人類の希望は恋に溺れる
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調査兵団の拠点は、常に冷たい石造りの壁に囲まれている。古びた灯火が揺れる長い廊下には、絶えず誰かの足音と、革のベルトが擦れる微かな音が響いていた。
エルヴィン・スミスは、執務室の窓外を眺めていた。沈みゆく夕日が、彼の金髪を鈍い黄金色に染め、碧眼の中に峻烈な決意の影を落としている。彼の机には、兵士たちの命の重みが記された名簿と、次回の壁外調査に向けた膨大な資料が、地層のように積み重なっていた。
コンコン、と控えめだが芯の通ったノックの音がした。
「失礼します、団長。第四分隊の報告書を持って参りました」
扉を開けて入ってきたのは、分隊長のナマエだった。柔らかな茶髪を一つにまとめ、軍服に身を包んだ彼女は、この殺伐とした兵団の中で唯一、春の陽だまりのような空気を纏っている。
「……ナマエか。入れ」
エルヴィンは椅子に深く背を預け、彼女を迎え入れた。ナマエはきびきびとした動作で机の前に立ち、敬礼をする。だが、その瞳には明らかな疲労の色が滲んでいた。聞けば、彼女はここ数日、部下の訓練計画の見直しと備品の管理で、満足に睡眠も取っていないという。
「ナマエ、報告は後でいい。まずは座りなさい」
「いえ、そうはいきません。団長こそ、今日はお昼も抜いて会議続きだったと聞いています。……これを」
彼女は手慣れた手つきで、持参していたトレイからティーカップを取り出した。立ち上る湯気と共に、アールグレイの華やかな香りが部屋を満たす。エルヴィンが愛用している少し縁の欠けたカップに、彼女の淹れた紅茶が注がれた。
エルヴィンは無言でカップを手に取り、口に運ぶ。 その瞬間、彼の眉間の皺が、わずかに解けた。
(……温かいな)
喉を通る熱が、氷のように張り詰めていた彼の神経を、内側から溶かしていく。ナマエの淹れる茶は、温度も、茶葉の濃さも、常に彼にとって「最適」だった。
「……悪くない。君の淹れる茶は、いつも私を落ち着かせる」
そう呟いたエルヴィンの口角が、ほんの数ミリだけ上がった。 その様子を、扉の影から覗き見ている影があった。
「おやおや。エルヴィンのあんなにだらしない顔、初めて見たよ。ナマエが淹れた時だけ、まるで巨人に会っていない頃の少年みたいだね」
不敵な笑みを浮かべて現れたのは、ハンジ・ゾエだった。エルヴィンは即座に表情を引き締め、鉄面皮の仮面を被り直す。
「ハンジ、ノックを忘れたのか」
「あはは、ごめんごめん! でもさ、エルヴィン。そんなにナマエのことが心配なら、もっと優しく労ってあげればいいのに。今の君の表情、言葉とは裏腹に『もっと休め』って顔に書いてあるよ?」
ハンジの茶化すような言葉に、ナマエは頬を赤らめて俯いた。エルヴィンは咳払いを一つし、わざと厳しい口調で言葉を継いだ。
「ナマエ。君の働きぶりは評価している。だが、分隊長という立場は、個人の能力だけでなく、部下の士気を管理する責任がある。君がそのように疲弊した姿を晒せば、部下たちの動揺を招く。……いいか、睡眠時間をあと二時間は確保し、食事の栄養バランスも再考すべきだ。それから、先日提出された訓練日誌の記述も、もう少し簡潔に……」
最初は労うつもりだった言葉が、気づけば延々と続く訓示へと変わっていく。ナマエは「はい、すみません……」と神妙な面持ちで聞き入っているが、その瞳はどこか嬉しそうに潤んでいた。彼が自分のために、これほど多くの言葉を費やしてくれていることが、彼女にとっては至上の幸福だったからだ。
結局、三十分近い「説教」という名の愛情表現を終え、ナマエを退室させた後、エルヴィンは独り、深い溜息を吐いた。
「……私は、何を言っているんだ」
あんなにも一生懸命な彼女に、ただ「ありがとう、無理をしないでくれ」と一言言えば済むはずだった。だが、彼の内にある「団長」という役割が、個人的な情愛を伝えることを拒んでしまう。彼女を失いたくないという怯えが、合理的な指導という形に歪んで出力されてしまうのだ。
深夜。 静まり返った執務室で、エルヴィンは最後の書類を片付けようと腰を上げた。ふと、隣の待機室の明かりが漏れていることに気づく。
音を立てずに扉を開けると、そこには机に突っ伏して眠るナマエの姿があった。 明日の準備の途中だったのだろう。手元にはペンと、書きかけの書類が散らばっている。
規則正しい寝息。無防備に晒された白い首筋と、睫毛の影。 エルヴィンは息を呑んだ。
(……危険だ)
彼女が有能な兵士であるほど、彼女を戦場へ送らねばならない自分の手は血に汚れていく。この寝顔を守りたいと願う心は、人類の勝利を目指す「悪魔」にとって、不要な毒でしかない。
だが。 冷え込んできた夜気に、彼女の肩が微かに震えるのを見て、理性が敗北した。
彼は自分のマントを手に取り、彼女の肩にかけようと近づいた。 普段、馬を駆り、巨人を屠る彼の大きな手は、この時ばかりは生まれたての雛を扱うように震えていた。
(……静かに、起こさないように……)
カサッ。 慎重にかけようとしたマントの端が、机の上の書類に触れた。 ガサガサ、と静寂の中で意外なほど大きな音が響く。
「……っ!?」
ナマエの肩がびくりと跳ねた。彼女は瞬時に目を見開き、目の前に立つ巨大な影を見上げた。
「……だ、んちょう……?」
「……ッ」
至近距離で見つめ合う二人。エルヴィンの手は、まだマントを掴んだまま宙に浮いている。沈黙が、永遠のように長く感じられた。 エルヴィンの脳内では、この気まずすぎる状況を打開するための戦術が光速で巡らされる。そして導き出された結論は――。
「……ナマエ! 状況報告をしろ!」
「……えっ!? は、はい! 現在の時刻は午前二時、周囲に異常なし! 私は……その、不覚にも、居眠りを……!」
直立不動で敬礼するナマエ。その顔は、寝起きの赤みと恥ずかしさで真っ赤に染まっている。 エルヴィンは厳しい表情を崩さないまま、マントを彼女の肩に無理やり押し付けた。
「……報告は正確にしろ。君がここで風邪を引けば、明日の作戦効率が三割低下する。……直ちに自室へ戻り、就寝しなさい。これは命令だ」
「は、はい! ありがとうございます!」
ナマエが慌てて部屋を飛び出していく。その背中を見送りながら、エルヴィンは壁に手をつき、顔を覆った。
「……馬鹿な男だ、私は」
誰もいない部屋で、彼は団長ではなく、ただの不器用な恋心に振り回されるエルヴィン・スミスとして、深く、深く、悔恨の吐息を漏らした。
窓の外では、夜明け前の蒼い風が、二人の揺れる心をあざ笑うように吹き抜けていった。
数日後。
古びた石造りの訓練兵舎に、鋭い木剣のぶつかり合う音と、兵士たちの荒い呼気が響き渡る。 午後の柔らかな陽光が、宙に舞う細かな埃をキラキラと輝かせていたが、その穏やかな光景とは裏腹に、訓練場にはぴりついた緊張感が漂っていた。
調査兵団団長、エルヴィン・スミスは、高台の回廊からその光景を俯瞰していた。 彼の碧眼が捉えているのは、兵団の陣形維持の精度……ではなく、ただ一点。 第四分隊を率いて、若手兵士たちの指導にあたっているナマエの姿だった。
「――うん、今の踏み込みは良かった。でも、巨人のうなじを狙うなら、あと数センチ深く、鋭く。君ならできるはず!」
ナマエの声は、涼やかでありながら、聞き手の心に寄り添うような温かみを含んでいる。 彼女が兵士の肩に軽く手を置き、顔を覗き込んで微笑むと、指導を受けていた青年兵士が目に見えて顔を赤らめた。
「は、はい! ナマエ分隊長! ご指導ありがとうございます!」
青年兵士の瞳には、上官への敬意以上の、熱を帯びた「憧憬」が宿っている。ナマエはそれに気づく様子もなく、彼の乱れた襟元を整えてやるという、無自覚な献身を振りまいていた。
その瞬間、高台で見下ろしていたエルヴィンの手に、手すりの石材が軋むほどの力がこもった。 彼の端正な顔立ちは、作戦の失敗を予見した時のような、峻烈な険しさを帯びていく。
(……近すぎる。接触の必要性は認められないはずだ)
彼の脳内では、ナマエと青年兵士の距離が「精神的・肉体的な安全圏」を逸脱しているという、偏った演算が高速で行われていた。 ナマエは誰にでも等しく優しい。彼女のその隙が、戦場においては兵士たちの心を繋ぎ止める救いになることを、団長としてのエルヴィンは理解している。 だが、一人の男としての彼は、その柔らかな微笑みが自分以外の誰かに向けられることに、耐え難いほどの焦燥を感じていた。
「……ナマエ分隊長!」
エルヴィンの声が、訓練場に低く、重厚に響き渡った。 ナマエが驚いたように顔を上げ、直立不動の姿勢をとる。
「はい、団長!」
「直ちに訓練を中断し、執務室へ来なさい。次回の長距離索敵陣形における、第四分隊の役割について……再検討が必要になった」
再検討など、昨日済ませたばかりだ。 ナマエも一瞬、不思議そうな顔をしたが、エルヴィンの表情があまりに真剣(というよりは、威圧的)であったため、即座に駆け寄ってきた。
「了解しました! すぐに参ります!」
青年兵士を残し、ナマエが自分の元へ駆け寄ってくる。その事実に、エルヴィンの胸の内には醜いほどの独占欲を孕んだ満足感が広がった。 だが、その背後から、冷ややかな視線が突き刺さる。
「おい……エルヴィン。顔に出すぎだぞ、クソ真面目な顔して職権乱用か?」
いつの間にか隣に立っていたリヴァイが、呆れたように舌打ちをした。 エルヴィンは眉ひとつ動かさず、視線を正面に向けたまま答える。
「……何のことだ、リヴァイ。私は軍務の効率化を求めているだけだ」
「その割には、さっきのガキを睨み殺さんばかりの目つきだったな。お前の『効率』ってのは、いつから女一人を囲い込むことに特化したんだ?」
「……」
エルヴィンは沈黙した。図星を突かれた際の、彼なりの敗北宣言である。
その夜。
団長執務室には、兵団の幹部三人が顔を揃えていた。 だが、議題は壁外調査でも王政への対策でもない。 エルヴィン・スミスが、大真面目な顔で、机の上に広げた白紙の地図(に見立てたメモ帳)を指し示していた。
「――状況を整理する。現在、私はナマエ分隊長に対し、上司としての立場を超えた感情を抱いている。しかし、不用意な接触は彼女に不必要な圧力を与え、兵団内の風紀を乱す恐れがある」
エルヴィンは、まるで敵軍の包囲網を解説するかのような口調で続けた。
「一方で、彼女の周囲には他の男性兵士という『不確定要素』が多すぎる。私の目的は、彼女の信頼を損なうことなく、かつ他者との距離を適切に保たせ、最終的に私の隣という戦略的拠点を確保することにある。ハンジ、リヴァイ。彼女に嫌われないための、損害を最小限に抑える接し方を教示してくれ」
部屋を支配したのは、重苦しいまでの沈黙だった。 ハンジは、眼鏡の奥で目を点にし、リヴァイは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえている。
「……ねぇ、エルヴィン。これ、何の作戦会議?」
ハンジが、震える声で問いかけた。
「恋だ」
「知ってるよ! 知ってるけどさ! 恋を『軍事作戦』として立案する奴がどこにいるんだよ! 君のその、無駄に高い知能指数を少しは情緒の方に回せないのかい!?」
ハンジは机を叩いて立ち上がった。
「いいかい? 彼女が欲しいのは『戦略的拠点』じゃなくて『愛の言葉』なんだよ! もっとこう、ふわっとした、甘い感じの! 君の説教じみた長い労いの言葉じゃ、彼女、自分が何かミスをしたんじゃないかって不安になっちゃうよ?」
「……そうなのか?」
エルヴィンが、本気で驚いたように目を見開く。
「当たり前だ、このバカ野郎」
リヴァイが、冷たく言い放った。
「お前はまず、その無駄な多弁をやめろ。ナマエと茶を飲む時、仕事の話を一つでもしたら罰金だ。いいか、普通に話せ。相手は巨人でも王都の腐れ役人でもない、ただの女だぞ」
「普通に、とは具体的にどの程度の声調と話題を指すのだ。彼女の嗜好、最近の睡眠時間、食事の摂取量……それらを考慮した上で、最も不快感を与えない……」
「あー! もう、理屈っぽい!!」
ハンジが頭を抱えて叫ぶ。
「ナマエはね、エルヴィンのことを大尊敬しているんだ。それだけで、君の作戦は八割成功してるの! 失敗するとしたら、君が真面目すぎて自爆するパターンだけ。いい? 明日、彼女に会ったら、ただ『君がいてくれて嬉しい』って笑ってみせなよ。それだけで、損害はゼロ。利益は無限大だ!」
「……『君がいてくれて嬉しい』、か」
エルヴィンは、その言葉を重厚な秘密文書の内容であるかのように、心の中で反芻した。 人類の希望を背負う彼の肩には、あまりにも重い言葉のように思えたが、同時に、胸の奥を温かな熱がかすめていく。
「……善処しよう」
翌朝。 エルヴィンは廊下で、偶然(という名の、綿密な待ち伏せ)を装い、ナマエと遭遇した。
「あ、団長! おはようございます。昨日の陣形の件、私なりに修正案をまとめておきました」
ナマエが、眩しいほどの笑顔で書類を差し出す。 エルヴィンは、昨夜の作戦会議を思い出した。
(普通に話せ。笑ってみせろ。利益は無限大だ)
彼は、書類を受け取ろうとするナマエの手に、自分の大きな手を重ねた。 そして、練習の成果を出すべく、精一杯の柔らかい笑みを浮かべる。
「……ナマエ。修正案も大事だが……君が、今日もここにいてくれて、私は……非常に、その……戦略的に助かっている。嬉しい、のだ」
ナマエの動きが、止まった。 彼女の大きな瞳が、ぱちくりと瞬きを繰り返す。 みるみるうちに、彼女の顔が耳の付け根まで真っ赤に染まっていく。
「……え、あ……は、はいっ! 私も、団長のお役に立てて……嬉しい、ですっ!」
ナマエは、幸せそうに去っていった。 それを見送ったエルヴィンの背後から、低い声が響く。
「……及第点だな」
リヴァイが、影から見ていた。
「だが、お前のその引きつった笑顔……傍から見りゃ、毒でも盛る直前の悪党にしか見えねぇぞ」
「……努力はしている」
エルヴィンは、熱を帯びた自分の掌を見つめ、少しだけ困ったように、けれど今度は本物の、一人の男としての微笑を零した。
戦略も戦術も通用しない、予測不能な癒やし。 その存在が、鉄壁の団長の心に、取り返しのつかないほどの穴を開けていく。
エルヴィン・スミスは、執務室の窓外を眺めていた。沈みゆく夕日が、彼の金髪を鈍い黄金色に染め、碧眼の中に峻烈な決意の影を落としている。彼の机には、兵士たちの命の重みが記された名簿と、次回の壁外調査に向けた膨大な資料が、地層のように積み重なっていた。
コンコン、と控えめだが芯の通ったノックの音がした。
「失礼します、団長。第四分隊の報告書を持って参りました」
扉を開けて入ってきたのは、分隊長のナマエだった。柔らかな茶髪を一つにまとめ、軍服に身を包んだ彼女は、この殺伐とした兵団の中で唯一、春の陽だまりのような空気を纏っている。
「……ナマエか。入れ」
エルヴィンは椅子に深く背を預け、彼女を迎え入れた。ナマエはきびきびとした動作で机の前に立ち、敬礼をする。だが、その瞳には明らかな疲労の色が滲んでいた。聞けば、彼女はここ数日、部下の訓練計画の見直しと備品の管理で、満足に睡眠も取っていないという。
「ナマエ、報告は後でいい。まずは座りなさい」
「いえ、そうはいきません。団長こそ、今日はお昼も抜いて会議続きだったと聞いています。……これを」
彼女は手慣れた手つきで、持参していたトレイからティーカップを取り出した。立ち上る湯気と共に、アールグレイの華やかな香りが部屋を満たす。エルヴィンが愛用している少し縁の欠けたカップに、彼女の淹れた紅茶が注がれた。
エルヴィンは無言でカップを手に取り、口に運ぶ。 その瞬間、彼の眉間の皺が、わずかに解けた。
(……温かいな)
喉を通る熱が、氷のように張り詰めていた彼の神経を、内側から溶かしていく。ナマエの淹れる茶は、温度も、茶葉の濃さも、常に彼にとって「最適」だった。
「……悪くない。君の淹れる茶は、いつも私を落ち着かせる」
そう呟いたエルヴィンの口角が、ほんの数ミリだけ上がった。 その様子を、扉の影から覗き見ている影があった。
「おやおや。エルヴィンのあんなにだらしない顔、初めて見たよ。ナマエが淹れた時だけ、まるで巨人に会っていない頃の少年みたいだね」
不敵な笑みを浮かべて現れたのは、ハンジ・ゾエだった。エルヴィンは即座に表情を引き締め、鉄面皮の仮面を被り直す。
「ハンジ、ノックを忘れたのか」
「あはは、ごめんごめん! でもさ、エルヴィン。そんなにナマエのことが心配なら、もっと優しく労ってあげればいいのに。今の君の表情、言葉とは裏腹に『もっと休め』って顔に書いてあるよ?」
ハンジの茶化すような言葉に、ナマエは頬を赤らめて俯いた。エルヴィンは咳払いを一つし、わざと厳しい口調で言葉を継いだ。
「ナマエ。君の働きぶりは評価している。だが、分隊長という立場は、個人の能力だけでなく、部下の士気を管理する責任がある。君がそのように疲弊した姿を晒せば、部下たちの動揺を招く。……いいか、睡眠時間をあと二時間は確保し、食事の栄養バランスも再考すべきだ。それから、先日提出された訓練日誌の記述も、もう少し簡潔に……」
最初は労うつもりだった言葉が、気づけば延々と続く訓示へと変わっていく。ナマエは「はい、すみません……」と神妙な面持ちで聞き入っているが、その瞳はどこか嬉しそうに潤んでいた。彼が自分のために、これほど多くの言葉を費やしてくれていることが、彼女にとっては至上の幸福だったからだ。
結局、三十分近い「説教」という名の愛情表現を終え、ナマエを退室させた後、エルヴィンは独り、深い溜息を吐いた。
「……私は、何を言っているんだ」
あんなにも一生懸命な彼女に、ただ「ありがとう、無理をしないでくれ」と一言言えば済むはずだった。だが、彼の内にある「団長」という役割が、個人的な情愛を伝えることを拒んでしまう。彼女を失いたくないという怯えが、合理的な指導という形に歪んで出力されてしまうのだ。
深夜。 静まり返った執務室で、エルヴィンは最後の書類を片付けようと腰を上げた。ふと、隣の待機室の明かりが漏れていることに気づく。
音を立てずに扉を開けると、そこには机に突っ伏して眠るナマエの姿があった。 明日の準備の途中だったのだろう。手元にはペンと、書きかけの書類が散らばっている。
規則正しい寝息。無防備に晒された白い首筋と、睫毛の影。 エルヴィンは息を呑んだ。
(……危険だ)
彼女が有能な兵士であるほど、彼女を戦場へ送らねばならない自分の手は血に汚れていく。この寝顔を守りたいと願う心は、人類の勝利を目指す「悪魔」にとって、不要な毒でしかない。
だが。 冷え込んできた夜気に、彼女の肩が微かに震えるのを見て、理性が敗北した。
彼は自分のマントを手に取り、彼女の肩にかけようと近づいた。 普段、馬を駆り、巨人を屠る彼の大きな手は、この時ばかりは生まれたての雛を扱うように震えていた。
(……静かに、起こさないように……)
カサッ。 慎重にかけようとしたマントの端が、机の上の書類に触れた。 ガサガサ、と静寂の中で意外なほど大きな音が響く。
「……っ!?」
ナマエの肩がびくりと跳ねた。彼女は瞬時に目を見開き、目の前に立つ巨大な影を見上げた。
「……だ、んちょう……?」
「……ッ」
至近距離で見つめ合う二人。エルヴィンの手は、まだマントを掴んだまま宙に浮いている。沈黙が、永遠のように長く感じられた。 エルヴィンの脳内では、この気まずすぎる状況を打開するための戦術が光速で巡らされる。そして導き出された結論は――。
「……ナマエ! 状況報告をしろ!」
「……えっ!? は、はい! 現在の時刻は午前二時、周囲に異常なし! 私は……その、不覚にも、居眠りを……!」
直立不動で敬礼するナマエ。その顔は、寝起きの赤みと恥ずかしさで真っ赤に染まっている。 エルヴィンは厳しい表情を崩さないまま、マントを彼女の肩に無理やり押し付けた。
「……報告は正確にしろ。君がここで風邪を引けば、明日の作戦効率が三割低下する。……直ちに自室へ戻り、就寝しなさい。これは命令だ」
「は、はい! ありがとうございます!」
ナマエが慌てて部屋を飛び出していく。その背中を見送りながら、エルヴィンは壁に手をつき、顔を覆った。
「……馬鹿な男だ、私は」
誰もいない部屋で、彼は団長ではなく、ただの不器用な恋心に振り回されるエルヴィン・スミスとして、深く、深く、悔恨の吐息を漏らした。
窓の外では、夜明け前の蒼い風が、二人の揺れる心をあざ笑うように吹き抜けていった。
数日後。
古びた石造りの訓練兵舎に、鋭い木剣のぶつかり合う音と、兵士たちの荒い呼気が響き渡る。 午後の柔らかな陽光が、宙に舞う細かな埃をキラキラと輝かせていたが、その穏やかな光景とは裏腹に、訓練場にはぴりついた緊張感が漂っていた。
調査兵団団長、エルヴィン・スミスは、高台の回廊からその光景を俯瞰していた。 彼の碧眼が捉えているのは、兵団の陣形維持の精度……ではなく、ただ一点。 第四分隊を率いて、若手兵士たちの指導にあたっているナマエの姿だった。
「――うん、今の踏み込みは良かった。でも、巨人のうなじを狙うなら、あと数センチ深く、鋭く。君ならできるはず!」
ナマエの声は、涼やかでありながら、聞き手の心に寄り添うような温かみを含んでいる。 彼女が兵士の肩に軽く手を置き、顔を覗き込んで微笑むと、指導を受けていた青年兵士が目に見えて顔を赤らめた。
「は、はい! ナマエ分隊長! ご指導ありがとうございます!」
青年兵士の瞳には、上官への敬意以上の、熱を帯びた「憧憬」が宿っている。ナマエはそれに気づく様子もなく、彼の乱れた襟元を整えてやるという、無自覚な献身を振りまいていた。
その瞬間、高台で見下ろしていたエルヴィンの手に、手すりの石材が軋むほどの力がこもった。 彼の端正な顔立ちは、作戦の失敗を予見した時のような、峻烈な険しさを帯びていく。
(……近すぎる。接触の必要性は認められないはずだ)
彼の脳内では、ナマエと青年兵士の距離が「精神的・肉体的な安全圏」を逸脱しているという、偏った演算が高速で行われていた。 ナマエは誰にでも等しく優しい。彼女のその隙が、戦場においては兵士たちの心を繋ぎ止める救いになることを、団長としてのエルヴィンは理解している。 だが、一人の男としての彼は、その柔らかな微笑みが自分以外の誰かに向けられることに、耐え難いほどの焦燥を感じていた。
「……ナマエ分隊長!」
エルヴィンの声が、訓練場に低く、重厚に響き渡った。 ナマエが驚いたように顔を上げ、直立不動の姿勢をとる。
「はい、団長!」
「直ちに訓練を中断し、執務室へ来なさい。次回の長距離索敵陣形における、第四分隊の役割について……再検討が必要になった」
再検討など、昨日済ませたばかりだ。 ナマエも一瞬、不思議そうな顔をしたが、エルヴィンの表情があまりに真剣(というよりは、威圧的)であったため、即座に駆け寄ってきた。
「了解しました! すぐに参ります!」
青年兵士を残し、ナマエが自分の元へ駆け寄ってくる。その事実に、エルヴィンの胸の内には醜いほどの独占欲を孕んだ満足感が広がった。 だが、その背後から、冷ややかな視線が突き刺さる。
「おい……エルヴィン。顔に出すぎだぞ、クソ真面目な顔して職権乱用か?」
いつの間にか隣に立っていたリヴァイが、呆れたように舌打ちをした。 エルヴィンは眉ひとつ動かさず、視線を正面に向けたまま答える。
「……何のことだ、リヴァイ。私は軍務の効率化を求めているだけだ」
「その割には、さっきのガキを睨み殺さんばかりの目つきだったな。お前の『効率』ってのは、いつから女一人を囲い込むことに特化したんだ?」
「……」
エルヴィンは沈黙した。図星を突かれた際の、彼なりの敗北宣言である。
その夜。
団長執務室には、兵団の幹部三人が顔を揃えていた。 だが、議題は壁外調査でも王政への対策でもない。 エルヴィン・スミスが、大真面目な顔で、机の上に広げた白紙の地図(に見立てたメモ帳)を指し示していた。
「――状況を整理する。現在、私はナマエ分隊長に対し、上司としての立場を超えた感情を抱いている。しかし、不用意な接触は彼女に不必要な圧力を与え、兵団内の風紀を乱す恐れがある」
エルヴィンは、まるで敵軍の包囲網を解説するかのような口調で続けた。
「一方で、彼女の周囲には他の男性兵士という『不確定要素』が多すぎる。私の目的は、彼女の信頼を損なうことなく、かつ他者との距離を適切に保たせ、最終的に私の隣という戦略的拠点を確保することにある。ハンジ、リヴァイ。彼女に嫌われないための、損害を最小限に抑える接し方を教示してくれ」
部屋を支配したのは、重苦しいまでの沈黙だった。 ハンジは、眼鏡の奥で目を点にし、リヴァイは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえている。
「……ねぇ、エルヴィン。これ、何の作戦会議?」
ハンジが、震える声で問いかけた。
「恋だ」
「知ってるよ! 知ってるけどさ! 恋を『軍事作戦』として立案する奴がどこにいるんだよ! 君のその、無駄に高い知能指数を少しは情緒の方に回せないのかい!?」
ハンジは机を叩いて立ち上がった。
「いいかい? 彼女が欲しいのは『戦略的拠点』じゃなくて『愛の言葉』なんだよ! もっとこう、ふわっとした、甘い感じの! 君の説教じみた長い労いの言葉じゃ、彼女、自分が何かミスをしたんじゃないかって不安になっちゃうよ?」
「……そうなのか?」
エルヴィンが、本気で驚いたように目を見開く。
「当たり前だ、このバカ野郎」
リヴァイが、冷たく言い放った。
「お前はまず、その無駄な多弁をやめろ。ナマエと茶を飲む時、仕事の話を一つでもしたら罰金だ。いいか、普通に話せ。相手は巨人でも王都の腐れ役人でもない、ただの女だぞ」
「普通に、とは具体的にどの程度の声調と話題を指すのだ。彼女の嗜好、最近の睡眠時間、食事の摂取量……それらを考慮した上で、最も不快感を与えない……」
「あー! もう、理屈っぽい!!」
ハンジが頭を抱えて叫ぶ。
「ナマエはね、エルヴィンのことを大尊敬しているんだ。それだけで、君の作戦は八割成功してるの! 失敗するとしたら、君が真面目すぎて自爆するパターンだけ。いい? 明日、彼女に会ったら、ただ『君がいてくれて嬉しい』って笑ってみせなよ。それだけで、損害はゼロ。利益は無限大だ!」
「……『君がいてくれて嬉しい』、か」
エルヴィンは、その言葉を重厚な秘密文書の内容であるかのように、心の中で反芻した。 人類の希望を背負う彼の肩には、あまりにも重い言葉のように思えたが、同時に、胸の奥を温かな熱がかすめていく。
「……善処しよう」
翌朝。 エルヴィンは廊下で、偶然(という名の、綿密な待ち伏せ)を装い、ナマエと遭遇した。
「あ、団長! おはようございます。昨日の陣形の件、私なりに修正案をまとめておきました」
ナマエが、眩しいほどの笑顔で書類を差し出す。 エルヴィンは、昨夜の作戦会議を思い出した。
(普通に話せ。笑ってみせろ。利益は無限大だ)
彼は、書類を受け取ろうとするナマエの手に、自分の大きな手を重ねた。 そして、練習の成果を出すべく、精一杯の柔らかい笑みを浮かべる。
「……ナマエ。修正案も大事だが……君が、今日もここにいてくれて、私は……非常に、その……戦略的に助かっている。嬉しい、のだ」
ナマエの動きが、止まった。 彼女の大きな瞳が、ぱちくりと瞬きを繰り返す。 みるみるうちに、彼女の顔が耳の付け根まで真っ赤に染まっていく。
「……え、あ……は、はいっ! 私も、団長のお役に立てて……嬉しい、ですっ!」
ナマエは、幸せそうに去っていった。 それを見送ったエルヴィンの背後から、低い声が響く。
「……及第点だな」
リヴァイが、影から見ていた。
「だが、お前のその引きつった笑顔……傍から見りゃ、毒でも盛る直前の悪党にしか見えねぇぞ」
「……努力はしている」
エルヴィンは、熱を帯びた自分の掌を見つめ、少しだけ困ったように、けれど今度は本物の、一人の男としての微笑を零した。
戦略も戦術も通用しない、予測不能な癒やし。 その存在が、鉄壁の団長の心に、取り返しのつかないほどの穴を開けていく。
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