人類の希望は恋に溺れる
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調査兵団の夜は、常に静寂という名の重圧に支配されている。 執務室の窓から差し込む月光は、冷たい銀色をしており、積み上げられた書類の山に鋭い影を落としていた。
ナマエは、廊下の曲がり角で足を止めた。時刻は午前三時を回っている。 団長執務室の扉の下から漏れる灯火が、今夜も消えていないことに、胸の奥を刺すような予感があった。
「……失礼します」
返事はない。 微かな胸騒ぎと共に扉を開けたナマエの目に飛び込んできたのは、机に突っ伏したまま、動かなくなっているエルヴィンの姿だった。
「エルヴィン団長!? 」
駆け寄り、その広い肩を揺さぶる。 手のひらから伝わってきたのは、厚い軍服越しにもわかる、尋常ではない熱気だった。 エルヴィンの呼吸は浅く、荒い。常に鋼のように強靭だったその身体が、今は微かな震えを帯びている。
「……あ、……ナマエ、か……」
微かに開かれた碧眼は、熱に浮かされ、焦点が定まっていない。 彼は立ち上がろうとしたが、膝に力が入らず、そのまま椅子から崩れ落ちそうになった。ナマエは咄嗟にその巨躯を支える。
「無理をしないでください! 顔が真っ赤です……。すぐにベッドへ」
ナマエは彼の腕を自分の肩に回し、一歩ずつ、隣接する休息用の私室へと彼を運んだ。 人類の希望をその双肩に背負う男は、今、一人の人間として、過労という限界の淵に立たされていた。
静まり返った私室。 エルヴィンをベッドに横たえ、ブーツを脱がせ、窮屈そうなネクタイを解く。ナマエは盆に用意した水と清潔な布を使い、彼の額や首筋を拭った。
「……熱い」
布を当てるたび、彼の肌から立ち上る熱に胸が締め付けられる。 普段、誰よりも冷徹で、誰よりも高い場所から世界を見渡している男の、これが中身なのだ。 削られ、磨り減り、それでも止まることを許されない、一人の男の生身の体温。
「少しでも、楽になってください……」
ナマエが濡れた布を絞っていると、不意に、熱を帯びた大きな手が彼女の手首を掴んだ。 驚いて顔を上げると、エルヴィンが苦しげに眉を寄せ、潤んだ瞳で彼女を見つめていた。
「……どこへ、行く」
「冷たい水に替えてくるだけです。すぐに戻りますから」
「……行かないでくれ」
その声は迷子になった子供のような、か細い響きだった。 エルヴィンの指が、ナマエの手を離さないように強く握りしめる。 その力が強ければ強いほど、彼が心の奥底で抱えている孤独の深さが透けて見えるようで、ナマエの視界が不意に滲んだ。
「……ここに、います。どこへも行きません」
ナマエはベッドの傍らに膝をつき、彼の大きな手を両手で包み込んだ。 エルヴィンは安堵したように、彼女の指先を頬に寄せ、そのまま再び深い眠りの淵へと落ちていった。
「……ずるいです、エルヴィンさん」
暗闇の中、ナマエは呟いた。 普段はあんなに遠くにいるのに、こんな時だけ、自分を必要としているかのように振る舞う。 その弱さに触れてしまえば、もう二度と、彼から離れることなどできなくなる。
翌朝。
小鳥の囀りが石壁を叩き、窓から差し込む朝陽がエルヴィンの瞼を揺らした。
「……っ」
エルヴィンは、激しい頭痛と共に意識を浮上させた。 視界に映るのは、自分の部屋の見慣れた天井。そして、腕に伝わる心地よい重み。 視線を落とすと、ベッドの脇で椅子に座ったまま、自分の手を握りしめて眠っているナマエの姿があった。
昨夜の記憶が、断片的に蘇る。 熱に浮かされ、彼女を呼び止めたこと。 情けないほど弱々しい声を晒し、彼女の温もりに縋り付いたこと。 そして、彼女が夜通し、自分のために祈るように傍らにいてくれたこと。
(……私は、何を)
エルヴィンの顔が、熱とは別の理由で急速に赤く染まっていく。 冷徹な指揮官としての自尊心が、昨夜の自分の言動を壊滅的な失態と定義していた。 人類を導くべき男が、部下の手を握りしめて「行かないでくれ」だと?
「……ぅ、……ん」
ナマエが微かに身じろぎし、ゆっくりと目を開けた。 視線が絡み合う。
「……あ、団長! 熱は、下がりましたか?」
ナマエは飛び起きるようにして、彼の額に手を当てた。 エルヴィンは硬直したまま、されるがままになっている。
「ええ、だいぶ下がったみたいですね。良かったです……本当に心配したんですよ」
心底安堵したように微笑む彼女を前にして、エルヴィンの羞恥心は限界に達した。 彼は片手で顔を覆い、掠れた声で絞り出した。
「……ナマエ」
「はい」
「……昨夜のことは、忘れてくれ。……すべて、熱が見せた幻覚だと思ってほしい。……頼む、死ぬほど恥ずかしいんだ」
その耳の先まで真っ赤にしている姿に、ナマエは一瞬驚き、それから胸の奥から込み上げる愛しさに耐えきれず、ふふっと吹き出した。
「嫌です」
「……何?」
「忘れてなんてあげません。あんなに可愛らしくて、私を求めてくださったエルヴィンさんなんて、一生に一度見られるかどうかの宝物ですから。……一生、忘れません。墓場まで持っていきます!」
「……っ、君というやつは……!」
エルヴィンは、顔を覆った指の間から彼女を睨もうとしたが、その瞳には険しさはなく、ただ困惑と深い愛着が混ざり合っていた。
「……作戦の失敗だな。これでは、君に対して一生頭が上がらない」
「ふふ、いいんですよ。その代わり、これからもたくさん私を頼ってください。……命令ですよ、団長」
ナマエが茶目っ気たっぷりに敬礼をしてみせると、エルヴィンは観念したように深い溜息を吐き、それから誰にも見せたことのない、穏やかな降伏の笑みを浮かべた。
二人の間に流れる空気は、昨夜の熱を帯びたまま、朝の光の中で甘やかに溶けていった。
ナマエは、廊下の曲がり角で足を止めた。時刻は午前三時を回っている。 団長執務室の扉の下から漏れる灯火が、今夜も消えていないことに、胸の奥を刺すような予感があった。
「……失礼します」
返事はない。 微かな胸騒ぎと共に扉を開けたナマエの目に飛び込んできたのは、机に突っ伏したまま、動かなくなっているエルヴィンの姿だった。
「エルヴィン団長!? 」
駆け寄り、その広い肩を揺さぶる。 手のひらから伝わってきたのは、厚い軍服越しにもわかる、尋常ではない熱気だった。 エルヴィンの呼吸は浅く、荒い。常に鋼のように強靭だったその身体が、今は微かな震えを帯びている。
「……あ、……ナマエ、か……」
微かに開かれた碧眼は、熱に浮かされ、焦点が定まっていない。 彼は立ち上がろうとしたが、膝に力が入らず、そのまま椅子から崩れ落ちそうになった。ナマエは咄嗟にその巨躯を支える。
「無理をしないでください! 顔が真っ赤です……。すぐにベッドへ」
ナマエは彼の腕を自分の肩に回し、一歩ずつ、隣接する休息用の私室へと彼を運んだ。 人類の希望をその双肩に背負う男は、今、一人の人間として、過労という限界の淵に立たされていた。
静まり返った私室。 エルヴィンをベッドに横たえ、ブーツを脱がせ、窮屈そうなネクタイを解く。ナマエは盆に用意した水と清潔な布を使い、彼の額や首筋を拭った。
「……熱い」
布を当てるたび、彼の肌から立ち上る熱に胸が締め付けられる。 普段、誰よりも冷徹で、誰よりも高い場所から世界を見渡している男の、これが中身なのだ。 削られ、磨り減り、それでも止まることを許されない、一人の男の生身の体温。
「少しでも、楽になってください……」
ナマエが濡れた布を絞っていると、不意に、熱を帯びた大きな手が彼女の手首を掴んだ。 驚いて顔を上げると、エルヴィンが苦しげに眉を寄せ、潤んだ瞳で彼女を見つめていた。
「……どこへ、行く」
「冷たい水に替えてくるだけです。すぐに戻りますから」
「……行かないでくれ」
その声は迷子になった子供のような、か細い響きだった。 エルヴィンの指が、ナマエの手を離さないように強く握りしめる。 その力が強ければ強いほど、彼が心の奥底で抱えている孤独の深さが透けて見えるようで、ナマエの視界が不意に滲んだ。
「……ここに、います。どこへも行きません」
ナマエはベッドの傍らに膝をつき、彼の大きな手を両手で包み込んだ。 エルヴィンは安堵したように、彼女の指先を頬に寄せ、そのまま再び深い眠りの淵へと落ちていった。
「……ずるいです、エルヴィンさん」
暗闇の中、ナマエは呟いた。 普段はあんなに遠くにいるのに、こんな時だけ、自分を必要としているかのように振る舞う。 その弱さに触れてしまえば、もう二度と、彼から離れることなどできなくなる。
翌朝。
小鳥の囀りが石壁を叩き、窓から差し込む朝陽がエルヴィンの瞼を揺らした。
「……っ」
エルヴィンは、激しい頭痛と共に意識を浮上させた。 視界に映るのは、自分の部屋の見慣れた天井。そして、腕に伝わる心地よい重み。 視線を落とすと、ベッドの脇で椅子に座ったまま、自分の手を握りしめて眠っているナマエの姿があった。
昨夜の記憶が、断片的に蘇る。 熱に浮かされ、彼女を呼び止めたこと。 情けないほど弱々しい声を晒し、彼女の温もりに縋り付いたこと。 そして、彼女が夜通し、自分のために祈るように傍らにいてくれたこと。
(……私は、何を)
エルヴィンの顔が、熱とは別の理由で急速に赤く染まっていく。 冷徹な指揮官としての自尊心が、昨夜の自分の言動を壊滅的な失態と定義していた。 人類を導くべき男が、部下の手を握りしめて「行かないでくれ」だと?
「……ぅ、……ん」
ナマエが微かに身じろぎし、ゆっくりと目を開けた。 視線が絡み合う。
「……あ、団長! 熱は、下がりましたか?」
ナマエは飛び起きるようにして、彼の額に手を当てた。 エルヴィンは硬直したまま、されるがままになっている。
「ええ、だいぶ下がったみたいですね。良かったです……本当に心配したんですよ」
心底安堵したように微笑む彼女を前にして、エルヴィンの羞恥心は限界に達した。 彼は片手で顔を覆い、掠れた声で絞り出した。
「……ナマエ」
「はい」
「……昨夜のことは、忘れてくれ。……すべて、熱が見せた幻覚だと思ってほしい。……頼む、死ぬほど恥ずかしいんだ」
その耳の先まで真っ赤にしている姿に、ナマエは一瞬驚き、それから胸の奥から込み上げる愛しさに耐えきれず、ふふっと吹き出した。
「嫌です」
「……何?」
「忘れてなんてあげません。あんなに可愛らしくて、私を求めてくださったエルヴィンさんなんて、一生に一度見られるかどうかの宝物ですから。……一生、忘れません。墓場まで持っていきます!」
「……っ、君というやつは……!」
エルヴィンは、顔を覆った指の間から彼女を睨もうとしたが、その瞳には険しさはなく、ただ困惑と深い愛着が混ざり合っていた。
「……作戦の失敗だな。これでは、君に対して一生頭が上がらない」
「ふふ、いいんですよ。その代わり、これからもたくさん私を頼ってください。……命令ですよ、団長」
ナマエが茶目っ気たっぷりに敬礼をしてみせると、エルヴィンは観念したように深い溜息を吐き、それから誰にも見せたことのない、穏やかな降伏の笑みを浮かべた。
二人の間に流れる空気は、昨夜の熱を帯びたまま、朝の光の中で甘やかに溶けていった。
