【短編】エルヴィン・スミス
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兵舎の自室。窓の外では夜の帳が降り、冷え冷えとした月光が石造りの床を青白く照らし出していた。
室内には、鋭いインクの香りと、幾度も擦り合わされた羊皮紙の乾いた匂いが沈殿している。机の脇にあるゴミ箱は、既に言えなかった言葉の墓場と化していた。丸められた紙屑が山をなし、溢れ出した数枚が、ナマエの足元で無残に転がっている。
(……どうして、こんなに硬くなってしまうんだろう)
必死にペンを握ると、余計に極端な方向へと振り切れてしまう。
「親愛なる団長へ。……いや、これでは余所余所しすぎる。……エルヴィン・スミス殿。……これは督促状っぽい!」
書き直すこと数十回。最新の草案は、「今期における私の感情の推移と、それに基づく貴殿への親愛情動の報告について」という、もはや戦術報告書か憲兵団への始末書のような、情緒の欠片もない代物へと成り果てていた。
そこへ、ノックもなしに扉が勢いよく開け放たれた。
「やあ、ナマエ! 随分と熱心なラブレターだね! 部屋の外までインクの情熱が漏れ出しているよ!」
「ハ、ハンジ分隊長!?」
ナマエは慌てて紙を隠そうとしたが、ハンジの鋭い眼光からは逃げられなかった。ハンジはゴミ箱の中身を覗き込み、眼鏡の奥の瞳を面白そうに輝かせる。
「うわあ、硬いねえ! エルヴィンの眉毛よりも角張った文章だ。これじゃあラブレターっていうより、壁外調査の供託金申請書だよ」
「……わかっています。でも、いざ書こうとすると、どう伝えたらいいか分からなくて。団長のような方に、失礼があってはいけないと思うと……」
ナマエが肩を落とすと、ハンジはその背中を豪快に叩いた。
「いいかい、ナマエ。エルヴィンはああ見えて、徹底した合理主義者で理屈っぽい男だ。遠回しな比喩なんて、あの分厚い城壁のような理性で弾き飛ばされちゃうよ。いっそ直接『どんな手紙が好きですか?』って聞いちゃう方が、よっぽど戦略的だと思わないかい?」
「……直接、ですか?」
「そうさ。敵の城門を叩くなら、まずは鍵の形状を本人に聞く。これ、基本だよ!」
ハンジのあまりに無茶なアドバイスを、ナマエはあろうことか(確かに、団長には遠回しなことは伝わらなそう)と、純粋すぎる誠実さで真に受けてしまったのである。
翌日の執務室。
窓から差し込む午後の陽光が、エルヴィンの金髪を眩いばかりに縁取っていた。室内には、淹れたての紅茶の湯気が漂っている。
「団長、少しご相談があるのですが……」
ナマエが意を決して切り出すと、エルヴィンは書類を捲る手を止め、蒼い瞳を彼女に向けた。
「私に相談か。珍しいな。……構わないよ、聞こう」
エルヴィンの声は、低く、心地よい振動を伴ってナマエの鼓膜を震わせる。ナマエは指先をぎゅっと握り締め、心臓の鼓動を抑えながら、昨日ハンジに授かった作戦を実行に移した。
「……好きな人に送る手紙の内容について、アドバイスをいただきたいんです」
パキ、と。
静寂の中で、エルヴィンの握っていた羽根ペンが、僅かに軋んだ音を立てた。
彼の表情は、鉄壁の守りを誇るウォール・シーナのように動かない。だが、その胸の奥では、鋭いナイフで心臓を抉られたような、未だかつて経験したことのない峻烈な衝撃が走っていた。
(……想い人、だと? 彼女に?)
エルヴィンの脳裏に、いくつもの顔が走馬灯のように駆け巡る。
自分よりも若く、未来ある新兵か。あるいは、自分とは対照的な人類最強の男か。嫉妬という名のどす黒い熱が、冷徹な指揮官としての理性を、内側からじりじりと焼き尽くしていく。
「……そうか。君に想い人がいたとは、知らなかったな」
声のトーンを維持するだけで、彼は全精神力を注ぎ込んでいた。内心では「相手は誰だ? 今すぐその男の名前を吐け。作戦と称して最前線へ送ってやろうか」という、およそ団長らしからぬ独占欲が渦巻いている。
「私なら、……飾り立てた言葉より、書き手の本音が漏れ出しているような素直なものがいい。長くなくていい。一行でも、相手のことをきちんと想っているとわかる言葉があれば……それで十分だ」
エルヴィンは、無理やりアドバイスを絞り出した。自分の言葉が、彼女を自分以外の誰かの腕の中へ送り出すための助力になっている。その事実に、彼は内臓を素手で掻き回されるような苦悶を覚えていた。
「……その男が、羨ましいよ」
最後に漏れたのは、本音だった。ナマエは僅かに首を傾げ、彼の横顔をじっと見つめる。
「……団長は、そういう手紙をもらったことがあるのですか」
「……ない」
彼は即答した。そんな奇跡のような手紙を、自分以外の誰かが受け取るのだ。その想像だけで、彼の視界は冬の嵐のように荒れ狂っていた。
「参考になりました。ありがとうございます」
ナマエが立ち上がり、一礼する。エルヴィンは書類に視線を落としたまま、短く答えた。
「ああ」
扉が閉まる。
バタン、という乾いた音が、エルヴィンには処刑台の階段を登る音のように響いた。
執務室に沈黙が戻る。彼はペンを握り直したが、紙の上の文字はただの黒いシミにしか見えない。
「相手は誰だ……リヴァイか? それとも、あの新兵か……?」
震える指先で額を押さえ、エルヴィンは人生で初めて、仕事効率最悪という名の地獄に足を踏み入れたのである。
あれから数日、執務室の空気は、凍てつく冬の夜よりも重苦しく停滞していた。
エルヴィンのペンが走る音はどこか刺々しく、書類を捲る所作には、普段の彼ならば決して見せない微かな焦燥が滲んでいる。彼の脳内では、未だ見ぬ幸運な男への憎悪に近い嫉妬が渦巻き、戦略的思考を司るはずの領域を完全に占拠していた。
そんな折、ナマエが再びその部屋の扉を叩いた。
「……失礼します。団長、先日のお話の……続きを」
ナマエの声は微かに震え、その指先は一枚の便箋を大切そうに抱えている。
エルヴィンは内心の嵐を押し殺し、冷徹な仮面を貼り直して彼女を迎え入れた。
「……書けたのか。君の、その好きな人への手紙は」
「はい。……アドバイス通り、本音を書こうと努力しました。でも……」
ナマエは視線を落としたまま、エルヴィンの前にその便箋を差し出した。
彼がそれを受け取り、ゆっくりと開いた瞬間。
そこにあったのは、インクの滴さえ落ちていない、汚れなき白紙だった。
「……これは、どういうことかな。書き損じたのか?」
エルヴィンの声に、戸惑いと、そして微かな期待を孕んだ震えが混ざる。
ナマエは泣きそうに顔を歪め、ぎゅっと唇を噛み締めてから、絞り出すように本音を漏らした。
「……書けませんでした。あなたの言った通り、素直になろうと思えば思うほど……。あなたの顔ばかりが浮かんできて、言葉にならなくて……」
沈黙。
室内の大時計が刻む秒針の音が、心臓の鼓動のように大きく響く。
エルヴィンの蒼い瞳が、驚愕に見開かれた。数日間、彼を地獄の底へと突き落としていた相談相手が、まさか自分自身であったという事実。
その理解が脳を貫いた瞬間、彼の理性を縛っていた強固な鎖が、音を立てて弾け飛んだ。
「――ッ、ナマエ……!」
エルヴィンの行動は、戦場での電撃作戦よりも迅速だった。
彼は机越しに身を乗り出し、ナマエの細い手首を強引に掴み取ると、そのまま抗う隙も与えずに自らの側へと引き寄せた。
「あ、……団長……!?」
ナマエが驚きに声を上げる間もなく、彼女はエルヴィンの逞しい腕の中に閉じ込められていた。
いつもなら紳士的な距離を保つ彼が、今は獲物を離さない猛禽類のように、力強く彼女を抱きすくめている。
「……ひどい人だ、君は。自分がどれほど残酷なことを私に聞いたか、分かっているのか?」
エルヴィンはナマエの首筋に深く顔を埋め、安堵と、それ以上の昏い執着が入り混じった溜息を吐き出した。
彼が纏う重厚な香りが、ナマエの鼻腔を熱く、そして甘やかにくすぐる。
首筋に触れる彼の熱い吐息と、耳元で響く低く掠れた声。そのあまりの熱量に、ナマエの心臓は破裂しそうなほどに跳ね上がった。
「おかげで、この数日間の私の仕事効率は最悪だったよ。……一兵士の名前を挙げては、彼を前線へ送る理由を真剣に検討してしまった」
「……団長、冗談が過ぎます。……でも、私のせいで、お仕事に支障を……」
エルヴィンは体を離し、白紙の便箋を指先で愛おしそうになぞった。それから、逃げ場を塞ぐようにしてナマエの視線を真っ直ぐに捕らえる。
「……書けなかったのは、私のせい、ということか」
「……ごめんなさい。ハンジさんに、直接聞けばいいって言われたから、そうしただけで。でも、……エルヴィン団長の顔を近くで見ていたら、余計に何を書けばいいか分からなくなってしまったんです」
ナマエが赤くなった顔を伏せると、エルヴィンの喉から低い笑い声が漏れた。
それは、勝利を確信した指揮官の冷徹な笑いではなく、愛しい女性を手に入れた一人の男の、至福に満ちた響きだった。
次の瞬間、視界が大きく揺れ、ナマエはソファへと押し倒されていた。
見上げるエルヴィンの瞳には、かつてないほどの独占欲が炎となって燃え盛っている。
「もう手紙などいらないよ。君のその赤い顔と、震える声以上に雄弁な言葉はないからね」
大きな掌がナマエの頬を包み込み、親指で彼女の唇を執拗になぞった。その指先の熱が、彼女の理性を甘く溶かしていく。
「ただ、これからは他の男に恋の相談など二度としないでくれ。……私の心臓が持たない」
「……団長?」
「これは命令ではなく、一人の男としての懇願だ。……いいか、返事は『はい』しかないよ」
ナマエは熱に浮かされたように、彼を見上げた。
一人の男としての剥き出しの言葉。その甘美な重圧に、彼女はもう、抗う術を持たなかった。
「……はい、エルヴィン団長。……あなたの言う通りにします」
ナマエが答えた瞬間、エルヴィンの唇が、彼女の言葉を奪うように深く重なった。
白紙の便箋は、いつの間にか床に落ち、月光に照らされて白く光っている。
そこにはもう、言葉など必要なかった。
二人の間に溢れる、インクよりも濃密で、文字よりも確かな情熱が、静かな執務室をいつまでも満たし続けていた。
室内には、鋭いインクの香りと、幾度も擦り合わされた羊皮紙の乾いた匂いが沈殿している。机の脇にあるゴミ箱は、既に言えなかった言葉の墓場と化していた。丸められた紙屑が山をなし、溢れ出した数枚が、ナマエの足元で無残に転がっている。
(……どうして、こんなに硬くなってしまうんだろう)
必死にペンを握ると、余計に極端な方向へと振り切れてしまう。
「親愛なる団長へ。……いや、これでは余所余所しすぎる。……エルヴィン・スミス殿。……これは督促状っぽい!」
書き直すこと数十回。最新の草案は、「今期における私の感情の推移と、それに基づく貴殿への親愛情動の報告について」という、もはや戦術報告書か憲兵団への始末書のような、情緒の欠片もない代物へと成り果てていた。
そこへ、ノックもなしに扉が勢いよく開け放たれた。
「やあ、ナマエ! 随分と熱心なラブレターだね! 部屋の外までインクの情熱が漏れ出しているよ!」
「ハ、ハンジ分隊長!?」
ナマエは慌てて紙を隠そうとしたが、ハンジの鋭い眼光からは逃げられなかった。ハンジはゴミ箱の中身を覗き込み、眼鏡の奥の瞳を面白そうに輝かせる。
「うわあ、硬いねえ! エルヴィンの眉毛よりも角張った文章だ。これじゃあラブレターっていうより、壁外調査の供託金申請書だよ」
「……わかっています。でも、いざ書こうとすると、どう伝えたらいいか分からなくて。団長のような方に、失礼があってはいけないと思うと……」
ナマエが肩を落とすと、ハンジはその背中を豪快に叩いた。
「いいかい、ナマエ。エルヴィンはああ見えて、徹底した合理主義者で理屈っぽい男だ。遠回しな比喩なんて、あの分厚い城壁のような理性で弾き飛ばされちゃうよ。いっそ直接『どんな手紙が好きですか?』って聞いちゃう方が、よっぽど戦略的だと思わないかい?」
「……直接、ですか?」
「そうさ。敵の城門を叩くなら、まずは鍵の形状を本人に聞く。これ、基本だよ!」
ハンジのあまりに無茶なアドバイスを、ナマエはあろうことか(確かに、団長には遠回しなことは伝わらなそう)と、純粋すぎる誠実さで真に受けてしまったのである。
翌日の執務室。
窓から差し込む午後の陽光が、エルヴィンの金髪を眩いばかりに縁取っていた。室内には、淹れたての紅茶の湯気が漂っている。
「団長、少しご相談があるのですが……」
ナマエが意を決して切り出すと、エルヴィンは書類を捲る手を止め、蒼い瞳を彼女に向けた。
「私に相談か。珍しいな。……構わないよ、聞こう」
エルヴィンの声は、低く、心地よい振動を伴ってナマエの鼓膜を震わせる。ナマエは指先をぎゅっと握り締め、心臓の鼓動を抑えながら、昨日ハンジに授かった作戦を実行に移した。
「……好きな人に送る手紙の内容について、アドバイスをいただきたいんです」
パキ、と。
静寂の中で、エルヴィンの握っていた羽根ペンが、僅かに軋んだ音を立てた。
彼の表情は、鉄壁の守りを誇るウォール・シーナのように動かない。だが、その胸の奥では、鋭いナイフで心臓を抉られたような、未だかつて経験したことのない峻烈な衝撃が走っていた。
(……想い人、だと? 彼女に?)
エルヴィンの脳裏に、いくつもの顔が走馬灯のように駆け巡る。
自分よりも若く、未来ある新兵か。あるいは、自分とは対照的な人類最強の男か。嫉妬という名のどす黒い熱が、冷徹な指揮官としての理性を、内側からじりじりと焼き尽くしていく。
「……そうか。君に想い人がいたとは、知らなかったな」
声のトーンを維持するだけで、彼は全精神力を注ぎ込んでいた。内心では「相手は誰だ? 今すぐその男の名前を吐け。作戦と称して最前線へ送ってやろうか」という、およそ団長らしからぬ独占欲が渦巻いている。
「私なら、……飾り立てた言葉より、書き手の本音が漏れ出しているような素直なものがいい。長くなくていい。一行でも、相手のことをきちんと想っているとわかる言葉があれば……それで十分だ」
エルヴィンは、無理やりアドバイスを絞り出した。自分の言葉が、彼女を自分以外の誰かの腕の中へ送り出すための助力になっている。その事実に、彼は内臓を素手で掻き回されるような苦悶を覚えていた。
「……その男が、羨ましいよ」
最後に漏れたのは、本音だった。ナマエは僅かに首を傾げ、彼の横顔をじっと見つめる。
「……団長は、そういう手紙をもらったことがあるのですか」
「……ない」
彼は即答した。そんな奇跡のような手紙を、自分以外の誰かが受け取るのだ。その想像だけで、彼の視界は冬の嵐のように荒れ狂っていた。
「参考になりました。ありがとうございます」
ナマエが立ち上がり、一礼する。エルヴィンは書類に視線を落としたまま、短く答えた。
「ああ」
扉が閉まる。
バタン、という乾いた音が、エルヴィンには処刑台の階段を登る音のように響いた。
執務室に沈黙が戻る。彼はペンを握り直したが、紙の上の文字はただの黒いシミにしか見えない。
「相手は誰だ……リヴァイか? それとも、あの新兵か……?」
震える指先で額を押さえ、エルヴィンは人生で初めて、仕事効率最悪という名の地獄に足を踏み入れたのである。
あれから数日、執務室の空気は、凍てつく冬の夜よりも重苦しく停滞していた。
エルヴィンのペンが走る音はどこか刺々しく、書類を捲る所作には、普段の彼ならば決して見せない微かな焦燥が滲んでいる。彼の脳内では、未だ見ぬ幸運な男への憎悪に近い嫉妬が渦巻き、戦略的思考を司るはずの領域を完全に占拠していた。
そんな折、ナマエが再びその部屋の扉を叩いた。
「……失礼します。団長、先日のお話の……続きを」
ナマエの声は微かに震え、その指先は一枚の便箋を大切そうに抱えている。
エルヴィンは内心の嵐を押し殺し、冷徹な仮面を貼り直して彼女を迎え入れた。
「……書けたのか。君の、その好きな人への手紙は」
「はい。……アドバイス通り、本音を書こうと努力しました。でも……」
ナマエは視線を落としたまま、エルヴィンの前にその便箋を差し出した。
彼がそれを受け取り、ゆっくりと開いた瞬間。
そこにあったのは、インクの滴さえ落ちていない、汚れなき白紙だった。
「……これは、どういうことかな。書き損じたのか?」
エルヴィンの声に、戸惑いと、そして微かな期待を孕んだ震えが混ざる。
ナマエは泣きそうに顔を歪め、ぎゅっと唇を噛み締めてから、絞り出すように本音を漏らした。
「……書けませんでした。あなたの言った通り、素直になろうと思えば思うほど……。あなたの顔ばかりが浮かんできて、言葉にならなくて……」
沈黙。
室内の大時計が刻む秒針の音が、心臓の鼓動のように大きく響く。
エルヴィンの蒼い瞳が、驚愕に見開かれた。数日間、彼を地獄の底へと突き落としていた相談相手が、まさか自分自身であったという事実。
その理解が脳を貫いた瞬間、彼の理性を縛っていた強固な鎖が、音を立てて弾け飛んだ。
「――ッ、ナマエ……!」
エルヴィンの行動は、戦場での電撃作戦よりも迅速だった。
彼は机越しに身を乗り出し、ナマエの細い手首を強引に掴み取ると、そのまま抗う隙も与えずに自らの側へと引き寄せた。
「あ、……団長……!?」
ナマエが驚きに声を上げる間もなく、彼女はエルヴィンの逞しい腕の中に閉じ込められていた。
いつもなら紳士的な距離を保つ彼が、今は獲物を離さない猛禽類のように、力強く彼女を抱きすくめている。
「……ひどい人だ、君は。自分がどれほど残酷なことを私に聞いたか、分かっているのか?」
エルヴィンはナマエの首筋に深く顔を埋め、安堵と、それ以上の昏い執着が入り混じった溜息を吐き出した。
彼が纏う重厚な香りが、ナマエの鼻腔を熱く、そして甘やかにくすぐる。
首筋に触れる彼の熱い吐息と、耳元で響く低く掠れた声。そのあまりの熱量に、ナマエの心臓は破裂しそうなほどに跳ね上がった。
「おかげで、この数日間の私の仕事効率は最悪だったよ。……一兵士の名前を挙げては、彼を前線へ送る理由を真剣に検討してしまった」
「……団長、冗談が過ぎます。……でも、私のせいで、お仕事に支障を……」
エルヴィンは体を離し、白紙の便箋を指先で愛おしそうになぞった。それから、逃げ場を塞ぐようにしてナマエの視線を真っ直ぐに捕らえる。
「……書けなかったのは、私のせい、ということか」
「……ごめんなさい。ハンジさんに、直接聞けばいいって言われたから、そうしただけで。でも、……エルヴィン団長の顔を近くで見ていたら、余計に何を書けばいいか分からなくなってしまったんです」
ナマエが赤くなった顔を伏せると、エルヴィンの喉から低い笑い声が漏れた。
それは、勝利を確信した指揮官の冷徹な笑いではなく、愛しい女性を手に入れた一人の男の、至福に満ちた響きだった。
次の瞬間、視界が大きく揺れ、ナマエはソファへと押し倒されていた。
見上げるエルヴィンの瞳には、かつてないほどの独占欲が炎となって燃え盛っている。
「もう手紙などいらないよ。君のその赤い顔と、震える声以上に雄弁な言葉はないからね」
大きな掌がナマエの頬を包み込み、親指で彼女の唇を執拗になぞった。その指先の熱が、彼女の理性を甘く溶かしていく。
「ただ、これからは他の男に恋の相談など二度としないでくれ。……私の心臓が持たない」
「……団長?」
「これは命令ではなく、一人の男としての懇願だ。……いいか、返事は『はい』しかないよ」
ナマエは熱に浮かされたように、彼を見上げた。
一人の男としての剥き出しの言葉。その甘美な重圧に、彼女はもう、抗う術を持たなかった。
「……はい、エルヴィン団長。……あなたの言う通りにします」
ナマエが答えた瞬間、エルヴィンの唇が、彼女の言葉を奪うように深く重なった。
白紙の便箋は、いつの間にか床に落ち、月光に照らされて白く光っている。
そこにはもう、言葉など必要なかった。
二人の間に溢れる、インクよりも濃密で、文字よりも確かな情熱が、静かな執務室をいつまでも満たし続けていた。
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