【短編】エルヴィン・スミス
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都心に位置する老舗ホテルの宴会場は、虚飾に満ちた華やかさに包まれていた。
磨き上げられた大理石の床に反射するシャンデリアの眩い煌めき。運命の相手を射止めようと躍起になる男女が発する、湿り気を帯びた熱気。
そんな喧騒の中で、その一画だけが、まるで時間が凍りついたかのような空白と化していた。
エルヴィン・スミス。
同僚であるナイルに「お前もそろそろ身を固めろ」と半ば強制的に連れてこられたこの会場において、彼はあからさまな異物だった。
パリッとした質感の濃紺の三つ揃えを完璧に着こなし、彫刻のように端正な貌を崩さぬまま、彼は運ばれてきたオレンジジュースを一口含んだ。喉を焼くような安っぽい酸味が、彼の舌を無慈悲に刺激する。
周囲の女性たちは、彼を遠巻きに見つめながら、小声でさざめき合っていた。
「あの人、すごいけど……直視できない」「外資系の部長って、住む世界が違いすぎる」「プロフィールカードの年収、桁が多すぎて見間違いかと思った」「完璧すぎて、逆に作り物みたいじゃない?」
彼が醸し出す圧倒的な覇気と、冷徹なまでに研ぎ澄まされた知性のオーラは、婚活という市場において、需要と供給のバランスを完膚なきまでに破壊していた。彼は、あまりに高嶺の花すぎたのだ。
結果として、エルヴィンの座るテーブルは、周囲から畏怖される無人島へと成り果てていた。
「おい、エルヴィン。なんでお前だけ砂漠の真ん中にいるんだ。もう少し、こう、隙を見せろ」
ナイルが影からこっそりと様子を見に来て、頭を抱える。
「これが俺の通常運転だ。無理に崩す必要も感じないが」
「お前の通常は、一般人には重圧なんだよ……」
ナイルの溜息を背中で受け流しながら、エルヴィンは静かに会場を見渡した。どこか冷めた、観察者のような瞳。そこに、ひとりの女性が近づいてくるのが映った。
周囲の女性たちが「正気?」と息を呑む中、彼女は迷いのない足取りで、エルヴィンの正面へと立った。
エルヴィンの視界に、ふわりと石鹸のような、飾り気のない清潔な香りが混じる。
ナマエは、エルヴィンの射抜くような蒼い瞳を、逸らすことなくまっすぐに見つめ返した。
そして、その唇が開かれる。
「はじめまして。……あの、すごく、眉毛、素敵ですね」
静寂。
まるで映画のフィルムが途切れたかのように、周囲の雑音が消え失せた。
エルヴィンもまた、予期せぬ一撃に、持っていたグラスを僅かに傾けそうになった。これまでの人生、数多の称賛を浴びてきた彼だったが、眉毛を単独で褒められたことなど、一度としてなかった。
「……眉毛、か」
「はい。すごく綺麗な形をしてるなって。整えられているんですか? それとも生まれつき?」
「……ああ。おそらく、生まれつきだろう」
「いいなあ。私、毎朝眉毛を描くのが本当に苦手で。気合を入れすぎると、すぐ左右非対称になっちゃうんですよ」
ナマエは、自分の眉毛を指先でなぞりながら、困ったように眉根を寄せた。その仕草は、計算された媚びなど微塵も感じられない、純粋な吐露だった。
エルヴィンの瞳の奥に、微かな、けれど確かな好奇心の火が灯った。
彼は向かい側の椅子を、流麗な動作で引く。
「座らないか。左右非対称の悩みについて、詳しく聞かせてもらいたい」
「ありがとうございます。失礼します」
二人が向かい合って座ると、会場のざわめきは最高潮に達した。「あの子、何者?」という驚愕の視線が突き刺さる。
エルヴィンは、彼女の飾らない声音と、凛とした佇まいに興味を惹かれていた。
「仕事は何をしている」
「ごく普通の事務職をしています。あなたのような華やかな世界とは無縁ですけど……」
「事務か。組織の要だな。……君は、このパーティーに何を求めて参加したんだ。皆、殺気立っているようだが」
「そうですよね、なんだか空気が重くて……必死な方が多いというか。私は、理想の人がいたらいいな、くらいで。もし誰もいなかったら、さっさと帰って、家で美味しいご飯でも食べようと思ってたんです」
ナマエが屈託なく笑うと、エルヴィンの口角が、ほんの数ミリだけ持ち上がった。
それは、鋼のように硬く結ばれていた彼の心が、初めて緩んだ瞬間だった。
「……帰って、美味しいご飯か。君の理想は、随分と現実的で心地がいいな」
「だって、お腹は空きますから」
会場の時計の針が進む中、エルヴィンは次のテーブルへ移動する気配を微塵も見せなかった。
主催者のスタッフが、ローテーションを促そうと恐る恐る近づいてきたが、エルヴィンの「邪魔をするな」という無言の威圧感に気圧され、退散していく。
気づけば、二人の対話は一時間を超えていた。
遠くでナイルが「あいつ、一歩も動かないじゃないか……」と、呆れ顔で二人を眺めている。
「……あの、エルヴィンさん。そろそろ他の方とも話さなくて大丈夫ですか? 一応、そういうルールみたいですけど」
ナマエが申し訳なさそうに尋ねると、エルヴィンは迷うことなく言い放った。
「私は構わない」
「でも、もったいないですよ。色んな出会いがある場所なのに」
「君以外に、話したい相手がいない。……この会場で、私の眉毛を最初の話題に選んだ人間は、おそらく後にも先にも君だけだ。そんな希少な機会を、私は逃したくない」
至って真剣な顔で、彼は言った。ナマエはその直球すぎる言葉に、頬が熱くなるのを自覚した。
宴の終わりを告げるアナウンスが流れ、人々が潮が引くように会場を後にしていく。
ホテルのエントランス。夜風が火照った肌に冷たく心地よい。ナマエがコートの襟を立てながら、「今日は楽しかったです」と微笑むと、エルヴィンがその隣に並んだ。
「私も、有意義な時間だったと思っている」
「じゃあ、これで。……さよなら」
踵を返そうとしたナマエの指先に、彼の大きな、そして熱を帯びた手が重なった。
「待ってくれ」
「え……?」
「さっき、君は言っていたな。理想の人がいなかったら、帰ってご飯を食べると」
「……言いました」
「理想の相手がここにいたのなら、一緒に食べるべきではないか?」
ナマエは一瞬、呼吸を止めた。街灯の下、エルヴィンの蒼い瞳が、獲物を射抜くような、それでいて深い慈しみを湛えて彼女を見つめている。
「ふふ……ずいぶん、直球なんですね」
「遠回りは、得意ではない。……どうだろう、私と夕食を」
ナマエは、数秒の沈黙の後、耐えきれずに吹き出した。
「わかりました。……行きましょう」
エルヴィンが満足げに口角を上げた。その光景を遠くから見守っていたナイルが、「嘘だろ、あのエルヴィンが……」と、膝から崩れ落ちるのが見えた。
エルヴィンの差し出した高級セダンの助手席に収まると、そこは外界の喧騒を完全に遮断した、重厚な革と微かなシトラスの香りが漂う静謐な空間だった。
彼がエンジンをかけると、地を這うような低い駆動音が心臓に心地よく響く。
「……あの、どこへ行くんですか?」
「君が『美味しいご飯』を求めていたからね。私の知る限り、この時間で最も相応しい場所を予約した」
彼がハンドルを握る大きな手は、無駄のない洗練された動作で車を滑らせる。
夜の都心を流れるイルミネーションが、彼の彫りの深い横顔を断続的に照らし出し、そのたびにナマエは、隣に座る男の非現実的な美しさに息を呑んだ。
外資系コンサルティング会社の部長。数多の難局を冷徹な論理で切り抜けてきたであろうその横顔は、やはりどこか、人の手で彫り込まれた大理石の像のように冷たく、近寄りがたい。
だが、目的地に到着して車を降りる際、彼は当然のようにナマエの側へ回り、エスコートのために手を差し出した。
その掌は驚くほど熱く、確かな実体を持ってナマエの指先を包み込む。
「エスコート……慣れてるんですね」
「必要に迫られて身につけた作法だ。だが、これほど高揚感を伴うのは初めてだよ、ナマエ」
さらりと言ってのける彼の声は、チェロの低音のように深く、鼓膜を震わせる。
ナマエは赤くなる顔を隠すように、ホテルの最上階にあるレストランへと足を踏み入れた。
案内されたのは、東京の夜景を一望できる、プライバシーの保たれた窓際の席だった。
眼下に広がる無数の光の粒は、まるで宝石箱をひっくり返したような眩さだが、目の前に座るエルヴィンの存在感は、その絶景さえも背景に追いやってしまう。
彼はメニューを開くこともなく、ソムリエに簡潔な指示を与えた。その淀みのない所作、相手に異論を挟ませない圧倒的な強者のオーラ。
ナマエは、自分がとんでもないバグを引いてしまったのだと、改めて実感する。
「……なんだか、夢みたいですね。さっきまで婚活パーティーの、あの重たい空気の中にいたのに」
「私にとっては、悪夢から覚めたような気分だよ。あの場にいた女性たちは、私の背負う数字や肩書きを品定めしていた。だが、君だけが私の『眉毛』という、取るに足らない、しかし紛れもない私自身の一部を肯定したんだ」
運ばれてきた前菜を口に運びながら、エルヴィンは静かに語る。
ナマエは、フォークを動かす手を止めて彼を見つめた。
「だって、本当に綺麗だと思ったから。……それに、皆さんがあまりに遠巻きにするから、なんだか放っておけなくて。」
「……放っておけない、か」
エルヴィンは小さく、けれど満足げに笑った。
「君のその、飾り気のない率直さが、私の計算を全て狂わせた。……実を言うと、私は今日、誰ともマッチングせずに帰るつもりだったんだ。同僚への義理さえ果たせれば、それでいいと」
「じゃあ、私が声をかけなかったら、そのまま帰ってたんですか?」
「ああ。そして、一人で味気ない食事を済ませていただろう。……だが、今は違う」
彼はグラスを置き、テーブル越しにナマエの手をそっと覆った。
「君がいた。だから、私はここにいる。……ナマエ、君にとっての『理想の相手』の定義を、聞かせてもらってもいいだろうか」
ナマエは、彼の熱い眼差しから逃げられず、覚悟を決めて口を開いた。
「理想の相手、ですか。……そうだなぁ。一緒にいて、肩の力を抜いて笑い合えて、一人の人間として向き合ってくれる人……。あ、あとは、お腹が空いた時に『一緒に食べよう』って言ってくれる人かな」
「……なるほど。非常に難解だが、挑戦しがいのある条件だ」
「難解ですか?」
「ああ。私が、君にとって『理想』で在れるか。……そして、君の空腹を一生涯、私が満たし続けられるかどうかという、壮大なミッションだからね」
冗談めかした口調の中に、逃れようのない真剣さが混じっている。
デザートが運ばれてくる頃には、周囲の視線などどうでもよくなっていた。
エルヴィンは、完璧な紳士としての振る舞いを崩さないまま、その実、ナマエという獲物を二度と離さないと決めた肉食獣のような、鋭敏な熱を瞳の奥に宿していた。
食事を終え、再び車でナマエの自宅前まで送り届けられた時、夜は既に深まっていた。
車を降りようとするナマエを引き止めるように、エルヴィンが彼女の肩を引き寄せる。
「……ナマエ。一つ、確認させてくれ」
「何でしょう?」
彼は、彼女の頬を大きな掌で包み込み、至近距離でその瞳を覗き込んだ。
街灯の光が、彼の長い睫毛に影を落とす。
「さっきのパーティーで、君は『理想の人がいなかったら、帰ってご飯を食べる』と言った。……そして今、君は私と一緒に食事を終えた。……つまり、君にとって私は、『理想の相手』であったと。そう解釈して相違ないだろうか」
「……ずいぶん、強引な論理ですね」
「私はコンサルタントだ。導き出した結論は、確実に実行に移すのが信条でね」
ナマエは、彼の腕の中で小さく笑った。
「……正解ですよ。理屈っぽいところも含めて、今のところ、私の理想に一番近いかもしれません」
その瞬間、エルヴィンの瞳が、歓喜に揺れた。
彼は、彼女の額に、慈しむような、けれど独占欲の滲む熱い接吻を落とした。
「光栄だ。……だが、私は『一番近い』で満足するつもりはない。明日には、君の理想を私という存在そのもので塗り替えてみせるよ」
「……明日も、会えるんですか?」
「当たり前だ。明日の夕食も、その次も、君のスケジュールは全て私が買い取る。……異論は認めないよ。私の眉毛を褒めた責任を、取ってもらわなければならないからね」
確信に満ちたその言葉。
ナマエは、自分の心臓が、今まで経験したことのないほど激しく、甘いリズムを刻んでいるのを感じた。
外資系エリートの不器用で、かつ情熱的な求愛。
婚活市場に突如現れた最大のバグは、今、一人の女性を独占するという、人生最大のプロジェクトを開始したようだった。
「……わかりました。お手柔らかにお願いしますね、エルヴィン部長」
エルヴィンは満足げに目を細め、去り際の彼女の指先に、もう一度、深く熱い接吻を刻んだ。
遠くの空で、夜明け前の静寂が二人を包んでいた。
磨き上げられた大理石の床に反射するシャンデリアの眩い煌めき。運命の相手を射止めようと躍起になる男女が発する、湿り気を帯びた熱気。
そんな喧騒の中で、その一画だけが、まるで時間が凍りついたかのような空白と化していた。
エルヴィン・スミス。
同僚であるナイルに「お前もそろそろ身を固めろ」と半ば強制的に連れてこられたこの会場において、彼はあからさまな異物だった。
パリッとした質感の濃紺の三つ揃えを完璧に着こなし、彫刻のように端正な貌を崩さぬまま、彼は運ばれてきたオレンジジュースを一口含んだ。喉を焼くような安っぽい酸味が、彼の舌を無慈悲に刺激する。
周囲の女性たちは、彼を遠巻きに見つめながら、小声でさざめき合っていた。
「あの人、すごいけど……直視できない」「外資系の部長って、住む世界が違いすぎる」「プロフィールカードの年収、桁が多すぎて見間違いかと思った」「完璧すぎて、逆に作り物みたいじゃない?」
彼が醸し出す圧倒的な覇気と、冷徹なまでに研ぎ澄まされた知性のオーラは、婚活という市場において、需要と供給のバランスを完膚なきまでに破壊していた。彼は、あまりに高嶺の花すぎたのだ。
結果として、エルヴィンの座るテーブルは、周囲から畏怖される無人島へと成り果てていた。
「おい、エルヴィン。なんでお前だけ砂漠の真ん中にいるんだ。もう少し、こう、隙を見せろ」
ナイルが影からこっそりと様子を見に来て、頭を抱える。
「これが俺の通常運転だ。無理に崩す必要も感じないが」
「お前の通常は、一般人には重圧なんだよ……」
ナイルの溜息を背中で受け流しながら、エルヴィンは静かに会場を見渡した。どこか冷めた、観察者のような瞳。そこに、ひとりの女性が近づいてくるのが映った。
周囲の女性たちが「正気?」と息を呑む中、彼女は迷いのない足取りで、エルヴィンの正面へと立った。
エルヴィンの視界に、ふわりと石鹸のような、飾り気のない清潔な香りが混じる。
ナマエは、エルヴィンの射抜くような蒼い瞳を、逸らすことなくまっすぐに見つめ返した。
そして、その唇が開かれる。
「はじめまして。……あの、すごく、眉毛、素敵ですね」
静寂。
まるで映画のフィルムが途切れたかのように、周囲の雑音が消え失せた。
エルヴィンもまた、予期せぬ一撃に、持っていたグラスを僅かに傾けそうになった。これまでの人生、数多の称賛を浴びてきた彼だったが、眉毛を単独で褒められたことなど、一度としてなかった。
「……眉毛、か」
「はい。すごく綺麗な形をしてるなって。整えられているんですか? それとも生まれつき?」
「……ああ。おそらく、生まれつきだろう」
「いいなあ。私、毎朝眉毛を描くのが本当に苦手で。気合を入れすぎると、すぐ左右非対称になっちゃうんですよ」
ナマエは、自分の眉毛を指先でなぞりながら、困ったように眉根を寄せた。その仕草は、計算された媚びなど微塵も感じられない、純粋な吐露だった。
エルヴィンの瞳の奥に、微かな、けれど確かな好奇心の火が灯った。
彼は向かい側の椅子を、流麗な動作で引く。
「座らないか。左右非対称の悩みについて、詳しく聞かせてもらいたい」
「ありがとうございます。失礼します」
二人が向かい合って座ると、会場のざわめきは最高潮に達した。「あの子、何者?」という驚愕の視線が突き刺さる。
エルヴィンは、彼女の飾らない声音と、凛とした佇まいに興味を惹かれていた。
「仕事は何をしている」
「ごく普通の事務職をしています。あなたのような華やかな世界とは無縁ですけど……」
「事務か。組織の要だな。……君は、このパーティーに何を求めて参加したんだ。皆、殺気立っているようだが」
「そうですよね、なんだか空気が重くて……必死な方が多いというか。私は、理想の人がいたらいいな、くらいで。もし誰もいなかったら、さっさと帰って、家で美味しいご飯でも食べようと思ってたんです」
ナマエが屈託なく笑うと、エルヴィンの口角が、ほんの数ミリだけ持ち上がった。
それは、鋼のように硬く結ばれていた彼の心が、初めて緩んだ瞬間だった。
「……帰って、美味しいご飯か。君の理想は、随分と現実的で心地がいいな」
「だって、お腹は空きますから」
会場の時計の針が進む中、エルヴィンは次のテーブルへ移動する気配を微塵も見せなかった。
主催者のスタッフが、ローテーションを促そうと恐る恐る近づいてきたが、エルヴィンの「邪魔をするな」という無言の威圧感に気圧され、退散していく。
気づけば、二人の対話は一時間を超えていた。
遠くでナイルが「あいつ、一歩も動かないじゃないか……」と、呆れ顔で二人を眺めている。
「……あの、エルヴィンさん。そろそろ他の方とも話さなくて大丈夫ですか? 一応、そういうルールみたいですけど」
ナマエが申し訳なさそうに尋ねると、エルヴィンは迷うことなく言い放った。
「私は構わない」
「でも、もったいないですよ。色んな出会いがある場所なのに」
「君以外に、話したい相手がいない。……この会場で、私の眉毛を最初の話題に選んだ人間は、おそらく後にも先にも君だけだ。そんな希少な機会を、私は逃したくない」
至って真剣な顔で、彼は言った。ナマエはその直球すぎる言葉に、頬が熱くなるのを自覚した。
宴の終わりを告げるアナウンスが流れ、人々が潮が引くように会場を後にしていく。
ホテルのエントランス。夜風が火照った肌に冷たく心地よい。ナマエがコートの襟を立てながら、「今日は楽しかったです」と微笑むと、エルヴィンがその隣に並んだ。
「私も、有意義な時間だったと思っている」
「じゃあ、これで。……さよなら」
踵を返そうとしたナマエの指先に、彼の大きな、そして熱を帯びた手が重なった。
「待ってくれ」
「え……?」
「さっき、君は言っていたな。理想の人がいなかったら、帰ってご飯を食べると」
「……言いました」
「理想の相手がここにいたのなら、一緒に食べるべきではないか?」
ナマエは一瞬、呼吸を止めた。街灯の下、エルヴィンの蒼い瞳が、獲物を射抜くような、それでいて深い慈しみを湛えて彼女を見つめている。
「ふふ……ずいぶん、直球なんですね」
「遠回りは、得意ではない。……どうだろう、私と夕食を」
ナマエは、数秒の沈黙の後、耐えきれずに吹き出した。
「わかりました。……行きましょう」
エルヴィンが満足げに口角を上げた。その光景を遠くから見守っていたナイルが、「嘘だろ、あのエルヴィンが……」と、膝から崩れ落ちるのが見えた。
エルヴィンの差し出した高級セダンの助手席に収まると、そこは外界の喧騒を完全に遮断した、重厚な革と微かなシトラスの香りが漂う静謐な空間だった。
彼がエンジンをかけると、地を這うような低い駆動音が心臓に心地よく響く。
「……あの、どこへ行くんですか?」
「君が『美味しいご飯』を求めていたからね。私の知る限り、この時間で最も相応しい場所を予約した」
彼がハンドルを握る大きな手は、無駄のない洗練された動作で車を滑らせる。
夜の都心を流れるイルミネーションが、彼の彫りの深い横顔を断続的に照らし出し、そのたびにナマエは、隣に座る男の非現実的な美しさに息を呑んだ。
外資系コンサルティング会社の部長。数多の難局を冷徹な論理で切り抜けてきたであろうその横顔は、やはりどこか、人の手で彫り込まれた大理石の像のように冷たく、近寄りがたい。
だが、目的地に到着して車を降りる際、彼は当然のようにナマエの側へ回り、エスコートのために手を差し出した。
その掌は驚くほど熱く、確かな実体を持ってナマエの指先を包み込む。
「エスコート……慣れてるんですね」
「必要に迫られて身につけた作法だ。だが、これほど高揚感を伴うのは初めてだよ、ナマエ」
さらりと言ってのける彼の声は、チェロの低音のように深く、鼓膜を震わせる。
ナマエは赤くなる顔を隠すように、ホテルの最上階にあるレストランへと足を踏み入れた。
案内されたのは、東京の夜景を一望できる、プライバシーの保たれた窓際の席だった。
眼下に広がる無数の光の粒は、まるで宝石箱をひっくり返したような眩さだが、目の前に座るエルヴィンの存在感は、その絶景さえも背景に追いやってしまう。
彼はメニューを開くこともなく、ソムリエに簡潔な指示を与えた。その淀みのない所作、相手に異論を挟ませない圧倒的な強者のオーラ。
ナマエは、自分がとんでもないバグを引いてしまったのだと、改めて実感する。
「……なんだか、夢みたいですね。さっきまで婚活パーティーの、あの重たい空気の中にいたのに」
「私にとっては、悪夢から覚めたような気分だよ。あの場にいた女性たちは、私の背負う数字や肩書きを品定めしていた。だが、君だけが私の『眉毛』という、取るに足らない、しかし紛れもない私自身の一部を肯定したんだ」
運ばれてきた前菜を口に運びながら、エルヴィンは静かに語る。
ナマエは、フォークを動かす手を止めて彼を見つめた。
「だって、本当に綺麗だと思ったから。……それに、皆さんがあまりに遠巻きにするから、なんだか放っておけなくて。」
「……放っておけない、か」
エルヴィンは小さく、けれど満足げに笑った。
「君のその、飾り気のない率直さが、私の計算を全て狂わせた。……実を言うと、私は今日、誰ともマッチングせずに帰るつもりだったんだ。同僚への義理さえ果たせれば、それでいいと」
「じゃあ、私が声をかけなかったら、そのまま帰ってたんですか?」
「ああ。そして、一人で味気ない食事を済ませていただろう。……だが、今は違う」
彼はグラスを置き、テーブル越しにナマエの手をそっと覆った。
「君がいた。だから、私はここにいる。……ナマエ、君にとっての『理想の相手』の定義を、聞かせてもらってもいいだろうか」
ナマエは、彼の熱い眼差しから逃げられず、覚悟を決めて口を開いた。
「理想の相手、ですか。……そうだなぁ。一緒にいて、肩の力を抜いて笑い合えて、一人の人間として向き合ってくれる人……。あ、あとは、お腹が空いた時に『一緒に食べよう』って言ってくれる人かな」
「……なるほど。非常に難解だが、挑戦しがいのある条件だ」
「難解ですか?」
「ああ。私が、君にとって『理想』で在れるか。……そして、君の空腹を一生涯、私が満たし続けられるかどうかという、壮大なミッションだからね」
冗談めかした口調の中に、逃れようのない真剣さが混じっている。
デザートが運ばれてくる頃には、周囲の視線などどうでもよくなっていた。
エルヴィンは、完璧な紳士としての振る舞いを崩さないまま、その実、ナマエという獲物を二度と離さないと決めた肉食獣のような、鋭敏な熱を瞳の奥に宿していた。
食事を終え、再び車でナマエの自宅前まで送り届けられた時、夜は既に深まっていた。
車を降りようとするナマエを引き止めるように、エルヴィンが彼女の肩を引き寄せる。
「……ナマエ。一つ、確認させてくれ」
「何でしょう?」
彼は、彼女の頬を大きな掌で包み込み、至近距離でその瞳を覗き込んだ。
街灯の光が、彼の長い睫毛に影を落とす。
「さっきのパーティーで、君は『理想の人がいなかったら、帰ってご飯を食べる』と言った。……そして今、君は私と一緒に食事を終えた。……つまり、君にとって私は、『理想の相手』であったと。そう解釈して相違ないだろうか」
「……ずいぶん、強引な論理ですね」
「私はコンサルタントだ。導き出した結論は、確実に実行に移すのが信条でね」
ナマエは、彼の腕の中で小さく笑った。
「……正解ですよ。理屈っぽいところも含めて、今のところ、私の理想に一番近いかもしれません」
その瞬間、エルヴィンの瞳が、歓喜に揺れた。
彼は、彼女の額に、慈しむような、けれど独占欲の滲む熱い接吻を落とした。
「光栄だ。……だが、私は『一番近い』で満足するつもりはない。明日には、君の理想を私という存在そのもので塗り替えてみせるよ」
「……明日も、会えるんですか?」
「当たり前だ。明日の夕食も、その次も、君のスケジュールは全て私が買い取る。……異論は認めないよ。私の眉毛を褒めた責任を、取ってもらわなければならないからね」
確信に満ちたその言葉。
ナマエは、自分の心臓が、今まで経験したことのないほど激しく、甘いリズムを刻んでいるのを感じた。
外資系エリートの不器用で、かつ情熱的な求愛。
婚活市場に突如現れた最大のバグは、今、一人の女性を独占するという、人生最大のプロジェクトを開始したようだった。
「……わかりました。お手柔らかにお願いしますね、エルヴィン部長」
エルヴィンは満足げに目を細め、去り際の彼女の指先に、もう一度、深く熱い接吻を刻んだ。
遠くの空で、夜明け前の静寂が二人を包んでいた。
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