8.愛も憎悪もここにある
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※モブ村人との会話が多いです。ホーキンスとの絡みだけが見たい方は終盤まで飛ばしてください。本当に最後まで出てきません。
かつての遊び場が小さな花で埋め尽くされているのを、そしてその上を容赦なく走り回る子どもたちを見て、季節の変化を感じ取る。もう私はここで追いかけっこをすることはないけれど、同じ遊びをしているところを見るとなぜだかこちらまで楽しくなってしまう。当時の記憶を思い出すからだろうか。
彼らを横目に、店が立ち並ぶ通りへと向かう。今日は私が夕飯を作る日なのだ。最近家にいない時間が多いし、美味しいご飯で家族に恩返ししたいな。そんなことを考えながら、買い物袋を片手に足取り軽く歩いていった。
大通りは今日も賑やかだ。豊かな国の町と比べたらそりゃ閑散としているが、この村にしては人が多い時間帯。すれ違う人皆知り合いなので、挨拶や世間話をこなしながら店を物色する。
お母さんに散々叩き込まれたレシピを脳内に浮かべ、店頭に並ぶ品々で何が作れるかを考える。アレンジをするなと死ぬほど言われてきた身だ。下手に違う材料へ置き換えない方がいいのかもしれない。
店を覗いては唸る私に、色とりどりの野菜を取り扱う店主――ひいては、昔から親しい仲であるおじさんが話しかけてきた。
「よォエヴィ! 今日はこいつがおすすめだぜ! 煮ても焼いても美味くなる! お前みたいな料理下手でもな!」
「そんな下手じゃないっての! ……一つください」
「ダハハ! まいどあり! おまけもつけといてやるからそう怒るなよォ」
おじさんはそう言ってゲラゲラ笑いながら商品を袋に詰めてくれた。最近仕入れたんだという果物もいくつか放り込まれる。これはデザートとして出してみよう。
彼は気前の良い人で、こうして買い物に来た時はもちろん、プライベートで出くわした時にも「他のやつには内緒だぞ」なんてこっそりお菓子をくれたりもする。村の中でも特に私を気にかけてくれるし仲も良好なのだが、度々「お前のおむつを変えたことだってあるんだぞ」などとデリカシーの無い発言をするところは玉にキズである。
他にお客さんが来ないのをいいことに店先へ留まる。新聞の記事やら最近の村の噂やらで話が弾み、途中話題が途切れると、思いついたように私への質問が投げかけられた。
「そういや、近頃あの 屋敷に通い詰めだって聞いたが」
「そうなの。いろいろ教わってるんだ」
「……大丈夫なのか?」
一段と低い声でぼそっと呟かれたのは、私の身を案じる言葉だった。商売人としての明るい笑顔を保ちながらもおじさんの目は笑っていない。村の中で時折目の当たりにする遠回しの悪意がしわくちゃの顔に浮かんでいた。
バジル家と親交がある人も、なんの感情も抱いていない人も、よく思っていない人も、皆この村で生きている。ホーキンスを通じてバジル家と関わるようになった私はふとした瞬間、そんな人々の違いに晒される。もっとも、こういう状態に気づいたのだって最近のことだ。悪口を言っていないからといって味方とは限らないのだと気づくのが遅すぎた。私が「ホーキンスの恋人」になったと明言した時の反応で、目の前の人がホーキンスを、バジル家をどう思っているか分かるようになってしまった。
皆、私への態度は変わらない。優しいままだ。あくまでも助言という体で、さりげなく言葉の端々に非難の色を乗せる人が出るようになっただけ。
気づけるようになった私は、今のおじさんの反応が決していいものでないと悟った。これまで一度だってそういう素振りは見せなかったけれど、嫌悪をうまく隠していたのか。その態度を悲しむと同時に、今までの自分の振る舞いが彼の負担になっていたのではと焦りだす。何度か惚気話をした気がする。私は私の好きな人を好きになってもらいたい。でも、無理強いするのは嫌だ。
私は困惑しながらも彼を見返し、誤解を解こうと口を開いた。もしかしたら何か勘違いしてるのかも、と一縷の望みにかけて。
「変なことは何も無いよ? 普通の、なんていうか……花嫁修業、的な」
「は、花嫁修業!? お前が!?」
「声がでかい! 驚くほどのことじゃないでしょ……私だって、もうそういう年頃なんだし」
自分で言いながら不思議な気持ちになる。私ってもうすぐ結婚できる年齢になるんだ。
数歳年上の友達のほとんどが結婚して家庭を持っている。私も遠からずそうなるはず……なのだが、どうにもまだ実感が湧かない。ホーキンスと恋人になってからまだそんなに経っていないというのもあるのだろう。「恋人」という関係に浮かれていて、結婚や家庭といった地に足ついたもののことまで考えられていないのだ。ありがたいことに、ホーキンスや彼のお父さん、私の両親含めいろんな人が私の分まで先を見据えて動いてくれている。感謝だけじゃなく、自分でも意識を切り替えていかなくてはならないのだけれど。
花嫁、とどこかきらきらした響きを口の中で転がす。私、ホーキンスの花嫁になっていいんだ。彼を支えるための勉強をしていい立場なんだ。思わずにやけそうになったが、買い物袋を揺らして耐えた。そんなこと考えてる場合じゃないし。
一方、おじさんはそれどころじゃないくらいに驚いていた。ここまでくるとさすがに失礼じゃないか?
「そうか……エヴィ……毎日傷だの泥だのくっつけて遊び回ってたお前がなァ……ちょっと前までおむつ履いた赤ん坊だったってのに……」
「それ、いつまでネタにする気なの……?」
「生きてる限りは言い続けるぜおれァ」
「さ、最悪だ……」
感慨深そうに言われても私にとって恥ずかしいエピソードでしかない。でもこのままふざけて終われるのならいいか、と思った。茶化して誤魔化して、どうにかこの場を切り抜けたかった。
おじさんはそんな私を許してはくれなかった。冗談めかした口調なのに、細めた目は暗い。見え隠れする憎しみにぞっとする。
「本当にあのガキでいいのかァ? お前なら他にいくらでもいい男が、」
「私はホーキンスがいいの」
「……そうかよ。趣味悪いぜまったく」
私がばっさりと切り捨てると、彼は当てこするような返事をこぼす。その声色は生まれてこのかた向けられたことのない侮蔑に満ちていて、思わず息が止まる。おじさんは私の様子を見て、慌てて「そんな顔させたかったんじゃなくてよォ……」と付け加えた。
「おれはただ、お前が騙されてるんじゃねェかって心配なんだ。よくわかんねェ奴らだし、呪いとか魔術とか、怪しいモンで惑わされたっておかしくねェ」
「少なくとも、私はおじさんよりあの人たちを知ってるけど……そういうことするタイプじゃないと思うよ。占い上手な一家って感じで」
「それならなんで……わりィわりィ、エヴィに言ったって意味ねェよな。気にしないでくれ」
気にせずいられるわけがないけれど、これ以上私が何を言ったところでおじさんの価値観は変わらないと思い、口を閉じた。いつから彼はバジル家を憎むようになったのだろう。私が生まれる前からすでに始まっていたのかも。長く降り積もってきた不満を解消するには、ここで押し問答をしたところで到底意味がない。
私は一つだけ訊ねた。
「今の私、不幸に見える?」
「……いいや、付き合いたての頃にありがちな、浮かれきった顔してやがる」
「それだけ幸せってことだよ。私、後悔なんてしてないよ」
「ハァ……」
ため息をつかれてしまった。
やめときゃよかったって思うのは手遅れになってからなんだぜ、とおじさんは言う。恋愛とはそういうものなのだと。
付き合ったばかりの頃は相手の欠点すらかわいく見えたのに、次第に恋の魔法が解け、嫌なところばかりが目につくようになる。そうなってからじゃ遅いんだ、との言葉の後に、彼はこう続けた。
「あのガキはお前を手放しちゃくれねェだろう。逃げるなら今しかない」
憎悪というより恋愛論めいた話だったため神妙に聞き入っていたところ、突然そんなことを言われた私は曖昧に微笑んだ。手放す気がないのは私も同じだ。おじさんや他の「助言」をくれる人はホーキンスのことばかり悪しざまに言うが、私だってそれなりに執着というものがある。ホーキンスが本当に悪い男ならば、その方が気楽に愛せる。手放さないでいてくれるのなら喜んでその胸に飛び込もう。
反応に困って笑ったと思われたのか、おじさんから念押しされる。
「とにかく、やばいことに巻き込まれねェようにしとけよ」
「やばいこと?」
「……なんでもねェ。さ、早く帰って飯の準備でもしてきな」
おじさんは私から目をそらし、追い払うように手を振った。確かに長居しすぎてしまった。買い物袋を持ち直し、次の店に向かう。その前に。
呼びかけると、彼は怪訝そうに目線をやった。押しつけがましいことだと分かっている。でもこれだけは言っておきたかった。
「見てて! 私、絶対絶対ぜーったい幸せになるから! ホーキンスを選んでよかったなって言わせてみせるよ!」
明るく宣言した私をおじさんは驚いたように見つめ、何か言おうと口をもごもごさせた後、考え込むように目を伏せたのだった。
*****
なぜ屋敷へ通うようになったのか。
事の起こりは、ホーキンスのお父さんから手紙が届いた、というか、手紙を持った彼本人が家に来たことだった。お付きの人に日傘をさしてもらいながら、手土産片手に現れた。ちょうど家にいた両親が揃って悲鳴をあげるくらいには度肝を抜かれる登場だった。
「やあ! 前に言った通り、手紙を届けに来たよ」
「ち、直接来るとは聞いてないんですが」
「気が変わったんだ。説明するには会って話した方がいいと思ってね」
慌てる両親に「お構いなく」と声をかけながら、彼は真っ先に私の前へと歩いてくる。
せっかく書いたんだし、まずは読んでみてよ。そう言って渡された手紙は紋章の刻まれた封蝋で閉じられている。ナイフを使って開けようとする私の手は震えていた。頼み事といってもこんな仰々しい形でやってくると思わなかった。いったい何をやらされるんだろう。
怯えながら開いた手紙を読み進め、ホーキンスのお父さんの顔を見る。読み終えた私は別の意味で震えていた。彼は穏やかに微笑み、私と両親に向けて詳細を語り出した。
届けられた手紙とホーキンスのお父さん本人の話の内訳は、バジル家の花嫁として本格的な教育を行うために娘さん、つまりは私をお借りしたい、というものだった。別に屋敷に引っ越せというわけではなく、家から通う形で学びに来ないか、という誘い。「ぼくとしては、もう君の部屋を用意しても構わないのだけどね」なんて言われたが、さすがに気が早いと断った。いや、本当に気が早すぎる。そりゃあいずれは、その、結婚とかいろいろしたいなと思っているけれど、まだ付き合ったばかりだし。
脳内の理性とは裏腹にデレデレした顔になっていたのだろう。両親はそんな私に呆れつつも、迷うことなく頭を下げた。
「抜けたところのある娘ですが、どうかよろしくお願いします」
「こちらこそ。あなたたちにもいろいろ負担をかけちゃうだろうけど、全力で二人を支えていきますから」
自分の親と恋人の親が会話しているというのはどうも気恥ずかしく、壁近くで待機を命じられた使用人さんの横に並んで立つ。どう話しかけようか迷っているうちに、親たちの間では「前にお会いしたのは占いの依頼をしにいらした時ですよね」なんて思い出話が始まった。なんでも、生まれたばかりの私の人生がどうなるかの確認と名付けを頼んだらしい。名付け親ということになるのか、と眺めていると、視線に気づいた彼が私に話を振った。
「早速今から来てみない? ……っと、そうだ、ぼくはまだご両親と話したいことがあるから、エヴィは先に向かっててくれ。案内頼んだよ」
「お任せください」
了承の返事をする前に私はお付きの人と二人、家の外へと押し出されてしまった。顔を見合わせ会釈する。前にも使用人さんがうちに来たことがあったが、その時とは別の人だ。表情や立ち振る舞いはそっくりなあたり、そういう指導を受けているのかもしれない。
屋敷までの道中、使用人さんは教育の詳細を端的に教えてくれた。
「ホーキンス様の隣に立つために必要な知識を全て習得していただきます」
「全て」
「礼儀作法をはじめとした、さまざまな分野に触れていただくことになるでしょう。占術に関しては基礎のみでいいと伺っております」
「料理とか洗濯とかは……」
「私共の仕事です」
「ですよね……」
これまでの経験が通用しない世界。知らないことばかりのその場所に恐れを抱いていないと言えば嘘になる。でも、「ホーキンスの隣に立つ」ためならば。私にもできることがあるなら、踏み出してみたいと思える。
門を通り抜け、庭を進み、屋敷に迎え入れられる。
幼い頃から何度も目にした光景だ。けれども今日は、私がいずれ家族になる者として扱われた最初の日。少しの緊張と共に歩く。整えられた道を踏んでいるはずなのに、どことなく雲の上にいるような心地になる。
屋敷の扉を開ける直前、使用人さんが振り向いた。
「エヴィ様」
「はい、なんでしょう?」
「今から未経験の分野の知識を詰め込めというのは酷ですが、あなたならきっとやり遂げられます。どうか、挫折なさいませんように」
励ましの言葉を贈る時でもニコリともしない。そんな様子がホーキンスとよく似ていたから、私は心の底からの笑みで頷くことができたのだ。
*****
花嫁修業改め勉強の日々が続いてしばらくたった頃。廊下ですれ違ったホーキンスのお父さんは、手紙を渡しに来た時のことを思い返しながら眉を下げて笑った。
「あの時はねェ、ぼくってそんなに歓迎されない存在なのかってちょっと落ちこんじゃったよ」
「そうは見えませんでしたけど?」
「大人になると、笑顔でぜーんぶ隠せるようになるのさ」
「隠す、か……私もできるようにならなきゃいけませんね」
「そんなことしなくて大丈夫。君は君のままでいいんだよ。ほら、次は医学の勉強だろ。いっておいで」
彼は優しい顔で私の背中を押す。こうして話す機会が増えた今でも、彼のことはよく分からないままだ。でも「そのままでいい」という言葉が本心から発されたものだと信じたくて、元気に返事をする。求められているのが「自然な私」ならば、きっとこれが正解のはず。
窓から差し込む日差しの強さを感じながら、学習用に設けられた一室へ戻る。教科書一冊分も学びきれていないのに、季節はあっという間に過ぎ去っていく。ホーキンスが正式な当主となるまでに、私の準備が何一つ間に合っていなかったらどうしよう。
「おれが十分な力をつけるにはまだ時間がかかる。そう焦るな」
以前ホーキンスにそう言われたけれど、彼は日々目覚ましい成長を遂げている。今だって屋敷のどこかで能力の制御や占いの技術向上のための特訓をしているはずなのだ。数年後かもしれないし、明日かもしれない。……当主に必要な「力」の意味すらよく分かっていないせいか、不安は増すばかりで。
同じ屋根の下にいても、これだけ広いとなると彼に会えないまま一日が終わってしまいそうだ。お互い頑張らなきゃいけない時期だし、勉強に集中すれば不安も薄れるだろう。
教科書と筆記用具の準備をした私は、そうして気持ちを切り替えて先生を出迎えた。
――――あの日の使用人さんが言った通り、私は学ばなくちゃいけないことが山ほどあった。といっても、貴族が行うようなことは基本的なマナーくらいなもので、あとはひたすら勉強漬け。村では基本的な読み書きと生活で用いる程度の算数ができればいいとされていたけれど、ここでは文字がみっしりと並んだ本を渡される。これでも初心者向けらしい。
淑女とまでは言わずとも、当主の隣に立って違和感のない振る舞いができるようにと組まれた学習内容らしいのだが、もっとこう……おしとやかな振る舞いとかを学ぶのかと思っていた。そういった礼儀作法は確かに学んでいるものの、元々村中を駆け回っていた女を上品に鍛えなおすには十分とは言えない学習量だったので余計不思議に思う。
語学、経済学、天文学、と幅広い学問に加え、北の海や世界の情勢の把握まで詰め込まれる毎日。本来なら幼少期から取り組むべき内容をこの年で始めているわけだし、間に合わせるためには仕方ないスピードだ。納得はしている。私がやりきれるかは……弱音を吐いていてはいけない。そんな時間があるのなら、出された課題を一つでもこなさなくちゃ。
教わる分野の数だけ先生がいる。多くはその道に長けた使用人さんが先生役を務めてくれるのだが、その中の一人はバジル家専属のお医者様だった。
当初、単なる顔合わせかと思って愛想よくしていた私は「今日からわしも指導にあたることになった」なんて言われて愕然とした。
どうやら花嫁修業には医療技術の習得も含まれるらしい。一般的な花嫁とは違う能力も求められるということなのだろう。新聞の記事をなんとか理解できる程度の私にとって、あまりに難易度が高い。断るわけにはいかないが、いやでも、これは厳しいのでは……。
あからさまに顔色を悪くした私に、そう気負いすぎないで、と声がかけられる。お医者様を連れてきた張本人であるホーキンスのお父さんが、緊張をほぐすように微笑んだ。
「君には簡単な手当てもできるようになってもらいたくてね」
「手当て、ですか? 先生がいらっしゃるのに?」
「もしもの時に備えて、ホーキンスの治療ができる人材は多い方がいいんだ。それに、あの子は顔に出ないタイプだろ? 体調の変化にも気づけるようになってくれたら助かるな」
あくまでも私はお医者様改め先生の補助ができればいいとのことで、躊躇いも消えた。補助だって大変な仕事だけど、本職のお医者様を目指すよりはまだなんとかなりそうだ。
――――この時はそんな甘い考えを持っていた。大怪我も大病もしたことのない私には、治療というのは包帯を巻くだとか、薬を渡すだとか、ふんわりとした認識しかなかったのである。
「ここ、また間違えておるぞ」
「は、はいっ!」
「頑張りは認めるが、この調子じゃ先が思いやられるのォ……」
治療とは大量の知識と経験に基づいて行われるのだ。知れば知るほど自分の無知を自覚する。何もわからない。読めるのに何を言ってるか理解できない。ひいひい言いながら課題に向き合う。また間違える。
求められているのは絶対手当てだけじゃない。私はいすれホーキンスの妻ではなく医者として開業することになるのではないだろうか。医者見習いとも呼べない序盤の段階で躓くなんて本当に大丈夫なのか? 頭の中は混乱を極めていた。
やるしかないのは分かっているけど、やっぱり前途多難だ。
*****
「――じゃあ、今日はここまで。次の者が来るまでの間は自由時間とする」
「ご指導ありがとうございました」
先生を見送ってから、椅子に座ったまま大きく伸びをする。ご指導のおかげでほんのちょっと、髪の毛一本分くらいは理解できたので苦痛はないが、長時間頭を働かせるのはやっぱり疲れる。
気分転換がてら部屋を出て廊下をぶらぶら歩く。窓の外は快晴。小さい頃ならすぐさま飛び出していっただろう。今もその性質の名残はあるが。
いくつもの扉の横を通り抜けていく中、途中でとある部屋を見かけた。私はしばしの間悩んだ末、ドアノブに手をかけた。
足を踏み入れたのはバジル家の書庫だ。壁一面どころか部屋いっぱいに本棚が並ぶ場所。村中の本をかき集めてもここの本の数には負けそうだ。
私の背よりも大きな本棚の隙間をゆっくりと進む。昔の本も保管されているからか、少し埃っぽい。休み時間はたいていここで自習をしているのだが、インクや紙の匂いで満ちた空間は何度訪れてもそわそわする。
背表紙を流し読みする。あらゆる土地の占いの本はもちろん、村の歴史資料もあるし、背表紙からして異様な雰囲気を漂わせた呪い関連の本も並んでいた。呪いとは無縁の人生を送ってきた身としては少し気になる。ためらいがちに手を伸ばせば――――。
「触らない方がいい」
背後から突然声を掛けられ飛び上がる。声にならない笑いをかみ殺しながら、ホーキンスは「お前では耐えられない代物だ。やめておけ」と続けた。
「びっ、くりした……急に話しかけないでよ……」
「おれの足音にも気づかないほど集中していたのか。熱心だな」
「こっそり近づいてきたでしょ」
「さあな」
そう言うホーキンスの口角は若干上がっていた。彼を一目見ただけでここ数日の疲れが吹き飛んだ自分に少し笑ってしまう。
ゆるいウェーブを描く金髪が彼の身じろぎに合わせて揺れる。本棚の影にいてもその艶は衰えない。生まれつきの髪質からして違うのか。彼が現れただけで辺りの空気まで変わったような気がした。
彼がすぐ隣にまでやってきたので、さっき触ろうとした本を二人並んで眺める。
「読んだことあるの? この本」
「ここに収められている本は全て読破した。それは呪いを本職とする者以外には必要のない本だ。忘れろ」
「本の存在を?」
「そうだ」
そんな恐ろしいものをこんな手に取りやすい場所に置いておかないでほしい。ビビって若干の距離を置いた私に、からかうような視線が刺さる。
ホーキンスが私の名前を呼んだので顔を向ければ、彼は真正面からまじまじと見つめてきた。
「疲労が顔に出ているな」
「慣れないことばっかりだからねェ。でもいろいろ学べて楽しいよ」
「根を詰めすぎるなよ。倒れては元も子もない」
「そっちこそ。全然見かけないから、今日は会えないのかと思っちゃった」
「おれの時間はどうとでも都合をつけられる。お前の邪魔をすべきではないと出たから自制したまでだ……おれがどれだけお前を想っていたか知らないだろう」
「知らないなァ。教えてよ」
とぼけながらホーキンスに抱きつく。彼からも手が回され、ぎゅうぎゅうと抱きしめあう。彼の体は能力同様成長期に入っている。背丈はそう変わらないのに、こうして抱きしめると硬いというか、筋肉を感じて「男の子だな」と思う。
首筋に顔を埋めると髪の毛が当たってくすぐったい。自分以外の香りに包まれる。
「私、ホーキンスのお嫁さんになるために努力してるんだし、ちょっとくらいご褒美くれてもいいんじゃない?」
自分の望みをストレートに伝えるというのは、まだまだ私には難しい。顔を見たままでは照れるようなことだって、この体勢なら言える。
またからかわれるかと思ったが、彼の手のひらは私の頭を優しく撫でた。耳元でそっと囁かれる。声変わりを終えた低音に、ああ好きだ、と思う。
「エヴィ」
「ん」
「お前と会える距離にいるのに顔すら見られず気が狂いそうだった」
「……そのうち、嫌でも毎日顔を合わせるようになるよ」
「何年先の話だ、それは。……まァここまで待ったんだ。あと数年くらい耐えてみせる」
二人で生きていくには必要なことだと理解している、と呟く声色は平坦ながら苦渋に満ちていた。彼につらい思いをさせている申し訳なさと、どこからかこみ上げてくる喜びが心の内で混ざり合う。
彼の髪から漂う落ち着いた香りが肺に、体に染みこんでいく。
「お前がいない人生など考えられない」
私も。
思わず出た声があまりにうっとりとしていて、我ながら恥ずかしくなった。ホーキンスは顔が見える位置まで下がると目を細め、仕上げと言わんばかりに私の耳に触れた。
「どうだ。褒美とやらになったか」
「えへへ……もっと頑張ろうって思えた。ありがと」
お礼になるか分からないけど頬に軽く口づける。そのまま戯れのようなキスを繰り返す。彼の手のひらはいまだとろとろと熱を与える動きをしていて、なんだか変な気分になってきた。これ以上は危ない気がする。場所が場所だし、一旦切り上げた方がよさそうだ。
「……満足したからもう放していいよ」
「おれはまだ満足していない」
「そうなの? でももう休憩時間終わっちゃうし……」
「この状態を見せつければ多少の融通はきくだろう」
「見せるのは無し! おしまい!」
「今更何を恥じらっているんだ」
「それとこれとは話が別!」
どうにかホーキンスを引き剥がしたものの、彼と手を繋いで書庫を出る羽目になった。手を繋ぐことが嫌なわけではない。全然ない。そのため振り払うこともできない。
私を呼びに来た使用人さんがそれを見て生暖かい視線を向けてくる。ホーキンスを小突いても、彼は愉快そうな笑みを浮かべるだけだった。
かつての遊び場が小さな花で埋め尽くされているのを、そしてその上を容赦なく走り回る子どもたちを見て、季節の変化を感じ取る。もう私はここで追いかけっこをすることはないけれど、同じ遊びをしているところを見るとなぜだかこちらまで楽しくなってしまう。当時の記憶を思い出すからだろうか。
彼らを横目に、店が立ち並ぶ通りへと向かう。今日は私が夕飯を作る日なのだ。最近家にいない時間が多いし、美味しいご飯で家族に恩返ししたいな。そんなことを考えながら、買い物袋を片手に足取り軽く歩いていった。
大通りは今日も賑やかだ。豊かな国の町と比べたらそりゃ閑散としているが、この村にしては人が多い時間帯。すれ違う人皆知り合いなので、挨拶や世間話をこなしながら店を物色する。
お母さんに散々叩き込まれたレシピを脳内に浮かべ、店頭に並ぶ品々で何が作れるかを考える。アレンジをするなと死ぬほど言われてきた身だ。下手に違う材料へ置き換えない方がいいのかもしれない。
店を覗いては唸る私に、色とりどりの野菜を取り扱う店主――ひいては、昔から親しい仲であるおじさんが話しかけてきた。
「よォエヴィ! 今日はこいつがおすすめだぜ! 煮ても焼いても美味くなる! お前みたいな料理下手でもな!」
「そんな下手じゃないっての! ……一つください」
「ダハハ! まいどあり! おまけもつけといてやるからそう怒るなよォ」
おじさんはそう言ってゲラゲラ笑いながら商品を袋に詰めてくれた。最近仕入れたんだという果物もいくつか放り込まれる。これはデザートとして出してみよう。
彼は気前の良い人で、こうして買い物に来た時はもちろん、プライベートで出くわした時にも「他のやつには内緒だぞ」なんてこっそりお菓子をくれたりもする。村の中でも特に私を気にかけてくれるし仲も良好なのだが、度々「お前のおむつを変えたことだってあるんだぞ」などとデリカシーの無い発言をするところは玉にキズである。
他にお客さんが来ないのをいいことに店先へ留まる。新聞の記事やら最近の村の噂やらで話が弾み、途中話題が途切れると、思いついたように私への質問が投げかけられた。
「そういや、近頃
「そうなの。いろいろ教わってるんだ」
「……大丈夫なのか?」
一段と低い声でぼそっと呟かれたのは、私の身を案じる言葉だった。商売人としての明るい笑顔を保ちながらもおじさんの目は笑っていない。村の中で時折目の当たりにする遠回しの悪意がしわくちゃの顔に浮かんでいた。
バジル家と親交がある人も、なんの感情も抱いていない人も、よく思っていない人も、皆この村で生きている。ホーキンスを通じてバジル家と関わるようになった私はふとした瞬間、そんな人々の違いに晒される。もっとも、こういう状態に気づいたのだって最近のことだ。悪口を言っていないからといって味方とは限らないのだと気づくのが遅すぎた。私が「ホーキンスの恋人」になったと明言した時の反応で、目の前の人がホーキンスを、バジル家をどう思っているか分かるようになってしまった。
皆、私への態度は変わらない。優しいままだ。あくまでも助言という体で、さりげなく言葉の端々に非難の色を乗せる人が出るようになっただけ。
気づけるようになった私は、今のおじさんの反応が決していいものでないと悟った。これまで一度だってそういう素振りは見せなかったけれど、嫌悪をうまく隠していたのか。その態度を悲しむと同時に、今までの自分の振る舞いが彼の負担になっていたのではと焦りだす。何度か惚気話をした気がする。私は私の好きな人を好きになってもらいたい。でも、無理強いするのは嫌だ。
私は困惑しながらも彼を見返し、誤解を解こうと口を開いた。もしかしたら何か勘違いしてるのかも、と一縷の望みにかけて。
「変なことは何も無いよ? 普通の、なんていうか……花嫁修業、的な」
「は、花嫁修業!? お前が!?」
「声がでかい! 驚くほどのことじゃないでしょ……私だって、もうそういう年頃なんだし」
自分で言いながら不思議な気持ちになる。私ってもうすぐ結婚できる年齢になるんだ。
数歳年上の友達のほとんどが結婚して家庭を持っている。私も遠からずそうなるはず……なのだが、どうにもまだ実感が湧かない。ホーキンスと恋人になってからまだそんなに経っていないというのもあるのだろう。「恋人」という関係に浮かれていて、結婚や家庭といった地に足ついたもののことまで考えられていないのだ。ありがたいことに、ホーキンスや彼のお父さん、私の両親含めいろんな人が私の分まで先を見据えて動いてくれている。感謝だけじゃなく、自分でも意識を切り替えていかなくてはならないのだけれど。
花嫁、とどこかきらきらした響きを口の中で転がす。私、ホーキンスの花嫁になっていいんだ。彼を支えるための勉強をしていい立場なんだ。思わずにやけそうになったが、買い物袋を揺らして耐えた。そんなこと考えてる場合じゃないし。
一方、おじさんはそれどころじゃないくらいに驚いていた。ここまでくるとさすがに失礼じゃないか?
「そうか……エヴィ……毎日傷だの泥だのくっつけて遊び回ってたお前がなァ……ちょっと前までおむつ履いた赤ん坊だったってのに……」
「それ、いつまでネタにする気なの……?」
「生きてる限りは言い続けるぜおれァ」
「さ、最悪だ……」
感慨深そうに言われても私にとって恥ずかしいエピソードでしかない。でもこのままふざけて終われるのならいいか、と思った。茶化して誤魔化して、どうにかこの場を切り抜けたかった。
おじさんはそんな私を許してはくれなかった。冗談めかした口調なのに、細めた目は暗い。見え隠れする憎しみにぞっとする。
「本当にあのガキでいいのかァ? お前なら他にいくらでもいい男が、」
「私はホーキンスがいいの」
「……そうかよ。趣味悪いぜまったく」
私がばっさりと切り捨てると、彼は当てこするような返事をこぼす。その声色は生まれてこのかた向けられたことのない侮蔑に満ちていて、思わず息が止まる。おじさんは私の様子を見て、慌てて「そんな顔させたかったんじゃなくてよォ……」と付け加えた。
「おれはただ、お前が騙されてるんじゃねェかって心配なんだ。よくわかんねェ奴らだし、呪いとか魔術とか、怪しいモンで惑わされたっておかしくねェ」
「少なくとも、私はおじさんよりあの人たちを知ってるけど……そういうことするタイプじゃないと思うよ。占い上手な一家って感じで」
「それならなんで……わりィわりィ、エヴィに言ったって意味ねェよな。気にしないでくれ」
気にせずいられるわけがないけれど、これ以上私が何を言ったところでおじさんの価値観は変わらないと思い、口を閉じた。いつから彼はバジル家を憎むようになったのだろう。私が生まれる前からすでに始まっていたのかも。長く降り積もってきた不満を解消するには、ここで押し問答をしたところで到底意味がない。
私は一つだけ訊ねた。
「今の私、不幸に見える?」
「……いいや、付き合いたての頃にありがちな、浮かれきった顔してやがる」
「それだけ幸せってことだよ。私、後悔なんてしてないよ」
「ハァ……」
ため息をつかれてしまった。
やめときゃよかったって思うのは手遅れになってからなんだぜ、とおじさんは言う。恋愛とはそういうものなのだと。
付き合ったばかりの頃は相手の欠点すらかわいく見えたのに、次第に恋の魔法が解け、嫌なところばかりが目につくようになる。そうなってからじゃ遅いんだ、との言葉の後に、彼はこう続けた。
「あのガキはお前を手放しちゃくれねェだろう。逃げるなら今しかない」
憎悪というより恋愛論めいた話だったため神妙に聞き入っていたところ、突然そんなことを言われた私は曖昧に微笑んだ。手放す気がないのは私も同じだ。おじさんや他の「助言」をくれる人はホーキンスのことばかり悪しざまに言うが、私だってそれなりに執着というものがある。ホーキンスが本当に悪い男ならば、その方が気楽に愛せる。手放さないでいてくれるのなら喜んでその胸に飛び込もう。
反応に困って笑ったと思われたのか、おじさんから念押しされる。
「とにかく、やばいことに巻き込まれねェようにしとけよ」
「やばいこと?」
「……なんでもねェ。さ、早く帰って飯の準備でもしてきな」
おじさんは私から目をそらし、追い払うように手を振った。確かに長居しすぎてしまった。買い物袋を持ち直し、次の店に向かう。その前に。
呼びかけると、彼は怪訝そうに目線をやった。押しつけがましいことだと分かっている。でもこれだけは言っておきたかった。
「見てて! 私、絶対絶対ぜーったい幸せになるから! ホーキンスを選んでよかったなって言わせてみせるよ!」
明るく宣言した私をおじさんは驚いたように見つめ、何か言おうと口をもごもごさせた後、考え込むように目を伏せたのだった。
*****
なぜ屋敷へ通うようになったのか。
事の起こりは、ホーキンスのお父さんから手紙が届いた、というか、手紙を持った彼本人が家に来たことだった。お付きの人に日傘をさしてもらいながら、手土産片手に現れた。ちょうど家にいた両親が揃って悲鳴をあげるくらいには度肝を抜かれる登場だった。
「やあ! 前に言った通り、手紙を届けに来たよ」
「ち、直接来るとは聞いてないんですが」
「気が変わったんだ。説明するには会って話した方がいいと思ってね」
慌てる両親に「お構いなく」と声をかけながら、彼は真っ先に私の前へと歩いてくる。
せっかく書いたんだし、まずは読んでみてよ。そう言って渡された手紙は紋章の刻まれた封蝋で閉じられている。ナイフを使って開けようとする私の手は震えていた。頼み事といってもこんな仰々しい形でやってくると思わなかった。いったい何をやらされるんだろう。
怯えながら開いた手紙を読み進め、ホーキンスのお父さんの顔を見る。読み終えた私は別の意味で震えていた。彼は穏やかに微笑み、私と両親に向けて詳細を語り出した。
届けられた手紙とホーキンスのお父さん本人の話の内訳は、バジル家の花嫁として本格的な教育を行うために娘さん、つまりは私をお借りしたい、というものだった。別に屋敷に引っ越せというわけではなく、家から通う形で学びに来ないか、という誘い。「ぼくとしては、もう君の部屋を用意しても構わないのだけどね」なんて言われたが、さすがに気が早いと断った。いや、本当に気が早すぎる。そりゃあいずれは、その、結婚とかいろいろしたいなと思っているけれど、まだ付き合ったばかりだし。
脳内の理性とは裏腹にデレデレした顔になっていたのだろう。両親はそんな私に呆れつつも、迷うことなく頭を下げた。
「抜けたところのある娘ですが、どうかよろしくお願いします」
「こちらこそ。あなたたちにもいろいろ負担をかけちゃうだろうけど、全力で二人を支えていきますから」
自分の親と恋人の親が会話しているというのはどうも気恥ずかしく、壁近くで待機を命じられた使用人さんの横に並んで立つ。どう話しかけようか迷っているうちに、親たちの間では「前にお会いしたのは占いの依頼をしにいらした時ですよね」なんて思い出話が始まった。なんでも、生まれたばかりの私の人生がどうなるかの確認と名付けを頼んだらしい。名付け親ということになるのか、と眺めていると、視線に気づいた彼が私に話を振った。
「早速今から来てみない? ……っと、そうだ、ぼくはまだご両親と話したいことがあるから、エヴィは先に向かっててくれ。案内頼んだよ」
「お任せください」
了承の返事をする前に私はお付きの人と二人、家の外へと押し出されてしまった。顔を見合わせ会釈する。前にも使用人さんがうちに来たことがあったが、その時とは別の人だ。表情や立ち振る舞いはそっくりなあたり、そういう指導を受けているのかもしれない。
屋敷までの道中、使用人さんは教育の詳細を端的に教えてくれた。
「ホーキンス様の隣に立つために必要な知識を全て習得していただきます」
「全て」
「礼儀作法をはじめとした、さまざまな分野に触れていただくことになるでしょう。占術に関しては基礎のみでいいと伺っております」
「料理とか洗濯とかは……」
「私共の仕事です」
「ですよね……」
これまでの経験が通用しない世界。知らないことばかりのその場所に恐れを抱いていないと言えば嘘になる。でも、「ホーキンスの隣に立つ」ためならば。私にもできることがあるなら、踏み出してみたいと思える。
門を通り抜け、庭を進み、屋敷に迎え入れられる。
幼い頃から何度も目にした光景だ。けれども今日は、私がいずれ家族になる者として扱われた最初の日。少しの緊張と共に歩く。整えられた道を踏んでいるはずなのに、どことなく雲の上にいるような心地になる。
屋敷の扉を開ける直前、使用人さんが振り向いた。
「エヴィ様」
「はい、なんでしょう?」
「今から未経験の分野の知識を詰め込めというのは酷ですが、あなたならきっとやり遂げられます。どうか、挫折なさいませんように」
励ましの言葉を贈る時でもニコリともしない。そんな様子がホーキンスとよく似ていたから、私は心の底からの笑みで頷くことができたのだ。
*****
花嫁修業改め勉強の日々が続いてしばらくたった頃。廊下ですれ違ったホーキンスのお父さんは、手紙を渡しに来た時のことを思い返しながら眉を下げて笑った。
「あの時はねェ、ぼくってそんなに歓迎されない存在なのかってちょっと落ちこんじゃったよ」
「そうは見えませんでしたけど?」
「大人になると、笑顔でぜーんぶ隠せるようになるのさ」
「隠す、か……私もできるようにならなきゃいけませんね」
「そんなことしなくて大丈夫。君は君のままでいいんだよ。ほら、次は医学の勉強だろ。いっておいで」
彼は優しい顔で私の背中を押す。こうして話す機会が増えた今でも、彼のことはよく分からないままだ。でも「そのままでいい」という言葉が本心から発されたものだと信じたくて、元気に返事をする。求められているのが「自然な私」ならば、きっとこれが正解のはず。
窓から差し込む日差しの強さを感じながら、学習用に設けられた一室へ戻る。教科書一冊分も学びきれていないのに、季節はあっという間に過ぎ去っていく。ホーキンスが正式な当主となるまでに、私の準備が何一つ間に合っていなかったらどうしよう。
「おれが十分な力をつけるにはまだ時間がかかる。そう焦るな」
以前ホーキンスにそう言われたけれど、彼は日々目覚ましい成長を遂げている。今だって屋敷のどこかで能力の制御や占いの技術向上のための特訓をしているはずなのだ。数年後かもしれないし、明日かもしれない。……当主に必要な「力」の意味すらよく分かっていないせいか、不安は増すばかりで。
同じ屋根の下にいても、これだけ広いとなると彼に会えないまま一日が終わってしまいそうだ。お互い頑張らなきゃいけない時期だし、勉強に集中すれば不安も薄れるだろう。
教科書と筆記用具の準備をした私は、そうして気持ちを切り替えて先生を出迎えた。
――――あの日の使用人さんが言った通り、私は学ばなくちゃいけないことが山ほどあった。といっても、貴族が行うようなことは基本的なマナーくらいなもので、あとはひたすら勉強漬け。村では基本的な読み書きと生活で用いる程度の算数ができればいいとされていたけれど、ここでは文字がみっしりと並んだ本を渡される。これでも初心者向けらしい。
淑女とまでは言わずとも、当主の隣に立って違和感のない振る舞いができるようにと組まれた学習内容らしいのだが、もっとこう……おしとやかな振る舞いとかを学ぶのかと思っていた。そういった礼儀作法は確かに学んでいるものの、元々村中を駆け回っていた女を上品に鍛えなおすには十分とは言えない学習量だったので余計不思議に思う。
語学、経済学、天文学、と幅広い学問に加え、北の海や世界の情勢の把握まで詰め込まれる毎日。本来なら幼少期から取り組むべき内容をこの年で始めているわけだし、間に合わせるためには仕方ないスピードだ。納得はしている。私がやりきれるかは……弱音を吐いていてはいけない。そんな時間があるのなら、出された課題を一つでもこなさなくちゃ。
教わる分野の数だけ先生がいる。多くはその道に長けた使用人さんが先生役を務めてくれるのだが、その中の一人はバジル家専属のお医者様だった。
当初、単なる顔合わせかと思って愛想よくしていた私は「今日からわしも指導にあたることになった」なんて言われて愕然とした。
どうやら花嫁修業には医療技術の習得も含まれるらしい。一般的な花嫁とは違う能力も求められるということなのだろう。新聞の記事をなんとか理解できる程度の私にとって、あまりに難易度が高い。断るわけにはいかないが、いやでも、これは厳しいのでは……。
あからさまに顔色を悪くした私に、そう気負いすぎないで、と声がかけられる。お医者様を連れてきた張本人であるホーキンスのお父さんが、緊張をほぐすように微笑んだ。
「君には簡単な手当てもできるようになってもらいたくてね」
「手当て、ですか? 先生がいらっしゃるのに?」
「もしもの時に備えて、ホーキンスの治療ができる人材は多い方がいいんだ。それに、あの子は顔に出ないタイプだろ? 体調の変化にも気づけるようになってくれたら助かるな」
あくまでも私はお医者様改め先生の補助ができればいいとのことで、躊躇いも消えた。補助だって大変な仕事だけど、本職のお医者様を目指すよりはまだなんとかなりそうだ。
――――この時はそんな甘い考えを持っていた。大怪我も大病もしたことのない私には、治療というのは包帯を巻くだとか、薬を渡すだとか、ふんわりとした認識しかなかったのである。
「ここ、また間違えておるぞ」
「は、はいっ!」
「頑張りは認めるが、この調子じゃ先が思いやられるのォ……」
治療とは大量の知識と経験に基づいて行われるのだ。知れば知るほど自分の無知を自覚する。何もわからない。読めるのに何を言ってるか理解できない。ひいひい言いながら課題に向き合う。また間違える。
求められているのは絶対手当てだけじゃない。私はいすれホーキンスの妻ではなく医者として開業することになるのではないだろうか。医者見習いとも呼べない序盤の段階で躓くなんて本当に大丈夫なのか? 頭の中は混乱を極めていた。
やるしかないのは分かっているけど、やっぱり前途多難だ。
*****
「――じゃあ、今日はここまで。次の者が来るまでの間は自由時間とする」
「ご指導ありがとうございました」
先生を見送ってから、椅子に座ったまま大きく伸びをする。ご指導のおかげでほんのちょっと、髪の毛一本分くらいは理解できたので苦痛はないが、長時間頭を働かせるのはやっぱり疲れる。
気分転換がてら部屋を出て廊下をぶらぶら歩く。窓の外は快晴。小さい頃ならすぐさま飛び出していっただろう。今もその性質の名残はあるが。
いくつもの扉の横を通り抜けていく中、途中でとある部屋を見かけた。私はしばしの間悩んだ末、ドアノブに手をかけた。
足を踏み入れたのはバジル家の書庫だ。壁一面どころか部屋いっぱいに本棚が並ぶ場所。村中の本をかき集めてもここの本の数には負けそうだ。
私の背よりも大きな本棚の隙間をゆっくりと進む。昔の本も保管されているからか、少し埃っぽい。休み時間はたいていここで自習をしているのだが、インクや紙の匂いで満ちた空間は何度訪れてもそわそわする。
背表紙を流し読みする。あらゆる土地の占いの本はもちろん、村の歴史資料もあるし、背表紙からして異様な雰囲気を漂わせた呪い関連の本も並んでいた。呪いとは無縁の人生を送ってきた身としては少し気になる。ためらいがちに手を伸ばせば――――。
「触らない方がいい」
背後から突然声を掛けられ飛び上がる。声にならない笑いをかみ殺しながら、ホーキンスは「お前では耐えられない代物だ。やめておけ」と続けた。
「びっ、くりした……急に話しかけないでよ……」
「おれの足音にも気づかないほど集中していたのか。熱心だな」
「こっそり近づいてきたでしょ」
「さあな」
そう言うホーキンスの口角は若干上がっていた。彼を一目見ただけでここ数日の疲れが吹き飛んだ自分に少し笑ってしまう。
ゆるいウェーブを描く金髪が彼の身じろぎに合わせて揺れる。本棚の影にいてもその艶は衰えない。生まれつきの髪質からして違うのか。彼が現れただけで辺りの空気まで変わったような気がした。
彼がすぐ隣にまでやってきたので、さっき触ろうとした本を二人並んで眺める。
「読んだことあるの? この本」
「ここに収められている本は全て読破した。それは呪いを本職とする者以外には必要のない本だ。忘れろ」
「本の存在を?」
「そうだ」
そんな恐ろしいものをこんな手に取りやすい場所に置いておかないでほしい。ビビって若干の距離を置いた私に、からかうような視線が刺さる。
ホーキンスが私の名前を呼んだので顔を向ければ、彼は真正面からまじまじと見つめてきた。
「疲労が顔に出ているな」
「慣れないことばっかりだからねェ。でもいろいろ学べて楽しいよ」
「根を詰めすぎるなよ。倒れては元も子もない」
「そっちこそ。全然見かけないから、今日は会えないのかと思っちゃった」
「おれの時間はどうとでも都合をつけられる。お前の邪魔をすべきではないと出たから自制したまでだ……おれがどれだけお前を想っていたか知らないだろう」
「知らないなァ。教えてよ」
とぼけながらホーキンスに抱きつく。彼からも手が回され、ぎゅうぎゅうと抱きしめあう。彼の体は能力同様成長期に入っている。背丈はそう変わらないのに、こうして抱きしめると硬いというか、筋肉を感じて「男の子だな」と思う。
首筋に顔を埋めると髪の毛が当たってくすぐったい。自分以外の香りに包まれる。
「私、ホーキンスのお嫁さんになるために努力してるんだし、ちょっとくらいご褒美くれてもいいんじゃない?」
自分の望みをストレートに伝えるというのは、まだまだ私には難しい。顔を見たままでは照れるようなことだって、この体勢なら言える。
またからかわれるかと思ったが、彼の手のひらは私の頭を優しく撫でた。耳元でそっと囁かれる。声変わりを終えた低音に、ああ好きだ、と思う。
「エヴィ」
「ん」
「お前と会える距離にいるのに顔すら見られず気が狂いそうだった」
「……そのうち、嫌でも毎日顔を合わせるようになるよ」
「何年先の話だ、それは。……まァここまで待ったんだ。あと数年くらい耐えてみせる」
二人で生きていくには必要なことだと理解している、と呟く声色は平坦ながら苦渋に満ちていた。彼につらい思いをさせている申し訳なさと、どこからかこみ上げてくる喜びが心の内で混ざり合う。
彼の髪から漂う落ち着いた香りが肺に、体に染みこんでいく。
「お前がいない人生など考えられない」
私も。
思わず出た声があまりにうっとりとしていて、我ながら恥ずかしくなった。ホーキンスは顔が見える位置まで下がると目を細め、仕上げと言わんばかりに私の耳に触れた。
「どうだ。褒美とやらになったか」
「えへへ……もっと頑張ろうって思えた。ありがと」
お礼になるか分からないけど頬に軽く口づける。そのまま戯れのようなキスを繰り返す。彼の手のひらはいまだとろとろと熱を与える動きをしていて、なんだか変な気分になってきた。これ以上は危ない気がする。場所が場所だし、一旦切り上げた方がよさそうだ。
「……満足したからもう放していいよ」
「おれはまだ満足していない」
「そうなの? でももう休憩時間終わっちゃうし……」
「この状態を見せつければ多少の融通はきくだろう」
「見せるのは無し! おしまい!」
「今更何を恥じらっているんだ」
「それとこれとは話が別!」
どうにかホーキンスを引き剥がしたものの、彼と手を繋いで書庫を出る羽目になった。手を繋ぐことが嫌なわけではない。全然ない。そのため振り払うこともできない。
私を呼びに来た使用人さんがそれを見て生暖かい視線を向けてくる。ホーキンスを小突いても、彼は愉快そうな笑みを浮かべるだけだった。