近かったのは遠い昔(クザン)
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「お前さァ、いつまでそうしてるつもり?」
「諦めがつくまでですかねェ」
主語のない会話が脱衣所に落ちる。次いでクザンの着ていたジャケットが消え、きれいに畳まれた状態で棚に現れた。
海軍本部少佐のイツダは大将青雉——クザンの命令のもと、入浴前の脱衣補助をおこなっていた。格式高いパーティーに大将として顔を出したクザンは適した衣装を身にまとっていたが、着るのが大変な服は脱ぐ際にも時間がかかる。気疲れしてその手間を惜しんだ彼はヌギヌギの実の能力者であるイツダを呼び出し、「脱がせろ」と命じたのである。
——というのは外向きの理由で。実際は、降格して以降見かけなくなった知人と喋りたいだけなのだ、とクザンは言った。
「顔くらい出しなさいよ」
「少佐の自分が大将のお時間を頂くのは気が引けて……」
「始末書書きすぎて出世できなくなったやつが今さらそんなんでビビるわけねェだろ。嘘つくならもっとマシなやつにしな」
「手厳しいですね」
ネクタイくらい能力を使わずとも外せるはずだが、イツダはそっとつまんで待っていた。シュルシュルとタイが緩み、クザンの首から離れていく。それを見つめながらイツダが口を開く。
「……また、叱られてしまいましたから。自分にも気まずいという感覚はあります」
「叱ったのはおれじゃないでしょ」
「顔向けできない、と言った方が正しいかもしれません。せっかくよくしていただいたのに、何も返せないのが不甲斐なくて」
「命令違反しまくってるやつが言うことかよ」
クザンの軽口にもイツダは微笑むばかりで言い返してこない。「詳らかな正義」とやらを公言しているくせに、この海兵は時折本心を隠す癖があった。愚直さばかりが目につくが、クザンを含めた近しい人間はそれに気づいていた。
イツダは十分な実力を持っていながら頻繁に命令違反を犯した。それ自体は海軍内でもよくあることで、誤魔化すなり言い訳を考えてしらを切り通すなり、何らかの方法で処分を免れるやつが多い。それなのにこの海兵は馬鹿正直に報告をあげた。隠しておけば見逃してもらえそうなことですらわざわざ報告書にまとめて提出するものだから、上としても無視するわけにはいかず、処分を下す。そうして降格に降格を重ね、かつて若くして准将を務めていたイツダは、今では少佐の身となっていた。
「すぐ中将に上がってくると思ってたのに」
「自分より適した人材がいたというだけです」
「イツダと一緒に戦えるの、結構楽しみにしてたのよ?」
「おや、お上手ですね! 本気にしてしまいそう。今でもきっと叶います。機会がありましたらよろしくお願いいたします」
イツダの手はすでにシャツに触れていた。下着姿から先はクザン自ら脱ぐということになっている。他愛もない会話ができるのもあと少し。酒を飲み交わすほどでもない関係だった。いっそのこと誘ってみるか、とクザンは考えたものの、イツダがやけに禁欲的に過ごしているというのは有名な話だったのでやめにした。海軍なんて場所で息抜きもせず何を楽しみに生きているのか。クザンは目の前の人間がよく分からない。
イツダが厄介者として僻地に飛ばされず、限りある本部の枠に残されている理由は主に二つ。一つはひとえに実力と指揮能力が買われていること。いくら面倒な存在とはいえ、イツダのような戦力を遊ばせておく余裕はなかった。そしてもう一つは。
見せしめである。反発し続ければこうなるぞ、と。
同期は皆昇級し華々しい功績を上げる中、イツダだけが一回りほど若い世代に紛れて少佐を務めている。本人はけろりとしているけれど、周囲はそうではない。かつて自分と同じ階級だった若い海兵に追い抜かされ、指図を受け、雑用を押し付けられる。見下されることもしばしばあった。部下に舐められる度能力で抑えているのだとクザンは知っていた。ほのめかせば、イツダは知られていることに驚き、続いて「優しいんですね」と柔らかい声で囁いた。
「会いにも来ない知り合いのことをそこまで気にかけてくださるなんて、やはり親切なお方だ」
「あれだけ言われてりゃおれの耳にも届くっての」
「お聞き苦しい状態になっていて申し訳ありません。ですが、自分を悪く言っている者がいたらお心に留められた方がいいですよ」
「なに? いつかやり返そうって?」
「まさか! 向上心故にそういった発言をしているのです。指導すればきっと強くなります」
強がりでもなんでもない、心からの言葉だった。声色と表情で手に取るように分かる。クザンはため息をつきそうになるのをぐっとこらえ、静かに語りかけた。
「……イツダってさ」
「はい」
「人を見る目ないって言われねェ?」
「よく言われますが、自分はそう思いません」
「周りの言うこたァもっと聞いた方がいいぜ?」
シャツがスルリと肩から離れ、床に落ちる前に棚へ収まる。下着一枚になったクザンは、端から見れば髪だけがセットされたおかしな格好になっているのだろう。イツダがそれを嘲ることはない。心底不思議そうに首を傾げている。
「皆様から頂いた言葉を忘れたことなどありません」
ズレた回答。そういうとこあんだよな、とまた頭が痛くなる。これ以上詰めても埒が明かないため、クザンはさらりと話題を変えた。
「なんか前より時間かかったな」
「……バレました? さっきはあんなこと言いましたけど、クザンさんとお話したくて、ちょっとゆっくりめに脱がしてたんです。お忙しいのにすみません」
変えた先に穴があった。遠慮半分照れ半分にこちらの顔色を伺う様は、イツダの若々しさも相まって新兵のように見えた。クザンの脳内でいろんな思考が駆け巡る。今すぐ寝たいくらいに疲れているが、目の前のイツダはこの機会を逃せば次また会えるか分からない。こいつと知人止まりでいるのは惜しいな、と思った。
「お前さァ……ま、いいや。この後あいてる?」
「あけます。何でもお申し付けください」
「そんな身構えんなって。おれの風呂終わったら一緒に飲もうぜ。酒が無理ならつまみだけでもいいからさ」
瞼をぱちくりとさせ、イツダは「さけ」と繰り返す。クザンより年下といえど四十手前の壮年であるのに、ふとした瞬間幼さが垣間見える。軍人に相応しくない振る舞いも、ここでは問題にならない。
「よろしいんですか? パーティーで散々飲まれたのでは……」
「ああいうとこの酒と身内と飲む酒は別なの。で、どうよ」
「ぜひ!」
若くもない海兵が上司の誘いに喜んだのは、必要とされたことに対してか、はたまた身内と呼ばれたことか。その両方かもしれないな、と推測する程度には、クザンはイツダに好かれている自負があった。
*****
「幸福ですか?」
深く被ったフードの隙間から長髪が垂れ、タートルネックで鼻まで覆った不審者――イツダは、暗色のコートを着たクザンにそう問いかけた。フードに雪が降り積もっていくのを眺めながら、クザンは慎重に言葉を返す。
「……そうだって言えば、見逃してくれるか?」
「いえ。見逃すもなにもクザンさんの方がお強いではないですか。自分はただ、かつての上司との会話を楽しみたいだけです」
「上司ってだけ?」
「友人と呼んでよろしいのでしたら、呼ばせていただきます」
服装の怪しさと凛とした姿勢は、一般人とかけ離れた雰囲気を漂わせる。ちぐはぐな印象を振りまくのは仕事中だけではないらしい。堅苦しい話し方は友と呼べる仲になっても変わらなかったな、と懐かしくなった。
クザンは鞄から水筒と予備のコップを取り出しながら、自身の隣を指さした。
「じゃあ友達ってことで。座れよ。……ここのことはどうやって知ったんだ」
「寒いところにいそうだなと思って、いろいろ巡ってきました!」
コップに注いでいた熱いお茶をこぼしそうになり、慌てて持ち直す。そんなクザンにきょとんとした視線を向けてはいるものの、イツダは礼を述べ、コップを受け取った。
「……イツダって、そんなにおれのこと好きだったんだ」
「はい!」
クザンの冗談をあっさり肯定し、イツダは出されたお茶に口をつけている。その様子に拍子抜けした。こいつは皆のことが好きなのだろうが、どうにも不安である。
「自分のことを気にかけてくれる人を好きだと思うのは、それほどおかしくないと思います」
「全員にやってたら身が持たないでしょうが」
「それができちゃうんですよね! 自慢するようなことでもないですが、友人と呼べる相手はそう多くないんです」
「でもお前、友達じゃなくても探しに行くだろ」
「さすが、分かってらっしゃる」
凍りつきそうな空気に白い息が混じる。少し間 があく。
「好意を伝えるのを躊躇っていられるほど人生は長くないようなので」
手袋をつけてもなお凍えた手を温めながら、イツダは独り言のように呟いた。
「あららら、おっさんらしくなっちゃって」
「おばさんかもしれませんよ」
「結局その辺どうなんだ?」
口を開いたイツダは、背後からやってきた超ペンギンのキャメルを見た途端に「かわいい!」とはしゃぎ出し、クザンの質問をうやむやにした。キャメルにあしらわれて若干しょんぼりとしながら帰ってきたのを見計らい、クザンは別の問いを投げかける。なぜ会いに来たのか、と。
「もうクザンさんは覚えていらっしゃないかもしれませんが、一緒に戦いたかったって言ってもらえたあの時、本当に嬉しかったんですよ」
「……それだけ?」
「あと、飲みに誘ってもらえたことも」
「それだけでこんなとこまで来たの?」
「重いって思ったでしょう」
「まァ……」
「ひどいなァ」
着膨れしたイツダはわははと笑った。いつにも増して貧弱に見えるこの海兵も、巨岩程度なら素手で割ることができる。自分の身を守れるからこそ、単身で人探しの旅などできたのだ。弱くはない。クザンが守らずとも生きていける人間だ。
クザンはかき氷を崩しながらぼやいた。
「ボインのねえちゃんに口説かれるんなら大歓迎だってのに、現実はこれだもんなァ」
「口説く……?」
「な? 嫌になっちまうよ」
この海兵は好意を全面に出すが、そこに色恋沙汰は含まれていない。人としての「好き」を伝えているだけなのだ。言われた側は勘違いなどする間もなく気づく。そして思い思いの反応をする。
クザンはイツダからの好意を受け流してきた男だった。恋愛対象として好きだと言われても困る。しかしここまで脈がないと、なんだか悔しくもなってくる。はァ、と大きなため息だってついてしまう。
「貴重な休みをこんなことに使うとは、わざわざご苦労なこって」
「撤回してください。自分はこの休日の使い方を後悔していません。あなたは自虐のつもりでしょうが、それは自分のことも侮辱しています」
「はいはい、悪かったよ」
「それより近況をお聞かせ願います。体調はいかがですか? 何か欲しいものは?」
退役軍人の自虐すら許さない海兵が求めたのは茶飲み話で。暇じゃ無いはずのイツダが、場合によっては再度来訪することも辞さないと言いたげに問いを重ねるものだから、クザンは思わず吹き出してしまったのだった。
*****
「それがあなたの答えですか?」
「いっつも質問ばっかだな」
「失礼、これでも抑えているのでご容赦ください。お聞きしたいことは山程あるんです」
海兵と海賊。相容れない二人が相対する。きっちりとスーツを着込み、しゃんと背筋を伸ばしたイツダは、海賊に身を落とした友人を見て一瞬表情を無くした。感情任せに挑まず、冷静になろうと努めている。場に応じた判断を下せる人間だからこそ人の上に立ち、指示を出す権限が与えられている。クザンもかつてはそうだった。自らその立場を降りた。
「再度お尋ねします。幸福ですか?」
「……まァ、ぼちぼちってとこ」
「そうですか」
イツダが自らの首元を撫でれば、タートルネックが消える。スーツのジャケットもベストも遠くで畳まれ落ちている。パステルカラーのネクタイに腕まくりしたシャツ。普段のイツダを知る者ならば、何を意味するかなぞすぐに勘づく。
「あらら、脱いじゃっていいの? これから冷えるのに」
「正直、もっと肌を晒して飛びかかりたいところですよ」
「能力頼りは禁物だぞ」
「あなた相手になりふり構っていられないので」
コートは脱がない。正義を背負っているからだ。クザンはそれを理解していた。
「――ああでも、本当によかったです」
強者を前にしているというのに、イツダの声は安らいでいた。クザンは以前の問いにどう答えたか記憶を漁り、はぐらかしたのを思い出す。
あの時の問いの意味が、答えが、今ここに。
「幸福であるのなら、心置きなく殺せますから」
自分の能力はマグマよりずっと楽に逝けますよ。
かつて海軍大将を務めた男に対して、イツダは身震いすることなく大口を叩いてみせた。
「諦めがつくまでですかねェ」
主語のない会話が脱衣所に落ちる。次いでクザンの着ていたジャケットが消え、きれいに畳まれた状態で棚に現れた。
海軍本部少佐のイツダは大将青雉——クザンの命令のもと、入浴前の脱衣補助をおこなっていた。格式高いパーティーに大将として顔を出したクザンは適した衣装を身にまとっていたが、着るのが大変な服は脱ぐ際にも時間がかかる。気疲れしてその手間を惜しんだ彼はヌギヌギの実の能力者であるイツダを呼び出し、「脱がせろ」と命じたのである。
——というのは外向きの理由で。実際は、降格して以降見かけなくなった知人と喋りたいだけなのだ、とクザンは言った。
「顔くらい出しなさいよ」
「少佐の自分が大将のお時間を頂くのは気が引けて……」
「始末書書きすぎて出世できなくなったやつが今さらそんなんでビビるわけねェだろ。嘘つくならもっとマシなやつにしな」
「手厳しいですね」
ネクタイくらい能力を使わずとも外せるはずだが、イツダはそっとつまんで待っていた。シュルシュルとタイが緩み、クザンの首から離れていく。それを見つめながらイツダが口を開く。
「……また、叱られてしまいましたから。自分にも気まずいという感覚はあります」
「叱ったのはおれじゃないでしょ」
「顔向けできない、と言った方が正しいかもしれません。せっかくよくしていただいたのに、何も返せないのが不甲斐なくて」
「命令違反しまくってるやつが言うことかよ」
クザンの軽口にもイツダは微笑むばかりで言い返してこない。「詳らかな正義」とやらを公言しているくせに、この海兵は時折本心を隠す癖があった。愚直さばかりが目につくが、クザンを含めた近しい人間はそれに気づいていた。
イツダは十分な実力を持っていながら頻繁に命令違反を犯した。それ自体は海軍内でもよくあることで、誤魔化すなり言い訳を考えてしらを切り通すなり、何らかの方法で処分を免れるやつが多い。それなのにこの海兵は馬鹿正直に報告をあげた。隠しておけば見逃してもらえそうなことですらわざわざ報告書にまとめて提出するものだから、上としても無視するわけにはいかず、処分を下す。そうして降格に降格を重ね、かつて若くして准将を務めていたイツダは、今では少佐の身となっていた。
「すぐ中将に上がってくると思ってたのに」
「自分より適した人材がいたというだけです」
「イツダと一緒に戦えるの、結構楽しみにしてたのよ?」
「おや、お上手ですね! 本気にしてしまいそう。今でもきっと叶います。機会がありましたらよろしくお願いいたします」
イツダの手はすでにシャツに触れていた。下着姿から先はクザン自ら脱ぐということになっている。他愛もない会話ができるのもあと少し。酒を飲み交わすほどでもない関係だった。いっそのこと誘ってみるか、とクザンは考えたものの、イツダがやけに禁欲的に過ごしているというのは有名な話だったのでやめにした。海軍なんて場所で息抜きもせず何を楽しみに生きているのか。クザンは目の前の人間がよく分からない。
イツダが厄介者として僻地に飛ばされず、限りある本部の枠に残されている理由は主に二つ。一つはひとえに実力と指揮能力が買われていること。いくら面倒な存在とはいえ、イツダのような戦力を遊ばせておく余裕はなかった。そしてもう一つは。
見せしめである。反発し続ければこうなるぞ、と。
同期は皆昇級し華々しい功績を上げる中、イツダだけが一回りほど若い世代に紛れて少佐を務めている。本人はけろりとしているけれど、周囲はそうではない。かつて自分と同じ階級だった若い海兵に追い抜かされ、指図を受け、雑用を押し付けられる。見下されることもしばしばあった。部下に舐められる度能力で抑えているのだとクザンは知っていた。ほのめかせば、イツダは知られていることに驚き、続いて「優しいんですね」と柔らかい声で囁いた。
「会いにも来ない知り合いのことをそこまで気にかけてくださるなんて、やはり親切なお方だ」
「あれだけ言われてりゃおれの耳にも届くっての」
「お聞き苦しい状態になっていて申し訳ありません。ですが、自分を悪く言っている者がいたらお心に留められた方がいいですよ」
「なに? いつかやり返そうって?」
「まさか! 向上心故にそういった発言をしているのです。指導すればきっと強くなります」
強がりでもなんでもない、心からの言葉だった。声色と表情で手に取るように分かる。クザンはため息をつきそうになるのをぐっとこらえ、静かに語りかけた。
「……イツダってさ」
「はい」
「人を見る目ないって言われねェ?」
「よく言われますが、自分はそう思いません」
「周りの言うこたァもっと聞いた方がいいぜ?」
シャツがスルリと肩から離れ、床に落ちる前に棚へ収まる。下着一枚になったクザンは、端から見れば髪だけがセットされたおかしな格好になっているのだろう。イツダがそれを嘲ることはない。心底不思議そうに首を傾げている。
「皆様から頂いた言葉を忘れたことなどありません」
ズレた回答。そういうとこあんだよな、とまた頭が痛くなる。これ以上詰めても埒が明かないため、クザンはさらりと話題を変えた。
「なんか前より時間かかったな」
「……バレました? さっきはあんなこと言いましたけど、クザンさんとお話したくて、ちょっとゆっくりめに脱がしてたんです。お忙しいのにすみません」
変えた先に穴があった。遠慮半分照れ半分にこちらの顔色を伺う様は、イツダの若々しさも相まって新兵のように見えた。クザンの脳内でいろんな思考が駆け巡る。今すぐ寝たいくらいに疲れているが、目の前のイツダはこの機会を逃せば次また会えるか分からない。こいつと知人止まりでいるのは惜しいな、と思った。
「お前さァ……ま、いいや。この後あいてる?」
「あけます。何でもお申し付けください」
「そんな身構えんなって。おれの風呂終わったら一緒に飲もうぜ。酒が無理ならつまみだけでもいいからさ」
瞼をぱちくりとさせ、イツダは「さけ」と繰り返す。クザンより年下といえど四十手前の壮年であるのに、ふとした瞬間幼さが垣間見える。軍人に相応しくない振る舞いも、ここでは問題にならない。
「よろしいんですか? パーティーで散々飲まれたのでは……」
「ああいうとこの酒と身内と飲む酒は別なの。で、どうよ」
「ぜひ!」
若くもない海兵が上司の誘いに喜んだのは、必要とされたことに対してか、はたまた身内と呼ばれたことか。その両方かもしれないな、と推測する程度には、クザンはイツダに好かれている自負があった。
*****
「幸福ですか?」
深く被ったフードの隙間から長髪が垂れ、タートルネックで鼻まで覆った不審者――イツダは、暗色のコートを着たクザンにそう問いかけた。フードに雪が降り積もっていくのを眺めながら、クザンは慎重に言葉を返す。
「……そうだって言えば、見逃してくれるか?」
「いえ。見逃すもなにもクザンさんの方がお強いではないですか。自分はただ、かつての上司との会話を楽しみたいだけです」
「上司ってだけ?」
「友人と呼んでよろしいのでしたら、呼ばせていただきます」
服装の怪しさと凛とした姿勢は、一般人とかけ離れた雰囲気を漂わせる。ちぐはぐな印象を振りまくのは仕事中だけではないらしい。堅苦しい話し方は友と呼べる仲になっても変わらなかったな、と懐かしくなった。
クザンは鞄から水筒と予備のコップを取り出しながら、自身の隣を指さした。
「じゃあ友達ってことで。座れよ。……ここのことはどうやって知ったんだ」
「寒いところにいそうだなと思って、いろいろ巡ってきました!」
コップに注いでいた熱いお茶をこぼしそうになり、慌てて持ち直す。そんなクザンにきょとんとした視線を向けてはいるものの、イツダは礼を述べ、コップを受け取った。
「……イツダって、そんなにおれのこと好きだったんだ」
「はい!」
クザンの冗談をあっさり肯定し、イツダは出されたお茶に口をつけている。その様子に拍子抜けした。こいつは皆のことが好きなのだろうが、どうにも不安である。
「自分のことを気にかけてくれる人を好きだと思うのは、それほどおかしくないと思います」
「全員にやってたら身が持たないでしょうが」
「それができちゃうんですよね! 自慢するようなことでもないですが、友人と呼べる相手はそう多くないんです」
「でもお前、友達じゃなくても探しに行くだろ」
「さすが、分かってらっしゃる」
凍りつきそうな空気に白い息が混じる。少し
「好意を伝えるのを躊躇っていられるほど人生は長くないようなので」
手袋をつけてもなお凍えた手を温めながら、イツダは独り言のように呟いた。
「あららら、おっさんらしくなっちゃって」
「おばさんかもしれませんよ」
「結局その辺どうなんだ?」
口を開いたイツダは、背後からやってきた超ペンギンのキャメルを見た途端に「かわいい!」とはしゃぎ出し、クザンの質問をうやむやにした。キャメルにあしらわれて若干しょんぼりとしながら帰ってきたのを見計らい、クザンは別の問いを投げかける。なぜ会いに来たのか、と。
「もうクザンさんは覚えていらっしゃないかもしれませんが、一緒に戦いたかったって言ってもらえたあの時、本当に嬉しかったんですよ」
「……それだけ?」
「あと、飲みに誘ってもらえたことも」
「それだけでこんなとこまで来たの?」
「重いって思ったでしょう」
「まァ……」
「ひどいなァ」
着膨れしたイツダはわははと笑った。いつにも増して貧弱に見えるこの海兵も、巨岩程度なら素手で割ることができる。自分の身を守れるからこそ、単身で人探しの旅などできたのだ。弱くはない。クザンが守らずとも生きていける人間だ。
クザンはかき氷を崩しながらぼやいた。
「ボインのねえちゃんに口説かれるんなら大歓迎だってのに、現実はこれだもんなァ」
「口説く……?」
「な? 嫌になっちまうよ」
この海兵は好意を全面に出すが、そこに色恋沙汰は含まれていない。人としての「好き」を伝えているだけなのだ。言われた側は勘違いなどする間もなく気づく。そして思い思いの反応をする。
クザンはイツダからの好意を受け流してきた男だった。恋愛対象として好きだと言われても困る。しかしここまで脈がないと、なんだか悔しくもなってくる。はァ、と大きなため息だってついてしまう。
「貴重な休みをこんなことに使うとは、わざわざご苦労なこって」
「撤回してください。自分はこの休日の使い方を後悔していません。あなたは自虐のつもりでしょうが、それは自分のことも侮辱しています」
「はいはい、悪かったよ」
「それより近況をお聞かせ願います。体調はいかがですか? 何か欲しいものは?」
退役軍人の自虐すら許さない海兵が求めたのは茶飲み話で。暇じゃ無いはずのイツダが、場合によっては再度来訪することも辞さないと言いたげに問いを重ねるものだから、クザンは思わず吹き出してしまったのだった。
*****
「それがあなたの答えですか?」
「いっつも質問ばっかだな」
「失礼、これでも抑えているのでご容赦ください。お聞きしたいことは山程あるんです」
海兵と海賊。相容れない二人が相対する。きっちりとスーツを着込み、しゃんと背筋を伸ばしたイツダは、海賊に身を落とした友人を見て一瞬表情を無くした。感情任せに挑まず、冷静になろうと努めている。場に応じた判断を下せる人間だからこそ人の上に立ち、指示を出す権限が与えられている。クザンもかつてはそうだった。自らその立場を降りた。
「再度お尋ねします。幸福ですか?」
「……まァ、ぼちぼちってとこ」
「そうですか」
イツダが自らの首元を撫でれば、タートルネックが消える。スーツのジャケットもベストも遠くで畳まれ落ちている。パステルカラーのネクタイに腕まくりしたシャツ。普段のイツダを知る者ならば、何を意味するかなぞすぐに勘づく。
「あらら、脱いじゃっていいの? これから冷えるのに」
「正直、もっと肌を晒して飛びかかりたいところですよ」
「能力頼りは禁物だぞ」
「あなた相手になりふり構っていられないので」
コートは脱がない。正義を背負っているからだ。クザンはそれを理解していた。
「――ああでも、本当によかったです」
強者を前にしているというのに、イツダの声は安らいでいた。クザンは以前の問いにどう答えたか記憶を漁り、はぐらかしたのを思い出す。
あの時の問いの意味が、答えが、今ここに。
「幸福であるのなら、心置きなく殺せますから」
自分の能力はマグマよりずっと楽に逝けますよ。
かつて海軍大将を務めた男に対して、イツダは身震いすることなく大口を叩いてみせた。
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