隣人は私と愛犬をまるごと独占したい
Name Change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
週末の午前中。雲ひとつない蒼穹がどこまでも広がり、乾いた秋の風が木々を揺らしていた。
エルヴィンとナマエ、そしてレオの二人と一匹は、郊外にある広大なドッグランを訪れていた。
「わあ……広い! レオ、よかったね」
ドッグランの入り口でリードを外されると、レオは待ってましたとばかりに黄金色の毛をなびかせ、緑の芝生へと飛び出していった。弾けるような躍動感。それを見守るナマエの横顔も、子供のように無邪気な輝きを帯びている。
「喜んでいるな。連れてきて正解だった」
エルヴィンは隣に立ち、穏やかに目を細めた。
今日の彼は、ネイビーのポロシャツにベージュのチノパンというカジュアルな装いだ。しかし、その長身と鍛え抜かれた体躯、そして隠しきれない理知的な気品は、周囲の飼い主たちの視線を否応なしに集めていた。
「エルヴィンさん、お休みの日まで付き合わせちゃってすみません。でも、一人だとレオのパワーに負けちゃうから、すごく心強いです」
「気にする必要はない。私もいい気分転換になっている。……それに、君とレオくんと過ごす時間は、私にとっても有意義な投資だ」
投資という言葉に、ナマエは「ふふ、エルヴィンさんは本当に仕事が好きなんだね」と、その裏にある独占欲に気づくことなく笑った。
事件は、レオが他の犬と追いかけっこを始めた時に起きた。
興奮したレオが、死角からナマエの足元へと猛スピードで駆け抜けたのだ。
「あ……っ!」
湿った芝生に足を取られ、ナマエの体が大きく宙に浮く。
スローモーションのように傾く視界。彼女が地面に叩きつけられる恐怖に目を閉じた瞬間、硬く、それでいて温かい「壁」が彼女を包み込んだ。
「危ない、ナマエ!」
低い、切迫した声が耳元で響いた。
ナマエが恐る恐る目を開けると、そこには至近距離で自分を凝視するエルヴィンの青い瞳があった。
彼の強靭な腕が彼女の腰をしっかりと抱き寄せ、もう一方の手が彼女の後頭部を優しく守っている。彼の胸板から伝わる、トク、トク、という速い鼓動。
「あ……。ごめんなさい、エルヴィンさん……」
「…………」
沈黙が流れる。
エルヴィンは彼女を抱きとめたまま、離そうとしなかった。
そして、自分が無意識に口にした言葉の重みに、彼自身が静かに戦慄していた。
「ナマエさん」ではなく、「ナマエ」。
長年、他者との間に築いてきた鉄壁の境界線が、彼女を失うかもしれないという刹那の恐怖によって、容易く決壊してしまったのだ。
ナマエは、彼の腕の中で小さく息を吐いた。
「あの……エルヴィンさん? 今、名前、呼んでくれたんだね」
「……ああ。済まない、咄嗟のことで失礼を……」
「ううん、違うの! 嬉しいな、って。私、エルヴィンさんと出会ってから、ずっとあなたのことが素敵だなって思ってたから。名前で呼ばれると、なんだかもっと仲良くなれた気がする」
ナマエは彼の腕の中で、ふにゃりと柔らかく微笑んだ。
打算も裏表もない、純粋な「喜び」の告白。
エルヴィンは、自分の中の理性が音を立てて崩れ去るのを感じた。策を弄し、外堀を埋めていくつもりだった。だが、彼女のこの真っ直ぐな光の前では、あらゆる策略が小細工に見えてしまう。
「……ナマエ。ならば、条件がある」
エルヴィンはゆっくりと彼女を立たせ、しかしその肩に手を置いたまま、逃がさないように見つめた。
「君も、私のことを呼び捨てで呼んでほしい。エルヴィン、と」
「えっ、でも、そんな。年上の、しかもかっこいい弁護士さんに呼び捨てなんて……」
「これは命令ではない。契約だ。君の安全を守り、レオの父役を続行するための、対等な関係としての契約。……ダメだろうか?」
少しだけ困ったように眉を下げて見せるのは、彼の卑怯な計算だった。
押しに弱いナマエが、この表情に抗えるはずがない。
「……わかった。じゃあ、エルヴィン……。これでいいかな?」
照れくさそうに、しかしはっきりと自分の名を呼ぶ彼女の声。
エルヴィンの胸の奥に、名前もつかない熱い感情が込み上げた。
「ああ。いい響きだ」
その後、ドッグランを後にした二人は、近くのテラス席があるカフェへと向かった。
レオを足元に座らせ、秋の陽光を浴びながらのランチ。
「エルヴィン、これ食べてみて。すごく美味しい!」
「ああ、美味しそうだ。……ナマエ、口元にソースがついているぞ」
自然にタメ口で話し、互いの距離を測り直す時間。
それはもはや隣人同士の助け合いの域を完全に逸脱していた。
ナマエは、レオを撫でるエルヴィンの大きな手と、自分に向ける穏やかな眼差しに、今まで感じたことのない胸の高鳴りを覚えていた。
(エルヴィンといると、すごく安心する。……これって、ただの隣人さんへの気持ちなのかな)
鈍感な彼女の心に、小さな、けれど確かな恋の種が芽吹いた瞬間だった。
そしてエルヴィンは、ナマエのカップを持つ指先を見つめながら、次なる契約の内容を冷徹に、そして熱烈に練り上げていた。
「さて、レオくん。そろそろ帰ろうか。……私たちの『家』へ」
私たちのという言葉に、ナマエは「そうだね、お隣さんだもんね!」と元気に答える。
その無自覚な言葉に苦笑しながらも、エルヴィンの瞳には決して獲物を逃さない捕食者の執着が、静かに、深く宿っていた。
秋の夜長、マンションの廊下には静謐な空気が満ちていた。
エルヴィンとナマエが互いを名前で呼び合うようになってから、数日が経過していた。呼び捨てという契約は、表面上はスムーズに移行したものの、それがもたらす親密度の加速は、策士であるエルヴィンの予想を遥かに上回っていた。
「……ナマエ、少し話をいいかな」
仕事帰りのエルヴィンが、ナマエの玄関先で足を止めた。
彼は鞄から、小さなキーケースを取り出す。その中には、緻密に計算された「提案」が隠されていた。
「どうしたの、エルヴィン? こんな時間に」
「リスク管理の話だ。レオくんのことだが……君が仕事で不在の際、あるいは室内で君に万が一の事態が起きた場合、私は隣にいながら君を助けることができない。物理的な障壁——つまり、このドアが私たちの間に立ちはだかるからだ」
エルヴィンの声は低く、事務的で、完璧な論理性を備えていた。
「だから、互いの合鍵を交換しておくべきだと考えている。これはプライバシーの侵害ではなく、相互防衛のための合理的な手段だ。……どう思う?」
ナマエは一瞬、目を丸くした。普通の女性であれば、付き合ってもいない男性から合鍵の交換を提案されれば、警戒心を抱くのが常識だ。しかし、彼女の瞳に浮かんだのは、純粋な感動と安堵だった。
「エルヴィン……。そんなことまで考えてくれていたんだね」
彼女は迷うことなく、自分のキーホルダーから予備の鍵を外した。
そして、それをエルヴィンの大きな掌の上にそっと乗せる。
「エルヴィンなら安心。あなたに鍵を預けられてよかった。これで、もし私に何かあってもレオを守ってもらえるね。……ありがとう」
彼女の掌から伝わる体温。そして、自分を百パーセント信頼しきったその眼差し。
エルヴィンの胸の奥で、暗く、熱い独占欲が音を立てて燃え上がった。
(……ああ、ナマエ。君は自分が何を差し出したのか、わかっていない)
この鍵は、彼女の聖域を、彼女の日常を、自分という男がいつでも支配できるという許可証に他ならない。
彼はその重みを噛み締めるように、冷たい金属の鍵を握り込んだ。
その契約から、数日後の深夜。
不穏な音が、静まり返ったエルヴィンの寝室に届いた。
隣室から聞こえる、レオの苦しげな呻き声。そして、パニックに陥ったようなナマエの足音。
エルヴィンは即座にベッドを抜け出し、交換したばかりの鍵を手に取った。
隣室のドアを開けると、そこには、ぐったりとしたレオを抱きかかえて震えているナマエの姿があった。
「エルヴィン……! どうしよう、レオが急に……吐いちゃって、体も熱くて……!」
ナマエの顔は青白く、瞳には涙が溜まっていた。彼女の手は小刻みに震え、スマートフォンの画面を操作することすらままならない様子だ。
「落ち着きなさい、ナマエ。私がいる」
エルヴィンの声は、凍てつく夜の空気を切り裂くように冷徹で、それゆえに圧倒的な安心感を与えた。
彼は淀みのない動作で行動を開始する。
まず、手元の端末で二十四時間対応の夜間動物病院を検索し、最短ルートを割り出す。次に、大型犬の搬送が可能なタクシー会社に連絡を入れ、配車を確定させた。
その間に、ナマエの肩にブランケットを掛け、レオの健康保険証と診察券、直近の食事内容を記したメモを素早くまとめさせる。
「さあ、タクシーが下に着く。レオくんを運ぶぞ」
エルヴィンは、二十キロ以上あるレオの体を、まるで羽根のように軽々と、しかし細心の注意を払って抱き上げた。
ナマエは、彼の背中を追うのが精一杯だった。
病院に到着すると、エルヴィンは動揺するナマエに代わり、医師と対峙した。
「発症時刻は午前二時十五分。症状は嘔吐と呼吸の乱れ。既往症はなし……」
淡々と、かつ正確に情報を伝えるその姿は、法廷で証拠を積み上げる一流弁護士そのものだった。
医師も彼の明晰さに即座に応じ、レオは処置室へと運ばれていった。
待合室の硬い椅子。
ナマエは、自分の膝の上で組んだ手をぎゅっと握りしめていた。
そんな彼女の手を、エルヴィンは無言で包み込んだ。彼の掌は大きく、驚くほど温かかった。
「……大丈夫だ。彼は強い」
「……うん。……ねえ、エルヴィン」
「なんだ」
「私……自分ではしっかりしてるつもりだったのに、何にもできなかった。エルヴィンがいなかったら、どうなっていたか……」
ナマエは、自分を支える彼の横顔を、じっと見つめた。
完璧に整えられた横顔。どんな状況でも揺らがない強靭な精神。
今まで、彼はただの「優しくてかっこいい隣人」だった。
けれど、この深夜の騒乱の中で、彼女の心には新しい感情が刻まれていた。
(あ……私、この人がいないと、もうダメかもしれない)
それは、依存かもしれない。けれど、それ以上に、彼という存在が自分の人生に不可欠なピースとして、カチリと嵌まったような感覚だった。
夜明け前、治療を終えて少し落ち着いたレオを連れて、二人は帰路についた。
タクシーの車内、エルヴィンの肩に頭を預けて眠るレオと、その隣でようやく安堵の表情を見せるナマエ。
「エルヴィン……。本当に、ありがとう。私、あなたに会えて、本当によかった」
彼女の微かな呟きを聞き逃さず、エルヴィンは彼女の頭をそっと自分の肩に寄せた。
「……礼を言うのは早い、ナマエ。君とレオを守ることは、私の『義務』になったのだから」
彼の言葉には、もはや隣人としての遠慮など微塵もなかった。
手に入れた鍵。共有した危機。そして、彼女の中に芽生えた確信。
すべては彼の筋書き通り、あるいはそれ以上に完璧な形で進んでいた。
(君が私なしでは生きられないように。……ゆっくりと、逃げ場を失くしていこう)
朝日が昇り始める都会の空の下、策士は眠る彼女の髪に、誰にも気づかれないほど軽い口づけを落とした。
エルヴィンとナマエ、そしてレオの二人と一匹は、郊外にある広大なドッグランを訪れていた。
「わあ……広い! レオ、よかったね」
ドッグランの入り口でリードを外されると、レオは待ってましたとばかりに黄金色の毛をなびかせ、緑の芝生へと飛び出していった。弾けるような躍動感。それを見守るナマエの横顔も、子供のように無邪気な輝きを帯びている。
「喜んでいるな。連れてきて正解だった」
エルヴィンは隣に立ち、穏やかに目を細めた。
今日の彼は、ネイビーのポロシャツにベージュのチノパンというカジュアルな装いだ。しかし、その長身と鍛え抜かれた体躯、そして隠しきれない理知的な気品は、周囲の飼い主たちの視線を否応なしに集めていた。
「エルヴィンさん、お休みの日まで付き合わせちゃってすみません。でも、一人だとレオのパワーに負けちゃうから、すごく心強いです」
「気にする必要はない。私もいい気分転換になっている。……それに、君とレオくんと過ごす時間は、私にとっても有意義な投資だ」
投資という言葉に、ナマエは「ふふ、エルヴィンさんは本当に仕事が好きなんだね」と、その裏にある独占欲に気づくことなく笑った。
事件は、レオが他の犬と追いかけっこを始めた時に起きた。
興奮したレオが、死角からナマエの足元へと猛スピードで駆け抜けたのだ。
「あ……っ!」
湿った芝生に足を取られ、ナマエの体が大きく宙に浮く。
スローモーションのように傾く視界。彼女が地面に叩きつけられる恐怖に目を閉じた瞬間、硬く、それでいて温かい「壁」が彼女を包み込んだ。
「危ない、ナマエ!」
低い、切迫した声が耳元で響いた。
ナマエが恐る恐る目を開けると、そこには至近距離で自分を凝視するエルヴィンの青い瞳があった。
彼の強靭な腕が彼女の腰をしっかりと抱き寄せ、もう一方の手が彼女の後頭部を優しく守っている。彼の胸板から伝わる、トク、トク、という速い鼓動。
「あ……。ごめんなさい、エルヴィンさん……」
「…………」
沈黙が流れる。
エルヴィンは彼女を抱きとめたまま、離そうとしなかった。
そして、自分が無意識に口にした言葉の重みに、彼自身が静かに戦慄していた。
「ナマエさん」ではなく、「ナマエ」。
長年、他者との間に築いてきた鉄壁の境界線が、彼女を失うかもしれないという刹那の恐怖によって、容易く決壊してしまったのだ。
ナマエは、彼の腕の中で小さく息を吐いた。
「あの……エルヴィンさん? 今、名前、呼んでくれたんだね」
「……ああ。済まない、咄嗟のことで失礼を……」
「ううん、違うの! 嬉しいな、って。私、エルヴィンさんと出会ってから、ずっとあなたのことが素敵だなって思ってたから。名前で呼ばれると、なんだかもっと仲良くなれた気がする」
ナマエは彼の腕の中で、ふにゃりと柔らかく微笑んだ。
打算も裏表もない、純粋な「喜び」の告白。
エルヴィンは、自分の中の理性が音を立てて崩れ去るのを感じた。策を弄し、外堀を埋めていくつもりだった。だが、彼女のこの真っ直ぐな光の前では、あらゆる策略が小細工に見えてしまう。
「……ナマエ。ならば、条件がある」
エルヴィンはゆっくりと彼女を立たせ、しかしその肩に手を置いたまま、逃がさないように見つめた。
「君も、私のことを呼び捨てで呼んでほしい。エルヴィン、と」
「えっ、でも、そんな。年上の、しかもかっこいい弁護士さんに呼び捨てなんて……」
「これは命令ではない。契約だ。君の安全を守り、レオの父役を続行するための、対等な関係としての契約。……ダメだろうか?」
少しだけ困ったように眉を下げて見せるのは、彼の卑怯な計算だった。
押しに弱いナマエが、この表情に抗えるはずがない。
「……わかった。じゃあ、エルヴィン……。これでいいかな?」
照れくさそうに、しかしはっきりと自分の名を呼ぶ彼女の声。
エルヴィンの胸の奥に、名前もつかない熱い感情が込み上げた。
「ああ。いい響きだ」
その後、ドッグランを後にした二人は、近くのテラス席があるカフェへと向かった。
レオを足元に座らせ、秋の陽光を浴びながらのランチ。
「エルヴィン、これ食べてみて。すごく美味しい!」
「ああ、美味しそうだ。……ナマエ、口元にソースがついているぞ」
自然にタメ口で話し、互いの距離を測り直す時間。
それはもはや隣人同士の助け合いの域を完全に逸脱していた。
ナマエは、レオを撫でるエルヴィンの大きな手と、自分に向ける穏やかな眼差しに、今まで感じたことのない胸の高鳴りを覚えていた。
(エルヴィンといると、すごく安心する。……これって、ただの隣人さんへの気持ちなのかな)
鈍感な彼女の心に、小さな、けれど確かな恋の種が芽吹いた瞬間だった。
そしてエルヴィンは、ナマエのカップを持つ指先を見つめながら、次なる契約の内容を冷徹に、そして熱烈に練り上げていた。
「さて、レオくん。そろそろ帰ろうか。……私たちの『家』へ」
私たちのという言葉に、ナマエは「そうだね、お隣さんだもんね!」と元気に答える。
その無自覚な言葉に苦笑しながらも、エルヴィンの瞳には決して獲物を逃さない捕食者の執着が、静かに、深く宿っていた。
秋の夜長、マンションの廊下には静謐な空気が満ちていた。
エルヴィンとナマエが互いを名前で呼び合うようになってから、数日が経過していた。呼び捨てという契約は、表面上はスムーズに移行したものの、それがもたらす親密度の加速は、策士であるエルヴィンの予想を遥かに上回っていた。
「……ナマエ、少し話をいいかな」
仕事帰りのエルヴィンが、ナマエの玄関先で足を止めた。
彼は鞄から、小さなキーケースを取り出す。その中には、緻密に計算された「提案」が隠されていた。
「どうしたの、エルヴィン? こんな時間に」
「リスク管理の話だ。レオくんのことだが……君が仕事で不在の際、あるいは室内で君に万が一の事態が起きた場合、私は隣にいながら君を助けることができない。物理的な障壁——つまり、このドアが私たちの間に立ちはだかるからだ」
エルヴィンの声は低く、事務的で、完璧な論理性を備えていた。
「だから、互いの合鍵を交換しておくべきだと考えている。これはプライバシーの侵害ではなく、相互防衛のための合理的な手段だ。……どう思う?」
ナマエは一瞬、目を丸くした。普通の女性であれば、付き合ってもいない男性から合鍵の交換を提案されれば、警戒心を抱くのが常識だ。しかし、彼女の瞳に浮かんだのは、純粋な感動と安堵だった。
「エルヴィン……。そんなことまで考えてくれていたんだね」
彼女は迷うことなく、自分のキーホルダーから予備の鍵を外した。
そして、それをエルヴィンの大きな掌の上にそっと乗せる。
「エルヴィンなら安心。あなたに鍵を預けられてよかった。これで、もし私に何かあってもレオを守ってもらえるね。……ありがとう」
彼女の掌から伝わる体温。そして、自分を百パーセント信頼しきったその眼差し。
エルヴィンの胸の奥で、暗く、熱い独占欲が音を立てて燃え上がった。
(……ああ、ナマエ。君は自分が何を差し出したのか、わかっていない)
この鍵は、彼女の聖域を、彼女の日常を、自分という男がいつでも支配できるという許可証に他ならない。
彼はその重みを噛み締めるように、冷たい金属の鍵を握り込んだ。
その契約から、数日後の深夜。
不穏な音が、静まり返ったエルヴィンの寝室に届いた。
隣室から聞こえる、レオの苦しげな呻き声。そして、パニックに陥ったようなナマエの足音。
エルヴィンは即座にベッドを抜け出し、交換したばかりの鍵を手に取った。
隣室のドアを開けると、そこには、ぐったりとしたレオを抱きかかえて震えているナマエの姿があった。
「エルヴィン……! どうしよう、レオが急に……吐いちゃって、体も熱くて……!」
ナマエの顔は青白く、瞳には涙が溜まっていた。彼女の手は小刻みに震え、スマートフォンの画面を操作することすらままならない様子だ。
「落ち着きなさい、ナマエ。私がいる」
エルヴィンの声は、凍てつく夜の空気を切り裂くように冷徹で、それゆえに圧倒的な安心感を与えた。
彼は淀みのない動作で行動を開始する。
まず、手元の端末で二十四時間対応の夜間動物病院を検索し、最短ルートを割り出す。次に、大型犬の搬送が可能なタクシー会社に連絡を入れ、配車を確定させた。
その間に、ナマエの肩にブランケットを掛け、レオの健康保険証と診察券、直近の食事内容を記したメモを素早くまとめさせる。
「さあ、タクシーが下に着く。レオくんを運ぶぞ」
エルヴィンは、二十キロ以上あるレオの体を、まるで羽根のように軽々と、しかし細心の注意を払って抱き上げた。
ナマエは、彼の背中を追うのが精一杯だった。
病院に到着すると、エルヴィンは動揺するナマエに代わり、医師と対峙した。
「発症時刻は午前二時十五分。症状は嘔吐と呼吸の乱れ。既往症はなし……」
淡々と、かつ正確に情報を伝えるその姿は、法廷で証拠を積み上げる一流弁護士そのものだった。
医師も彼の明晰さに即座に応じ、レオは処置室へと運ばれていった。
待合室の硬い椅子。
ナマエは、自分の膝の上で組んだ手をぎゅっと握りしめていた。
そんな彼女の手を、エルヴィンは無言で包み込んだ。彼の掌は大きく、驚くほど温かかった。
「……大丈夫だ。彼は強い」
「……うん。……ねえ、エルヴィン」
「なんだ」
「私……自分ではしっかりしてるつもりだったのに、何にもできなかった。エルヴィンがいなかったら、どうなっていたか……」
ナマエは、自分を支える彼の横顔を、じっと見つめた。
完璧に整えられた横顔。どんな状況でも揺らがない強靭な精神。
今まで、彼はただの「優しくてかっこいい隣人」だった。
けれど、この深夜の騒乱の中で、彼女の心には新しい感情が刻まれていた。
(あ……私、この人がいないと、もうダメかもしれない)
それは、依存かもしれない。けれど、それ以上に、彼という存在が自分の人生に不可欠なピースとして、カチリと嵌まったような感覚だった。
夜明け前、治療を終えて少し落ち着いたレオを連れて、二人は帰路についた。
タクシーの車内、エルヴィンの肩に頭を預けて眠るレオと、その隣でようやく安堵の表情を見せるナマエ。
「エルヴィン……。本当に、ありがとう。私、あなたに会えて、本当によかった」
彼女の微かな呟きを聞き逃さず、エルヴィンは彼女の頭をそっと自分の肩に寄せた。
「……礼を言うのは早い、ナマエ。君とレオを守ることは、私の『義務』になったのだから」
彼の言葉には、もはや隣人としての遠慮など微塵もなかった。
手に入れた鍵。共有した危機。そして、彼女の中に芽生えた確信。
すべては彼の筋書き通り、あるいはそれ以上に完璧な形で進んでいた。
(君が私なしでは生きられないように。……ゆっくりと、逃げ場を失くしていこう)
朝日が昇り始める都会の空の下、策士は眠る彼女の髪に、誰にも気づかれないほど軽い口づけを落とした。
3/3ページ
