推しの心臓、我が家の1LDKにあり
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鏡の中に立つ男は、一瞬、自分をかつての「王都」へ向かう議事堂の前にいるのだと錯覚した。
体に馴染む上質なチャコールグレーのスーツ。糊のきいた白いシャツの襟元には、ナマエが選んだ深いボルドーのネクタイが、寸分の狂いもなく結ばれている。かつての軍服のような重厚さはないが、現代の鎧もまた、彼の強靭な体躯を鮮やかに引き立てていた。
「……似合っているよ。少し、眩しすぎるくらい」
背後から声をかけたナマエの声が、わずかに震えている。彼女の瞳には、見慣れたはずの同居人への親愛と、それ以上に、かつて壁の中で人類の命運を担っていた「英雄」への畏怖が混じり合っていた。
「そうか。……窮屈だが、悪くない。戦場へ向かう前の、あの独特の静寂を思い出す」
エルヴィンはカフスボタンを留め、碧い瞳を鏡の中の自分に据えた。 今日、彼はミョウジナマエのコネクション――特別外部顧問という名目で、彼女の勤める戦略コンサルティングファームの門を叩く。戸籍や経歴の不備は、ナマエの根回しと、葵が用意した「海外の特殊な教育機関出身」という隠れ蓑で、危ういバランスを保ちながら成立させていた。
「行こう、ナマエ。君が守り続けてきたこの世界の“仕組み”を、私に見せてくれ」
オフィスは、無機質な空調の音と、絶え間ないタイピング音が支配する「情報の戦場」だった。 エルヴィンはその中にあって、一際異彩を放っていた。彼が廊下を歩くだけで、雑談をしていた若手社員たちが言葉を失い、海を割るように道が開く。
その日の午後、エルヴィンは初めて重要なクライアントとの会議に出席した。 相手は創業100年を超える老舗の製造メーカー。業績は右肩下がりで、社内政治は泥沼化し、これまでに提出されたどの提案書も「正論だが、現場が動かない」という理由で棚上げにされてきた。
会議室の空気は、湿った重苦しさに満ちていた。
「……要するに、現実的じゃないんですよ」
クライアント側の常務が、吐き捨てるように言った。
「現場の人間は新しいシステムなんて望んでいない。今のままでも、何とか回っているんだ」
ナマエの上司が、苦い顔で言葉を探す。提示されたデータも、分析された市場動向も、この場を支配する停滞という名の怪物には届かない。
その時だった。 ずっと末席で黙って資料を読んでいたエルヴィンが、静かに顔を上げた。 彼は背筋を伸ばし、わずかに眉間に皺を寄せて、ホワイトボードの前へと歩み出た。
「――前提が、一つ間違っている」
低く、けれど部屋の隅々まで染み渡るような声。 全員の視線が、磁石に吸い寄せられるように彼に集まった。
「前提、とは?」
上司が戸惑いながら問う。エルヴィンは迷いのない手つきでマーカーを取り、ホワイトボードに一つの円を描いた。
「この会社は“変わりたくない”のではない。“変わることが怖い”だけだ」
会議室が、しんと静まり返る。
「恐怖の正体は、失敗ではない。責任の所在が不明確なことだ。かつて私のいた組織でも、未知の領域へ進む際、兵士たちが最も恐れたのは死そのものではなく、自分の死が無意味になることだった」
エルヴィンの言葉には、現代のビジネス用語にはない、血の通った重みがあった。
「だから現場は動かない。ならば――責任を背負う構造を、先に作る。リーダーが最初に泥を被り、その背中を見せることでしか、人は恐怖を克服できない」
彼は流麗な図解を描きながら続ける。
「戦略とは、数字の話ではない。人間が“進める”かどうかの話だ。……君たちは、この会社の100年後の景色を信じているか? もし信じていないのなら、どんな精緻な計画もただの紙屑に過ぎない」
誰かが、息を呑む音が聞こえた。常務の、強張っていた肩の力がふっと抜ける。ナマエは、その光景を呆然と見つめていた。
(……あ、これ。団長だ)
かつて、絶望の淵に立たされた兵士たちの心を、たった一言で燃え上がらせたあのカリスマ。 彼が語っているのは経営戦略だ。けれどその本質は、かつて壁の中で叫び続けてきた「人類の進撃」そのものだった。
会議が終わった後、廊下で上司が小声でナマエに詰め寄った。
「……なあ、ミョウジ。あのエルヴィンって人、本当にただの教育機関出身か? 何者なんだ?」
ナマエは苦笑して、けれどほんの少しだけ誇らしそうに答えた。
「……世界を変えた人です。これ以上は、企業秘密ということで」
その日の夜。
1LDKのキッチンで、二人は並んで晩ごはんの支度をしていた。 エルヴィンは窮屈だったであろうネクタイを外し、シャツの袖を捲り上げている。
「……今日は、どうだった?」
ナマエが煮物の鍋を見つめながら尋ねると、エルヴィンはふっと視線を落とした。
「……久しぶりに、“生きている”と感じたよ。自分の言葉が、他人の魂に届くあの感覚……。やはり私は、戦場(ここ)でしか呼吸ができないのかもしれない」
彼は自嘲気味に微笑み、それから、まな板の上の野菜を刻む手を止めた。
「だがな、ナマエ」 彼はネギを刻む手を止め、ナマエの方を向き直った。碧い瞳が、キッチンの柔らかな電球の光を受けて、穏やかに、けれどどこか切なげに揺れている。
「今日は誰も、死ななかった」
その言葉の重みに、ナマエの胸が締め付けられる。 かつての彼は、勝利を掴むたびに、それと同等、あるいはそれ以上の「犠牲」を払ってきた。 彼の言葉で誰かが動き、結果が出る。その先に「死」が待っていないという事実が、彼にとってどれほど救いであり、同時に戸惑いであるか。
「……おかえり、エルヴィン」
ナマエは、彼の手から包丁をそっと取り、その大きな体を受け止めるように抱きしめた。 エルヴィンは一瞬だけ目を見開いた後、彼女の肩に顔を埋め、深く、深く息を吐き出した。
「ああ。……ただいま、ナマエ」
戦場を終えた男が、初めて手にした「誰も死なない勝利」の味。 それは、どんな豪華な晩餐よりも優しく、彼の中に残る古傷を癒していくようだった。 キッチンの外では、今日も変わらず夜の街が静かに息づいていた。
体に馴染む上質なチャコールグレーのスーツ。糊のきいた白いシャツの襟元には、ナマエが選んだ深いボルドーのネクタイが、寸分の狂いもなく結ばれている。かつての軍服のような重厚さはないが、現代の鎧もまた、彼の強靭な体躯を鮮やかに引き立てていた。
「……似合っているよ。少し、眩しすぎるくらい」
背後から声をかけたナマエの声が、わずかに震えている。彼女の瞳には、見慣れたはずの同居人への親愛と、それ以上に、かつて壁の中で人類の命運を担っていた「英雄」への畏怖が混じり合っていた。
「そうか。……窮屈だが、悪くない。戦場へ向かう前の、あの独特の静寂を思い出す」
エルヴィンはカフスボタンを留め、碧い瞳を鏡の中の自分に据えた。 今日、彼はミョウジナマエのコネクション――特別外部顧問という名目で、彼女の勤める戦略コンサルティングファームの門を叩く。戸籍や経歴の不備は、ナマエの根回しと、葵が用意した「海外の特殊な教育機関出身」という隠れ蓑で、危ういバランスを保ちながら成立させていた。
「行こう、ナマエ。君が守り続けてきたこの世界の“仕組み”を、私に見せてくれ」
オフィスは、無機質な空調の音と、絶え間ないタイピング音が支配する「情報の戦場」だった。 エルヴィンはその中にあって、一際異彩を放っていた。彼が廊下を歩くだけで、雑談をしていた若手社員たちが言葉を失い、海を割るように道が開く。
その日の午後、エルヴィンは初めて重要なクライアントとの会議に出席した。 相手は創業100年を超える老舗の製造メーカー。業績は右肩下がりで、社内政治は泥沼化し、これまでに提出されたどの提案書も「正論だが、現場が動かない」という理由で棚上げにされてきた。
会議室の空気は、湿った重苦しさに満ちていた。
「……要するに、現実的じゃないんですよ」
クライアント側の常務が、吐き捨てるように言った。
「現場の人間は新しいシステムなんて望んでいない。今のままでも、何とか回っているんだ」
ナマエの上司が、苦い顔で言葉を探す。提示されたデータも、分析された市場動向も、この場を支配する停滞という名の怪物には届かない。
その時だった。 ずっと末席で黙って資料を読んでいたエルヴィンが、静かに顔を上げた。 彼は背筋を伸ばし、わずかに眉間に皺を寄せて、ホワイトボードの前へと歩み出た。
「――前提が、一つ間違っている」
低く、けれど部屋の隅々まで染み渡るような声。 全員の視線が、磁石に吸い寄せられるように彼に集まった。
「前提、とは?」
上司が戸惑いながら問う。エルヴィンは迷いのない手つきでマーカーを取り、ホワイトボードに一つの円を描いた。
「この会社は“変わりたくない”のではない。“変わることが怖い”だけだ」
会議室が、しんと静まり返る。
「恐怖の正体は、失敗ではない。責任の所在が不明確なことだ。かつて私のいた組織でも、未知の領域へ進む際、兵士たちが最も恐れたのは死そのものではなく、自分の死が無意味になることだった」
エルヴィンの言葉には、現代のビジネス用語にはない、血の通った重みがあった。
「だから現場は動かない。ならば――責任を背負う構造を、先に作る。リーダーが最初に泥を被り、その背中を見せることでしか、人は恐怖を克服できない」
彼は流麗な図解を描きながら続ける。
「戦略とは、数字の話ではない。人間が“進める”かどうかの話だ。……君たちは、この会社の100年後の景色を信じているか? もし信じていないのなら、どんな精緻な計画もただの紙屑に過ぎない」
誰かが、息を呑む音が聞こえた。常務の、強張っていた肩の力がふっと抜ける。ナマエは、その光景を呆然と見つめていた。
(……あ、これ。団長だ)
かつて、絶望の淵に立たされた兵士たちの心を、たった一言で燃え上がらせたあのカリスマ。 彼が語っているのは経営戦略だ。けれどその本質は、かつて壁の中で叫び続けてきた「人類の進撃」そのものだった。
会議が終わった後、廊下で上司が小声でナマエに詰め寄った。
「……なあ、ミョウジ。あのエルヴィンって人、本当にただの教育機関出身か? 何者なんだ?」
ナマエは苦笑して、けれどほんの少しだけ誇らしそうに答えた。
「……世界を変えた人です。これ以上は、企業秘密ということで」
その日の夜。
1LDKのキッチンで、二人は並んで晩ごはんの支度をしていた。 エルヴィンは窮屈だったであろうネクタイを外し、シャツの袖を捲り上げている。
「……今日は、どうだった?」
ナマエが煮物の鍋を見つめながら尋ねると、エルヴィンはふっと視線を落とした。
「……久しぶりに、“生きている”と感じたよ。自分の言葉が、他人の魂に届くあの感覚……。やはり私は、戦場(ここ)でしか呼吸ができないのかもしれない」
彼は自嘲気味に微笑み、それから、まな板の上の野菜を刻む手を止めた。
「だがな、ナマエ」 彼はネギを刻む手を止め、ナマエの方を向き直った。碧い瞳が、キッチンの柔らかな電球の光を受けて、穏やかに、けれどどこか切なげに揺れている。
「今日は誰も、死ななかった」
その言葉の重みに、ナマエの胸が締め付けられる。 かつての彼は、勝利を掴むたびに、それと同等、あるいはそれ以上の「犠牲」を払ってきた。 彼の言葉で誰かが動き、結果が出る。その先に「死」が待っていないという事実が、彼にとってどれほど救いであり、同時に戸惑いであるか。
「……おかえり、エルヴィン」
ナマエは、彼の手から包丁をそっと取り、その大きな体を受け止めるように抱きしめた。 エルヴィンは一瞬だけ目を見開いた後、彼女の肩に顔を埋め、深く、深く息を吐き出した。
「ああ。……ただいま、ナマエ」
戦場を終えた男が、初めて手にした「誰も死なない勝利」の味。 それは、どんな豪華な晩餐よりも優しく、彼の中に残る古傷を癒していくようだった。 キッチンの外では、今日も変わらず夜の街が静かに息づいていた。
