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間合いに入るな/ドフィ
ドフラミンゴは時折、手負いの獣のような少女に殴られたあの日を思い返す。決していい思い出ではない。過去の汚点ですらある。しかし少女の全てを忘れてしまうのは惜しいと思う、それが男の答えだった。あの瞬間、怒りに身を任せて飛びかかったのを境に始まった殴り合いは、ドフラミンゴと少女を二人きりの世界に閉じ込めた。何もかもが二人を痛めつける世の中で、拳を振り上げたひとときだけは、お互いしか見えていなかった。目の前の憎い生き物をぶちのめすことだけを考えて、同等の力を持つ二人は相手を殴り引っ張り蹴っ飛ばし、縺れて地に臥した。
生きていて初めて対等に殴り合った相手。ドフラミンゴが気に食わないのだと、一人で立ち向かってきた子供。武器も能力もない、箱入り息子のドフラミンゴと殴り合って引き分けとなるほど弱っていた少女。何が自分の感性に触れたのだろう、と考え、無駄な時間だと振り払う。どれか一つではなく、あの女の全てがドフラミンゴの生き様に食い込んでいる。切り捨てようとすれば自身の肉までもを失う覚悟が必要だと薄々勘づいていた。
だからドフラミンゴはいつだって、手慰みに書いていた何度目かの殺害計画をぐしゃりと握り潰し、女との出会いを脳裏へと浮かべるに留めたのである。
***
人間として、家族四人慎ましやかに暮らしていくのだと父――ドンキホーテ・ホーミングは言った。地上に降りてきた元天竜人の存在を知った人間達は、そんな彼らを許さなかった。天竜人のあらゆる罪は人々の目の前にいる元天竜人の、もはや身を守る術の無いドンキホーテ一家のものとされた。民衆の怒りは即座に彼らを追いつめにかかった。怨嗟と怒号の飛び交う中、一家は当初暮らす予定だった屋敷と生活資金を捨てることと引き換えに命からがら逃げ出した。
雨露はかろうじてしのげても、隙間から冷たい風がドフラミンゴの体を切り裂く、そんな小屋に一家はいた。ゴミに囲まれたそこは当然ながら悪臭に包まれ、天竜人時代には一度だって見たことのない醜悪な虫があちらこちらで蠢いていた。落ち着いて腰を降ろすことすらできないとドフラミンゴは両親に訴えると、二人は眉を下げ、お互いの顔を見合わせた。そして父は自らの服を一枚脱ぎ、埃や泥にまみれた床へと敷いた。
「ここに座りなさい」
「なんで父上が脱ぐんだえ? ドレイに掃除させればいいえ! そうだ、あいつらにやらせれば――」
「ドフィ……彼らは奴隷なんかじゃないんだ。それに、私達は彼らに恨まれている。掃除の手伝いなどしてくれないだろう……」
あの時の民衆の様子を思い出したのか、父の顔は青ざめ、声が細くなっていく。ドフラミンゴはただただ怒りに満ちていた。父にこんな顔をさせるなんて、下々民のくせに天竜人に恐怖を抱かせるだなんて!
ドフラミンゴの怒りを感じ取った父は慌てて表情を取り繕い、誰にでも空元気と分かる明るさで今後の展望を口にした。
「そうだ、周辺を探索しにいかないか? ここで暮らしていくんだ、我々はこの土地をもっと知る必要がある」
「そうね、そうしましょう!」
父の提案に、様子をうかがっていた母はすぐさま乗った。両親が無理をしているのだと、子供ながらに息子達は気がついていた。それでもやはり、親が何の問題もないかのように振る舞っているのは頼りに見えるもので、ドフラミンゴとロシナンテはその言葉に飛びついた。……ドフラミンゴは「こんなゴミ山の中に出たくないえ!」だなんて文句を言ってはいたのだが。
どんなぼろ屋でも壁で囲われているだけマシなのだと、ゴミ溜めの臭いが纏わりつく中にいるとしみじみ思う。海風に吹かれて多少空気が入れ替わっている場所もあるにはあるが、長年染みついた悪臭はその程度では誤魔化せないレベルとなっている。ましてや、これまで花畑の如き麗しい香りにしか触れてこなかったドフラミンゴの鼻は耐えきれそうになく、吐き気を抑えることで精一杯という状態であった。幼いドフラミンゴですらこうなのだ、より長くマリージョアで生きていた両親はなおのこと苦痛を感じているに違いなかった。
しかし彼らは一瞬顔をしかめただけで、子供達のお手本となるべく明るく穏やかにゴミ山を歩いていた。これからの生活を相談する口調はあくまでも朗らかさを保ってはいるが、そこに滲み出す不安や混乱の気持ちをドフラミンゴは鋭敏に感じ取ってしまっていて、どうにも居心地が悪い。元々抱いていた負の感情も相まって、両親の側から離れたくなっていた。共に歩いていたロシナンテの小さな手のひらをぎゅっと握りしめ、両親へ声をかける。
「おれ達、ちょっと別のところを見てくるえ!」
「ダメだ、ドフィ。この場所は子供だけで出歩くには危険すぎる」
「……ここで暮らしていくなら、子供だけでも動けるようになっておかなきゃいけないえ! そんな遠くに行かないから!」
絶対に認めたくなかったが、父を言いくるめるためにこの土地で生きていくことに前向きな姿勢を見せてみる。父はそれをあっさり信じてしまって、不安そうな母を窘め、ドフラミンゴ達を笑顔で送り出した。
自身の手を引いて勢いよく歩いて行く兄を、ロシナンテは不思議そうに見ていた。ロシナンテは今の状況がよく分かっておらず、家族全員が揃っているということだけを認識していて、幼いロシナンテにとってはそれだけで十分だった。そうしてふにゃふにゃ笑うロシナンテに、ドフラミンゴは優しく笑いかけた。
兄弟二人の小さな体では、両親への宣言通り近くにしか行けない。ドフラミンゴとて別に逃げ出そうとしている訳ではなく、ただ両親から離れられればよかったので、両親の視界から外れた場所まで来ると比較的きれいなガラクタへ腰を下ろした。少し休憩だと言えばロシナンテも喜んで横に座る。
ようやく一息つけた、と八歳にしては大人びた思考になるくらいにはドフラミンゴは疲れていた。ゴミに囲まれたこの場所では当然落ち着けるはずもなく、苛立たしげに踵を打ちつける。愛する弟が側にいても彼の苛立ちは紛れそうになかった。
――ガタン、と何かが崩れる音がした。ドフラミンゴがそちらに目をやると、そこにいた「そいつ」も彼を見返した。ゴミ山の影から出てきた「そいつ」は、何も言わずにこちらへと近づいてきていた。さっきの音はあいつがぶつかって落ちたゴミがたてたものだ、とドフラミンゴが理解した時にはもう、「そいつ」の表情が分かるほどの距離にいた。
それは、薄汚れた子供だった。手足が棒のように細く、すり切れたシャツとズボンを身につけて、穴の空いた靴を履いた子供。衣服はサイズがあっていないのかブカブカで、只でさえ枝のような身をさらにみすぼらしいものにしていた。ドフラミンゴと同じくらいか年下くらいに見えるその子供は、ドフラミンゴ達を明らかに認識していて、ずんずんとこちらに歩みを進めていた。
べたついた黒髪が海風に揺れ、子供のしかめっ面をパサパサとはたいて見せる。これでもかと眉をひそめ、顔を真っ赤にし、口がへの字に曲がっている様は、どう見たって好意的な反応ではない。
着々と距離をつめてくる謎の子供に恐れおののいた二人は慌てて立ち上がり踵を返したが、焦ったロシナンテが足をもつれさせ、手を繋いでいたドフラミンゴごと地面に倒れ込んだ。ゴミだらけで足元が悪いはずなのに、子供の歩みはスピードを増し、あっという間に兄弟の側へとやってきた。
太陽が子供達を煌々と照らす。見知らぬ子供は上から覗き込むようにして兄弟を観察していた。逆光となったその姿は表情すらよく見えなくて、ドフラミンゴは喉奥で悲鳴をかみ殺した。何か言わなくてはと思うものの、途端に屋敷を焼いた人間達の狂気の様がフラッシュバックした。声が出ない。せめてロシナンテだけは守らなくては、と弟の傍へと這いずった。
そんなドフラミンゴを、子供は間近で見つめていた。眉間はほんの少し緩められていたけれども、依然として負の感情を顕わにしている。
幼い瞳に光はない。一家を追い立てた民衆の目つきとはまた違う、どす黒い闇に染まった瞳でドフラミンゴを見た。次いでその隣にいた半泣きのロシナンテへと目をやり、はぁ、とため息をつく。そして思い切り息を吸い込んだと思うと、
「早く出ていけ!!」
とつんざくような声で叫んだ。ゴミ山に甲高い声が響き渡るが、ここにいるのは一家と死にかけの浮浪者くらいなもので、浮浪者はガキの叫び声なぞ聞いている余裕はないものだから、今回すぐに反応したのは箱入り息子の二人だけだった。
「な、なんだえ!? おれ達に向かって怒鳴るなんて、何様のつもりだえ! さっさとひれ伏して謝らないと罰を与えるえ!」
叫ばれた衝撃でいつものペースを取り戻したドフラミンゴは、咄嗟にそう叫び返した。謝れば許してやる、というのは、ドフラミンゴにとって最大の恩情だった。普段なら即座に撃ち殺しているところだが、運悪く手元に銃がない。今のドフラミンゴはわざわざ下々民一人に時間をかけている余裕はなかったし、こんな気味の悪い子供など置いてさっさと小屋に戻りたかった。
そしてふと、ドフラミンゴは思いついた。ひれ伏すだけでは物足りない、この際こいつの無礼を理由にこき使ってやろう。この劣悪な環境で生きていくなら、手足となる奴隷がいた方がいいに決まっている。首輪も焼きごてもないけれど、ひとまずこいつを奴隷にすると宣言してしまえば――
「ドフィ! ロシー! 何があった!?」
ドフラミンゴの発言を妨げたのは、顔色を悪くして駆けつけてきた父であった。共に走ってきたらしい母も、冷や汗を流しながら兄弟の無事を確認し胸をなでおろした。両親の声を聞いたロシナンテの目がじわじわと潤みだし、ドフラミンゴの手を振り払って母の元へと駆けていく。
繋ぐ先のなくなった手をぶらつかせて、ドフラミンゴはどう説明するかに思考を回していた。先ほどの叫び声からして、この失礼な子供はどうやら少女であるようだ。だからなんだという話だが。性別など関係なく、不敬を働いた人間は死ぬべきなのだから。こいつはこのおれを、天竜人を罵ったのだから!
「父上! こいつ、おれ達に向かって怒鳴ってきたんだえ! ムカつくえ!」
いまだにドフラミンゴを睨み続ける少女を指差しそう訴えると、父は恐る恐る少女に声をかけた。声色は親しみやすさを演出しているが、何かあったら子供達を連れてすぐに逃げ出せるようにと移動するのを忘れていない。父は、ホーミングは平和主義者で全ての人と仲良くなれると本気で信じていたが、つい数時間前に起きた民衆の襲撃まではなかったことにできないようだった。
「お嬢さん、うちの息子がどうかしたかな」
「……あんた達が天竜人だって聞いた。本当なの?」
「…………ああ。でも今は違うよ。今の私達は人間だ。君達と同じ――」
「あんたの息子はそう思ってないみたいだけど」
言葉を選びながら対話を試みる父に、少女はそう吐き捨てた。思わず父が口ごもったのを見て、少女はさらにまくし立てていく。
「あんた達が来たせいで皆おかしくなっちゃったんだ。皆本当は優しい人なのにこんなことさせて、お前らのせいで、お前らさえ来なければっ……!!」
一言ごとに少女の感情は高ぶっていき、終盤はもはや声を押し殺した叫びに近かった。緩みかけていた表情はまた厳しいものに戻っていて、ドフラミンゴですら口を挟めない激情がそこにあった。少女は拳を固く握りしめていたがそれを振り上げようとはせず、ぎろりとドンキホーテ一家を見渡した。
「早くこの国から出ていけっ!!」
とどめと言わんばかりにそう吠えた後、少女はゴミ山を立ち去った。両親も弟も先ほどの剣幕に呆然としていて、ドフラミンゴだけがその背中にがなることができた。
「言われなくても出てってやるえこんな国!!」
それは少女の売り言葉に対する買い言葉でもあり、ドフラミンゴ自身の望みでもあった。こんな汚れて恐ろしい場所など、自分達に害を与える場所など、早く出ていきたい。故郷に帰りたい。そんな願いのこもった叫びは海岸へと響き渡り、かすかに震えていた。