【短編】エルヴィン・スミス
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月光さえも拒むような厚い雲が、調査兵団の古びた宿舎を包み込んでいた。
石造りの壁は昼間の熱を失い、芯まで冷え切っている。そんな静寂に支配された深夜、消灯時間を過ぎた女子宿舎の一室だけが、微かな灯火と、場にそぐわない賑やかな熱気に満たされていた。
「皆、夜はこれからだ! ハンジ特製の隠し果実水と、サシャがどこからか調達してきた乾燥肉、そして禁断の恋バナ……! これぞ乙女の戦場だね!」
ハンジが眼鏡を光らせ、怪しげな色のジュースが入った瓶を掲げる。その横で、サシャが獲物を狙う獣のような手つきで乾燥肉を口に運び、ミカサは静かに、しかしどこか興味深そうにカップを手に取っていた。ナマエは、その輪の中で苦笑いを浮かべていた。
「ハンジさん、声が大きいです。兵長にバレたら掃除どころじゃ済みませんよ」
「固いこと言わない! さあ、順番に回ってきたよ。ナマエ、君の番だ。最近、誰かを目で追ってないかい?」
ハンジの追求は、鋭い刃のようにナマエの本心を突き刺した。ナマエは喉元まで出かかった名前を、果実水と一緒に飲み込もうとする。しかし、ハンジの観察眼からは逃れられない。
「……別に、誰も」
「嘘だ! その顔、絶対に誰かいる顔だ! 隠しても無駄だよ、心拍数が上がっているし、視線が泳いでる!」
「えっ、ナマエさん、好きな人がいるんですか!? 美味しいものを分けてくれる人ですか!?」
サシャが身を乗り出し、ミカサも無言でナマエをじっと見つめる。逃げ場を失ったナマエは、観念したように小さく息を吐いた。部屋の隅で揺れるキャンドルの炎が、彼女の頬を赤く染め上げる。
「……エルヴィン団長です」
その瞬間、部屋に真空のような沈黙が訪れた。
ハンジは口を開けたまま硬直して卒倒しそうな顔になり、サシャは持っていた乾燥肉を皿に落とし「うわあ……」と声を漏らした。ミカサでさえ、珍しく目を丸くしてナマエを凝視している。
「……よりによって、あのエルヴィンかい?」
ハンジがようやく絞り出した声に、ナマエは自嘲気味な笑みを浮かべた。
「分かっています。身の程知らずなのは。……でも、皆さんが知っている団長としての顔だけじゃないんです。深夜、執務室で一人、山のような書類に向き合っている時の彼は……驚くほど繊細で、どこか消えてしまいそうなほど孤独な横顔をするんです。一瞬だけ、鎧を脱いだ一人の人間としての顔を。……そういうところを、好きになってしまいました」
言葉にするほどに、胸の奥に溜まっていた熱が溢れ出す。ナマエの語るエルヴィンの姿には、彼をただの偶像としてではなく、一人の男性として深く愛おしむ情愛がこもっていた。
ハンジは目頭を押さえ、サシャは「恋ですねえ……!」と感極まったように叫び、ミカサは静かに頷いた。
「……応援する」
「よし決まった! 作戦会議だ! あの堅物団長をどうにかして揺さぶるよ!」
作戦① ――ふたりきり作戦――
翌日。ハンジは「急ぎの検体データがまとまらないんだ!」という大仰な嘘と共に、ナマエに大量の資料を持たせて団長室へ送り込んだ。
扉の向こうには、憧れの人がいる。ナマエは心臓の鼓動が耳の奥まで響くのを感じながら、重い木製のドアをノックした。
「失礼します、団長。ハンジさんから資料を預かって参りました」
部屋には、古くなった紙の匂いと、微かに漂うエルヴィンの愛用する石鹸の香りが充満していた。デスクに向かうエルヴィンは、顔を上げると僅かに目を細める。
「ああ、ナマエか。苦労をかける。……丁度いい、少し手伝ってくれないか」
「えっ……はい、喜んで」
(ふたりきり……! 何か、私的な会話のきっかけを……)
期待に胸を膨らませたナマエの前に置かれたのは、辞書のような厚みの報告書の束だった。
「この三年間分の補給物資の差異を照合してほしい。今日中に終わらせる必要があるんだ」
「……。承知しました」
一時間後。廊下で聞き耳を立てていたハンジの前に、死んだ魚のような目をしたナマエが現れた。
「……どうだった!?」
「普通に残業させられました。今からあと三百枚、数字のチェックをします」
「なんでだよ!!」
ハンジの叫びが、虚しく廊下に響き渡った。
作戦② ――嫉妬作戦――
「男の人というのは、自分の所有物が他人に狙われていると知ると燃えるみたいですよ!」というサシャの(根拠のない)主張に基づき、第二の作戦が実行された。
サシャが昼食の際、エルヴィンの近くでわざとらしく「ナマエさんに恋文を渡そうとしている兵士が何人もいるらしいですよ。モテモテですね!」と吹聴したのだ。
翌日。エルヴィンから呼び出しを受けたナマエは、期待と不安で震えながら執務室へ向かった。ハンジたちは陰からその様子を窺っている。
「ナマエ。折り入って話がある」
エルヴィンの声は低く、重厚だった。その冷徹な蒼い瞳が、じっとナマエを射抜く。
「はい、何でしょうか……(ついに嫉妬の言葉が……!?)」
「妙な噂が立っているようだが、身に覚えはあるか。軍紀を乱すような騒ぎは、あまり好ましくない」
「…………ありません」
「そうか。ならいい。周囲の雑音に惑わされず、任務に邁進するように。気をつけろ。以上だ」
そう言うと、エルヴィンは一瞥もくれずに再びペンを走らせ始めた。
廊下に戻ったナマエの顔は、石壁よりも白かった。
「……嫉妬じゃなくて、風紀の乱れに対する上官の厳重注意でした」
「あの男、血が通ってないんじゃないのかい!?」
ハンジが床に伏し、地を叩いた。
作戦③ ――告白の背中を押す作戦――
「もう、当たって砕けるしかないよ!」
ハンジの半ばヤケクソな激励に押され、ナマエは三度目の正直として、ついに自ら想いを伝える決意を固めた。
手には、せめてもの口実として持たされた適当な確認書類。心臓は破裂しそうで、手汗で紙が湿っていくのが分かった。
(もう、どうなってもいい。この気持ちを伝えないと、息が詰まってしまいそう……)
深く、深く深呼吸をし、ナマエは団長室の扉を力一杯ノックした。
返事を待たずに、勢いよく中へ足を踏み入れる。
「団長! お話が――」
しかし、ナマエの言葉はそこで凍りついた。
そこにはエルヴィンだけでなく、ソファで足を組んで不機嫌そうに紅茶を啜るリヴァイ兵長の姿があった。
「……何か用か、ナマエ。今はリヴァイと次回の壁外調査の布陣について協議中だ」
エルヴィンの氷のような声が、ナマエの熱情を急速に冷やしていく。リヴァイの鋭い視線が突き刺さり、蛇に睨まれた蛙のような心地だった。
「……あ、いえ。……書類の確認に、参りました。失礼いたしました」
「そうか、そこに置いておけ」
「……はい」
逃げるように部屋を飛び出したナマエは、廊下で待ち構えていたハンジに力なく首を振った。
「どうだった!? 今度こそ言えた!? 顔、真っ赤じゃないか!」
「……リヴァイ兵長がいました。……なんだか、二人ですごく親密そうでした。私が入る隙なんて、どこにも……」
「嘘でしょ……そんな不運ある!?」
ナマエは壁に寄りかかり、ずるずるとその場に座り込んだ。
窓の外では、いつの間にか降り始めた雨が、冷たく窓を叩いていた。
三度にわたる団長攻略作戦は、無残な瓦解を遂げた。
降り続く雨は、石造りの宿舎を一層冷たく湿らせている。
その夜の女子会は、通夜のような静寂に包まれていた。ハンジは力なくベッドに身を投げ出し、サシャは好物のジャガイモを口に運ぶ手さえ止めている。ミカサだけが、手元のカップを見つめて、言葉を選んでいた。
「……ナマエ、そんなに落ち込まないで。団長が、普通じゃないだけ」
ミカサの静かな慰めに、ナマエは力なく首を振った。
窓の外で、雨粒がガラスを叩く規則的な音が、彼女の焦燥を煽る。
「……いえ。もういいんです。諦めます」
その一言に、ハンジが飛び起きた。
「何を言っているんだい! まだ試していない策は山ほど――」
「団長は、そういう人じゃないんです。きっと」
ナマエは、自分を言い聞かせるように、震える声で言葉を継いだ。
「私が勝手に、彼の『人間らしさ』を特別視して、勝手に近づけると思ってしまっただけ。彼は人類の希望で、冷徹な指揮官なんです。私のような一兵卒が、その懐に入ろうなんて、傲慢でした」
「ナマエさん……」
サシャの悲しげな声が響く。ナマエは、胸の奥で燻り続ける熱い熾火を、無理やり冷たい水で消し去るように笑ってみせた。
「応援してくれてありがとうございました。でも本当に、もういいんです。明日からは、ただの優秀な部下に戻ります。……この気持ちを抱えたまま、隣で働けるなら、それで十分。そう思うことにしたんです」
その夜、ナマエは暗闇の中で、天井を見つめながら自問した。
本当にそれでいいのか。
答えは、枕を濡らす涙が知っていた。好きだという感情は、諦めると決めた瞬間に、より深く、鋭く、彼女の心臓を抉った。
翌日の午後、雨は上がり、空には洗われたような青が広がっていた。
ナマエは昨日までの決意を胸に、仮面のような無表情を張り付けて執務室の前に立った。手には、冷めないように淹れたばかりの紅茶のトレイがある。
「失礼します」
二度ノックをしても、返事はない。
不在だろうか。そう思い、確認のために重い扉を僅かに開けると、そこには予想外の光景が広がっていた。
午後の柔らかな陽光が、埃を躍らせながら部屋の奥まで差し込んでいる。
いつもなら背筋を伸ばし、威厳を放っているはずのエルヴィンが、ソファに深く身体を沈めて眠っていた。
机の上には、乱雑に積まれた書類。彼の右手に握られたままのペン。
鎧が、完全に外れていた。
ナマエは足音を殺して近づき、トレイをそっと机に置いた。
立ち去ろうとして、どうしても足が止まる。
眠る彼の顔は、戦場での苛烈さも、会議での冷徹さも、どこにもない。長い睫毛が影を落とし、硬く結ばれたはずの唇は、僅かに解けている。
昨夜、諦めると誓ったはずの決意が、その無防備な寝顔を見た瞬間に、音を立てて崩れ去った。
(ああ、やっぱり……無理だ。好きだ……)
抗いがたい衝動が、彼女の理性を蹂躙した。
気づけば、ナマエはソファの傍らに膝をついていた。
彼を起こさないよう、吐息さえも殺して、顔を近づける。
石鹸の香りと、彼自身の体温が混ざり合った、甘い匂いが鼻腔を擽った。
触れるだけの、羽のような接吻。
それは、彼女なりのさよならの儀式のつもりだった。
唇が、彼の唇に重なる。
温かくて、驚くほど柔らかい。
その熱に触れた瞬間、ナマエは弾かれたように身を引こうとした。
しかし、逃げようとした彼女の視界の中で、伏せられていた長い睫毛が、ゆっくりと持ち上がった。
「……随分と大胆だな、君は」
低い、地を這うような重厚な声。
エルヴィンの澄んだ碧眼が、至近距離でナマエを捉えていた。
「お、起きて……っ!?」
「最初から起きていたよ。君が、その小さな手でドアを開けた時からね」
ナマエの思考が真っ白に染まる。全身の血が逆流し、顔が爆発しそうなほど熱くなる。
「あ……し、失礼いたしました! 私は、その……!」
立ち上がり、脱兎のごとく逃げようとしたナマエの手首を、大きな掌が掴んだ。
逃げ場を塞ぐように、エルヴィンの強い力が彼女を引き戻す。
「待ちなさい」
「放してください! 忘れてください、今の……全部!」
「忘れる? これほど甘い不意打ちを、私に忘れろと言うのか」
エルヴィンはソファから身を起こし、ナマエの手首を掴んだまま、彼女をじっと見据えた。その瞳には、今まで見たこともないような、剥き出しの熱情が宿っている。
「……ずっと、我慢していた」
「え……?」
「気づいていないとでも思ったか。ハンジたちの稚拙な作戦も。君が私を見る、その熱い視線の意味も。……全部わかっていた」
ナマエは呆然と彼を見上げた。呼吸を忘れるほどの衝撃が彼女を貫く。
「……気付いて、いたのですか? 全部……?」
「ああ。あのような子供騙しの策に乗るつもりはなかった。だが……君があまりに健気に気を引こうとするものだから。こちらとしても、我慢の限界でね」
エルヴィンは、ナマエの細い顎に手を添え、逃がさないように視線を固定した。
そのまま、彼は強引にナマエを自身の腿の上へと引き上げた。
「あっ……」
密着する、屈強な身体の熱。ナマエの背中に回された腕は、鎖のように堅牢で、逃げ出す隙を与えない。エルヴィンは彼女の耳元に顔を寄せ、低く、掠れた声で囁いた。熱い吐息が、彼女のうなじを愛撫するように掠める。
「君は、私がどれほど、君という名の毒に冒されているか、想像もつかないだろう。……団長として、君の純粋さを汚してはならないと、自分を律してきたつもりだったが。……先程の接吻で、全ての鎖が切れた」
エルヴィンの大きな掌が、ナマエの頬を包み込み、親指で彼女の唇を執拗になぞった。さきほど彼女が触れた、その場所を。
「もう、部下の顔はしなくていい。……次は、私の方から行くぞ。覚悟はいいか」
ナマエの返事を待たず、エルヴィンの唇が彼女を塞いだ。
それは先程の淡いものとは全く違う、略奪するように深く、情熱的な、貪欲な接吻だった。
視界が火花を散らし、ナマエの理性が音を立てて溶けていく。
団長室の静寂は、今、二人の重なる熱い呼吸によって、甘く、濃密なものへと書き換えられていった。
数日後。
再び消灯後の女子宿舎。メンバーは変わらず、ハンジ、サシャ、ミカサが集まっていた。
しかし、その中心に座るナマエの様子が、以前とは明らかに違っていた。
「……作戦、全部バレてたそうです。最初から最後まで」
ナマエが蚊の鳴くような声で告げると、ハンジが「うそお!?」と叫んで椅子から転げ落ちた。
「じゃあ、私の作戦も!? サシャのあの完璧な噂話も!?」
「全部お見通しだったみたいです。……あ、あと、リヴァイ兵長との会議に踏み込んだのも、すごく呆れられました……」
「……それで、結果はどうなったの」
ミカサが冷静に、しかし鋭く核心を突く。
ナマエは、首元まで赤く染めながら、指先で髪を弄った。
「……うまくいきました。……すごく、強引でしたけど」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ハンジが泣きながら抱きついてきた。
「よかったあ! あの堅物、ちゃんと男だったんだね!」
「素晴らしいです!! お祝いにご馳走を食べましょう!!」
サシャが狂喜乱舞し、ミカサが静かに、しかし優しく目を細めて微笑む。
騒がしい夜は、まだ始まったばかりだった。
ナマエは、窓の外の月を見上げ、自分の唇に残る、あの熱い感触を思い出していた。
石造りの壁は昼間の熱を失い、芯まで冷え切っている。そんな静寂に支配された深夜、消灯時間を過ぎた女子宿舎の一室だけが、微かな灯火と、場にそぐわない賑やかな熱気に満たされていた。
「皆、夜はこれからだ! ハンジ特製の隠し果実水と、サシャがどこからか調達してきた乾燥肉、そして禁断の恋バナ……! これぞ乙女の戦場だね!」
ハンジが眼鏡を光らせ、怪しげな色のジュースが入った瓶を掲げる。その横で、サシャが獲物を狙う獣のような手つきで乾燥肉を口に運び、ミカサは静かに、しかしどこか興味深そうにカップを手に取っていた。ナマエは、その輪の中で苦笑いを浮かべていた。
「ハンジさん、声が大きいです。兵長にバレたら掃除どころじゃ済みませんよ」
「固いこと言わない! さあ、順番に回ってきたよ。ナマエ、君の番だ。最近、誰かを目で追ってないかい?」
ハンジの追求は、鋭い刃のようにナマエの本心を突き刺した。ナマエは喉元まで出かかった名前を、果実水と一緒に飲み込もうとする。しかし、ハンジの観察眼からは逃れられない。
「……別に、誰も」
「嘘だ! その顔、絶対に誰かいる顔だ! 隠しても無駄だよ、心拍数が上がっているし、視線が泳いでる!」
「えっ、ナマエさん、好きな人がいるんですか!? 美味しいものを分けてくれる人ですか!?」
サシャが身を乗り出し、ミカサも無言でナマエをじっと見つめる。逃げ場を失ったナマエは、観念したように小さく息を吐いた。部屋の隅で揺れるキャンドルの炎が、彼女の頬を赤く染め上げる。
「……エルヴィン団長です」
その瞬間、部屋に真空のような沈黙が訪れた。
ハンジは口を開けたまま硬直して卒倒しそうな顔になり、サシャは持っていた乾燥肉を皿に落とし「うわあ……」と声を漏らした。ミカサでさえ、珍しく目を丸くしてナマエを凝視している。
「……よりによって、あのエルヴィンかい?」
ハンジがようやく絞り出した声に、ナマエは自嘲気味な笑みを浮かべた。
「分かっています。身の程知らずなのは。……でも、皆さんが知っている団長としての顔だけじゃないんです。深夜、執務室で一人、山のような書類に向き合っている時の彼は……驚くほど繊細で、どこか消えてしまいそうなほど孤独な横顔をするんです。一瞬だけ、鎧を脱いだ一人の人間としての顔を。……そういうところを、好きになってしまいました」
言葉にするほどに、胸の奥に溜まっていた熱が溢れ出す。ナマエの語るエルヴィンの姿には、彼をただの偶像としてではなく、一人の男性として深く愛おしむ情愛がこもっていた。
ハンジは目頭を押さえ、サシャは「恋ですねえ……!」と感極まったように叫び、ミカサは静かに頷いた。
「……応援する」
「よし決まった! 作戦会議だ! あの堅物団長をどうにかして揺さぶるよ!」
作戦① ――ふたりきり作戦――
翌日。ハンジは「急ぎの検体データがまとまらないんだ!」という大仰な嘘と共に、ナマエに大量の資料を持たせて団長室へ送り込んだ。
扉の向こうには、憧れの人がいる。ナマエは心臓の鼓動が耳の奥まで響くのを感じながら、重い木製のドアをノックした。
「失礼します、団長。ハンジさんから資料を預かって参りました」
部屋には、古くなった紙の匂いと、微かに漂うエルヴィンの愛用する石鹸の香りが充満していた。デスクに向かうエルヴィンは、顔を上げると僅かに目を細める。
「ああ、ナマエか。苦労をかける。……丁度いい、少し手伝ってくれないか」
「えっ……はい、喜んで」
(ふたりきり……! 何か、私的な会話のきっかけを……)
期待に胸を膨らませたナマエの前に置かれたのは、辞書のような厚みの報告書の束だった。
「この三年間分の補給物資の差異を照合してほしい。今日中に終わらせる必要があるんだ」
「……。承知しました」
一時間後。廊下で聞き耳を立てていたハンジの前に、死んだ魚のような目をしたナマエが現れた。
「……どうだった!?」
「普通に残業させられました。今からあと三百枚、数字のチェックをします」
「なんでだよ!!」
ハンジの叫びが、虚しく廊下に響き渡った。
作戦② ――嫉妬作戦――
「男の人というのは、自分の所有物が他人に狙われていると知ると燃えるみたいですよ!」というサシャの(根拠のない)主張に基づき、第二の作戦が実行された。
サシャが昼食の際、エルヴィンの近くでわざとらしく「ナマエさんに恋文を渡そうとしている兵士が何人もいるらしいですよ。モテモテですね!」と吹聴したのだ。
翌日。エルヴィンから呼び出しを受けたナマエは、期待と不安で震えながら執務室へ向かった。ハンジたちは陰からその様子を窺っている。
「ナマエ。折り入って話がある」
エルヴィンの声は低く、重厚だった。その冷徹な蒼い瞳が、じっとナマエを射抜く。
「はい、何でしょうか……(ついに嫉妬の言葉が……!?)」
「妙な噂が立っているようだが、身に覚えはあるか。軍紀を乱すような騒ぎは、あまり好ましくない」
「…………ありません」
「そうか。ならいい。周囲の雑音に惑わされず、任務に邁進するように。気をつけろ。以上だ」
そう言うと、エルヴィンは一瞥もくれずに再びペンを走らせ始めた。
廊下に戻ったナマエの顔は、石壁よりも白かった。
「……嫉妬じゃなくて、風紀の乱れに対する上官の厳重注意でした」
「あの男、血が通ってないんじゃないのかい!?」
ハンジが床に伏し、地を叩いた。
作戦③ ――告白の背中を押す作戦――
「もう、当たって砕けるしかないよ!」
ハンジの半ばヤケクソな激励に押され、ナマエは三度目の正直として、ついに自ら想いを伝える決意を固めた。
手には、せめてもの口実として持たされた適当な確認書類。心臓は破裂しそうで、手汗で紙が湿っていくのが分かった。
(もう、どうなってもいい。この気持ちを伝えないと、息が詰まってしまいそう……)
深く、深く深呼吸をし、ナマエは団長室の扉を力一杯ノックした。
返事を待たずに、勢いよく中へ足を踏み入れる。
「団長! お話が――」
しかし、ナマエの言葉はそこで凍りついた。
そこにはエルヴィンだけでなく、ソファで足を組んで不機嫌そうに紅茶を啜るリヴァイ兵長の姿があった。
「……何か用か、ナマエ。今はリヴァイと次回の壁外調査の布陣について協議中だ」
エルヴィンの氷のような声が、ナマエの熱情を急速に冷やしていく。リヴァイの鋭い視線が突き刺さり、蛇に睨まれた蛙のような心地だった。
「……あ、いえ。……書類の確認に、参りました。失礼いたしました」
「そうか、そこに置いておけ」
「……はい」
逃げるように部屋を飛び出したナマエは、廊下で待ち構えていたハンジに力なく首を振った。
「どうだった!? 今度こそ言えた!? 顔、真っ赤じゃないか!」
「……リヴァイ兵長がいました。……なんだか、二人ですごく親密そうでした。私が入る隙なんて、どこにも……」
「嘘でしょ……そんな不運ある!?」
ナマエは壁に寄りかかり、ずるずるとその場に座り込んだ。
窓の外では、いつの間にか降り始めた雨が、冷たく窓を叩いていた。
三度にわたる団長攻略作戦は、無残な瓦解を遂げた。
降り続く雨は、石造りの宿舎を一層冷たく湿らせている。
その夜の女子会は、通夜のような静寂に包まれていた。ハンジは力なくベッドに身を投げ出し、サシャは好物のジャガイモを口に運ぶ手さえ止めている。ミカサだけが、手元のカップを見つめて、言葉を選んでいた。
「……ナマエ、そんなに落ち込まないで。団長が、普通じゃないだけ」
ミカサの静かな慰めに、ナマエは力なく首を振った。
窓の外で、雨粒がガラスを叩く規則的な音が、彼女の焦燥を煽る。
「……いえ。もういいんです。諦めます」
その一言に、ハンジが飛び起きた。
「何を言っているんだい! まだ試していない策は山ほど――」
「団長は、そういう人じゃないんです。きっと」
ナマエは、自分を言い聞かせるように、震える声で言葉を継いだ。
「私が勝手に、彼の『人間らしさ』を特別視して、勝手に近づけると思ってしまっただけ。彼は人類の希望で、冷徹な指揮官なんです。私のような一兵卒が、その懐に入ろうなんて、傲慢でした」
「ナマエさん……」
サシャの悲しげな声が響く。ナマエは、胸の奥で燻り続ける熱い熾火を、無理やり冷たい水で消し去るように笑ってみせた。
「応援してくれてありがとうございました。でも本当に、もういいんです。明日からは、ただの優秀な部下に戻ります。……この気持ちを抱えたまま、隣で働けるなら、それで十分。そう思うことにしたんです」
その夜、ナマエは暗闇の中で、天井を見つめながら自問した。
本当にそれでいいのか。
答えは、枕を濡らす涙が知っていた。好きだという感情は、諦めると決めた瞬間に、より深く、鋭く、彼女の心臓を抉った。
翌日の午後、雨は上がり、空には洗われたような青が広がっていた。
ナマエは昨日までの決意を胸に、仮面のような無表情を張り付けて執務室の前に立った。手には、冷めないように淹れたばかりの紅茶のトレイがある。
「失礼します」
二度ノックをしても、返事はない。
不在だろうか。そう思い、確認のために重い扉を僅かに開けると、そこには予想外の光景が広がっていた。
午後の柔らかな陽光が、埃を躍らせながら部屋の奥まで差し込んでいる。
いつもなら背筋を伸ばし、威厳を放っているはずのエルヴィンが、ソファに深く身体を沈めて眠っていた。
机の上には、乱雑に積まれた書類。彼の右手に握られたままのペン。
鎧が、完全に外れていた。
ナマエは足音を殺して近づき、トレイをそっと机に置いた。
立ち去ろうとして、どうしても足が止まる。
眠る彼の顔は、戦場での苛烈さも、会議での冷徹さも、どこにもない。長い睫毛が影を落とし、硬く結ばれたはずの唇は、僅かに解けている。
昨夜、諦めると誓ったはずの決意が、その無防備な寝顔を見た瞬間に、音を立てて崩れ去った。
(ああ、やっぱり……無理だ。好きだ……)
抗いがたい衝動が、彼女の理性を蹂躙した。
気づけば、ナマエはソファの傍らに膝をついていた。
彼を起こさないよう、吐息さえも殺して、顔を近づける。
石鹸の香りと、彼自身の体温が混ざり合った、甘い匂いが鼻腔を擽った。
触れるだけの、羽のような接吻。
それは、彼女なりのさよならの儀式のつもりだった。
唇が、彼の唇に重なる。
温かくて、驚くほど柔らかい。
その熱に触れた瞬間、ナマエは弾かれたように身を引こうとした。
しかし、逃げようとした彼女の視界の中で、伏せられていた長い睫毛が、ゆっくりと持ち上がった。
「……随分と大胆だな、君は」
低い、地を這うような重厚な声。
エルヴィンの澄んだ碧眼が、至近距離でナマエを捉えていた。
「お、起きて……っ!?」
「最初から起きていたよ。君が、その小さな手でドアを開けた時からね」
ナマエの思考が真っ白に染まる。全身の血が逆流し、顔が爆発しそうなほど熱くなる。
「あ……し、失礼いたしました! 私は、その……!」
立ち上がり、脱兎のごとく逃げようとしたナマエの手首を、大きな掌が掴んだ。
逃げ場を塞ぐように、エルヴィンの強い力が彼女を引き戻す。
「待ちなさい」
「放してください! 忘れてください、今の……全部!」
「忘れる? これほど甘い不意打ちを、私に忘れろと言うのか」
エルヴィンはソファから身を起こし、ナマエの手首を掴んだまま、彼女をじっと見据えた。その瞳には、今まで見たこともないような、剥き出しの熱情が宿っている。
「……ずっと、我慢していた」
「え……?」
「気づいていないとでも思ったか。ハンジたちの稚拙な作戦も。君が私を見る、その熱い視線の意味も。……全部わかっていた」
ナマエは呆然と彼を見上げた。呼吸を忘れるほどの衝撃が彼女を貫く。
「……気付いて、いたのですか? 全部……?」
「ああ。あのような子供騙しの策に乗るつもりはなかった。だが……君があまりに健気に気を引こうとするものだから。こちらとしても、我慢の限界でね」
エルヴィンは、ナマエの細い顎に手を添え、逃がさないように視線を固定した。
そのまま、彼は強引にナマエを自身の腿の上へと引き上げた。
「あっ……」
密着する、屈強な身体の熱。ナマエの背中に回された腕は、鎖のように堅牢で、逃げ出す隙を与えない。エルヴィンは彼女の耳元に顔を寄せ、低く、掠れた声で囁いた。熱い吐息が、彼女のうなじを愛撫するように掠める。
「君は、私がどれほど、君という名の毒に冒されているか、想像もつかないだろう。……団長として、君の純粋さを汚してはならないと、自分を律してきたつもりだったが。……先程の接吻で、全ての鎖が切れた」
エルヴィンの大きな掌が、ナマエの頬を包み込み、親指で彼女の唇を執拗になぞった。さきほど彼女が触れた、その場所を。
「もう、部下の顔はしなくていい。……次は、私の方から行くぞ。覚悟はいいか」
ナマエの返事を待たず、エルヴィンの唇が彼女を塞いだ。
それは先程の淡いものとは全く違う、略奪するように深く、情熱的な、貪欲な接吻だった。
視界が火花を散らし、ナマエの理性が音を立てて溶けていく。
団長室の静寂は、今、二人の重なる熱い呼吸によって、甘く、濃密なものへと書き換えられていった。
数日後。
再び消灯後の女子宿舎。メンバーは変わらず、ハンジ、サシャ、ミカサが集まっていた。
しかし、その中心に座るナマエの様子が、以前とは明らかに違っていた。
「……作戦、全部バレてたそうです。最初から最後まで」
ナマエが蚊の鳴くような声で告げると、ハンジが「うそお!?」と叫んで椅子から転げ落ちた。
「じゃあ、私の作戦も!? サシャのあの完璧な噂話も!?」
「全部お見通しだったみたいです。……あ、あと、リヴァイ兵長との会議に踏み込んだのも、すごく呆れられました……」
「……それで、結果はどうなったの」
ミカサが冷静に、しかし鋭く核心を突く。
ナマエは、首元まで赤く染めながら、指先で髪を弄った。
「……うまくいきました。……すごく、強引でしたけど」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ハンジが泣きながら抱きついてきた。
「よかったあ! あの堅物、ちゃんと男だったんだね!」
「素晴らしいです!! お祝いにご馳走を食べましょう!!」
サシャが狂喜乱舞し、ミカサが静かに、しかし優しく目を細めて微笑む。
騒がしい夜は、まだ始まったばかりだった。
ナマエは、窓の外の月を見上げ、自分の唇に残る、あの熱い感触を思い出していた。
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