隣人は私と愛犬をまるごと独占したい
Name Change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
翌朝、午前七時三十分。
ミョウジナマエの家のインターホンが鳴らされた。
「はーい! レオ、ちょっと待っててね」
パジャマの上に慌ててカーディガンを羽織り、ナマエが重い玄関の扉を開ける。そこに立っていたのは、いつもの穏やかな「隣人のエルヴィンさん」ではなかった。
寸分の狂いもなくプレスされたスラックスに、腕まくりをしたシャツ姿。そして何より、その腕には折り畳み式の小さなホワイトボードと、資料が詰まった厚いファイルが抱えられていた。
「おはよう、ナマエさん。突然済まないが、非常に緊急を要する案件がある」
エルヴィンの声は、まるで法廷で開廷を告げる裁判長のように厳かで、低く響いた。
その気迫に押され、ナマエはパチパチと瞬きを繰り返す。
「エルヴィンさん……? あの、緊急って、火事とかですか?」
「いや、それよりも恐ろしい事態だ。君の資産と未来が、今まさに掠め取られようとしている」
エルヴィンはナマエの返事を待たず、しかし紳士的な足取りでリビングへと踏み込んだ。
「失礼する」という短い断りとともに、彼は迷いなくダイニングテーブルの椅子を引き、持参したホワイトボードを設置する。
足元では、黄金色の毛並みを揺らしたレオが「遊び相手が来た!」とばかりに尻尾を激しく床に打ち付けていたが、今のエルヴィンに彼を撫でる余裕はなかった。
「え、ええっと……。エルヴィンさん、コーヒー飲みますか?」
「いや、不要だ。ナマエさん、そこに座りなさい。講義を始める」
戸惑いながらも、ナマエは彼の正面に腰を下ろした。
エルヴィンは迷いのない手つきでホワイトボードにマーカーを走らせる。
「昨日、君が電話で話していた投資案件についてだ。月利二十パーセント、元本保証、海外児童支援……。これらがどれほど論理的に破綻しているか、今から君の脳内に叩き込む」
キュッ、キュッ、と小気味よい音がリビングに響く。
彼は、いかにその配当金が「後の出資者から集めた金を回しているだけ」のポンジ・スキームであるか。そして、法的な登録すらされていない無許可の業者が、どのような言葉巧みな手口で「善意」を利用するかを、立て板に水のごとく解説していく。
「見ての通り、このスキームにおける期待利益の推移は統計学的にもあり得ない。君が振り込もうとしているその口座は、三日後には凍結、あるいは解約されているだろう」
エルヴィンの青い瞳が、眼鏡の奥で鋭く光る。
彼は、ナマエが自分の知性に圧倒され、恐怖し、そして泣きついてくることを予想していた。そうすれば、あとは自分が「代理人」としてすべてを処理し、彼女を完璧に保護するだけだ。
しかし。
「……すごいです、エルヴィンさん」
ナマエは恐怖するどころか、頬をバラ色に染め、尊敬の眼差しを彼に注いでいた。
彼女は机から身を乗り出し、ホワイトボードとエルヴィンの顔を交互に見つめる。
「こんなに難しいことを、私のために調べてくれたんですか? 夜中もずっと、資料とか作ってくれていたんですよね。……なんて親切なんでしょう」
エルヴィンの言葉が、喉の奥で止まった。
彼女の距離が、あまりにも近い。
身を乗り出したせいで、彼女の柔らかな胸元の輪郭が微かに揺れ、甘いシャンプーの香りが一気に彼のパーソナルスペースを侵食してきた。
「ナマエ、さん。私は親切で言っているのではない。これはリスクマネジメントの……」
「いいえ、親切ですよ。だって、ただの隣人の私に、こんなに一生懸命になってくれるなんて。エルヴィンさんって、冷たそうに見えて、本当はすごく情に厚い方なんですね」
ナマエは、疑うことを知らない。
目の前の男が、実は彼女を独占したいという歪な執着心から動いている可能性など、微塵も考えていないのだ。
彼女はあどけない動作で、エルヴィンのシャツの袖をそっと指先で摘まんだ。
「そんなに私のことを心配してくれているんですか?」
真っ直ぐに見つめてくる、潤んだ瞳。
その中には、鏡のようにエルヴィンの動揺した顔が映し出されている。
論理的思考。法的根拠。完璧な勝訴へのシナリオ。
それらすべてが、彼女のありがとうという体温を伴った言葉の前で、砂の城のように崩れ去っていく。
「……あ、当たり前だろう。隣人の危機を見過ごすのは、私の美学に反する」
エルヴィンは顔を背け、拳を口元に当てて咳払いを模した。
耳の端が、隠しきれない熱を持って赤く染まっている。
彼は、百戦錬磨の交渉人だ。どんなに卑劣な相手でも、表情ひとつ変えずに追い詰めることができる。
それなのに、目の前の小さな女性が放つ無自覚な好意という名の猛毒に対して、彼はあまりにも無防備だった。
「エルヴィンさん? 顔、赤いですよ。やっぱり、無理して夜更かししちゃったからじゃ……」
「……いや、何でもない。いいから、今すぐその業者への振込は中止するんだ。いいな?」
「はい! エルヴィンさんがそう言うなら、絶対そうします」
ナマエは満面の笑みで頷いた。
その素直さに、エルヴィンは敗北感にも似た、甘く痺れるような心地よさを感じていた。
足元では、レオがそんな二人を眺めながら、満足そうに欠伸をひとつした。
策士・エルヴィンの計画は、第一段階の「詐欺の阻止」には成功したものの、第二段階の「冷徹な保護者としての君臨」には、早くも暗雲が立ち込めていた。
(……この女性は、危険だ)
彼は心の中で、自分自身への警告を発する。
(これほどまでに私のペースを乱す存在を、放置しておくわけにはいかない。……もっと近くで、二十四時間体制で監視する必要があるな)
その監視という言葉が、いつの間にか一緒にいたいという切実な願いにすり替わっていることに、彼はまだ、気づかない振りをしていた。
週末の午後。空はどこまでも高く、透き通るような秋の気配を運んでいた。
エルヴィン・スミスは自室のベランダに立ち、隣のベランダを凝視していた。彼の視線の先にあるのは、日向ぼっこをしている大きな毛の塊——レオと、その傍らに転がっている、ヨレヨレになったライオンのぬいぐるみだ。
エルヴィンは手にした長いマジックハンド(本来は高い所の資料を取るためのものだ)を、音もなく隣の境界線へと伸ばした。
エリート弁護士として、住居侵入や窃盗の定義は誰よりも熟知している。だが、これは回収でも奪取でもない。後の円滑なコミュニケーションのための先行投資である。
「……よし」
彼は器用にぬいぐるみの尻尾を掴むと、それを自分のベランダへと引き寄せた。
そして、わざとらしく風に煽られたふりをして、そのぬいぐるみを自分のリビングの奥へと放り込む。
「さて。状況証拠は整った」
彼は一度深呼吸をし、表情を「親切な隣人」へと整えた。
数分後、彼は隣の家のインターホンを鳴らしていた。
「はい、どなたですか?」
「私だ、エルヴィンだ。ナマエさん、少し困ったことがあってね」
扉が開くと、そこには少し眠たげな、しかし潤んだ瞳をしたナマエが立っていた。
ゆるく編まれた髪から数筋の毛がこぼれ、彼女の柔らかな鎖骨を撫でている。その無防備な姿に、エルヴィンの心臓が微かに速度を上げた。
「エルヴィンさん? どうしたんですか、困ったことって」
「ああ……実は、隣から私のベランダへ、レオくんのものらしき玩具が飛んできてしまってね。そのまま室内に転がり込んでしまったんだが、汚れを確認してほしい。中へ入って、彼に確認させてくれないだろうか?」
「えっ! レオ、また飛ばしちゃったの? すみません、わざわざ……。どうぞ、入ってください!」
ナマエは疑うこともなく、彼を自分の聖域へと招き入れた。
一歩足を踏み入れると、そこはエルヴィンの無機質な部屋とは対照的な、温かさに満ちた空間だった。
柔らかなバニラの香りと、レオのシャンプーの匂い。所々に置かれた丸みのあるクッションや、彼女の生活の断片。エルヴィンは、その「生活の体温」に眩暈を覚える。
「ワンッ!」
レオが狂喜乱舞して駆け寄ってくる。エルヴィンは、持参した(自分で引き寄せた)ライオンのぬいぐるみを差し出した。
「これだよ、レオくん。次は気を付けるんだ」
「わあ、よかった。これがないとレオ、夜眠れないんです。エルヴィンさん、本当にありがとうございます」
ナマエはレオの頭を撫でながら、エルヴィンを見上げた。
エルヴィンはレオの大きな体をなだめるように、その黄金色の背中を大きな掌でゆっくりと撫でる。レオはうっとりと目を細め、エルヴィンの膝に顎を乗せた。
「……レオ、あなたにすごく懐いていますね。私以外の前でこんなに大人しくなるなんて、珍しいです」
「そうかな。彼は賢い。誰が自分を大切に思っているか、理解しているのだろう」
エルヴィンの言葉は半分がレオへ、もう半分はナマエへ向けられたものだった。
ナマエは、レオとエルヴィンが並んでいる姿をじっと見つめ、不意にクスクスと笑い声を漏らした。
「どうかしたかな?」
「ふふ、ごめんなさい。なんだか……エルヴィンさんが、レオの本当のお父さんみたいだなって思って。二人とも、大きくて、頼もしくて、ちょっとだけ雰囲気が似ています」
お父さん。
その言葉が、エルヴィンの理性を激しく揺さぶった。
彼が求めているのは、もちろん親子のような情愛ではない。だが、彼女の中に「自分とレオ、そして彼女」という擬似的な家族の輪郭が浮かんだという事実は、彼にとって最高の結果だった。
(……勝利だ)
彼は内心で、法廷で完全勝訴を勝ち取った時以上の、熱いガッツポーズを決めていた。
「光栄だな。彼のような素直な息子の父親になれるなら、悪い気はしない」
「……えへへ、そう言ってもらえるとレオも嬉しいよね。あ、そうだ! エルヴィンさん、もしよかったら連絡先を教えてくれませんか?」
ナマエが、おずおずとスマートフォンを取り出す。
エルヴィンは、獲物が自ら罠に飛び込んできたのを確信し、内心の歓喜を押し殺して冷静を装った。
「連絡先? 何かあったのかな」
「レオがまたご迷惑をかけちゃうかもしれないし……それに、可愛い写真が撮れたら、エルヴィンさんにも見てほしいなって。お父さんですから!」
「なるほど、リスク管理の観点からも、迅速な連絡手段の確保は合理的だ。交換しよう」
彼は淀みなく自分のQRコードを表示させた。
その日の夜から、エルヴィンのスマートフォンには、ナマエから「今日のご飯を待つレオ」や「お散歩中のレオ」の写真が届くようになった。
『エルヴィンさん、今日もお疲れ様です! レオが窓の外を見て、エルヴィンさんが帰ってこないかなって待っていました(笑)』
添えられたメッセージに、エルヴィンは暗い書斎でひとり、口角を深く引き上げた。
彼女は完全に、自分を「犬の話ができる優しいお隣さん」として分類している。
だが、それでいい。
まずは生活の一部に入り込み、不可欠な存在になること。
策士は、一歩ずつ、着実に。
彼女という城の、最も深い場所へと続く階段を上り始めていた。
「まずは『レオの父』か。……次は、『君の夫』という役職を法的に確定させるまでだ」
深夜の静寂の中、送信ボタンを押す彼の指先は、獲物を狙う鷹のように鋭く、しかし愛おしむように優しかった。
ミョウジナマエの家のインターホンが鳴らされた。
「はーい! レオ、ちょっと待っててね」
パジャマの上に慌ててカーディガンを羽織り、ナマエが重い玄関の扉を開ける。そこに立っていたのは、いつもの穏やかな「隣人のエルヴィンさん」ではなかった。
寸分の狂いもなくプレスされたスラックスに、腕まくりをしたシャツ姿。そして何より、その腕には折り畳み式の小さなホワイトボードと、資料が詰まった厚いファイルが抱えられていた。
「おはよう、ナマエさん。突然済まないが、非常に緊急を要する案件がある」
エルヴィンの声は、まるで法廷で開廷を告げる裁判長のように厳かで、低く響いた。
その気迫に押され、ナマエはパチパチと瞬きを繰り返す。
「エルヴィンさん……? あの、緊急って、火事とかですか?」
「いや、それよりも恐ろしい事態だ。君の資産と未来が、今まさに掠め取られようとしている」
エルヴィンはナマエの返事を待たず、しかし紳士的な足取りでリビングへと踏み込んだ。
「失礼する」という短い断りとともに、彼は迷いなくダイニングテーブルの椅子を引き、持参したホワイトボードを設置する。
足元では、黄金色の毛並みを揺らしたレオが「遊び相手が来た!」とばかりに尻尾を激しく床に打ち付けていたが、今のエルヴィンに彼を撫でる余裕はなかった。
「え、ええっと……。エルヴィンさん、コーヒー飲みますか?」
「いや、不要だ。ナマエさん、そこに座りなさい。講義を始める」
戸惑いながらも、ナマエは彼の正面に腰を下ろした。
エルヴィンは迷いのない手つきでホワイトボードにマーカーを走らせる。
「昨日、君が電話で話していた投資案件についてだ。月利二十パーセント、元本保証、海外児童支援……。これらがどれほど論理的に破綻しているか、今から君の脳内に叩き込む」
キュッ、キュッ、と小気味よい音がリビングに響く。
彼は、いかにその配当金が「後の出資者から集めた金を回しているだけ」のポンジ・スキームであるか。そして、法的な登録すらされていない無許可の業者が、どのような言葉巧みな手口で「善意」を利用するかを、立て板に水のごとく解説していく。
「見ての通り、このスキームにおける期待利益の推移は統計学的にもあり得ない。君が振り込もうとしているその口座は、三日後には凍結、あるいは解約されているだろう」
エルヴィンの青い瞳が、眼鏡の奥で鋭く光る。
彼は、ナマエが自分の知性に圧倒され、恐怖し、そして泣きついてくることを予想していた。そうすれば、あとは自分が「代理人」としてすべてを処理し、彼女を完璧に保護するだけだ。
しかし。
「……すごいです、エルヴィンさん」
ナマエは恐怖するどころか、頬をバラ色に染め、尊敬の眼差しを彼に注いでいた。
彼女は机から身を乗り出し、ホワイトボードとエルヴィンの顔を交互に見つめる。
「こんなに難しいことを、私のために調べてくれたんですか? 夜中もずっと、資料とか作ってくれていたんですよね。……なんて親切なんでしょう」
エルヴィンの言葉が、喉の奥で止まった。
彼女の距離が、あまりにも近い。
身を乗り出したせいで、彼女の柔らかな胸元の輪郭が微かに揺れ、甘いシャンプーの香りが一気に彼のパーソナルスペースを侵食してきた。
「ナマエ、さん。私は親切で言っているのではない。これはリスクマネジメントの……」
「いいえ、親切ですよ。だって、ただの隣人の私に、こんなに一生懸命になってくれるなんて。エルヴィンさんって、冷たそうに見えて、本当はすごく情に厚い方なんですね」
ナマエは、疑うことを知らない。
目の前の男が、実は彼女を独占したいという歪な執着心から動いている可能性など、微塵も考えていないのだ。
彼女はあどけない動作で、エルヴィンのシャツの袖をそっと指先で摘まんだ。
「そんなに私のことを心配してくれているんですか?」
真っ直ぐに見つめてくる、潤んだ瞳。
その中には、鏡のようにエルヴィンの動揺した顔が映し出されている。
論理的思考。法的根拠。完璧な勝訴へのシナリオ。
それらすべてが、彼女のありがとうという体温を伴った言葉の前で、砂の城のように崩れ去っていく。
「……あ、当たり前だろう。隣人の危機を見過ごすのは、私の美学に反する」
エルヴィンは顔を背け、拳を口元に当てて咳払いを模した。
耳の端が、隠しきれない熱を持って赤く染まっている。
彼は、百戦錬磨の交渉人だ。どんなに卑劣な相手でも、表情ひとつ変えずに追い詰めることができる。
それなのに、目の前の小さな女性が放つ無自覚な好意という名の猛毒に対して、彼はあまりにも無防備だった。
「エルヴィンさん? 顔、赤いですよ。やっぱり、無理して夜更かししちゃったからじゃ……」
「……いや、何でもない。いいから、今すぐその業者への振込は中止するんだ。いいな?」
「はい! エルヴィンさんがそう言うなら、絶対そうします」
ナマエは満面の笑みで頷いた。
その素直さに、エルヴィンは敗北感にも似た、甘く痺れるような心地よさを感じていた。
足元では、レオがそんな二人を眺めながら、満足そうに欠伸をひとつした。
策士・エルヴィンの計画は、第一段階の「詐欺の阻止」には成功したものの、第二段階の「冷徹な保護者としての君臨」には、早くも暗雲が立ち込めていた。
(……この女性は、危険だ)
彼は心の中で、自分自身への警告を発する。
(これほどまでに私のペースを乱す存在を、放置しておくわけにはいかない。……もっと近くで、二十四時間体制で監視する必要があるな)
その監視という言葉が、いつの間にか一緒にいたいという切実な願いにすり替わっていることに、彼はまだ、気づかない振りをしていた。
週末の午後。空はどこまでも高く、透き通るような秋の気配を運んでいた。
エルヴィン・スミスは自室のベランダに立ち、隣のベランダを凝視していた。彼の視線の先にあるのは、日向ぼっこをしている大きな毛の塊——レオと、その傍らに転がっている、ヨレヨレになったライオンのぬいぐるみだ。
エルヴィンは手にした長いマジックハンド(本来は高い所の資料を取るためのものだ)を、音もなく隣の境界線へと伸ばした。
エリート弁護士として、住居侵入や窃盗の定義は誰よりも熟知している。だが、これは回収でも奪取でもない。後の円滑なコミュニケーションのための先行投資である。
「……よし」
彼は器用にぬいぐるみの尻尾を掴むと、それを自分のベランダへと引き寄せた。
そして、わざとらしく風に煽られたふりをして、そのぬいぐるみを自分のリビングの奥へと放り込む。
「さて。状況証拠は整った」
彼は一度深呼吸をし、表情を「親切な隣人」へと整えた。
数分後、彼は隣の家のインターホンを鳴らしていた。
「はい、どなたですか?」
「私だ、エルヴィンだ。ナマエさん、少し困ったことがあってね」
扉が開くと、そこには少し眠たげな、しかし潤んだ瞳をしたナマエが立っていた。
ゆるく編まれた髪から数筋の毛がこぼれ、彼女の柔らかな鎖骨を撫でている。その無防備な姿に、エルヴィンの心臓が微かに速度を上げた。
「エルヴィンさん? どうしたんですか、困ったことって」
「ああ……実は、隣から私のベランダへ、レオくんのものらしき玩具が飛んできてしまってね。そのまま室内に転がり込んでしまったんだが、汚れを確認してほしい。中へ入って、彼に確認させてくれないだろうか?」
「えっ! レオ、また飛ばしちゃったの? すみません、わざわざ……。どうぞ、入ってください!」
ナマエは疑うこともなく、彼を自分の聖域へと招き入れた。
一歩足を踏み入れると、そこはエルヴィンの無機質な部屋とは対照的な、温かさに満ちた空間だった。
柔らかなバニラの香りと、レオのシャンプーの匂い。所々に置かれた丸みのあるクッションや、彼女の生活の断片。エルヴィンは、その「生活の体温」に眩暈を覚える。
「ワンッ!」
レオが狂喜乱舞して駆け寄ってくる。エルヴィンは、持参した(自分で引き寄せた)ライオンのぬいぐるみを差し出した。
「これだよ、レオくん。次は気を付けるんだ」
「わあ、よかった。これがないとレオ、夜眠れないんです。エルヴィンさん、本当にありがとうございます」
ナマエはレオの頭を撫でながら、エルヴィンを見上げた。
エルヴィンはレオの大きな体をなだめるように、その黄金色の背中を大きな掌でゆっくりと撫でる。レオはうっとりと目を細め、エルヴィンの膝に顎を乗せた。
「……レオ、あなたにすごく懐いていますね。私以外の前でこんなに大人しくなるなんて、珍しいです」
「そうかな。彼は賢い。誰が自分を大切に思っているか、理解しているのだろう」
エルヴィンの言葉は半分がレオへ、もう半分はナマエへ向けられたものだった。
ナマエは、レオとエルヴィンが並んでいる姿をじっと見つめ、不意にクスクスと笑い声を漏らした。
「どうかしたかな?」
「ふふ、ごめんなさい。なんだか……エルヴィンさんが、レオの本当のお父さんみたいだなって思って。二人とも、大きくて、頼もしくて、ちょっとだけ雰囲気が似ています」
お父さん。
その言葉が、エルヴィンの理性を激しく揺さぶった。
彼が求めているのは、もちろん親子のような情愛ではない。だが、彼女の中に「自分とレオ、そして彼女」という擬似的な家族の輪郭が浮かんだという事実は、彼にとって最高の結果だった。
(……勝利だ)
彼は内心で、法廷で完全勝訴を勝ち取った時以上の、熱いガッツポーズを決めていた。
「光栄だな。彼のような素直な息子の父親になれるなら、悪い気はしない」
「……えへへ、そう言ってもらえるとレオも嬉しいよね。あ、そうだ! エルヴィンさん、もしよかったら連絡先を教えてくれませんか?」
ナマエが、おずおずとスマートフォンを取り出す。
エルヴィンは、獲物が自ら罠に飛び込んできたのを確信し、内心の歓喜を押し殺して冷静を装った。
「連絡先? 何かあったのかな」
「レオがまたご迷惑をかけちゃうかもしれないし……それに、可愛い写真が撮れたら、エルヴィンさんにも見てほしいなって。お父さんですから!」
「なるほど、リスク管理の観点からも、迅速な連絡手段の確保は合理的だ。交換しよう」
彼は淀みなく自分のQRコードを表示させた。
その日の夜から、エルヴィンのスマートフォンには、ナマエから「今日のご飯を待つレオ」や「お散歩中のレオ」の写真が届くようになった。
『エルヴィンさん、今日もお疲れ様です! レオが窓の外を見て、エルヴィンさんが帰ってこないかなって待っていました(笑)』
添えられたメッセージに、エルヴィンは暗い書斎でひとり、口角を深く引き上げた。
彼女は完全に、自分を「犬の話ができる優しいお隣さん」として分類している。
だが、それでいい。
まずは生活の一部に入り込み、不可欠な存在になること。
策士は、一歩ずつ、着実に。
彼女という城の、最も深い場所へと続く階段を上り始めていた。
「まずは『レオの父』か。……次は、『君の夫』という役職を法的に確定させるまでだ」
深夜の静寂の中、送信ボタンを押す彼の指先は、獲物を狙う鷹のように鋭く、しかし愛おしむように優しかった。
