【短編】リヴァイ・アッカーマン
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壁外調査の終わりは、いつも血の匂いと泥に塗れた絶望が支配する。だが、今回の遠征が残した爪痕は、リヴァイのこれまでの人生で経験したどの傷よりも、静かで、そして残酷なものだった。
医務室の空気は、鼻を刺すような消毒薬の匂いと、どこか冷たい湿り気を帯びている。窓の外では、季節外れの冷たい雨が石壁を打ち、規則的で物悲しいリズムを刻んでいた。
リヴァイは、その白いベッドの傍らで、凍りついたように立ち尽くしていた。
「……ナマエ」
掠れた声でその名を呼ぶ。
ベッドに横たわる彼女は、ゆっくりと瞬きをし、こちらを振り向いた。その瞳は、以前と変わらず澄んでいて、深い優しさを湛えている。だが、リヴァイを捉えたその眼差しには、決定的な何かが欠落していた。
「……あの、すみません。どなた、でしょうか?」
その一言が、鋭い刃となってリヴァイの胸を貫いた。
心臓が、一度大きく跳ね、その後でひどく冷たくなっていくのを感じる。彼女の記憶から、リヴァイという存在だけが、鮮やかなほどに脱落していた。
戦地での極限状態、彼を庇って負った衝撃が、彼女の精神から最も大切で、最も苦痛を伴う愛を切り離してしまったのだと、医師は告げた。
「……リヴァイだ。お前の上官だ」
リヴァイは、自身の震える指先を隠すように、強く拳を握りしめた。
「リヴァイ……さん」
ナマエは、その名前を咀嚼するように繰り返す。だが、そこには以前のような甘やかな響きも、二人だけの秘密を共有する親密さもなかった。ただ、見知らぬ高官に対する、礼儀正しい緊張があるだけだった。
「そうですか。……ご心配をおかけして、申し訳ありません。私の不手際です」
ナマエは申し訳なさそうに、けれど芯の強さを感じさせる口調で言った。彼女の性格――誰にでも優しく、情に厚いその性質は、記憶を失ってもなお、彼女の中に根付いている。それが、今は余計にリヴァイを孤独にさせた。
数日が過ぎても、彼女の記憶が戻る兆しはなかった。
ハンジや他の団員たちのことは覚えているのに、リヴァイの前に出ると、彼女は決まって困惑したような、どこか怯えたような顔をする。
リヴァイは、医務室の廊下で壁に背を預け、深い溜息をついた。
(……これで、いいのかもしれねぇな)
彼女の人生から、自分という男を消し去る。
巨人と戦い、死と隣り合わせの日常を送る男。彼女を何度も危険に晒し、その心に拭い切れない不安を与え続けてきた存在。もし、このまま思い出さないのであれば、彼女は普通の、穏やかな幸せを掴み直せるのではないか。
「……その方が、幸せか」
低く呟いた言葉は、誰にも届かずに消えた。
リヴァイは、彼女をもう一度手に入れることよりも、彼女の安寧を選ぼうとした。それが、彼なりの、不器用で身勝手な愛の形だった。
最後にもう一度だけ、彼女の顔を見て、それから上官としての距離に戻ろう。
そう決意して、リヴァイは医務室の扉を開けた。
ナマエは、窓際に腰掛け、夕暮れの光を浴びていた。オレンジ色の陽光が、彼女の柔らかな髪を透かし、その横顔を幻想的に描き出している。
「……兵長。また、来てくださったんですね」
ナマエは微笑んだ。その笑顔は、かつてリヴァイの心を溶かしたあの微笑みと寸分違わない。
「……具合はどうだ」
「はい。体はもう、どこも痛くありません。ただ……」
ナマエは少し言葉を濁し、自分の胸元に手を当てた。
「ただ、何だ」
「時々、胸の奥がひどく騒ぐんです。何か、とても大切で、温かくて……でも、ひどく悲しいものを忘れている気がして。リヴァイさんの顔を見ると、それが特に強くなるんです」
リヴァイは息を呑んだ。
彼は、無意識に彼女へと歩み寄っていた。靴音が静かな部屋に響く。
至近距離に立ち、リヴァイは迷った末に、彼女の細い肩に手を置いた。
その瞬間。
ナマエの身体が、微かに震えた。
リヴァイの掌から伝わる、石鹸の清廉な匂いと、彼自身の肌が持つ独特の苦味を帯びた香り。そして、かつて何度も彼女を抱きしめ、守り抜いたその力強い体温。
「あ……」
ナマエの瞳に、不意に涙が溜まった。
彼女自身、なぜ自分が泣いているのか分かっていない様子だった。ただ、脳が拒絶しても、彼女の身体が、魂が、リヴァイという存在に激しく反応していた。
「……どうして。私、あなたのことを知らないはずなのに」
大粒の涙が、彼女の頬を伝い、リヴァイの手に落ちた。
熱い。火傷をするほどに、その涙は熱かった。
「……涙が、止まらない。……悲しいわけじゃないのに。何か、すごく懐かしくて、胸が苦しい」
ナマエの声は震え、彼女は縋るようにリヴァイの制服の袖を掴んだ。
その無意識の動作。かつて、暗い夜に彼を求めた時と同じ、指先の力加減。
リヴァイの内で、理性が音を立てて崩壊した。
彼女を解放する。遠くから見守る。そんな高潔な決意は、彼女の涙一粒で、塵となって吹き飛んだ。
「……バカが。泣くな」
リヴァイは、彼女を抱き寄せた。
以前のように、壊れ物を扱うような優しさと、二度と離さないという執着を込めて。
彼女の首筋に顔を埋めると、そこには彼が愛してやまない、陽だまりのような彼女の匂いがあった。
「……忘れたなら、それでいい。何度でも、最初から教えてやる」
リヴァイは、彼女の耳元で、誓うように囁いた。
その声は、重く、深く、そして甘やかな熱を孕んでいる。
「俺が誰なのか。お前が、誰を愛していたのか。……一から、十まで、お前の身体が思い出すまでな」
ナマエは、彼の腕の中で、嗚咽を漏らしながら頷いた。
失われた記憶の淵で、二人の魂は再び強く結びつく。
それは、過去の模倣ではない。もっと新しく、もっと深く、痛みさえも愛おしむような、再演の始まりだった。
「……はい。教えてください、リヴァイさん。あなたのことを、全部」
彼女の口から漏れた、等身大の言葉。
リヴァイは彼女の顎をすくい上げ、涙で濡れたその唇を、自らのもので塞いだ。
それは、忘却の闇を切り裂く、最も鮮烈な自己紹介だった。
記憶を失ったあの日から、調査兵団の空気はナマエにとって、少しだけ余白の多いものに変わっていた。
かつては当たり前のようにそこにあったはずの温度や、目線。それらがすっぽりと抜け落ちた空白を埋めるように、リヴァイは驚くほど執拗に、彼女の視界へと現れるようになった。
夕暮れ時。兵舎の裏手に広がる、手入れの行き届いた小さな中庭。
沈みかけた太陽が、石畳を長い影で区切り、空気は乾燥した草の匂いと、冷え始めた土の香りを運んでくる。
「……兵長、今日もですか?」
ナマエは、用意されたベンチに置かれた紅茶を見つめ、困ったように眉を下げた。
ここ数日、リヴァイは任務の合間を縫っては、彼女をこうして茶会に連れ出す。最初から教えてやる、と宣言した彼の行動は、あまりにも直球で、かつ不器用だった。
「言ったはずだ。一から教えると。……まずは、お前が好んでいた茶の淹れ方からだ」
リヴァイは、自身のカップを口に運びながら、鋭い瞳でナマエを射抜く。
その眼差しは、上官が部下を検分するそれではなく、一人の男が、決して逃がさないと決めた獲物を見つめる熱を帯びていた。
「ありがとうございます。……でも、わざわざ兵長に淹れていただくなんて、申し訳なくて」
「申し訳ないと思うなら、その『兵長』という呼び方をやめろ。……今は、ただのリヴァイだ」
彼は、カップを置く。カチン、という磁器の音が、静かな夕暮れの空気に鋭く響いた。
ナマエの鼓動が、トクンと跳ねる。記憶はない。けれど、彼が放つ圧倒的な存在感と、時折見せる痛いくらいに切実な表情に、彼女の身体は理由のない焦燥を感じていた。
「……リヴァイ、さん」
ナマエが恐る恐るその名を呼ぶと、リヴァイの表情が、一瞬だけ微かに和らいだ。
彼は立ち上がり、ナマエが座るベンチの隣へと、迷いのない足取りで歩み寄る。
座面が沈み、彼の体温が、秋の冷気を通した制服越しに伝わってきた。
「ナマエ。お前は、かつての自分が俺のどこに惹かれたか、知りたいか」
唐突な問いに、ナマエは目を丸くした。
「……それは、はい。気になります。私、あんなにあなたの前で泣いてしまうくらい、大切に思っていたんですよね?」
「……ああ。お前は、俺のこの、救いようのない傲慢さと潔癖さに、呆れながらも寄り添っていた。……そして俺は、お前のその、お節介なほどの優しさに救われていた」
リヴァイの手が、ゆっくりと伸ばされる。
ナマエは逃げなかった。いや、逃げられなかった。彼の指先が、彼女の耳元の髪をそっと掬い上げる。その触れ方は、羽根のように軽く、けれど心臓を鷲掴みにするような強烈な独占欲に満ちていた。
「俺は今、あえてお前の記憶を呼び起こそうとはしていない。……そんなまどろっこしい真似をしなくても、お前はもう一度、俺に惚れる」
「……随分な自信ですね」
ナマエは、彼を見上げた。
その真っ直ぐな瞳が、彼女の芯の強さを物語っている。リヴァイは、その今の彼女の強さに、再び惚れ直しているようだった。
「自信じゃねぇ。確信だ。……お前の魂は、俺の匂いを知っている」
リヴァイが顔を近づける。
鼻腔をくすぐるのは、彼が愛飲する茶葉の渋い香りと、清廉な石鹸の匂い。
そして、それらを支配する、彼自身の男としての濃厚な気配。
ナマエの視界が、彼の灰色の瞳だけで埋め尽くされる。
「……っ、リヴァイさん」
「鼓動が速いぞ。……記憶はなくても、心臓は嘘を吐かねぇらしいな」
リヴァイの低い笑い声が、ナマエの鼓動と重なる。
彼は、彼女の頬に添えた手のひらに力を込め、親指で彼女の唇をなぞった。その無骨な指の感触が、甘美な痺れとなってナマエの全身を駆け巡る。リヴァイという男の攻勢は、あまりにも容赦がなく、そしてあまりにも優しかった。
「……私、悔しいです。こんなにドキドキして、あなたの思い通りになっているみたいで」
ナマエは、熱を帯びた顔を隠すことなく、唇を噛んで彼を睨んだ。
その凛とした、敗北を認めない強気な態度。リヴァイがかつて愛し、今また愛し始めている、ナマエそのものの輝き。
「いい傾向だ。……もっと俺に狂わされろ」
リヴァイは、彼女の額に、慈しむような、けれど深い痕跡を残すような口づけを落とした。
「明日は、俺の部屋に来い。……お前が好きだった茶を、俺が完璧に再現してやる」
「……掃除の仕方も、教えてくれますか?」
「ああ。……一晩中かかっても、な」
不敵に微笑むリヴァイの瞳に、ナマエは抗えない運命のようなものを感じていた。
記憶という枷が外れたからこそ、より鮮明に、より剥き出しに。
二人の恋は、落日の美しさなど置き去りにするほどの熱量を持って、再びその幕を開けていた。
ナマエの手が、無意識にリヴァイのシャツの袖を掴む。
それは、新しい恋への期待か、あるいは、魂が切望していた再会への祝福か。
二人の影は溶け合うように重なり、夜の帳を甘く塗り替えていった。
翌日。
リヴァイの私室の扉を前にして、ナマエは一度、深く息を吸い込んだ。肺に流れ込む冷えた廊下の空気は、彼女の緊張をさらに研ぎ澄ませる。
昨日、中庭で交わした約束。記憶を失った自分に「最初から教えてやる」と宣言した、あの男の瞳。そこにあったのは、逃げ場を許さないほどの苛烈な執着と、胸が締め付けられるような深い慈しみだった。
「……失礼します」
小さなノックの後、扉を開ける。
瞬間、鼻腔を突いたのは、清廉な石鹸の匂いと、微かに苦味を孕んだ古い紙の香り。そして、それらを統べるように漂う、彼が愛飲する茶葉の芳醇な香りだった。
「……遅いぞ」
部屋の奥、整然と並べられた書類の山から顔を上げたリヴァイが、低い声で言った。
窓から差し込む夕闇前の蒼い光が、彼の鋭い輪郭を冷たく、けれどどこか幻想的に縁取っている。ナマエの心臓は、またしても不規則なリズムを刻み始めた。記憶にはない。けれど、この視線を、この空気感を、自分の魂が渇望していることを認めざるを得なかった。
「すみません。少し、掃除の手伝いをしていて」
「……そうか。なら、まずはその手についた不純物を落としてこい」
リヴァイは顎で洗面場を指した。
ナマエは言われるままに手を洗い、彼が用意してくれた椅子に腰を下ろした。
机の上には、一滴の曇りもない白磁のティーカップが二客。リヴァイは慣れた手つきで、紅茶を注いでいく。
「……飲め。お前が以前、好んでいた淹れ方だ」
差し出されたカップ。立ち上る湯気と共に、ベルガモットのような爽やかさと、土の温もりを感じさせる深い香りが顔を出した。ナマエは一口、その温かい液体を口に含んだ。
「……っ」
舌の上で転がる、微かな苦味と、後味に残る驚くほどの甘み。身体の芯からじわりと熱が広がり、強張っていた肩の力が抜けていく。
「……美味しい。すごく、懐かしい味がします」
「……だろうな。俺が何度も、お前の舌に叩き込んだ味だ」
リヴァイは自身のカップを独特の持ち方で掲げ、その向こう側からナマエを射抜くように見つめた。
その眼差しは、喉元を優しく撫でられるような心地よさと、獲物として狙われているような危うさを同時に孕んでいる。
「……リヴァイさん。掃除の仕方も教えてくれるって、言っていましたよね?」
ナマエは、その濃厚な沈黙に耐えかねて、話題を逸らすように言った。
リヴァイはカップを置くと、無言で立ち上がり、ナマエの背後へと回り込んだ。
「……まずは、その姿勢からだ」
背中に、彼の確かな体温が迫る。
リヴァイの大きな掌が、ナマエの両肩に置かれた。厚い制服越しでも伝わる、彼の指先の熱と力強さ。ナマエの背筋を、甘い戦慄が駆け抜ける。
「……背筋を伸ばせ。余計な力が入っていると、汚れは見えねぇ」
耳元で囁かれる低音。彼の吐息が耳朶を掠めるたび、ナマエの視界は白く霞みそうになる。
リヴァイはそのまま、彼女の手を取り、机の上に置かれた白い布へと導いた。
「……この布の持ち方も、動かし方も。お前の身体は、以前、俺の教えを完璧に吸収していた。……忘れたのは頭だけだ」
彼の手が、ナマエの手を包み込む。
無骨で、幾多の死線を潜り抜けてきた男の、硬いタコのある指。けれど、その掌は驚くほど優しく、ナマエの指先を導いていく。
木目の溝に沿って、ゆっくりと、けれど確実に布を滑らせる。
「……あ」
そのリズム。その力加減。
ふとした瞬間に、脳内ではなく、指先の神経が弾けるような感覚。
知っている。
その確信が、涙となって溢れそうになるのを、ナマエは必死で堪えた。
「……思い出してきたか」
「……分かりません。でも、手が、勝手に動くみたいで。……不思議です」
ナマエが振り返ると、そこには至近距離で彼女を見下ろすリヴァイの顔があった。
夕闇の影が深まり、部屋を照らすのは机の上の小さなランプだけ。
オレンジ色の光に照らされた彼の瞳は、もはや上官のそれではない。一人の男としての、剥き出しの情熱を湛えていた。
「……不思議なことなど何もない。俺が、そう仕込んだんだ」
リヴァイの手が、ナマエの頬へと移動する。
親指で彼女の唇をそっとなぞる。その指先の愛撫は、昨日のキスを思い出させるほどに熱く、濃厚だった。
「……リヴァイさん」
「……ナマエ。お前は今、俺を見て何を思っている。上官か。それとも、ただの男か」
「……今は、上官だなんて思えません。……すごく怖くて、でも、離れたくない。記憶がないのに、あなたが触れる場所が、全部、熱くて……」
ナマエは、自分の中にある芯の強さを振り絞るように、逃げずに彼の瞳を見つめ返した。
ただ、一人の女性として、目の前の男に焦がれている自分を、彼女は受け入れ始めていた。
「……いい答えだ」
リヴァイの顔が、ゆっくりと降りてくる。
鼻先が触れ合い、互いの呼吸が混ざり合う。
「……掃除は終わりだ。……ここからは、俺がお前の心の中の不純物を、一つ残らず上書きしてやる」
唇が重なる直前、リヴァイが漏らしたその言葉は、どんな甘い誓いよりも残酷で、そして世界で一番甘美な監禁宣告だった。
重なる唇。
紅茶の甘い残香と、リヴァイの熱い体温。
ナマエは、彼の制服の胸元を強く掴んだ。指先に伝わる彼の心臓の鼓動が、自分のものと完全に共鳴するのを感じながら。
記憶の空白を埋めるのは、知識ではない。
こうして、魂が震えるほどの熱を、身体に刻み込まれること。
リヴァイという男の、狂おしいほどの愛の再演に、ナマエは心も身体も、深く沈み込んでいった。
「……っ、ん……リヴァイ、さん……」
「そうだ。俺の名を呼べ。……何度でも、俺を思い出せ。お前の全ては、俺のものだ」
夜の静寂が、二人を包み込む。
不器用で、けれど情熱的な一晩は、まだ始まったばかりだった。
医務室の空気は、鼻を刺すような消毒薬の匂いと、どこか冷たい湿り気を帯びている。窓の外では、季節外れの冷たい雨が石壁を打ち、規則的で物悲しいリズムを刻んでいた。
リヴァイは、その白いベッドの傍らで、凍りついたように立ち尽くしていた。
「……ナマエ」
掠れた声でその名を呼ぶ。
ベッドに横たわる彼女は、ゆっくりと瞬きをし、こちらを振り向いた。その瞳は、以前と変わらず澄んでいて、深い優しさを湛えている。だが、リヴァイを捉えたその眼差しには、決定的な何かが欠落していた。
「……あの、すみません。どなた、でしょうか?」
その一言が、鋭い刃となってリヴァイの胸を貫いた。
心臓が、一度大きく跳ね、その後でひどく冷たくなっていくのを感じる。彼女の記憶から、リヴァイという存在だけが、鮮やかなほどに脱落していた。
戦地での極限状態、彼を庇って負った衝撃が、彼女の精神から最も大切で、最も苦痛を伴う愛を切り離してしまったのだと、医師は告げた。
「……リヴァイだ。お前の上官だ」
リヴァイは、自身の震える指先を隠すように、強く拳を握りしめた。
「リヴァイ……さん」
ナマエは、その名前を咀嚼するように繰り返す。だが、そこには以前のような甘やかな響きも、二人だけの秘密を共有する親密さもなかった。ただ、見知らぬ高官に対する、礼儀正しい緊張があるだけだった。
「そうですか。……ご心配をおかけして、申し訳ありません。私の不手際です」
ナマエは申し訳なさそうに、けれど芯の強さを感じさせる口調で言った。彼女の性格――誰にでも優しく、情に厚いその性質は、記憶を失ってもなお、彼女の中に根付いている。それが、今は余計にリヴァイを孤独にさせた。
数日が過ぎても、彼女の記憶が戻る兆しはなかった。
ハンジや他の団員たちのことは覚えているのに、リヴァイの前に出ると、彼女は決まって困惑したような、どこか怯えたような顔をする。
リヴァイは、医務室の廊下で壁に背を預け、深い溜息をついた。
(……これで、いいのかもしれねぇな)
彼女の人生から、自分という男を消し去る。
巨人と戦い、死と隣り合わせの日常を送る男。彼女を何度も危険に晒し、その心に拭い切れない不安を与え続けてきた存在。もし、このまま思い出さないのであれば、彼女は普通の、穏やかな幸せを掴み直せるのではないか。
「……その方が、幸せか」
低く呟いた言葉は、誰にも届かずに消えた。
リヴァイは、彼女をもう一度手に入れることよりも、彼女の安寧を選ぼうとした。それが、彼なりの、不器用で身勝手な愛の形だった。
最後にもう一度だけ、彼女の顔を見て、それから上官としての距離に戻ろう。
そう決意して、リヴァイは医務室の扉を開けた。
ナマエは、窓際に腰掛け、夕暮れの光を浴びていた。オレンジ色の陽光が、彼女の柔らかな髪を透かし、その横顔を幻想的に描き出している。
「……兵長。また、来てくださったんですね」
ナマエは微笑んだ。その笑顔は、かつてリヴァイの心を溶かしたあの微笑みと寸分違わない。
「……具合はどうだ」
「はい。体はもう、どこも痛くありません。ただ……」
ナマエは少し言葉を濁し、自分の胸元に手を当てた。
「ただ、何だ」
「時々、胸の奥がひどく騒ぐんです。何か、とても大切で、温かくて……でも、ひどく悲しいものを忘れている気がして。リヴァイさんの顔を見ると、それが特に強くなるんです」
リヴァイは息を呑んだ。
彼は、無意識に彼女へと歩み寄っていた。靴音が静かな部屋に響く。
至近距離に立ち、リヴァイは迷った末に、彼女の細い肩に手を置いた。
その瞬間。
ナマエの身体が、微かに震えた。
リヴァイの掌から伝わる、石鹸の清廉な匂いと、彼自身の肌が持つ独特の苦味を帯びた香り。そして、かつて何度も彼女を抱きしめ、守り抜いたその力強い体温。
「あ……」
ナマエの瞳に、不意に涙が溜まった。
彼女自身、なぜ自分が泣いているのか分かっていない様子だった。ただ、脳が拒絶しても、彼女の身体が、魂が、リヴァイという存在に激しく反応していた。
「……どうして。私、あなたのことを知らないはずなのに」
大粒の涙が、彼女の頬を伝い、リヴァイの手に落ちた。
熱い。火傷をするほどに、その涙は熱かった。
「……涙が、止まらない。……悲しいわけじゃないのに。何か、すごく懐かしくて、胸が苦しい」
ナマエの声は震え、彼女は縋るようにリヴァイの制服の袖を掴んだ。
その無意識の動作。かつて、暗い夜に彼を求めた時と同じ、指先の力加減。
リヴァイの内で、理性が音を立てて崩壊した。
彼女を解放する。遠くから見守る。そんな高潔な決意は、彼女の涙一粒で、塵となって吹き飛んだ。
「……バカが。泣くな」
リヴァイは、彼女を抱き寄せた。
以前のように、壊れ物を扱うような優しさと、二度と離さないという執着を込めて。
彼女の首筋に顔を埋めると、そこには彼が愛してやまない、陽だまりのような彼女の匂いがあった。
「……忘れたなら、それでいい。何度でも、最初から教えてやる」
リヴァイは、彼女の耳元で、誓うように囁いた。
その声は、重く、深く、そして甘やかな熱を孕んでいる。
「俺が誰なのか。お前が、誰を愛していたのか。……一から、十まで、お前の身体が思い出すまでな」
ナマエは、彼の腕の中で、嗚咽を漏らしながら頷いた。
失われた記憶の淵で、二人の魂は再び強く結びつく。
それは、過去の模倣ではない。もっと新しく、もっと深く、痛みさえも愛おしむような、再演の始まりだった。
「……はい。教えてください、リヴァイさん。あなたのことを、全部」
彼女の口から漏れた、等身大の言葉。
リヴァイは彼女の顎をすくい上げ、涙で濡れたその唇を、自らのもので塞いだ。
それは、忘却の闇を切り裂く、最も鮮烈な自己紹介だった。
記憶を失ったあの日から、調査兵団の空気はナマエにとって、少しだけ余白の多いものに変わっていた。
かつては当たり前のようにそこにあったはずの温度や、目線。それらがすっぽりと抜け落ちた空白を埋めるように、リヴァイは驚くほど執拗に、彼女の視界へと現れるようになった。
夕暮れ時。兵舎の裏手に広がる、手入れの行き届いた小さな中庭。
沈みかけた太陽が、石畳を長い影で区切り、空気は乾燥した草の匂いと、冷え始めた土の香りを運んでくる。
「……兵長、今日もですか?」
ナマエは、用意されたベンチに置かれた紅茶を見つめ、困ったように眉を下げた。
ここ数日、リヴァイは任務の合間を縫っては、彼女をこうして茶会に連れ出す。最初から教えてやる、と宣言した彼の行動は、あまりにも直球で、かつ不器用だった。
「言ったはずだ。一から教えると。……まずは、お前が好んでいた茶の淹れ方からだ」
リヴァイは、自身のカップを口に運びながら、鋭い瞳でナマエを射抜く。
その眼差しは、上官が部下を検分するそれではなく、一人の男が、決して逃がさないと決めた獲物を見つめる熱を帯びていた。
「ありがとうございます。……でも、わざわざ兵長に淹れていただくなんて、申し訳なくて」
「申し訳ないと思うなら、その『兵長』という呼び方をやめろ。……今は、ただのリヴァイだ」
彼は、カップを置く。カチン、という磁器の音が、静かな夕暮れの空気に鋭く響いた。
ナマエの鼓動が、トクンと跳ねる。記憶はない。けれど、彼が放つ圧倒的な存在感と、時折見せる痛いくらいに切実な表情に、彼女の身体は理由のない焦燥を感じていた。
「……リヴァイ、さん」
ナマエが恐る恐るその名を呼ぶと、リヴァイの表情が、一瞬だけ微かに和らいだ。
彼は立ち上がり、ナマエが座るベンチの隣へと、迷いのない足取りで歩み寄る。
座面が沈み、彼の体温が、秋の冷気を通した制服越しに伝わってきた。
「ナマエ。お前は、かつての自分が俺のどこに惹かれたか、知りたいか」
唐突な問いに、ナマエは目を丸くした。
「……それは、はい。気になります。私、あんなにあなたの前で泣いてしまうくらい、大切に思っていたんですよね?」
「……ああ。お前は、俺のこの、救いようのない傲慢さと潔癖さに、呆れながらも寄り添っていた。……そして俺は、お前のその、お節介なほどの優しさに救われていた」
リヴァイの手が、ゆっくりと伸ばされる。
ナマエは逃げなかった。いや、逃げられなかった。彼の指先が、彼女の耳元の髪をそっと掬い上げる。その触れ方は、羽根のように軽く、けれど心臓を鷲掴みにするような強烈な独占欲に満ちていた。
「俺は今、あえてお前の記憶を呼び起こそうとはしていない。……そんなまどろっこしい真似をしなくても、お前はもう一度、俺に惚れる」
「……随分な自信ですね」
ナマエは、彼を見上げた。
その真っ直ぐな瞳が、彼女の芯の強さを物語っている。リヴァイは、その今の彼女の強さに、再び惚れ直しているようだった。
「自信じゃねぇ。確信だ。……お前の魂は、俺の匂いを知っている」
リヴァイが顔を近づける。
鼻腔をくすぐるのは、彼が愛飲する茶葉の渋い香りと、清廉な石鹸の匂い。
そして、それらを支配する、彼自身の男としての濃厚な気配。
ナマエの視界が、彼の灰色の瞳だけで埋め尽くされる。
「……っ、リヴァイさん」
「鼓動が速いぞ。……記憶はなくても、心臓は嘘を吐かねぇらしいな」
リヴァイの低い笑い声が、ナマエの鼓動と重なる。
彼は、彼女の頬に添えた手のひらに力を込め、親指で彼女の唇をなぞった。その無骨な指の感触が、甘美な痺れとなってナマエの全身を駆け巡る。リヴァイという男の攻勢は、あまりにも容赦がなく、そしてあまりにも優しかった。
「……私、悔しいです。こんなにドキドキして、あなたの思い通りになっているみたいで」
ナマエは、熱を帯びた顔を隠すことなく、唇を噛んで彼を睨んだ。
その凛とした、敗北を認めない強気な態度。リヴァイがかつて愛し、今また愛し始めている、ナマエそのものの輝き。
「いい傾向だ。……もっと俺に狂わされろ」
リヴァイは、彼女の額に、慈しむような、けれど深い痕跡を残すような口づけを落とした。
「明日は、俺の部屋に来い。……お前が好きだった茶を、俺が完璧に再現してやる」
「……掃除の仕方も、教えてくれますか?」
「ああ。……一晩中かかっても、な」
不敵に微笑むリヴァイの瞳に、ナマエは抗えない運命のようなものを感じていた。
記憶という枷が外れたからこそ、より鮮明に、より剥き出しに。
二人の恋は、落日の美しさなど置き去りにするほどの熱量を持って、再びその幕を開けていた。
ナマエの手が、無意識にリヴァイのシャツの袖を掴む。
それは、新しい恋への期待か、あるいは、魂が切望していた再会への祝福か。
二人の影は溶け合うように重なり、夜の帳を甘く塗り替えていった。
翌日。
リヴァイの私室の扉を前にして、ナマエは一度、深く息を吸い込んだ。肺に流れ込む冷えた廊下の空気は、彼女の緊張をさらに研ぎ澄ませる。
昨日、中庭で交わした約束。記憶を失った自分に「最初から教えてやる」と宣言した、あの男の瞳。そこにあったのは、逃げ場を許さないほどの苛烈な執着と、胸が締め付けられるような深い慈しみだった。
「……失礼します」
小さなノックの後、扉を開ける。
瞬間、鼻腔を突いたのは、清廉な石鹸の匂いと、微かに苦味を孕んだ古い紙の香り。そして、それらを統べるように漂う、彼が愛飲する茶葉の芳醇な香りだった。
「……遅いぞ」
部屋の奥、整然と並べられた書類の山から顔を上げたリヴァイが、低い声で言った。
窓から差し込む夕闇前の蒼い光が、彼の鋭い輪郭を冷たく、けれどどこか幻想的に縁取っている。ナマエの心臓は、またしても不規則なリズムを刻み始めた。記憶にはない。けれど、この視線を、この空気感を、自分の魂が渇望していることを認めざるを得なかった。
「すみません。少し、掃除の手伝いをしていて」
「……そうか。なら、まずはその手についた不純物を落としてこい」
リヴァイは顎で洗面場を指した。
ナマエは言われるままに手を洗い、彼が用意してくれた椅子に腰を下ろした。
机の上には、一滴の曇りもない白磁のティーカップが二客。リヴァイは慣れた手つきで、紅茶を注いでいく。
「……飲め。お前が以前、好んでいた淹れ方だ」
差し出されたカップ。立ち上る湯気と共に、ベルガモットのような爽やかさと、土の温もりを感じさせる深い香りが顔を出した。ナマエは一口、その温かい液体を口に含んだ。
「……っ」
舌の上で転がる、微かな苦味と、後味に残る驚くほどの甘み。身体の芯からじわりと熱が広がり、強張っていた肩の力が抜けていく。
「……美味しい。すごく、懐かしい味がします」
「……だろうな。俺が何度も、お前の舌に叩き込んだ味だ」
リヴァイは自身のカップを独特の持ち方で掲げ、その向こう側からナマエを射抜くように見つめた。
その眼差しは、喉元を優しく撫でられるような心地よさと、獲物として狙われているような危うさを同時に孕んでいる。
「……リヴァイさん。掃除の仕方も教えてくれるって、言っていましたよね?」
ナマエは、その濃厚な沈黙に耐えかねて、話題を逸らすように言った。
リヴァイはカップを置くと、無言で立ち上がり、ナマエの背後へと回り込んだ。
「……まずは、その姿勢からだ」
背中に、彼の確かな体温が迫る。
リヴァイの大きな掌が、ナマエの両肩に置かれた。厚い制服越しでも伝わる、彼の指先の熱と力強さ。ナマエの背筋を、甘い戦慄が駆け抜ける。
「……背筋を伸ばせ。余計な力が入っていると、汚れは見えねぇ」
耳元で囁かれる低音。彼の吐息が耳朶を掠めるたび、ナマエの視界は白く霞みそうになる。
リヴァイはそのまま、彼女の手を取り、机の上に置かれた白い布へと導いた。
「……この布の持ち方も、動かし方も。お前の身体は、以前、俺の教えを完璧に吸収していた。……忘れたのは頭だけだ」
彼の手が、ナマエの手を包み込む。
無骨で、幾多の死線を潜り抜けてきた男の、硬いタコのある指。けれど、その掌は驚くほど優しく、ナマエの指先を導いていく。
木目の溝に沿って、ゆっくりと、けれど確実に布を滑らせる。
「……あ」
そのリズム。その力加減。
ふとした瞬間に、脳内ではなく、指先の神経が弾けるような感覚。
知っている。
その確信が、涙となって溢れそうになるのを、ナマエは必死で堪えた。
「……思い出してきたか」
「……分かりません。でも、手が、勝手に動くみたいで。……不思議です」
ナマエが振り返ると、そこには至近距離で彼女を見下ろすリヴァイの顔があった。
夕闇の影が深まり、部屋を照らすのは机の上の小さなランプだけ。
オレンジ色の光に照らされた彼の瞳は、もはや上官のそれではない。一人の男としての、剥き出しの情熱を湛えていた。
「……不思議なことなど何もない。俺が、そう仕込んだんだ」
リヴァイの手が、ナマエの頬へと移動する。
親指で彼女の唇をそっとなぞる。その指先の愛撫は、昨日のキスを思い出させるほどに熱く、濃厚だった。
「……リヴァイさん」
「……ナマエ。お前は今、俺を見て何を思っている。上官か。それとも、ただの男か」
「……今は、上官だなんて思えません。……すごく怖くて、でも、離れたくない。記憶がないのに、あなたが触れる場所が、全部、熱くて……」
ナマエは、自分の中にある芯の強さを振り絞るように、逃げずに彼の瞳を見つめ返した。
ただ、一人の女性として、目の前の男に焦がれている自分を、彼女は受け入れ始めていた。
「……いい答えだ」
リヴァイの顔が、ゆっくりと降りてくる。
鼻先が触れ合い、互いの呼吸が混ざり合う。
「……掃除は終わりだ。……ここからは、俺がお前の心の中の不純物を、一つ残らず上書きしてやる」
唇が重なる直前、リヴァイが漏らしたその言葉は、どんな甘い誓いよりも残酷で、そして世界で一番甘美な監禁宣告だった。
重なる唇。
紅茶の甘い残香と、リヴァイの熱い体温。
ナマエは、彼の制服の胸元を強く掴んだ。指先に伝わる彼の心臓の鼓動が、自分のものと完全に共鳴するのを感じながら。
記憶の空白を埋めるのは、知識ではない。
こうして、魂が震えるほどの熱を、身体に刻み込まれること。
リヴァイという男の、狂おしいほどの愛の再演に、ナマエは心も身体も、深く沈み込んでいった。
「……っ、ん……リヴァイ、さん……」
「そうだ。俺の名を呼べ。……何度でも、俺を思い出せ。お前の全ては、俺のものだ」
夜の静寂が、二人を包み込む。
不器用で、けれど情熱的な一晩は、まだ始まったばかりだった。
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