7.みっつ数えたらきみは僕のもの
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「今日はキスをすると運気が上がるんだ」
だから唇を差し出せ、と。
この少年――バジル・ホーキンスはいけしゃあしゃあと私に言った。
例の宴の日の出来事から少し経ったとある昼間、バジル家の屋敷の庭にて。春が来るにはまだ早いけれど、天気がいいからと外を歩いていた、そんな日。
そう、あの日から少し経っているのである。
――――場の空気に流されつつも友達だった幼馴染にファーストキスを捧げた形になった私は、帰宅してから「やっぱりホーキンスに好きって言われてなくない?」と気がついた。
彼が女にだらしない人だとは思わないが、はっきりとした言葉もなく手を出された――キス一つでと笑わないでほしい、私は真剣なのだ――のは事実で。ホーキンスの気持ちが分からなくなった私は、ベッドの上でジタバタして朝まで寝られなくて。
私に触れたあの指先の優しさも、向けられた熱も、彼からの好意を確信させるものだった。……ほんとに? 周りの反応に舞い上がって、そう見えていただけなんじゃない?
心のどこかで嘲笑う自分がいたものだから、自分が彼の「恋人」になったとは思えなかった。私の気持ちは変化して、ホーキンスもそれに応じて、その先は。応じた、というのも私の思い込みなのではないか。
考えれば考えるほど堂々巡りに陥り、朝日を浴びて唸る。お母さんに呼ばれてしぶしぶ起き上がるまで、頭の中からホーキンスのことが離れなかった。
朝ご飯を食べながら少し落ち着いた私は心の内で決意する。
次会う時はもっと冷静になろう。彼の反応を見逃さないように、落ち着いて訊ねてみよう。あともう流されない! ……少なくとも、「好き」に類する言質を取るまでは。
そうは言っても、すぐに気持ちを切り替えられる訳じゃない。
今ホーキンスに会ったら避けてしまいそうだな、と思ってヒヤヒヤしながら出歩いては、髪の毛一本見かけずに一日を終える。友達や村の人々にホーキンスとの関係を根掘り葉掘り聞かれて焦りつつも対応する。親の手伝いやらなにやらをこなして、今日も彼はいなかった、とモヤモヤした気持ちを抱いてベッドに潜り込む。
そんな日々を繰り返し、気まずさを忘れ、ホーキンスに会いたいという気持ちが溢れそうになった頃。
丘の下の道を歩く私の前に、彼は現れた。
宴以来の再会となったホーキンスは、小憎たらしいくらいに普段通りだった。無表情で、平坦な声で、まるで昨日あったばかりのような自然さで私を屋敷に誘った。今日の運気上昇のための行動はそこでするとのこと。
冷静に対応すると決めていたはずの私はといえば、悲しいかな、会えた喜びで頭がいっぱいになって、反射的に頷いてしまう。長年の積み重ねがここで出た。嫌な頼みならともかく、楽しいことを拒否する機能はついていないのだ。
ハッとした私が慌てふためいているのを横目に、承諾を得た彼は当然のような顔をして手を繋ぐ。わざとらしく時間をかけ、指の一本一本を絡めていく。
「熱いな」
ふっ、と笑う。その横顔にどうしようもなくときめいてしまって、以前までの自分と違うのだと思い知らされる。彼の一挙一度に心が乱れてしまう。
ホーキンスの筋張った指が私の頬をつまむ。頬が熱を持っているからか、彼の指先はちょっとひんやりしているように感じる。
「いつまで驚いているんだ。そんなにおれが恋しかったか?」
「……うん。会えなくてさみしかった」
「……嘘をつけ。おれを拒もうとしていたくせに」
「もう避けないよ。その……私なりに、心の整理をしたので……」
なんでバレているかは謎だが、避けようとしていたのは事実なので言葉を濁しつつ歩き出す。丘を登りながら会えなかった間のことを話したくてホーキンスの方を向くと、視線が絡んだ。彼は私を見ていた。視線だけで私を愛おしんでいるのだと伝えるかのように目を細めて。
なんだか恥ずかしくなって目をそらす。ホーキンスがくつくつと笑った。
「心の整理とやらをした割に、ずいぶんとかわいらしい反応をするんだな」
「そ、それとこれとは別だから……」
照れ隠しに繋いだ手を揺らしてみれば、彼はまた含み笑いをして手の力を強めた。
「好き」とは言ってくれない男の「かわいい」で、流されないと意気込んでいた私の決意はもうだいぶヘロヘロになってしまった。これまでだって彼が私を褒めてくれたことは何度もあったし、その度私は幸せでいっぱいになっていたのだけど、今はまた違う感情で溢れている。ただの仕草に、なんでもない会話に紛れ込んだ言葉に、心が震えてしまう。心臓が持たない。
動揺を押し隠しながら――全てが顔に出ているので意味がないとしても――世間話をしている間に丘を登り終え、私たちは屋敷の門を通り抜ける。玄関に行こうとした私を引き留め、ホーキンスは庭を指さした。
「もう少し歩かないか」
まだ花はあまり咲いていないが、丁寧に整えられた生け垣は十分見ごたえがある。何よりこのいい天気の下、ホーキンスと共に歩けるのは楽しそうだ。私は迷わず同意した。
占いのやつは室内じゃなくていいの、と問えば、室内で困るのはお前だぞとの返事。私のためを思って外に出ているらしい。風がなくても寒い時期だってのに外に出る必要があるなんて何をするんだろう。まあ言われてから考えればいいか。
能天気な私はその程度のことしか考えず、ホーキンスの案内に従って生け垣の向こうへ足を踏み入れた。
――――そんなこんなで冒頭の発言に至ったわけだが。
出会ってかれこれ十年以上になるけれど、ホーキンスの表情が大きく変わるというのはめったにない。こんなめちゃくちゃなお願いをしてきているというのに、顔色一つ変えやしない。動きの止まった私を眺めながら、愉快そうに口角を上げている。
こいつ宴会での出来事忘れてるのか? 覚えてるからこそこんなこと言い出したのか? 押せばいける女だと思ってるんじゃないだろうな? 正解だよちくしょう。
さすがに私もほんのちょっとムカついて、ささやかな抵抗をする。
「……ほっぺならいいよ」
「口がいい」
「手の甲とか」
「口がいい」
「それも占いの結果?」
「おれは口にしたい」
「……わかった」
押し問答の末、突然私が引いたからか、ホーキンスは少し目を見開いた。
「ホーキンスがしたいなら、する」
前にもこんなことあったな、と思いながら私はホーキンスの肩に手を置いて、彼の高い鼻筋にぶつからないよう顔を傾ける。
触れるだけのキス。私と彼の唇が一瞬重なり、すぐ離れた。お互いに目は開いたままで、視線を合わせたままで。この一瞬が終わる頃にはなぜか彼の瞳孔は開き気味になっていた。
ホーキンスをびっくりさせられたなら私はそれで満足だったから、この場はこれでおしまいにするつもりだった。でも彼はそうじゃなかったようで、腰を強く抱かれ、片方の手が私の頬に添えられる。あの時と同じ。無意識に、キスしやすいよう体勢を整えてしまった。正直すぎる自分の体が恨めしい。
その動きを同意と見なしたのか、はたまた同意なんて関係なくするつもりだったかは分からない。ぎらぎらした赤い瞳と見つめあいながら、彼からの口づけを受け入れる。何度も角度を変えて続く、私からしたものとは比べ物にならないくらい長いキス。呼吸の仕方が分からなくて途中で口を開けてしまい、その隙間に舌をねじ込まれる。いやそれはダメだよ!と押し返そうとして、舌と舌がぶつかり、絡み合う。敏感な部分を余さず荒らされる。
正直余裕なんてなくなっていたけど、ホーキンスから目を逸らせなくて、逸らしたくなくて、潤んだ視界越しに彼を見る。食い入るような目で見つめ返されても逃げる気すら起きない。
気づくと私はホーキンスの首に手を回していた。慣れないことをした後だから息が乱れていて、そんな私をホーキンスは満足そうに見つめている。彼の視線の先に自分がいることが嬉しくてたまらない。私の中の理性が、浮かれすぎだ、と窘める。
「……占いにも協力するけど、こういうのは占いだけじゃ嫌。ホーキンスがしたいことをして」
そう言いながら手を下ろす。一歩下がろうとしたがそれは許されなかった。ホーキンスは私を両手できつく抱きしめたまま動かない。二人で寄り添っていれば風の冷たさも気にならないし、と考え直して私も抱きしめ返す。鼓動の速さが伝わってしまっていないだろうか。もうそれどころじゃないくらいに顔が真っ赤になっている気もする。
今さら恥ずかしさがこみ上げてくる。周囲の生け垣のおかげで誰かに見られてはいないだろうが、流されないって決めたのにまた流されてしまった。それどころか、手まで回すなんて。こんなんじゃ乗り気だと思われる。乗り気になってしまったのは事実だけど。
嫌じゃない行為を拒むのは難しい。曖昧な関係でこんなことをしちゃだめだって分かってるのに、ホーキンスが私を求めてくれたという喜びが先走ってしまって、どうにも拒めない。
「お前はどうなんだ」
「私?」
話の矛先が私に向いた。首をかしげていると、ホーキンスは私を抱きしめたまま続きを紡いだ。
「いつもおればかりが求めているだろう。たまにはお前からおれを求めてくれてもいいんじゃないか」
「求めるって……」
無機質さすら感じる瞳がまっすぐ向けられている。私はいつもこの眼差しに負けるのだ。
でも確かに、ホーキンスの望みを叶える形でばかり触れ合ってきたような気もする。求めてもいいのかもしれない。ほんの少しくらいなら。
「……ね、好きって言って」
ちょっと悩んでから私が口にしたのはそんな言葉だった。でもそれだけでよかった。たった一言、「好き」とさえ言ってくれたら、何をされても、たとえいいように使われたとしても構わないと思える。
彼はいいのか、と言った。何の許可を求められているか分からないけれど、私は頷く。
「エヴィ」
ホーキンスは知ってるんだ。私が彼に名前を呼ばれるのに弱いってこと。心臓を撫でるみたいな優しい声で呼ばれちゃうと、もう太刀打ちできなくなっちゃう。全部バレてる。
おでこをこつん、と当てて、視線だけ合わせる。いつでもキスできてしまう距離で、呼吸が混じる近さで、彼が囁く。
「愛している」
私にだけ聞こえる、今にもかき消えてしまいそうなほど儚くて、どろりとした重みのある声。ホーキンスが私に向けて発した言葉。血のように赤い瞳が私を映している。ずっと見ていてほしいと思ってしまった。ずっと私だけにその熱を、言葉を捧げてほしいなんて。
全身の体温が上がって、頭の中が変な感じになる。私は欲張りだから、もっと変になりたくてねだる。
「もう一回」
「この世界の誰よりも、お前を愛している……おれにだけ言わせる気か?」
「いつも言ってるのは私の方なのに?」
「意味するものが違うだろう。もう一度、いや、何度でも言え。生涯おれだけを愛すると誓え」
「ふふ、結婚式みたい。今やっちゃうの? それ」
結婚式の誓いの言葉ってどんな感じだったっけ。確か、こんな言葉を宣誓していたような。
「私は、ホーキンスを愛しています。ホーキンスだけを愛し続けると誓います」
言い終わってから、これ以上は本番の楽しみが減っちゃうよ、なんて茶化そうとしたものの、ホーキンスの真剣な顔を見て口を閉じる。あれ? これ結構真面目なやつ?
私だって冗談のつもりで言ってるわけじゃないけど、彼はそんなにも私との将来を考えてくれているんだろうか。そもそもこの誓いは誰に対するものなの? 神様? それとも――――。
「これから先、誰と出会ってもか? どんなことがあっても、おれだけを見ると誓えるか?」
「え、もう浮気の心配してるの? しないよ。ホーキンスに酷いことされたら……別れるかもしれない、けど」
必死さすら感じる問いかけに思わずたじろぐ。両思いになったばかりなのに、仮定でも別れる時の話をされるのは嫌だ。
私のムッとした顔から察したのか、ホーキンスは宥めるように私の頭を撫でた。壊れ物を扱うみたいなその手つきに、一瞬で嫌な気分も吹き飛んでしまう。我ながらちょろい。
「教えてくれ。おれのどこが好きなんだ」
「……優しいとこ」
「月並みな答えだな。友人でもいいんじゃないか」
「私もね、そこはよく分かんなくなって考えた」
朝まで寝られなかったあの日、私はそもそもホーキンスのどこが好きなんだろう、と自問自答した。
助けるためなら「なんでもあげたい」くらい特別な彼は、どうして特別なのか。本当は理由なんてどうでもいい。自分が納得するための儀式。
ホーキンスのことを頭に思い浮かべる。
私の話を聞いて呆れた顔。面倒くさそうな顔。真剣な顔。興味深そうに聞き入っている顔。
ころころと記憶が移り変わる。
私が寂しいと思ったとき、ひょいと現れてお喋りしてくれる友達。占いのためとはいえ、わざわざ会いに来てくれる子。私と会っていないときにも私のことを考えていてくれる人。
彼といると安心できた。彼に会えると嬉しかった。それだけで十分だった。
友達でもいいのかもしれない。でも私はホーキンスと恋人になりたかった。恋人だから許される距離に、触れられる関係になりたいと思ってしまった。
彼と手を繋ぐといつだって心が弾んだ。体温の違いすら彼の証明だった。
もしホーキンスにそれ以上を許されたのなら、私は人生最大の幸せを得るだろう。願わくば、彼もそうであってほしい。
私は彼と幸せになりたい。何があっても一緒にいたい。
夜通しいろいろ考えた私は一つの結論に達していた。何の面白みもない、でも自分にとって重要な答え。
私は、ホーキンスが好きなんだってこと。
だからね。
「私、ホーキンスに触られると嬉しくなるの。もっと、って思っちゃう」
ホーキンスの首筋にもたれ掛かりながら呟く。恥ずかしいから、彼にだけ聞こえるように。
「人とくっつくのは好きだけど、他の友達には思ったことない。ホーキンスだけ。これって証明になる?」
顔を上げ、ダメ押しにもう一度好きと言おうとした口を塞がれる。ジトっと睨んでみるけれど彼の腕の力は強まるばかり。諦めてしばらくキスに集中する。今日一日で一生分のキスをしている気がする。
気が済んだのか、ホーキンスがようやく離れた。名残惜しむように鼻先を擦り付け合う。彼の前で機嫌を損ね続けるのは困難だ。少し笑ってしまいつつ、冗談めかして責め立てる。
「……まだ喋ってたんですけど?」
「言葉より鮮明な伝え方もある」
「じゃあ言葉はいらない?」
「いいや、どちらも欲しい。お前の愛の全てが欲しい」
「……好きだよ。ホーキンス。大好き」
これまでも伝えたことのある言葉。友達のときとは別の気持ちを込めて言ったと、伝わっただろうか。
ホーキンスは笑っていた。微笑みとも言えるようなかすかな笑みを浮かべて、ずっと欲しかった物がようやく手に入ったみたいに恍惚としていた。うっすらと瞳が潤んでいるようにも見えたが、いや錯覚だよと思い直す。だってそんな、好きって言っただけで泣くような人じゃない……はず。
彼もまた、「もう一度」と願った。私と違うのはそれが何十回も続いたってことだ。途中で切り上げようか迷う度、ホーキンスの嬉しそうな顔を見て、心からの「大好き」が飛び出してしまう。その繰り返しだった。
私が好きだと言えば、彼が深く頷いて、「もう一度」と乞う。ぴたりと体を寄せたまま、時折彼の手が私の背中を撫でる。
冷たくなった手でホーキンスの頬を包む。一瞬びくりとした彼が、私にやり返す。二人して吹き出したと同時に、皮膚を刺すような風が落ち葉を舞い上げた。
「……寒い! ホーキンスの部屋行こ!」
「おれの部屋はダメだ。客間で我慢しろ」
「なんで?」
「今のおれではお前を押し倒しかねん。お前だってそこまでは求めていないだろう」
「…………」
「急かす気はない。今日のところはこれで――」
「別にいいのに」
「は?」
「なんでもない! あーあ! あったかいお茶飲みたいな~!」
ホーキンスの手を振り払い、大声で誤魔化しながら屋敷に向けて駆け出した。声のトーンが低くなったホーキンスに呼びかけられているが、気にせず走る。
私が後ろから抱きしめられるまで、きっとそう時間はかからない。
だから唇を差し出せ、と。
この少年――バジル・ホーキンスはいけしゃあしゃあと私に言った。
例の宴の日の出来事から少し経ったとある昼間、バジル家の屋敷の庭にて。春が来るにはまだ早いけれど、天気がいいからと外を歩いていた、そんな日。
そう、あの日から少し経っているのである。
――――場の空気に流されつつも友達だった幼馴染にファーストキスを捧げた形になった私は、帰宅してから「やっぱりホーキンスに好きって言われてなくない?」と気がついた。
彼が女にだらしない人だとは思わないが、はっきりとした言葉もなく手を出された――キス一つでと笑わないでほしい、私は真剣なのだ――のは事実で。ホーキンスの気持ちが分からなくなった私は、ベッドの上でジタバタして朝まで寝られなくて。
私に触れたあの指先の優しさも、向けられた熱も、彼からの好意を確信させるものだった。……ほんとに? 周りの反応に舞い上がって、そう見えていただけなんじゃない?
心のどこかで嘲笑う自分がいたものだから、自分が彼の「恋人」になったとは思えなかった。私の気持ちは変化して、ホーキンスもそれに応じて、その先は。応じた、というのも私の思い込みなのではないか。
考えれば考えるほど堂々巡りに陥り、朝日を浴びて唸る。お母さんに呼ばれてしぶしぶ起き上がるまで、頭の中からホーキンスのことが離れなかった。
朝ご飯を食べながら少し落ち着いた私は心の内で決意する。
次会う時はもっと冷静になろう。彼の反応を見逃さないように、落ち着いて訊ねてみよう。あともう流されない! ……少なくとも、「好き」に類する言質を取るまでは。
そうは言っても、すぐに気持ちを切り替えられる訳じゃない。
今ホーキンスに会ったら避けてしまいそうだな、と思ってヒヤヒヤしながら出歩いては、髪の毛一本見かけずに一日を終える。友達や村の人々にホーキンスとの関係を根掘り葉掘り聞かれて焦りつつも対応する。親の手伝いやらなにやらをこなして、今日も彼はいなかった、とモヤモヤした気持ちを抱いてベッドに潜り込む。
そんな日々を繰り返し、気まずさを忘れ、ホーキンスに会いたいという気持ちが溢れそうになった頃。
丘の下の道を歩く私の前に、彼は現れた。
宴以来の再会となったホーキンスは、小憎たらしいくらいに普段通りだった。無表情で、平坦な声で、まるで昨日あったばかりのような自然さで私を屋敷に誘った。今日の運気上昇のための行動はそこでするとのこと。
冷静に対応すると決めていたはずの私はといえば、悲しいかな、会えた喜びで頭がいっぱいになって、反射的に頷いてしまう。長年の積み重ねがここで出た。嫌な頼みならともかく、楽しいことを拒否する機能はついていないのだ。
ハッとした私が慌てふためいているのを横目に、承諾を得た彼は当然のような顔をして手を繋ぐ。わざとらしく時間をかけ、指の一本一本を絡めていく。
「熱いな」
ふっ、と笑う。その横顔にどうしようもなくときめいてしまって、以前までの自分と違うのだと思い知らされる。彼の一挙一度に心が乱れてしまう。
ホーキンスの筋張った指が私の頬をつまむ。頬が熱を持っているからか、彼の指先はちょっとひんやりしているように感じる。
「いつまで驚いているんだ。そんなにおれが恋しかったか?」
「……うん。会えなくてさみしかった」
「……嘘をつけ。おれを拒もうとしていたくせに」
「もう避けないよ。その……私なりに、心の整理をしたので……」
なんでバレているかは謎だが、避けようとしていたのは事実なので言葉を濁しつつ歩き出す。丘を登りながら会えなかった間のことを話したくてホーキンスの方を向くと、視線が絡んだ。彼は私を見ていた。視線だけで私を愛おしんでいるのだと伝えるかのように目を細めて。
なんだか恥ずかしくなって目をそらす。ホーキンスがくつくつと笑った。
「心の整理とやらをした割に、ずいぶんとかわいらしい反応をするんだな」
「そ、それとこれとは別だから……」
照れ隠しに繋いだ手を揺らしてみれば、彼はまた含み笑いをして手の力を強めた。
「好き」とは言ってくれない男の「かわいい」で、流されないと意気込んでいた私の決意はもうだいぶヘロヘロになってしまった。これまでだって彼が私を褒めてくれたことは何度もあったし、その度私は幸せでいっぱいになっていたのだけど、今はまた違う感情で溢れている。ただの仕草に、なんでもない会話に紛れ込んだ言葉に、心が震えてしまう。心臓が持たない。
動揺を押し隠しながら――全てが顔に出ているので意味がないとしても――世間話をしている間に丘を登り終え、私たちは屋敷の門を通り抜ける。玄関に行こうとした私を引き留め、ホーキンスは庭を指さした。
「もう少し歩かないか」
まだ花はあまり咲いていないが、丁寧に整えられた生け垣は十分見ごたえがある。何よりこのいい天気の下、ホーキンスと共に歩けるのは楽しそうだ。私は迷わず同意した。
占いのやつは室内じゃなくていいの、と問えば、室内で困るのはお前だぞとの返事。私のためを思って外に出ているらしい。風がなくても寒い時期だってのに外に出る必要があるなんて何をするんだろう。まあ言われてから考えればいいか。
能天気な私はその程度のことしか考えず、ホーキンスの案内に従って生け垣の向こうへ足を踏み入れた。
――――そんなこんなで冒頭の発言に至ったわけだが。
出会ってかれこれ十年以上になるけれど、ホーキンスの表情が大きく変わるというのはめったにない。こんなめちゃくちゃなお願いをしてきているというのに、顔色一つ変えやしない。動きの止まった私を眺めながら、愉快そうに口角を上げている。
こいつ宴会での出来事忘れてるのか? 覚えてるからこそこんなこと言い出したのか? 押せばいける女だと思ってるんじゃないだろうな? 正解だよちくしょう。
さすがに私もほんのちょっとムカついて、ささやかな抵抗をする。
「……ほっぺならいいよ」
「口がいい」
「手の甲とか」
「口がいい」
「それも占いの結果?」
「おれは口にしたい」
「……わかった」
押し問答の末、突然私が引いたからか、ホーキンスは少し目を見開いた。
「ホーキンスがしたいなら、する」
前にもこんなことあったな、と思いながら私はホーキンスの肩に手を置いて、彼の高い鼻筋にぶつからないよう顔を傾ける。
触れるだけのキス。私と彼の唇が一瞬重なり、すぐ離れた。お互いに目は開いたままで、視線を合わせたままで。この一瞬が終わる頃にはなぜか彼の瞳孔は開き気味になっていた。
ホーキンスをびっくりさせられたなら私はそれで満足だったから、この場はこれでおしまいにするつもりだった。でも彼はそうじゃなかったようで、腰を強く抱かれ、片方の手が私の頬に添えられる。あの時と同じ。無意識に、キスしやすいよう体勢を整えてしまった。正直すぎる自分の体が恨めしい。
その動きを同意と見なしたのか、はたまた同意なんて関係なくするつもりだったかは分からない。ぎらぎらした赤い瞳と見つめあいながら、彼からの口づけを受け入れる。何度も角度を変えて続く、私からしたものとは比べ物にならないくらい長いキス。呼吸の仕方が分からなくて途中で口を開けてしまい、その隙間に舌をねじ込まれる。いやそれはダメだよ!と押し返そうとして、舌と舌がぶつかり、絡み合う。敏感な部分を余さず荒らされる。
正直余裕なんてなくなっていたけど、ホーキンスから目を逸らせなくて、逸らしたくなくて、潤んだ視界越しに彼を見る。食い入るような目で見つめ返されても逃げる気すら起きない。
気づくと私はホーキンスの首に手を回していた。慣れないことをした後だから息が乱れていて、そんな私をホーキンスは満足そうに見つめている。彼の視線の先に自分がいることが嬉しくてたまらない。私の中の理性が、浮かれすぎだ、と窘める。
「……占いにも協力するけど、こういうのは占いだけじゃ嫌。ホーキンスがしたいことをして」
そう言いながら手を下ろす。一歩下がろうとしたがそれは許されなかった。ホーキンスは私を両手できつく抱きしめたまま動かない。二人で寄り添っていれば風の冷たさも気にならないし、と考え直して私も抱きしめ返す。鼓動の速さが伝わってしまっていないだろうか。もうそれどころじゃないくらいに顔が真っ赤になっている気もする。
今さら恥ずかしさがこみ上げてくる。周囲の生け垣のおかげで誰かに見られてはいないだろうが、流されないって決めたのにまた流されてしまった。それどころか、手まで回すなんて。こんなんじゃ乗り気だと思われる。乗り気になってしまったのは事実だけど。
嫌じゃない行為を拒むのは難しい。曖昧な関係でこんなことをしちゃだめだって分かってるのに、ホーキンスが私を求めてくれたという喜びが先走ってしまって、どうにも拒めない。
「お前はどうなんだ」
「私?」
話の矛先が私に向いた。首をかしげていると、ホーキンスは私を抱きしめたまま続きを紡いだ。
「いつもおればかりが求めているだろう。たまにはお前からおれを求めてくれてもいいんじゃないか」
「求めるって……」
無機質さすら感じる瞳がまっすぐ向けられている。私はいつもこの眼差しに負けるのだ。
でも確かに、ホーキンスの望みを叶える形でばかり触れ合ってきたような気もする。求めてもいいのかもしれない。ほんの少しくらいなら。
「……ね、好きって言って」
ちょっと悩んでから私が口にしたのはそんな言葉だった。でもそれだけでよかった。たった一言、「好き」とさえ言ってくれたら、何をされても、たとえいいように使われたとしても構わないと思える。
彼はいいのか、と言った。何の許可を求められているか分からないけれど、私は頷く。
「エヴィ」
ホーキンスは知ってるんだ。私が彼に名前を呼ばれるのに弱いってこと。心臓を撫でるみたいな優しい声で呼ばれちゃうと、もう太刀打ちできなくなっちゃう。全部バレてる。
おでこをこつん、と当てて、視線だけ合わせる。いつでもキスできてしまう距離で、呼吸が混じる近さで、彼が囁く。
「愛している」
私にだけ聞こえる、今にもかき消えてしまいそうなほど儚くて、どろりとした重みのある声。ホーキンスが私に向けて発した言葉。血のように赤い瞳が私を映している。ずっと見ていてほしいと思ってしまった。ずっと私だけにその熱を、言葉を捧げてほしいなんて。
全身の体温が上がって、頭の中が変な感じになる。私は欲張りだから、もっと変になりたくてねだる。
「もう一回」
「この世界の誰よりも、お前を愛している……おれにだけ言わせる気か?」
「いつも言ってるのは私の方なのに?」
「意味するものが違うだろう。もう一度、いや、何度でも言え。生涯おれだけを愛すると誓え」
「ふふ、結婚式みたい。今やっちゃうの? それ」
結婚式の誓いの言葉ってどんな感じだったっけ。確か、こんな言葉を宣誓していたような。
「私は、ホーキンスを愛しています。ホーキンスだけを愛し続けると誓います」
言い終わってから、これ以上は本番の楽しみが減っちゃうよ、なんて茶化そうとしたものの、ホーキンスの真剣な顔を見て口を閉じる。あれ? これ結構真面目なやつ?
私だって冗談のつもりで言ってるわけじゃないけど、彼はそんなにも私との将来を考えてくれているんだろうか。そもそもこの誓いは誰に対するものなの? 神様? それとも――――。
「これから先、誰と出会ってもか? どんなことがあっても、おれだけを見ると誓えるか?」
「え、もう浮気の心配してるの? しないよ。ホーキンスに酷いことされたら……別れるかもしれない、けど」
必死さすら感じる問いかけに思わずたじろぐ。両思いになったばかりなのに、仮定でも別れる時の話をされるのは嫌だ。
私のムッとした顔から察したのか、ホーキンスは宥めるように私の頭を撫でた。壊れ物を扱うみたいなその手つきに、一瞬で嫌な気分も吹き飛んでしまう。我ながらちょろい。
「教えてくれ。おれのどこが好きなんだ」
「……優しいとこ」
「月並みな答えだな。友人でもいいんじゃないか」
「私もね、そこはよく分かんなくなって考えた」
朝まで寝られなかったあの日、私はそもそもホーキンスのどこが好きなんだろう、と自問自答した。
助けるためなら「なんでもあげたい」くらい特別な彼は、どうして特別なのか。本当は理由なんてどうでもいい。自分が納得するための儀式。
ホーキンスのことを頭に思い浮かべる。
私の話を聞いて呆れた顔。面倒くさそうな顔。真剣な顔。興味深そうに聞き入っている顔。
ころころと記憶が移り変わる。
私が寂しいと思ったとき、ひょいと現れてお喋りしてくれる友達。占いのためとはいえ、わざわざ会いに来てくれる子。私と会っていないときにも私のことを考えていてくれる人。
彼といると安心できた。彼に会えると嬉しかった。それだけで十分だった。
友達でもいいのかもしれない。でも私はホーキンスと恋人になりたかった。恋人だから許される距離に、触れられる関係になりたいと思ってしまった。
彼と手を繋ぐといつだって心が弾んだ。体温の違いすら彼の証明だった。
もしホーキンスにそれ以上を許されたのなら、私は人生最大の幸せを得るだろう。願わくば、彼もそうであってほしい。
私は彼と幸せになりたい。何があっても一緒にいたい。
夜通しいろいろ考えた私は一つの結論に達していた。何の面白みもない、でも自分にとって重要な答え。
私は、ホーキンスが好きなんだってこと。
だからね。
「私、ホーキンスに触られると嬉しくなるの。もっと、って思っちゃう」
ホーキンスの首筋にもたれ掛かりながら呟く。恥ずかしいから、彼にだけ聞こえるように。
「人とくっつくのは好きだけど、他の友達には思ったことない。ホーキンスだけ。これって証明になる?」
顔を上げ、ダメ押しにもう一度好きと言おうとした口を塞がれる。ジトっと睨んでみるけれど彼の腕の力は強まるばかり。諦めてしばらくキスに集中する。今日一日で一生分のキスをしている気がする。
気が済んだのか、ホーキンスがようやく離れた。名残惜しむように鼻先を擦り付け合う。彼の前で機嫌を損ね続けるのは困難だ。少し笑ってしまいつつ、冗談めかして責め立てる。
「……まだ喋ってたんですけど?」
「言葉より鮮明な伝え方もある」
「じゃあ言葉はいらない?」
「いいや、どちらも欲しい。お前の愛の全てが欲しい」
「……好きだよ。ホーキンス。大好き」
これまでも伝えたことのある言葉。友達のときとは別の気持ちを込めて言ったと、伝わっただろうか。
ホーキンスは笑っていた。微笑みとも言えるようなかすかな笑みを浮かべて、ずっと欲しかった物がようやく手に入ったみたいに恍惚としていた。うっすらと瞳が潤んでいるようにも見えたが、いや錯覚だよと思い直す。だってそんな、好きって言っただけで泣くような人じゃない……はず。
彼もまた、「もう一度」と願った。私と違うのはそれが何十回も続いたってことだ。途中で切り上げようか迷う度、ホーキンスの嬉しそうな顔を見て、心からの「大好き」が飛び出してしまう。その繰り返しだった。
私が好きだと言えば、彼が深く頷いて、「もう一度」と乞う。ぴたりと体を寄せたまま、時折彼の手が私の背中を撫でる。
冷たくなった手でホーキンスの頬を包む。一瞬びくりとした彼が、私にやり返す。二人して吹き出したと同時に、皮膚を刺すような風が落ち葉を舞い上げた。
「……寒い! ホーキンスの部屋行こ!」
「おれの部屋はダメだ。客間で我慢しろ」
「なんで?」
「今のおれではお前を押し倒しかねん。お前だってそこまでは求めていないだろう」
「…………」
「急かす気はない。今日のところはこれで――」
「別にいいのに」
「は?」
「なんでもない! あーあ! あったかいお茶飲みたいな~!」
ホーキンスの手を振り払い、大声で誤魔化しながら屋敷に向けて駆け出した。声のトーンが低くなったホーキンスに呼びかけられているが、気にせず走る。
私が後ろから抱きしめられるまで、きっとそう時間はかからない。