隣人は私と愛犬をまるごと独占したい
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都会の深夜は、眠ることを忘れた光の河のようだ。
マンションのベランダから見下ろす街並みは、点滅する赤や白のライトで溢れているが、ここ最上階付近まで届くのは、湿り気を帯びた秋風の音だけだった。
「……遅いね、レオ」
ナマエは、足元で丸まっているレオの黄金色の頭を優しく撫でた。
隣の部屋、エルヴィンの住まいからは、ここ数日、明かりが消えることがなかった。国際的な大型買収案件の最終局面に差し掛かっていると、数日前の短いやり取りで聞いていた。
エルヴィン・スミス。
彼はいつだって、隙のない鉄壁の男だ。
完璧なスーツ、論理的な話し方、迷いのない決断。ナマエにとって彼は、嵐の中でも決して揺らぐことのない大きな灯台のような存在だった。
カサリ、と。
隣のベランダから、微かな音がした。
パーティション越しにそっと覗き込むと、そこには備え付けの椅子に深く腰掛けたまま、動かなくなっているエルヴィンの姿があった。
「エルヴィン……?」
声をかけたが、返事はない。
ナマエは合鍵を手に取ると、廊下へ出て彼の玄関を開けた。
室内は、持ち主の性格を反映したように整然としていたが、デスクの上だけは書類の山が築かれている。そしてベランダの窓は開け放たれたままだった。
「……あ」
近づいてみると、エルヴィンはシャツの袖をまくり、眼鏡を外した状態で眠りに落ちていた。
深く刻まれた眉間の皺。目の下にうっすらと浮かぶ隈。
いつもは強靭な意志を宿している青い瞳は、今は長い睫毛に隠されている。その寝顔は、驚くほどに無防備で、どこか幼い子供のような危うさを孕んでいた。
「こんなところで寝たら、風邪を引いちゃうよ……」
ナマエは独りごちて、彼の寝室から厚手のブランケットを持ってくると、その大きな肩を包み込むように掛けた。
その瞬間、エルヴィンの身体が微かに震え、重い瞼がゆっくりと持ち上がる。
「……ん。ナマエ、か……?」
「あ、起こしちゃった? ごめんね。でも、ベランダで寝るのはさすがにだめだよ」
エルヴィンは焦点の合わない瞳で数秒間ナマエを見つめた後、深く溜息をついて顔を覆った。
「……失態だな。君の前で、これほど無様な姿を見せるとは」
「無様なんてことないよ。エルヴィン、頑張りすぎなんだもん。少し休んで?」
ナマエは彼の足元に膝をつき、ブランケットの上から彼の腕をさすった。
すると、エルヴィンは力なく椅子から立ち上がり、フラフラとした足取りでキッチンへと向かった。
「……コーヒーを淹れる。まだ、片付けなければならない資料があるんだ」
「もういいよ、明日にしたら? 私が淹れるから、エルヴィンは座ってて」
「いや、これくらいは自分でできる。……君に、あまりにも頼りすぎるのは、私のプライドが許さない」
意固地になってポットを手に取るエルヴィンだったが、その手元は危うい。
ガリガリと豆を挽く音もどこか不規則で、挙句の果てにはフィルターをセットし忘れてお湯を注ごうとしている。
「ちょっと、エルヴィン! 危ないってば」
ナマエが慌てて彼の手からポットを取り上げると、エルヴィンは「……すまない」と力なく呟き、キッチンのカウンターに背中を預けた。
人類の危機管理担当のような彼が、コーヒー一杯すらまともに淹れられないほど消耗している。そのギャップが、ナマエの胸を締め付けた。
「……エルヴィンってさ、意外とダメなところあるんだね」
「……否定はできないな。実務以外のことには、あまりにも無頓着すぎたようだ」
「ふふ、コーヒーを淹れるのが下手なエリート弁護士さん。なんだか、ちょっと親近感が湧いちゃうな」
ナマエは手際よくコーヒーを淹れ直し、香ばしい香りが漂うカップを彼の前に置いた。
エルヴィンはそれを両手で包み込み、一口、大切そうに含んだ。
「……美味しいな。君が淹れると、なぜこれほど味が変わるのだろう」
「それは、愛情が入ってるからだよ。……なんてね」
冗談めかして笑うナマエだったが、その瞳は真剣に彼を見つめていた。
いつも守ってくれる人。いつも導いてくれる人。
けれど、今、目の前にいるのは、誰よりも脆くて、誰かの助けを必要としている、ただの一人の男性だ。
(……ああ。あんなにかっこいいのに、放っておけない)
ナマエの中で、今まで感じていた尊敬や憧れとは少し違う、もっと深くて熱い感情が膨らんでいく。
それは、彼がいないとダメだという依存ではなく、彼を支えたい、彼を守ってあげたいという、母性にも似た、しかしもっと切実な愛着だった。
「エルヴィン。私がついててあげないと、あなたはダメになっちゃうかもしれないね」
「……反論したいところだが、今の私にはその資格がないな」
エルヴィンは自嘲気味に笑い、空いた方の手でナマエの頬をそっと撫でた。
その指先は冷えていたけれど、ナマエにはそれが、どんな熱よりも熱く感じられた。
「ナマエ。君が隣にいてくれるだけで、私の思考は停止し、同時に、これまでにない安らぎを得る。……これは、非常に非合理な現象だ」
「いいんだよ、非合理でも。たまには人間らしく、私に甘えてよ」
ナマエは彼の大きな身体を、包み込むように抱きしめた。
エルヴィンは一瞬驚いたように固まったが、やがて彼女の柔らかな体温に身を委ね、彼女の肩に深く顔を埋めた。
「……ありがとう。少しだけ、このままでいさせてくれ」
静かなキッチンに、二人の鼓動が重なり合う。
完璧な男の鎧が脱ぎ捨てられた、嵐の前の静けさのような時間。
ナマエは、彼を抱きしめる腕に力を込めた。
明日になれば、彼はまた完璧な弁護士に戻るだろう。けれど、この隙だらけのエルヴィンを知っているのは、自分だけでいい。
窓の外では、夜の闇が少しずつ深さを増していた。
二人の距離は、もはや隣人という言葉では説明できない場所まで、深く、濃密に溶け合っていた。
マンションのベランダから見下ろす街並みは、点滅する赤や白のライトで溢れているが、ここ最上階付近まで届くのは、湿り気を帯びた秋風の音だけだった。
「……遅いね、レオ」
ナマエは、足元で丸まっているレオの黄金色の頭を優しく撫でた。
隣の部屋、エルヴィンの住まいからは、ここ数日、明かりが消えることがなかった。国際的な大型買収案件の最終局面に差し掛かっていると、数日前の短いやり取りで聞いていた。
エルヴィン・スミス。
彼はいつだって、隙のない鉄壁の男だ。
完璧なスーツ、論理的な話し方、迷いのない決断。ナマエにとって彼は、嵐の中でも決して揺らぐことのない大きな灯台のような存在だった。
カサリ、と。
隣のベランダから、微かな音がした。
パーティション越しにそっと覗き込むと、そこには備え付けの椅子に深く腰掛けたまま、動かなくなっているエルヴィンの姿があった。
「エルヴィン……?」
声をかけたが、返事はない。
ナマエは合鍵を手に取ると、廊下へ出て彼の玄関を開けた。
室内は、持ち主の性格を反映したように整然としていたが、デスクの上だけは書類の山が築かれている。そしてベランダの窓は開け放たれたままだった。
「……あ」
近づいてみると、エルヴィンはシャツの袖をまくり、眼鏡を外した状態で眠りに落ちていた。
深く刻まれた眉間の皺。目の下にうっすらと浮かぶ隈。
いつもは強靭な意志を宿している青い瞳は、今は長い睫毛に隠されている。その寝顔は、驚くほどに無防備で、どこか幼い子供のような危うさを孕んでいた。
「こんなところで寝たら、風邪を引いちゃうよ……」
ナマエは独りごちて、彼の寝室から厚手のブランケットを持ってくると、その大きな肩を包み込むように掛けた。
その瞬間、エルヴィンの身体が微かに震え、重い瞼がゆっくりと持ち上がる。
「……ん。ナマエ、か……?」
「あ、起こしちゃった? ごめんね。でも、ベランダで寝るのはさすがにだめだよ」
エルヴィンは焦点の合わない瞳で数秒間ナマエを見つめた後、深く溜息をついて顔を覆った。
「……失態だな。君の前で、これほど無様な姿を見せるとは」
「無様なんてことないよ。エルヴィン、頑張りすぎなんだもん。少し休んで?」
ナマエは彼の足元に膝をつき、ブランケットの上から彼の腕をさすった。
すると、エルヴィンは力なく椅子から立ち上がり、フラフラとした足取りでキッチンへと向かった。
「……コーヒーを淹れる。まだ、片付けなければならない資料があるんだ」
「もういいよ、明日にしたら? 私が淹れるから、エルヴィンは座ってて」
「いや、これくらいは自分でできる。……君に、あまりにも頼りすぎるのは、私のプライドが許さない」
意固地になってポットを手に取るエルヴィンだったが、その手元は危うい。
ガリガリと豆を挽く音もどこか不規則で、挙句の果てにはフィルターをセットし忘れてお湯を注ごうとしている。
「ちょっと、エルヴィン! 危ないってば」
ナマエが慌てて彼の手からポットを取り上げると、エルヴィンは「……すまない」と力なく呟き、キッチンのカウンターに背中を預けた。
人類の危機管理担当のような彼が、コーヒー一杯すらまともに淹れられないほど消耗している。そのギャップが、ナマエの胸を締め付けた。
「……エルヴィンってさ、意外とダメなところあるんだね」
「……否定はできないな。実務以外のことには、あまりにも無頓着すぎたようだ」
「ふふ、コーヒーを淹れるのが下手なエリート弁護士さん。なんだか、ちょっと親近感が湧いちゃうな」
ナマエは手際よくコーヒーを淹れ直し、香ばしい香りが漂うカップを彼の前に置いた。
エルヴィンはそれを両手で包み込み、一口、大切そうに含んだ。
「……美味しいな。君が淹れると、なぜこれほど味が変わるのだろう」
「それは、愛情が入ってるからだよ。……なんてね」
冗談めかして笑うナマエだったが、その瞳は真剣に彼を見つめていた。
いつも守ってくれる人。いつも導いてくれる人。
けれど、今、目の前にいるのは、誰よりも脆くて、誰かの助けを必要としている、ただの一人の男性だ。
(……ああ。あんなにかっこいいのに、放っておけない)
ナマエの中で、今まで感じていた尊敬や憧れとは少し違う、もっと深くて熱い感情が膨らんでいく。
それは、彼がいないとダメだという依存ではなく、彼を支えたい、彼を守ってあげたいという、母性にも似た、しかしもっと切実な愛着だった。
「エルヴィン。私がついててあげないと、あなたはダメになっちゃうかもしれないね」
「……反論したいところだが、今の私にはその資格がないな」
エルヴィンは自嘲気味に笑い、空いた方の手でナマエの頬をそっと撫でた。
その指先は冷えていたけれど、ナマエにはそれが、どんな熱よりも熱く感じられた。
「ナマエ。君が隣にいてくれるだけで、私の思考は停止し、同時に、これまでにない安らぎを得る。……これは、非常に非合理な現象だ」
「いいんだよ、非合理でも。たまには人間らしく、私に甘えてよ」
ナマエは彼の大きな身体を、包み込むように抱きしめた。
エルヴィンは一瞬驚いたように固まったが、やがて彼女の柔らかな体温に身を委ね、彼女の肩に深く顔を埋めた。
「……ありがとう。少しだけ、このままでいさせてくれ」
静かなキッチンに、二人の鼓動が重なり合う。
完璧な男の鎧が脱ぎ捨てられた、嵐の前の静けさのような時間。
ナマエは、彼を抱きしめる腕に力を込めた。
明日になれば、彼はまた完璧な弁護士に戻るだろう。けれど、この隙だらけのエルヴィンを知っているのは、自分だけでいい。
窓の外では、夜の闇が少しずつ深さを増していた。
二人の距離は、もはや隣人という言葉では説明できない場所まで、深く、濃密に溶け合っていた。
