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死んでも素直に笑わない/ドフィ
視線が背中に突き刺さる。じとりとした目がこちらを睨んでいる。それでもドフラミンゴは振り向かないと決めていた。目と目が合った瞬間にまた怒鳴りあうことになる予感がした。全てが変わり果てた生活に適応することで精一杯なドフラミンゴは、体力の温存のために反応しない姿勢を貫いた。こんな人間に応じている暇があるのなら、少しでも食べられそうなものを探さなくてはならない。そのために腐臭漂うゴミ山へ挑んでいるのだから。
突然現れて突然去っていった少女は、あれから毎日ドンキホーテ一家を監視しに訪れた。小屋から少し離れた場所に佇んで、水の確保にも手間取る両親を、腹をすかせて泣いたりわめいたりする兄弟を、ただじっと観察していた。死んだ目には喜びも悲しみもなく、「観察」と呼ぶのが相応しい眼差しだった。ドフラミンゴにだけは強い視線を向けていたが、彼は彼女を無き者として扱っていたために表面上の平穏が保たれていた。両親は代わる代わる話しかけ、そのどれもを無視され続けた挙句、今では独り言を装って少女とのコミュニケーションを試みているらしかった。あまりにも馬鹿馬鹿しい。唯一反応らしい反応を見せたのは、ロシナンテが足元のゴミにつまずいて転んだ時だけだ。
弟は生まれた時からドジばかりする子供で、年々悪化の一歩を辿っていた。赤ん坊の頃はせいぜい物を落とすくらい、いやベビーベッドから転げ落ちるくらいで済んでいたというのに、歩けるようになると何もないところで転ぶのが日常となっていた。それは下界に来てからも相変わらずで、その日ゴミ溜めをうろついていた弟はいつものように足をもつれさせ、あっという間にバランスを崩した。いつもと違うのは、たまたま一人で出歩いていたこと、そして、よりにもよって弟が転んだ先に鋭く尖った破片が散らばっていたことだった。
ドフラミンゴ達は咄嗟に手を伸ばしたが誰一人間に合わない。各々が悲鳴をあげた、その瞬間。遠くにいたはずの少女が、突如ロシナンテの前に現れた。勢いよく飛び込む形になったロシナンテを易々と受け止め、下ろし、しっかりと地面に足をつかせたのである。
「下をよく見て歩きな」
「あ……うん。ありがとう」
突き放すような声色ではあったが、よく見ると少女はわずかに息を切らしていた。ロシナンテの動きをいち早く察知し全力疾走してきたのだ、とその場にいた誰もが察していた。助けられた本人もそれを分かってか、「先日怒鳴りこんできた怖い人」であるはずの少女に対して素直にお礼を述べた。少女が何をしたのかをはっきりと理解した父はパッと顔を輝かせ、礼として小屋に招こうとしたものの、彼が誘いの言葉を言い終える頃にはもう少女は立ち去っていた。
この国に来て一家が初めて受けた親切は、こんな些細なことだったのだ。こんなことがあったせいで父は人間共との和解を諦めきれず、母はいつの日か良き隣人になれるはずだと嬉しそうに微笑み、弟の警戒心が緩んだ。賢いドフラミンゴだけは、決して心を許さなかった。人間なんて皆同じなのだから、あいつだって何か企んでいるのだと。極度のストレス下にありながら、味方になり得そうな少女を疑い続けた。
ドフラミンゴ達の住む小屋の近くは、ゴミはゴミでも粗大ゴミの類ばかりが積み上げられていてなかなか食料が見つからない。あったとしても、食べ物の残骸であるそれは腐臭の原因と化している。
小屋の近くには海がある。観光地にもならないような汚染された海ではあるものの、なにかしら生き物がいるようだった。しかし魚の捕まえ方を知っている者がおらず、指をくわえて見ていることしかできない。街に行けば残飯くらいは見つかるかもしれないが、その前に一家の存在がバレるだろう。家族は日に日にやつれていく。ドフラミンゴ自身、これまで体験したことのない飢えが彼を蝕んでいた。
自分達は尊い血筋の者なのに、どうしてこそこそとゴミなど漁らなくてはならないのか。人間共の方から食料を捧げて然るべきではないのか。ドフラミンゴはそう両親に述べたけれど、くたびれた顔の両親は困ったような笑みを浮かべた。
天竜人は恨まれているから、身元が判明するようなことはあってはならない。この土地だって噂がまだ回っていないだけで、見つかってしまえば以前のようなことになりかねない。手元に金がない上、店に行ったところで売ってはくれないだろう。わめきたてるドフラミンゴを窘めるため、父はそういったことを一つ一つ説明していった。その全てが、ドフラミンゴには理解できなかった。以前にも聞いた話だけれども、やはり彼の怒りを増幅させるだけだった。
だから一人で街に出た。ゴミ山に向き合うよりも効率的だと思ったのだ。なんなら今度こそ人間共を跪かせてやると意気込んで、こっそりゴミ山を抜け出した。例の少女が後をつけていることに気がついていたが、やはり無視を続けると決め、そのまま街に忍び込んだ。
彼はそこで地獄を見た。いや、地獄の始まりでしかなかった。
一応父の話を覚えていたから、ドフラミンゴなりに隠れながら街を歩いていた。それなのに住民達は簡単に彼を見つけ出した。噂が回っていないはずのここですら一家の情報は共有されていたようで、顔をちらりと見た人々は顔色を変えた。
ドフラミンゴに気づいた一人の男が彼を乱暴に掴み上げ、勢いよく路上に叩きつける。痛みにうめく少年を、民衆は様子をうかがうようにして囲みだす。あちこちからぞろぞろと人間達が現れた。ドフラミンゴの周囲の建物の窓という窓が開いていて、面白いものでも見るかのように不躾な視線が投げられた。人々はドフラミンゴを見ているというのに、別のなにかにも気を取られているようだった。
誰かが一歩踏み出せばあふれ出してしまいそうな緊張感が一帯に漂っている。混乱で声をあげることすら忘れたドフラミンゴがなんとか顔を上げる。途端、ぎらついた目があちこちから注がれていることに気づいて、ひゅ、と息を漏らした。
「本当に、海軍は関わってこないんだな?」
「こんなことになってもすっ飛んでこないんだ、構いやしないよ」
互いに確認しあう彼らの語気は静かなようでいて鋭さを湛えている。みな、今か今かと待っていた。こんな日が来ることを待っていた。「元」とはいえ、天竜人からの報復を恐れる気持ちは確かにあった。しかし、同じ境遇の者達が共に一線を飛び越えるのならば、どんなことも怖くない。その感情を共有するかのように据わった目を交わす。はちきれんばかりの緊迫感が、ついにぷちりと弾けた。
そうして復讐に飢えた人間達は、目の前に差し出された元天竜人という餌を喜んで貪り始めたのである。
***
突如鐘の音がけたたましく鳴り響く。鳴る頻度はそう多くない分、緊急性の高さを示す耳障りな音。非常時にしか使われないはずにもかかわらず、なぜか今、街中に響き渡っていた。人々は夢中で蹴り上げていた「それ」から足を離し、意識を彼方に向けた。足元から聞こえるうめき声よりも、鐘の音の理由を確かめることの方が重要であった。
「どっかで火事でもあったか?」
「大変だ、うちに燃え移ったらひとたまりもない!」
「鳴らしたのは誰だ? 何があったか聞かねェと」
ついさっきまで声を荒げて罵倒を浴びせていた民衆は、甲高い警告音に不安になってそれぞれの家路を急いだ。そうでなくとも、金属音に気勢をそがれた者は少なくなかった。
あれだけいた人間達が元の場所に帰っていく。ドフラミンゴの顔を執拗に殴った女は棒についた血をエプロンで拭い、家族のための夕飯を作りに。ドフラミンゴの足に切り傷を負わせた男は、その日暮らしを成り立たせるための職場へと。窓から見ていた野次馬は、見世物が終わったのかとつまらなそうにこぼす。
最後に残った数人がドフラミンゴを街の外へと放り投げ、頭を、腹を、折れた指をぎりぎりと踏みつける。血まみれの頬に唾が吐き捨てられた。
「おれ達の苦しみはこんなもんじゃねェからな……」
地を這うような声がドフラミンゴの耳に届く。これまで生きてきて一度も聞いたことのない種類の音。自分に向けられる明確な悪意。ひゅうひゅうとか細く呼吸を繰り返す子供のことなぞ、誰も案じていなかった。彼の苦しむ様が人々の溜飲を下げた。人々の興奮を煽った。人間達が自分の無様な様子を見て喜んでいるのだ、とドフラミンゴはいやでも理解したが、強がるための気力はもう残っていなかった。
砕けたサングラスのレンズがあたりに散らばっていた。少年は全身の痛みから少しでも逃れたくて地面へとうずくまる。無防備にさらされた両目がかすんでいる。顔を濡らしているのが血か涙かの区別さえつきやしない。一刻も早く家族のいるところに帰りたいのに、立ち上がることすらできなくて。ずる、ずる、と動かない体を引きずって前に進もうとした。忌まわしい街から距離をとろうと、比較的無事だった腕を使って土の上を這いずっていた。そんな時、小さな靴が行く手を阻んだ。
「たのしい?」
そんなわけないか。少女は自分で否定して「あは」と笑った。乾いた笑いだった。顔を見なくても分かる。こいつは今、おれを蔑んでいる。あの真っ黒な目を愉快そうに歪めて、おれを見下している。どうしようもなく惨めな気持ちになったが、今のドフラミンゴには銃も権力も無い。やり返す手段を持っていない。
ドフラミンゴはせめてもの抵抗として、少女の声など聞こえなかったかのように振る舞った。そして頭のどこかで、久しぶりにこいつの声を聞いたな、とどうでもいいことを考えていた。
「そんなんじゃ日が暮れちゃうよ」
ぐい、と持ち上げられたかと思うと、視界一杯に少女の背中が広がった。どうやらドフラミンゴは少女に背負われているようだった。自分とそう変わらないはずの少女はこうしてみると大きくて、力も、まあ、ほんの少し強い。傷だらけのドフラミンゴが降りようと暴れたところで易々と押さえつけられ、道からどんどん外れていく。さすがのドフラミンゴも無言を貫けそうになく、思わず少女を問いただした。
「おいっ! どこに連れてく気だえ!」
「あんたの親のとこ」
「道から離れてるのに!? お前は住んでる土地の位置すら把握してないのか!?」
「うるっさいなあ……堂々と歩いてたらまた殴られるよ。あんた嫌われてんだから」
ずかずかと草むらに押し入り、林を抜け、使われなくなってしばらく経っていそうな橋を渡っていく。行きの道とは全く違う景色に困惑しているのはドフラミンゴばかりで、少女は迷いなく道なき道を歩んでいた。
少女の顔は、背中にいるドフラミンゴには当然ながら見えない。めんどくさいと思っていそうな反応だけれども、ドフラミンゴを抱える手は存外優しかった。彼の全身に傷やら打撲跡やらがあると知っているようで、極力それらに触れないような背負い方へと調整されていた。足早ではあるものの、極力振動を与えないように歩いているのだと分かった。
遠くで名前も知らない鳥が鳴く。ドフラミンゴがゴミ山を飛び出してどれほどの時間が経ったのか、もう日が傾いてきていた。
父達を無視していた時とは打って変わってよく喋るこの少女に、今なら話しかけても大丈夫な気がした。少なくとも何らかの反応は返って来るはずだ。今だってこうして自分を運んでいるし、ロシナンテだって助けていたし。
そこまで考えて、はたと気づく。そうだ、こいつはなぜ助けにこなかった? ドフラミンゴの体に配慮できるくらいに傷の位置を把握しているということは、あの時どこかで見ていたのか? 見ていたならなぜ、弟のもとには駆けつけたのに、なんでおれのことは――
「降りて」
「……え?」
「もう目の前だし、自分で行けるでしょ。降りて。あんたの親に絡まれたくない」
少女の言う通り、ドフラミンゴが考え事をしている間に二人はゴミ山に到着していた。慣れかけていた悪臭がドフラミンゴの鼻をくすぐって、本当に戻ってきたのだと実感がわく。そんなに長く考え事をしていたのかと思いつつ小屋を探すと、確かに目視できる距離にあった。今頃両親と弟がドフラミンゴを探していることだろう。這いずっていけば彼らに見つけてもらえる場所まで行ける。歩けもしない状態の少年に言うことではないが。
「歩けないんだえ。小屋まであと少しなんだから運ぶえ」
「だから嫌だってば……というか、その語尾やめて。ムカつく」
「天竜人としての誇りを示す言葉遣いだえ! 下々民には理解できなくても仕方ないえ」
「いつまでそんなこと言ってんだか……」
ずり落ちてきたドフラミンゴを抱え直し、少女は渋々歩き始めた。内心ほっとしながら、ドフラミンゴは先ほどの考えを思い出し、ぽつりと訊ねた。
「お前、どこにいたんだえ」
「……どこって、街だけど」
「見てたのか」
言外に、見ているだけだったのか、と責めた。少女はしばし黙り込む。すぐに小屋が近づいてきて、中に誰もいないことから家族は皆捜索に出ているのだと知る。そうしているうちに、二人は小屋の前まで来ていた。穴だらけで、吹けば飛ぶようなぼろ小屋に。
少女は無言でしゃがんだ後、ドフラミンゴを地面に下ろした。ロシナンテにしたように、しかし自力で立ち上がることの難しいドフラミンゴに合わせて、ゆっくりと彼から手を離した。背中だけ見せていた彼女が、座り込んだドフラミンゴを振り返る。その顔はなぜか苦しげに歪んでいた。目があった途端、その苦しみは鳴りを潜め、すう、と表情が消えた。
「助けてほしかったの?」
「っ誰が、お前なんかに!」
咄嗟にそう返したドフラミンゴに、少女はふうん、と頷くだけ。何かいちゃもんをつけてくるものだと構えていた彼は、拍子抜けして二の句を継げなくなってしまった。彼女の長いまつ毛が伏せられ、その瞳の奥までは見通せない。あれだけ喋っていたというのに、少女はまた何も言わなくなってしまった。
二人を平等に照らしていた夕日はもはや水平線の向こうに沈みかけている。風に乗って、かすかに人の声が聞こえた。ドフラミンゴの慣れ親しんだ、今最も会いたい家族の声。少女にも聞こえたのだろう、音のした方向をちらりと一瞥してドフラミンゴのそばから去っていく。入れ違いになるように家族のすすり泣きが近づいてくる。ドフラミンゴ、と叫びすぎて枯れた声がする。それは傷ついた少年の心をいくばくか癒したが、少女の言動に頭を悩ませていた彼は家族に呼びかけることを忘れていた。
「なんだったんだえ……」
ロシナンテのことは助けたくせに、ドフラミンゴが虐げられても姿一つ見せなかった。影から見ているだけで、全て終わってから現れたあの少女。こうして家族のもとまで運んだのは褒めてやらなくもないが、あの態度で帳消しどころかマイナスである。民衆の前にすら出てこなかった彼女への恨みが、今になってこんこんと湧き上がる。手を出してきた奴らはもちろん、見捨てた奴だって同罪なのだ。初めての蹂躙に傷ついた少年は、直接的に暴力をふるってきた大人達と同じくらい、少女を深く憎んだ。けれど。
もしあの時「助けて」と叫んでいたら、彼女はどうしていたのだろうか。
小屋の前で思案するドフラミンゴのもとに、泣き腫らした家族が帰ってきた。血まみれのドフラミンゴの姿を見て母は悲鳴をあげ、父と共に彼を抱きしめた。一歩遅れて弟が兄に抱きつき、兄の服を涙で汚す。腕がうまく動かせないせいで抱き返すことができず、それがまたドフラミンゴの怒りを膨れ上がらせた。
生きていてよかったと繰り返す両親に、ドフラミンゴは堰を切ったように街での仕打ちを語った。何もしていないドフラミンゴを殴り、蹴り、踏みつけてきた民衆の悪逆無道を。「やめろ」と言おうものなら、その百倍の呪詛が降り注いだことを。語り口ははじめから恨みに満ちていたが、家族はそれを聞いてまた涙を流した。息子にここまでのことを言わせてしまった現実が無念でならないようだった。
「助けにいってやれなくてすまなかった……!」
父が深く頭を下げた。心底悔やんでいるその表情は、偽りのない本心なのだろう。弟はグズグズと泣き続けていて、もはやドフラミンゴ本人よりもドフラミンゴのされたことを悲しんでいた。彼らの反応を見たところでドフラミンゴの激情は止まない。それでも、彼の心のやわらかなところが少しずつ癒やされていく。
母が優しくドフラミンゴの背中を撫でる。そこは散々踏みつけられた場所で、母のたおやかな手のひらですら擦れて痛みを感じていたが、ドフラミンゴは振り払わなかった。家族からの慰めこそが、今のドフラミンゴに必要なものだった。
太陽は完全に隠れてしまった。欠けた月のささやかな光だけが、労りあう彼らにそっと降りそそいでいた。