推しの心臓、我が家の1LDKにあり
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同居が始まって二週間。 ミョウジナマエは、早朝のキッチンから漂ってくる香ばしい匂いで目を覚ました。かつて、独り身の朝を支配していたのは、コンビニのコーヒーか、あるいは胃を急かすだけの無機質なプロテインシェイクの音だったはずだ。
だが今、鼻腔をくすぐるのは、出汁の深い香りと、炊きたての米が放つ甘い蒸気の匂いだ。
寝ぼけ眼でリビングへ足を踏み入れたナマエは、その光景に思わず足を止めた。 朝日が差し込む1LDKのキッチンに、エルヴィンが立っている。ナマエが冗談半分で買い与えた、ネイビーのシンプルなエプロンを、その広い肩に窮屈そうに、けれど完璧な結び目で纏って。
「……おはよう、ナマエ。少し早かったかな」
エルヴィンは、菜箸を手にしたまま、穏やかに振り返った。 その動作には、かつて数万の兵士を指揮した時と同じ、一分の無駄もない洗練された機能美が宿っている。
「おはようございます、エルヴィンさん。……ううん、ちょうどいい匂いで目が覚めちゃって。あ、また作ってくれたんですか!?」
「ああ。君の蔵書の中にあった料理本を数冊読ませてもらったが、非常に合理的だ。栄養素の組み合わせ、加熱による組織の変化……実に行き届いている。何より、この『調味料』という文化は素晴らしい。私の世界では、塩とわずかな香辛料が贅沢品だったからな」
エルヴィンはそう言って、慣れた手つきで味噌汁の味を調えた。 彼の「順応」は、ナマエの想像を遥かに絶していた。退院後、最初の三日間こそ家電の電子音に眉を潜めていたものの、一度仕組みを理解してしまえば、彼は持ち前の知的好奇心と分析能力をすべて家事へと注ぎ込み始めたのだ。
朝食のテーブルに並べられたのは、焼き魚、出汁巻き卵、そして彩り豊かな副菜。 盛り付けのバランスすら、黄金比を計算しているのではないかと思わせるほどに美しい。
「いただきます……。おいしい。本当に、エルヴィンさんが作ったんですか?」
「ああ。昨日の夜、君が寝た後に、食材の在庫管理と献立の最適化について検討してみたんだ」
エルヴィンは食事の手を止めず、傍らに置いてあった一冊のノートをナマエに差し出した。 それは、ナマエが「適当に使って」と渡した無地のノートだったが、今やそれは恐るべき精度を誇る『家計戦略図』へと変貌を遂げていた。
「これは……?」
「近隣の三つのスーパーマーケットにおける、主要食材の価格推移表だ。月曜日と木曜日で、タンパク質源のコストパフォーマンスが逆転する傾向にある。また、この『ポイント還元』というシステムを導入することで、実質的な支出を月間で12パーセント削減できる見込みだ」
ノートには、寸分の狂いもない直線で引かれたグラフと、エルヴィンの流麗な筆跡で書かれた分析結果が並んでいた。
「……食費は抑えられる。今の君の購買パターンには、無駄が多い」
碧い瞳を真っ直ぐに向けて、彼は真剣に告げた。その表情は、壁外調査のルートを策定している時と全く同じ、冷徹なまでの「正解」を求める指揮官のそれだった。
「……エルヴィンさん…」
ナマエは思わず、箸を置いて溜息をついた。
「ここ、戦場じゃないです。そんなに1円単位で戦略立てなくても、私の給料で二人が食べていくくらい、どうにでもなるんですよ?」
「……そうだろうか」
エルヴィンはわずかに眉を寄せ、自身の大きな手を見つめた。
「私は、君の慈悲によってここに置いてもらっている身だ。何も生産せず、ただ糧を食むだけの存在になることは、私の矜持が許さない。……それに」
彼は視線を落とし、少しだけ声を潜めた。
「こうして数字を並べ、作戦を練り、完璧に実行すること。……それが、今の私にできる唯一の『戦い』なんだ。君という拠点を守るための、な」
その言葉に含まれた微かな寂しさと、隠しきれない不器用な誠実さに、ナマエの胸がツンと痛んだ。 彼は、何もしていない自分を許せないのだ。常に何かを背負い、守り、結果を出さなければ、自分の存在価値を見出せない――英雄という名の呪縛は、この穏やかな現代社会でも彼を縛り続けている。
「……わかりました。じゃあ、補給部隊長として任命します。でも、あまり根を詰めないでください。たまには『無駄』を楽しんでくれないと、一緒にいる私が疲れちゃうので。」
ナマエが苦笑しながら言うと、エルヴィンは少しだけ意外そうに目を見開いた後、柔らかく微笑んだ。
「無駄、か。……善処しよう」
朝食を終え、ナマエが出勤の準備を整える。 玄関で見送るエルヴィンは、いつの間にか裁縫道具を手にしていた。
「あ、それ……私のブラウス。ボタンが取れかかってたやつ」
「ああ、昨夜のうちに修繕しておいた。君の裁縫箱にあった糸は強度が心許なかったので、より丈夫な縫い方に変えてある。これで、外回りの最中に不意を突かれることもあるまい」
「ふ、不意を突かれるって……」
ナマエは、彼から手渡されたブラウスを受け取った。 見事なまでの千鳥掛け。手仕事とは思えないほど均一な縫い目は、もはや芸術品の域に達している。
「行ってきます、エルヴィンさん。お昼、冷蔵庫にサンドイッチ作ってあるから食べてくださいね。」
「ああ。行ってらっしゃい、ナマエ。……競合他社の動向には気をつけるんだぞ」
「……はい。戦ってきます」
扉が閉まる音を聞きながら、ナマエはエレベーターの中で深く息を吐いた。 手元のブラウスに触れる。そこには、エルヴィンの指先が残した確かな温もりと、彼なりの不器用な愛情が宿っているようで、自然と頬が緩んだ。
(団長がエプロンして家計簿つけて、私の服を直してるなんて、誰も信じないだろうな……)
けれど、ナマエは知っている。彼がどれほど真剣に、その小さな日常と向き合っているか。彼にとって、掃除機をかけることも、特売の肉を選ぶことも、かつて壁の中で人類の命運を背負っていたことと、本質的な重みは変わらないのだ。
一方、静まり返った室内で、エルヴィンは窓からナマエの後ろ姿を見送っていた。 彼女が角を曲がり、見えなくなるまで。
彼は再びキッチンへ戻り、シンクを磨き始めた。蛇口から流れる清らかな水。自分の思い通りに動く両腕。 この静かな時間が、かつて奪い合ってきたどの勝利よりも贅沢であることを、彼は痛いほどに噛み締めていた。
「……今日は、洗濯物の干し方を改良してみるか。風の通り道を計算すれば、あと30分は短縮できるはずだ」
独りごちる声はどこか楽しげで、それでいて、消えない影をどこかに孕んでいた。 彼が「主夫」という役割を完璧に演じれば演じるほど、その内側に潜む戦士の魂が、静かな叫びを上げていることに、まだ二人は気づいていなかった。
だが今、鼻腔をくすぐるのは、出汁の深い香りと、炊きたての米が放つ甘い蒸気の匂いだ。
寝ぼけ眼でリビングへ足を踏み入れたナマエは、その光景に思わず足を止めた。 朝日が差し込む1LDKのキッチンに、エルヴィンが立っている。ナマエが冗談半分で買い与えた、ネイビーのシンプルなエプロンを、その広い肩に窮屈そうに、けれど完璧な結び目で纏って。
「……おはよう、ナマエ。少し早かったかな」
エルヴィンは、菜箸を手にしたまま、穏やかに振り返った。 その動作には、かつて数万の兵士を指揮した時と同じ、一分の無駄もない洗練された機能美が宿っている。
「おはようございます、エルヴィンさん。……ううん、ちょうどいい匂いで目が覚めちゃって。あ、また作ってくれたんですか!?」
「ああ。君の蔵書の中にあった料理本を数冊読ませてもらったが、非常に合理的だ。栄養素の組み合わせ、加熱による組織の変化……実に行き届いている。何より、この『調味料』という文化は素晴らしい。私の世界では、塩とわずかな香辛料が贅沢品だったからな」
エルヴィンはそう言って、慣れた手つきで味噌汁の味を調えた。 彼の「順応」は、ナマエの想像を遥かに絶していた。退院後、最初の三日間こそ家電の電子音に眉を潜めていたものの、一度仕組みを理解してしまえば、彼は持ち前の知的好奇心と分析能力をすべて家事へと注ぎ込み始めたのだ。
朝食のテーブルに並べられたのは、焼き魚、出汁巻き卵、そして彩り豊かな副菜。 盛り付けのバランスすら、黄金比を計算しているのではないかと思わせるほどに美しい。
「いただきます……。おいしい。本当に、エルヴィンさんが作ったんですか?」
「ああ。昨日の夜、君が寝た後に、食材の在庫管理と献立の最適化について検討してみたんだ」
エルヴィンは食事の手を止めず、傍らに置いてあった一冊のノートをナマエに差し出した。 それは、ナマエが「適当に使って」と渡した無地のノートだったが、今やそれは恐るべき精度を誇る『家計戦略図』へと変貌を遂げていた。
「これは……?」
「近隣の三つのスーパーマーケットにおける、主要食材の価格推移表だ。月曜日と木曜日で、タンパク質源のコストパフォーマンスが逆転する傾向にある。また、この『ポイント還元』というシステムを導入することで、実質的な支出を月間で12パーセント削減できる見込みだ」
ノートには、寸分の狂いもない直線で引かれたグラフと、エルヴィンの流麗な筆跡で書かれた分析結果が並んでいた。
「……食費は抑えられる。今の君の購買パターンには、無駄が多い」
碧い瞳を真っ直ぐに向けて、彼は真剣に告げた。その表情は、壁外調査のルートを策定している時と全く同じ、冷徹なまでの「正解」を求める指揮官のそれだった。
「……エルヴィンさん…」
ナマエは思わず、箸を置いて溜息をついた。
「ここ、戦場じゃないです。そんなに1円単位で戦略立てなくても、私の給料で二人が食べていくくらい、どうにでもなるんですよ?」
「……そうだろうか」
エルヴィンはわずかに眉を寄せ、自身の大きな手を見つめた。
「私は、君の慈悲によってここに置いてもらっている身だ。何も生産せず、ただ糧を食むだけの存在になることは、私の矜持が許さない。……それに」
彼は視線を落とし、少しだけ声を潜めた。
「こうして数字を並べ、作戦を練り、完璧に実行すること。……それが、今の私にできる唯一の『戦い』なんだ。君という拠点を守るための、な」
その言葉に含まれた微かな寂しさと、隠しきれない不器用な誠実さに、ナマエの胸がツンと痛んだ。 彼は、何もしていない自分を許せないのだ。常に何かを背負い、守り、結果を出さなければ、自分の存在価値を見出せない――英雄という名の呪縛は、この穏やかな現代社会でも彼を縛り続けている。
「……わかりました。じゃあ、補給部隊長として任命します。でも、あまり根を詰めないでください。たまには『無駄』を楽しんでくれないと、一緒にいる私が疲れちゃうので。」
ナマエが苦笑しながら言うと、エルヴィンは少しだけ意外そうに目を見開いた後、柔らかく微笑んだ。
「無駄、か。……善処しよう」
朝食を終え、ナマエが出勤の準備を整える。 玄関で見送るエルヴィンは、いつの間にか裁縫道具を手にしていた。
「あ、それ……私のブラウス。ボタンが取れかかってたやつ」
「ああ、昨夜のうちに修繕しておいた。君の裁縫箱にあった糸は強度が心許なかったので、より丈夫な縫い方に変えてある。これで、外回りの最中に不意を突かれることもあるまい」
「ふ、不意を突かれるって……」
ナマエは、彼から手渡されたブラウスを受け取った。 見事なまでの千鳥掛け。手仕事とは思えないほど均一な縫い目は、もはや芸術品の域に達している。
「行ってきます、エルヴィンさん。お昼、冷蔵庫にサンドイッチ作ってあるから食べてくださいね。」
「ああ。行ってらっしゃい、ナマエ。……競合他社の動向には気をつけるんだぞ」
「……はい。戦ってきます」
扉が閉まる音を聞きながら、ナマエはエレベーターの中で深く息を吐いた。 手元のブラウスに触れる。そこには、エルヴィンの指先が残した確かな温もりと、彼なりの不器用な愛情が宿っているようで、自然と頬が緩んだ。
(団長がエプロンして家計簿つけて、私の服を直してるなんて、誰も信じないだろうな……)
けれど、ナマエは知っている。彼がどれほど真剣に、その小さな日常と向き合っているか。彼にとって、掃除機をかけることも、特売の肉を選ぶことも、かつて壁の中で人類の命運を背負っていたことと、本質的な重みは変わらないのだ。
一方、静まり返った室内で、エルヴィンは窓からナマエの後ろ姿を見送っていた。 彼女が角を曲がり、見えなくなるまで。
彼は再びキッチンへ戻り、シンクを磨き始めた。蛇口から流れる清らかな水。自分の思い通りに動く両腕。 この静かな時間が、かつて奪い合ってきたどの勝利よりも贅沢であることを、彼は痛いほどに噛み締めていた。
「……今日は、洗濯物の干し方を改良してみるか。風の通り道を計算すれば、あと30分は短縮できるはずだ」
独りごちる声はどこか楽しげで、それでいて、消えない影をどこかに孕んでいた。 彼が「主夫」という役割を完璧に演じれば演じるほど、その内側に潜む戦士の魂が、静かな叫びを上げていることに、まだ二人は気づいていなかった。
