▲ いい子いい子都合がいい子
name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
※捏造100%のホーキンス父がめちゃくちゃ喋ります。
この時代、この海において、家族に囲まれてベッドの上で死ぬことができる人間は限られている。ホーキンスの母はその中の一人となった。息子と夫に見守られ、朝日が昇る前に息を引き取った。
散々身構えていたからか、ホーキンスの心は思いの外凪いでいた。まだ傷ついた自覚がないだけなのかもしれなかった。ともかく、握り返されることのない手を掴んだままの父の横で、ホーキンスは涙一つ見せず事の成り行きを見ていた。
その後の主だったことは父と使用人たちが取り仕切った。
村長や見覚えのある顔がやってきてお悔やみの言葉を述べる。葬式は数日後行われるらしい。事前に通達していたからか、スムーズに話が進んでいた。早いうちに村全体への通達も行われるとのことだ。エヴィの耳にも入るのだろう。次会いに行けるのはいつになるのか。あの柔らかな声を聞きたい。ゆるゆるとした微笑みを見たい。いくらホーキンスでも今は好き勝手できる状況でないと分かっているから、これ以上わがままは言わないけれど。
日課の占いだけがホーキンスの焦りをなだめてくれた。会えない日々が続いても彼女はホーキンスを好いている。忘れずに恋しく思ってくれている。明確な数字がそう示すから、ホーキンスは屋敷を飛び出さず、役割から逃げずにいられるのだ。
「母さんにお別れを言おう」
父に促されるがままに、母の遺体が安置された部屋へと入る。彼女は簡易ベッドに横たわっており、サイドテーブルには果物の積まれた籠が置かれていた。おや、と思う。いつ儚くなってもおかしくないと言われる段階になってから、母の側に毎日用意されていた籠と似ている。
父は生前同様に母へ挨拶し、果物の山に手を入れた。一つ、また一つとテーブル上に並べられていく。最後に籠の底に残った一つ。それは、見るからに変形してしまっていた。おかしな柄までついているようだ。まるで――――
「……ワラワラの実?」
「きちんと図鑑を読んでいたようだね。そうだよ。これがワラワラの実。お前が受け継がなくてはならない、悪魔の実だ」
今ここで食べなさい。
生徒を導く先生のような優しい口調。けれども断ることを許さない響きがある。息子が拒まないと知っていながら、彼は気を抜かずにいた。
父の差し出す実を受け取る。ふと、昔読んだ絵本に似た構図の挿し絵があったなと思い出す。主人公が魔のものから禁断の果実を受け取る場面。悪魔の実も禁断の果実ではあるだろう。口にしたら最後、後戻りはできない。
かじりついた瞬間、ホーキンスの体は飲み込むことを拒否した。即座に吐き出してしまいたくなった。この世にこれほどまずいものがあるのかと驚いてしまうくらい最悪の味だった。しかし吐き出してはならない。これを食べなくては能力を受け継げないのだし、ここで食べる手を止めたならばホーキンスを押さえつけてでも父が食べさせることだろう。
奇妙な空間だった。物言わぬ母の側で歪んだ果実をかじる息子。そしてそれを監視する父。一欠片がホーキンスの口に入り、喉を通り過ぎるまで、彼の厳しい視線が突き刺さり続けた。
飲み込んだのを確認すると、途端に父の雰囲気が緩まった。頭を撫でられ、「よく頑張ったな」との言葉をもらう。
「能力の詳細については事前に教わっているだろう? あとはもう慣れるしかないらしいが……コツくらいは残していってくれたかもしれない。母さんの部屋を探してみなさい」
「はい。……そういえば、なぜこのタイミングで食べる必要が?」
「悪魔の実はその希少さ故高値がつく。ワラワラの実も同様だ。誰かに狙われる前に食べなくちゃいけない。母さんが能力者だったってことを知ってるやつが悪だくみをするなら、今だろうね」
安心させるためなのか、父はまたわしゃわしゃと頭を撫でた。「能力の練習は深夜、皆が寝静まってからにしなさい」、「明るいうちは決まった部屋でだけ使いなさい」などといくつかの指示を聞いてから部屋を出た。
ホーキンスでは対応できない全てを引き受ける父はこれ以降多忙となる。葬式はもちろん、その後もこなさなくてはいけないことが山ほどあるのだ。外と関わるものが多いからしばらくは屋敷にいない時間が長くなるかも、と付け加えて彼は足早に去っていった。
口直しに所望した水を飲む。それでもまださっきの味が残っている。
この味はきっと忘れられない。母が生きているうちに聞いておけばよかった。悪魔の実を食べたとき、どう思いましたか、なんて。それくらいなら死に際でなくても答えてくれたはずなのに。
▲▲▲
母の部屋に当人の許可を得ず入ったのは初めてだった。村の人々からすれば豪華な、けれど屋敷の主が住まうにしては質素な部屋。大きなベッドとサイドテーブル、それなりにしっかりとした机と椅子のセットが一つ。壁一面の書棚には古今東西の書物が並んでいる。本が無い棚には呪術に使う品が保管されており、これらは全てホーキンスが受け継ぐこととなる。身支度を整えるためのものもいくつかある。収納スペースの多さ故、どこに能力に関する記録があるかまでは分からない。日記を確認したいところだが、故人の日記を覗いていいものなのか。
どこか居心地の悪さを感じながら本棚を眺め、文字を読むことのできる精神状態でないと心づく。仕方がないから後日に回そうと部屋を後にする。誰にも退室の挨拶をしないというのは、なんとも不思議な感覚だった。
葬式ともなればホーキンスも人前に出る。使いこなせとは言わずとも、失敗しない程度に能力を把握しておく必要があるだろう、と考えて父に指定された部屋へ向かう。屋敷の中でも一際大きな空間。これならば多少暴れたところで問題ないだろう。
母がやっていたのをイメージして、まずは右手。指先から変化していく。藁の束が自分の思うままに動くのを確認して元に戻す。肉体を変化させることにはあまり抵抗はなかった。
体から藁を出してカードをつまむ。うまくやれば空中で占うことができそうだ。使い道はいくらあってもいい。息をするように扱えてこそ、能力者としての実力が発揮される。早くそこに到達しなくては。
ダメージ移しの試行だけは後々に回そうと考えながら、思いつく限りの能力を試していく。
そういえば、母は全身を変化させていた。母の説明によるとあれは「降魔の相」と呼ぶらしい。読んで字のごとく、この身に魔を降ろして力を得る技。全身を変化させるとなれば一苦労だが、試してみてもいいだろう。
ふと、彼女の警告を思い出す。能力に慣れないうちは誰かを側に置いて特訓しなさい、と。精神を安定させてから行えとも言われた。呪いと密接に関わる能力だからこそ、自らが呑まれないようにしろとのことだった。
それなのに、いけると思ってしまった。母というお手本を見たことがあるのだから、少しなら問題ないと思いこんで。自分の精神状態を把握しきれていないことにも気づかずに。
全身が藁人形へと変化しきる頃、突如重く苦しい感情に襲われた。自分の身の内に押しとどめていたものが引きずり出される感覚。同時に、何者かが中に入りこもうとしている。慌てて抵抗しようとするも、体が言うことを聞かない。精神を安定させるのに意識を割けば体を乗っ取られてしまいそうで、かといって落ち着かなくては元に戻れない。
制御しそこねた手足があちこちにぶつかり、扉へと向かっていく。この大きさでは通り抜けられないはずと淡い期待を抱いたが、木製の扉はあっけなく壊れた。付近の壁ごと崩れたのを踏み越えて、窮屈な廊下をざりざりと進んでいく。あちこちから人の声が聞こえてきた。使用人が異変に気づいたのだ。このまま誰かが止めてくれるのを待つべきか、しかし彼らの中にホーキンスを止められる者はいるのだろうか。意識が朦朧とする。
窓の外はずいぶんといい天気で、あそこならば背を伸ばして立てるな、と思った。
そとにいる。だれかがおれをよんでいる。使用人たちが焦っている。小さい。振り切って進む。邪魔な塀を乗り越える。太陽を浴びてもおれの苦しみは消えない。抑えきれない。
さらに遠くへ行こうと道を見る。誰かが立っている。
こども、少女、同い年くらいの。エヴィ。エヴィ?
同じくらいの背丈をしたお前が、なぜおれを見上げているんだ。
ちがう。おれが大きくなっている? なんで、これは、どうすれば。
エヴィはぽかんと口を開けていたけれど、すぐに納得したような顔に変わった。巨大な化け物を前にしていながら彼女の目に恐れはなかった。散歩のようににゆっくりとした足取りでやってきて、いつもの如く名を呼んだ。
「ホーキンス?」
穏やかな問いかけだった。答えたいと思ってしまう、陽だまりみたいなあたたかさ。苦しさが薄れていく。意識がハッキリとする。一つ一つを冷静に考えられるようになって、どす黒い感情がどこかに消えていく。手足が思うように動く。
人の体に戻るとエヴィとの距離が縮んだ。会いたかった。その一言が声にならなくて、彼女の手を引く。振り払われないというだけのことが今はただただ嬉しかった。
これまでエヴィを部屋に呼ばなかったのは、一度連れ込めば二度と外に出したくないと思ってしまいそうで怖かったからだ。自分の理性を信じきれなかった。彼女に拒まれたら何をしでかすか、ホーキンスにも予想できなくて。
でも今はそれどころではなかったものだから、自らの縄張りにエヴィを招いた。灯りをつけた後、部屋の中でも特に心安らぐ場所――ベッドへ座らせる。彼女は何の迷いもなくそこに上がった。気遣わしげな表情でホーキンスを見つめてくる。きっと今なら、何を言っても受け入れてくれる。どんな突飛な願いでも。
自然と口が開いていた。途端に、言葉が溢れ出した。
ずっとずっと誰かに話したかった。
エヴィにこれまでの出来事を語るほど、自分の感情が浮き彫りになっていく。あの時の自分が何を考え、感じていたのかがはっきりしていく。日記に書き出すのとはまた違う、一言発するごとに心が整理されていく感覚。流れなど考えずに話しているのだから分かりにくいだろうに、エヴィは静かに相づちを打ち続けていた。
彼女がようやく口を挟んだのは、悪魔の実の話題になってからだった。先ほどの暴走が頭をよぎる。けれど、ここにはエヴィがいる。彼女が側にいるだけで不思議と心が落ち着いた。次こそは。
再度「降魔の相」を試みる。もう引きずられることはなかった。「なにか」は存在しているが、今度はしっかりと制御下におけている。精神の安定が能力の使用に重要とはこのことだったのだ。母の言いつけの意味をありありと思い知った。
興味深げに仰ぎ見るエヴィへ軽い説明をすれば、彼女はホーキンスの身を案じた。能力に気を取られてはいるものの、そこにやはり嫌悪はない。無邪気に触れるエヴィの体温は藁の体でも伝わってくる。ホーキンスが変わり果てたとしても彼女は側を離れないという安堵感が広がる。
ほんの少しの期待を持って顔を寄せると、エヴィはまるでそれが自然かのようにホーキンスへと触れた。やわい指先がくすぐったくて、心地よくて。ぽかぽかした手のひらで撫でられると、張り詰めていた体までゆるんでいく。ずっとこうしていたい。そんな思いを胸に元の姿へと戻る。もう少しねだってもいけると考えて手を伸ばせば、エヴィは何の気なしに受け入れた。
エヴィとハグをしたのはこれが初めてではない。感情が高ぶっていたり、人恋しくなった彼女に抱きしめられたことは何度もある。けれども今回は少し空気が違った。当然だ。彼女は慰めのためにこうしてやってきた。その献身のおかげで、ホーキンスは自分でも気づいていなかった心の傷に気づけた。
ホーキンスとそう変わらない大きさの体から、とくんとくんと一定のリズムを感じた。自分と違う少し高めの体温が、皮膚の下に流れる血潮を示す。死の淵から遠い場所にいる。
「……お前に死相は出ていない」
「そりゃそうでしょ」
母の弱り果てた姿を思い出して、エヴィは違うのだと確認するため口から出たそれに、彼女は苦笑交じりの返事をした。当たり前みたいに。生きていることは当たり前ではないのに。
あ、と思った。油断したら泣いてしまう。このおれが。それほどまでに弱っていたのかと自嘲しつつ、誤魔化しも兼ねてエヴィの肩に顔をうずめた。彼女は涙の気配を察したのかいないのか、ホーキンスの背中をさすりながらぽつぽつと慰めの言葉をかけてくる。息苦しくならない程度に抱きしめられる。彼女は自分の体温を分け与えるかのように己の体を使う。これがホーキンスでなくても、彼女は相手を抱きしめる。そういう人間だ。
だからそれは、単なる励ましだったのだと思う。エヴィがホーキンスを思って口にした中の一つ。
「なんだってあげるよ」
耳にした瞬間、異様な昂りがホーキンスを襲った。
脳内がじわじわと興奮に侵されていく。エヴィは理解していない。自分の発した言葉の意味を。
彼女は今、自分を差し出した。比喩表現だと分かっている。力を貸すという意味で言ったのだ。分かっているけれど、でも、ホーキンスが頼めば本当に「なんでも」くれるだろうと。付き合いの長さ故、それすらも予見できてしまう。
衝動的に動きそうになったものの、長年培ってきた自制心によりそれだけは免れた。
今ではない。今望めばエヴィはホーキンスの全てを許してくれる。けれど、その先に明るい未来があるかと言われたら、そうではない。ホーキンスは彼女に好かれている。無理強いしなくともこんな言葉を引き出すくらいには愛されている。迫ってはならない。まだその時ではない。
かろうじて理性が勝った。その間も、たった一言が頭の中で繰り返され続けている。背筋がぞくぞくして震えが止まらない。
エヴィはホーキンスの異変に気づいていない。表面上は腕の力が増したくらいなので、彼女は、目の前の幼馴染のしがみつくような必死さの理由を別のものと勘違いしている。悲しみに耐えるために強く抱きしめているのだ、と。
悲しみが消し去られた訳では無い。不安は常につきまとっている。
しかし、彼女が隣にいるのならどんな苦難も乗り越えられる。特別な意図もなく放たれた言葉一つで、ホーキンスはそう思えてしまったのだ。
▲▲▲
澄みきった空に薄い雲がちらほらと見える。吸いこんだ空気が冷え切っていて、少し喉の調子が気にかかる。これまで人前に出ることもそうなかった身だ。良い印象を与えられるよう心掛けておいた方がいいだろう。
母の葬式は、枯れ葉が地面を彩る肌寒い日に行われた。
同時に、今日をもって父が正式に――祝いの場は日を改めて設けられる――バジル家当主となる。といっても、本人はそう気負っていなかった。「お前が力をつけるまでの繋ぎだよ」とはまさしくそうで、ホーキンスが当主として十分な力を身につけるまで彼が表舞台に立つ。重要な占いはホーキンスにも任せるが、村人たちとのやり取りは父がメインでおこなっていく、とのことだった。
ホーキンスの番がやってくる。母が散々口にしていた、「島を導く役目の重さ」がこの身にのしかかる。けれど、一人ではない。ホーキンスはそれを知っている。父が、屋敷の者たちが、そしてエヴィが絶対的な味方として支えてくれる。ならば応えなくてはならない。
村にある小さな教会にて。村長と父が主導し、葬式が始まった。ホーキンスは彼らの一歩後ろで待機する。
参列した村人たちの値踏みするような視線がホーキンスの全身を這った。自分たちの命を預けていい相手なのか。彼らの言いたいことはそれに尽きた。誰も口に出さなかったけれど、人々の目は雄弁に物語っていた。
エヴィの友人らしき顔も見えるが、彼らの視線はまた別の厳しさを持つ。ホーキンスが友達の相手としてふさわしいのか。そうでなければ、たとえこの島の権力者であったとしても口出ししてやる、と言いたげな面持ちだ。ホーキンスの身の振り方一つで敵にも味方にもなるだろう。
普段はバジル家を嫌悪する者も、表面上はしめやかな態度をとっている。人一人が亡くなっているからと、神妙な顔で参列するくらいの情けはあるらしい。
この村の者たちは皆そうだ。ホーキンスたちと噛み合わないとしても、どこか憎みきれない素直さがある。それ故、なぜここまでぶつかるようになったのか疑問でもあった。
式が進み、設けられた壇上で喪主である父の挨拶が終わると、ホーキンスもその場に来るよう促される。事前に話を通されていたとはいえ、多少の緊張を隠しながら歩いていく。父がいた場所を譲られ、壇上に立つ。
先ほどとは比べ物にならないくらい、参列者の視線が突き刺さる。ホーキンスは動じない。かつての母のように堂々たる態度で、用意した言葉をはきはきと述べていく。
「改めまして、本日は――――」
言わば締めの挨拶だ。父が当主になったとはいえ、いずれはホーキンスがその座につく。この子どもはそういう立場の人間だと村人に示すための顔見せ。挨拶だって儀礼的なもので、ホーキンスが取り返しのつかないミスをすることもない。
それなのに、祈るように手を握りしめ、眉を寄せてホーキンスを見上げる少女がいた。エヴィだ。彼女の両親がエヴィの肩を抑えている。彼らがいなかったのなら、今にもこちらに駆け寄ってきそうだった。ホーキンスが壇上に上がり、注目を受けている間。彼女はずっと不安げな顔をやめなかった。
見方によっては薄情な人間のように映るであろう数分程度の挨拶を終え、父と入れ替わる形で壇上を降りる。ちら、とエヴィを見ると、あからさまにほっとした表情に変わっていた。目が合う。彼女がふわりと微笑む。
お疲れさま。
無言でも伝わってくる労りに、ホーキンスは目を細めて返事をした。
▲▲▲
故人に別れを告げ、埋葬する。
おこなっている最中は苦しいのに、文字にしてしまえばこんなにもあっさりとしている。
母の葬式は滞りなく終わった。無駄を好まない彼女らしいスムーズな式だった。トラブルが発生した場合に備えて何パターンか予測を立てていたが、必要なくなったのは幸いである。
ホーキンスたちの気持ちは別として、表向きにやらなくてはいけない行事の一つをやり遂げ、区切りがついた。強ばっていた体も力を抜ける。
村人たちが帰路につき、屋敷に戻る。使用人が片付けをしている中、ホーキンスは庭先でぼんやりと佇む父に声をかけた。
秋めいた庭は季節の花が咲き誇り、木々が赤や黄色に色づいている。中にはホーキンスが生まれた時に植えられた木もあるが、父の視界にはそのどれも映っていないようだった。
息子に呼びかけられた父はハッとして振り向き、笑みを浮かべた。目の下にうっすらと隈ができている。どことなく表情がかたい。
「とうとう母さんがいってしまったね」
「……はい」
「不安に思うことはないよ。まだぼくがいるからね。お前が成長するまで、きちんと繋ぎの役目を果たしてみせるとも」
胸を張ってそう言い切った父に、ホーキンスは頷く。彼の能力を信頼している。それ故の無言だったが、父の表情は崩れかけ、笑みの残骸のようなものが浮かぶ。
「母さんが言ったんだ。ぼくはきちんとやり遂げられるって。お前はいつか母さんを超えるだろうが、母さんだってすごい占い師なんだぞ。その彼女が言うんだから間違いない。父さんに任せなさい」
普段以上に饒舌な彼は、ホーキンスの前だからこそ父親でいるつもりらしかった。愛する妻を亡くしても、同じく心を痛めているであろう息子を励まそうとする。
父はいつ父でなくなるのだろう。一人の男として悲しむことはできたのだろうか。問いかけたところで、「子どもが気にするもんじゃないよ」と誤魔化されてしまうだろうけれど。
思えば、こうして父と落ち着いて話す機会はそうなかったかもしれない。当主教育の都合上、ホーキンスは母と接する時間の方が長かった。会う度に身体的接触を図ってきたのは、そんな中で息子とコミュニケーションをとろうとした、彼なりの努力だったのか。
ひゅう、と冷たい風が頬を撫でた。二人して顔を見合わせ、屋敷の中に入る。てっきり父は仕事を片付けにいくのかと思っていたのだが、彼は少ししゃがんでホーキンスに目線を合わせた。夜になったら父の書斎を訪ねろと言い、くしゃりと笑って付け足した。
「寝る前にもう少し話したいんだ。ぼくがお茶を入れるから、一杯付き合ってくれるかい」
父の書斎にふわりと心地よい香りが漂う。母の部屋でよく嗅いだもの。彼女が手ずから淹れた紅茶もこんな香りをしていた。
母と比べるとおぼつかない手付きではあるものの、父は二つのティーカップに紅茶を注ぎ入れ、片方をホーキンスの目の前に差し出した。テーブルの中央には大皿が一つ。ホーキンスたちで食べるには十分な量のクッキーが乗っている。
「コックに言ったら用意してくれてね。この時間のお菓子も今日はいいってことにしよう」
おどけたように言って一枚つまむ彼は、日が落ちるまでに気持ちを整えたのか、庭での疲れ切った様子は跡形もない。話というのも単にコミュニケーションをとりたいとのことで、母からの遺言があるわけではなさそうだ。紅茶に口をつけながら父の様子を伺うが、彼は葬式の準備中に村長や村人との間で起きた出来事を面白おかしく語るばかり。そちらにも興味を惹かれるが、ホーキンスは別の話を切り出した。
「お父様」
「なんだい、ホーキンス」
「お父様はお母様が亡くなって、とても悲しまれているようですが……。運命の人の死とは、それほどにつらいものなのですか」
「そうだね……確かに、お前の母さんはぼくの運命の人だ。でもね、ぼくが悲しんでいるのは、彼女への愛の理由は、天の定めだけじゃない。分かるかい」
自らの動揺を棚に上げて尋ねたホーキンスを父は咎めず、かつての出会いを思い返すような目をした。酒は入っていないが、今夜の彼は真面目に答えてくれるようだった。
「彼女を一目見て好きになった。それはきっかけに過ぎないんだ。共に過ごすうちに愛が深まって、ますます彼女しかいないと思うようになったのさ」
母さんに出会えたのがぼくの人生で一番の幸運だったよ、と締めくくり、照れくさそうに顔をほころばせた。紅茶で喉を潤した父は、息子の暗い表情に気づく。
「心配かい。エヴィが、運命の相手でないことが」
「……はい」
「大丈夫だよ。母さんも言っていただろう? お前とエヴィは絶対結ばれるって。それに、お前が運命の相手と出会ったとしても、彼女は身を引いてくれるよ 」
時計の針の音が響く。窓に吹き付ける風が強まっている。暖炉の火がはぜているが、その熱はホーキンスには届かない。
父はホーキンスの震えに気づいて「寒いのかい」と問いかけた。
目の前に座る彼が、見知らぬ生き物のように映った。
足場が突如崩れ落ちたような感覚。身を預けていた相手が敵だと判明したかの如く、全身を恐怖が駆け抜けた。
父は何を勘違いしたのか、席を立ってホーキンスの側にやってきた。硬直するホーキンスの肩を抱き、慈愛に満ちた声色で続けた。
「下手な相手を選んでしまうと、別れ際に厄介なことになる。その点でもエヴィは素晴らしい女の子だよ。お前が望めば、お前の幸せを願ってすんなり別れてくれる。愛人になってほしいと言えば、本心はどうであれその通りにするだろう。なにより逆恨みして お前を害することがない」
「な、にを……」
「ちゃんとそこまで占ってたのさ、ぼくたちは。そうでなきゃ手放しで応援したりしないよ。エヴィは信頼のおける子だ。彼女を選んだお前の審美眼が誇らしいよ」
エヴィを褒めたたえているようで、その実彼女を軽んじた言葉が次々飛び出してくる。発言者は自分の父親。エヴィを好意的に見ていたはずの、ホーキンスとの仲を応援すると言ってくれたはずの彼が、「ホーキンスのため」を思ってホーキンスとエヴィの思いを踏みにじる。
「おれは、心変わりなど、」
「もちろん可能性でしかない。でも可能性はゼロじゃないんだ。どうしたって巡り会い、惹かれ合ってしまうからこそ運命の相手と呼ぶんだよ、ホーキンス。もしもを考えておくのは大事なことだ」
息ができなくなりそうだった。それでもここで反論しなくてはと口を開くが、あっさり遮られてしまう。恐々と父の方に顔を向けた。へらへらした笑みを見れば、少しは落ち着くかと思った。
父は笑っていなかった。いつになく真剣な眼差しで、駄々をこねる子どもを諭すように。実際、彼はホーキンスに理解しておいてほしかったのだろう。いつまでも夢見がちな子どもでいては多くの人が傷つくから、現実を見て備えておくに越したことはない、と。
「ぼく達はね、彼女と会ったときにお願いしたのさ。「ホーキンスを頼む」ってね。あの時の彼女はただの友達として請け負ってくれたんだろうけど、恋人になればなおさらしっかりやってくれるよ」
顔色の悪いホーキンスを抱き寄せ、やさしくやさしく頭を撫でる。父の手を振り払いたかったが、ホーキンスはその気力すらなくしていた。父は話し続ける。
「エヴィは責任感のあるいい子だから、もしお前に愛想を尽かしても、私たちに頼まれたことを思い出してすぐには立ち去らないだろう。逆に、私たちに不信感を抱いたとしても、お前への愛情があればなにがあろうと側に居続けるだろう。どちらにしろ、彼女がお前から離れることはないよ。安心しなさい」
彼はあくまでもホーキンスの不安を取り除くために言葉を紡いでいる。聞いていられないと耳を塞いだところで、二人の仲を引き裂く気はないのだという父の心情は指の隙間から入りこむ。
「口に出すというのは大切なことだ。ぼくは彼女に何度も「信頼できる」と言った。母さんは「任せる」と言った。どちらもエヴィを縛るには十分さ。元々の姿がそうでなかったとしても、言われた姿に寄せてしまう。彼女みたいな素直な子なら尚更ね。そこにお前からの愛の言葉があれば確実だ。きちんと思いを伝えるんだよ」
やめろ、おれの愛を呪いにするな!!
ホーキンスは父を突き飛ばしてそう叫ぼうとした。できなかった。自分の愛は呪いでないとは言い切れなかった。芽生えたばかりのときはもっと透き通っていたはずのこの思いは、仕舞いこんでいるうちにどろついたものへと変わり果てていた。父の「彼女がお前から離れることはない」という言葉に、わずかでも安堵してしまったのがその証明だ。
ホーキンスの口からこぼれ落ちる愛がエヴィを縛る鎖と成り果てて、彼女に触れた分だけ穢してしまうとしても。エヴィは無邪気に全てを受け入れるだろう。ホーキンスが差し出したものをきらきらした宝石のように扱って、ありったけの愛を返してくる。
囁かれた愛が自分を追いつめるとも知らずに。
「……お父様の話に、エヴィの幸せがあるとは思えません」
「でもホーキンス、」
「ここまでの発言は、聞かなかったことにします。おれはあなたを嫌いたくない」
葛藤の末、何とか絞り出したのはそんな言葉だった。父に対する信頼を失ったとて、ホーキンスは彼の力を借りねば生きていけない身である。関係の悪化は避けたい。
何より、父を責め立てられるほど自分の正しさを確信できなかった。ホーキンスはずっと恐れている。運命の相手が現れて、積み重ねてきた全てが失われる未来を。ホーキンスが苦しむその問題に一番寄り添っているのは両親なのだ。どれだけ気持ちのすれ違いがあったとしても、彼らは息子が抱くであろう不安を察し、先んじて策を講じていたにすぎない。
ホーキンスは父の手から逃れ、扉に向かう。後ろから父が呼びかける。
「ぼくたちは心の底からお前たちを応援してるんだよ。エヴィに好印象を抱いたことも、彼女にお前を任せたいと思ったのも、お前たちが結ばれて幸せになることも、全部本当だ。本気で願っているんだ」
そこには追いすがるような色があったが、ホーキンスは振り返らなかった。とにかく今はここから離れるべきだと、その一心で足を動かして。
自室に戻ったホーキンスは窓辺に近寄り、カーテンを開いた。
窓の向こうを眺めるのに椅子が必要なくなるほど、この体は成長した。エヴィと出会って十年ほどの月日が経ち、ホーキンスたちも村の様子も変わり続けている。変わらないものがあるとすれば、エヴィがホーキンスに向ける笑顔くらいなものだ。
夜が更け、村の家々は寝静まっている。寒々しい月明かりが照らすその中に、エヴィの家も並ぶ。彼女はどんな夢を見ているのだろう。夢すら見ないくらいにぐっすりと眠れていればいい、と思いを馳せる。
はたと気づく。誰かの幸福を願うこの気持ちは、両親のものと何が違うのか、と。
両親はホーキンスを案じている。バジル家の存続のためだけではない。自分たちの子どもが幸福であるようにと動いている。「良い親」とされる類の願い。
彼らはホーキンスを愛している。ホーキンスの幸せのためならば、他所の娘がどうなろうと構わないのだ。
ホーキンスはそんな彼らを嫌悪した。けれど、今後エヴィの幸せを邪魔する者が現れたのなら、自分だってなりふり構わず動くはずだ。優先順位がある。仕方ないと切り捨てられる。彼らと何が違う? 同じだ。自分は同じことをする。
ホーキンスはまだ大人ではない。けれど、愛が清く澄んだものばかりではないのだと知っていた。愛しているからといって、好ましい方向に進むとは限らない。
一番嫌なのは、それらを理解した上でホーキンス自身もまた、愛することをやめられないという事実だった。
この時代、この海において、家族に囲まれてベッドの上で死ぬことができる人間は限られている。ホーキンスの母はその中の一人となった。息子と夫に見守られ、朝日が昇る前に息を引き取った。
散々身構えていたからか、ホーキンスの心は思いの外凪いでいた。まだ傷ついた自覚がないだけなのかもしれなかった。ともかく、握り返されることのない手を掴んだままの父の横で、ホーキンスは涙一つ見せず事の成り行きを見ていた。
その後の主だったことは父と使用人たちが取り仕切った。
村長や見覚えのある顔がやってきてお悔やみの言葉を述べる。葬式は数日後行われるらしい。事前に通達していたからか、スムーズに話が進んでいた。早いうちに村全体への通達も行われるとのことだ。エヴィの耳にも入るのだろう。次会いに行けるのはいつになるのか。あの柔らかな声を聞きたい。ゆるゆるとした微笑みを見たい。いくらホーキンスでも今は好き勝手できる状況でないと分かっているから、これ以上わがままは言わないけれど。
日課の占いだけがホーキンスの焦りをなだめてくれた。会えない日々が続いても彼女はホーキンスを好いている。忘れずに恋しく思ってくれている。明確な数字がそう示すから、ホーキンスは屋敷を飛び出さず、役割から逃げずにいられるのだ。
「母さんにお別れを言おう」
父に促されるがままに、母の遺体が安置された部屋へと入る。彼女は簡易ベッドに横たわっており、サイドテーブルには果物の積まれた籠が置かれていた。おや、と思う。いつ儚くなってもおかしくないと言われる段階になってから、母の側に毎日用意されていた籠と似ている。
父は生前同様に母へ挨拶し、果物の山に手を入れた。一つ、また一つとテーブル上に並べられていく。最後に籠の底に残った一つ。それは、見るからに変形してしまっていた。おかしな柄までついているようだ。まるで――――
「……ワラワラの実?」
「きちんと図鑑を読んでいたようだね。そうだよ。これがワラワラの実。お前が受け継がなくてはならない、悪魔の実だ」
今ここで食べなさい。
生徒を導く先生のような優しい口調。けれども断ることを許さない響きがある。息子が拒まないと知っていながら、彼は気を抜かずにいた。
父の差し出す実を受け取る。ふと、昔読んだ絵本に似た構図の挿し絵があったなと思い出す。主人公が魔のものから禁断の果実を受け取る場面。悪魔の実も禁断の果実ではあるだろう。口にしたら最後、後戻りはできない。
かじりついた瞬間、ホーキンスの体は飲み込むことを拒否した。即座に吐き出してしまいたくなった。この世にこれほどまずいものがあるのかと驚いてしまうくらい最悪の味だった。しかし吐き出してはならない。これを食べなくては能力を受け継げないのだし、ここで食べる手を止めたならばホーキンスを押さえつけてでも父が食べさせることだろう。
奇妙な空間だった。物言わぬ母の側で歪んだ果実をかじる息子。そしてそれを監視する父。一欠片がホーキンスの口に入り、喉を通り過ぎるまで、彼の厳しい視線が突き刺さり続けた。
飲み込んだのを確認すると、途端に父の雰囲気が緩まった。頭を撫でられ、「よく頑張ったな」との言葉をもらう。
「能力の詳細については事前に教わっているだろう? あとはもう慣れるしかないらしいが……コツくらいは残していってくれたかもしれない。母さんの部屋を探してみなさい」
「はい。……そういえば、なぜこのタイミングで食べる必要が?」
「悪魔の実はその希少さ故高値がつく。ワラワラの実も同様だ。誰かに狙われる前に食べなくちゃいけない。母さんが能力者だったってことを知ってるやつが悪だくみをするなら、今だろうね」
安心させるためなのか、父はまたわしゃわしゃと頭を撫でた。「能力の練習は深夜、皆が寝静まってからにしなさい」、「明るいうちは決まった部屋でだけ使いなさい」などといくつかの指示を聞いてから部屋を出た。
ホーキンスでは対応できない全てを引き受ける父はこれ以降多忙となる。葬式はもちろん、その後もこなさなくてはいけないことが山ほどあるのだ。外と関わるものが多いからしばらくは屋敷にいない時間が長くなるかも、と付け加えて彼は足早に去っていった。
口直しに所望した水を飲む。それでもまださっきの味が残っている。
この味はきっと忘れられない。母が生きているうちに聞いておけばよかった。悪魔の実を食べたとき、どう思いましたか、なんて。それくらいなら死に際でなくても答えてくれたはずなのに。
▲▲▲
母の部屋に当人の許可を得ず入ったのは初めてだった。村の人々からすれば豪華な、けれど屋敷の主が住まうにしては質素な部屋。大きなベッドとサイドテーブル、それなりにしっかりとした机と椅子のセットが一つ。壁一面の書棚には古今東西の書物が並んでいる。本が無い棚には呪術に使う品が保管されており、これらは全てホーキンスが受け継ぐこととなる。身支度を整えるためのものもいくつかある。収納スペースの多さ故、どこに能力に関する記録があるかまでは分からない。日記を確認したいところだが、故人の日記を覗いていいものなのか。
どこか居心地の悪さを感じながら本棚を眺め、文字を読むことのできる精神状態でないと心づく。仕方がないから後日に回そうと部屋を後にする。誰にも退室の挨拶をしないというのは、なんとも不思議な感覚だった。
葬式ともなればホーキンスも人前に出る。使いこなせとは言わずとも、失敗しない程度に能力を把握しておく必要があるだろう、と考えて父に指定された部屋へ向かう。屋敷の中でも一際大きな空間。これならば多少暴れたところで問題ないだろう。
母がやっていたのをイメージして、まずは右手。指先から変化していく。藁の束が自分の思うままに動くのを確認して元に戻す。肉体を変化させることにはあまり抵抗はなかった。
体から藁を出してカードをつまむ。うまくやれば空中で占うことができそうだ。使い道はいくらあってもいい。息をするように扱えてこそ、能力者としての実力が発揮される。早くそこに到達しなくては。
ダメージ移しの試行だけは後々に回そうと考えながら、思いつく限りの能力を試していく。
そういえば、母は全身を変化させていた。母の説明によるとあれは「降魔の相」と呼ぶらしい。読んで字のごとく、この身に魔を降ろして力を得る技。全身を変化させるとなれば一苦労だが、試してみてもいいだろう。
ふと、彼女の警告を思い出す。能力に慣れないうちは誰かを側に置いて特訓しなさい、と。精神を安定させてから行えとも言われた。呪いと密接に関わる能力だからこそ、自らが呑まれないようにしろとのことだった。
それなのに、いけると思ってしまった。母というお手本を見たことがあるのだから、少しなら問題ないと思いこんで。自分の精神状態を把握しきれていないことにも気づかずに。
全身が藁人形へと変化しきる頃、突如重く苦しい感情に襲われた。自分の身の内に押しとどめていたものが引きずり出される感覚。同時に、何者かが中に入りこもうとしている。慌てて抵抗しようとするも、体が言うことを聞かない。精神を安定させるのに意識を割けば体を乗っ取られてしまいそうで、かといって落ち着かなくては元に戻れない。
制御しそこねた手足があちこちにぶつかり、扉へと向かっていく。この大きさでは通り抜けられないはずと淡い期待を抱いたが、木製の扉はあっけなく壊れた。付近の壁ごと崩れたのを踏み越えて、窮屈な廊下をざりざりと進んでいく。あちこちから人の声が聞こえてきた。使用人が異変に気づいたのだ。このまま誰かが止めてくれるのを待つべきか、しかし彼らの中にホーキンスを止められる者はいるのだろうか。意識が朦朧とする。
窓の外はずいぶんといい天気で、あそこならば背を伸ばして立てるな、と思った。
そとにいる。だれかがおれをよんでいる。使用人たちが焦っている。小さい。振り切って進む。邪魔な塀を乗り越える。太陽を浴びてもおれの苦しみは消えない。抑えきれない。
さらに遠くへ行こうと道を見る。誰かが立っている。
こども、少女、同い年くらいの。エヴィ。エヴィ?
同じくらいの背丈をしたお前が、なぜおれを見上げているんだ。
ちがう。おれが大きくなっている? なんで、これは、どうすれば。
エヴィはぽかんと口を開けていたけれど、すぐに納得したような顔に変わった。巨大な化け物を前にしていながら彼女の目に恐れはなかった。散歩のようににゆっくりとした足取りでやってきて、いつもの如く名を呼んだ。
「ホーキンス?」
穏やかな問いかけだった。答えたいと思ってしまう、陽だまりみたいなあたたかさ。苦しさが薄れていく。意識がハッキリとする。一つ一つを冷静に考えられるようになって、どす黒い感情がどこかに消えていく。手足が思うように動く。
人の体に戻るとエヴィとの距離が縮んだ。会いたかった。その一言が声にならなくて、彼女の手を引く。振り払われないというだけのことが今はただただ嬉しかった。
これまでエヴィを部屋に呼ばなかったのは、一度連れ込めば二度と外に出したくないと思ってしまいそうで怖かったからだ。自分の理性を信じきれなかった。彼女に拒まれたら何をしでかすか、ホーキンスにも予想できなくて。
でも今はそれどころではなかったものだから、自らの縄張りにエヴィを招いた。灯りをつけた後、部屋の中でも特に心安らぐ場所――ベッドへ座らせる。彼女は何の迷いもなくそこに上がった。気遣わしげな表情でホーキンスを見つめてくる。きっと今なら、何を言っても受け入れてくれる。どんな突飛な願いでも。
自然と口が開いていた。途端に、言葉が溢れ出した。
ずっとずっと誰かに話したかった。
エヴィにこれまでの出来事を語るほど、自分の感情が浮き彫りになっていく。あの時の自分が何を考え、感じていたのかがはっきりしていく。日記に書き出すのとはまた違う、一言発するごとに心が整理されていく感覚。流れなど考えずに話しているのだから分かりにくいだろうに、エヴィは静かに相づちを打ち続けていた。
彼女がようやく口を挟んだのは、悪魔の実の話題になってからだった。先ほどの暴走が頭をよぎる。けれど、ここにはエヴィがいる。彼女が側にいるだけで不思議と心が落ち着いた。次こそは。
再度「降魔の相」を試みる。もう引きずられることはなかった。「なにか」は存在しているが、今度はしっかりと制御下におけている。精神の安定が能力の使用に重要とはこのことだったのだ。母の言いつけの意味をありありと思い知った。
興味深げに仰ぎ見るエヴィへ軽い説明をすれば、彼女はホーキンスの身を案じた。能力に気を取られてはいるものの、そこにやはり嫌悪はない。無邪気に触れるエヴィの体温は藁の体でも伝わってくる。ホーキンスが変わり果てたとしても彼女は側を離れないという安堵感が広がる。
ほんの少しの期待を持って顔を寄せると、エヴィはまるでそれが自然かのようにホーキンスへと触れた。やわい指先がくすぐったくて、心地よくて。ぽかぽかした手のひらで撫でられると、張り詰めていた体までゆるんでいく。ずっとこうしていたい。そんな思いを胸に元の姿へと戻る。もう少しねだってもいけると考えて手を伸ばせば、エヴィは何の気なしに受け入れた。
エヴィとハグをしたのはこれが初めてではない。感情が高ぶっていたり、人恋しくなった彼女に抱きしめられたことは何度もある。けれども今回は少し空気が違った。当然だ。彼女は慰めのためにこうしてやってきた。その献身のおかげで、ホーキンスは自分でも気づいていなかった心の傷に気づけた。
ホーキンスとそう変わらない大きさの体から、とくんとくんと一定のリズムを感じた。自分と違う少し高めの体温が、皮膚の下に流れる血潮を示す。死の淵から遠い場所にいる。
「……お前に死相は出ていない」
「そりゃそうでしょ」
母の弱り果てた姿を思い出して、エヴィは違うのだと確認するため口から出たそれに、彼女は苦笑交じりの返事をした。当たり前みたいに。生きていることは当たり前ではないのに。
あ、と思った。油断したら泣いてしまう。このおれが。それほどまでに弱っていたのかと自嘲しつつ、誤魔化しも兼ねてエヴィの肩に顔をうずめた。彼女は涙の気配を察したのかいないのか、ホーキンスの背中をさすりながらぽつぽつと慰めの言葉をかけてくる。息苦しくならない程度に抱きしめられる。彼女は自分の体温を分け与えるかのように己の体を使う。これがホーキンスでなくても、彼女は相手を抱きしめる。そういう人間だ。
だからそれは、単なる励ましだったのだと思う。エヴィがホーキンスを思って口にした中の一つ。
「なんだってあげるよ」
耳にした瞬間、異様な昂りがホーキンスを襲った。
脳内がじわじわと興奮に侵されていく。エヴィは理解していない。自分の発した言葉の意味を。
彼女は今、自分を差し出した。比喩表現だと分かっている。力を貸すという意味で言ったのだ。分かっているけれど、でも、ホーキンスが頼めば本当に「なんでも」くれるだろうと。付き合いの長さ故、それすらも予見できてしまう。
衝動的に動きそうになったものの、長年培ってきた自制心によりそれだけは免れた。
今ではない。今望めばエヴィはホーキンスの全てを許してくれる。けれど、その先に明るい未来があるかと言われたら、そうではない。ホーキンスは彼女に好かれている。無理強いしなくともこんな言葉を引き出すくらいには愛されている。迫ってはならない。まだその時ではない。
かろうじて理性が勝った。その間も、たった一言が頭の中で繰り返され続けている。背筋がぞくぞくして震えが止まらない。
エヴィはホーキンスの異変に気づいていない。表面上は腕の力が増したくらいなので、彼女は、目の前の幼馴染のしがみつくような必死さの理由を別のものと勘違いしている。悲しみに耐えるために強く抱きしめているのだ、と。
悲しみが消し去られた訳では無い。不安は常につきまとっている。
しかし、彼女が隣にいるのならどんな苦難も乗り越えられる。特別な意図もなく放たれた言葉一つで、ホーキンスはそう思えてしまったのだ。
▲▲▲
澄みきった空に薄い雲がちらほらと見える。吸いこんだ空気が冷え切っていて、少し喉の調子が気にかかる。これまで人前に出ることもそうなかった身だ。良い印象を与えられるよう心掛けておいた方がいいだろう。
母の葬式は、枯れ葉が地面を彩る肌寒い日に行われた。
同時に、今日をもって父が正式に――祝いの場は日を改めて設けられる――バジル家当主となる。といっても、本人はそう気負っていなかった。「お前が力をつけるまでの繋ぎだよ」とはまさしくそうで、ホーキンスが当主として十分な力を身につけるまで彼が表舞台に立つ。重要な占いはホーキンスにも任せるが、村人たちとのやり取りは父がメインでおこなっていく、とのことだった。
ホーキンスの番がやってくる。母が散々口にしていた、「島を導く役目の重さ」がこの身にのしかかる。けれど、一人ではない。ホーキンスはそれを知っている。父が、屋敷の者たちが、そしてエヴィが絶対的な味方として支えてくれる。ならば応えなくてはならない。
村にある小さな教会にて。村長と父が主導し、葬式が始まった。ホーキンスは彼らの一歩後ろで待機する。
参列した村人たちの値踏みするような視線がホーキンスの全身を這った。自分たちの命を預けていい相手なのか。彼らの言いたいことはそれに尽きた。誰も口に出さなかったけれど、人々の目は雄弁に物語っていた。
エヴィの友人らしき顔も見えるが、彼らの視線はまた別の厳しさを持つ。ホーキンスが友達の相手としてふさわしいのか。そうでなければ、たとえこの島の権力者であったとしても口出ししてやる、と言いたげな面持ちだ。ホーキンスの身の振り方一つで敵にも味方にもなるだろう。
普段はバジル家を嫌悪する者も、表面上はしめやかな態度をとっている。人一人が亡くなっているからと、神妙な顔で参列するくらいの情けはあるらしい。
この村の者たちは皆そうだ。ホーキンスたちと噛み合わないとしても、どこか憎みきれない素直さがある。それ故、なぜここまでぶつかるようになったのか疑問でもあった。
式が進み、設けられた壇上で喪主である父の挨拶が終わると、ホーキンスもその場に来るよう促される。事前に話を通されていたとはいえ、多少の緊張を隠しながら歩いていく。父がいた場所を譲られ、壇上に立つ。
先ほどとは比べ物にならないくらい、参列者の視線が突き刺さる。ホーキンスは動じない。かつての母のように堂々たる態度で、用意した言葉をはきはきと述べていく。
「改めまして、本日は――――」
言わば締めの挨拶だ。父が当主になったとはいえ、いずれはホーキンスがその座につく。この子どもはそういう立場の人間だと村人に示すための顔見せ。挨拶だって儀礼的なもので、ホーキンスが取り返しのつかないミスをすることもない。
それなのに、祈るように手を握りしめ、眉を寄せてホーキンスを見上げる少女がいた。エヴィだ。彼女の両親がエヴィの肩を抑えている。彼らがいなかったのなら、今にもこちらに駆け寄ってきそうだった。ホーキンスが壇上に上がり、注目を受けている間。彼女はずっと不安げな顔をやめなかった。
見方によっては薄情な人間のように映るであろう数分程度の挨拶を終え、父と入れ替わる形で壇上を降りる。ちら、とエヴィを見ると、あからさまにほっとした表情に変わっていた。目が合う。彼女がふわりと微笑む。
お疲れさま。
無言でも伝わってくる労りに、ホーキンスは目を細めて返事をした。
▲▲▲
故人に別れを告げ、埋葬する。
おこなっている最中は苦しいのに、文字にしてしまえばこんなにもあっさりとしている。
母の葬式は滞りなく終わった。無駄を好まない彼女らしいスムーズな式だった。トラブルが発生した場合に備えて何パターンか予測を立てていたが、必要なくなったのは幸いである。
ホーキンスたちの気持ちは別として、表向きにやらなくてはいけない行事の一つをやり遂げ、区切りがついた。強ばっていた体も力を抜ける。
村人たちが帰路につき、屋敷に戻る。使用人が片付けをしている中、ホーキンスは庭先でぼんやりと佇む父に声をかけた。
秋めいた庭は季節の花が咲き誇り、木々が赤や黄色に色づいている。中にはホーキンスが生まれた時に植えられた木もあるが、父の視界にはそのどれも映っていないようだった。
息子に呼びかけられた父はハッとして振り向き、笑みを浮かべた。目の下にうっすらと隈ができている。どことなく表情がかたい。
「とうとう母さんがいってしまったね」
「……はい」
「不安に思うことはないよ。まだぼくがいるからね。お前が成長するまで、きちんと繋ぎの役目を果たしてみせるとも」
胸を張ってそう言い切った父に、ホーキンスは頷く。彼の能力を信頼している。それ故の無言だったが、父の表情は崩れかけ、笑みの残骸のようなものが浮かぶ。
「母さんが言ったんだ。ぼくはきちんとやり遂げられるって。お前はいつか母さんを超えるだろうが、母さんだってすごい占い師なんだぞ。その彼女が言うんだから間違いない。父さんに任せなさい」
普段以上に饒舌な彼は、ホーキンスの前だからこそ父親でいるつもりらしかった。愛する妻を亡くしても、同じく心を痛めているであろう息子を励まそうとする。
父はいつ父でなくなるのだろう。一人の男として悲しむことはできたのだろうか。問いかけたところで、「子どもが気にするもんじゃないよ」と誤魔化されてしまうだろうけれど。
思えば、こうして父と落ち着いて話す機会はそうなかったかもしれない。当主教育の都合上、ホーキンスは母と接する時間の方が長かった。会う度に身体的接触を図ってきたのは、そんな中で息子とコミュニケーションをとろうとした、彼なりの努力だったのか。
ひゅう、と冷たい風が頬を撫でた。二人して顔を見合わせ、屋敷の中に入る。てっきり父は仕事を片付けにいくのかと思っていたのだが、彼は少ししゃがんでホーキンスに目線を合わせた。夜になったら父の書斎を訪ねろと言い、くしゃりと笑って付け足した。
「寝る前にもう少し話したいんだ。ぼくがお茶を入れるから、一杯付き合ってくれるかい」
父の書斎にふわりと心地よい香りが漂う。母の部屋でよく嗅いだもの。彼女が手ずから淹れた紅茶もこんな香りをしていた。
母と比べるとおぼつかない手付きではあるものの、父は二つのティーカップに紅茶を注ぎ入れ、片方をホーキンスの目の前に差し出した。テーブルの中央には大皿が一つ。ホーキンスたちで食べるには十分な量のクッキーが乗っている。
「コックに言ったら用意してくれてね。この時間のお菓子も今日はいいってことにしよう」
おどけたように言って一枚つまむ彼は、日が落ちるまでに気持ちを整えたのか、庭での疲れ切った様子は跡形もない。話というのも単にコミュニケーションをとりたいとのことで、母からの遺言があるわけではなさそうだ。紅茶に口をつけながら父の様子を伺うが、彼は葬式の準備中に村長や村人との間で起きた出来事を面白おかしく語るばかり。そちらにも興味を惹かれるが、ホーキンスは別の話を切り出した。
「お父様」
「なんだい、ホーキンス」
「お父様はお母様が亡くなって、とても悲しまれているようですが……。運命の人の死とは、それほどにつらいものなのですか」
「そうだね……確かに、お前の母さんはぼくの運命の人だ。でもね、ぼくが悲しんでいるのは、彼女への愛の理由は、天の定めだけじゃない。分かるかい」
自らの動揺を棚に上げて尋ねたホーキンスを父は咎めず、かつての出会いを思い返すような目をした。酒は入っていないが、今夜の彼は真面目に答えてくれるようだった。
「彼女を一目見て好きになった。それはきっかけに過ぎないんだ。共に過ごすうちに愛が深まって、ますます彼女しかいないと思うようになったのさ」
母さんに出会えたのがぼくの人生で一番の幸運だったよ、と締めくくり、照れくさそうに顔をほころばせた。紅茶で喉を潤した父は、息子の暗い表情に気づく。
「心配かい。エヴィが、運命の相手でないことが」
「……はい」
「大丈夫だよ。母さんも言っていただろう? お前とエヴィは絶対結ばれるって。それに、お前が運命の相手と出会ったとしても、彼女は
時計の針の音が響く。窓に吹き付ける風が強まっている。暖炉の火がはぜているが、その熱はホーキンスには届かない。
父はホーキンスの震えに気づいて「寒いのかい」と問いかけた。
目の前に座る彼が、見知らぬ生き物のように映った。
足場が突如崩れ落ちたような感覚。身を預けていた相手が敵だと判明したかの如く、全身を恐怖が駆け抜けた。
父は何を勘違いしたのか、席を立ってホーキンスの側にやってきた。硬直するホーキンスの肩を抱き、慈愛に満ちた声色で続けた。
「下手な相手を選んでしまうと、別れ際に厄介なことになる。その点でもエヴィは素晴らしい女の子だよ。お前が望めば、お前の幸せを願ってすんなり別れてくれる。愛人になってほしいと言えば、本心はどうであれその通りにするだろう。なにより
「な、にを……」
「ちゃんとそこまで占ってたのさ、ぼくたちは。そうでなきゃ手放しで応援したりしないよ。エヴィは信頼のおける子だ。彼女を選んだお前の審美眼が誇らしいよ」
エヴィを褒めたたえているようで、その実彼女を軽んじた言葉が次々飛び出してくる。発言者は自分の父親。エヴィを好意的に見ていたはずの、ホーキンスとの仲を応援すると言ってくれたはずの彼が、「ホーキンスのため」を思ってホーキンスとエヴィの思いを踏みにじる。
「おれは、心変わりなど、」
「もちろん可能性でしかない。でも可能性はゼロじゃないんだ。どうしたって巡り会い、惹かれ合ってしまうからこそ運命の相手と呼ぶんだよ、ホーキンス。もしもを考えておくのは大事なことだ」
息ができなくなりそうだった。それでもここで反論しなくてはと口を開くが、あっさり遮られてしまう。恐々と父の方に顔を向けた。へらへらした笑みを見れば、少しは落ち着くかと思った。
父は笑っていなかった。いつになく真剣な眼差しで、駄々をこねる子どもを諭すように。実際、彼はホーキンスに理解しておいてほしかったのだろう。いつまでも夢見がちな子どもでいては多くの人が傷つくから、現実を見て備えておくに越したことはない、と。
「ぼく達はね、彼女と会ったときにお願いしたのさ。「ホーキンスを頼む」ってね。あの時の彼女はただの友達として請け負ってくれたんだろうけど、恋人になればなおさらしっかりやってくれるよ」
顔色の悪いホーキンスを抱き寄せ、やさしくやさしく頭を撫でる。父の手を振り払いたかったが、ホーキンスはその気力すらなくしていた。父は話し続ける。
「エヴィは責任感のあるいい子だから、もしお前に愛想を尽かしても、私たちに頼まれたことを思い出してすぐには立ち去らないだろう。逆に、私たちに不信感を抱いたとしても、お前への愛情があればなにがあろうと側に居続けるだろう。どちらにしろ、彼女がお前から離れることはないよ。安心しなさい」
彼はあくまでもホーキンスの不安を取り除くために言葉を紡いでいる。聞いていられないと耳を塞いだところで、二人の仲を引き裂く気はないのだという父の心情は指の隙間から入りこむ。
「口に出すというのは大切なことだ。ぼくは彼女に何度も「信頼できる」と言った。母さんは「任せる」と言った。どちらもエヴィを縛るには十分さ。元々の姿がそうでなかったとしても、言われた姿に寄せてしまう。彼女みたいな素直な子なら尚更ね。そこにお前からの愛の言葉があれば確実だ。きちんと思いを伝えるんだよ」
やめろ、おれの愛を呪いにするな!!
ホーキンスは父を突き飛ばしてそう叫ぼうとした。できなかった。自分の愛は呪いでないとは言い切れなかった。芽生えたばかりのときはもっと透き通っていたはずのこの思いは、仕舞いこんでいるうちにどろついたものへと変わり果てていた。父の「彼女がお前から離れることはない」という言葉に、わずかでも安堵してしまったのがその証明だ。
ホーキンスの口からこぼれ落ちる愛がエヴィを縛る鎖と成り果てて、彼女に触れた分だけ穢してしまうとしても。エヴィは無邪気に全てを受け入れるだろう。ホーキンスが差し出したものをきらきらした宝石のように扱って、ありったけの愛を返してくる。
囁かれた愛が自分を追いつめるとも知らずに。
「……お父様の話に、エヴィの幸せがあるとは思えません」
「でもホーキンス、」
「ここまでの発言は、聞かなかったことにします。おれはあなたを嫌いたくない」
葛藤の末、何とか絞り出したのはそんな言葉だった。父に対する信頼を失ったとて、ホーキンスは彼の力を借りねば生きていけない身である。関係の悪化は避けたい。
何より、父を責め立てられるほど自分の正しさを確信できなかった。ホーキンスはずっと恐れている。運命の相手が現れて、積み重ねてきた全てが失われる未来を。ホーキンスが苦しむその問題に一番寄り添っているのは両親なのだ。どれだけ気持ちのすれ違いがあったとしても、彼らは息子が抱くであろう不安を察し、先んじて策を講じていたにすぎない。
ホーキンスは父の手から逃れ、扉に向かう。後ろから父が呼びかける。
「ぼくたちは心の底からお前たちを応援してるんだよ。エヴィに好印象を抱いたことも、彼女にお前を任せたいと思ったのも、お前たちが結ばれて幸せになることも、全部本当だ。本気で願っているんだ」
そこには追いすがるような色があったが、ホーキンスは振り返らなかった。とにかく今はここから離れるべきだと、その一心で足を動かして。
自室に戻ったホーキンスは窓辺に近寄り、カーテンを開いた。
窓の向こうを眺めるのに椅子が必要なくなるほど、この体は成長した。エヴィと出会って十年ほどの月日が経ち、ホーキンスたちも村の様子も変わり続けている。変わらないものがあるとすれば、エヴィがホーキンスに向ける笑顔くらいなものだ。
夜が更け、村の家々は寝静まっている。寒々しい月明かりが照らすその中に、エヴィの家も並ぶ。彼女はどんな夢を見ているのだろう。夢すら見ないくらいにぐっすりと眠れていればいい、と思いを馳せる。
はたと気づく。誰かの幸福を願うこの気持ちは、両親のものと何が違うのか、と。
両親はホーキンスを案じている。バジル家の存続のためだけではない。自分たちの子どもが幸福であるようにと動いている。「良い親」とされる類の願い。
彼らはホーキンスを愛している。ホーキンスの幸せのためならば、他所の娘がどうなろうと構わないのだ。
ホーキンスはそんな彼らを嫌悪した。けれど、今後エヴィの幸せを邪魔する者が現れたのなら、自分だってなりふり構わず動くはずだ。優先順位がある。仕方ないと切り捨てられる。彼らと何が違う? 同じだ。自分は同じことをする。
ホーキンスはまだ大人ではない。けれど、愛が清く澄んだものばかりではないのだと知っていた。愛しているからといって、好ましい方向に進むとは限らない。
一番嫌なのは、それらを理解した上でホーキンス自身もまた、愛することをやめられないという事実だった。