【短編】エルヴィン・スミス
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夕暮れ時の団長室は、陽光が斜めに差し込み、古い紙とインクの香りが、淹れたての紅茶の湯気と混ざり合っていた。
石造りの壁は外の冷気を孕んでいるが、室内は暖炉の薪が爆ぜる音と共に、穏やかな温もりに満ちている。
「お茶のお代わりはどうかな、ナマエ」
エルヴィンは、重厚な執務机の向こう側から、慈しむような眼差しを向けた。彼がカップに注ぐ紅茶は、一滴の無駄もなく滑らかな曲線を描いて落ちる。
カップが空になれば、彼はすぐさまそれを察して満たし、ナマエが僅かに肩を竦めれば、無言で自身の執織の上着を彼女の肩に掛けた。
「……ありがとうございます。でも、エルヴィンさんが寒くないですか?」
「私は構わない。君が暖かくしていることが、今の私には重要だ」
完璧な気遣い。非の打ち所がない優しさ。
彼はナマエの髪が僅かに乱れていることに気づくと、大きな、それでいて驚くほど繊細な指先で、そっとその一房を耳にかけた。その指が肌を掠めるたび、ナマエの心臓は跳ね、視界が熱くなる。
だが、ナマエの胸の奥には、贅沢な、けれど切実な不満が澱のように溜まっていた。
(この人、いつも与える側なんだ。……完璧な団長、完璧な保護者。完璧な、大人の男)
ナマエは意を決して、彼の太い腕にそっと寄りかかってみた。
エルヴィンは拒むことなく、その重みを受け入れる。大きな手が、ナマエの頭をゆっくりと、愛おしそうに撫でる。そのリズムはあまりに穏やかで、まるで子供をあやすかのようだ。
「……エルヴィンさん。顔色、あまり良くないのでもう少し休んでほしいです。……よかったら、膝枕、しましょうか」
上目遣いに彼を誘う。彼の中に眠る一人の男としての疲労や、甘えたいという本能を、この柔らかな太腿で受け止めてやりたかった。
だが、エルヴィンは眉を和らげ、困ったような、けれど極めて理性的で慈愛に満ちた微笑を浮かべるだけだった。
「気持ちだけで十分だよ、ナマエ。君の優しさは、私にとって何よりの休息だ。だが、これ以上の贅沢は、今の私には過ぎた報酬だよ」
(また、これ。大人の余裕で、全部受け流しちゃうんだから……)
ナマエは唇を噛んだ。彼を支えたいのに、彼は決して自分の弱さを見せようとしない。
もっと彼を乱したい。理性の鎧を脱ぎ捨てて、ただの男として自分を求めてほしい。
翌日、ナマエは一つの木箱を抱え、再び団長室の扉を叩いた。
「エルヴィンさん、チェスを一局お願いしたいんですが」
ナマエが持ち込んだのは、古い樫の木で作られたチェスセットだった。
エルヴィンは書類から顔を上げ、僅かに意外そうな表情を浮かべた後、その瞳に静かな知性の光を宿した。
「構わないが……何か企んでいるか、ナマエ」
「企んでなんていません。ただ、エルヴィンさんと真剣勝負がしたくなっただけです」
「……いいだろう」
エルヴィンが盤面を整え始める。その指先は迷いがなく、駒を置くたびにカチリと小気味よい音が室内に響いた。白と黒の駒が整然と並び、静かな戦いの幕が開く。
「あ、でも。ただ指すだけじゃつまらないから、賭けにしませんか」
「賭け?」
エルヴィンが駒を置く手を止め、ナマエを凝視した。その氷のように鋭い碧眼に、ナマエの背中を冷たい汗が伝う。
「勝った方の言うことを、一つだけ聞く。……なんでも、です」
「……なんでも、か」
エルヴィンは沈黙した。時計の針が刻む音だけが、永遠のように長く感じられる。
やがて、彼は口角を僅かに上げ、挑発的でさえある優雅な仕草で、初手のポーンを動かした。
「いいだろう。乗るよ、その賭けに」
(勝てる気は全然しない。でも、やるしかない)
対局が始まると、室内の空気は一変した。
エルヴィンの指し手は冷徹で、寸分の隙もない。序盤、ナマエは必死に食い下がり、彼が「ほう」と意外そうに眉を上げるのを心の支えにした。彼が自分を対等な打ち手として認識してくれることが、誇らしく、そして心地よい。
だが、中盤を過ぎた頃、盤上の景色は一変した。
気づけばナマエの駒は包囲され、出口を失いつつある。エルヴィンが駒を動かすたびに、無言の圧力がナマエの首を絞める。
「……強いですね、やっぱり」
「チェスは得意だ。戦術と理論、そして相手の心理を読む……兵団を率いることと、本質は変わらない」
「もう少し加減してくれてもいいのに。……かなり、追い詰められてます」
「賭けに加減は不要だろう。君も、それを望んでいるわけではないはずだ」
冷徹な蒼い瞳が、ナマエを射抜く。
(まずい。このままじゃ「なんでも言うことを聞く」権利を彼に奪われる……)
ここで、ナマエは作戦変更を決意した。
正攻法では、知将に勝てるはずがない。ならば。
ナマエは盤面を見つめるふりをして、ぐっと身を乗り出した。
机に置いた胸元が、彼の方へと僅かに強調される。エルヴィンの視界に、意図的に自分の存在を割り込ませた。
「……あ、ここ。どうすればいいんでしょうか」
囁くような声と共に、ナマエはエルヴィンの隣へと椅子を引いた。
「一緒に確認したいので」という体裁で、彼の肩に自分の肩を触れさせる。ナマエの長く艶やかな髪が、さらりとエルヴィンの頬を掠めた。
一瞬、エルヴィンの指先が駒の上で止まる。
「ナマエ。……近すぎる」
「え? よく見えないから……ねえ、エルヴィンさん。ここの局面、どう思いますか?」
ナマエは至近距離から、彼を上目遣いに見つめた。
エルヴィンが盤面に視線を戻そうとするが、その瞳は定まらず、一瞬だけ揺らいだ。
彼の端正な横顔が、僅かに強張る。鉄の自制心を誇る男の、喉仏が小さく上下した。
「君の、番だ……指しなさい」
「はい。じゃあ、これ」
ナマエはわざと、彼の手元に自分の手を重ねるようにして駒を動かした。指先から伝わる彼の体温。エルヴィンの体が僅かに仰け反る。
「あ、ここはどうですか。私の負け、確定?」
さらに顔を寄せ、彼の耳元で囁く。
エルヴィンの指先が、目に見えて震えていた。
冷静沈着な団長の仮面が、少しずつ、けれど確実に剥がれ落ちていく。
動揺のあまり、エルヴィンはあり得ない悪手を指してしまった。
「チェックメイト。……私の、勝ちですね」
ナマエが明るい声を上げると、エルヴィンは呆然と盤面を見つめ、やがて深く、重い吐息を漏らした。
「……負けたか。……まさか、こんな手を使われるとは」
「作戦に引っかかりましたね。団長」
ナマエは勝ち誇った笑顔で、彼を見上げた。
エルヴィンは諦めたように背中を預け、苦笑を浮かべる。だが、その瞳の奥には、敗北を認めた潔さと、それ以上の熱い何かが揺らめいていた。
「認めよう。……私の負けだ。で、要求は何だ。何を私に命じる?」
ナマエは少し背筋を伸ばし、冗談を捨てて、真剣な眼差しで彼を見つめた。
「明日。一日中、私が満足するまで、私に甘えてください。団長としてじゃなく、一人の男として。……いいですね?」
エルヴィンは一瞬だけ目を見開いた後、降参するように両手を上げた。
「……分かった。明日、私は君の『虜囚』になろう」
翌朝、調査兵団の宿舎を包む空気は、驚くほど穏やかだった。
窓から差し込む陽光は、微細な塵を金色に躍らせ、淹れたてのお茶の匂いが鼻腔を擽る。今日は、エルヴィンが虜囚となる約束の日だ。
ナマエは期待に胸を膨らませ、彼の私室を訪れた。だが、そこにいたのは、休日だというのに背筋を真っ直ぐに伸ばし、軍服こそ脱いでいるものの、一点の隙もないシャツ姿でデスクに座るエルヴィンだった。
「おはよう、ナマエ。待っていたよ」
「おはようございます。……エルヴィンさん、今日は私が満足するまで甘えてもらう約束、覚えてますよね?」
「もちろんだ。……だが、一つ確認させてほしい。……『甘える』とは、具体的にどうすればいいんだ? 手順や作戦指示があれば、それに則って善処するが……」
エルヴィンは、壁外調査の布陣を練る時と同じくらい真剣な、氷のような蒼い瞳でナマエを見つめた。その表情に、ナマエは思わず吹き出してしまう。
「ふふ、公務じゃないんだから。指示なんてしませんよ。……まずはそこから離れてください。今日は、団長ではなく、ただのエルヴィン・スミスとして、私に身を委ねてほしいんです」
ナマエは彼の大きな手を引き、ベッドの端へと座らせた。エルヴィンは戸惑いながらも、素直に従う。
「では……始める」
「何を? って、その顔。これから巨人を討伐しに行くみたいですよ」
「……済まない。慣れないものでね」
エルヴィンは真剣すぎる顔でそう宣言し、ナマエを凝視した。その不器用さが可笑しく、そして愛おしくてたまらない。
ナマエは、エルヴィンの背後に回り、その広い肩にそっと腕を回した。
鍛え上げられた背中は岩のように硬く、彼が背負ってきた責任の重さを物語っている。ナマエは彼の項に顔を埋め、柔らかな金髪に指を差し込んだ。
「……ナマエ。」
「……エルヴィンさん、そんなに緊張しないで。何をしたっていいんです。私があなたを独り占めする時間なんですから」
ナマエの手が、彼の頭をゆっくりと、慈しむように撫でる。
耳の裏や、少し硬い髪の感触。指先から伝わる彼の体温。
最初は強張っていたエルヴィンの肩から、少しずつ力が抜けていくのが分かった。
「……温かいな」
「もっと、こうしててもいいですか?」
「ああ。……不思議な感覚だ。誰かの体温をこれほど近くに感じるのは、いつ以来だろうか。……心地がいい」
数時間が経過した頃、室内の空気はさらに密やかで、甘い沈黙に支配されていた。
ナマエはエルヴィンの隣に座り、今度は彼の頭を自分の肩に乗せた。
完璧な指揮官、人類の希望――そんな重々しい仮面が、ナマエの注ぐ無償の愛撫によって、ひび割れ、剥がれ落ちていく。
エルヴィンの瞳から鋭い光が消え、そこには一人の、孤独で渇いた男性の瞳があった。
彼は不意に、ナマエの腰に腕を回すと、壊れ物を扱うような慎重さで、彼女を自分の腿の上へと引き寄せた。
「……エルヴィンさん?」
「……行かないでくれ」
無言で服の裾を掴むその指先は、僅かに震えていた。
ナマエが「飲み物を持ってきます」と立ち上がろうとした瞬間、彼は子供のように強引に彼女を拘束したのだ。
「次は……耳元で、名前を呼んでほしい。……ずっと、撫でていてくれ。私の鎖を外したのは君だ。責任を取ってもらうよ」
「エルヴィンさん……もう夕方ですね。そろそろお腹空きません? 何か作ってきますよ」
ナマエが冗談めかして言うと、背後から抱きついていた腕に、ぐっと、逃がさないという明確な意思を込めた力がこもった。
エルヴィンはナマエの肩に顎を乗せたまま、低く掠れた、熱を帯びた声で呟いた。
「食事はいらない。……それより、あともう少しだけ……いや、あと数時間はこうしていさせてくれ。君の体温がないと、正気でいられなくなりそうだ」
その言葉は、もはやお願いではなく、魂からの切実な渇望だった。
ナマエは、彼の中に眠っていた猛々しいまでの独占欲に触れ、背筋に甘い戦慄が走るのを感じた。
「今の私は、君だけのエルヴィンだ。団長の代わりはいても、君に甘えられる男は私一人だけでいい。……だろう?」
エルヴィンはそう言うと、ナマエの耳たぶを、獲物を吟味するような熱っぽさで甘く噛んだ。
その瞳は、もはや穏やかな大人の余裕など微塵も残っていない。
一度捕まえた獲物を、骨の髄まで愛し、決して逃さないと決めた肉食獣のような、獰猛な光を宿している。
「……君が望んだことだ。後悔しても、もう離さないぞ」
夕闇が部屋を支配し、二人の境界が曖昧になっていく。ナマエは、自分を抱きしめる巨大な愛の重みに身を委ねながら、確信していた。
チェスの勝負に勝ったのは自分だが、この甘い陥落の果てに、本当の勝利を手にしたのは、目の前の愛おしい策士なのだと。
「……後悔なんて、するわけないです。私の、エルヴィンさん」
ナマエがその名を呼ぶと、彼は満足げに目を細め、再びその熱い唇を彼女へと寄せた。
石造りの壁は外の冷気を孕んでいるが、室内は暖炉の薪が爆ぜる音と共に、穏やかな温もりに満ちている。
「お茶のお代わりはどうかな、ナマエ」
エルヴィンは、重厚な執務机の向こう側から、慈しむような眼差しを向けた。彼がカップに注ぐ紅茶は、一滴の無駄もなく滑らかな曲線を描いて落ちる。
カップが空になれば、彼はすぐさまそれを察して満たし、ナマエが僅かに肩を竦めれば、無言で自身の執織の上着を彼女の肩に掛けた。
「……ありがとうございます。でも、エルヴィンさんが寒くないですか?」
「私は構わない。君が暖かくしていることが、今の私には重要だ」
完璧な気遣い。非の打ち所がない優しさ。
彼はナマエの髪が僅かに乱れていることに気づくと、大きな、それでいて驚くほど繊細な指先で、そっとその一房を耳にかけた。その指が肌を掠めるたび、ナマエの心臓は跳ね、視界が熱くなる。
だが、ナマエの胸の奥には、贅沢な、けれど切実な不満が澱のように溜まっていた。
(この人、いつも与える側なんだ。……完璧な団長、完璧な保護者。完璧な、大人の男)
ナマエは意を決して、彼の太い腕にそっと寄りかかってみた。
エルヴィンは拒むことなく、その重みを受け入れる。大きな手が、ナマエの頭をゆっくりと、愛おしそうに撫でる。そのリズムはあまりに穏やかで、まるで子供をあやすかのようだ。
「……エルヴィンさん。顔色、あまり良くないのでもう少し休んでほしいです。……よかったら、膝枕、しましょうか」
上目遣いに彼を誘う。彼の中に眠る一人の男としての疲労や、甘えたいという本能を、この柔らかな太腿で受け止めてやりたかった。
だが、エルヴィンは眉を和らげ、困ったような、けれど極めて理性的で慈愛に満ちた微笑を浮かべるだけだった。
「気持ちだけで十分だよ、ナマエ。君の優しさは、私にとって何よりの休息だ。だが、これ以上の贅沢は、今の私には過ぎた報酬だよ」
(また、これ。大人の余裕で、全部受け流しちゃうんだから……)
ナマエは唇を噛んだ。彼を支えたいのに、彼は決して自分の弱さを見せようとしない。
もっと彼を乱したい。理性の鎧を脱ぎ捨てて、ただの男として自分を求めてほしい。
翌日、ナマエは一つの木箱を抱え、再び団長室の扉を叩いた。
「エルヴィンさん、チェスを一局お願いしたいんですが」
ナマエが持ち込んだのは、古い樫の木で作られたチェスセットだった。
エルヴィンは書類から顔を上げ、僅かに意外そうな表情を浮かべた後、その瞳に静かな知性の光を宿した。
「構わないが……何か企んでいるか、ナマエ」
「企んでなんていません。ただ、エルヴィンさんと真剣勝負がしたくなっただけです」
「……いいだろう」
エルヴィンが盤面を整え始める。その指先は迷いがなく、駒を置くたびにカチリと小気味よい音が室内に響いた。白と黒の駒が整然と並び、静かな戦いの幕が開く。
「あ、でも。ただ指すだけじゃつまらないから、賭けにしませんか」
「賭け?」
エルヴィンが駒を置く手を止め、ナマエを凝視した。その氷のように鋭い碧眼に、ナマエの背中を冷たい汗が伝う。
「勝った方の言うことを、一つだけ聞く。……なんでも、です」
「……なんでも、か」
エルヴィンは沈黙した。時計の針が刻む音だけが、永遠のように長く感じられる。
やがて、彼は口角を僅かに上げ、挑発的でさえある優雅な仕草で、初手のポーンを動かした。
「いいだろう。乗るよ、その賭けに」
(勝てる気は全然しない。でも、やるしかない)
対局が始まると、室内の空気は一変した。
エルヴィンの指し手は冷徹で、寸分の隙もない。序盤、ナマエは必死に食い下がり、彼が「ほう」と意外そうに眉を上げるのを心の支えにした。彼が自分を対等な打ち手として認識してくれることが、誇らしく、そして心地よい。
だが、中盤を過ぎた頃、盤上の景色は一変した。
気づけばナマエの駒は包囲され、出口を失いつつある。エルヴィンが駒を動かすたびに、無言の圧力がナマエの首を絞める。
「……強いですね、やっぱり」
「チェスは得意だ。戦術と理論、そして相手の心理を読む……兵団を率いることと、本質は変わらない」
「もう少し加減してくれてもいいのに。……かなり、追い詰められてます」
「賭けに加減は不要だろう。君も、それを望んでいるわけではないはずだ」
冷徹な蒼い瞳が、ナマエを射抜く。
(まずい。このままじゃ「なんでも言うことを聞く」権利を彼に奪われる……)
ここで、ナマエは作戦変更を決意した。
正攻法では、知将に勝てるはずがない。ならば。
ナマエは盤面を見つめるふりをして、ぐっと身を乗り出した。
机に置いた胸元が、彼の方へと僅かに強調される。エルヴィンの視界に、意図的に自分の存在を割り込ませた。
「……あ、ここ。どうすればいいんでしょうか」
囁くような声と共に、ナマエはエルヴィンの隣へと椅子を引いた。
「一緒に確認したいので」という体裁で、彼の肩に自分の肩を触れさせる。ナマエの長く艶やかな髪が、さらりとエルヴィンの頬を掠めた。
一瞬、エルヴィンの指先が駒の上で止まる。
「ナマエ。……近すぎる」
「え? よく見えないから……ねえ、エルヴィンさん。ここの局面、どう思いますか?」
ナマエは至近距離から、彼を上目遣いに見つめた。
エルヴィンが盤面に視線を戻そうとするが、その瞳は定まらず、一瞬だけ揺らいだ。
彼の端正な横顔が、僅かに強張る。鉄の自制心を誇る男の、喉仏が小さく上下した。
「君の、番だ……指しなさい」
「はい。じゃあ、これ」
ナマエはわざと、彼の手元に自分の手を重ねるようにして駒を動かした。指先から伝わる彼の体温。エルヴィンの体が僅かに仰け反る。
「あ、ここはどうですか。私の負け、確定?」
さらに顔を寄せ、彼の耳元で囁く。
エルヴィンの指先が、目に見えて震えていた。
冷静沈着な団長の仮面が、少しずつ、けれど確実に剥がれ落ちていく。
動揺のあまり、エルヴィンはあり得ない悪手を指してしまった。
「チェックメイト。……私の、勝ちですね」
ナマエが明るい声を上げると、エルヴィンは呆然と盤面を見つめ、やがて深く、重い吐息を漏らした。
「……負けたか。……まさか、こんな手を使われるとは」
「作戦に引っかかりましたね。団長」
ナマエは勝ち誇った笑顔で、彼を見上げた。
エルヴィンは諦めたように背中を預け、苦笑を浮かべる。だが、その瞳の奥には、敗北を認めた潔さと、それ以上の熱い何かが揺らめいていた。
「認めよう。……私の負けだ。で、要求は何だ。何を私に命じる?」
ナマエは少し背筋を伸ばし、冗談を捨てて、真剣な眼差しで彼を見つめた。
「明日。一日中、私が満足するまで、私に甘えてください。団長としてじゃなく、一人の男として。……いいですね?」
エルヴィンは一瞬だけ目を見開いた後、降参するように両手を上げた。
「……分かった。明日、私は君の『虜囚』になろう」
翌朝、調査兵団の宿舎を包む空気は、驚くほど穏やかだった。
窓から差し込む陽光は、微細な塵を金色に躍らせ、淹れたてのお茶の匂いが鼻腔を擽る。今日は、エルヴィンが虜囚となる約束の日だ。
ナマエは期待に胸を膨らませ、彼の私室を訪れた。だが、そこにいたのは、休日だというのに背筋を真っ直ぐに伸ばし、軍服こそ脱いでいるものの、一点の隙もないシャツ姿でデスクに座るエルヴィンだった。
「おはよう、ナマエ。待っていたよ」
「おはようございます。……エルヴィンさん、今日は私が満足するまで甘えてもらう約束、覚えてますよね?」
「もちろんだ。……だが、一つ確認させてほしい。……『甘える』とは、具体的にどうすればいいんだ? 手順や作戦指示があれば、それに則って善処するが……」
エルヴィンは、壁外調査の布陣を練る時と同じくらい真剣な、氷のような蒼い瞳でナマエを見つめた。その表情に、ナマエは思わず吹き出してしまう。
「ふふ、公務じゃないんだから。指示なんてしませんよ。……まずはそこから離れてください。今日は、団長ではなく、ただのエルヴィン・スミスとして、私に身を委ねてほしいんです」
ナマエは彼の大きな手を引き、ベッドの端へと座らせた。エルヴィンは戸惑いながらも、素直に従う。
「では……始める」
「何を? って、その顔。これから巨人を討伐しに行くみたいですよ」
「……済まない。慣れないものでね」
エルヴィンは真剣すぎる顔でそう宣言し、ナマエを凝視した。その不器用さが可笑しく、そして愛おしくてたまらない。
ナマエは、エルヴィンの背後に回り、その広い肩にそっと腕を回した。
鍛え上げられた背中は岩のように硬く、彼が背負ってきた責任の重さを物語っている。ナマエは彼の項に顔を埋め、柔らかな金髪に指を差し込んだ。
「……ナマエ。」
「……エルヴィンさん、そんなに緊張しないで。何をしたっていいんです。私があなたを独り占めする時間なんですから」
ナマエの手が、彼の頭をゆっくりと、慈しむように撫でる。
耳の裏や、少し硬い髪の感触。指先から伝わる彼の体温。
最初は強張っていたエルヴィンの肩から、少しずつ力が抜けていくのが分かった。
「……温かいな」
「もっと、こうしててもいいですか?」
「ああ。……不思議な感覚だ。誰かの体温をこれほど近くに感じるのは、いつ以来だろうか。……心地がいい」
数時間が経過した頃、室内の空気はさらに密やかで、甘い沈黙に支配されていた。
ナマエはエルヴィンの隣に座り、今度は彼の頭を自分の肩に乗せた。
完璧な指揮官、人類の希望――そんな重々しい仮面が、ナマエの注ぐ無償の愛撫によって、ひび割れ、剥がれ落ちていく。
エルヴィンの瞳から鋭い光が消え、そこには一人の、孤独で渇いた男性の瞳があった。
彼は不意に、ナマエの腰に腕を回すと、壊れ物を扱うような慎重さで、彼女を自分の腿の上へと引き寄せた。
「……エルヴィンさん?」
「……行かないでくれ」
無言で服の裾を掴むその指先は、僅かに震えていた。
ナマエが「飲み物を持ってきます」と立ち上がろうとした瞬間、彼は子供のように強引に彼女を拘束したのだ。
「次は……耳元で、名前を呼んでほしい。……ずっと、撫でていてくれ。私の鎖を外したのは君だ。責任を取ってもらうよ」
「エルヴィンさん……もう夕方ですね。そろそろお腹空きません? 何か作ってきますよ」
ナマエが冗談めかして言うと、背後から抱きついていた腕に、ぐっと、逃がさないという明確な意思を込めた力がこもった。
エルヴィンはナマエの肩に顎を乗せたまま、低く掠れた、熱を帯びた声で呟いた。
「食事はいらない。……それより、あともう少しだけ……いや、あと数時間はこうしていさせてくれ。君の体温がないと、正気でいられなくなりそうだ」
その言葉は、もはやお願いではなく、魂からの切実な渇望だった。
ナマエは、彼の中に眠っていた猛々しいまでの独占欲に触れ、背筋に甘い戦慄が走るのを感じた。
「今の私は、君だけのエルヴィンだ。団長の代わりはいても、君に甘えられる男は私一人だけでいい。……だろう?」
エルヴィンはそう言うと、ナマエの耳たぶを、獲物を吟味するような熱っぽさで甘く噛んだ。
その瞳は、もはや穏やかな大人の余裕など微塵も残っていない。
一度捕まえた獲物を、骨の髄まで愛し、決して逃さないと決めた肉食獣のような、獰猛な光を宿している。
「……君が望んだことだ。後悔しても、もう離さないぞ」
夕闇が部屋を支配し、二人の境界が曖昧になっていく。ナマエは、自分を抱きしめる巨大な愛の重みに身を委ねながら、確信していた。
チェスの勝負に勝ったのは自分だが、この甘い陥落の果てに、本当の勝利を手にしたのは、目の前の愛おしい策士なのだと。
「……後悔なんて、するわけないです。私の、エルヴィンさん」
ナマエがその名を呼ぶと、彼は満足げに目を細め、再びその熱い唇を彼女へと寄せた。
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