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あなたの手が汚れませんように/ロシー
ロシナンテはドジで弱くて小さくて、いつも誰かに守られている。昔住んでいたきれいな場所でもよく物を落としたりひっくり返してしまったりして、その度誰かに片付けてもらっていた。転ばないように、と兄が手を繋いでくれるようにもなった。
「まったく、ロシーはしかたないやつだえ」
口ではそう言いつつも、おれはロシーの兄上だからな、と胸を張って、疎むことなく遊びへ連れ出してくれる。
兄はいつだってロシナンテを守ってくれた。何もないところで転んで泣けばすっ飛んできて慰めてくれたし、他の人にひどいことを言われたら代わりにすぐ言い返してくれた。
引っ越して生活環境ががらりと変わっても、兄の愛情は変わらなかった。彼にとってつらいことだらけでも、ロシナンテの前では強く頼りがいのある存在でいた。
いじわるをしても、ロシナンテが泣いたらすぐやめて、機嫌を取ろうとしてくれる優しい兄。母も父も、みんな優しくて、大好きな家族だ。
だから、なぜ兄が父に銃を向けているのか分からなかった。
最近――怪我が治り、元いた小屋に戻ってから――一人で街に、ヴェルゴに会いにいくことが増えた兄は、同時にロシナンテ達と過ごす時間が減った。
友達ができたんだろう、と父は言った。ロシナンテから見たヴェルゴは恐ろしい雰囲気を纏う人だったが、兄の友達であれば悪い人ではないのだろうと思っていた。
さみしい時もあるけれど、ずっと頑張っていた兄が誰かと仲良くするのを邪魔したくなくて。せめて、との思いで帰ってきた兄と話す時間を大切にしていた。
それなのに。
幼いロシナンテだって銃口を向ける意味を知っている。引き金を引くと誰か死ぬ。兄が教えてくれた。
死ぬということを知っている。母は死んでしまった。体がかたく冷たくなり、何も言わなくなってしまった。土の下で眠る、二度と会えない人になった。
兄は冗談でこんなことをする人ではない。最近父と仲が悪そうだとは思っていたけれど、でも、だって、家族なのだ。ロシナンテが父を大好きなように、兄も父を大好きなはずだ。
兄は言う。父の首を持って聖地に帰るのだと。
帰るのならみんな一緒じゃなきゃ嫌だ。殺さないでとロシナンテは泣いた。
兄は止まってくれない。火炙りにされたあの日のように、全身で怒りを表して、決して許さないとばかりに父を睨みつけている。
父は兄の行動に目を見開いていたが、驚きはしなかった。ああ、と納得したような声を漏らして、ロシナンテを抱きしめた。
兄に背を向けて、彼は笑っていた。泣いていた。
――――なぜ笑っているの?
ロシナンテはずっと叫んでいた。やめて、と何度も何度も懇願した。
二人には届かなかった。兄の怒りは誰にも止められない。父はその怒りを受け止める気でいた。
兄に縋りつこうにも、父の腕は決して振りほどけず、抱きしめられたまま動けない。父の涙がロシナンテの頬に落ちる。彼の心臓がとくんとくんと動いている。この音が止まってしまうなんて考えたくもない。
早くアルマに帰ってきてほしかった。
彼女は今、仕事をするため街にいる。元いた家で暮らしていけなくなったから、とロシナンテ達と共に暮らすようになって、例のヴェルゴに仕事をもらいながら生活しているのだ。
故に、そう簡単には帰ってこない。分かっている。
けれど、兄を止められるとしたら彼女しかいない。兄と同じくらい怒って殴り合うことのできる人は、きっとアルマだけだ。
父がにっこりと笑う。優しい笑み。彼の人柄が現れている、心底申し訳ないという微笑みで。
「私が父親で、ごめんな」
そんなこと言ってほしくなかったのに!
早く、誰か助けにきて!
▽▽▽
父が謝った瞬間、ロシナンテの視界の端に黒い影が映った。弾丸のように飛んできたそれは兄を巻き込んで転がっていった。
兄の驚いた声、続いて銃声。ロシナンテの喉からヒッと悲鳴が出る。父、父は。
見上げると、彼はすぐ側を見ていた。地面になにかめり込んでいて、さっき撃ったものがここに着地したのだと知る。
兄が飛んでいった先を確認すると、いつぞや見たものと似た光景が広がっていた。
そこにはアルマがいた。全速力で走ってきたのか、荒い呼吸を整えている。
来てくれたんだ。やっぱり、アルマなら兄を止められるんだ。ロシナンテの中でぶわりと熱いものが広がった。
父にしかと抱きつきながら、そして今度は父もロシナンテを抱き寄せ、二人してアルマの様子をうかがった。
アルマは兄に跨って、銃を持つ手を押さえつけていた。兄はすぐに跳ねのけようとして失敗した。兄の指がアルマの肌を引っ掻いたが、彼女はそのまま銃を奪い取って遠くに投げ捨てた。
銃の方向に、兄の指先が向いている。アルマがなにかに気がついて、その「なにか」――目に見えないくらいに細い糸をつまみ上げた。引っ張ると銃が動く。どうやら自分と銃を糸で繋いでいたらしい。それだけのはずだが、アルマは眉をひそめている。
彼女は糸をぷち、とちぎって、兄を見る。正体不明の怪物を目の当たりにしているみたいに、どこか緊張した面持ちで。
兄が悔しそうに舌打ちした。きっと彼も睨み返しているのだろう。
「やっぱりね。あいつら、やけに私を引き留めようとするからおかしいと思ったんだ」
「クソッ、どけよ!! 邪魔するな!!」
「自分が何しようとしてたか分かってんの?」
平静を装いながらアルマが問う。心当たりのある名前を出す。
「誰の入れ知恵? ヴェルゴ? ……それとも、もっと上のやつ?」
「……お前だよ」
兄は多少冷静になったのか、低い声で一言返す。あり得ないことを。
そんなわけない。ロシナンテはそう口を挟もうとした。
アルマの表情が抜け落ちるのを見た。次いで、青ざめていくのも。
「……聞いたんだ。私のやったこと」
「街のやつなら誰でも知ってんだろ。お前だって親を殺した。おれを止める筋合いはねェ」
「だからこそ止めてるんだよ」
なんでアルマは肯定しているの?
ロシナンテの体がこわばったのに気がついたのか、父は頭を撫でてくれた。ほんの少しだけ落ち着いて、涙をぐっとこらえて、彼らの問答を聞く。
二人の力は拮抗している。片方が腕の力で押し切ろうとすると、相手が足を使って崩そうとする。
殴ろうとすればその隙をつかれるだろう。逃げ出せば背中を狙われるだろう。
かつての大喧嘩との違いはこの場に漂う空気だけ。
ここでの勝ち負けが人生を左右するかのような、そんな重い空気が全員にのしかかっていた。
睨み合いの末、アルマはすっ、と兄に顔を寄せた。彼女の髪がばさりと広がって、ロシナンテ達には表情が見えなくなってしまう。
黒いカーテンの向こうで、こっそりと打ち明けるように囁く声がする。ロシナンテ達の耳にもぎりぎり届いてしまった公然の秘密。
「そうだよ。私、お父さんとお母さんを殺した。自分のために」
「っ……!!」
ロシナンテは自分の耳を疑った。
怖い一面があるにしろ、アルマは基本的に親切な人だ。たまたま出会っただけのロシナンテ達を助けてくれた。そのせいで自分がひどい目にあっても、ロシナンテを見る目に敵意はなかった。とうとう拒んだ時ですら、彼女はロシナンテを殴らなかった。そんな人が、と。
けれども、アルマの静かな声が、かすかに震える体が。
その発言を真実だと示していた。
「大人二人を養う余裕なんてなかったから。この人達を殺せばなんとか生活していけるって分かってたから、殺したの。実際そうだった」
「なら――」
「でもあんたはちがうでしょ」
声色が一変した。突き放すように畳みかけていく。
「天竜人が人間のお願いなんて聞くわけない。その人を殺したところで無駄になるだけだよ」
「っ……おれはお前達と違う! そんなの、やらなきゃ分かんねェだろ!!」
「自分でも理解してるんでしょ? あんたらがこんな目にあっても助けがこないって、それが答えじゃん。たかが男の首一つでどうにかなると思ってるの? この土地で何を学んできたの?」
彼女の詰問に心当たりがあったのか、兄は即答できなかった。何か言おうとして、つまって。迷いがあった。
アルマはそれを見逃さなかった。
大きくのけぞったかと思うと、自身の額を勢いよく兄の頭に打ちつけた。
一度アルマが攻めに出ると、それを皮切りに争いが始まった。先ほどのやり取りの名残りか、アルマが押し気味になっている。兄とてただやられている訳ではないけども、その反撃は逆転させるには至らない。
時折、あの糸がアルマの手足に絡みつく。彼女は肌に食い込むのも厭わずに引きちぎる。勢いは止まらない。髪や服を掴まれても拳を振りぬくスピードは衰えない。
父と二人、どのタイミングで止めに入るか顔を見合わせる。殴り合う音が続く。無言になった分激しさが増していく。
アルマの首元で糸がきらりと反射して、ロシナンテは「あ」と声を出してしまう。彼女はこちらを一瞥もしなかったが、自分の首がしまったことで原因を把握したらしい。
外す暇も無く狭められていく糸の輪が、彼女の細い首にめり込んでいく。兄は勝ちを確信してアルマに呼びかける。
「ほら、さっさとどかねェとこのまま――」
アルマは体制を変えて兄を抱きしめた。違う。首に腕をまわし、全力で力を込めている。もう片方の腕や両足、全身を使って兄が逃げ出せないようにした上で、兄の首を絞めているのだ。
当然彼女自身の首も締まっていく。今さら糸が離れたところで首に跡が残りそうなくらいにきつく締められている。兄が抵抗も兼ねてやっているのだろうが、アルマが苦しめば苦しむほど彼女の込める力も強まった。
終わらせるには兄が死ぬか、アルマが死ぬか。どちらかしかない。
父が動くより早く、ロシナンテは飛び出した。
「もうやめてよ!!」
二人の目が自分に向けられたのが分かった。どちらも顔が真っ赤で、そして――。
――――兄の体から力の抜けてずり落ちる。必死に呼びかけながら駆け寄ると、かすかに胸が上下していて、死んでいないことに安心する。
アルマがしばらくむせた後、あは、とわらう。さっきまでの真剣な声色とは打って変わって、自嘲めいた笑み。
「私と同じことして、幸せになれるわけないのに。馬鹿みたい……」
その時の表情が今にも泣きそうだったから。
さっきまでの恐ろしい姿との落差でロシナンテは混乱していた。この人は優しくて、でも自分のために親を殺せてしまう人で、兄に首を絞められても締め返すだけの暴力性があって。ロシナンテが怪我をしないように抱きとめてくれたのも事実で。
ふと、アルマの視線に気づく。彼女がそっとロシナンテの頬に手をやった。反射的にその手を避けてしまう。彼女はしまったという顔をする。
ごめんね、と呟く声があまりに弱弱しくて、ほんの少し、恐れる気持ちが薄れていく。
「大丈夫……?」
「私は大丈夫だよ。こいつもまあ、まだ息はしてる。……あんたの兄さんにひどいことしてごめん」
「それは、そうだけど……でも、来てくれてよかった。あのままじゃ、きっと……」
きっと、弾丸は父を貫いていた。
兄は父の首と引き換えにかつての栄光を取り戻そうとするだろう。そんなものに何の価値があるのか。ロシナンテはとうとう兄の考えが分からなくなってしまった。
「ドフィを止めてくれてありがとう。……私は親殺しをさせてしまうところだった」
よろよろとやってきた父がロシナンテの隣に座りながら礼を述べた。アルマはうん、とだけ返した。父に向ける目が若干険しい。父も自分が良く思われていないと察したのか、それ以上言葉を続けるのをやめた。
闇を凝縮したような瞳が、父を、ロシナンテを、そして兄を見た。時計の針が一周りすらしないその間に、彼女は何かを決意したらしかった。
「……私、こいつ連れて街に行ってくるね。けしかけた奴らと話つけなくちゃいけないし」
「じゃあぼくも――」
「あんたらは足手まといになるから来ないで」
そう言いながらすたすたと歩いていき、銃を拾い上げ、土を払ってポケットにしまう。普段彼女が銃を扱わないからだろうか。その動作はどこかぎこちなく見えた。
戻ってきたアルマは兄を軽々と担ぎ、それじゃあと立ち去っていく。さっきまで大喧嘩していたとは思えないくらいにしっかりとした足取りで。
雲行きが怪しくなってきた。アルマ達が帰ってくるまで降らないでいてくれるか微妙なところだ。さっきまで空を見る余裕なんてなかったから、彼女に声かけするのを忘れてしまっていた。
父の手を引こうとすると、彼は生返事をした。しばらくの間、アルマの背中を、そして去っていった方向をじっと見つめていた。
「どうしたの?」
「……ロシー。これからすることを、アルマに言わないでいられるか?」
隠し事なんて父にしては珍しいな、と。
そしてアルマに関することで不安げな表情をする父は、もっと珍しいとロシナンテは思った。
▽▽▽
街に行くって言ったのに。
アルマはぐったりとした兄を背負って崖を歩いている。街とは全然違う場所。潮風が強まる中、道なんて無いはずのそこを器用に通り抜けていく。まるで何度も来たことがあるかのように、岩と岩の間を降りていってしまう。
ロシナンテ達は慌ててその後を追った。ごつごつした岩に足を取られそうになっては父に支えてもらうのを繰り返していたせいで、追いついた時にはもうアルマは崖下に立っていた。傍らには未だ意識のない兄が横たわっている。
彼女は小舟を押し出して海に落とす。岩の一つとロープで繋がれたそれは数人乗るのが限界という雰囲気の頼りない舟で、そこに兄が乗せられたものだから、ロシナンテ達は揃って声をあげた。
「兄上!」
「ドフィ!」
「……遅かったね」
気まずそうな顔を隠さなかったが、彼女はすぐに切り替えて親子を見返した。
「何をするつもりだ!?」
「こいつを連れて海に出る」
「海だと……?」
「別にどこでもいい。なんなら海に沈んで道連れにしてやる。この国から出すんだ。いくら言っても出ていかないならこうするしかないだろ」
これまで何度も、アルマはロシナンテ達に「出ていけ」と言ってきた。あれを彼女は実現しようとしているのか。行く当てなんてないはずなのに。
「あの日、磔にされてる時、こいつが何て言ったか聞いた? 一人残らず殺しにいくからな、って……。そんなの許せない。皆を殺させる訳にはいかない」
「考え直してくれ……! ドフィだって本気で殺す気はないはずだ。時間が経てば、そんなことしちゃいけないと気づく」
「父親に銃向けられるやつが脅しで終わる訳ないだろ。私にはわかる、だって、」
私もできるから。
似てるんだ、そういうとこは、と続けて言った。
またあの馬鹿にした笑いを浮かべて、父から目をそらす。彼女の足元で岩場を乗り越えた海水が跳ねる。これでも今日の海は静かな方で、船出も成功してしまいかねない。いや、成功したところで兄とアルマで上手くやっていくなんて想像がつかないが。
「……そんな小さな舟で海を渡るのは難しい。君だって無事では済まないだろう。落ち着きなさい」
「落ち着いてるよ。あんたこそ分かってんの? こいつ、あんたのこと殺そうとしたんだよ? しかも弟の目の前で!」
言葉とは正反対に、悲鳴じみた声で父を詰る。一言ごとに悲痛さが増していく。
怒りを湛えた声色で、けれど同じくらい悲しみに満ちた叫び。荒々しい波の音に負けないくらい張り上げた声で容赦なく問いかけられる。
「どうして庇うの? てかあの時、なんで背中向けてたわけ? 抵抗ぐらいしろよ。なに諦めてんだよ!!」
父は何も言い返せない。ぎゅ、と歯を食いしばって、嵐を耐え忍ぶかのごとくうつむいてしまった。アルマは嵐ではないから、その反応を見てさらに怒り、そして無意味だと悟って問うのをやめた。
アルマはぐったりとした兄に目をやった。自分に言い聞かせるように、はっきりと口にする。
「皆を殺させやしない。私がこいつをなんとかする。いまさら、もう一人増えたところで変わらない……」
すぐにでも抱きついて引き留めたかったが、下手に動こうものなら彼女は海に飛び込みかねない。兄を連れて海に飛び込まれてしまっては助けることは不可能だ。
そう考えて説得しようと試みる父とロシナンテがうるさかったからか、そのうちアルマは面倒くさそうな顔で兄の首元を掴んだ。
「じゃあ開放してやろうか」
心変わりしたにしては投げやりな言い方だった。否定される前提で話すみたいに。
「起きたこいつが、銃を誰に向けるのか。賭けてみる?」
「…………構わない」
「……話聞いてた? あんた死ぬよ。邪魔な私を先に撃つかもしれないけど、最終的に、こいつは絶対あんたを殺す。その後首を切り落として、聖地に行くんだ。どうせ門前払いされるだろうけど」
わざと残酷な物言いをしているのだと察していたが、それでも想像したくもない言葉が耳にへばりついて、頭の中でその光景が浮かんでしまって。ロシナンテは声をなんとか堪えていた。ここで泣きわめいてしまえばアルマはとうとう呆れ果てて行ってしまうと思ったから。
もはや兄もアルマもロシナンテにとっては理解不能で恐ろしい存在だけど、それでも死んでしまうのは嫌だ。誰かが誰かを殺すなんて冗談でも聞きたくない。
「それがドフィの選択なら、私は受け入れる」
父は否定しなかった。ロシナンテは勢いよく見上げるも、彼はこちらを見てくれない。
死ぬことを選ぶ父が、自分達のために死のうとする父が、悲しくてたまらなかった。
なにより、ロシナンテがやめてと言ったところで父の気持ちは変わらないのだと思うと、自分の無力さで胸が張り裂けそうだった。
「はあ!? あんた、馬っ鹿じゃないの!?」
これまでで一番の大声を出してアルマが怒鳴った。一瞬彼女の目線がこちらを向いて、みっともない泣き顔を見られてしまう。彼女はくしゃりと顔を歪めた。
「〜っ!! こいつも! そのチビも! あんたが死んだ後どうなるんだよ!! 父親なら責任持って育てろよ!! 死んで詫びようとか考えてんじゃねェだろうな!?」
「しかし、今の状況を変えるにはそうするしか、」
「だからさァ! 無駄死にになるっつってんの! あんたの首は腐るだけ! 息子達の助けになんかならねェの!! 生きてどうにかする方法を考えろよ!!」
今まさに兄を殺そうとしている者が言うにはあまりにおかしな発言だった。同時に、彼女はきっと繰り返し考え続けていたのだ、と思う。どうすればロシナンテ達と街の人々、どちらも救えるのか。解決策が出せなくて、その間に兄がしびれを切らして銃を取った。彼女はこうなったらもう無理だと判断した。
殺すしかない。兄もアルマも、その思考に至れば行動に移せてしまう人だから。
でも、それならなぜポケットにある銃を使わないのだろう。兄だけ乗せて舟を流すことだってできたはずだ。自分ごと死にに行かなくてもいいはずなのに。ロシナンテには分からない。理解できるとも思わない。
アルマはさらに目を吊り上げ口を開け、何も言わずに閉じて、大きなため息を吐いた。兄は依然として気絶したままで。船が波に揺られては岩にぶつかるのを繰り返している。
「……話にならない。あんたの言うことなんざ聞こうとした私が馬鹿だった」
兄の首元から手を放し、言うが早いが彼女も小舟に乗り込んだ。ロシナンテ達が驚いている間にロープがたやすく外される。流れの早い北の海は小舟を掴み、さらっていく。
「こいつのことは諦めな!」
アルマは捨て台詞を残して笑う。流れに乗った舟は風にあおられて一気に岩場から離れていく。この調子ならばそう時間もかからず遠くに行けてしまう。
「うまくやりゃここで生きていけるよ、たぶんね。頑張んなよお父さん」
海に落ちるギリギリまで身を乗り出して「いかないでくれ!」と叫ぶ父にそう投げかけ、浮かべた笑みを崩しながら兄に目を落とした。
「兄上!」
「待ちなさい、ロシナンテ!」
父と揃って身を乗り出していたロシナンテが、ドジをしないでいられる訳がなかった。父が受け止めようとした手をすり抜けて、底の見えない海に真っ逆さま。
今どうなっているかも分からないうちに、喉に水が入り込む。むせて息ができなくなる。水を吸った服が重くて、体が思うように動かなくて、手足を必死に動かした。
耳にまで水が入ってしまったせいか、誰かからの呼びかけがくぐもっていて聞こえない。でも、ロシナンテを抱き上げてくれたのは大人の手だった。父だ。よかった。助かった――助かった?
昔住んでいた土地で海水浴の授業はなかった。父も学んではいないはずで、それなのにこうして一緒に海にいるということは。
ロシナンテを抱いたまま、父の体が沈んでいく。溺れている間に流されたのか、気がついたら岩場が遠くにあった。そこまで泳げそうにない。沈む。父が、息子だけでも、と高く持ち上げようとする。
「なにやってんだ馬鹿!!」
どぼん、と落ちる音。聞きなじみのある声が近づいてくる。
「手ェ放すなよ!!」
父ごとロシナンテは運ばれていく。かたい何かに体をぶつけながらも、空気の吸える場所に引きずり上げられる。その場が盛大に揺れ、また安定した状態に戻る。
親子はあの小舟の上にいた。
一家に地獄を見せたあの街が、国が、だんだん遠くなっていく。
北の海は一度流れに乗った舟を手放さず、いつものように激しく、けれども確実に船を海へと運んでいった。風は強く優しく帆を押した。血と貧困に塗れた国を出るにしては、ずいぶんと静かな船出だった。
誰かに見つかることもなく、やがて陸地は視界から消え、大海原だけが彼らを取り囲んでいた。
「どうすんだよ……」
びしょ濡れで頭を抱えるアルマの背後で、小舟の帆が風を孕む。兄はまだ起きない。
▽▽▽
始まりが比較的穏やかだったのは、後戻りできないくらいに進ませるためだったのかもしれない。
海のど真ん中。まだ陸地が豆粒ほどにも見えない海の上で、次第に空が曇っていくのを眺めていた。眺める以外にできることがなかったから。
そもそも海図すら持たずに船出したので、どれだけ行けば次の島に着くかも定かではない。当然航海術を学んだ人もいない。肌に触れる風が明らかに激しくなっていく。
そんな中、ロシナンテの膝の上で兄は目を覚ました。起きてすぐ弟の顔を、次いでその後ろに広がる悪天候を確認して、彼はしばし硬直していた。小舟がもうだいぶ揺れるようになっていて、進路変更を諦めたアルマがうずくまったままそれを見る。嵐を抜けるのは無理そうなので、せめて耐え抜く体力を残したいとのことだった。
やがて降り出した冷たい雨粒が全身を打つ。アルマは空をぽけーっと見上げている。たぶん口の中にいくらか雨が入ってしまっているが、ここまで濡れたら誤差の範囲だろうな、と思う。
「っおい!! どういうことだ!?」
「起きるのおっそ」
「ふざけてんのか!?」
「立つなよ……あ、いいや立って。暴れていいよ。この舟ひっくり返してよ。遅かれ早かれそうなるんだし」
兄に掴みかかられてもアルマの張りつめた糸が切れたような態度は変わらない。兄は弟の無事を確認し、父の顔を見て重い舌打ちをした後、アルマを殴るのを優先した。今回ばかりは彼女も殴り返さなかった。
数発殴ったところで小舟の揺れが危うくなってきたため、兄は青筋を立てながらも一旦引き、状況説明を求めた。顔に青あざのできたアルマはざっくりと経緯を述べ、「で、このまま死ぬのを待つだけって感じ」と話を締めた。もう一発殴られていた。
二人がそんなやり取りをしている間にも嵐はひどくなっていく。先ほどの揺れだって殴った反動でなく波によるものだった可能性がある。風が強くて互いの声も聞こえなくなってきたので兄はずっと声を張っているし、アルマは全部聞き流して遠くの雷を見ている。
父はロシナンテを抱えながらこの光景を眺めていた。小声で母の名前を呼び、謝り続けているのを、ロシナンテだけが知っていた。
ついにアルマは小舟の端へ乗り出した。全身で雨粒と強風を受け、大笑いしている。父とロシナンテは今にも壊れそうな小舟にしがみつくので必死だ。兄はアルマを責めるけれど、彼女は全くダメージを受けていない。もしくは、もはやそういう段階を通り越したのか。
「あははは!! なんも見えない!!」
「何笑ってんだ!! お前のっ、お前のせいで!!」
「そうだよ全部私のせいだ!! お前らはこの海で死ぬんだよバーカ!! ぎゃはは!!」
「おれが憎いならおれだけ連れてきゃよかっただろ!? なんでロシーまでっ」
「仕方ないじゃん言うこと聞かないんだからさあ!!?」
その正気とは思えない声色に兄は言葉を途切れさせ、ロシナンテの心臓は止まりかけた。めちゃくちゃなことばかり続いている。連れ出した本人すらこの様子となれば、いよいよ生存は絶望的である。
口調の激しさと打って変わって、アルマは薄い微笑みをたたえて振り向いた。もはや意味のない舵取りをやめたものの、船の
頭上の雲よりどす黒い瞳が弧を描く。一瞬、そこに光を見た気がした。すぐに雷の落ちた音が聞こえて、今のは単なる光の反射だったのだと思い知る。
もうじき死ぬのだ、と。ロシナンテは幼心にはっきりと感じていた。
父は息子達と――アルマを、その両手にしっかりと抱きしめた。二本の腕の中でぎゅうぎゅうになっている子供達に向けて、彼は嵐に負けない大声で叫ぶ。
「大丈夫だ! きっと生きて切り抜けられる! 私から離れるな!!」
「怪物」の体は案外ふにゃふにゃしているのだと、その時初めて知った。怪物だと思っていたかった。同じ人間なのだとわかっていた。
「なんで」
兄弟はその迷子のような囁きを聞き取った。
さっきまで笑い狂っていた少女は、狂気のベールを脱ぎ捨てて弱さを晒していた。
ロシナンテは、なぜ怪物でいてくれなかったのか、と恨むことすらできない事実を嘆いた。
けれどそんなことしなくたってこのまま海の藻屑となるのだから、今だけはいっしょに抱きしめられていてもいいのかもしれない。恨まなくて済むのなら、大好きな優しいアルマでいてくれるのなら。
ひときわ激しい波が彼らを襲う。頼りない小舟はとうとうひっくり返されて、みんないっしょに海へと落ちる。水面に全身を打たれた衝撃で、家族の手は一瞬離れてしまった。
目の前すら見えない豪雨の中、指先だけでも掴もうとそれぞれが手を伸ばす。ロシナンテは運良く父の手を掴んだ。兄もアルマも見当たらない。見つけたところで手は届かない。
同時に、また大きな波がくる。水面にすら上がれず、二人は暗い海に飲まれていく……。
***
嵐の向こう側。一隻の軍艦が荒れた海をゆく。
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