【短編】エルヴィン・スミス
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調査兵団本部の夜は、静寂が支配する硝子の器のようだった。
微かに開いた窓からは、夜露を含んだ冷ややかな風が忍び込み、机の上で揺れるオイルランプの炎を、心細げに躍らせている。室内には、使い込まれた革製品の重厚な匂いと、先程開封されたばかりの赤ワインの、果実味を帯びた芳醇な香りが満ちていた。
「……珍しいですね、団長がこんなに飲まれるなんて」
ナマエは、自身の前に置かれた手付かずのグラスを見つめ、困ったように微笑んだ。
向かいに座るエルヴィン・スミスは、普段の鉄仮面のような厳格さをどこかへ置き忘れてきたかのようだった。わずかに緩められたクラバット、熱を帯びたように赤く染まった頬。しかし、その蒼い瞳だけは、霧の向こう側で獲物を狙う鷹のように、奇妙な鋭さを保っている。
「ナマエ。……私は、非常に深刻な問題に直面している」
エルヴィンの声は、普段よりも一層低く、チェロの重低音のように室内の空気を振動させた。彼は空になったグラスを卓上に置くと、組んだ指の上に顎を乗せ、ナマエを真っ直ぐに射抜いた。
「深刻な問題、ですか? 兵站の不足、それとも憲兵団からの嫌がらせでしょうか。私にできることがあれば、何でも言ってください」
ナマエは背筋を伸ばし、真剣な表情で応じた。彼女の芯の強さが、ランプの光を反射する瞳に宿る。だが、エルヴィンの口から飛び出したのは、人類の存亡とはおよそ無縁な、極めて個人的な疑問だった。
「君の『好きな男』についてだ」
「……はい?」
ナマエは思わず聞き返した。
エルヴィンは微動だにせず、まるで憲兵団の最上層部を尋問するかのような峻烈なプレッシャーを放っている。
「最近、兵団内での君の動向を観察していたが、特定の人物に対して、君の視線が微かに揺らぐ瞬間がある。これは重大な規律違反……いや、私個人にとっての未解決事案だ。今夜は、その『容疑者』を特定するまで、ここを動くつもりはない」
「団長、酔ってます。確実に酔っていますよ」
「私は至って正気だ。……さあ、供述を始めようか。君が好意を抱いている男の、身体的、あるいは精神的特徴を列挙したまえ。嘘は許されない。私は君の微細な表情筋の変化も見逃さないつもりだ」
エルヴィンは懐から、なぜか公式な報告書用の羊皮紙と羽根ペンを取り出した。酔っているはずなのに、その所作は流麗で無駄がない。ナマエは溜息をつきながらも、彼のあまりに真面目な迷推理に付き合うことに決めた。少しからかってやろう、という悪戯心が、彼女の胸の中で小さく跳ねる。
「……分かりました。そこまでおっしゃるなら、正直に話しますね。私の好きな人は……まず、背がとても高いです。並んで歩くと、私が完全に見下ろされるくらいに」
「ふむ。長身か。兵団内ではミケやベルトルト、あるいは……私か。続けてくれ」
エルヴィンは淀みなくペンを走らせる。カリカリという音が、静かな部屋に小気味よく響く。
「髪の色は、すごく綺麗な金髪です。朝陽を浴びると、まるで本物の金細工みたいに輝いて見えるんですよ。……それから、瞳の色は。吸い込まれそうなほど深い、青色。海を見たことはありませんが、きっとあんな色をしているんだろうなって、いつも思っています」
エルヴィンのペンの動きが、僅かに止まった。
彼は視線を上げ、ナマエの顔をじっと見つめる。その瞳は、先程よりも一層深い青を湛えていた。
「……金髪で、碧眼。典型的な特徴だが、それだけでは特定には至らないな。性格はどうかな」
「そうですね。とても理性的で、皆から尊敬されています。でも、時々……。そう、今みたいに、子供みたいに意固地なところがあるんです。本人は気づいていないみたいですけど、そこが一番の魅力かもしれません」
ナマエは、机に肘をついて彼を見つめ返した。彼女の言葉は、剥き出しの親愛となって彼の鼓動を打ち鳴らす。
エルヴィンは、羽根ペンを置いた。
彼はじっと、自身が書き連ねた「容疑者の特徴」を見つめている。
沈黙が、蜜のように濃厚に部屋を満たしていく。
「……ナマエ。一つ、確認したい」
エルヴィンは、かつてないほどに真剣な、それでいてどこか戸惑いを含んだ声で囁いた。
「その男は……。30代半ばで、調査兵団の団長職を務めていたりしないだろうか」
「さあ、どうでしょうか。団長の推理力なら、もう答えは出ているはずですよね?」
ナマエは柔らかく笑い、目の前の「名探偵」に挑戦的な視線を送った。
エルヴィンはゆっくりと立ち上がり、机を回り込んでナマエの隣へと歩み寄った。
彼の纏うサンダルウッドの香りと、熟成されたワインの匂いが、ナマエの鼻腔を熱くくすぐる。
彼はナマエの背後の椅子に手をかけ、彼女を閉じ込めるようにして顔を近づけた。
「……その特徴、私に酷似しているが……偶然か?」
「偶然、かもしれません。それとも、必然でしょうか」
ナマエは逃げることなく、彼のすぐ近くにある蒼い瞳を真っ直ぐに見つめた。
エルヴィンは、困ったように眉根を寄せた。その双眉が、ランプの影を落として切なげに揺れる。
「……君は、私を拷問している自覚があるか? このような曖昧な供述で、私を翻弄し、思考を麻痺させる……。これは、最高刑に値する罪だよ」
「それなら、今すぐ捕まえてください。団長」
ナマエの声が、微かな吐息となって彼の唇に触れる。
エルヴィンの瞳に、ようやく「酔い」ではない、熱い衝動の光が灯った。
彼は大きな掌でナマエの頬を包み込み、親指で彼女の唇をそっとなぞる。
「……推理は、これで終幕だ。残された唯一の真実を、今から君に執行しよう」
重なり合う唇。
お茶の時間よりも甘く、ワインよりも芳醇な、二人の熱。
外では夜風がまた一つ、強く吹いていったが、この閉ざされた執務室の中には、確かな答えを見つけ出した二人の、幸せな吐息だけが満ちていた。
翌朝、二日酔いに頭を抱えるエルヴィンの机の上には、自身の手で書かれた『ナマエの好きな男に関する調査報告書』が残されていた。
その最後の一行には、乱れた文字でこう記されていたという。
『犯人は、私以外の何者でもない。』
―――
窓から差し込む朝陽は、容赦のない刃となってエルヴィンの瞼を貫いた。
石造りの壁に反射する光はあまりに鋭く、昨夜の残滓を宿した脳髄を、鈍い痛みと共に抉り出す。エルヴィン・スミスは、重い頭を抱えながら、ゆっくりと上体を起こした。
口内には、上質な赤ワインが残した、乾いた渋みと微かな酸味。
視界を覆う薄い霧を振り払うように瞬きを繰り返すと、デスクの上に散乱したままの、見覚えのある……しかし、二度と見たくない性質の紙片が、朝の清廉な光の中に鎮座していた。
「……っ」
エルヴィンは、声にならない呻きを漏らした。
喉の奥が引き攣るような、熱い羞恥が、心臓から指先まで一気に駆け巡る。
震える手でその羊皮紙を手に取れば、そこには普段の彼からは想像もつかないほどに乱れた、しかし紛れもなく彼自身の筆跡が躍っていた。
『容疑者の特徴:長身。黄金の髪。瞳は海を思わせる蒼。知性的だが、酔うと面倒な名探偵を気取る傾向あり。』
読み進めるごとに、昨夜の記憶が断片的に、そして鮮明すぎる色彩を伴って脳内に蘇る。
ナマエの柔らかな微笑。彼女の唇から紡がれた、自分を指し示す明白な愛の言葉。そして、あろうことか「犯人は、私以外の何者でもない」と、勝ち誇ったように書き殴った、最後の一行。
(私は……何という、失態を……)
人類の叡智を司る指揮官としてのプライドが、音を立てて瓦解していく。
彼は顔を覆い、そのまま椅子に深く沈み込んだ。掌の中に閉じ込められた溜息は、行き場を失って熱く籠もる。
その時、重厚な扉が、軽やかなリズムで叩かれた。
「おはようございます、団長。……お目覚めですか?」
心臓が、跳ねた。
エルヴィンは反射的に、手元の「有罪証拠」をデスクの引き出しに叩き込み、背筋を伸ばした。痛む頭を無理やり抑え込み、団長としての仮面を貼り付ける。
「……ああ。入れ」
扉が開くと、そこには朝陽を背負ったナマエが立っていた。
彼女は、昨日と変わらぬポジティブで清々しいオーラを纏い、手元には湯気を立てる陶器のカップを乗せた盆がある。室内に、ミントの清涼な香りがふわりと広がった。
「二日酔いに効くハーブティーを淹れてきました。……顔色が少し優れないようですね。昨夜の『捜査』が、よほど過酷だったのでしょうか?」
ナマエは、いたずらっぽく目を細めて彼を見つめた。
その柔らかな敬語には、明らかに彼をからかう意図が含まれている。彼女は盆をデスクに置き、エルヴィンの顔を覗き込んだ。
「……ナマエ。昨夜の私は、その……少し、判断力が低下していたようだ」
「判断力、ですか? 私はそうは思いませんでしたよ。あんなに熱心に、一晩中私の心の中を尋問していたんですから。あの報告書、読み返しましたか?」
「……。既に処分した」
「え、もったいない。あんなに正確な推理、なかなかできるものではありませんよ。特に、最後の一行の『犯人の自供』は……。ふふ、すごく、男らしかったです」
ナマエは、エルヴィンの椅子の肘掛けに手を置き、その至近距離で微笑んだ。
彼女の言葉は、その一言一言がエルヴィンの自制心を甘く、残酷に揺さぶる。
「……ナマエ、頼むから。これ以上、私を追い詰めないでくれ」
エルヴィンは、ついに観念したように視線を逸らし、手で口元を覆った。
赤い耳たぶが、彼の羞恥の深さを物語っている。
ナマエはその様子を眺めながら、心底楽しそうに声を立てて笑った。
「団長がそんなに弱っている姿、初めて見ました。……でも、安心してください。あの報告書の内容、私は一文字も忘れていませんから。あなたが認めた通り、私の好きな人は、あの『名探偵』さんで間違いありません」
ナマエは、彼の肩にそっと手を置き、その耳元で囁いた。
「今朝はゆっくり休んでください。団長としての公務は、私ができる範囲で支えます。……それとも、まだ続きの尋問、しますか?」
「……。今は、ただの茶が飲みたい。……それと、君の隣にいさせてほしい」
エルヴィンは、降参の意思を示すように、差し出されたカップを手に取った。
ハーブの熱い蒸気が鼻腔を抜け、彼の強張った心と体を、ゆっくりと解きほぐしていく。
窓の外では、新しい一日の喧騒が始まろうとしていた。
悶絶の朝を乗り越えた指揮官は、この日、人類への貢献よりも先に、一人の女性に完全に敗北したことを、その苦いハーブティーと共に噛み締めていた。
微かに開いた窓からは、夜露を含んだ冷ややかな風が忍び込み、机の上で揺れるオイルランプの炎を、心細げに躍らせている。室内には、使い込まれた革製品の重厚な匂いと、先程開封されたばかりの赤ワインの、果実味を帯びた芳醇な香りが満ちていた。
「……珍しいですね、団長がこんなに飲まれるなんて」
ナマエは、自身の前に置かれた手付かずのグラスを見つめ、困ったように微笑んだ。
向かいに座るエルヴィン・スミスは、普段の鉄仮面のような厳格さをどこかへ置き忘れてきたかのようだった。わずかに緩められたクラバット、熱を帯びたように赤く染まった頬。しかし、その蒼い瞳だけは、霧の向こう側で獲物を狙う鷹のように、奇妙な鋭さを保っている。
「ナマエ。……私は、非常に深刻な問題に直面している」
エルヴィンの声は、普段よりも一層低く、チェロの重低音のように室内の空気を振動させた。彼は空になったグラスを卓上に置くと、組んだ指の上に顎を乗せ、ナマエを真っ直ぐに射抜いた。
「深刻な問題、ですか? 兵站の不足、それとも憲兵団からの嫌がらせでしょうか。私にできることがあれば、何でも言ってください」
ナマエは背筋を伸ばし、真剣な表情で応じた。彼女の芯の強さが、ランプの光を反射する瞳に宿る。だが、エルヴィンの口から飛び出したのは、人類の存亡とはおよそ無縁な、極めて個人的な疑問だった。
「君の『好きな男』についてだ」
「……はい?」
ナマエは思わず聞き返した。
エルヴィンは微動だにせず、まるで憲兵団の最上層部を尋問するかのような峻烈なプレッシャーを放っている。
「最近、兵団内での君の動向を観察していたが、特定の人物に対して、君の視線が微かに揺らぐ瞬間がある。これは重大な規律違反……いや、私個人にとっての未解決事案だ。今夜は、その『容疑者』を特定するまで、ここを動くつもりはない」
「団長、酔ってます。確実に酔っていますよ」
「私は至って正気だ。……さあ、供述を始めようか。君が好意を抱いている男の、身体的、あるいは精神的特徴を列挙したまえ。嘘は許されない。私は君の微細な表情筋の変化も見逃さないつもりだ」
エルヴィンは懐から、なぜか公式な報告書用の羊皮紙と羽根ペンを取り出した。酔っているはずなのに、その所作は流麗で無駄がない。ナマエは溜息をつきながらも、彼のあまりに真面目な迷推理に付き合うことに決めた。少しからかってやろう、という悪戯心が、彼女の胸の中で小さく跳ねる。
「……分かりました。そこまでおっしゃるなら、正直に話しますね。私の好きな人は……まず、背がとても高いです。並んで歩くと、私が完全に見下ろされるくらいに」
「ふむ。長身か。兵団内ではミケやベルトルト、あるいは……私か。続けてくれ」
エルヴィンは淀みなくペンを走らせる。カリカリという音が、静かな部屋に小気味よく響く。
「髪の色は、すごく綺麗な金髪です。朝陽を浴びると、まるで本物の金細工みたいに輝いて見えるんですよ。……それから、瞳の色は。吸い込まれそうなほど深い、青色。海を見たことはありませんが、きっとあんな色をしているんだろうなって、いつも思っています」
エルヴィンのペンの動きが、僅かに止まった。
彼は視線を上げ、ナマエの顔をじっと見つめる。その瞳は、先程よりも一層深い青を湛えていた。
「……金髪で、碧眼。典型的な特徴だが、それだけでは特定には至らないな。性格はどうかな」
「そうですね。とても理性的で、皆から尊敬されています。でも、時々……。そう、今みたいに、子供みたいに意固地なところがあるんです。本人は気づいていないみたいですけど、そこが一番の魅力かもしれません」
ナマエは、机に肘をついて彼を見つめ返した。彼女の言葉は、剥き出しの親愛となって彼の鼓動を打ち鳴らす。
エルヴィンは、羽根ペンを置いた。
彼はじっと、自身が書き連ねた「容疑者の特徴」を見つめている。
沈黙が、蜜のように濃厚に部屋を満たしていく。
「……ナマエ。一つ、確認したい」
エルヴィンは、かつてないほどに真剣な、それでいてどこか戸惑いを含んだ声で囁いた。
「その男は……。30代半ばで、調査兵団の団長職を務めていたりしないだろうか」
「さあ、どうでしょうか。団長の推理力なら、もう答えは出ているはずですよね?」
ナマエは柔らかく笑い、目の前の「名探偵」に挑戦的な視線を送った。
エルヴィンはゆっくりと立ち上がり、机を回り込んでナマエの隣へと歩み寄った。
彼の纏うサンダルウッドの香りと、熟成されたワインの匂いが、ナマエの鼻腔を熱くくすぐる。
彼はナマエの背後の椅子に手をかけ、彼女を閉じ込めるようにして顔を近づけた。
「……その特徴、私に酷似しているが……偶然か?」
「偶然、かもしれません。それとも、必然でしょうか」
ナマエは逃げることなく、彼のすぐ近くにある蒼い瞳を真っ直ぐに見つめた。
エルヴィンは、困ったように眉根を寄せた。その双眉が、ランプの影を落として切なげに揺れる。
「……君は、私を拷問している自覚があるか? このような曖昧な供述で、私を翻弄し、思考を麻痺させる……。これは、最高刑に値する罪だよ」
「それなら、今すぐ捕まえてください。団長」
ナマエの声が、微かな吐息となって彼の唇に触れる。
エルヴィンの瞳に、ようやく「酔い」ではない、熱い衝動の光が灯った。
彼は大きな掌でナマエの頬を包み込み、親指で彼女の唇をそっとなぞる。
「……推理は、これで終幕だ。残された唯一の真実を、今から君に執行しよう」
重なり合う唇。
お茶の時間よりも甘く、ワインよりも芳醇な、二人の熱。
外では夜風がまた一つ、強く吹いていったが、この閉ざされた執務室の中には、確かな答えを見つけ出した二人の、幸せな吐息だけが満ちていた。
翌朝、二日酔いに頭を抱えるエルヴィンの机の上には、自身の手で書かれた『ナマエの好きな男に関する調査報告書』が残されていた。
その最後の一行には、乱れた文字でこう記されていたという。
『犯人は、私以外の何者でもない。』
―――
窓から差し込む朝陽は、容赦のない刃となってエルヴィンの瞼を貫いた。
石造りの壁に反射する光はあまりに鋭く、昨夜の残滓を宿した脳髄を、鈍い痛みと共に抉り出す。エルヴィン・スミスは、重い頭を抱えながら、ゆっくりと上体を起こした。
口内には、上質な赤ワインが残した、乾いた渋みと微かな酸味。
視界を覆う薄い霧を振り払うように瞬きを繰り返すと、デスクの上に散乱したままの、見覚えのある……しかし、二度と見たくない性質の紙片が、朝の清廉な光の中に鎮座していた。
「……っ」
エルヴィンは、声にならない呻きを漏らした。
喉の奥が引き攣るような、熱い羞恥が、心臓から指先まで一気に駆け巡る。
震える手でその羊皮紙を手に取れば、そこには普段の彼からは想像もつかないほどに乱れた、しかし紛れもなく彼自身の筆跡が躍っていた。
『容疑者の特徴:長身。黄金の髪。瞳は海を思わせる蒼。知性的だが、酔うと面倒な名探偵を気取る傾向あり。』
読み進めるごとに、昨夜の記憶が断片的に、そして鮮明すぎる色彩を伴って脳内に蘇る。
ナマエの柔らかな微笑。彼女の唇から紡がれた、自分を指し示す明白な愛の言葉。そして、あろうことか「犯人は、私以外の何者でもない」と、勝ち誇ったように書き殴った、最後の一行。
(私は……何という、失態を……)
人類の叡智を司る指揮官としてのプライドが、音を立てて瓦解していく。
彼は顔を覆い、そのまま椅子に深く沈み込んだ。掌の中に閉じ込められた溜息は、行き場を失って熱く籠もる。
その時、重厚な扉が、軽やかなリズムで叩かれた。
「おはようございます、団長。……お目覚めですか?」
心臓が、跳ねた。
エルヴィンは反射的に、手元の「有罪証拠」をデスクの引き出しに叩き込み、背筋を伸ばした。痛む頭を無理やり抑え込み、団長としての仮面を貼り付ける。
「……ああ。入れ」
扉が開くと、そこには朝陽を背負ったナマエが立っていた。
彼女は、昨日と変わらぬポジティブで清々しいオーラを纏い、手元には湯気を立てる陶器のカップを乗せた盆がある。室内に、ミントの清涼な香りがふわりと広がった。
「二日酔いに効くハーブティーを淹れてきました。……顔色が少し優れないようですね。昨夜の『捜査』が、よほど過酷だったのでしょうか?」
ナマエは、いたずらっぽく目を細めて彼を見つめた。
その柔らかな敬語には、明らかに彼をからかう意図が含まれている。彼女は盆をデスクに置き、エルヴィンの顔を覗き込んだ。
「……ナマエ。昨夜の私は、その……少し、判断力が低下していたようだ」
「判断力、ですか? 私はそうは思いませんでしたよ。あんなに熱心に、一晩中私の心の中を尋問していたんですから。あの報告書、読み返しましたか?」
「……。既に処分した」
「え、もったいない。あんなに正確な推理、なかなかできるものではありませんよ。特に、最後の一行の『犯人の自供』は……。ふふ、すごく、男らしかったです」
ナマエは、エルヴィンの椅子の肘掛けに手を置き、その至近距離で微笑んだ。
彼女の言葉は、その一言一言がエルヴィンの自制心を甘く、残酷に揺さぶる。
「……ナマエ、頼むから。これ以上、私を追い詰めないでくれ」
エルヴィンは、ついに観念したように視線を逸らし、手で口元を覆った。
赤い耳たぶが、彼の羞恥の深さを物語っている。
ナマエはその様子を眺めながら、心底楽しそうに声を立てて笑った。
「団長がそんなに弱っている姿、初めて見ました。……でも、安心してください。あの報告書の内容、私は一文字も忘れていませんから。あなたが認めた通り、私の好きな人は、あの『名探偵』さんで間違いありません」
ナマエは、彼の肩にそっと手を置き、その耳元で囁いた。
「今朝はゆっくり休んでください。団長としての公務は、私ができる範囲で支えます。……それとも、まだ続きの尋問、しますか?」
「……。今は、ただの茶が飲みたい。……それと、君の隣にいさせてほしい」
エルヴィンは、降参の意思を示すように、差し出されたカップを手に取った。
ハーブの熱い蒸気が鼻腔を抜け、彼の強張った心と体を、ゆっくりと解きほぐしていく。
窓の外では、新しい一日の喧騒が始まろうとしていた。
悶絶の朝を乗り越えた指揮官は、この日、人類への貢献よりも先に、一人の女性に完全に敗北したことを、その苦いハーブティーと共に噛み締めていた。
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