9.降り注ぐ未来で霞んでしまうよ
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書庫の本を七割ほど読み終え、それぞれの先生からある程度の評価をもらえるようになってきて、ホーキンスと睦み合ってから帰る余裕もできた。花嫁修業も終わりに近づいていると言っていいのでは?なんて思っていた私は今、屋敷の一室でホーキンスの顔を見つめている。
ホーキンスに眉毛が生えた。眉毛だと思う。触らせてもらったら確かに毛の流れを感じたので。
かつてホーキンスのお母さんにもあった、目の上の黒い三角形たち。横から私がまじまじと眺めているのを気にも留めず、彼はしかめっ面で占い続けていた。何度占っても机の上のカードは同じ絵柄で同じ配置になる。どういう意味を表しているんだろう。
「やはり避けられないのか……」
「どうしたの?」
「……この島が、戦場と化す」
場の空気が一変する。
戦場、と強張った声で繰り返した私に説明するため、彼は静かに続けた。
「この眉は、おれが当主として十分な力をつけた証だ。大勢の運命を占うことも今のおれなら容易い。だからこそ分かる。いずれこの島は太刀打ちできないほどの強者に襲われ、平穏を失うことになる」
自身の額に手をやりながら絞り出すように呟く彼の目に、どんな未来が映っているのか。ここ最近顔色が悪いとは思っていたが、この結果を目の当たりにしてずっと悩んでいたのだろう。
この島に住む人々は別に弱いわけじゃない。その辺の海賊くらいなら返り討ちにだってできる。占いによる危機回避と島民の戦闘能力によって長年の平和が保たれてきた。それでも勝てない相手がやってくるのだと、自分だけ知ってしまった彼の負担は計り知れない。
小さい頃からホーキンスの占いを見届けてきた。当たることもあれば外れることもあるのだ、今回は後者かもしれない。しかし彼の青ざめた表情が、ほぼ確実に訪れる未来だと証明している。
現実味のなかった「戦場」の文字がじわじわと私を蝕んでいく。怖くないと言えば嘘になる。ホーキンスに寄り添ったところで私にできることはないけれど、頭を抱える彼の手を取り、そっと握る。冷えた指先がかすかに震えている。少しでも体温を分け合うために力を込めると、わずかだが握り返された。
これからどうするつもりか訊ねれば、全体に伝えるつもりだという返事。
「おれは占った結果を述べるだけだ。ここから先は村の者が判断する」
「ホーキンスだって村の一員じゃん」
「……お前はそう言うだろう。だが皆が皆、同じ考えとは限らん。それに、パワーバランスを崩さないためにも必要なことだ」
一定の距離を置いておかねばならない、と言う彼は、本気でそう思っているのだろう。でも私は少し違う。
離れすぎてしまった村とバジル家の関係を、私たちの代でちょっとでも変えていけたら。この願いはきっとそこまで夢物語ではない。ホーキンスが村中から歓迎される人になることだって、そう遠い未来ではないはずなのだ。そんな未来を叶えたのなら、今以上に一致団結した私たちはもっと強くなれる。どんな強敵にも勝てるはず――と口にするには、確証が足りなかったのだけど。
*****
場違いなほどにうららかな日差しが輝く。私の気分とは打って変わって、北の海とは思えないほど穏やかな天気の下、大勢の人が空き地に集まっていた。
島には民家や店、屋敷の他に、大勢の人が集まることのできるスペースがある。宴にも使われるその場所に、急遽村中の人々が集められた。前方には台が一つ。皆、何事かと困惑しながら中心人物の登場を待つ。
事情を知っている私とホーキンスのお父さんが質問攻めに合いながらも場の整理をし、ある程度落ち着いてきたあたりで合図を出した。
壇上に立った青年――ホーキンスに対し、不満やからかいが飛ぶ。茶化しのつもりの人もいれば、黒い感情を隠した人も紛れている。それら全てを受けながら、彼は感情を削ぎ落とした顔でそこにいた。私は台の横でそれを見る。何かあれば彼を庇えるように控えている。
ホーキンスはいきなり招集したことへの謝罪を述べた後、よく通る声で手短に告げた。
「本日よりおれがバジル家の当主を引き継ぐこととなった。だが、それは本題ではない」
代替わりの挨拶だと予想していた人々が不思議そうな顔でホーキンスを見上げた。ホーキンスは彼らに向けて問いかける。
「おれの役目は知っているな」
「占いだろ? 人の相談に乗ったりとか」
「敵襲の予測も……おい、まさか」
「察しがよくて何よりだ。おれは前々から島の行く末を占っていた。何度占っても村人全員の生存率が安定しなかったからだ。おれの力が十分でないからかと思い様子を見ていたが、こうして力を身に着けた今でもそれは変わらなかった」
彼はそこまで言うと一度言葉を切り、息を吸い込んだ。声を張り上げる。
「この島は数ヶ月以内に海賊に襲われる。その時、おれ達の勝率は1%。99%の確率で敗北し、村が壊滅する」
発した声に感情は乗せられていない。情報を正確に伝えることに特化した、平坦で断定的な音。
途端に皆がざわめき出す。言われたことの意味が浸透しきる前に、信じられないといった様子で誰かが声を上げた。
「1%って……本気で言ってんのか?」
「おれは冗談は言わない。服従による生存率は42%、交渉は不可能。おれが口出しするのはここまでだ。どうするかはお前たちが――」
「決まってんだろ! 戦うんだよ!!」
ホーキンスが選択権を渡してすぐ、勇ましい返事が飛ぶ。彼の表情が崩れた。老若男女関係なく、村の皆は口々に叫ぶ。弱気な発言は一つもない。
「1%あるなら実質五分五分ってことだ!」
「ホーキンス! 来るのはどこの海賊団なの!?」
「……明確な相手は不明だが、おれ達が勝てないとなれば予想はつく」
「じゃあ対策取れるな! 武器の調達間に合うか?」
「罠も作れ! 先手必勝だ!」
時折ホーキンスに質問を投げかけつつ、人々は一気に好戦的な雰囲気へと変わる。元々血気盛んなところがある皆にとって、勝率1%は追い風にしかならない。薄々勘づいていた私とは違い、ホーキンスは呆気にとられていた。
「なぜだ……」
「占った張本人が驚いてどうするの?」
「……確率はあの通り、勝てる見込みなどほぼ無いんだぞ。そもそも強敵が来るという言葉だって、すぐ信用されると思っていなかった」
「これまで何度も敵襲を予測して当ててきたじゃない。ホーキンス達がやってきたことが信頼に繋がったんだと思うよ」
ホーキンスやバジル家が疎まれる方がおかしかったのだ。彼らが信頼に値する人々だとようやく気づいてくれた。いや、再び理解してくれたと言うべきか。
私と視線を交わすホーキンスの表情は困惑の色が強く、そしてうっすらとした希望があった。
「勝てる可能性だってゼロじゃないよ。この島を守りきれるなら、その1%に賭けたいって、皆思ってる。……ほら、呼ばれてるよ」
いつの間にか、ホーキンスを求めるいくつもの声が上がっていた。何かを確認するかのような彼の視線を受け、私は微笑んで促す。彼は頷く。
壇上を降りたホーキンスはその声に応え、占いに基づく助言をして回る。普段から占いを信じている人はもちろん、半信半疑の人もこの時ばかりはホーキンスの発言を信じてみる気になったらしかった。事前に占っておいた結果を伝えたり、その場で占って判断を下したり、あちこちから呼び止められている。
当然ながらバジル家への反発を隠さない人はホーキンスにも近づかない。けれども、今日はホーキンスが彼らに歩み寄っていった。ヒヤヒヤしながら見守る私の前で、ホーキンスは彼らと一言二言会話するとあっさり立ち去ってしまった。残された人々は複雑な表情を隠さず、けれども罵詈雑言を浴びせることもなかった。
数年前、ホーキンスのお父さんが当主になった時の宴会を思い出す。私がホーキンスと共にいるだけで、いろんな人が思い思いの反応を見せた。馬鹿にする声だって聞こえていた。厳しい反応が多かった。
今では、こうしてホーキンスを求める人が大勢いる。彼の占いが信頼に足るのだと、自分の行動の一助にしてもいいと考える人が増えた。島のためだからと都合よく利用している人だっているだろうし、完全に信じているわけではないとしても、ホーキンスが侮られなくなったと分かる光景は私の心を明るくした。
人は変わるんだ。険悪な仲だとしても、いつか手を取り合うことだって夢じゃないんだ。
私の大好きな人たちが連帯して動き始めている。その事実は絶望を吹き飛ばすのに十分だった。
そこから特訓の日々が始まった。元々村では老若男女関係なく自衛ができるように――この時代、海賊相手に戦えなくては生き残れないのである――戦闘訓練が施されていたけれど、さらに熱の入った指導になった。敵襲を予測済みだと悟られないよう、こっそりと新しい武器や罠が作られていく。外部の商人にも伝えるな、と厳戒態勢が敷かれた。敵の目星をつけ、情報収集をし、その圧倒的強さと悪名に慄きながらも対策を練る。自分たちとの力の差を感じていながらも、誰一人怯む者はいなかった。
とはいえ、敵が来る正確な日にちまでは分からない。村に緊張の漂う毎日が続き、とうとう数名が嘆き出した。
「ああもう耐えられねェ!! いつまで気ィ張ってりゃいいんだ!? こんなんじゃ酒もまずくなっちまう!!」
「そうはいっても、いつ敵が来たっておかしくないのに泥酔するわけにもいかんだろ」
「あいつに聞きゃいいじゃねェか! おい、バジルのガキ!」
村の中央で村長と話し合っていたホーキンスのもとに、働き盛りのおじさん二人組が駆け込んできた。話し合いの記録を取っていた私にも軽く声をかけつつ、彼らはホーキンスを呼び止める。
「お前なら敵襲のない日とか分かんだろ、いつだ?」
何の含みもない質問だった。以前はホーキンスに棘のある態度をとっていた二人も、今では占いを頼りに訪ねてくることが増えていた。軽んじる発言は私との関係をからかうものに変わり、嫌な空気もなくなった。それがなんとなく嬉しい。
ホーキンスは村長に断りを入れると、無言でカードを並べ、結果を口にした。
「……七日後なら、襲われる確率は低い」
「七日ねェ……せっかくなら祝い事もまとめてやろうぜ。あいつん家のガキが産まれるのはいつだっけか?」
「あと一月はかかるぞ」
「んな待てねェな……結婚は? ちょうどいいやつはいねェのかよ? おれとしちゃ騒げりゃいいんだが」
「式がまだのやつらといえば、そいつがそうだろ」
二人の視線がホーキンスに向く。次いで私にも。
「そうだよ、なんでお前らまだ結婚してねェんだ?」
「エヴィ、花嫁修業はまだ終わんねェのか?」
「お、終わらせることはできるけど、今の時期に結婚式してる暇は……」
「ぱっぱとやっちまえよ!」
「そうだぜ、できる時にしておかねェと」
「ええ……!? そ、村長はどう思います?」
「気合い入れて準備するから安心しろ」
「村長!?」
勢いづいたおじさん達はホーキンスの肩をガッと組み、ゲラゲラ笑いながら彼の背中を叩く。今日はまだ飲んでいないはずなのだが、酔っぱらっているかのようなテンションの上がりようだ。叩かれているホーキンスはというと、悪意からくる行為でない故に、どう対応すればいいのか分からないと言いたげな顔をしていた。
「式挙げろ! 酒の手配はおれがやってやっから!」
「しかしこちらにも用意というものが、」
「本格的なやつは勝ってからやりゃいいんだよ! 前祝いだ前祝い! とりあえずそれらしい形になりゃいい!」
「あんたは酒が飲めればいいってだけでしょうが!!」
「やべ、かみさんが来た」
シラフの酔っぱらい達はそれぞれの奥さんに引きずられ、担当の仕事に戻っていく。奥さんも結婚式自体には反対せず、やるならやるで早めに教えてくれと言付けて帰っていった。
村長は話し合いが終わるや否や「急いで詳細を決めないといかんな」とホーキンスのお父さんを探しに行ってしまい、この場に二人残される。
「……どうする?」
「日取りとしては問題ない。あの様子なら宴の準備もスムーズにいくだろう。だが盛大なものは難しい……それでも構わないか」
「うん……私、やりたいな」
それどころじゃないって分かっているけれど、でも、できるなら、やってもいいのなら。
私は早くホーキンスの妻を名乗れるようになりたいし、大好きな人たちに祝福されたい。
そう伝えると、眉間にシワを寄せてばかりいたホーキンスは表情を緩ませた。どんな彼も好きだけれど、やっぱり笑っているのが一番だ。
*****
たっぷりの布の上を繊細なレースが彩る、真っ白なウェディングドレス。袖や裾などいたるところに細かい刺繍が施されている。私がくるりと回れば、裾のフリルが空気を孕んでふわりと広がった。
「ほらほら、まだ髪のセット終わってないでしょ! 座んなさい」
「髪飾りはこれ?」
「うん。お義母さんのものなんだって」
「いいねいいね、ドレスにぴったり!」
今私が着ているのは、前々から少しずつ仕立ててもらっていたウェディングドレスだ。形や装飾はホーキンスと相談しながら決めた。こうして言うと冷静に進めたように見えるが、その時の私は初めから最後まではしゃぎ回っていた――それはさておき。突然決まった式ではあるものの、ドレス自体は間に合ってよかったと一安心する。
一方髪飾りはホーキンスのお母さんのものをお借りした。彼女の自室から「次の花嫁に」と書いたメモと共に発見されたため、ありがたく使わせてもらうことになったのだ。ユリのモチーフが組み込まれたそれは一目見ただけで分かるほど精巧に作られていて、同時に、代々受け継がれてきた貴重なものなのだと悟る。墓前に借りる旨を伝えにいったけれど、直接お礼を言えなかったのが心残りだ。
「うちらからは仕上げの魔法をプレゼント!」
「化粧ね」
「野暮なこと言わない! 魔法です!」
「えへへ……ありがとう!」
ああでもないこうでもないとわいわいしながら、友達が魔法をかけてくれる。ここのところ村中がピリピリしていたから、こんな風に盛り上がるのは久々だ。丁寧に髪をといて、セットして。この色が似合うはず!とおすすめしてくれたリップは、彼女たちの見立て通りしっくりと馴染んだ。
女友達総出で髪と顔を整えてくれたおかげで、鏡に映る私は見たこともないほど華やかになった。頬や唇に色が乗っただけでも印象がだいぶ違う。
「なんだか私じゃないみたい……」
「晴れの日なんだし、思いっきりおめかししなくちゃ!」
「本当はもっといろいろやりたかったんだけど……」
「状況が状況だからねェ……。でもこうして明るい話題が出るのはうちらとしても嬉しいよ。エヴィ、幸せになんなよ」
「……みんな……」
「泣くな泣くな! 化粧崩れる!」
「真っ赤な目であいつに会うつもり!?」
「ハンカチ貸したげるから、泣きそうになったらうまいこと誤魔化しな!」
手先の器用な友達が貸してくれたハンカチには、かわいらしい青い花が刺繍されていた。汚してしまうのは忍びない。涙をぐっとこらえて、笑顔で感謝を口にする。
「ゔゔ……ほんとありがと……」
「言ったそばからもう!」
感極まってしまった私はどうにも涙もろくていけない。これからが本番なのに。目元を赤くして人前に出たら笑われてしまうだろうか。
ちょっとしんみりした空気を仕切り直すかのように、扉が勢いよく開かれる。お母さんだ。
「遅れてごめんなさいね! 支度はどんな感じ?」
「もうほぼ終わりました! あとはベールだけです」
「よかった! 手伝ってくれて助かったわ」
花嫁の親であるお父さん共々やらなくてはならないことが山ほど発生し、お母さんは当日も会場や裏方を駆け回ってくれていた。もちろん当事者の私も忙しくはあったのだが、浮かれきった人間にとってあっという間の時間だった。いいのか悪いのか。
時計の針は、あと少しで式が始まることを示している。そろそろ移動した方がいいだろう。お母さんがベールを手にしたのを確認して声をかける。
「お母さん、それ、お願いしていい?」
「ええ。こっちおいで」
彼女の前で静かにかがむ。薄い膜が視界を覆う。ベール越しに見るお母さんは私同様涙ぐんでいて、こういうところが似たんだな、と思う。きれいにベールが広がるよう整えると、彼女はパッと明るい笑みを浮かべた。
「さ、いってきなさい」
「……いってきます!」
毎朝していた挨拶みたいに、いつも通りの言葉で送り出してくれた。そんなお母さんに負けないくらいぴかぴかの笑顔で、私は控室を出る。
一緒に入場することになるお父さんはすでにボロ泣きしていた。娘の私が頑張ってるんだからもう少し耐えてほしい。よかったなァ……よかったなァ……と言い続けるお父さんを引っ張りながら教会に足を踏み入れると、参列者がどっと沸いた。教会の奥にはホーキンスが待っている。遠くからでも目が合って、思わず照れ笑いをしてしまう。お父さんが気を取り直してシャキッと歩き出す。その様子もまたおかしくて、会場のあちこちからクスクス笑い声がする。
私に合わせて、お父さんはゆっくり歩いてくれた。ついにホーキンスの目の前までやってきた時、お父さんと彼との間で一瞬の目配せが行われ、二人は深く頭を下げた。私は父から手を外し、新郎の手を取る。これから共に生きる人と、祭壇前に並ぶ。
私がウェディングドレスを着ているように、ホーキンスも式に合わせた衣装を身に纏っていた。純白のフロックコートにグレーのネクタイ、胸ポケットにはハンカチがちらりと見える。上着の丈の長さが彼のスラリとした体型を際立たせ、ただ立っているだけでも優雅な雰囲気が漂っていた。
長い金髪も今日はゆるくまとめて後ろに流している。ヘアアレンジもあってか、ホーキンスの妖しさよりも真面目さが全面に出た装いだ。
彼はどんな服も着こなしてしまうだろうが、今日は一段ときらきらして見えた。つい見とれていると、彼も彼でこちらを見返した。私の頭のてっぺんから足元までしっかり眺め、上機嫌そうに真紅の瞳が細められる。
「コホン……式を始めても?」
「あっ、すみません」
慌てて牧師様に向き直り、並んで話を聞く。問いかけに誓いを立てる。ホーキンスと初めてのキスをした日もこんな感じのやり取りをしたな、なんて思い出しながら。
誓いのキスの前に、ホーキンスと向かい合う。
バジル家に伝わってきたとされる指輪をここで付けるのだという。ホーキンスのご両親も結婚式でおこなったらしいが、お父さんがご健在のうちに家宝とも言えそうな代物を受け継ぐのは少し驚いた。当の本人は「渡せるうちに渡しておきたい」と、そう抵抗なく譲ってくれたのだけど。
指輪には血のように鮮やかなルビーが輝いていて、一瞬、本当に一瞬だけど、私がつけていいのか不安になった。ホーキンスが包み込むように私の手を取ってくれていなければ、戸惑ってしまっていたかもしれない。
不思議な刻印が施された指輪はすっ、と薬指を通り抜けていく。まるで私のために作られたみたいにぴったりだ。付ける人に合わせてサイズを変える仕組みにでもなっているのだろうか。薬指の付け根できちんと止まった途端、教会内に差し込む光を含んでルビーが一段ときらめいた。これまで付けてきたであろう人々に歓迎された感覚に包まれる。
私もまた、ホーキンスの左手をとった。手の大きさはそう変わらないが、肌の質感や骨の張り具合が全く違う。こんな時に考えることじゃないな、と笑いそうになりながら、彼の分の指輪をつまむ。
対となる指輪は少しデザインが異なっていた。ルビーをあしらいながらもシンプルに仕上げられたそれは、ホーキンスの薬指に収まるといきいきと輝き出した……ように見える。彼は静かな目で指輪を見つめていた。今、何を考えているのだろう。後で聞いてみよう。
「それでは、誓いのキスを」
きた。
緊張でドキドキしながら、ホーキンスとの距離を縮める。普段はもっと近づいているのに、人前だとこのくらいの距離でも恥ずかしくなってしまう。
ベールがそっと持ち上げられた。ホーキンスの顔がはっきり見える。大勢の人の前にいるというのに、彼は凪いだ顔をしていた。さすがだ。
肩に手が添えられたのを合図に、顔を傾ける。目を閉じるかどうかは話し合ってなかったな、と気づいた時には、ホーキンスと唇を触れ合わせていた。彼は薄く目を開いたままだった。形の良い瞼の奥から熱情が見え隠れしていて、ホーキンスも喜んでくれてるんだ、と心が喜びで波打つ。
周囲が盛り上がってきたあたりでキスをやめ、元の位置に戻る。視線が合って自然と笑みがこぼれた。
牧師様によって私とホーキンスが夫婦となったことが宣言される。これでやっと、私はホーキンスのお嫁さんになれたんだ。じわ、と目が潤みそうになってまた耐えた。ハンカチの出番がないままいきたい。
ここまで終われば後は私たちが退場して、外でブーケトスやら宴会やらが始まる予定だ。参列者もそわそわしだしている。私はホーキンスと腕を組み、教会の扉へと向かう。ドレスにも慣れてきたので行きよりもスムーズに歩けている気がする。
「歩きにくくないか」
「大丈夫」
囁き合って進む。村の皆が拍手で見送ってくれる中、ふと友達数名の姿が見えないことに気づいた。急用でもあったのだろうか、と思いながら扉の前に立つ。大きな木製の扉がギギギ、と開いて――――
「二人とも、おめでとう!」
視界に色とりどりの花びらが舞った。友達が花びらを両手いっぱいに抱えて、またぶわりと空に撒く。やわらかい風がそれらをすくい上げ、ひらひら踊らせる。
ホーキンスは目を見張っていた私の手を引いた。
「行くぞ」
「う、うん!」
昔は私が彼の手を引いていたのにな。
出会った時とは全然違う、頼りがいのあるしっかりとした腕に手を添えた。
退場を待ちきれなかった人々が式場の中から溢れ出し、私たちの周りを取り囲む。
雲一つない青空の下、皆の湧き立つ声が祝福してくれている。
それがあんまりにもきれいだったから、忘れたくなくて。我慢しなくちゃって思ってたのにとうとう泣き出してしまった私を、ホーキンスが優しく抱き寄せた。
ホーキンスに眉毛が生えた。眉毛だと思う。触らせてもらったら確かに毛の流れを感じたので。
かつてホーキンスのお母さんにもあった、目の上の黒い三角形たち。横から私がまじまじと眺めているのを気にも留めず、彼はしかめっ面で占い続けていた。何度占っても机の上のカードは同じ絵柄で同じ配置になる。どういう意味を表しているんだろう。
「やはり避けられないのか……」
「どうしたの?」
「……この島が、戦場と化す」
場の空気が一変する。
戦場、と強張った声で繰り返した私に説明するため、彼は静かに続けた。
「この眉は、おれが当主として十分な力をつけた証だ。大勢の運命を占うことも今のおれなら容易い。だからこそ分かる。いずれこの島は太刀打ちできないほどの強者に襲われ、平穏を失うことになる」
自身の額に手をやりながら絞り出すように呟く彼の目に、どんな未来が映っているのか。ここ最近顔色が悪いとは思っていたが、この結果を目の当たりにしてずっと悩んでいたのだろう。
この島に住む人々は別に弱いわけじゃない。その辺の海賊くらいなら返り討ちにだってできる。占いによる危機回避と島民の戦闘能力によって長年の平和が保たれてきた。それでも勝てない相手がやってくるのだと、自分だけ知ってしまった彼の負担は計り知れない。
小さい頃からホーキンスの占いを見届けてきた。当たることもあれば外れることもあるのだ、今回は後者かもしれない。しかし彼の青ざめた表情が、ほぼ確実に訪れる未来だと証明している。
現実味のなかった「戦場」の文字がじわじわと私を蝕んでいく。怖くないと言えば嘘になる。ホーキンスに寄り添ったところで私にできることはないけれど、頭を抱える彼の手を取り、そっと握る。冷えた指先がかすかに震えている。少しでも体温を分け合うために力を込めると、わずかだが握り返された。
これからどうするつもりか訊ねれば、全体に伝えるつもりだという返事。
「おれは占った結果を述べるだけだ。ここから先は村の者が判断する」
「ホーキンスだって村の一員じゃん」
「……お前はそう言うだろう。だが皆が皆、同じ考えとは限らん。それに、パワーバランスを崩さないためにも必要なことだ」
一定の距離を置いておかねばならない、と言う彼は、本気でそう思っているのだろう。でも私は少し違う。
離れすぎてしまった村とバジル家の関係を、私たちの代でちょっとでも変えていけたら。この願いはきっとそこまで夢物語ではない。ホーキンスが村中から歓迎される人になることだって、そう遠い未来ではないはずなのだ。そんな未来を叶えたのなら、今以上に一致団結した私たちはもっと強くなれる。どんな強敵にも勝てるはず――と口にするには、確証が足りなかったのだけど。
*****
場違いなほどにうららかな日差しが輝く。私の気分とは打って変わって、北の海とは思えないほど穏やかな天気の下、大勢の人が空き地に集まっていた。
島には民家や店、屋敷の他に、大勢の人が集まることのできるスペースがある。宴にも使われるその場所に、急遽村中の人々が集められた。前方には台が一つ。皆、何事かと困惑しながら中心人物の登場を待つ。
事情を知っている私とホーキンスのお父さんが質問攻めに合いながらも場の整理をし、ある程度落ち着いてきたあたりで合図を出した。
壇上に立った青年――ホーキンスに対し、不満やからかいが飛ぶ。茶化しのつもりの人もいれば、黒い感情を隠した人も紛れている。それら全てを受けながら、彼は感情を削ぎ落とした顔でそこにいた。私は台の横でそれを見る。何かあれば彼を庇えるように控えている。
ホーキンスはいきなり招集したことへの謝罪を述べた後、よく通る声で手短に告げた。
「本日よりおれがバジル家の当主を引き継ぐこととなった。だが、それは本題ではない」
代替わりの挨拶だと予想していた人々が不思議そうな顔でホーキンスを見上げた。ホーキンスは彼らに向けて問いかける。
「おれの役目は知っているな」
「占いだろ? 人の相談に乗ったりとか」
「敵襲の予測も……おい、まさか」
「察しがよくて何よりだ。おれは前々から島の行く末を占っていた。何度占っても村人全員の生存率が安定しなかったからだ。おれの力が十分でないからかと思い様子を見ていたが、こうして力を身に着けた今でもそれは変わらなかった」
彼はそこまで言うと一度言葉を切り、息を吸い込んだ。声を張り上げる。
「この島は数ヶ月以内に海賊に襲われる。その時、おれ達の勝率は1%。99%の確率で敗北し、村が壊滅する」
発した声に感情は乗せられていない。情報を正確に伝えることに特化した、平坦で断定的な音。
途端に皆がざわめき出す。言われたことの意味が浸透しきる前に、信じられないといった様子で誰かが声を上げた。
「1%って……本気で言ってんのか?」
「おれは冗談は言わない。服従による生存率は42%、交渉は不可能。おれが口出しするのはここまでだ。どうするかはお前たちが――」
「決まってんだろ! 戦うんだよ!!」
ホーキンスが選択権を渡してすぐ、勇ましい返事が飛ぶ。彼の表情が崩れた。老若男女関係なく、村の皆は口々に叫ぶ。弱気な発言は一つもない。
「1%あるなら実質五分五分ってことだ!」
「ホーキンス! 来るのはどこの海賊団なの!?」
「……明確な相手は不明だが、おれ達が勝てないとなれば予想はつく」
「じゃあ対策取れるな! 武器の調達間に合うか?」
「罠も作れ! 先手必勝だ!」
時折ホーキンスに質問を投げかけつつ、人々は一気に好戦的な雰囲気へと変わる。元々血気盛んなところがある皆にとって、勝率1%は追い風にしかならない。薄々勘づいていた私とは違い、ホーキンスは呆気にとられていた。
「なぜだ……」
「占った張本人が驚いてどうするの?」
「……確率はあの通り、勝てる見込みなどほぼ無いんだぞ。そもそも強敵が来るという言葉だって、すぐ信用されると思っていなかった」
「これまで何度も敵襲を予測して当ててきたじゃない。ホーキンス達がやってきたことが信頼に繋がったんだと思うよ」
ホーキンスやバジル家が疎まれる方がおかしかったのだ。彼らが信頼に値する人々だとようやく気づいてくれた。いや、再び理解してくれたと言うべきか。
私と視線を交わすホーキンスの表情は困惑の色が強く、そしてうっすらとした希望があった。
「勝てる可能性だってゼロじゃないよ。この島を守りきれるなら、その1%に賭けたいって、皆思ってる。……ほら、呼ばれてるよ」
いつの間にか、ホーキンスを求めるいくつもの声が上がっていた。何かを確認するかのような彼の視線を受け、私は微笑んで促す。彼は頷く。
壇上を降りたホーキンスはその声に応え、占いに基づく助言をして回る。普段から占いを信じている人はもちろん、半信半疑の人もこの時ばかりはホーキンスの発言を信じてみる気になったらしかった。事前に占っておいた結果を伝えたり、その場で占って判断を下したり、あちこちから呼び止められている。
当然ながらバジル家への反発を隠さない人はホーキンスにも近づかない。けれども、今日はホーキンスが彼らに歩み寄っていった。ヒヤヒヤしながら見守る私の前で、ホーキンスは彼らと一言二言会話するとあっさり立ち去ってしまった。残された人々は複雑な表情を隠さず、けれども罵詈雑言を浴びせることもなかった。
数年前、ホーキンスのお父さんが当主になった時の宴会を思い出す。私がホーキンスと共にいるだけで、いろんな人が思い思いの反応を見せた。馬鹿にする声だって聞こえていた。厳しい反応が多かった。
今では、こうしてホーキンスを求める人が大勢いる。彼の占いが信頼に足るのだと、自分の行動の一助にしてもいいと考える人が増えた。島のためだからと都合よく利用している人だっているだろうし、完全に信じているわけではないとしても、ホーキンスが侮られなくなったと分かる光景は私の心を明るくした。
人は変わるんだ。険悪な仲だとしても、いつか手を取り合うことだって夢じゃないんだ。
私の大好きな人たちが連帯して動き始めている。その事実は絶望を吹き飛ばすのに十分だった。
そこから特訓の日々が始まった。元々村では老若男女関係なく自衛ができるように――この時代、海賊相手に戦えなくては生き残れないのである――戦闘訓練が施されていたけれど、さらに熱の入った指導になった。敵襲を予測済みだと悟られないよう、こっそりと新しい武器や罠が作られていく。外部の商人にも伝えるな、と厳戒態勢が敷かれた。敵の目星をつけ、情報収集をし、その圧倒的強さと悪名に慄きながらも対策を練る。自分たちとの力の差を感じていながらも、誰一人怯む者はいなかった。
とはいえ、敵が来る正確な日にちまでは分からない。村に緊張の漂う毎日が続き、とうとう数名が嘆き出した。
「ああもう耐えられねェ!! いつまで気ィ張ってりゃいいんだ!? こんなんじゃ酒もまずくなっちまう!!」
「そうはいっても、いつ敵が来たっておかしくないのに泥酔するわけにもいかんだろ」
「あいつに聞きゃいいじゃねェか! おい、バジルのガキ!」
村の中央で村長と話し合っていたホーキンスのもとに、働き盛りのおじさん二人組が駆け込んできた。話し合いの記録を取っていた私にも軽く声をかけつつ、彼らはホーキンスを呼び止める。
「お前なら敵襲のない日とか分かんだろ、いつだ?」
何の含みもない質問だった。以前はホーキンスに棘のある態度をとっていた二人も、今では占いを頼りに訪ねてくることが増えていた。軽んじる発言は私との関係をからかうものに変わり、嫌な空気もなくなった。それがなんとなく嬉しい。
ホーキンスは村長に断りを入れると、無言でカードを並べ、結果を口にした。
「……七日後なら、襲われる確率は低い」
「七日ねェ……せっかくなら祝い事もまとめてやろうぜ。あいつん家のガキが産まれるのはいつだっけか?」
「あと一月はかかるぞ」
「んな待てねェな……結婚は? ちょうどいいやつはいねェのかよ? おれとしちゃ騒げりゃいいんだが」
「式がまだのやつらといえば、そいつがそうだろ」
二人の視線がホーキンスに向く。次いで私にも。
「そうだよ、なんでお前らまだ結婚してねェんだ?」
「エヴィ、花嫁修業はまだ終わんねェのか?」
「お、終わらせることはできるけど、今の時期に結婚式してる暇は……」
「ぱっぱとやっちまえよ!」
「そうだぜ、できる時にしておかねェと」
「ええ……!? そ、村長はどう思います?」
「気合い入れて準備するから安心しろ」
「村長!?」
勢いづいたおじさん達はホーキンスの肩をガッと組み、ゲラゲラ笑いながら彼の背中を叩く。今日はまだ飲んでいないはずなのだが、酔っぱらっているかのようなテンションの上がりようだ。叩かれているホーキンスはというと、悪意からくる行為でない故に、どう対応すればいいのか分からないと言いたげな顔をしていた。
「式挙げろ! 酒の手配はおれがやってやっから!」
「しかしこちらにも用意というものが、」
「本格的なやつは勝ってからやりゃいいんだよ! 前祝いだ前祝い! とりあえずそれらしい形になりゃいい!」
「あんたは酒が飲めればいいってだけでしょうが!!」
「やべ、かみさんが来た」
シラフの酔っぱらい達はそれぞれの奥さんに引きずられ、担当の仕事に戻っていく。奥さんも結婚式自体には反対せず、やるならやるで早めに教えてくれと言付けて帰っていった。
村長は話し合いが終わるや否や「急いで詳細を決めないといかんな」とホーキンスのお父さんを探しに行ってしまい、この場に二人残される。
「……どうする?」
「日取りとしては問題ない。あの様子なら宴の準備もスムーズにいくだろう。だが盛大なものは難しい……それでも構わないか」
「うん……私、やりたいな」
それどころじゃないって分かっているけれど、でも、できるなら、やってもいいのなら。
私は早くホーキンスの妻を名乗れるようになりたいし、大好きな人たちに祝福されたい。
そう伝えると、眉間にシワを寄せてばかりいたホーキンスは表情を緩ませた。どんな彼も好きだけれど、やっぱり笑っているのが一番だ。
*****
たっぷりの布の上を繊細なレースが彩る、真っ白なウェディングドレス。袖や裾などいたるところに細かい刺繍が施されている。私がくるりと回れば、裾のフリルが空気を孕んでふわりと広がった。
「ほらほら、まだ髪のセット終わってないでしょ! 座んなさい」
「髪飾りはこれ?」
「うん。お義母さんのものなんだって」
「いいねいいね、ドレスにぴったり!」
今私が着ているのは、前々から少しずつ仕立ててもらっていたウェディングドレスだ。形や装飾はホーキンスと相談しながら決めた。こうして言うと冷静に進めたように見えるが、その時の私は初めから最後まではしゃぎ回っていた――それはさておき。突然決まった式ではあるものの、ドレス自体は間に合ってよかったと一安心する。
一方髪飾りはホーキンスのお母さんのものをお借りした。彼女の自室から「次の花嫁に」と書いたメモと共に発見されたため、ありがたく使わせてもらうことになったのだ。ユリのモチーフが組み込まれたそれは一目見ただけで分かるほど精巧に作られていて、同時に、代々受け継がれてきた貴重なものなのだと悟る。墓前に借りる旨を伝えにいったけれど、直接お礼を言えなかったのが心残りだ。
「うちらからは仕上げの魔法をプレゼント!」
「化粧ね」
「野暮なこと言わない! 魔法です!」
「えへへ……ありがとう!」
ああでもないこうでもないとわいわいしながら、友達が魔法をかけてくれる。ここのところ村中がピリピリしていたから、こんな風に盛り上がるのは久々だ。丁寧に髪をといて、セットして。この色が似合うはず!とおすすめしてくれたリップは、彼女たちの見立て通りしっくりと馴染んだ。
女友達総出で髪と顔を整えてくれたおかげで、鏡に映る私は見たこともないほど華やかになった。頬や唇に色が乗っただけでも印象がだいぶ違う。
「なんだか私じゃないみたい……」
「晴れの日なんだし、思いっきりおめかししなくちゃ!」
「本当はもっといろいろやりたかったんだけど……」
「状況が状況だからねェ……。でもこうして明るい話題が出るのはうちらとしても嬉しいよ。エヴィ、幸せになんなよ」
「……みんな……」
「泣くな泣くな! 化粧崩れる!」
「真っ赤な目であいつに会うつもり!?」
「ハンカチ貸したげるから、泣きそうになったらうまいこと誤魔化しな!」
手先の器用な友達が貸してくれたハンカチには、かわいらしい青い花が刺繍されていた。汚してしまうのは忍びない。涙をぐっとこらえて、笑顔で感謝を口にする。
「ゔゔ……ほんとありがと……」
「言ったそばからもう!」
感極まってしまった私はどうにも涙もろくていけない。これからが本番なのに。目元を赤くして人前に出たら笑われてしまうだろうか。
ちょっとしんみりした空気を仕切り直すかのように、扉が勢いよく開かれる。お母さんだ。
「遅れてごめんなさいね! 支度はどんな感じ?」
「もうほぼ終わりました! あとはベールだけです」
「よかった! 手伝ってくれて助かったわ」
花嫁の親であるお父さん共々やらなくてはならないことが山ほど発生し、お母さんは当日も会場や裏方を駆け回ってくれていた。もちろん当事者の私も忙しくはあったのだが、浮かれきった人間にとってあっという間の時間だった。いいのか悪いのか。
時計の針は、あと少しで式が始まることを示している。そろそろ移動した方がいいだろう。お母さんがベールを手にしたのを確認して声をかける。
「お母さん、それ、お願いしていい?」
「ええ。こっちおいで」
彼女の前で静かにかがむ。薄い膜が視界を覆う。ベール越しに見るお母さんは私同様涙ぐんでいて、こういうところが似たんだな、と思う。きれいにベールが広がるよう整えると、彼女はパッと明るい笑みを浮かべた。
「さ、いってきなさい」
「……いってきます!」
毎朝していた挨拶みたいに、いつも通りの言葉で送り出してくれた。そんなお母さんに負けないくらいぴかぴかの笑顔で、私は控室を出る。
一緒に入場することになるお父さんはすでにボロ泣きしていた。娘の私が頑張ってるんだからもう少し耐えてほしい。よかったなァ……よかったなァ……と言い続けるお父さんを引っ張りながら教会に足を踏み入れると、参列者がどっと沸いた。教会の奥にはホーキンスが待っている。遠くからでも目が合って、思わず照れ笑いをしてしまう。お父さんが気を取り直してシャキッと歩き出す。その様子もまたおかしくて、会場のあちこちからクスクス笑い声がする。
私に合わせて、お父さんはゆっくり歩いてくれた。ついにホーキンスの目の前までやってきた時、お父さんと彼との間で一瞬の目配せが行われ、二人は深く頭を下げた。私は父から手を外し、新郎の手を取る。これから共に生きる人と、祭壇前に並ぶ。
私がウェディングドレスを着ているように、ホーキンスも式に合わせた衣装を身に纏っていた。純白のフロックコートにグレーのネクタイ、胸ポケットにはハンカチがちらりと見える。上着の丈の長さが彼のスラリとした体型を際立たせ、ただ立っているだけでも優雅な雰囲気が漂っていた。
長い金髪も今日はゆるくまとめて後ろに流している。ヘアアレンジもあってか、ホーキンスの妖しさよりも真面目さが全面に出た装いだ。
彼はどんな服も着こなしてしまうだろうが、今日は一段ときらきらして見えた。つい見とれていると、彼も彼でこちらを見返した。私の頭のてっぺんから足元までしっかり眺め、上機嫌そうに真紅の瞳が細められる。
「コホン……式を始めても?」
「あっ、すみません」
慌てて牧師様に向き直り、並んで話を聞く。問いかけに誓いを立てる。ホーキンスと初めてのキスをした日もこんな感じのやり取りをしたな、なんて思い出しながら。
誓いのキスの前に、ホーキンスと向かい合う。
バジル家に伝わってきたとされる指輪をここで付けるのだという。ホーキンスのご両親も結婚式でおこなったらしいが、お父さんがご健在のうちに家宝とも言えそうな代物を受け継ぐのは少し驚いた。当の本人は「渡せるうちに渡しておきたい」と、そう抵抗なく譲ってくれたのだけど。
指輪には血のように鮮やかなルビーが輝いていて、一瞬、本当に一瞬だけど、私がつけていいのか不安になった。ホーキンスが包み込むように私の手を取ってくれていなければ、戸惑ってしまっていたかもしれない。
不思議な刻印が施された指輪はすっ、と薬指を通り抜けていく。まるで私のために作られたみたいにぴったりだ。付ける人に合わせてサイズを変える仕組みにでもなっているのだろうか。薬指の付け根できちんと止まった途端、教会内に差し込む光を含んでルビーが一段ときらめいた。これまで付けてきたであろう人々に歓迎された感覚に包まれる。
私もまた、ホーキンスの左手をとった。手の大きさはそう変わらないが、肌の質感や骨の張り具合が全く違う。こんな時に考えることじゃないな、と笑いそうになりながら、彼の分の指輪をつまむ。
対となる指輪は少しデザインが異なっていた。ルビーをあしらいながらもシンプルに仕上げられたそれは、ホーキンスの薬指に収まるといきいきと輝き出した……ように見える。彼は静かな目で指輪を見つめていた。今、何を考えているのだろう。後で聞いてみよう。
「それでは、誓いのキスを」
きた。
緊張でドキドキしながら、ホーキンスとの距離を縮める。普段はもっと近づいているのに、人前だとこのくらいの距離でも恥ずかしくなってしまう。
ベールがそっと持ち上げられた。ホーキンスの顔がはっきり見える。大勢の人の前にいるというのに、彼は凪いだ顔をしていた。さすがだ。
肩に手が添えられたのを合図に、顔を傾ける。目を閉じるかどうかは話し合ってなかったな、と気づいた時には、ホーキンスと唇を触れ合わせていた。彼は薄く目を開いたままだった。形の良い瞼の奥から熱情が見え隠れしていて、ホーキンスも喜んでくれてるんだ、と心が喜びで波打つ。
周囲が盛り上がってきたあたりでキスをやめ、元の位置に戻る。視線が合って自然と笑みがこぼれた。
牧師様によって私とホーキンスが夫婦となったことが宣言される。これでやっと、私はホーキンスのお嫁さんになれたんだ。じわ、と目が潤みそうになってまた耐えた。ハンカチの出番がないままいきたい。
ここまで終われば後は私たちが退場して、外でブーケトスやら宴会やらが始まる予定だ。参列者もそわそわしだしている。私はホーキンスと腕を組み、教会の扉へと向かう。ドレスにも慣れてきたので行きよりもスムーズに歩けている気がする。
「歩きにくくないか」
「大丈夫」
囁き合って進む。村の皆が拍手で見送ってくれる中、ふと友達数名の姿が見えないことに気づいた。急用でもあったのだろうか、と思いながら扉の前に立つ。大きな木製の扉がギギギ、と開いて――――
「二人とも、おめでとう!」
視界に色とりどりの花びらが舞った。友達が花びらを両手いっぱいに抱えて、またぶわりと空に撒く。やわらかい風がそれらをすくい上げ、ひらひら踊らせる。
ホーキンスは目を見張っていた私の手を引いた。
「行くぞ」
「う、うん!」
昔は私が彼の手を引いていたのにな。
出会った時とは全然違う、頼りがいのあるしっかりとした腕に手を添えた。
退場を待ちきれなかった人々が式場の中から溢れ出し、私たちの周りを取り囲む。
雲一つない青空の下、皆の湧き立つ声が祝福してくれている。
それがあんまりにもきれいだったから、忘れたくなくて。我慢しなくちゃって思ってたのにとうとう泣き出してしまった私を、ホーキンスが優しく抱き寄せた。