隣人は私と愛犬をまるごと独占したい
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都会の喧騒から離れ、私鉄の特急に揺られること一時間余り。車窓に広がる景色が、灰色のビル群から柔らかな緑の山々と、瓦屋根の家々へと移り変わっていく。
「エルヴィン、大丈夫? ずっと背筋が伸びたままだよ」
隣に座るナマエが、クスクスと笑いながら彼の袖を引いた。
今日のエルヴィンは、いつにも増して隙がない。最高級のチャコールグレーの三つ揃えを完璧に着こなし、ネクタイの結び目は定規で測ったかのように正確だ。しかし、その膝の上に置かれた大きな掌は、先ほどから微かに、しかし断続的に震えている。
「……問題ない。ただ、あらゆる事態を想定して、脳内でシミュレーションを行っているだけだ」
「シミュレーションって……。ただの私の実家だよ? お父さんもお母さんも、普通の人なんだから」
「ナマエ。君にとっては普通の両親かもしれないが、俺にとっては、君という至宝を今日まで慈しみ育ててきた、いわば『創造主』であり『原告』だ。彼らの承認を得られなければ、俺たちの未来という契約は、法的な効力は持てても、感情的な完結を得られない」
エルヴィンは真剣だった。
国際訴訟で何百億という金を動かし、鉄の仮面で敵を翻弄してきた男が、今、恋人の父親という最強の裁判官を前に、かつてないほどの窮地に立たされていた。
駅に着き、レオをペットホテルに預けて、二人はナマエの実家の門を潜った。
古いけれど手入れの行き届いた日本家屋。玄関先には沈丁花の香りが漂い、夕暮れの光が庭の石灯籠に長い影を落としている。
「ただいまー!」
ナマエの明るい声が響くと、奥から小柄な母親と、いかにも頑固そうな、だがどこかナマエの面影がある父親が現れた。
「……失礼いたします。エルヴィン・スミスと申します。本日は、お忙しい中お時間をいただき、心より感謝申し上げます」
エルヴィンは、完璧な角度の礼を捧げた。その動作があまりに美しすぎて、ナマエの母は「あら、モデルさんみたい……」と頬を染め、父は「……まあ、入れ」と短く返した。
通された座敷には、使い込まれた茶卓と、少し熱い緑茶。
エルヴィンは座布団の上に、まるでお手本のような正座を崩さない。
沈黙が流れる。
父親の鋭い視線が、エルヴィンの顔を、そして繋がれたわけでもないのにエルヴィンの側にぴったりと寄り添っているナマエを観察する。
「……スミスさん、と言ったか。君は、娘のどこが気に入ったんだ?」
父親の直球の問い。
エルヴィンは、ごくりと喉を鳴らした。普段なら淀みなく、相手の望む答えを数秒で提示できる彼が、今は言葉を選びあぐねている。彼の額には、法廷でも見たことがないような大粒の汗が滲んでいた。
「……彼女の、人を疑うことを知らない純粋さ。そして、周囲を暖かく照らす光のような明るさに、私は救われました。彼女は、私がこれまでの人生で築き上げてきた『論理』という名の殻を、微笑みひとつで壊してしまった。……私は、彼女なしでは、もはや人間としての呼吸すら困難なほど、彼女を深く、愛しております」
「…………」
「本日、こちらに伺ったのは……ナマエさんと結婚を前提とした交際、ならびに同棲の許可をいただくためです」
エルヴィンは、懐から一冊の、分厚いファイルを取り出した。
ナマエが「え、それ何!?」と驚く間もなく、彼はそれを父親の前に差し出す。
「これは、私が作成した『将来に関する宣誓供述書』、および『資産管理計画書』です。私の年収、不動産資産、生命保険の受取人設定。そして何より、ナマエさんの健康と幸福を、私が生涯にわたって維持し、向上させることを約束する法的根拠をまとめてあります。……お父様、ナマエさんの幸せを、私が法的に保証します」
ナマエの父親は、差し出されたファイルと、必死な形相のエルヴィンを交互に見た。
法的に保証する、という少し……いや、かなりズレた熱意。
しかし、その大きな手が、緊張のあまり汗で濡れているのを、父親は見逃さなかった。
「……法的に、か」
父親は、ふっと肩の力を抜いて笑った。
「理屈っぽい男だな、君は。だが……娘を思う気持ちだけは、その紙の束よりも、君の情けないほど濡れた手が語っているようだ」
「えっ……」
「ナマエは、お人好しすぎて心配だったんだ。君みたいな堅物なら、詐欺師からも世間の荒波からも、娘をがっちり守ってくれるだろう。……ナマエを、よろしく頼む」
「——! ありがとうございます!」
エルヴィンは、再び深く頭を下げた。
その背中を、ナマエが優しく撫でる。
「ほらね、言ったでしょ? お父さん、エルヴィンのこと気に入るって」
「……ああ。だが、人生でこれほど心拍数が上がったのは初めてだ。ナマエ、私は今、極度の脱水症状に近い状態かもしれない」
エルヴィンの冗談めかした弱音に、その場の緊張が解け、和やかな笑い声が座敷に広がった。
その夜。実家の客間で、二人きりになったひととき。
エルヴィンはネクタイを緩め、ナマエを背後からそっと抱きしめた。
「ナマエ……。君の父親の視線は、最高裁の長官よりも厳しかった」
「ふふ、お疲れ様。でも、最後はかっこよかったよ。私の幸せを保証してくれるなんて、エルヴィンらしいね」
「……ああ。保証する。契約書は交わしたが、それ以上に、俺の魂にかけて。……愛している、ナマエ」
エルヴィンの唇が、ナマエの項に熱く触れる。
都会のマンションで出会った二人の物語は、今、確かな家族の絆へと昇華しようとしていた。
「エルヴィン、大丈夫? ずっと背筋が伸びたままだよ」
隣に座るナマエが、クスクスと笑いながら彼の袖を引いた。
今日のエルヴィンは、いつにも増して隙がない。最高級のチャコールグレーの三つ揃えを完璧に着こなし、ネクタイの結び目は定規で測ったかのように正確だ。しかし、その膝の上に置かれた大きな掌は、先ほどから微かに、しかし断続的に震えている。
「……問題ない。ただ、あらゆる事態を想定して、脳内でシミュレーションを行っているだけだ」
「シミュレーションって……。ただの私の実家だよ? お父さんもお母さんも、普通の人なんだから」
「ナマエ。君にとっては普通の両親かもしれないが、俺にとっては、君という至宝を今日まで慈しみ育ててきた、いわば『創造主』であり『原告』だ。彼らの承認を得られなければ、俺たちの未来という契約は、法的な効力は持てても、感情的な完結を得られない」
エルヴィンは真剣だった。
国際訴訟で何百億という金を動かし、鉄の仮面で敵を翻弄してきた男が、今、恋人の父親という最強の裁判官を前に、かつてないほどの窮地に立たされていた。
駅に着き、レオをペットホテルに預けて、二人はナマエの実家の門を潜った。
古いけれど手入れの行き届いた日本家屋。玄関先には沈丁花の香りが漂い、夕暮れの光が庭の石灯籠に長い影を落としている。
「ただいまー!」
ナマエの明るい声が響くと、奥から小柄な母親と、いかにも頑固そうな、だがどこかナマエの面影がある父親が現れた。
「……失礼いたします。エルヴィン・スミスと申します。本日は、お忙しい中お時間をいただき、心より感謝申し上げます」
エルヴィンは、完璧な角度の礼を捧げた。その動作があまりに美しすぎて、ナマエの母は「あら、モデルさんみたい……」と頬を染め、父は「……まあ、入れ」と短く返した。
通された座敷には、使い込まれた茶卓と、少し熱い緑茶。
エルヴィンは座布団の上に、まるでお手本のような正座を崩さない。
沈黙が流れる。
父親の鋭い視線が、エルヴィンの顔を、そして繋がれたわけでもないのにエルヴィンの側にぴったりと寄り添っているナマエを観察する。
「……スミスさん、と言ったか。君は、娘のどこが気に入ったんだ?」
父親の直球の問い。
エルヴィンは、ごくりと喉を鳴らした。普段なら淀みなく、相手の望む答えを数秒で提示できる彼が、今は言葉を選びあぐねている。彼の額には、法廷でも見たことがないような大粒の汗が滲んでいた。
「……彼女の、人を疑うことを知らない純粋さ。そして、周囲を暖かく照らす光のような明るさに、私は救われました。彼女は、私がこれまでの人生で築き上げてきた『論理』という名の殻を、微笑みひとつで壊してしまった。……私は、彼女なしでは、もはや人間としての呼吸すら困難なほど、彼女を深く、愛しております」
「…………」
「本日、こちらに伺ったのは……ナマエさんと結婚を前提とした交際、ならびに同棲の許可をいただくためです」
エルヴィンは、懐から一冊の、分厚いファイルを取り出した。
ナマエが「え、それ何!?」と驚く間もなく、彼はそれを父親の前に差し出す。
「これは、私が作成した『将来に関する宣誓供述書』、および『資産管理計画書』です。私の年収、不動産資産、生命保険の受取人設定。そして何より、ナマエさんの健康と幸福を、私が生涯にわたって維持し、向上させることを約束する法的根拠をまとめてあります。……お父様、ナマエさんの幸せを、私が法的に保証します」
ナマエの父親は、差し出されたファイルと、必死な形相のエルヴィンを交互に見た。
法的に保証する、という少し……いや、かなりズレた熱意。
しかし、その大きな手が、緊張のあまり汗で濡れているのを、父親は見逃さなかった。
「……法的に、か」
父親は、ふっと肩の力を抜いて笑った。
「理屈っぽい男だな、君は。だが……娘を思う気持ちだけは、その紙の束よりも、君の情けないほど濡れた手が語っているようだ」
「えっ……」
「ナマエは、お人好しすぎて心配だったんだ。君みたいな堅物なら、詐欺師からも世間の荒波からも、娘をがっちり守ってくれるだろう。……ナマエを、よろしく頼む」
「——! ありがとうございます!」
エルヴィンは、再び深く頭を下げた。
その背中を、ナマエが優しく撫でる。
「ほらね、言ったでしょ? お父さん、エルヴィンのこと気に入るって」
「……ああ。だが、人生でこれほど心拍数が上がったのは初めてだ。ナマエ、私は今、極度の脱水症状に近い状態かもしれない」
エルヴィンの冗談めかした弱音に、その場の緊張が解け、和やかな笑い声が座敷に広がった。
その夜。実家の客間で、二人きりになったひととき。
エルヴィンはネクタイを緩め、ナマエを背後からそっと抱きしめた。
「ナマエ……。君の父親の視線は、最高裁の長官よりも厳しかった」
「ふふ、お疲れ様。でも、最後はかっこよかったよ。私の幸せを保証してくれるなんて、エルヴィンらしいね」
「……ああ。保証する。契約書は交わしたが、それ以上に、俺の魂にかけて。……愛している、ナマエ」
エルヴィンの唇が、ナマエの項に熱く触れる。
都会のマンションで出会った二人の物語は、今、確かな家族の絆へと昇華しようとしていた。
