人類の希望は恋に溺れる
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壁の中に降り注ぐ陽光は、調査兵団の拠点にある冷え切った石造りのそれとは、どこか質感が違っていた。 トロスト区の市場は、活気に満ちている。焼きたてのパンの香ばしい匂い、荷馬車を引く馬の嘶き、そして行き交う人々の喧騒。それらすべてが、巨人の恐怖を一時的に忘れさせるような、穏やかな日常の調べを奏でていた。
ナマエは、買い出しのメモを片手に、雑踏の中を歩いていた。 今日の彼女は、いつもの緑の調査兵団マントも、身体を締め付ける革のベルトも身に着けていない。柔らかな生成色のブラウスに、落ち着いた紺色のスカート。茶色のセミロングの髪は、風に遊ばれるままに下ろされていた。
「……たまの休みだけど、結局兵舎で使う備品の確認になっちゃう」
ふふ、と笑みが溢れる。軍服を脱いだ彼女は、精鋭の分隊長というよりは、街のどこにでもいる、少しばかり目を引く美しい令嬢といった風情だった。
その時、人混みの向こう側に、見覚えのある高さを見つけた。 周囲の平民たちとは明らかに一線を画す、圧倒的な体躯と気品。仕立ての良い濃紺のコートを羽織り、落ち着いた足取りで歩くその男を、ナマエが見間違えるはずもなかった。
「……団長?」
思わず声が漏れた。 声に導かれるように、その影がこちらを振り返る。 金色の髪が陽光にきらめき、深い碧眼が驚きに細められた。
「ナマエ……か?」
エルヴィン・スミスだった。 軍服を着ていない彼は、どこか野性味を削ぎ落とした、洗練された貴族のような佇まいを見せている。だが、その広い肩幅や、服の上からでもわかる鍛え抜かれた筋肉の厚みは、彼が戦いの中に生きる男であることを雄弁に物語っていた。
「奇遇だな。君も非番だったのか」
エルヴィンの声は、壁の上で聞く鋭い命令とは違い、低く、心地よい響きを湛えていた。
「はい。備品の買い出しを頼まれていて。団長こそ、お一人でどうされたんですか?」
「私も少し、調べたい文献があってね。古本屋を回っていたところだ。……それにしても」
エルヴィンの視線が、ナマエの頭から爪先までをゆっくりとなぞる。 その熱を孕んだ眼差しに、ナマエは心臓が跳ねるのを感じた。
「……私服姿の君を見るのは、新鮮だ。よく似合っている。いつもの凛々しさも良いが、今日の君は……その、非常に、柔らかい印象を受けるな」
「あ……ありがとうございます。団長も、その……すごく、格好いいです。軍服じゃないと、なんだか別の素敵な人みたいで……」
顔を赤らめて素直な感想を口にするナマエに、エルヴィンは不意を突かれたように目を丸くし、それから少しだけ困ったように眉を下げて笑った。
「そうか。……エルヴィン、でいい」
「えっ?」
「今は壁の外でもなければ、執務室でもない。ただの休日だ。……君に『団長』と呼ばれると、つい仕事の続きを思い出してしまうからね」
そう言って彼は、ナマエの隣に並んだ。
「買い出しだろう? 荷物持ちが必要なはずだ。……私で良ければ、同行させてもらえないだろうか」
「そんな、団長……じゃなくて、エルヴィンさんに荷物持ちなんて!」
「私がそうしたいんだ。……断られると、少し傷つくな」
冗談めかして言う彼の声音には、断らせない強引さと、それ以上の甘やかな響きがあった。
二人は、連れ立って市場を歩き始めた。 果物屋を覗き、香辛料の香りに鼻をくすぐられ、時には立ち止まって色とりどりの雑貨を眺める。 エルヴィンは、ナマエが手にした重い荷物を当然のように引き受け、彼女の歩調に合わせてゆっくりと歩いた。
「あ、見てくださいエルヴィンさん! あの花、すごく綺麗」
ナマエが指差したのは、店先に並んだ鮮やかな青色の小花だった。 無邪気に笑う彼女の横顔を、エルヴィンはじっと見つめる。
(計算外だ。……これほどまでに、彼女の隣を歩くことが心地良いとは)
完璧な作戦を練る時の研ぎ澄まされた思考は、彼女の纏う甘い花の香りと、時折触れそうになる肩の温度によって、心地よく麻痺していく。
その時、広場の向こうから騒がしい子供たちの群れが走ってきた。「わあぁ! どいてどいてー!」 勢いよく突っ込んでくる子供たちに、ナマエの身体がよろめく。
「おっと……危ない」
エルヴィンの手が、瞬時にナマエの腰を引き寄せた。 力強く、けれど壊れ物を扱うような優しさで、彼女の身体が彼の厚い胸板に密着する。
「……っ」
ナマエの視界が、エルヴィンのコートの色で染まった。 鼻腔をくすぐるのは、彼の肌から漂う清潔な石鹸の匂いと、微かな煙草の残り香。 そして、耳元で聞こえる、ドクンドクンと刻まれる力強い鼓動。
「怪我はないか? 随分と元気な子供たちだ」
エルヴィンは彼女を抱き寄せたまま、離そうとしなかった。 腰に回された大きな手のひらの熱が、ブラウス越しに伝わってくる。 ナマエは顔を真っ赤にしながら、彼の腕の中で小さく頷いた。
「は、はい……大丈夫です。すみません、ぼーっとしていて」
「いや……。このまま、離れないようにしていなさい。人混みが激しくなってきた」
彼はそう言って、腰に添えた手を自然に彼女の肩へと回した。 それは、傍から見れば疑いようのない恋人同士の距離感だった。 エルヴィンの独占欲が、人混みという正当な理由を得て、静かに、けれど確実に表出していた。
夕暮れ時。 二人は、街を一望できる高台にある小さなカフェのテラス席に座っていた。 目の前には、オレンジ色に染まるトロスト区の街並みが広がっている。 遠くに見える巨大な壁だけが、ここが戦時下であることを思い出させていた。
「……綺麗ですね」
ナマエが、運ばれてきた温かいハーブティーを一口含み、息を吐いた。 エルヴィンも、手元のカップを見つめたまま、静かに口を開く。
「ああ。……穏やかだ。この景色を見ていると、明日からまた地獄へ戻るということが、嘘のようにも思える」
エルヴィンの眼差しが、どこか遠くを見つめる。 それは調査兵団団長としての冷徹な目ではなく、果てしない探求心に胸を焦がす一人の男の目だった。
「ナマエ」
「はい」
「……もし、この世界に巨人がいなかったら。壁の外にも、あんな恐ろしい怪物が一人もいなかったとしたら」
エルヴィンは、テーブルの上にあるナマエの手に、自分の手をそっと重ねた。
「君と私は、こうして普通に出会い、普通に笑い合えただろうか。……例えば、君は街の図書館に勤める司書で、私はそこへ通うしがない学者か何かで。……そんな、ありふれた未来が、私たちにもあったのだろうか」
ナマエの胸が、ぎゅっと締め付けられた。
「エルヴィンさん……」
彼が描いたのは、調査兵団の団長という重責も、仲間を死なせ続ける罪悪感もない、ただの平和な日常を生きる二人の姿だった。 それは、今の彼らにとっては何よりも贅沢で、そして決して叶わない未来だ。
「……わかりません。でも、もしそうだとしても。私はきっと、数ある本の中から、あなたを見つけ出したと思います」
ナマエは、重ねられた彼の手を、反対の手で包み込んだ。
「巨人がいようがいまいが、あなたがどんな姿で、どんな場所にいたとしても。私の魂はあなたを求めたはずですから」
真っ直ぐな、一点の曇りもないナマエの告白。 エルヴィンは喉を震わせ、一度だけ強く目を閉じた。
「……君には、敵わないな」
彼は重ねた手に力を込め、彼女の指先を愛おしそうになぞった。
「ありがとう、ナマエ。君のその言葉だけで、私はあと千回は地獄へ行ける」
夕闇が、二人の影を一つに溶かしていく。 迫りくる過酷な現実を知りながらも、この一瞬だけは、二人はただの男と女として、ありもしない幸福な夢に身を委ねていた。
ナマエは、買い出しのメモを片手に、雑踏の中を歩いていた。 今日の彼女は、いつもの緑の調査兵団マントも、身体を締め付ける革のベルトも身に着けていない。柔らかな生成色のブラウスに、落ち着いた紺色のスカート。茶色のセミロングの髪は、風に遊ばれるままに下ろされていた。
「……たまの休みだけど、結局兵舎で使う備品の確認になっちゃう」
ふふ、と笑みが溢れる。軍服を脱いだ彼女は、精鋭の分隊長というよりは、街のどこにでもいる、少しばかり目を引く美しい令嬢といった風情だった。
その時、人混みの向こう側に、見覚えのある高さを見つけた。 周囲の平民たちとは明らかに一線を画す、圧倒的な体躯と気品。仕立ての良い濃紺のコートを羽織り、落ち着いた足取りで歩くその男を、ナマエが見間違えるはずもなかった。
「……団長?」
思わず声が漏れた。 声に導かれるように、その影がこちらを振り返る。 金色の髪が陽光にきらめき、深い碧眼が驚きに細められた。
「ナマエ……か?」
エルヴィン・スミスだった。 軍服を着ていない彼は、どこか野性味を削ぎ落とした、洗練された貴族のような佇まいを見せている。だが、その広い肩幅や、服の上からでもわかる鍛え抜かれた筋肉の厚みは、彼が戦いの中に生きる男であることを雄弁に物語っていた。
「奇遇だな。君も非番だったのか」
エルヴィンの声は、壁の上で聞く鋭い命令とは違い、低く、心地よい響きを湛えていた。
「はい。備品の買い出しを頼まれていて。団長こそ、お一人でどうされたんですか?」
「私も少し、調べたい文献があってね。古本屋を回っていたところだ。……それにしても」
エルヴィンの視線が、ナマエの頭から爪先までをゆっくりとなぞる。 その熱を孕んだ眼差しに、ナマエは心臓が跳ねるのを感じた。
「……私服姿の君を見るのは、新鮮だ。よく似合っている。いつもの凛々しさも良いが、今日の君は……その、非常に、柔らかい印象を受けるな」
「あ……ありがとうございます。団長も、その……すごく、格好いいです。軍服じゃないと、なんだか別の素敵な人みたいで……」
顔を赤らめて素直な感想を口にするナマエに、エルヴィンは不意を突かれたように目を丸くし、それから少しだけ困ったように眉を下げて笑った。
「そうか。……エルヴィン、でいい」
「えっ?」
「今は壁の外でもなければ、執務室でもない。ただの休日だ。……君に『団長』と呼ばれると、つい仕事の続きを思い出してしまうからね」
そう言って彼は、ナマエの隣に並んだ。
「買い出しだろう? 荷物持ちが必要なはずだ。……私で良ければ、同行させてもらえないだろうか」
「そんな、団長……じゃなくて、エルヴィンさんに荷物持ちなんて!」
「私がそうしたいんだ。……断られると、少し傷つくな」
冗談めかして言う彼の声音には、断らせない強引さと、それ以上の甘やかな響きがあった。
二人は、連れ立って市場を歩き始めた。 果物屋を覗き、香辛料の香りに鼻をくすぐられ、時には立ち止まって色とりどりの雑貨を眺める。 エルヴィンは、ナマエが手にした重い荷物を当然のように引き受け、彼女の歩調に合わせてゆっくりと歩いた。
「あ、見てくださいエルヴィンさん! あの花、すごく綺麗」
ナマエが指差したのは、店先に並んだ鮮やかな青色の小花だった。 無邪気に笑う彼女の横顔を、エルヴィンはじっと見つめる。
(計算外だ。……これほどまでに、彼女の隣を歩くことが心地良いとは)
完璧な作戦を練る時の研ぎ澄まされた思考は、彼女の纏う甘い花の香りと、時折触れそうになる肩の温度によって、心地よく麻痺していく。
その時、広場の向こうから騒がしい子供たちの群れが走ってきた。「わあぁ! どいてどいてー!」 勢いよく突っ込んでくる子供たちに、ナマエの身体がよろめく。
「おっと……危ない」
エルヴィンの手が、瞬時にナマエの腰を引き寄せた。 力強く、けれど壊れ物を扱うような優しさで、彼女の身体が彼の厚い胸板に密着する。
「……っ」
ナマエの視界が、エルヴィンのコートの色で染まった。 鼻腔をくすぐるのは、彼の肌から漂う清潔な石鹸の匂いと、微かな煙草の残り香。 そして、耳元で聞こえる、ドクンドクンと刻まれる力強い鼓動。
「怪我はないか? 随分と元気な子供たちだ」
エルヴィンは彼女を抱き寄せたまま、離そうとしなかった。 腰に回された大きな手のひらの熱が、ブラウス越しに伝わってくる。 ナマエは顔を真っ赤にしながら、彼の腕の中で小さく頷いた。
「は、はい……大丈夫です。すみません、ぼーっとしていて」
「いや……。このまま、離れないようにしていなさい。人混みが激しくなってきた」
彼はそう言って、腰に添えた手を自然に彼女の肩へと回した。 それは、傍から見れば疑いようのない恋人同士の距離感だった。 エルヴィンの独占欲が、人混みという正当な理由を得て、静かに、けれど確実に表出していた。
夕暮れ時。 二人は、街を一望できる高台にある小さなカフェのテラス席に座っていた。 目の前には、オレンジ色に染まるトロスト区の街並みが広がっている。 遠くに見える巨大な壁だけが、ここが戦時下であることを思い出させていた。
「……綺麗ですね」
ナマエが、運ばれてきた温かいハーブティーを一口含み、息を吐いた。 エルヴィンも、手元のカップを見つめたまま、静かに口を開く。
「ああ。……穏やかだ。この景色を見ていると、明日からまた地獄へ戻るということが、嘘のようにも思える」
エルヴィンの眼差しが、どこか遠くを見つめる。 それは調査兵団団長としての冷徹な目ではなく、果てしない探求心に胸を焦がす一人の男の目だった。
「ナマエ」
「はい」
「……もし、この世界に巨人がいなかったら。壁の外にも、あんな恐ろしい怪物が一人もいなかったとしたら」
エルヴィンは、テーブルの上にあるナマエの手に、自分の手をそっと重ねた。
「君と私は、こうして普通に出会い、普通に笑い合えただろうか。……例えば、君は街の図書館に勤める司書で、私はそこへ通うしがない学者か何かで。……そんな、ありふれた未来が、私たちにもあったのだろうか」
ナマエの胸が、ぎゅっと締め付けられた。
「エルヴィンさん……」
彼が描いたのは、調査兵団の団長という重責も、仲間を死なせ続ける罪悪感もない、ただの平和な日常を生きる二人の姿だった。 それは、今の彼らにとっては何よりも贅沢で、そして決して叶わない未来だ。
「……わかりません。でも、もしそうだとしても。私はきっと、数ある本の中から、あなたを見つけ出したと思います」
ナマエは、重ねられた彼の手を、反対の手で包み込んだ。
「巨人がいようがいまいが、あなたがどんな姿で、どんな場所にいたとしても。私の魂はあなたを求めたはずですから」
真っ直ぐな、一点の曇りもないナマエの告白。 エルヴィンは喉を震わせ、一度だけ強く目を閉じた。
「……君には、敵わないな」
彼は重ねた手に力を込め、彼女の指先を愛おしそうになぞった。
「ありがとう、ナマエ。君のその言葉だけで、私はあと千回は地獄へ行ける」
夕闇が、二人の影を一つに溶かしていく。 迫りくる過酷な現実を知りながらも、この一瞬だけは、二人はただの男と女として、ありもしない幸福な夢に身を委ねていた。
