推しの心臓、我が家の1LDKにあり
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現代の夜は、あまりに深い。 窓の外、街灯が落とすオレンジ色の光が遮光カーテンの隙間から細い糸のように差し込み、フローリングを薄く照らしている。加湿器が吐き出す繊細な霧が、ナマエが選んだラベンダーとサンダルウッドの香りを、夜の静寂に溶かし込んでいた。
リビングのソファベッドに横たわるエルヴィンは、その穏やかな香りの中で、深い泥濘に沈み込むような眠りの中にいた。
(――団長。……エルヴィン・スミス団長)
声が聞こえる。 それは、彼がかつて切り捨て、置き去りにし、そして自身の野望のために「死ね」と命じた者たちの声だった。 視界を埋め尽くすのは、現代の清潔な白ではない。 土埃にまみれ、鉄錆と内臓の匂いが混じり合う、逃げ場のない地獄の色彩だ。
「……う、……あ」
エルヴィンの喉が、無意識に苦悶の音を漏らす。 夢の中の彼は、まだ馬の上にいた。背後には、恐怖に顔を歪めた若い兵士たちが列をなしている。彼らの瞳には、自分への絶対的な信頼と、それ以上に深い「死」への絶望が宿っていた。 目の前では、獣の巨人が巨大な岩を砕き、死の雨を降らせようとしている。
(進め。……進めと言ってくれ、団長)
骸となった部下たちが、地面から手を伸ばし、彼の脚を掴む。 返り血で濡れた彼らの指先が、エルヴィンの新しい、傷ひとつない右腕を汚していく。 「なぜお前だけが、そんなに綺麗な腕を持っているのだ」 「なぜお前だけが、温かい寝床で息をしているのだ」 「答えろ、エルヴィン・スミス」
「……まだ……だ……。まだ……進め……っ!」
悲痛な叫びと共に、エルヴィンは跳ねるように上体を起こした。
「はぁ、はぁ……っ、……っ」
荒い呼吸が、静かなリビングに響く。 額からは嫌な汗が流れ落ち、視界がチカチカと明滅する。 彼は反射的に右手を伸ばし、自分の胸を掴んだ。そこには、岩に貫かれたはずの痛みはない。けれど、心臓が肋骨を突き破らんばかりに、激しく警鐘を鳴らし続けていた。
「エルヴィンさん!?」
寝室のドアが勢いよく開き、ナマエが飛び出してきた。 彼女は寝巻き姿のまま、なりふり構わずエルヴィンの元へ駆け寄り、その大きな肩を抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫ですから! エルヴィンさん、私を見て!」
「……、……っ……?」
焦点の合わない碧い瞳が、彷徨うように彼女を探す。ナマエは、震えるエルヴィンの大きな手を、自分の両手で包み込むようにして握りしめた。 彼の掌は冷たく、氷のように冷え切っている。
「……私は、私はまだ、あの場所に……」
「違います。ここは私の家。2020年代の日本。……巨人はいない。石を投げる奴もいない。あなたは今、安全な場所にいます」
ナマエは必死に語りかけた。 彼女は知っている。彼がどれほど重い生存者の罪を背負っているか。物語の完結を見届けた読者として、彼が最後に見た景色、そして彼が「選ばなかった」未来の残酷さを。
エルヴィンは、ナマエの手の温もりに、ようやく呼吸の整え方を思い出したようだった。 彼女の指先から伝わる、トクトクという穏やかな脈動。それは、夢の中で自分を責め立てた死者たちの冷たさとは、決定的に違う「生」の証だった。
「……すまない。……起こしてしまったな」
エルヴィンは、掠れた声で謝絶を口にした。 彼は顔を覆い、深く、長く息を吐き出す。
「……情けないな。私は、もう戦いなど終わったはずなのに。……心のどこかで、まだあの煙と血の匂いを探している」
「情けなくなんてないです。……あなたは、それだけのものを背負わされてきたんですから」
ナマエは、ソファの端に腰掛け、彼の手を離さずにそっと寄り添った。
「エルヴィンさん。……お願いだから、一人で戦おうとしないでください。夜、怖かったら、私が隣にいます」
「……君の睡眠を妨げるわけにはいかない。私は……一人の人間として、あまりに欠落している。君のような善良な女性が、私の壊れた精神に付き合う必要はないんだ」
エルヴィンは、自嘲気味に目を伏せた。 彼は幸福を恐れていた。 自分が温かい食事を摂り、柔らかいベッドで眠るたびに、壁の中で死んでいった仲間たちを裏切っているような感覚に陥る。幸せを感じることは、彼にとって罪の再生産でしかなかった。
「……欠落してるのは、お互い様です」
ナマエは、彼の肩にそっと頭を預けた。
「私だって、仕事でボロボロになって、夜中に一人で泣くこともあります。……エルヴィンさん。今日だけは、我儘を言わせてください」
彼女は顔を上げ、彼の碧い瞳を真っ直ぐに見据えた。
「……一人で寝るのが、怖いんです。……私の隣で、一緒に寝てくれませんか?」
それが嘘であることは、エルヴィンにも分かっていた。 彼女は、自分のために、自分を救うために、その提案をしている。 本来なら断るべきだ。彼女の聖域を侵してはならない。 だが、今の彼にとって、ナマエという存在は、暗闇の中に唯一灯された灯火そのものだった。
「…………ああ。……分かった」
エルヴィンは、ゆっくりと頷いた。
寝室のセミダブルのベッドに、二人は横たわった。 肌が直接触れ合うことはない。けれど、シーツ越しに伝わってくるお互いの体温と気配が、何よりも確かな安らぎとなっていた。
「……エルヴィンさん」
「なんだ?」
「もう、進まなくてもいいんです」
暗闇の中で、ナマエの声が優しく響いた。
「旗を振らなくていい。誰の先頭にも立たなくていい。……ただ、明日何を食べようかとか、次の休みはどこへ行こうかとか、そういう小さなことだけ考えていてほしいです。」
エルヴィンは、天井を見つめたまま、静かに目をつむった。
「……進まなくていい、か。……私には、一番難しい命令だな」
「命令じゃないです。……私からの、お願い」
ナマエは、暗闇の中でそっと彼の手を探し、再びその指を絡めた。 今度は、エルヴィンの方から、その小さな手を優しく握り返した。
「……努力しよう。君の望む、『普通の人間』になれるように」
その夜、エルヴィンは二度と悪夢を見ることはなかった。 隣で聞こえる、規則正しいナマエの寝息。 その音は、かつての戦場での鬨の声よりも力強く、彼の魂を現世へと繋ぎ止めていた。
夜明けが近い。 青白い光が部屋に満ち始める頃、エルヴィンは初めて、深い、深い、安息の眠りへと落ちていった。 自分が英雄であることを忘れ、ただ一人の女性の隣で、生を享受する男として。
リビングのソファベッドに横たわるエルヴィンは、その穏やかな香りの中で、深い泥濘に沈み込むような眠りの中にいた。
(――団長。……エルヴィン・スミス団長)
声が聞こえる。 それは、彼がかつて切り捨て、置き去りにし、そして自身の野望のために「死ね」と命じた者たちの声だった。 視界を埋め尽くすのは、現代の清潔な白ではない。 土埃にまみれ、鉄錆と内臓の匂いが混じり合う、逃げ場のない地獄の色彩だ。
「……う、……あ」
エルヴィンの喉が、無意識に苦悶の音を漏らす。 夢の中の彼は、まだ馬の上にいた。背後には、恐怖に顔を歪めた若い兵士たちが列をなしている。彼らの瞳には、自分への絶対的な信頼と、それ以上に深い「死」への絶望が宿っていた。 目の前では、獣の巨人が巨大な岩を砕き、死の雨を降らせようとしている。
(進め。……進めと言ってくれ、団長)
骸となった部下たちが、地面から手を伸ばし、彼の脚を掴む。 返り血で濡れた彼らの指先が、エルヴィンの新しい、傷ひとつない右腕を汚していく。 「なぜお前だけが、そんなに綺麗な腕を持っているのだ」 「なぜお前だけが、温かい寝床で息をしているのだ」 「答えろ、エルヴィン・スミス」
「……まだ……だ……。まだ……進め……っ!」
悲痛な叫びと共に、エルヴィンは跳ねるように上体を起こした。
「はぁ、はぁ……っ、……っ」
荒い呼吸が、静かなリビングに響く。 額からは嫌な汗が流れ落ち、視界がチカチカと明滅する。 彼は反射的に右手を伸ばし、自分の胸を掴んだ。そこには、岩に貫かれたはずの痛みはない。けれど、心臓が肋骨を突き破らんばかりに、激しく警鐘を鳴らし続けていた。
「エルヴィンさん!?」
寝室のドアが勢いよく開き、ナマエが飛び出してきた。 彼女は寝巻き姿のまま、なりふり構わずエルヴィンの元へ駆け寄り、その大きな肩を抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫ですから! エルヴィンさん、私を見て!」
「……、……っ……?」
焦点の合わない碧い瞳が、彷徨うように彼女を探す。ナマエは、震えるエルヴィンの大きな手を、自分の両手で包み込むようにして握りしめた。 彼の掌は冷たく、氷のように冷え切っている。
「……私は、私はまだ、あの場所に……」
「違います。ここは私の家。2020年代の日本。……巨人はいない。石を投げる奴もいない。あなたは今、安全な場所にいます」
ナマエは必死に語りかけた。 彼女は知っている。彼がどれほど重い生存者の罪を背負っているか。物語の完結を見届けた読者として、彼が最後に見た景色、そして彼が「選ばなかった」未来の残酷さを。
エルヴィンは、ナマエの手の温もりに、ようやく呼吸の整え方を思い出したようだった。 彼女の指先から伝わる、トクトクという穏やかな脈動。それは、夢の中で自分を責め立てた死者たちの冷たさとは、決定的に違う「生」の証だった。
「……すまない。……起こしてしまったな」
エルヴィンは、掠れた声で謝絶を口にした。 彼は顔を覆い、深く、長く息を吐き出す。
「……情けないな。私は、もう戦いなど終わったはずなのに。……心のどこかで、まだあの煙と血の匂いを探している」
「情けなくなんてないです。……あなたは、それだけのものを背負わされてきたんですから」
ナマエは、ソファの端に腰掛け、彼の手を離さずにそっと寄り添った。
「エルヴィンさん。……お願いだから、一人で戦おうとしないでください。夜、怖かったら、私が隣にいます」
「……君の睡眠を妨げるわけにはいかない。私は……一人の人間として、あまりに欠落している。君のような善良な女性が、私の壊れた精神に付き合う必要はないんだ」
エルヴィンは、自嘲気味に目を伏せた。 彼は幸福を恐れていた。 自分が温かい食事を摂り、柔らかいベッドで眠るたびに、壁の中で死んでいった仲間たちを裏切っているような感覚に陥る。幸せを感じることは、彼にとって罪の再生産でしかなかった。
「……欠落してるのは、お互い様です」
ナマエは、彼の肩にそっと頭を預けた。
「私だって、仕事でボロボロになって、夜中に一人で泣くこともあります。……エルヴィンさん。今日だけは、我儘を言わせてください」
彼女は顔を上げ、彼の碧い瞳を真っ直ぐに見据えた。
「……一人で寝るのが、怖いんです。……私の隣で、一緒に寝てくれませんか?」
それが嘘であることは、エルヴィンにも分かっていた。 彼女は、自分のために、自分を救うために、その提案をしている。 本来なら断るべきだ。彼女の聖域を侵してはならない。 だが、今の彼にとって、ナマエという存在は、暗闇の中に唯一灯された灯火そのものだった。
「…………ああ。……分かった」
エルヴィンは、ゆっくりと頷いた。
寝室のセミダブルのベッドに、二人は横たわった。 肌が直接触れ合うことはない。けれど、シーツ越しに伝わってくるお互いの体温と気配が、何よりも確かな安らぎとなっていた。
「……エルヴィンさん」
「なんだ?」
「もう、進まなくてもいいんです」
暗闇の中で、ナマエの声が優しく響いた。
「旗を振らなくていい。誰の先頭にも立たなくていい。……ただ、明日何を食べようかとか、次の休みはどこへ行こうかとか、そういう小さなことだけ考えていてほしいです。」
エルヴィンは、天井を見つめたまま、静かに目をつむった。
「……進まなくていい、か。……私には、一番難しい命令だな」
「命令じゃないです。……私からの、お願い」
ナマエは、暗闇の中でそっと彼の手を探し、再びその指を絡めた。 今度は、エルヴィンの方から、その小さな手を優しく握り返した。
「……努力しよう。君の望む、『普通の人間』になれるように」
その夜、エルヴィンは二度と悪夢を見ることはなかった。 隣で聞こえる、規則正しいナマエの寝息。 その音は、かつての戦場での鬨の声よりも力強く、彼の魂を現世へと繋ぎ止めていた。
夜明けが近い。 青白い光が部屋に満ち始める頃、エルヴィンは初めて、深い、深い、安息の眠りへと落ちていった。 自分が英雄であることを忘れ、ただ一人の女性の隣で、生を享受する男として。
