隣人は私と愛犬をまるごと独占したい
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都会の朝は、無機質な静寂を切り裂くような喧騒から始まる。
午前六時三十分。まだ完全に昇りきっていない太陽が、高層マンションの隙間から鋭い光を差し込み、冷ややかなアスファルトを白く焼きつけていた。
エルヴィン・スミスは、整えられた金髪に一筋の乱れもなく、仕立ての良いネイビーのスーツに身を包んでエレベーターを降りた。右手には、分別の守られた端正なゴミ袋。左手には、最新の経済ニュースを表示するスマートフォン。彼の日常は、秒単位で管理された合理性と、徹底した自己規律によって構築されている。
「……ふむ、今日は少し風が強いな」
独りごちる声は低く、心地よい響きを伴って空気中に溶けた。
彼が住まうこの高級マンションの一角、ゴミ捨て場へと続く通用口の重い扉を開けた、その時だった。
「わっ、ちょっと待って! レオ、ダメだってば、引っ張らないで……!」
突風と共に飛び込んできたのは、制御不能な「黄金の嵐」だった。
二十キロを優に超えるであろうゴールデンレトリバーのレオが、何かに興奮したのか、凄まじい力で飼い主を牽引している。その先に繋がれた細いリードを必死に握りしめているのは、エルヴィンの隣室に住む女性、ミョウジナマエだ。
彼女の足元は、慌てて突っ掛けてきたのであろう淡いピンクのスリッパ。ふわりとした白いコットンのワンピースに、ざっくりとしたカーディガンを羽織っただけの無防備な姿。手入れの行き届いた柔らかな栗色の髪が、風とレオの勢いに翻弄されて、彼女の白い頬に躍っている。
「あっ、エルヴィンさん! おはようございます!」
レオの力に振り回され、今にも転びそうになりながらも、彼女はエルヴィンの姿を認めると、パッと花が開いたような笑顔を向けた。
その瞳には一点の曇りもなく、朝の光を反射してキラキラと輝いている。
「今日も早いですね。お仕事、お疲れ様です」
その瞬間、エルヴィンの脳内で精密に機能していた論理回路が、パチリと音を立ててショートした。
「……おはよう、ナマエさん。レオくんは、今日も元気だね」
どうにか絞り出した声は、自分でも驚くほど硬かった。
エルヴィン・スミスという男は、大陸を跨ぐ複雑な国際訴訟をいくつも抱え、冷徹なまでの交渉術で相手を追い詰めるエリート外国法事務弁護士だ。常に三手先、十手先を読み、感情という不確定要素を排除して生きてきた。
しかし、目の前でレオに引きずられ、斜め四十五度に傾きながらも「えへへ、ちょっと元気すぎて困っちゃいます」と笑う彼女の、あまりにも無防備で、あまりにも直球な善意に当てられ、彼の鉄壁の理性は音を立てて瓦解していく。
「あ……危ない」
レオがさらに加速し、ナマエの体が前のめりに崩れかけた。
エルヴィンは反射的にゴミ袋を置き、長い腕を伸ばして彼女の肩を支えた。
その瞬間、鼻腔をくすぐったのは、洗いたてのタオルのような清潔な石鹸の香りと、彼女の体温が混じり合った甘い匂い。掌に伝わる、女性特有の柔らかく、折れてしまいそうなほど細い肩の感触。
「……っ」
「わ、すみません! ありがとうございます、エルヴィンさん。助かりました」
ナマエは支えられたまま、至近距離で彼を見上げた。長い睫毛が瞬き、潤んだ瞳が真っ直ぐに彼を射抜く。彼女には、エルヴィンの内心を駆け巡る猛烈な動揺も、彼が今、彼女をこのまま腕の中に閉じ込めたいという衝動に駆られていることも、微塵も伝わっていない。
「いえ……。怪我がなくてよかった。レオくん、落ち着きなさい」
エルヴィンが低い声で窘めると、不思議なことに、あれほど暴れていたレオがピタリと動きを止め、彼を見上げて尻尾を大きく振った。
「すごい……レオ、エルヴィンさんの言うことなら聞くんですね。まるで魔法みたい」
「魔法じゃない。ただ、彼にこちらの意思を明確に伝えただけだ」
そう言いながら、エルヴィンは内心で舌を打った。
(意思を伝えきれていないのは、私の方だ)
一目惚れという現象を、彼はこれまで心理学的な脳の誤作動、あるいは遺伝子レベルの生存戦略の一種だと定義していた。論理的説明がつかない現象など、この世には存在しないと信じていた。
だが、今。
ゴミ捨て場というおよそロマンチックとは程遠い場所で、犬のリードに翻弄される隣人の、朝日に透ける産毛や、少し赤くなった鼻先、そして自分を全肯定してくれるような温かい声に触れ、彼は認めざるを得なかった。
「……ナマエさん」
「はい?」
「いや……。今日も、いい一日になるといいね」
「はい! エルヴィンさんも。いってらっしゃい!」
ぶんぶんと手を振ってレオと共に去っていく彼女の背中を、エルヴィンは立ち尽くしたまま見送った。
左手の中に残る、彼女の肩の感触が熱い。
彼はゆっくりと眼鏡を外し、眉間を指で押さえた。
エリート弁護士の鋭い知性が、今、ひとつの冷徹な結論を導き出している。
(……これは、非常にまずい。彼女のあの無防備さは、悪意に満ちたこの世界では致命的だ。私が、管理しなければならない。法的にも、物理的にも、そして……)
彼の青い瞳に、狩人のような、あるいは慈愛に満ちた守護者のような、複雑で濃厚な光が宿った。
「まずは、彼女の周囲の安全確認から始めるか」
ゴミ捨て場に一人残された男は、誰に聞かせるでもなくそう呟いた。
それが、彼という名の巨大な策士が、一人の女性を「包囲」し始める宣戦布告であったことに、ナマエが気づくのはまだ先の話である。
夜の帳が下り、都会の喧騒が湿り気を帯びた静寂へと変わる頃。
エルヴィン・スミスは、自室のベランダへと足を踏み出した。
日中の完璧なスリーピース・スーツは脱ぎ捨てられ、今は上質なチャコールグレーのルームウェアを纏っている。ボタンを二つほど外した胸元からは、鍛え上げられた胸板が覗き、仕事モードの彼とは異なる、どこか野性的な色香を漂わせていた。
「……ふう」
愛用のシガリロを指に挟み、火を灯す。
細く立ち上る煙が、夜風に吹かれて紫煙の曲線を描いた。エルヴィンにとって、この時間は思考の整理に欠かせない儀式だ。
今日、法廷で論破した狡猾な企業弁護士の顔を思い浮かべようとした、その時だった。
隣のベランダから、カラリと窓が開く音がした。
「……あ、もしもし! 夜分にすみません。はい、ミョウジです」
パーテーション越しに聞こえてきたのは、朝の太陽をそのまま溶かしたような、ナマエの声だった。
エルヴィンは反射的に煙を吐き出すのをやめ、気配を殺した。盗み聞きをする趣味はないが、彼女の無防備な声は、壁一枚、仕切り一枚を軽々と越えて彼の鼓膜を震わせる。
「ええ……。その投資のお話、すごく素敵だなって思って。私のようなOLの貯金でも、海外の恵まれない子供たちの支援になるんですよね?」
エルヴィンの眉が、微かに、しかし鋭く跳ね上がった。
『投資』、『海外』、『支援』。
彼がこれまでのキャリアで、腐るほど見てきた「甘い罠」のキーワードが並ぶ。
「月利で二十パーセントも……? そんなに増えるんですか。すごいですね。あの、私、難しいことはよくわからないんですけど、あなたが『絶対大丈夫』って言ってくれるなら、信じてみたいです」
エルヴィンの指先で、シガリロの灰が音もなく落ちた。
彼の脳内にある膨大な法的データベースが、瞬時に警告音を鳴らす。
月利二十パーセント。年利に直せば二百四十パーセント。出資法はおろか、経済の基礎原則すら無視した、救いようのないポンジ・スキーム。あるいは、ロマンス詐欺の一種。
「はい。明日、指定の口座に……。ええ、頑張って貯めた大切なお金ですけど、誰かの役に立つなら嬉しいです。……ふふ、ありがとうございます。優しいですね」
ナマエの声は、どこまでも澄んでいた。
疑うという機能が、彼女の脳には備わっていないのだろうか。
「悪い人じゃないと思うんです」という彼女の口癖が、今にも聞こえてきそうなほど、その相槌は純真で、危うい。
(……愚かな。あまりにも、愚かだ)
エルヴィンは心の中で毒づく。だが、その怒りは彼女に向けられたものではなかった。
そのピュアな善意を、泥靴で踏みにじろうとしている見知らぬ「自称・投資家」に対する、氷のような殺意だ。
そして、それ以上に彼を突き動かしたのは、強烈なまでの独占欲を伴った保護本能だった。
この女性は、放っておけば、その清らかな心も、こつこつと積み上げてきた資産も、すべてを奪われてしまう。
彼女の持つ光が、どす黒い悪意に飲み込まれていくのを、黙って見過ごすことなどできるはずがない。
「……っ、ハハ」
自嘲気味な笑いが漏れた。
自分はいつから、隣人の資産管理まで引き受ける守護騎士(ナイト)を自認するようになったのか。
だが、一度火がついた彼の執着は、もう誰にも止められない。
「はい。では、また明日。失礼します」
ナマエが通話を終え、幸せそうなため息をつく気配がした。
レオが「ワン!」と短く吠え、彼女が「レオ、明日から豪華なご飯にできるかもしれないよ」と笑いかける。
エルヴィンはシガリロを灰皿に押し付け、火を消した。
その瞳は、獲物を追い詰める冷徹な法律家のものであり、同時に、大切な宝物を隠し通そうとする略奪者のそれであった。
「月利二十パーセント……。その法的根拠を、完膚なきまでに叩き潰してやる必要があるな」
彼は部屋に戻り、書斎のデスクに向かった。
開いたノートPCの明かりが、彼の冷徹な美貌を青白く照らし出す。
まずは、彼女が話していた「投資案件」の特定。そして、その背後にいる組織の洗い出し。
エリート弁護士の本気が、一人の天然OLを守るために、国家レベルの案件と同等の熱量で稼働し始めた。
(ナマエ……。君はただ、その無垢な笑顔を浮かべていればいい)
彼が導き出した最適解は、ひとつ。
彼女の周囲に蠢くすべての悪意を排除し、彼女の人生という領域を、自分という完璧な障壁で囲ってしまうこと。
「明日の朝、まずは彼女の玄関を叩くところから始めよう」
エルヴィンは低く呟き、満足げに口角を上げた。
翌日の朝、ナマエが目にするのは、いつもの親切な隣人ではない。
彼女を救うためなら、手段を選ばない執念深い救済者の姿だ。
夜風が、彼女の部屋から漏れ聞こえるレオの足音を運んでくる。
その平和な音を守るためなら、彼は悪魔にさえなれるだろう。
午前六時三十分。まだ完全に昇りきっていない太陽が、高層マンションの隙間から鋭い光を差し込み、冷ややかなアスファルトを白く焼きつけていた。
エルヴィン・スミスは、整えられた金髪に一筋の乱れもなく、仕立ての良いネイビーのスーツに身を包んでエレベーターを降りた。右手には、分別の守られた端正なゴミ袋。左手には、最新の経済ニュースを表示するスマートフォン。彼の日常は、秒単位で管理された合理性と、徹底した自己規律によって構築されている。
「……ふむ、今日は少し風が強いな」
独りごちる声は低く、心地よい響きを伴って空気中に溶けた。
彼が住まうこの高級マンションの一角、ゴミ捨て場へと続く通用口の重い扉を開けた、その時だった。
「わっ、ちょっと待って! レオ、ダメだってば、引っ張らないで……!」
突風と共に飛び込んできたのは、制御不能な「黄金の嵐」だった。
二十キロを優に超えるであろうゴールデンレトリバーのレオが、何かに興奮したのか、凄まじい力で飼い主を牽引している。その先に繋がれた細いリードを必死に握りしめているのは、エルヴィンの隣室に住む女性、ミョウジナマエだ。
彼女の足元は、慌てて突っ掛けてきたのであろう淡いピンクのスリッパ。ふわりとした白いコットンのワンピースに、ざっくりとしたカーディガンを羽織っただけの無防備な姿。手入れの行き届いた柔らかな栗色の髪が、風とレオの勢いに翻弄されて、彼女の白い頬に躍っている。
「あっ、エルヴィンさん! おはようございます!」
レオの力に振り回され、今にも転びそうになりながらも、彼女はエルヴィンの姿を認めると、パッと花が開いたような笑顔を向けた。
その瞳には一点の曇りもなく、朝の光を反射してキラキラと輝いている。
「今日も早いですね。お仕事、お疲れ様です」
その瞬間、エルヴィンの脳内で精密に機能していた論理回路が、パチリと音を立ててショートした。
「……おはよう、ナマエさん。レオくんは、今日も元気だね」
どうにか絞り出した声は、自分でも驚くほど硬かった。
エルヴィン・スミスという男は、大陸を跨ぐ複雑な国際訴訟をいくつも抱え、冷徹なまでの交渉術で相手を追い詰めるエリート外国法事務弁護士だ。常に三手先、十手先を読み、感情という不確定要素を排除して生きてきた。
しかし、目の前でレオに引きずられ、斜め四十五度に傾きながらも「えへへ、ちょっと元気すぎて困っちゃいます」と笑う彼女の、あまりにも無防備で、あまりにも直球な善意に当てられ、彼の鉄壁の理性は音を立てて瓦解していく。
「あ……危ない」
レオがさらに加速し、ナマエの体が前のめりに崩れかけた。
エルヴィンは反射的にゴミ袋を置き、長い腕を伸ばして彼女の肩を支えた。
その瞬間、鼻腔をくすぐったのは、洗いたてのタオルのような清潔な石鹸の香りと、彼女の体温が混じり合った甘い匂い。掌に伝わる、女性特有の柔らかく、折れてしまいそうなほど細い肩の感触。
「……っ」
「わ、すみません! ありがとうございます、エルヴィンさん。助かりました」
ナマエは支えられたまま、至近距離で彼を見上げた。長い睫毛が瞬き、潤んだ瞳が真っ直ぐに彼を射抜く。彼女には、エルヴィンの内心を駆け巡る猛烈な動揺も、彼が今、彼女をこのまま腕の中に閉じ込めたいという衝動に駆られていることも、微塵も伝わっていない。
「いえ……。怪我がなくてよかった。レオくん、落ち着きなさい」
エルヴィンが低い声で窘めると、不思議なことに、あれほど暴れていたレオがピタリと動きを止め、彼を見上げて尻尾を大きく振った。
「すごい……レオ、エルヴィンさんの言うことなら聞くんですね。まるで魔法みたい」
「魔法じゃない。ただ、彼にこちらの意思を明確に伝えただけだ」
そう言いながら、エルヴィンは内心で舌を打った。
(意思を伝えきれていないのは、私の方だ)
一目惚れという現象を、彼はこれまで心理学的な脳の誤作動、あるいは遺伝子レベルの生存戦略の一種だと定義していた。論理的説明がつかない現象など、この世には存在しないと信じていた。
だが、今。
ゴミ捨て場というおよそロマンチックとは程遠い場所で、犬のリードに翻弄される隣人の、朝日に透ける産毛や、少し赤くなった鼻先、そして自分を全肯定してくれるような温かい声に触れ、彼は認めざるを得なかった。
「……ナマエさん」
「はい?」
「いや……。今日も、いい一日になるといいね」
「はい! エルヴィンさんも。いってらっしゃい!」
ぶんぶんと手を振ってレオと共に去っていく彼女の背中を、エルヴィンは立ち尽くしたまま見送った。
左手の中に残る、彼女の肩の感触が熱い。
彼はゆっくりと眼鏡を外し、眉間を指で押さえた。
エリート弁護士の鋭い知性が、今、ひとつの冷徹な結論を導き出している。
(……これは、非常にまずい。彼女のあの無防備さは、悪意に満ちたこの世界では致命的だ。私が、管理しなければならない。法的にも、物理的にも、そして……)
彼の青い瞳に、狩人のような、あるいは慈愛に満ちた守護者のような、複雑で濃厚な光が宿った。
「まずは、彼女の周囲の安全確認から始めるか」
ゴミ捨て場に一人残された男は、誰に聞かせるでもなくそう呟いた。
それが、彼という名の巨大な策士が、一人の女性を「包囲」し始める宣戦布告であったことに、ナマエが気づくのはまだ先の話である。
夜の帳が下り、都会の喧騒が湿り気を帯びた静寂へと変わる頃。
エルヴィン・スミスは、自室のベランダへと足を踏み出した。
日中の完璧なスリーピース・スーツは脱ぎ捨てられ、今は上質なチャコールグレーのルームウェアを纏っている。ボタンを二つほど外した胸元からは、鍛え上げられた胸板が覗き、仕事モードの彼とは異なる、どこか野性的な色香を漂わせていた。
「……ふう」
愛用のシガリロを指に挟み、火を灯す。
細く立ち上る煙が、夜風に吹かれて紫煙の曲線を描いた。エルヴィンにとって、この時間は思考の整理に欠かせない儀式だ。
今日、法廷で論破した狡猾な企業弁護士の顔を思い浮かべようとした、その時だった。
隣のベランダから、カラリと窓が開く音がした。
「……あ、もしもし! 夜分にすみません。はい、ミョウジです」
パーテーション越しに聞こえてきたのは、朝の太陽をそのまま溶かしたような、ナマエの声だった。
エルヴィンは反射的に煙を吐き出すのをやめ、気配を殺した。盗み聞きをする趣味はないが、彼女の無防備な声は、壁一枚、仕切り一枚を軽々と越えて彼の鼓膜を震わせる。
「ええ……。その投資のお話、すごく素敵だなって思って。私のようなOLの貯金でも、海外の恵まれない子供たちの支援になるんですよね?」
エルヴィンの眉が、微かに、しかし鋭く跳ね上がった。
『投資』、『海外』、『支援』。
彼がこれまでのキャリアで、腐るほど見てきた「甘い罠」のキーワードが並ぶ。
「月利で二十パーセントも……? そんなに増えるんですか。すごいですね。あの、私、難しいことはよくわからないんですけど、あなたが『絶対大丈夫』って言ってくれるなら、信じてみたいです」
エルヴィンの指先で、シガリロの灰が音もなく落ちた。
彼の脳内にある膨大な法的データベースが、瞬時に警告音を鳴らす。
月利二十パーセント。年利に直せば二百四十パーセント。出資法はおろか、経済の基礎原則すら無視した、救いようのないポンジ・スキーム。あるいは、ロマンス詐欺の一種。
「はい。明日、指定の口座に……。ええ、頑張って貯めた大切なお金ですけど、誰かの役に立つなら嬉しいです。……ふふ、ありがとうございます。優しいですね」
ナマエの声は、どこまでも澄んでいた。
疑うという機能が、彼女の脳には備わっていないのだろうか。
「悪い人じゃないと思うんです」という彼女の口癖が、今にも聞こえてきそうなほど、その相槌は純真で、危うい。
(……愚かな。あまりにも、愚かだ)
エルヴィンは心の中で毒づく。だが、その怒りは彼女に向けられたものではなかった。
そのピュアな善意を、泥靴で踏みにじろうとしている見知らぬ「自称・投資家」に対する、氷のような殺意だ。
そして、それ以上に彼を突き動かしたのは、強烈なまでの独占欲を伴った保護本能だった。
この女性は、放っておけば、その清らかな心も、こつこつと積み上げてきた資産も、すべてを奪われてしまう。
彼女の持つ光が、どす黒い悪意に飲み込まれていくのを、黙って見過ごすことなどできるはずがない。
「……っ、ハハ」
自嘲気味な笑いが漏れた。
自分はいつから、隣人の資産管理まで引き受ける守護騎士(ナイト)を自認するようになったのか。
だが、一度火がついた彼の執着は、もう誰にも止められない。
「はい。では、また明日。失礼します」
ナマエが通話を終え、幸せそうなため息をつく気配がした。
レオが「ワン!」と短く吠え、彼女が「レオ、明日から豪華なご飯にできるかもしれないよ」と笑いかける。
エルヴィンはシガリロを灰皿に押し付け、火を消した。
その瞳は、獲物を追い詰める冷徹な法律家のものであり、同時に、大切な宝物を隠し通そうとする略奪者のそれであった。
「月利二十パーセント……。その法的根拠を、完膚なきまでに叩き潰してやる必要があるな」
彼は部屋に戻り、書斎のデスクに向かった。
開いたノートPCの明かりが、彼の冷徹な美貌を青白く照らし出す。
まずは、彼女が話していた「投資案件」の特定。そして、その背後にいる組織の洗い出し。
エリート弁護士の本気が、一人の天然OLを守るために、国家レベルの案件と同等の熱量で稼働し始めた。
(ナマエ……。君はただ、その無垢な笑顔を浮かべていればいい)
彼が導き出した最適解は、ひとつ。
彼女の周囲に蠢くすべての悪意を排除し、彼女の人生という領域を、自分という完璧な障壁で囲ってしまうこと。
「明日の朝、まずは彼女の玄関を叩くところから始めよう」
エルヴィンは低く呟き、満足げに口角を上げた。
翌日の朝、ナマエが目にするのは、いつもの親切な隣人ではない。
彼女を救うためなら、手段を選ばない執念深い救済者の姿だ。
夜風が、彼女の部屋から漏れ聞こえるレオの足音を運んでくる。
その平和な音を守るためなら、彼は悪魔にさえなれるだろう。
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