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一度始めた習慣を止めるのが苦手だ。そう言うと話し相手はたいてい「逆じゃない?」と面白がる。続ける方が大変で、やめるのはいつだってできるでしょう、と。理屈は分かるが、アルマにとって途中で何かを放り出すというのは「悪いこと」なのである。悪いことはしちゃいけない。両親の教えを素直に受け取った彼女はそれをきちんと――実際にできているかは別として――守ろうとしていた。
つまるところ、天竜人の一家を見張るという習慣をいまだにやめられないのも、「街の人のため」という理由で始めてしまったものだから、やめ時を見失っているという訳であった。本当に人々の心情を考えているのならとっくに告発している頃だが、彼女はその矛盾を自覚した上で見ないふりをしている。仲のいい家族を見るとアルマの心はきしみ、それでもまた時間を作ってはゴミ山を見張りにきていた。あの日見捨てたのが気まずくて、ドフラミンゴを避け影からのぞくこと数日。
「あ、あの!」
「…………」
「ぼく、ロシナンテです! お姉さんの名前は?」
少しばかり距離をとって話しかけてきたのは、あの小さい方の子供、ロシナンテだった。あれだけ怒鳴り散らしたアルマに名前を聞くなんて、見かけより度胸があるのか。親の影にいない姿を見るのは抱きとめた時以来だな、と思いつつアルマは視線をそらす。途端に、少年から悲しげな空気が漂ってくる。目元は隠れているが、涙目で見つめられているような。親や兄の後ろにばかりいた少年のことだ、相当勇気を出して聞きにきたのだろう。
自分より小さな子供が泣いているというのはどうにも気分が悪い。いくら相手が天竜人とはいえ、見た目は幼い少年なのだ。さすがの少女も無言を貫けず、「……アルマ」とこぼしてしまった。
ぱあっと明るくなった顔はあの夫婦にそっくりで、やはり親子なのだと納得する。同時に、あのふてぶてしいガキも笑えば似ているのかもしれない、とぼんやり考える。
「アルマさん! えへへ、アルマさんかあ……」
何が楽しいのか、ロシナンテはにこにこしたまま繰り返し名を呼んだ。綿毛に耳をくすぐられているような心地になって、アルマの眉間にまたしわが刻まれたが、ロシナンテのふわふわした声を聞くと自然と薄まっていく。追い払うため睨もうにも、名前を呼ばれてそれすら封じられてしまった。
「他にも質問していい、ですか?」
「知らない」
「じゃあ、何歳ですか! ぼく六歳!」
「兄上、けが治ってきたんだ! ずっと痛そうだった……」
「…………」
「街はこわいから行っちゃダメなんだって。でも兄上といっしょなら大丈夫だと思うんだ。アルマさんはどう思う?」
「……兄上 の言うこと聞きなよ」
「それでね、父上がこーんなに大きな魚を見つけたの! 捕まえられなかったけど」
「まァあの貧弱さじゃそうなるわ」
「強くなれば捕まえられるのかな……あれだけ大きければ、母上もおなかいっぱい食べて元気になるよね」
やはりあの両親の息子である。雑にあしらわれているというのにめげずに質問を繰り返してきた。幼い声が一人話し続ける様はなんともあわれで、加えて話の展開に不穏さを感じて思わず口を挟んでしまったのが運の尽き。粘れば返事をしてくれるのだと学んだロシナンテは、アルマが視線をそらせばそらした先に移動して喋り続ける作戦に出た。
うっとおしさもあったが、そういえば誰かとこんなに会話をするのは久々かもしれない、とアルマは悪い気がしなかった。そんな自分に気がついて血の気が引いたのは、食料調達の話題に移ってからだった。
「いつもあの辺で飯漁ってんの?」
「うん……でもあんまり食べられるやつなくて」
「……教えてあげようか。場所とか、探し方とか」
手を差し伸べてやる。もちろん比喩だ。上から目線で、偉そうに、天竜人がやっているみたいに「情け」をかけてやろうと思った。あの子供――ドフラミンゴならば、どれだけ和やかに会話していても手をはねのけるだろう。ロシナンテだって弟なのだ、似た対応をするに決まっている。反発されたのなら、「ほらみろ、こいつらを助ける意味なんてない」と肯定された気になれる。そのはずなのに。
「ほんと!?」
ロシナンテはドフラミンゴではない。脳天気な両親にへばりついている子供が、両親の影響を受けていない訳がなかった。悪意にまみれた提案に、彼は輝かんばかりの笑顔で飛びついた。差し伸べた手が、無邪気な手のひらに力強く握り返されたような感覚。なんで、こんなはずじゃ。
――もっとちゃんと憎ませてよ。甚振られて当然だって思うようなひどいやつでいてよ。
手を振り払ってくれたら小さくたって所詮天竜人なのだと、この虚しい習慣をやめられた。わざわざこんな場所に足を運んでいるなんて、人々にバレるのも時間の問題だ。告発するにせよしないにせよ、早く関わるのをやめなくては。自分が変えられてしまう。みんなと同じでなくなってしまう。やつらはこんな過酷な環境で日だまりみたいな笑みを浮かべられる。高貴な地位を捨ててゴミ山にやってきた。正気じゃない。なにより、アルマの心にじわじわと染み込んでくるのが不快だ。
きらきらした目を向けているのだろう、ロシナンテがアルマの話の続きを待っている。天竜人嫌いの人間として正しい振る舞いはなんだ。自分は彼らに出ていってほしい。そう、さっさとこの国から消えてほしい。混乱の中心にいる一家を追い出したい。思考を整え、少女はめいっぱい声を尖らせて言った。
「ほんと。支度ができたら、早く出ていきなね。それまで手伝ってあげるから」
「なんで、そんな」
「この国はあんたらのこと大嫌いなんだよ。もう分かってるでしょ」
急に冷たくなった声色に、ロシナンテは怯えた様子を見せた。大嫌い、と一際強い言葉が、少年の柔らかな唇で繰り返される。アルマは絶対ロシナンテの顔を確認しないと決意した。
「アルマさんは、ぼくのこときらい?」
涙をこらえて震える声でそう訊ねて来た少年に、アルマは答えられなかった。乾いた口を数回ぱくぱくと動かし、潤んだ視線を振り払うように顔をそらす。回答を拒んだという事実にショックを受けたロシナンテが「アルマさん……?」と追い打ちをかける。鼻をすすり出しているのに気づいて、アルマは思わず舌打ちをした。自身への怒り故のものだったが、少年の肩がびくりと揺れる。それを横目で見てしまって。諦めた少女はすっと手を持ち上げた。
「ひっ、あ、え……?」
頭上に向けられた手をとっさに避けようとして仰け反り、ロシナンテは後方に体勢を崩した。しかしすぐさまアルマが腕を引いて立て直す。勢いを弱めきれずに彼女の胸に飛び込んできた。
ふんわりと受け止められたロシナンテは、きょとんとした顔でされるがままだった。何が起きたかよく分かっていないらしい。涙を引っ込め、おそるおそるアルマを見上げた。この前髪の奥で、彼には私がどう見えているんだろう、と漠然と考える。ただでさえ愛想のない面だ、相当恐ろしい存在としてうつっているに違いない。
アルマは何も言わず、ロシナンテの頭を乱暴に撫でた。驚きの声をあげる彼を気にも留めず、くせっ毛を荒らしに荒らしてパッと手を離す。困惑の表情を浮かべるロシナンテが反応できないのをいいことに、アルマはそのままゴミ山を後にした。
手にはあの、ふわふわした髪の感触が残っていた。
本日の分はすでに稼いだ。生活に余裕なんてないのだから他の仕事にも手をつけるべきだが、アルマは海の側へと向かう。この国を象徴するような、荒々しく慈悲のない海。嵐でなくたって立ち入るのを躊躇してしまう危険な場所。波が常に崖にぶつかり、引いてはまた訪れる。ゴミ山と同じく人の通らない崖下に、アルマの目当てのものがあった。
波の当たらないぎりぎりに置かれた道具箱、そして――みすぼらしい小舟が一つ。
アルマは前々から海に出たいと思っていた。生き死にはどうでもよくて、この国の外に行ってみたいな、と漠然とした夢を抱いていた。だからこそ海岸で大破した小舟を見て確保してしまったし、持ち主が取りに来ないと分かるや否や修理に取りかかった。勝手に海へ出るのは海賊になるやつくらいなもので、周囲へ気軽に「舟があったよ」と言いふらすのは気が引けた。こっそり直しておいて、自分が死んだら両親の骨といっしょに海へ流してもらおう。棺桶代わりならあまり頑丈でなくてもいい。ほんの数人乗せて漕ぎ出せる、その程度で構わない、と。つらい生活を生き抜くための、ささやかな楽しみだった。
今となって、廃材やら釘やらをかき集め、知識もないのにアルマは小舟の修理に勤しむこととなった。状況が変わったのだ。死体を乗せるだけならば途中で壊れたって問題ないが、生き物を運ぶには頼りなさすぎる。少なくともこの国を離れるまで形を保つ、そんな舟にしなくてはならない。あの一家がこれ以上悲惨な目にあうのなら、彼らが自殺を選ぶ前に、アルマはこの舟を譲ろうと思った。いくら言ってもあいつらは出ていかない。脱出方法が分からないのかも。船があれば海に出られる、国が違えば一家の受け入れ先だって期待できる。
絵空事を描く少女は世界を知らない。非加盟国の小さな街と、汚れた海しか見たことがない。この土地は確かに一家を苦しめたが、他の土地なら受け入れるとは限らないのだという発想がなかった。「外」ならきっと彼らを助けてくれる。そう思い込んだのは、絶望しきっているようで希望を捨てきれていない証だった。
死なせてもらえるとは思えないが、もし死んだのならみんなはその亡骸をどう辱めるかに頭をひねるだろう。アルマは小舟の穴を塞ぎながら考える。人の形がどれほど残るか。犬に食わせて笑うかもしれない。かつて天竜人にそうされた人がいたから。釘を打つ。天竜人のためにものを直しているなんて、屈辱を感じるべき場面だと理性は言う。実際、「天竜人」であればアルマは怒りに身を震わせていたはずだ。しかしあの一家は、親子は。
穴を塞ぎ終えて一息つく。アルマはそっと小舟を撫でた。例の父親の慈愛に満ちた目、母親のすべてを許す微笑み、ロシナンテの弱々しい手のひら。そしてドフラミンゴの、助けを求められなかった姿。少女の脳裏に彼らの一面が映し出されていく。人間そっくりのみじめな有り様だ。とても「天竜人」とは思えなかった。
修理中の騒音は波が隠してくれる。日が落ちない内にある程度進めなくては。そうしてアルマは金槌を握り直し、淡々と振り下ろした。
***
すれちがった集金役の少年が今度はパンを一切れ口元につけているのを見つつ、アルマは叔母の家に帰ってきた。ただいま、と声をかけようとして、ある部屋から不穏な空気が漂っていることに首をかしげる。静かにドアに近寄って耳を傾けると、ひそやかな声の応酬が聞こえてきた。
「子供達が不安がってるんだ、どうにかしてくれ」
あ、これ私のことだ。アルマは即座に気がついた。
叔母の夫、つまりは養父にあたる彼は、「自分達の子供」を心配しているらしい。そこにアルマは入っていない。普段の生活でも彼とはどことなく距離がある。目が笑っていない、それどころか顔が強ばっている瞬間もあって、アルマはできる限り接触しないようにしていた。
秘密話に聞き耳を立てるのは行儀が悪い。分かっているものの、話の中心が自分である以上アルマはドアの前を動けなかった。
「そうは言っても、姉さんの子供を放り出すなんてできないよ。あの子だって頑張っているんだし……」
「その姉を殺したんだぞ? 実の子が両親を殺すなんて……! お前は恐ろしくないのか?」
夫の追求に叔母がひるむ気配がした。彼女が言葉を選んでいる間、アルマの手足が冷え切っていく。やっぱりな、と腑に落ちた。表立って言われずとも察していた、歓迎されていないという事実。それでも家に置いてくれた。優しい人達だ。
即答できないのが答えのようなものだが、叔母はアルマと違って答えることから逃げなかった。
「……あの子の手を汚させちまったのは大人の責任さ。あの子がやってくれなけりゃうちで引き取るなんてできなかった。でも……」
叔母は一呼吸おいて、禁忌に触れるかの如くささやいた。誰にも言わずに封じ込めておくつもりだったのだろう、大人の本心がこぼれる。
「あんな子供が、自分で考えて殺したってのは、そりゃ、怖いわよ……」
アルマはこっそりと離れ、足音も立てずに自室へ戻っていく。「子供達」と叔母達は同じ部屋だが、アルマには小さいながらも一人部屋が与えられていた。大きい家ではないのに、彼女のためだけに用意された狭い空間。初めて案内された時、叔母はなんと説明していたっけ。
家具はほとんどなく、室内を彩るのは簡素なベッドくらいで、小窓から差し込む明かりすらも寒々しい。不満なんてないが、この時期には精神的に堪えるな、と思う。
無言でベッドに上がる。自分を抱きしめるようにうずくまる。血にまみれているような錯覚に陥り、でもいいか、と諦めて目を伏せた。
人でなしには居場所がない。当然だ。しかし生きていくには集団の中にいる必要がある。みんなといっしょでなくては、知恵も力もないアルマは生きていけない。どうか仲間に入れてください。見限らないでください。神ではなく民衆に向けて祈る。願いを叶えるために、アルマは自身の価値を示さなくてはならない。ありもしないものをどうやって? 悪癖の自問自答が暴れだす。
今だけは誰にも優しくされたくなかった。期待してしまうのがいやだった。あの一家の微笑みが心中をかすめ、忘れようと努力する。かたいベッドで体を痛めても、少女はじっとしたまま動かないでいた。
つまるところ、天竜人の一家を見張るという習慣をいまだにやめられないのも、「街の人のため」という理由で始めてしまったものだから、やめ時を見失っているという訳であった。本当に人々の心情を考えているのならとっくに告発している頃だが、彼女はその矛盾を自覚した上で見ないふりをしている。仲のいい家族を見るとアルマの心はきしみ、それでもまた時間を作ってはゴミ山を見張りにきていた。あの日見捨てたのが気まずくて、ドフラミンゴを避け影からのぞくこと数日。
「あ、あの!」
「…………」
「ぼく、ロシナンテです! お姉さんの名前は?」
少しばかり距離をとって話しかけてきたのは、あの小さい方の子供、ロシナンテだった。あれだけ怒鳴り散らしたアルマに名前を聞くなんて、見かけより度胸があるのか。親の影にいない姿を見るのは抱きとめた時以来だな、と思いつつアルマは視線をそらす。途端に、少年から悲しげな空気が漂ってくる。目元は隠れているが、涙目で見つめられているような。親や兄の後ろにばかりいた少年のことだ、相当勇気を出して聞きにきたのだろう。
自分より小さな子供が泣いているというのはどうにも気分が悪い。いくら相手が天竜人とはいえ、見た目は幼い少年なのだ。さすがの少女も無言を貫けず、「……アルマ」とこぼしてしまった。
ぱあっと明るくなった顔はあの夫婦にそっくりで、やはり親子なのだと納得する。同時に、あのふてぶてしいガキも笑えば似ているのかもしれない、とぼんやり考える。
「アルマさん! えへへ、アルマさんかあ……」
何が楽しいのか、ロシナンテはにこにこしたまま繰り返し名を呼んだ。綿毛に耳をくすぐられているような心地になって、アルマの眉間にまたしわが刻まれたが、ロシナンテのふわふわした声を聞くと自然と薄まっていく。追い払うため睨もうにも、名前を呼ばれてそれすら封じられてしまった。
「他にも質問していい、ですか?」
「知らない」
「じゃあ、何歳ですか! ぼく六歳!」
「兄上、けが治ってきたんだ! ずっと痛そうだった……」
「…………」
「街はこわいから行っちゃダメなんだって。でも兄上といっしょなら大丈夫だと思うんだ。アルマさんはどう思う?」
「……
「それでね、父上がこーんなに大きな魚を見つけたの! 捕まえられなかったけど」
「まァあの貧弱さじゃそうなるわ」
「強くなれば捕まえられるのかな……あれだけ大きければ、母上もおなかいっぱい食べて元気になるよね」
やはりあの両親の息子である。雑にあしらわれているというのにめげずに質問を繰り返してきた。幼い声が一人話し続ける様はなんともあわれで、加えて話の展開に不穏さを感じて思わず口を挟んでしまったのが運の尽き。粘れば返事をしてくれるのだと学んだロシナンテは、アルマが視線をそらせばそらした先に移動して喋り続ける作戦に出た。
うっとおしさもあったが、そういえば誰かとこんなに会話をするのは久々かもしれない、とアルマは悪い気がしなかった。そんな自分に気がついて血の気が引いたのは、食料調達の話題に移ってからだった。
「いつもあの辺で飯漁ってんの?」
「うん……でもあんまり食べられるやつなくて」
「……教えてあげようか。場所とか、探し方とか」
手を差し伸べてやる。もちろん比喩だ。上から目線で、偉そうに、天竜人がやっているみたいに「情け」をかけてやろうと思った。あの子供――ドフラミンゴならば、どれだけ和やかに会話していても手をはねのけるだろう。ロシナンテだって弟なのだ、似た対応をするに決まっている。反発されたのなら、「ほらみろ、こいつらを助ける意味なんてない」と肯定された気になれる。そのはずなのに。
「ほんと!?」
ロシナンテはドフラミンゴではない。脳天気な両親にへばりついている子供が、両親の影響を受けていない訳がなかった。悪意にまみれた提案に、彼は輝かんばかりの笑顔で飛びついた。差し伸べた手が、無邪気な手のひらに力強く握り返されたような感覚。なんで、こんなはずじゃ。
――もっとちゃんと憎ませてよ。甚振られて当然だって思うようなひどいやつでいてよ。
手を振り払ってくれたら小さくたって所詮天竜人なのだと、この虚しい習慣をやめられた。わざわざこんな場所に足を運んでいるなんて、人々にバレるのも時間の問題だ。告発するにせよしないにせよ、早く関わるのをやめなくては。自分が変えられてしまう。みんなと同じでなくなってしまう。やつらはこんな過酷な環境で日だまりみたいな笑みを浮かべられる。高貴な地位を捨ててゴミ山にやってきた。正気じゃない。なにより、アルマの心にじわじわと染み込んでくるのが不快だ。
きらきらした目を向けているのだろう、ロシナンテがアルマの話の続きを待っている。天竜人嫌いの人間として正しい振る舞いはなんだ。自分は彼らに出ていってほしい。そう、さっさとこの国から消えてほしい。混乱の中心にいる一家を追い出したい。思考を整え、少女はめいっぱい声を尖らせて言った。
「ほんと。支度ができたら、早く出ていきなね。それまで手伝ってあげるから」
「なんで、そんな」
「この国はあんたらのこと大嫌いなんだよ。もう分かってるでしょ」
急に冷たくなった声色に、ロシナンテは怯えた様子を見せた。大嫌い、と一際強い言葉が、少年の柔らかな唇で繰り返される。アルマは絶対ロシナンテの顔を確認しないと決意した。
「アルマさんは、ぼくのこときらい?」
涙をこらえて震える声でそう訊ねて来た少年に、アルマは答えられなかった。乾いた口を数回ぱくぱくと動かし、潤んだ視線を振り払うように顔をそらす。回答を拒んだという事実にショックを受けたロシナンテが「アルマさん……?」と追い打ちをかける。鼻をすすり出しているのに気づいて、アルマは思わず舌打ちをした。自身への怒り故のものだったが、少年の肩がびくりと揺れる。それを横目で見てしまって。諦めた少女はすっと手を持ち上げた。
「ひっ、あ、え……?」
頭上に向けられた手をとっさに避けようとして仰け反り、ロシナンテは後方に体勢を崩した。しかしすぐさまアルマが腕を引いて立て直す。勢いを弱めきれずに彼女の胸に飛び込んできた。
ふんわりと受け止められたロシナンテは、きょとんとした顔でされるがままだった。何が起きたかよく分かっていないらしい。涙を引っ込め、おそるおそるアルマを見上げた。この前髪の奥で、彼には私がどう見えているんだろう、と漠然と考える。ただでさえ愛想のない面だ、相当恐ろしい存在としてうつっているに違いない。
アルマは何も言わず、ロシナンテの頭を乱暴に撫でた。驚きの声をあげる彼を気にも留めず、くせっ毛を荒らしに荒らしてパッと手を離す。困惑の表情を浮かべるロシナンテが反応できないのをいいことに、アルマはそのままゴミ山を後にした。
手にはあの、ふわふわした髪の感触が残っていた。
本日の分はすでに稼いだ。生活に余裕なんてないのだから他の仕事にも手をつけるべきだが、アルマは海の側へと向かう。この国を象徴するような、荒々しく慈悲のない海。嵐でなくたって立ち入るのを躊躇してしまう危険な場所。波が常に崖にぶつかり、引いてはまた訪れる。ゴミ山と同じく人の通らない崖下に、アルマの目当てのものがあった。
波の当たらないぎりぎりに置かれた道具箱、そして――みすぼらしい小舟が一つ。
アルマは前々から海に出たいと思っていた。生き死にはどうでもよくて、この国の外に行ってみたいな、と漠然とした夢を抱いていた。だからこそ海岸で大破した小舟を見て確保してしまったし、持ち主が取りに来ないと分かるや否や修理に取りかかった。勝手に海へ出るのは海賊になるやつくらいなもので、周囲へ気軽に「舟があったよ」と言いふらすのは気が引けた。こっそり直しておいて、自分が死んだら両親の骨といっしょに海へ流してもらおう。棺桶代わりならあまり頑丈でなくてもいい。ほんの数人乗せて漕ぎ出せる、その程度で構わない、と。つらい生活を生き抜くための、ささやかな楽しみだった。
今となって、廃材やら釘やらをかき集め、知識もないのにアルマは小舟の修理に勤しむこととなった。状況が変わったのだ。死体を乗せるだけならば途中で壊れたって問題ないが、生き物を運ぶには頼りなさすぎる。少なくともこの国を離れるまで形を保つ、そんな舟にしなくてはならない。あの一家がこれ以上悲惨な目にあうのなら、彼らが自殺を選ぶ前に、アルマはこの舟を譲ろうと思った。いくら言ってもあいつらは出ていかない。脱出方法が分からないのかも。船があれば海に出られる、国が違えば一家の受け入れ先だって期待できる。
絵空事を描く少女は世界を知らない。非加盟国の小さな街と、汚れた海しか見たことがない。この土地は確かに一家を苦しめたが、他の土地なら受け入れるとは限らないのだという発想がなかった。「外」ならきっと彼らを助けてくれる。そう思い込んだのは、絶望しきっているようで希望を捨てきれていない証だった。
死なせてもらえるとは思えないが、もし死んだのならみんなはその亡骸をどう辱めるかに頭をひねるだろう。アルマは小舟の穴を塞ぎながら考える。人の形がどれほど残るか。犬に食わせて笑うかもしれない。かつて天竜人にそうされた人がいたから。釘を打つ。天竜人のためにものを直しているなんて、屈辱を感じるべき場面だと理性は言う。実際、「天竜人」であればアルマは怒りに身を震わせていたはずだ。しかしあの一家は、親子は。
穴を塞ぎ終えて一息つく。アルマはそっと小舟を撫でた。例の父親の慈愛に満ちた目、母親のすべてを許す微笑み、ロシナンテの弱々しい手のひら。そしてドフラミンゴの、助けを求められなかった姿。少女の脳裏に彼らの一面が映し出されていく。人間そっくりのみじめな有り様だ。とても「天竜人」とは思えなかった。
修理中の騒音は波が隠してくれる。日が落ちない内にある程度進めなくては。そうしてアルマは金槌を握り直し、淡々と振り下ろした。
***
すれちがった集金役の少年が今度はパンを一切れ口元につけているのを見つつ、アルマは叔母の家に帰ってきた。ただいま、と声をかけようとして、ある部屋から不穏な空気が漂っていることに首をかしげる。静かにドアに近寄って耳を傾けると、ひそやかな声の応酬が聞こえてきた。
「子供達が不安がってるんだ、どうにかしてくれ」
あ、これ私のことだ。アルマは即座に気がついた。
叔母の夫、つまりは養父にあたる彼は、「自分達の子供」を心配しているらしい。そこにアルマは入っていない。普段の生活でも彼とはどことなく距離がある。目が笑っていない、それどころか顔が強ばっている瞬間もあって、アルマはできる限り接触しないようにしていた。
秘密話に聞き耳を立てるのは行儀が悪い。分かっているものの、話の中心が自分である以上アルマはドアの前を動けなかった。
「そうは言っても、姉さんの子供を放り出すなんてできないよ。あの子だって頑張っているんだし……」
「その姉を殺したんだぞ? 実の子が両親を殺すなんて……! お前は恐ろしくないのか?」
夫の追求に叔母がひるむ気配がした。彼女が言葉を選んでいる間、アルマの手足が冷え切っていく。やっぱりな、と腑に落ちた。表立って言われずとも察していた、歓迎されていないという事実。それでも家に置いてくれた。優しい人達だ。
即答できないのが答えのようなものだが、叔母はアルマと違って答えることから逃げなかった。
「……あの子の手を汚させちまったのは大人の責任さ。あの子がやってくれなけりゃうちで引き取るなんてできなかった。でも……」
叔母は一呼吸おいて、禁忌に触れるかの如くささやいた。誰にも言わずに封じ込めておくつもりだったのだろう、大人の本心がこぼれる。
「あんな子供が、自分で考えて殺したってのは、そりゃ、怖いわよ……」
アルマはこっそりと離れ、足音も立てずに自室へ戻っていく。「子供達」と叔母達は同じ部屋だが、アルマには小さいながらも一人部屋が与えられていた。大きい家ではないのに、彼女のためだけに用意された狭い空間。初めて案内された時、叔母はなんと説明していたっけ。
家具はほとんどなく、室内を彩るのは簡素なベッドくらいで、小窓から差し込む明かりすらも寒々しい。不満なんてないが、この時期には精神的に堪えるな、と思う。
無言でベッドに上がる。自分を抱きしめるようにうずくまる。血にまみれているような錯覚に陥り、でもいいか、と諦めて目を伏せた。
人でなしには居場所がない。当然だ。しかし生きていくには集団の中にいる必要がある。みんなといっしょでなくては、知恵も力もないアルマは生きていけない。どうか仲間に入れてください。見限らないでください。神ではなく民衆に向けて祈る。願いを叶えるために、アルマは自身の価値を示さなくてはならない。ありもしないものをどうやって? 悪癖の自問自答が暴れだす。
今だけは誰にも優しくされたくなかった。期待してしまうのがいやだった。あの一家の微笑みが心中をかすめ、忘れようと努力する。かたいベッドで体を痛めても、少女はじっとしたまま動かないでいた。