【短編】エルヴィン・スミス
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調査兵団本部の深夜は、死者の溜息を閉じ込めたかのように重苦しく、そして静謐だ。
石造りの長い廊下を、ナマエは幽霊のようにふらふらと歩いていた。壁に掛けられた松明の火はとうに消え、代わりに置かれたオイルランプの光が、極度の寝不足で熱を持った瞳には酷くぼやけて映る。
(……壁が、揺れている……)
視界の端で、直線の影がぐにゃりと歪んだ。連日の猛訓練に加え、エルヴィン団長の傍らで戦略立案の補佐に没頭した報いだった。昨夜も、脳裏を駆け巡る盤上の駒が止まらず、一睡もできていない。
足元がおぼつかない。心臓の鼓動が耳の奥で早鐘を打ち、自分の呼吸の音さえ遠く感じられる。
「早く、帰らないと……」
かすれた声で呟くが、見慣れたはずの回廊は今夜に限って鏡張りの迷宮のように、どこを歩いても同じ景色に見えた。角を曲がり、突き当たりの扉へと辿り着く。
鍵を持っていないことさえ、混濁した意識の中では些細な事象に過ぎなかった。ナマエは本能が導くままにノブを回した。
カチリ、と。音もなく扉が開く。
そこは、彼女の殺風景な自室ではなく、使い込まれたインクの鋭い香りが沈殿する、エルヴィンの私室だった。執務机に向かっていたエルヴィンが、不審な気配に顔を上げる。
「……ナマエ?」
その凛とした低い声が静寂を震わせた。しかし、ナマエの耳にはそれは遠い子守唄のようにしか響かない。
エルヴィンが何かを問いかけようとした瞬間、ナマエは真っ直ぐに、部屋の奥にある巨大なベッドへと向かった。そして、軍服の外套も靴も脱がないまま、まるで吸い込まれるようにシーツの海へ潜り込んだのだ。
「……っ、君、何を……」
驚愕に目を見開き、エルヴィンは椅子を蹴るようにして立ち上がった。
歩み寄り、シーツを剥ぎ取ろうとした彼の指先が、空中で止まる。潜り込んでから僅か数秒。ナマエの呼吸は、既に深く、規則正しいリズムを刻んでいた。
それは、極限まで張り詰めていた糸が、ようやく見つけた安息の地でぷつりと切れたような、あまりに無防備な沈落だった。
エルヴィンは呆然と立ち尽くし、ランプの微かな灯火に照らされた彼女の横顔を見つめた。
普段、軍規と戦略に縛られて凛としている彼女の顔から、すべての緊張が抜け落ちている。僅かに開いた唇から漏れる寝息は、小鳥の羽ばたきのように頼りない。
(……自分の部屋と勘違いしたか。無理もない、ここ数日の彼女は、私以上に働いていた)
起こすべきか。否、この状態で廊下に出せば、彼女は自分の部屋に辿り着く前に力尽き、硬い石畳の上で倒れるだろう。
「……合理的ではないな」
エルヴィンはそう自分に言い聞かせるように呟き、静かに机へと戻った。
しばらくの間、室内にはエルヴィンが羊皮紙を削る羽根ペンの音だけが響いていた。
深夜二時。世界がもっとも深い闇に浸かる時間。
「……ん……エルヴィン、団長……」
不意に、奥のベッドから自分の名を呼ぶ声がした。
エルヴィンの手が止まり、インクの滴が書類の上に黒い染みを作る。
振り返ると、ナマエは眠ったまま、何かを探すように指先を動かしていた。
「……行か……ないで……」
熱に浮かされたような、甘く、切なげな独白。
エルヴィンは無意識に、ペンを握る手に力を込めた。
寝言に意味などない。無意識の底から溢れた断片に、感情を揺さぶられるなど指揮官として失格だ。
分かっている。そのはずなのに、彼の瞳には、昏い情動が波紋のように広がっていた。
(いつから、こうなった)
三日間、彼自身もまた、ろくに眠れていなかった。
だが、その原因が山積した書類だけではないことを、彼は自分自身の狡猾な理性を以てして、既に理解していた。
エルヴィンは最後の一枚に署名を終えると、重い溜息と共に背もたれに身を預けた。
ベッドに目を向ければ、ナマエの肩から毛布が半分ずり落ち、冷えた夜気が彼女の肌を刺そうとしている。
彼は立ち上がり、彼女の元へ歩み寄った。
まずは、靴を静かに脱がせる。次に、動きを制限する分厚い外套をそっと剥ぎ、近くの椅子に掛けた。それだけのつもりだった。
だが、温もりを剥ぎ取られたナマエが、寒さに身を震わせ、本能的にエルヴィンの方へと手を伸ばした。
「……っ」
その小さな掌が、彼の軍服の袖を掴む。
エルヴィンの鉄の自制心が、鈍い音を立てて軋んだ。
今夜眠らなければ、明日の布陣の判断が鈍る。
ソファでは体が休まらない。
ベッドの半分は空いている。
そんな、もっともらしい合理的理由を積み木のように並べ、彼は自分自身の軍服を脱ぎ捨てた。そして、ベッドの端にゆっくりと、しかし確実に身体を横たえる。
最初は距離を置いていた。だが、冷えた空気の中で、ナマエは無意識に熱源を求め、エルヴィンの広い胸へと擦り寄ってくる。
彼は一瞬、息を止めた。
柔らかな髪が顎に触れ、彼女の体温が、硬いシャツの布地を通して直接伝わってくる。
「……私の部屋に、無防備に飛び込んできた君が悪いんだ」
誰に言い聞かせるでもなく、低い声でそう囁いた。
彼は大きな腕を回し、その小さな肩をそっと、しかし二度と離さないという執着を込めて抱き寄せた。
人の肌の柔らかさ。
服越しに感じる、心臓の鼓動。
何年も鋼のような自制心で眠りを削り続けてきた男が、今、数年ぶりに安眠という贅沢を知る。
二人は深い闇の底で、溶け合うように眠りに落ちた。
朝。
窓硝子を透かして差し込む朝陽が、部屋の塵を黄金の粒に変えていた。
ナマエが意識の淵から這い上がってきたとき、最初に見えたのは、自分の部屋の煤けた天井ではなく、見知らぬ天井だった。
(……天井が、違う……?)
次に気づいたのは、全身を包む、あまりにも心地よい温かさ。
そして、自分が誰かの強靭な腕の中にすっぽりと収まっているという、戦慄の事実だった。
「――っ!?」
心臓が破裂しそうなほどに跳ね、ナマエは石のように固まった。目の前にあるのは、無防備に開いた白シャツの胸元。
そして視線を上げれば、そこには。
――エルヴィン・スミス団長。
この世の終わりのような光景だった。
エルヴィンはまだ、眠っている。
普段、人類の希望という重すぎる鎧を纏っている彼の顔から、すべての策略が消え去っていた。長い睫毛が頬に影を落とし、僅かに開いた唇が、彼もまた一人の人間であることを無言で主張している。
(見てはいけない。でも……)
目が離せなかった。朝陽に照らされた彼の顔は、あまりにも美しく、そして切なかった。
だが、その陶酔はすぐに破られた。
エルヴィンの瞼が、静かに、そして鋭く開いたのだ。
蒼い瞳と、目が合う。
時間という概念が消滅したかのような、長い沈黙。
「……っ!? も、申し訳ありません!!」
ナマエは弾かれたように跳ね起き、ベッドから転げ落ちんばかりに退がった。
「落ち着きなさい、ナマエ」
エルヴィンがゆっくりと上半身を起こす。
「部屋を、部屋を間違えました! 寝不足で、その、判断力が極度に低下しておりまして……!! なんでもします、本当になんでもしますから、お許しください! どんな罰でも受けますから――」
混乱の極みに達し、震えながら許しを請うナマエ。
その言葉を、エルヴィンは片手を上げて静かに止めた。
「靴を脱がせたのは私だ」
「……え」
「毛布を直し、君を起こさなかったのも、私の判断だ」
ナマエが呆然と口を開ける中、エルヴィンはベッドの端に腰掛け、乱れた髪を無造作にかき上げた。
「鍵を閉めていなかった私にも、落ち度がある」
「……でも、無断で侵入したのは私で……」
「私も寝不足だったんだ」
エルヴィンは一歩、ナマエの方へ歩み寄った。逃げ場のない距離。彼はナマエを真っ直ぐに見据え、不敵な、それでいてどこか熱を帯びた声で告げた。
「そして、久しぶりによく眠れた」
ナマエの思考が白く染まった。
「……え?」
「礼を言うよ、ナマエ。君のおかげだ」
エルヴィンはナマエの耳元に唇を寄せた。そして、先ほどよりも強く、彼女の腰を引き寄せ、逃がさないように抱きしめる。
「何でもする……と言ったね。ならば、罰の代わりに義務を課そう」
「……ぎ、む……?」
「今夜もここで、私と一緒に寝てもらおうか」
ナマエは耳を疑った。
「……それ、冗談……ですよね?」
「冗談に見えるかな」
彼が浮かべた微笑み。それは慈愛に満ちているようでいて、その瞳の奥には、獲物を確実に檻へと追い詰めた捕食者のような、独占欲が渦巻いていた。
「君という安眠の特効薬を知ってしまった以上……もう、一人で眠る自信がないんだよ」
そう囁く彼の声は、もはや団長の命令ではなく、一人の男の抗いがたい渇望だった。
エルヴィンの放った義務という名の宣告は、朝の冷涼な空気の中で、いつまでもナマエの耳朶を熱く震わせていた。
執務室に戻ってからも、ナマエの思考は使い物にならなかった。視界の端に映る彼の、完璧に整えられた金髪や、書類をめくる節くれだった長い指先を見るたび、今朝までその腕の中にいたという事実が、全身を熱くさせる。
(……信じられない。団長と一緒に寝ていたなんて)
ナマエは、震える手で羽根ペンを握りしめた。
エルヴィンは、何事もなかったかのように指揮官の仮面を被っている。だが、時折彼が顔を上げ、無言で視線を寄越すとき、その碧眼の奥には、今朝見た捕食者の昏い輝きが、確かに揺らめいていた。
「ナマエ。……その書類、上下が逆だ」
「――っ! 失礼しました!」
低く、愉しげな響きを含んだ指摘。
ナマエは顔から火が出る思いで紙を直した。背後に控えるリヴァイが、「おい、お前ら。朝から空気がおかしいぞ。……特にエルヴィン、お前だ。憑き物が落ちたようなツラをしてやがる」と毒づくが、エルヴィンは不敵な笑みを深くするだけだった。
夕刻を告げる鐘が鳴り、兵舎に紫紺の帳が降りる。
ナマエは自室に戻っても、落ち着かずに部屋の中を歩き回った。
罰を受け入れると言ったのは自分だ。だが、それはあまりにも甘美で、破滅的な契約だった。
深夜二時。
約束の時間は、無慈悲に、そしてあまりにも早く訪れた。
ナマエは、石造りの廊下を、今度は確かな足取りで――けれど、心臓が肋骨を突き破らんばかりの衝撃を刻む中で、彼の部屋の前に立った。
ノックの音は、静寂の中で残酷なほど鮮明に響いた。
「……入れ」
短い返事。ナマエが扉を開けると、そこには、ランプの灯火を背に、シャツのボタンを数掛け外したエルヴィンが待っていた。
「……来ました。……義務、ですから」
ナマエの声は、震えるのを抑えられなかった。
エルヴィンは机を離れ、ゆっくりと、獲物を追い詰めるような優雅な所作で彼女に歩み寄った。
「誠実な君のことだ、逃げないとは信じていたが。……顔が赤いよ、ナマエ」
彼の大きな掌が、ナマエの頬をそっと包み込む。
その指先の熱は、冷えた夜気に晒されていたナマエの肌を、一瞬で情欲の熱へと引きずり込んだ。
「団長……本当に、いいのですか。私のような者が、あなたの隣に……」
「……私が必要としているんだ」
エルヴィンは、ナマエの言葉を遮るように、彼女を抱き寄せた。
今度は、昨夜のような勘違いではない。お互いの意思が、剥き出しの体温を通して混ざり合う。
彼はナマエを促し、寝台へと腰を下ろさせた。分厚い毛布の沈み込みが、逃げ場のない現実を突きつける。
「……靴を。……今度は、自分で脱ぎます」
「私が脱がせると言ったら、どうする?」
エルヴィンの低い囁きに、ナマエは息を呑んだ。
彼は跪き、慈しむように彼女の足を解いていく。
その所作は、人類の希望と謳われる男のそれとは思えないほど、献身的で、かつ独占的な重みを伴っていた。
「……横になりなさい。昨夜と同じように」
エルヴィンが隣に身体を横たえた。ランプの灯りが消され、室内は月光だけが差し込む銀色の静寂に包まれる。
ナマエはおそるおそる、彼の広い胸へと身を寄せた。昼間の強固な鎧を脱いだ彼は、驚くほどに熱く、そして生きている一人の男の匂いがした。
「ナマエ。……君が部屋を間違えてくれたことに、私は心から感謝している」
エルヴィンの大きな腕が、ナマエの腰を引き寄せ、密着させる。彼の顎がナマエの頭の上に乗せられ、規則正しい鼓動が、ナマエの背中を通して伝わってきた。
「私は、ずっと探していたのかもしれないな。……真実でも、勝利でもなく、ただ一人の人間として、泥のように眠れる場所を」
彼の声は、夜の闇に溶けてしまいそうなほど、穏やかで切なかった。
死者たちの遺志を背負い、冷酷な指揮官として己を削り続けてきた男が、ようやく見つけた一人の人間として眠れる場所。
(……この人は、こんなにも寂しい場所で戦っていたんだ)
ナマエは、自分の中の情愛が、理性の堤防を越えて溢れ出すのを感じた。
彼女は、彼の胸元にあるシャツをぎゅっと握りしめ、その熱を吸い込むように深く顔を埋めた。
「……私が、その場所になります。……あなたが、明日また戦えるように、夜の間だけは、ただの人として眠らせてあげたいです」
エルヴィンは、その言葉に僅かに息を呑み、そして満足げに喉を鳴らして笑った。
「……毒にも薬にもなるとは、まさに君のことだ。……もう、手放すつもりはないよ」
彼は、ナマエの耳元に唇を寄せ、吸い付くような深い口づけを落とした。
それは、昨夜の安眠を越えた、確かな所有の印。
ナマエの理性が甘く溶け、彼の熱の中へと沈んでいく。
外では、凍てつく冬の風が兵舎を叩いている。
けれど、この閉ざされた私室の中で、二人は世界で最も幸福な共犯者として、互いの体温を分かち合っていた。
石造りの長い廊下を、ナマエは幽霊のようにふらふらと歩いていた。壁に掛けられた松明の火はとうに消え、代わりに置かれたオイルランプの光が、極度の寝不足で熱を持った瞳には酷くぼやけて映る。
(……壁が、揺れている……)
視界の端で、直線の影がぐにゃりと歪んだ。連日の猛訓練に加え、エルヴィン団長の傍らで戦略立案の補佐に没頭した報いだった。昨夜も、脳裏を駆け巡る盤上の駒が止まらず、一睡もできていない。
足元がおぼつかない。心臓の鼓動が耳の奥で早鐘を打ち、自分の呼吸の音さえ遠く感じられる。
「早く、帰らないと……」
かすれた声で呟くが、見慣れたはずの回廊は今夜に限って鏡張りの迷宮のように、どこを歩いても同じ景色に見えた。角を曲がり、突き当たりの扉へと辿り着く。
鍵を持っていないことさえ、混濁した意識の中では些細な事象に過ぎなかった。ナマエは本能が導くままにノブを回した。
カチリ、と。音もなく扉が開く。
そこは、彼女の殺風景な自室ではなく、使い込まれたインクの鋭い香りが沈殿する、エルヴィンの私室だった。執務机に向かっていたエルヴィンが、不審な気配に顔を上げる。
「……ナマエ?」
その凛とした低い声が静寂を震わせた。しかし、ナマエの耳にはそれは遠い子守唄のようにしか響かない。
エルヴィンが何かを問いかけようとした瞬間、ナマエは真っ直ぐに、部屋の奥にある巨大なベッドへと向かった。そして、軍服の外套も靴も脱がないまま、まるで吸い込まれるようにシーツの海へ潜り込んだのだ。
「……っ、君、何を……」
驚愕に目を見開き、エルヴィンは椅子を蹴るようにして立ち上がった。
歩み寄り、シーツを剥ぎ取ろうとした彼の指先が、空中で止まる。潜り込んでから僅か数秒。ナマエの呼吸は、既に深く、規則正しいリズムを刻んでいた。
それは、極限まで張り詰めていた糸が、ようやく見つけた安息の地でぷつりと切れたような、あまりに無防備な沈落だった。
エルヴィンは呆然と立ち尽くし、ランプの微かな灯火に照らされた彼女の横顔を見つめた。
普段、軍規と戦略に縛られて凛としている彼女の顔から、すべての緊張が抜け落ちている。僅かに開いた唇から漏れる寝息は、小鳥の羽ばたきのように頼りない。
(……自分の部屋と勘違いしたか。無理もない、ここ数日の彼女は、私以上に働いていた)
起こすべきか。否、この状態で廊下に出せば、彼女は自分の部屋に辿り着く前に力尽き、硬い石畳の上で倒れるだろう。
「……合理的ではないな」
エルヴィンはそう自分に言い聞かせるように呟き、静かに机へと戻った。
しばらくの間、室内にはエルヴィンが羊皮紙を削る羽根ペンの音だけが響いていた。
深夜二時。世界がもっとも深い闇に浸かる時間。
「……ん……エルヴィン、団長……」
不意に、奥のベッドから自分の名を呼ぶ声がした。
エルヴィンの手が止まり、インクの滴が書類の上に黒い染みを作る。
振り返ると、ナマエは眠ったまま、何かを探すように指先を動かしていた。
「……行か……ないで……」
熱に浮かされたような、甘く、切なげな独白。
エルヴィンは無意識に、ペンを握る手に力を込めた。
寝言に意味などない。無意識の底から溢れた断片に、感情を揺さぶられるなど指揮官として失格だ。
分かっている。そのはずなのに、彼の瞳には、昏い情動が波紋のように広がっていた。
(いつから、こうなった)
三日間、彼自身もまた、ろくに眠れていなかった。
だが、その原因が山積した書類だけではないことを、彼は自分自身の狡猾な理性を以てして、既に理解していた。
エルヴィンは最後の一枚に署名を終えると、重い溜息と共に背もたれに身を預けた。
ベッドに目を向ければ、ナマエの肩から毛布が半分ずり落ち、冷えた夜気が彼女の肌を刺そうとしている。
彼は立ち上がり、彼女の元へ歩み寄った。
まずは、靴を静かに脱がせる。次に、動きを制限する分厚い外套をそっと剥ぎ、近くの椅子に掛けた。それだけのつもりだった。
だが、温もりを剥ぎ取られたナマエが、寒さに身を震わせ、本能的にエルヴィンの方へと手を伸ばした。
「……っ」
その小さな掌が、彼の軍服の袖を掴む。
エルヴィンの鉄の自制心が、鈍い音を立てて軋んだ。
今夜眠らなければ、明日の布陣の判断が鈍る。
ソファでは体が休まらない。
ベッドの半分は空いている。
そんな、もっともらしい合理的理由を積み木のように並べ、彼は自分自身の軍服を脱ぎ捨てた。そして、ベッドの端にゆっくりと、しかし確実に身体を横たえる。
最初は距離を置いていた。だが、冷えた空気の中で、ナマエは無意識に熱源を求め、エルヴィンの広い胸へと擦り寄ってくる。
彼は一瞬、息を止めた。
柔らかな髪が顎に触れ、彼女の体温が、硬いシャツの布地を通して直接伝わってくる。
「……私の部屋に、無防備に飛び込んできた君が悪いんだ」
誰に言い聞かせるでもなく、低い声でそう囁いた。
彼は大きな腕を回し、その小さな肩をそっと、しかし二度と離さないという執着を込めて抱き寄せた。
人の肌の柔らかさ。
服越しに感じる、心臓の鼓動。
何年も鋼のような自制心で眠りを削り続けてきた男が、今、数年ぶりに安眠という贅沢を知る。
二人は深い闇の底で、溶け合うように眠りに落ちた。
朝。
窓硝子を透かして差し込む朝陽が、部屋の塵を黄金の粒に変えていた。
ナマエが意識の淵から這い上がってきたとき、最初に見えたのは、自分の部屋の煤けた天井ではなく、見知らぬ天井だった。
(……天井が、違う……?)
次に気づいたのは、全身を包む、あまりにも心地よい温かさ。
そして、自分が誰かの強靭な腕の中にすっぽりと収まっているという、戦慄の事実だった。
「――っ!?」
心臓が破裂しそうなほどに跳ね、ナマエは石のように固まった。目の前にあるのは、無防備に開いた白シャツの胸元。
そして視線を上げれば、そこには。
――エルヴィン・スミス団長。
この世の終わりのような光景だった。
エルヴィンはまだ、眠っている。
普段、人類の希望という重すぎる鎧を纏っている彼の顔から、すべての策略が消え去っていた。長い睫毛が頬に影を落とし、僅かに開いた唇が、彼もまた一人の人間であることを無言で主張している。
(見てはいけない。でも……)
目が離せなかった。朝陽に照らされた彼の顔は、あまりにも美しく、そして切なかった。
だが、その陶酔はすぐに破られた。
エルヴィンの瞼が、静かに、そして鋭く開いたのだ。
蒼い瞳と、目が合う。
時間という概念が消滅したかのような、長い沈黙。
「……っ!? も、申し訳ありません!!」
ナマエは弾かれたように跳ね起き、ベッドから転げ落ちんばかりに退がった。
「落ち着きなさい、ナマエ」
エルヴィンがゆっくりと上半身を起こす。
「部屋を、部屋を間違えました! 寝不足で、その、判断力が極度に低下しておりまして……!! なんでもします、本当になんでもしますから、お許しください! どんな罰でも受けますから――」
混乱の極みに達し、震えながら許しを請うナマエ。
その言葉を、エルヴィンは片手を上げて静かに止めた。
「靴を脱がせたのは私だ」
「……え」
「毛布を直し、君を起こさなかったのも、私の判断だ」
ナマエが呆然と口を開ける中、エルヴィンはベッドの端に腰掛け、乱れた髪を無造作にかき上げた。
「鍵を閉めていなかった私にも、落ち度がある」
「……でも、無断で侵入したのは私で……」
「私も寝不足だったんだ」
エルヴィンは一歩、ナマエの方へ歩み寄った。逃げ場のない距離。彼はナマエを真っ直ぐに見据え、不敵な、それでいてどこか熱を帯びた声で告げた。
「そして、久しぶりによく眠れた」
ナマエの思考が白く染まった。
「……え?」
「礼を言うよ、ナマエ。君のおかげだ」
エルヴィンはナマエの耳元に唇を寄せた。そして、先ほどよりも強く、彼女の腰を引き寄せ、逃がさないように抱きしめる。
「何でもする……と言ったね。ならば、罰の代わりに義務を課そう」
「……ぎ、む……?」
「今夜もここで、私と一緒に寝てもらおうか」
ナマエは耳を疑った。
「……それ、冗談……ですよね?」
「冗談に見えるかな」
彼が浮かべた微笑み。それは慈愛に満ちているようでいて、その瞳の奥には、獲物を確実に檻へと追い詰めた捕食者のような、独占欲が渦巻いていた。
「君という安眠の特効薬を知ってしまった以上……もう、一人で眠る自信がないんだよ」
そう囁く彼の声は、もはや団長の命令ではなく、一人の男の抗いがたい渇望だった。
エルヴィンの放った義務という名の宣告は、朝の冷涼な空気の中で、いつまでもナマエの耳朶を熱く震わせていた。
執務室に戻ってからも、ナマエの思考は使い物にならなかった。視界の端に映る彼の、完璧に整えられた金髪や、書類をめくる節くれだった長い指先を見るたび、今朝までその腕の中にいたという事実が、全身を熱くさせる。
(……信じられない。団長と一緒に寝ていたなんて)
ナマエは、震える手で羽根ペンを握りしめた。
エルヴィンは、何事もなかったかのように指揮官の仮面を被っている。だが、時折彼が顔を上げ、無言で視線を寄越すとき、その碧眼の奥には、今朝見た捕食者の昏い輝きが、確かに揺らめいていた。
「ナマエ。……その書類、上下が逆だ」
「――っ! 失礼しました!」
低く、愉しげな響きを含んだ指摘。
ナマエは顔から火が出る思いで紙を直した。背後に控えるリヴァイが、「おい、お前ら。朝から空気がおかしいぞ。……特にエルヴィン、お前だ。憑き物が落ちたようなツラをしてやがる」と毒づくが、エルヴィンは不敵な笑みを深くするだけだった。
夕刻を告げる鐘が鳴り、兵舎に紫紺の帳が降りる。
ナマエは自室に戻っても、落ち着かずに部屋の中を歩き回った。
罰を受け入れると言ったのは自分だ。だが、それはあまりにも甘美で、破滅的な契約だった。
深夜二時。
約束の時間は、無慈悲に、そしてあまりにも早く訪れた。
ナマエは、石造りの廊下を、今度は確かな足取りで――けれど、心臓が肋骨を突き破らんばかりの衝撃を刻む中で、彼の部屋の前に立った。
ノックの音は、静寂の中で残酷なほど鮮明に響いた。
「……入れ」
短い返事。ナマエが扉を開けると、そこには、ランプの灯火を背に、シャツのボタンを数掛け外したエルヴィンが待っていた。
「……来ました。……義務、ですから」
ナマエの声は、震えるのを抑えられなかった。
エルヴィンは机を離れ、ゆっくりと、獲物を追い詰めるような優雅な所作で彼女に歩み寄った。
「誠実な君のことだ、逃げないとは信じていたが。……顔が赤いよ、ナマエ」
彼の大きな掌が、ナマエの頬をそっと包み込む。
その指先の熱は、冷えた夜気に晒されていたナマエの肌を、一瞬で情欲の熱へと引きずり込んだ。
「団長……本当に、いいのですか。私のような者が、あなたの隣に……」
「……私が必要としているんだ」
エルヴィンは、ナマエの言葉を遮るように、彼女を抱き寄せた。
今度は、昨夜のような勘違いではない。お互いの意思が、剥き出しの体温を通して混ざり合う。
彼はナマエを促し、寝台へと腰を下ろさせた。分厚い毛布の沈み込みが、逃げ場のない現実を突きつける。
「……靴を。……今度は、自分で脱ぎます」
「私が脱がせると言ったら、どうする?」
エルヴィンの低い囁きに、ナマエは息を呑んだ。
彼は跪き、慈しむように彼女の足を解いていく。
その所作は、人類の希望と謳われる男のそれとは思えないほど、献身的で、かつ独占的な重みを伴っていた。
「……横になりなさい。昨夜と同じように」
エルヴィンが隣に身体を横たえた。ランプの灯りが消され、室内は月光だけが差し込む銀色の静寂に包まれる。
ナマエはおそるおそる、彼の広い胸へと身を寄せた。昼間の強固な鎧を脱いだ彼は、驚くほどに熱く、そして生きている一人の男の匂いがした。
「ナマエ。……君が部屋を間違えてくれたことに、私は心から感謝している」
エルヴィンの大きな腕が、ナマエの腰を引き寄せ、密着させる。彼の顎がナマエの頭の上に乗せられ、規則正しい鼓動が、ナマエの背中を通して伝わってきた。
「私は、ずっと探していたのかもしれないな。……真実でも、勝利でもなく、ただ一人の人間として、泥のように眠れる場所を」
彼の声は、夜の闇に溶けてしまいそうなほど、穏やかで切なかった。
死者たちの遺志を背負い、冷酷な指揮官として己を削り続けてきた男が、ようやく見つけた一人の人間として眠れる場所。
(……この人は、こんなにも寂しい場所で戦っていたんだ)
ナマエは、自分の中の情愛が、理性の堤防を越えて溢れ出すのを感じた。
彼女は、彼の胸元にあるシャツをぎゅっと握りしめ、その熱を吸い込むように深く顔を埋めた。
「……私が、その場所になります。……あなたが、明日また戦えるように、夜の間だけは、ただの人として眠らせてあげたいです」
エルヴィンは、その言葉に僅かに息を呑み、そして満足げに喉を鳴らして笑った。
「……毒にも薬にもなるとは、まさに君のことだ。……もう、手放すつもりはないよ」
彼は、ナマエの耳元に唇を寄せ、吸い付くような深い口づけを落とした。
それは、昨夜の安眠を越えた、確かな所有の印。
ナマエの理性が甘く溶け、彼の熱の中へと沈んでいく。
外では、凍てつく冬の風が兵舎を叩いている。
けれど、この閉ざされた私室の中で、二人は世界で最も幸福な共犯者として、互いの体温を分かち合っていた。
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