人類の希望は恋に溺れる
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窓の外を叩く雨音は、まるで無数の刃が大地を削るような、容赦のない響きを伴っていた。
壁内を包む湿り気を帯びた空気は重く、調査兵団本部の石造りの廊下には、冷ややかな静寂が染み渡っている。第十三代団長、エルヴィン・スミスは、執務机に置かれたランプの頼りない灯火の下で、一通の書類を見つめていた。
「……ナマエ、か」
その名は、彼の唇から微かな吐息と共に漏れ出た。 翌朝、正式に分隊長への昇進が言い渡される予定の女性兵士。彼女は優秀だった。立体機動の技術、状況判断能力、そして何より、絶望的な戦場においても折れることのない強靭な精神。だが、今日の壁外調査で見せた彼女の姿は、その完璧な評価からは程遠いものだった。
判断の遅れ。それによって招いた、部下の負傷。 結果として死者は出なかったものの、彼女自身がそれを致命的な敗北として深く胸に刻み込んでいることを、エルヴィンは誰よりも敏感に察していた。
エルヴィンは重い腰を上げ、羽織っていた外套を手に取ると、夜の闇へと足を踏み出した。
雨は激しさを増していた。 中庭の片隅、訓練用の木人が並ぶ陰に、泥にまみれた茶色の影がうずくまっている。 雨水に打たれ、体温を奪われながらも、彼女はそこにいた。髪は水を含んで肌に張り付き、かつての快活な輝きを失った瞳は、ただ冷たい地面を見つめている。
「こんなところで、何をしている」
低く、けれど柔らかな重みを湛えた声が、雨音を切り裂いて彼女に届く。 びくり、と肩が跳ねた。顔を上げたナマエの表情は、寒さからか、あるいは絶望からか、痛々しいほどに白く、唇は紫色に震えている。
「……団、長……」
彼女が立ち上がろうとするのを、エルヴィンは片手で制した。自らの大きな外套を広げ、震える彼女の肩を包み込む。温かな体温と、彼特有の清潔な、けれどどこか硬質な香りが、雨の冷気に晒されていた彼女の五感を優しく侵食した。
「失態を、犯しました」
絞り出すような声だった。
「私のせいで、班の連携が乱れた。私が、もっと早く決断していれば……あんな傷を負わせることはなかった。私は、分隊長になどなる資格はありません。人類の翼を背負う価値など……」
雨の滴が彼女の頬を伝い、顎の先から滴り落ちる。それが涙なのか、ただの雨水なのか、判別はつかない。だが、彼女の心から溢れ出しているのが後悔という名の猛毒であることは、エルヴィンには痛いほど分かった。
エルヴィンは彼女の前に膝をつき、視線の高さを合わせた。 彼の碧眼は、夜の闇の中でも深い光を宿している。それは広大な海のように深く、すべてを見透かし、そして包み込むような光彩だった。
「ナマエ。君は、自分のことを『悪魔』だと思っているのか?」
「え……?」
「非情な決断を下し、仲間の命を天秤にかける。それができて初めて、この兵団の指揮官になれるのだと、そう思っているのか」
ナマエは言葉に詰まり、ただ彼を見つめ返した。 エルヴィンの大きな手が、彼女の冷え切った頬に触れる。その掌の熱さは、凍てついていた彼女の心を溶かすには十分すぎるほどの質量を持っていた。
「君のその痛みは、君がまだ『人間』である証拠だ。失ったものを数え、己の無力を呪う……その優しさこそが、部下を惹きつける光になることもある。私は、冷徹な機械を求めているわけではない。仲間を想い、その重圧に耐えながらも、一歩前へ進める者を求めているのだ」
エルヴィンは、彼女の濡れた髪を耳にかけ、慈しむように指先を滑らせた。
「明日の朝、君に分隊長の称号を与える。これは団長としての命令であり、期待だ。君のその『脆さ』ごと、私は人類の希望として預かりたい」
「団長……。でも、私は……」
「君が立ち止まるというのなら、私がその背を押そう。君が倒れるというのなら、私がこの腕で支えよう」
その言葉は、あまりにも甘美で、あまりにも残酷だった。 調査兵団団長として、彼女という優秀な「駒」を繋ぎ止めるための甘言。理屈ではそう分かっていても、エルヴィンの胸の奥では、名付けようのない熱い疼きが生まれていた。
雨に濡れ、小さく震える彼女を守りたいと思ってしまった。 それは、何百もの命を散らしてきた彼にとって、決して抱いてはならない、最も不要な「私情」だった。
「……さあ、行こう。風邪を引いては、明日の式典に差し障る」
エルヴィンは彼女の手を引き、ゆっくりと立ち上がらせた。 繋がれた手から伝わる、ナマエの微かな鼓動。そのリズムが、彼の冷静な心音をわずかに狂わせていく。
(ああ……これは、計算外だ)
完璧な盤面を描き、人類の勝利だけを追い求めてきた男の心に、一滴の染みが広がっていく。 それは恋と呼ぶにはあまりに重く、慈愛と呼ぶにはあまりに独善的な、狂おしいほどに純粋な情動。
人類の希望を背負う肩に、一人の女の体温が重なる。 嵐の夜、二人の運命は静かに、けれど不可逆的に混じり合い始めた。
明日になれば、また団長と部下という仮面を被らなければならない。 だが、この雨音がすべてをかき消してくれる今だけは、エルヴィン・スミスは、目の前の女性をただ愛おしく思う、一人の男でいた。
「ナマエ。君の価値を決めるのは、君自身ではない。……私だ」
その言葉を最後に、二人は夜の闇へと消えていった。 雨は降り続き、彼らの足跡を無情に消し去っていく。 けれど、エルヴィンの胸の中に灯った小さな火だけは、消えることなく燃え続けていた。
それが、いつか自らを焼き尽くす炎になるとも知らずに。
壁内を包む湿り気を帯びた空気は重く、調査兵団本部の石造りの廊下には、冷ややかな静寂が染み渡っている。第十三代団長、エルヴィン・スミスは、執務机に置かれたランプの頼りない灯火の下で、一通の書類を見つめていた。
「……ナマエ、か」
その名は、彼の唇から微かな吐息と共に漏れ出た。 翌朝、正式に分隊長への昇進が言い渡される予定の女性兵士。彼女は優秀だった。立体機動の技術、状況判断能力、そして何より、絶望的な戦場においても折れることのない強靭な精神。だが、今日の壁外調査で見せた彼女の姿は、その完璧な評価からは程遠いものだった。
判断の遅れ。それによって招いた、部下の負傷。 結果として死者は出なかったものの、彼女自身がそれを致命的な敗北として深く胸に刻み込んでいることを、エルヴィンは誰よりも敏感に察していた。
エルヴィンは重い腰を上げ、羽織っていた外套を手に取ると、夜の闇へと足を踏み出した。
雨は激しさを増していた。 中庭の片隅、訓練用の木人が並ぶ陰に、泥にまみれた茶色の影がうずくまっている。 雨水に打たれ、体温を奪われながらも、彼女はそこにいた。髪は水を含んで肌に張り付き、かつての快活な輝きを失った瞳は、ただ冷たい地面を見つめている。
「こんなところで、何をしている」
低く、けれど柔らかな重みを湛えた声が、雨音を切り裂いて彼女に届く。 びくり、と肩が跳ねた。顔を上げたナマエの表情は、寒さからか、あるいは絶望からか、痛々しいほどに白く、唇は紫色に震えている。
「……団、長……」
彼女が立ち上がろうとするのを、エルヴィンは片手で制した。自らの大きな外套を広げ、震える彼女の肩を包み込む。温かな体温と、彼特有の清潔な、けれどどこか硬質な香りが、雨の冷気に晒されていた彼女の五感を優しく侵食した。
「失態を、犯しました」
絞り出すような声だった。
「私のせいで、班の連携が乱れた。私が、もっと早く決断していれば……あんな傷を負わせることはなかった。私は、分隊長になどなる資格はありません。人類の翼を背負う価値など……」
雨の滴が彼女の頬を伝い、顎の先から滴り落ちる。それが涙なのか、ただの雨水なのか、判別はつかない。だが、彼女の心から溢れ出しているのが後悔という名の猛毒であることは、エルヴィンには痛いほど分かった。
エルヴィンは彼女の前に膝をつき、視線の高さを合わせた。 彼の碧眼は、夜の闇の中でも深い光を宿している。それは広大な海のように深く、すべてを見透かし、そして包み込むような光彩だった。
「ナマエ。君は、自分のことを『悪魔』だと思っているのか?」
「え……?」
「非情な決断を下し、仲間の命を天秤にかける。それができて初めて、この兵団の指揮官になれるのだと、そう思っているのか」
ナマエは言葉に詰まり、ただ彼を見つめ返した。 エルヴィンの大きな手が、彼女の冷え切った頬に触れる。その掌の熱さは、凍てついていた彼女の心を溶かすには十分すぎるほどの質量を持っていた。
「君のその痛みは、君がまだ『人間』である証拠だ。失ったものを数え、己の無力を呪う……その優しさこそが、部下を惹きつける光になることもある。私は、冷徹な機械を求めているわけではない。仲間を想い、その重圧に耐えながらも、一歩前へ進める者を求めているのだ」
エルヴィンは、彼女の濡れた髪を耳にかけ、慈しむように指先を滑らせた。
「明日の朝、君に分隊長の称号を与える。これは団長としての命令であり、期待だ。君のその『脆さ』ごと、私は人類の希望として預かりたい」
「団長……。でも、私は……」
「君が立ち止まるというのなら、私がその背を押そう。君が倒れるというのなら、私がこの腕で支えよう」
その言葉は、あまりにも甘美で、あまりにも残酷だった。 調査兵団団長として、彼女という優秀な「駒」を繋ぎ止めるための甘言。理屈ではそう分かっていても、エルヴィンの胸の奥では、名付けようのない熱い疼きが生まれていた。
雨に濡れ、小さく震える彼女を守りたいと思ってしまった。 それは、何百もの命を散らしてきた彼にとって、決して抱いてはならない、最も不要な「私情」だった。
「……さあ、行こう。風邪を引いては、明日の式典に差し障る」
エルヴィンは彼女の手を引き、ゆっくりと立ち上がらせた。 繋がれた手から伝わる、ナマエの微かな鼓動。そのリズムが、彼の冷静な心音をわずかに狂わせていく。
(ああ……これは、計算外だ)
完璧な盤面を描き、人類の勝利だけを追い求めてきた男の心に、一滴の染みが広がっていく。 それは恋と呼ぶにはあまりに重く、慈愛と呼ぶにはあまりに独善的な、狂おしいほどに純粋な情動。
人類の希望を背負う肩に、一人の女の体温が重なる。 嵐の夜、二人の運命は静かに、けれど不可逆的に混じり合い始めた。
明日になれば、また団長と部下という仮面を被らなければならない。 だが、この雨音がすべてをかき消してくれる今だけは、エルヴィン・スミスは、目の前の女性をただ愛おしく思う、一人の男でいた。
「ナマエ。君の価値を決めるのは、君自身ではない。……私だ」
その言葉を最後に、二人は夜の闇へと消えていった。 雨は降り続き、彼らの足跡を無情に消し去っていく。 けれど、エルヴィンの胸の中に灯った小さな火だけは、消えることなく燃え続けていた。
それが、いつか自らを焼き尽くす炎になるとも知らずに。
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