隣人は私と愛犬をまるごと独占したい
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秋の午後の日差しが、ホテルのラウンジを黄金色の光で満たしていた。
高い天井には豪奢なシャンデリアが輝き、低く流れるクラシック音楽が、都会の喧騒を遠い世界の出来事のように思わせる。
ミョウジナマエは、落ち着かない様子で膝の上のバッグを握りしめていた。
今日、彼女はこのラウンジで、SNSを通じて知り合った海外投資家の男と会う約束をしていた。レオの将来のため、そして恵まれない子供たちのためにと信じていた投資話。だが、今の彼女の隣には、心強い壁が控えている。
「大丈夫だ、ナマエ。君はただ、私の隣で紅茶を飲んでいればいい」
隣に座るエルヴィンの声は、どこまでも深く、揺るぎない。
今日の彼は、法廷に立つ時と同じ、最高級のチャコールグレーのスーツを完璧に着こなしていた。タイの一ミリの歪みも許さないその佇まいは、周囲の空気をピンと張り詰めさせるような、圧倒的な威厳を放っている。
「……うん。エルヴィンがいてくれるから、私、怖くないよ」
ナマエが小さく頷いた時、一人の男が二人のテーブルに近づいてきた。
整えた髪に、ブランドロゴが目立つ派手なジャケット。男はナマエを見つけると、計算された爽やかな笑みを浮かべた。
「ナマエさん、お待たせしました。……おや、そちらの方は?」
男の視線が、ナマエの隣に座る巨躯の男に向けられた。その瞬間、男の表情が微かに強張る。エルヴィンの放つ捕食者の気配を、本能が察知したのだろう。
「初めまして。ミョウジナマエの代理人を務める、エルヴィン・スミスだ」
エルヴィンは立ち上がることなく、ただ冷徹な青い瞳で男を射抜いた。それだけで、ラウンジの一角が法廷へと変貌する。
「だい、りにん? ナマエさん、これはどういうことかな。僕たちの信頼関係に、第三者を挟むなんて……」
「信頼、か。君の言う『信頼』が、どの程度の法的根拠に基づいているのか、詳しく聞かせてもらおうか」
エルヴィンは手元の分厚い革のファイルから、数枚の書面をテーブルに滑らせた。
「君が所属していると主張する投資法人は、シンガポールの金融当局に登録されていない。また、君が提示した振込指定口座は、過去に三件の被害届が出されている凍結寸前の口座だ。さらに言えば……」
エルヴィンの言葉は、まるで鋭いメスのように、男が塗り固めた嘘を次々と剥ぎ取っていく。
「出資法、および金融商品取引法違反。そして刑法第二百四十六条、詐欺罪の構成要件を、君のこれまでの言動は完璧に満たしている。……さて、この場で警察を呼ぶか、それとも私の質問に正直に答えるか。選ぶ権利を与えよう」
男の額から、タラリと脂汗が流れた。
「な、何を言ってるんだ。僕は善意で……」
「善意? 君の言う善意は、年利二百パーセントという数学的破綻の上に成り立っているのか?」
エルヴィンは冷たく微笑んだ。それは、獲物の逃げ道をすべて塞いだ猟犬が見せる、残酷なまでに美しい微笑だ。
「私の前で法を語るのは、死刑台で神を呪うより無益だということを教えてあげよう。君の身元、SNSのIPアドレス、そして現在関わっている他の被害者のリスト。すべて、私の事務所で把握済みだ」
男は絶句し、ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がった。
「……っ、狂ってる……!」
男は捨て台詞を吐く余裕もなく、逃げるようにラウンジから走り去っていった。
静寂が戻る。
エルヴィンは深く息を吐き、眼鏡の位置を直すと、隣で固まっていたナマエへと顔を向けた。その瞳からは先ほどの氷のような冷徹さが消え、柔らかな慈愛が滲んでいる。
「……怖かったかい、ナマエ」
「……ううん。すごかった。……エルヴィン、本当にかっこいいんだね。私、全然わかってなかった」
ナマエは、高鳴る鼓動を抑えるように胸元に手を当てた。
自分の身に迫っていた危機の大きさよりも、自分を守るために戦ってくれた彼の、圧倒的な力強さと知性に、魂が震えていた。
「すごい……。本物の魔法使いみたいだった。あの人があんなに小さく見えたの、初めてだよ」
「魔法ではないと言っただろう。……だが、君にそう言ってもらえるなら、この職業を選んだ甲斐があったというものだ」
エルヴィンは、ナマエの小さな手をそっと取り、自分の唇へと寄せた。
指先に触れる、熱い吐息。
法廷で勝利を収めても、これほどの高揚感を感じたことはなかった。
自分の知識と力が、彼女という愛おしい存在を守り、彼女の瞳に尊敬の念を灯した。その事実が、エリート弁護士の自尊心を、そして一人の男としての独占欲を、この上なく満たしていた。
「エルヴィン……顔、近いよ……」
「……これくらいは、報酬として許してほしい」
彼はナマエの手に軽く口づけを落とすと、満足げに微笑んだ。
「さあ、帰ろうか。レオくんが首を長くして待っているはずだ。夕食は、何か美味しいものを食べに行こう。君が好きなものを、何でも」
「うん! エルヴィンと一緒に食べられるなら、なんだって嬉しいな」
ナマエの曇りない笑顔に、エルヴィンは心の中で深く頷いた。
害虫は駆除した。次は、彼女の心の中に居座る「隣人」という肩書きを、より強固で親密なものへと上書きする番だ。
二人がラウンジを出る時、窓の外には美しい夕焼けが広がっていた。
ゆなの歩幅に合わせてゆっくりと歩くエルヴィンの背中は、誰よりも大きく、そして彼女だけの守護騎士としての誇りに満ちていた。
数日後の雨上がりの夕暮れ。
窓から入り込む空気は、少しだけ湿り気を帯びて肌に吸い付くようだった。
ナマエの部屋のリビングでは、レオが床で丸くなって寝息を立て、その傍らでエルヴィンが淹れたてのコーヒーを一口含んでいた。合鍵を共有して以来、こうしてどちらかの部屋で夕食後のひとときを過ごすのは、二人にとって日常という名の既定路線となっていた。
「……ねえ、エルヴィン。ちょっと相談してもいい?」
ナマエがマグカップを両手で包み、上目遣いに彼を見た。その瞳にわずかな困惑の色が混じっているのを、エルヴィンの鋭敏な観察眼が見逃すはずもなかった。
「どうした。仕事のことか? それとも、また怪しいメールでも届いたか」
「ううん、そうじゃないんだけど……。実は、会社の後輩の男の子に、告白されたんだ」
カツン、と。
エルヴィンがカップをソーサーに戻す音が、静かな室内に不自然なほど大きく響いた。
彼の眉間が一瞬で険しくなり、周囲の温度が数度下がったかのような錯覚を覚える。
「……ほう。詳しく聞こう。いつ、どこで、どのような文脈でだ」
「えっと、今日の仕事終わりに。すごく真っ直ぐな子で、『ミョウジさんの、人を疑わない温かいところが大好きです』って。返事は急がないから考えてほしいって言われちゃって……。どうしたらいいかな」
ナマエは、純粋に相談していた。
彼女にとってエルヴィンは、人生の荒波から自分を守ってくれる賢者であり、最も信頼できるパートナーだ。だからこそ、自分の身に起きた変化を報告したに過ぎない。
だが、エルヴィンにとってそれは、宣戦布告にも等しい衝撃だった。
(温かいところが大好きだ……? どこの馬の骨ともしれない若造が、私の許可なく彼女の『本質』に触れようとしたというのか)
「ナマエ。結論から言わせてもらおう。その男との交際は、君の危機管理上、断じて承認できない」
エルヴィンの声は、法廷で死刑判決を求める検察官のように冷徹だった。彼は手近にあったメモ帳を引き寄せると、淀みのない手つきでペンを走らせ始めた。
「まず第一に。年下の後輩という立場を利用し、仕事終わりの疲労困弊した君の判断力が低下している時間を狙って告白するのは、卑劣な心理戦術だ。第二に……」
サラサラと、万年筆が紙を滑る音が止まらない。
「エルヴィン……? あの、メモまで取らなくても……」
「黙って聞きなさい。これは君の人生に関わる重大なリスクアセスメントだ。第三、彼の経済的基盤の不透明さ。第四、SNSでの発言傾向から推測される自己承認欲求の強さ。第五、……」
エルヴィンは、ナマエが口にしたわずかな情報から、相手の欠点を次々と導き出し、リストアップしていく。その数は十を超え、二十に達しようとしていた。
「……第十八、君の『人を疑わない善意』を美徳として挙げる男は、裏を返せば、君をコントロールしやすい対象として見ている可能性がある。要するに、彼は君を愛しているのではなく、君という『無垢な存在』を所有したいだけだ。非常に浅はかで、独善的と言わざるを得ない」
一気にまくし立てたエルヴィンは、肩で荒い息をつき、眼鏡を指で押し上げた。
いつもの彼なら、もっと優雅に、もっと狡猾に相手を排除しただろう。だが、今、彼の目の前にあるリストは、論理的な分析という名を借りた、ただの大人げない嫉妬の塊だった。
ナマエは、そのリストと、いつになく必死な形相のエルヴィンを交互に見つめた。
(……あれ?)
今まで、エルヴィンは完璧な人だと思っていた。
何でも知っていて、何でもできて、いつも余裕たっぷりで私を導いてくれる、高い場所にいる人。
でも、今。
私のことになると、こんなに余裕をなくして、ムキになって、子供みたいに怒っている。
「……ふふっ」
「……何がおかしい」
「ううん。なんだか、嬉しいなって思って。そんなに怒らなくてもいいのに。……でも、エルヴィンが私のことでそんなに必死になってくれるの、ちょっとだけ嬉しい」
ナマエは、テーブル越しにエルヴィンの大きな手に自分の手を重ねた。
エルヴィンが微かに肩を震わせ、言葉を失う。
「もっと困らせてみたい、なんて思っちゃうのは……変かな」
ナマエの瞳が、悪戯っぽく、そして熱を帯びて潤む。
その瞬間、エルヴィンの中で、彼を縛り付けていた「隣人の代理人」という理性が、ぷつりと音を立てて千切れた。
彼は重ねられたナマエの手を、逆に力強く握り返した。
「……ナマエ。君は、自分の影響力を理解していない」
「えっ?」
「私を困らせたい、か。……それは、非常に高くつく誘惑だぞ」
エルヴィンの低い声が、ナマエの鼓膜を熱く揺らす。
彼の瞳にあるのは、もはや法の番人の冷静さではない。一人の男性として、愛おしい女性を誰にも渡したくないと渇望する、剥き出しの独占欲だった。
ナマエの胸が高鳴り、心臓の音が耳元まで響いてくる。
今まで頼りになるお隣さんだったエルヴィンの背後に、一人の男の影がはっきりと浮かび上がった。
「……エルヴィンの顔、すごく怖いよ」
「自業自得だ。……その男への返事は、私が書こうか?」
「それはダメ。自分でちゃんとお断りするよ」
ナマエがはっきりと言うと、エルヴィンは不満げに鼻を鳴らし、ようやく握っていた力を少しだけ緩めた。
だが、その視線は片時も彼女から離れようとしない。
レオがふにゃあ、と欠伸をして寝返りを打つ。
平和なリビングの空気は、今、確実に熱を帯びて変質していた。
完璧な策士が、初めて見せた弱点。
それは、ミョウジナマエという、あまりにも無垢で、あまりにも残酷な天然の光そのものだった。
「……ナマエ。もう一度だけ言うが、そのリストの項目はすべて真実だ。忘れないように」
「はいはい。エルヴィン先生、お説教はもうおしまい。コーヒー、もう一杯淹れようか?」
ナマエの柔らかい微笑みに、エルヴィンは深い溜息をつき、天を仰いだ。
(……勝てないな。最初から、勝ち目などなかったのだ)
彼は、自分が作り上げた鉄壁の防衛線の内側に、彼女を招き入れたつもりでいた。
だが実際は、彼女の微笑みという名の檻に、自分から進んで閉じ込められてしまったのは、自分の方だったのだ。
高い天井には豪奢なシャンデリアが輝き、低く流れるクラシック音楽が、都会の喧騒を遠い世界の出来事のように思わせる。
ミョウジナマエは、落ち着かない様子で膝の上のバッグを握りしめていた。
今日、彼女はこのラウンジで、SNSを通じて知り合った海外投資家の男と会う約束をしていた。レオの将来のため、そして恵まれない子供たちのためにと信じていた投資話。だが、今の彼女の隣には、心強い壁が控えている。
「大丈夫だ、ナマエ。君はただ、私の隣で紅茶を飲んでいればいい」
隣に座るエルヴィンの声は、どこまでも深く、揺るぎない。
今日の彼は、法廷に立つ時と同じ、最高級のチャコールグレーのスーツを完璧に着こなしていた。タイの一ミリの歪みも許さないその佇まいは、周囲の空気をピンと張り詰めさせるような、圧倒的な威厳を放っている。
「……うん。エルヴィンがいてくれるから、私、怖くないよ」
ナマエが小さく頷いた時、一人の男が二人のテーブルに近づいてきた。
整えた髪に、ブランドロゴが目立つ派手なジャケット。男はナマエを見つけると、計算された爽やかな笑みを浮かべた。
「ナマエさん、お待たせしました。……おや、そちらの方は?」
男の視線が、ナマエの隣に座る巨躯の男に向けられた。その瞬間、男の表情が微かに強張る。エルヴィンの放つ捕食者の気配を、本能が察知したのだろう。
「初めまして。ミョウジナマエの代理人を務める、エルヴィン・スミスだ」
エルヴィンは立ち上がることなく、ただ冷徹な青い瞳で男を射抜いた。それだけで、ラウンジの一角が法廷へと変貌する。
「だい、りにん? ナマエさん、これはどういうことかな。僕たちの信頼関係に、第三者を挟むなんて……」
「信頼、か。君の言う『信頼』が、どの程度の法的根拠に基づいているのか、詳しく聞かせてもらおうか」
エルヴィンは手元の分厚い革のファイルから、数枚の書面をテーブルに滑らせた。
「君が所属していると主張する投資法人は、シンガポールの金融当局に登録されていない。また、君が提示した振込指定口座は、過去に三件の被害届が出されている凍結寸前の口座だ。さらに言えば……」
エルヴィンの言葉は、まるで鋭いメスのように、男が塗り固めた嘘を次々と剥ぎ取っていく。
「出資法、および金融商品取引法違反。そして刑法第二百四十六条、詐欺罪の構成要件を、君のこれまでの言動は完璧に満たしている。……さて、この場で警察を呼ぶか、それとも私の質問に正直に答えるか。選ぶ権利を与えよう」
男の額から、タラリと脂汗が流れた。
「な、何を言ってるんだ。僕は善意で……」
「善意? 君の言う善意は、年利二百パーセントという数学的破綻の上に成り立っているのか?」
エルヴィンは冷たく微笑んだ。それは、獲物の逃げ道をすべて塞いだ猟犬が見せる、残酷なまでに美しい微笑だ。
「私の前で法を語るのは、死刑台で神を呪うより無益だということを教えてあげよう。君の身元、SNSのIPアドレス、そして現在関わっている他の被害者のリスト。すべて、私の事務所で把握済みだ」
男は絶句し、ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がった。
「……っ、狂ってる……!」
男は捨て台詞を吐く余裕もなく、逃げるようにラウンジから走り去っていった。
静寂が戻る。
エルヴィンは深く息を吐き、眼鏡の位置を直すと、隣で固まっていたナマエへと顔を向けた。その瞳からは先ほどの氷のような冷徹さが消え、柔らかな慈愛が滲んでいる。
「……怖かったかい、ナマエ」
「……ううん。すごかった。……エルヴィン、本当にかっこいいんだね。私、全然わかってなかった」
ナマエは、高鳴る鼓動を抑えるように胸元に手を当てた。
自分の身に迫っていた危機の大きさよりも、自分を守るために戦ってくれた彼の、圧倒的な力強さと知性に、魂が震えていた。
「すごい……。本物の魔法使いみたいだった。あの人があんなに小さく見えたの、初めてだよ」
「魔法ではないと言っただろう。……だが、君にそう言ってもらえるなら、この職業を選んだ甲斐があったというものだ」
エルヴィンは、ナマエの小さな手をそっと取り、自分の唇へと寄せた。
指先に触れる、熱い吐息。
法廷で勝利を収めても、これほどの高揚感を感じたことはなかった。
自分の知識と力が、彼女という愛おしい存在を守り、彼女の瞳に尊敬の念を灯した。その事実が、エリート弁護士の自尊心を、そして一人の男としての独占欲を、この上なく満たしていた。
「エルヴィン……顔、近いよ……」
「……これくらいは、報酬として許してほしい」
彼はナマエの手に軽く口づけを落とすと、満足げに微笑んだ。
「さあ、帰ろうか。レオくんが首を長くして待っているはずだ。夕食は、何か美味しいものを食べに行こう。君が好きなものを、何でも」
「うん! エルヴィンと一緒に食べられるなら、なんだって嬉しいな」
ナマエの曇りない笑顔に、エルヴィンは心の中で深く頷いた。
害虫は駆除した。次は、彼女の心の中に居座る「隣人」という肩書きを、より強固で親密なものへと上書きする番だ。
二人がラウンジを出る時、窓の外には美しい夕焼けが広がっていた。
ゆなの歩幅に合わせてゆっくりと歩くエルヴィンの背中は、誰よりも大きく、そして彼女だけの守護騎士としての誇りに満ちていた。
数日後の雨上がりの夕暮れ。
窓から入り込む空気は、少しだけ湿り気を帯びて肌に吸い付くようだった。
ナマエの部屋のリビングでは、レオが床で丸くなって寝息を立て、その傍らでエルヴィンが淹れたてのコーヒーを一口含んでいた。合鍵を共有して以来、こうしてどちらかの部屋で夕食後のひとときを過ごすのは、二人にとって日常という名の既定路線となっていた。
「……ねえ、エルヴィン。ちょっと相談してもいい?」
ナマエがマグカップを両手で包み、上目遣いに彼を見た。その瞳にわずかな困惑の色が混じっているのを、エルヴィンの鋭敏な観察眼が見逃すはずもなかった。
「どうした。仕事のことか? それとも、また怪しいメールでも届いたか」
「ううん、そうじゃないんだけど……。実は、会社の後輩の男の子に、告白されたんだ」
カツン、と。
エルヴィンがカップをソーサーに戻す音が、静かな室内に不自然なほど大きく響いた。
彼の眉間が一瞬で険しくなり、周囲の温度が数度下がったかのような錯覚を覚える。
「……ほう。詳しく聞こう。いつ、どこで、どのような文脈でだ」
「えっと、今日の仕事終わりに。すごく真っ直ぐな子で、『ミョウジさんの、人を疑わない温かいところが大好きです』って。返事は急がないから考えてほしいって言われちゃって……。どうしたらいいかな」
ナマエは、純粋に相談していた。
彼女にとってエルヴィンは、人生の荒波から自分を守ってくれる賢者であり、最も信頼できるパートナーだ。だからこそ、自分の身に起きた変化を報告したに過ぎない。
だが、エルヴィンにとってそれは、宣戦布告にも等しい衝撃だった。
(温かいところが大好きだ……? どこの馬の骨ともしれない若造が、私の許可なく彼女の『本質』に触れようとしたというのか)
「ナマエ。結論から言わせてもらおう。その男との交際は、君の危機管理上、断じて承認できない」
エルヴィンの声は、法廷で死刑判決を求める検察官のように冷徹だった。彼は手近にあったメモ帳を引き寄せると、淀みのない手つきでペンを走らせ始めた。
「まず第一に。年下の後輩という立場を利用し、仕事終わりの疲労困弊した君の判断力が低下している時間を狙って告白するのは、卑劣な心理戦術だ。第二に……」
サラサラと、万年筆が紙を滑る音が止まらない。
「エルヴィン……? あの、メモまで取らなくても……」
「黙って聞きなさい。これは君の人生に関わる重大なリスクアセスメントだ。第三、彼の経済的基盤の不透明さ。第四、SNSでの発言傾向から推測される自己承認欲求の強さ。第五、……」
エルヴィンは、ナマエが口にしたわずかな情報から、相手の欠点を次々と導き出し、リストアップしていく。その数は十を超え、二十に達しようとしていた。
「……第十八、君の『人を疑わない善意』を美徳として挙げる男は、裏を返せば、君をコントロールしやすい対象として見ている可能性がある。要するに、彼は君を愛しているのではなく、君という『無垢な存在』を所有したいだけだ。非常に浅はかで、独善的と言わざるを得ない」
一気にまくし立てたエルヴィンは、肩で荒い息をつき、眼鏡を指で押し上げた。
いつもの彼なら、もっと優雅に、もっと狡猾に相手を排除しただろう。だが、今、彼の目の前にあるリストは、論理的な分析という名を借りた、ただの大人げない嫉妬の塊だった。
ナマエは、そのリストと、いつになく必死な形相のエルヴィンを交互に見つめた。
(……あれ?)
今まで、エルヴィンは完璧な人だと思っていた。
何でも知っていて、何でもできて、いつも余裕たっぷりで私を導いてくれる、高い場所にいる人。
でも、今。
私のことになると、こんなに余裕をなくして、ムキになって、子供みたいに怒っている。
「……ふふっ」
「……何がおかしい」
「ううん。なんだか、嬉しいなって思って。そんなに怒らなくてもいいのに。……でも、エルヴィンが私のことでそんなに必死になってくれるの、ちょっとだけ嬉しい」
ナマエは、テーブル越しにエルヴィンの大きな手に自分の手を重ねた。
エルヴィンが微かに肩を震わせ、言葉を失う。
「もっと困らせてみたい、なんて思っちゃうのは……変かな」
ナマエの瞳が、悪戯っぽく、そして熱を帯びて潤む。
その瞬間、エルヴィンの中で、彼を縛り付けていた「隣人の代理人」という理性が、ぷつりと音を立てて千切れた。
彼は重ねられたナマエの手を、逆に力強く握り返した。
「……ナマエ。君は、自分の影響力を理解していない」
「えっ?」
「私を困らせたい、か。……それは、非常に高くつく誘惑だぞ」
エルヴィンの低い声が、ナマエの鼓膜を熱く揺らす。
彼の瞳にあるのは、もはや法の番人の冷静さではない。一人の男性として、愛おしい女性を誰にも渡したくないと渇望する、剥き出しの独占欲だった。
ナマエの胸が高鳴り、心臓の音が耳元まで響いてくる。
今まで頼りになるお隣さんだったエルヴィンの背後に、一人の男の影がはっきりと浮かび上がった。
「……エルヴィンの顔、すごく怖いよ」
「自業自得だ。……その男への返事は、私が書こうか?」
「それはダメ。自分でちゃんとお断りするよ」
ナマエがはっきりと言うと、エルヴィンは不満げに鼻を鳴らし、ようやく握っていた力を少しだけ緩めた。
だが、その視線は片時も彼女から離れようとしない。
レオがふにゃあ、と欠伸をして寝返りを打つ。
平和なリビングの空気は、今、確実に熱を帯びて変質していた。
完璧な策士が、初めて見せた弱点。
それは、ミョウジナマエという、あまりにも無垢で、あまりにも残酷な天然の光そのものだった。
「……ナマエ。もう一度だけ言うが、そのリストの項目はすべて真実だ。忘れないように」
「はいはい。エルヴィン先生、お説教はもうおしまい。コーヒー、もう一杯淹れようか?」
ナマエの柔らかい微笑みに、エルヴィンは深い溜息をつき、天を仰いだ。
(……勝てないな。最初から、勝ち目などなかったのだ)
彼は、自分が作り上げた鉄壁の防衛線の内側に、彼女を招き入れたつもりでいた。
だが実際は、彼女の微笑みという名の檻に、自分から進んで閉じ込められてしまったのは、自分の方だったのだ。
