゃそうさ。お義父さんはへらりと笑って答えた。
「ぼくも君のご両親も、自分の子どもがかわいいんだ」
私が呆然としている間に彼はテキパキと帆を張り、岩の一つにくくりつけていたロープを外した。小船が自由になった途端、びゅう、と強い風が吹いた。
両親は知っていたのだ。村中を裏切ったと思われようと我が子が生き延びる可能性に賭けた。事前に話を通されていた。私抜きで。
もっとちゃんと愛してるって言えばよかった。あれが最後になると思いたくなかったから、当たり前にあり続けるものだと思いこんでいたから、私、感謝一つ伝えられなかった。後悔ばかりしている。正解の道を選べたことなんか無い、そんな気がしてしまう。
ホーキンスの側で凍りつく私に、お義父さんの微笑みが向けられる。ここにいないお母さんの声 が聞こえる。
「ごめんなさい、あなた。エヴィに嘘ついちゃった。嘘はダメだって言い聞かせてきたくせにね……」
誰にも聞かせる気がないからこそこぼれた言葉だったのだろう。お父さんの死が確定してしまった。お母さんも後を追うつもりだと悟った。謝らないでよ、と言ったところで彼女には届かない。
「頼んだよ、エヴィ」
もう村の方へ戻っていってしまったはずのお義父さんの声 がしたのを最後に、船は風を受けて一気に進む。
島が遠ざかっていく。燃やされた村が一際明るい。丘の上の屋敷に入り込んだであろう海賊達の人影が見え、無意識に握り込んだ手の爪が刺さる。
守ってくれた人々のおかけで、一隻の小船が無事出航した。私が故郷を故郷として見ることができた、最後の日だった。
▲▲▲
分厚い雲が月も星もすっかり隠してしまった真っ暗闇を、静かに静かに進む。明かりをつけたら居場所がバレてしまうから、闇夜に目を凝らして逃げ続ける。
小船は誰にも見つからずに夜の海を彷徨っていた……というのは正確ではない。船には近隣の航海図も用意されていたから、暗闇ではほとんど意味がないそれを頼りに進んでいる。島で一生を終えるのになぜ航海図の読み方を教わっているんだろう、なんて首を傾げていたかつての自分を殴りたくなる。命綱だ。知識が私達の今後を左右する。
ホーキンスの容態は安定していない。波は比較的落ち着いているけれど、ささいな揺れですら彼の傷に響く。早くベッドに寝かせてあげたい。彼はこんなところにいていい人じゃない。
私は私でそれなりの傷を負っていたらしく、今になって痛みがやってきた。自分の手当てをしながら、頭の中で疑問が浮かぶ。終わりが始まってからずっと考えていたこと。
私、どうすればよかったの?
誰も返事をしてくれない。ホーキンスのか細い呼吸音だけが船に響く。周りには冷え冷えとした海が広がっていて、導いてくれるはずの星は雲の向こうに隠れたまま。知らないにおいがする。潮風なんて何度も嗅いできたはずなのに、見知らぬ場所にいるのだと思い知らされる。
進む方向はこのままでいいのか不安になって、いつもの癖でホーキンスに呼びかけようとして。振り向くと、彼の服からカードの束が見えた。思わず伸ばした手を下ろす。私が触れていいものじゃない。
かっこつけたい相手は意識不明で、泣きつける相手はもういない。私が舵を握っている。私だけがホーキンスを守ることができる。
神様、一度だけでいいから祈りを聞いて。
当然の如く返事はない。きっと、祈るべき相手は神様じゃなかったのだ。
舵から手を離し、力無く眠るホーキンスの左手をとった。互いの指輪がコツン、とぶつかっても彼は起きない。手が冷たいのはいつものことだから。大丈夫。大丈夫だって言って。誰か。ここにいることを肯定して。
縋りつくように手の力を強めた。少しでも体温を分けてあげたかった。
「お願い、死なないで、一人にしないで、お願い……」
出入りするのも難しい岩の並びを通り抜けると、人影が行く手を阻む。
整った身なりがずたずたに、顔に殴られた跡があっても彼はいつものように穏やかな笑みを浮かべていた。
「……お義父さん?」
「無事にたどり着いたんだね。待っていたよ」
お義父さんは帆が畳まれた小船の側に立ち、言葉を失った私のことなど気にも留めず、見てくれ、と言った。
暗闇の中ひっそりと浮かぶ船の上に、血まみれで荒い息をするホーキンスが横たわっていた。
服には血が滲み、その下の傷の深さが見て取れる。暗闇でも分かるほど真っ青な顔には汗が伝い、乱れた金髪が貼りついていた。
「ホーキンス!!」
「安心してくれ、まだ生きてる。ついさっきまで戦っていたんだ」
「て、手当てを」
「必要なものはすでに積んである。乗ってくれ」
言われるがままに乗り、指示通り救急箱を見つけて開く。重傷者にも対応できるほどの中身が詰まっている。
お義父さんを振り返った。雲で月が隠された今、彼の表情は読み取れない。屋敷で花嫁修業をしていた頃のように、私がやるべきことを淡々と説明していく。
「書斎の本を読んでいた君のことだ、舵の取り方は分かるね。行き先はホーキンスの占いで、と言いたいところだが、回復するまでは星に従って凌いでくれ。今なら海も落ち着いている。さ、早く」
「どういうことですか」
「時間がない。船を出すのは今がチャンスなんだ」
「まだ戦ってるんですよ……? 皆、傷だらけで、あいつらに立ち向かってるんです、まだ、まだ終わってない!!」
「そうだよ。「まだ」終わっていない」
その口ぶりは、もう無理だと言外に伝えようとしていた。わがままを言う子どもを窘めるために現実を見せる、大人の声だった。
こみ上げた感情を抑えたまま顔を背ける。今優先すべきはホーキンスだ。汚れた手を最低限清潔にした後、傷口から血が溢れるのを少しでも食い止めようと、なけなしの知識で彼の命を引き留めようとする。その中でなんとか絞り出した私の返事は、みっともなく揺れていた。
「……最後まで戦います。皆が命をかけてるのに、私だけ逃げるなんて、そんな——」
「ホーキンスがいる」
「っ……!!」
私達の視線の先には愛する夫が、息子がいた。争いの中心はホーキンスだった。
「見て分かるだろう? 最前線で戦っていたホーキンスは重傷だ。今手当てしなければ助からない。逆に言えば、今逃げ出せば、君が付きっきりで看病してくれれば、生き長らえることができる」
心臓が嫌な音を立てていた。異様な速さで脈打つそれは、私の思考を残酷なほど表している。
ホーキンスの手当てをする。当然だ。でもその後は? 少しの治療でどうにかなる傷じゃないのは見て分かる。すぐに復帰することは不可能。できるならお医者様を呼びたいくらいだ。
うちの医者は殺されたよ。真っ先にね。
お義父さんは私の脳内を覗いたかのように答えた。使用人も役目を果たして全滅した、と。
「このまま戦い続けたところで、戦力差は覆らない。ぼく達は負ける。全滅だ。誰一人生き残れない。ならせめて、自分の子どもだけでも生きてほしいと思うのは、そんなにいけないことかな」
「……みんな、みんなそうです。どこのおじさんもおばさんも、みんな、子どもに生きててほしかった。でも、未来のために戦うことを選んだ」
「話を逸らすな。皆はもういない。全てを助けることはできない。選ぶんだ」
言い返そうにも私の口はうまく動いてくれない。戦い続けてどうにかなる状況はとうに過ぎ去ったのだと、敵の
お義父さんは言葉に詰まった私の肩に手を置いた。背後から「君しかいないんだ」と言われるのだって、こんな状況でなければ嬉しかったはずだ。少なくとも、銃口を突きつけ決断を迫られている感覚にならずに済んだ。
優しくも切実な懇願が耳に流れ込む。
「君の夫を、ホーキンスを、どうか」
その時、かすかな囁きが聞こえた。波のさざめきにかき消されそうなほど小さな呼び声。
「エヴィ……?」
ホーキンスの口元に顔を寄せる。彼の虚ろな目は私に向いているが、どうやら完全には見えていないようだった。
「どこだ……」
「っここ! 私、ここにいるよ……!」
手を握るとホーキンスは私を探し求めるのを止めた。今抱きしめたら傷に障りそうだ、と距離を保つ。血が流れすぎて寒さを感じているのか、彼は震えながらうわ言のように言った。
「そばにいてくれ、おれと、共に、」
喋ることすら辛いのだろう、途切れ途切れの願いがぷつりと終わる。彼が本当は何を望んでいたのかも不明なまま、私は言葉を紡ぐ。
「大丈夫だよ。私がずっと側にいるから、なんにも心配いらないよ。助けに行けなくてごめんね。今度はちゃんと駆けつける、だから……」
なんにも大丈夫じゃないのに。
それでもホーキンスはほんの少し安心したように見えた。私の言葉が嘘ばかりで意味のないものだったとしても、彼の慰めとなったのなら全てが許された気がした。
顔を上げると、船の近くで佇むお義父さんと目があった。何もかもを見通しているかのような瞳。なぜか私は反抗的に言い訳を口走る。
「……あなたに頼まれたからじゃありません。私は私の意思で、ホーキンスを選びます。あなたには何の責任もない。これから先の人生で起きることは、私が選んだ結果です」
「……君は何も知らないんだよ」
「知らなくたって、今私がホーキンスを選んだのは私の選択です。あなたのものじゃない。だから、そんな顔しないでください」
月明かりすらないこの場に目が慣れてきたのか、彼の顔が少しだけ見えた。上手くいったと安堵するような、誰かに懺悔したがっているような、曖昧な表情だった。少なくとも死が目前に迫っているとは思えない。諦めたにしては安らかすぎる。
私の言葉を聞いたお義父さんは「君は本当にいい子だね」と呟いた。彼の言う「いい子」は褒められた気がしない。言葉の裏に違う意味を乗せるのはやめてほしい。私は気づいた上で知らないふりをする。お義父さんはそれを望んでいるからだ。
「私の選択」だなんて見栄張っちゃって。思わず声に応えたってだけなのに。こんな状況になってまで私はかっこつけるのをやめられないらしい。自分で自分が嫌になる。
お義父さんはそんな自己嫌悪すらもお見通しなのか、笑いながら返り血まみれの私の髪の毛をくしゃくしゃと撫でた。
「ぼく達はちょいとばかし暴れてくるから、君達はその隙に逃げなさい。この島が見えなくなっても進み続けるんだ。できることなら北の海を出てほしいが……無理でも、奴らの縄張りを抜けられるように」
彼は軽く言うけれど、この年まで島以外の世界を見たことのない私でもさすがに無理だと分かる。近隣の島や海賊の縄張りはおおよそ把握しているが、無事に進める保証はない。北の海を出るなんてなおさらだ。それでもやるしかない。まずはホーキンスを安静にできる場所を探さなくては。
「あなたは?」
「導くだのなんだの言っておいて、土壇場でずるをしようとしているんだもの。ぼくは自分の後始末をしなくちゃね」
いたずらっぽく笑うのは、私が罪悪感を抱かないようにするための配慮なのかもしれない。彼は私の複雑な表情を見て取ると、初めて会った日のように目を細めた。
「大丈夫。君はいい顔してるよ。生き残る。だからぼくも妻も君に託そうと思ったんだ」
それは私の言う「大丈夫」とは比べ物にならないくらいに力のある激励だった。
お義父さんもお義母さんも、人を導くことに長けている。私は導かれる。不満はない。辿り着いた先が破滅だったとしても彼らを憎むことはできないだろう。
島全体の
はたと気づく。
「ぼく達って……まさか」
そりゃそうさ。お義父さんはへらりと笑って答えた。
「ぼくも君のご両親も、自分の子どもがかわいいんだ」
私が呆然としている間に彼はテキパキと帆を張り、岩の一つにくくりつけていたロープを外した。小船が自由になった途端、びゅう、と強い風が吹いた。
両親は知っていたのだ。村中を裏切ったと思われようと我が子が生き延びる可能性に賭けた。事前に話を通されていた。私抜きで。
もっとちゃんと愛してるって言えばよかった。あれが最後になると思いたくなかったから、当たり前にあり続けるものだと思いこんでいたから、私、感謝一つ伝えられなかった。後悔ばかりしている。正解の道を選べたことなんか無い、そんな気がしてしまう。
ホーキンスの側で凍りつく私に、お義父さんの微笑みが向けられる。ここにいないお母さんの
「ごめんなさい、あなた。エヴィに嘘ついちゃった。嘘はダメだって言い聞かせてきたくせにね……」
誰にも聞かせる気がないからこそこぼれた言葉だったのだろう。お父さんの死が確定してしまった。お母さんも後を追うつもりだと悟った。謝らないでよ、と言ったところで彼女には届かない。
「頼んだよ、エヴィ」
もう村の方へ戻っていってしまったはずのお義父さんの
島が遠ざかっていく。燃やされた村が一際明るい。丘の上の屋敷に入り込んだであろう海賊達の人影が見え、無意識に握り込んだ手の爪が刺さる。
守ってくれた人々のおかけで、一隻の小船が無事出航した。私が故郷を故郷として見ることができた、最後の日だった。
▲▲▲
分厚い雲が月も星もすっかり隠してしまった真っ暗闇を、静かに静かに進む。明かりをつけたら居場所がバレてしまうから、闇夜に目を凝らして逃げ続ける。
小船は誰にも見つからずに夜の海を彷徨っていた……というのは正確ではない。船には近隣の航海図も用意されていたから、暗闇ではほとんど意味がないそれを頼りに進んでいる。島で一生を終えるのになぜ航海図の読み方を教わっているんだろう、なんて首を傾げていたかつての自分を殴りたくなる。命綱だ。知識が私達の今後を左右する。
ホーキンスの容態は安定していない。波は比較的落ち着いているけれど、ささいな揺れですら彼の傷に響く。早くベッドに寝かせてあげたい。彼はこんなところにいていい人じゃない。
私は私でそれなりの傷を負っていたらしく、今になって痛みがやってきた。自分の手当てをしながら、頭の中で疑問が浮かぶ。終わりが始まってからずっと考えていたこと。
私、どうすればよかったの?
誰も返事をしてくれない。ホーキンスのか細い呼吸音だけが船に響く。周りには冷え冷えとした海が広がっていて、導いてくれるはずの星は雲の向こうに隠れたまま。知らないにおいがする。潮風なんて何度も嗅いできたはずなのに、見知らぬ場所にいるのだと思い知らされる。
進む方向はこのままでいいのか不安になって、いつもの癖でホーキンスに呼びかけようとして。振り向くと、彼の服からカードの束が見えた。思わず伸ばした手を下ろす。私が触れていいものじゃない。
かっこつけたい相手は意識不明で、泣きつける相手はもういない。私が舵を握っている。私だけがホーキンスを守ることができる。
神様、一度だけでいいから祈りを聞いて。
当然の如く返事はない。きっと、祈るべき相手は神様じゃなかったのだ。
舵から手を離し、力無く眠るホーキンスの左手をとった。互いの指輪がコツン、とぶつかっても彼は起きない。手が冷たいのはいつものことだから。大丈夫。大丈夫だって言って。誰か。ここにいることを肯定して。
縋りつくように手の力を強めた。少しでも体温を分けてあげたかった。
「お願い、死なないで、一人にしないで、お願い……」
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