推しの心臓、我が家の1LDKにあり
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退院の日、エルヴィンが纏っていたのは、ナマエが急いで買い揃えた現代の衣服だった。 白いシャツに、落ち着いたネイビーのチノパン。サイズ選びには苦労したが、188センチの彼の体躯は、既製品のシンプルな装いであっても隠しきれない品格を放っている。かつての「自由の翼」を背負った緑のマントは、ナマエの手で大切に紙袋に収められた。
「……ここが、君の城か」
ナマエのマンションの一室。1LDKの玄関を跨いだ瞬間、エルヴィンはその巨躯をわずかに縮めるようにして中へ入った。 壁の中にいた彼にとって、石造りの強固な建築物は見慣れたものだったが、この現代の住まいはあまりに軽やかで、かつ機能美に満ちている。フローリングの滑らかな質感、淡いベージュの壁紙、そして窓から差し込む、遮るもののない西日。
「城だなんて……。ただの働く女の、狭い部屋ですよ」
ナマエは照れ隠しに笑いながら、彼をリビングへと促した。 空気清浄機の小さな稼働音と、ナマエが朝に焚いたアロマの、微かなシトラスの香りが部屋を支配している。エルヴィンは静かに視線を巡らせた。機能的なソファ、磨かれたキッチン。そこには、彼がかつて指揮を執っていた殺伐とした執務室とは正反対の、温かな「生活」の匂いが満ちていた。
だが、その視線がある一点で止まった。
リビングの壁際、ナマエが最も愛用している大きな木製の棚。 そこには仕事用のビジネス書や実用書に混じって、一際異彩を放つ一画があった。 黒と赤を基調とした背表紙。そこには、彼が命を懸けて戦っていた世界のすべてが、「物語」として整然と並べられていた。
『進撃の巨人』 DVD・漫画全巻。
「…………」
エルヴィンの足が止まった。碧い瞳が、細められる。 ナマエは心臓が跳ね上がるのを感じた。しまった、と頭を殴られたような衝撃が走る。彼を迎え入れる準備に奔走するあまり、自分のアイデンティティの一部でもあったその棚の処理を失念していた。
エルヴィンはゆっくりと歩み寄り、一冊の背表紙に長い指先で触れた。 そこには、自分によく似た男が、絶望的な形相で叫んでいる姿が描かれている。
「……そうか。これが、君が私を知っている理由か」
その声は、驚くほど静かだった。怒りも、拒絶も、混乱もない。ただ、深い霧の底から響くような、空虚なまでの冷静さ。
「あ……ごめんなさい! すぐに、すぐに片付けます! 嫌ですよね、自分の……自分の地獄が、こんな風に並べられているなんて……っ」
ナマエは半狂乱で本に手を伸ばそうとした。 指先が震える。涙が込み上げてくる。 自分は、彼の苦悩を、仲間たちの死を、そして彼の最期を、温かい部屋で紅茶を飲みながら「面白い」と消費していたのだ。その残酷な事実が、今、突きつけられている。
「待ってくれ、ナマエ」
エルヴィンの大きな手が、ナマエの肩をそっと制した。 その掌の温かさが、パニックに陥っていた彼女の心を強引に引き戻す。
「……私は、“物語”だったのか」
エルヴィンは棚を見つめたまま、独り言のように呟いた。
「私が選んできた決断も、部下たちの流した血も。父の夢も、地下室への執念も。すべては、誰かが描いた筋書きだったというのか」
「……違います」
ナマエは、震える声で否定した。
「筋書きなんて、そんな言葉で片付けたくない。あなたがそこで生きて、苦しんで、それでも前を向いたことは、少なくとも私にとっては……この世界に生きる多くの人にとっては、本物の勇気だったんです。私は、そこに描かれたあなたに、何度も救われた。だから……」
「救われた、か」
エルヴィンは本を手に取ることなく、ゆっくりと手を下ろした。 彼は窓の外を見つめる。そこには、壁のない街並みが広がっている。
「滑稽だな。私は、この世の真実を知るために、多くの命を天秤にかけてきた。だが、ようやく辿り着いた真実が……自分のいた世界そのものが虚構だったとは」
「……エルヴィンさん……」
「だが、不思議だ」
エルヴィンは、ナマエの方を向き直った。 その瞳には、先ほどまでの空虚な光ではなく、どこか穏やかな諦念と、微かな好奇心が宿っていた。
「君の手は、こんなに温かい。この部屋に流れる時間は、残酷なまでに穏やかだ。……もし私がただの文字や絵の産物だとしたら、今こうして君の前に立ち、君の部屋の香りを感じているこの感覚は何なのだ?」
エルヴィンは一歩、ナマエとの距離を詰めた。 彼に見下ろされると、ナマエはその存在感に圧倒される。けれど、そこから伝わってくるのは恐怖ではなく、縋るような、切実な問いかけだった。
「私はここにいる。……そうだろう、ナマエ」
「はい……。あなたは今、ここにいます。私の目の前で、息をして、生きています」
ナマエは、彼のシャツの袖をぎゅっと掴んだ。
「物語の続きじゃない。あなたの、新しい人生がここから始まるんです。だから、その……もし辛かったら、今すぐ捨てます。目に入らないようにします」
エルヴィンはしばし沈黙した後、ナマエの頭に、大きな手をそっと乗せた。 それは、部下を労う指揮官のそれではなく、戸惑う少女を宥めるような、不器用で優しい手つきだった。
「いや、置いておいてくれ。……今はまだ見る勇気はないが、いつか、私が見落としたものがそこに描かれているかもしれない。私が死なせてしまった者たちが、何を想っていたのか……それを知る権利が、私にはあるはずだ」
エルヴィンはそう言って、わずかに微笑んだ。 その微笑みは、悲しみを含んでいながらも、どこか晴れやかだった。
「……さて。感傷に浸るのはここまでだ。まずは、この“1LDK”という戦場のルールを教えてもらおうか。私はどこで眠ればいい?食糧の調達はどうすればいい?」
「あ……はい! エルヴィンさんは、このリビングのソファベッドを使ってください。私は奥の寝室にいますから。食事は、私が作ります。あ、でも、まずは着替えとか、日用品の使い方を……」
ナマエは慌てて説明を始めた。 スマートフォンの使い方、全自動洗濯機の回し方、IHクッキングヒーターの火の付け方。 エルヴィンは、それらをまるで最新の戦術を叩き込むかのような真剣な眼差しで聞き入っていた。
その夜、ナマエは寝室のベッドの中で、壁一枚隔てたリビングにいる彼の気配を感じていた。 『ピッ』という電子レンジの音に驚く彼の声。 『これは……水が勝手にお湯になるのか』という感嘆の呟き。
物語の中の英雄が、日常という名の「初めての戦場」で右往左往している。 その姿は、痛々しくもあり、けれどどうしようもなく愛おしかった。
(知っている罪……。でも、それ以上に私は、あなたに生きていてほしい)
ナマエは、枕元に置いてあった『進撃の巨人』の最終巻を、そっと引き出しの奥に隠した。 いつか彼が、すべてを受け入れられる日が来るまで。 今はただ、彼が静かに眠れる夜を、一日でも多く積み重ねていこうと誓いながら。
リビングでは、エルヴィンが慣れないソファに身を横たえ、天井を見つめていた。静かだ。巨人の足音も、大砲の音もしない。 ただ、隣の部屋から聞こえる、一人の女性の穏やかな寝息だけが、彼が「生きている」ことを証明していた。
(天国……。いや、ここはもっと別の場所だ)
エルヴィンは、失われなかった右手を胸に当てた。 規則正しく刻まれる鼓動。 彼は、生まれて初めて、明日が来ることを恐怖ではなく期待と共に待ちわびながら、深い眠りへと落ちていった。
「……ここが、君の城か」
ナマエのマンションの一室。1LDKの玄関を跨いだ瞬間、エルヴィンはその巨躯をわずかに縮めるようにして中へ入った。 壁の中にいた彼にとって、石造りの強固な建築物は見慣れたものだったが、この現代の住まいはあまりに軽やかで、かつ機能美に満ちている。フローリングの滑らかな質感、淡いベージュの壁紙、そして窓から差し込む、遮るもののない西日。
「城だなんて……。ただの働く女の、狭い部屋ですよ」
ナマエは照れ隠しに笑いながら、彼をリビングへと促した。 空気清浄機の小さな稼働音と、ナマエが朝に焚いたアロマの、微かなシトラスの香りが部屋を支配している。エルヴィンは静かに視線を巡らせた。機能的なソファ、磨かれたキッチン。そこには、彼がかつて指揮を執っていた殺伐とした執務室とは正反対の、温かな「生活」の匂いが満ちていた。
だが、その視線がある一点で止まった。
リビングの壁際、ナマエが最も愛用している大きな木製の棚。 そこには仕事用のビジネス書や実用書に混じって、一際異彩を放つ一画があった。 黒と赤を基調とした背表紙。そこには、彼が命を懸けて戦っていた世界のすべてが、「物語」として整然と並べられていた。
『進撃の巨人』 DVD・漫画全巻。
「…………」
エルヴィンの足が止まった。碧い瞳が、細められる。 ナマエは心臓が跳ね上がるのを感じた。しまった、と頭を殴られたような衝撃が走る。彼を迎え入れる準備に奔走するあまり、自分のアイデンティティの一部でもあったその棚の処理を失念していた。
エルヴィンはゆっくりと歩み寄り、一冊の背表紙に長い指先で触れた。 そこには、自分によく似た男が、絶望的な形相で叫んでいる姿が描かれている。
「……そうか。これが、君が私を知っている理由か」
その声は、驚くほど静かだった。怒りも、拒絶も、混乱もない。ただ、深い霧の底から響くような、空虚なまでの冷静さ。
「あ……ごめんなさい! すぐに、すぐに片付けます! 嫌ですよね、自分の……自分の地獄が、こんな風に並べられているなんて……っ」
ナマエは半狂乱で本に手を伸ばそうとした。 指先が震える。涙が込み上げてくる。 自分は、彼の苦悩を、仲間たちの死を、そして彼の最期を、温かい部屋で紅茶を飲みながら「面白い」と消費していたのだ。その残酷な事実が、今、突きつけられている。
「待ってくれ、ナマエ」
エルヴィンの大きな手が、ナマエの肩をそっと制した。 その掌の温かさが、パニックに陥っていた彼女の心を強引に引き戻す。
「……私は、“物語”だったのか」
エルヴィンは棚を見つめたまま、独り言のように呟いた。
「私が選んできた決断も、部下たちの流した血も。父の夢も、地下室への執念も。すべては、誰かが描いた筋書きだったというのか」
「……違います」
ナマエは、震える声で否定した。
「筋書きなんて、そんな言葉で片付けたくない。あなたがそこで生きて、苦しんで、それでも前を向いたことは、少なくとも私にとっては……この世界に生きる多くの人にとっては、本物の勇気だったんです。私は、そこに描かれたあなたに、何度も救われた。だから……」
「救われた、か」
エルヴィンは本を手に取ることなく、ゆっくりと手を下ろした。 彼は窓の外を見つめる。そこには、壁のない街並みが広がっている。
「滑稽だな。私は、この世の真実を知るために、多くの命を天秤にかけてきた。だが、ようやく辿り着いた真実が……自分のいた世界そのものが虚構だったとは」
「……エルヴィンさん……」
「だが、不思議だ」
エルヴィンは、ナマエの方を向き直った。 その瞳には、先ほどまでの空虚な光ではなく、どこか穏やかな諦念と、微かな好奇心が宿っていた。
「君の手は、こんなに温かい。この部屋に流れる時間は、残酷なまでに穏やかだ。……もし私がただの文字や絵の産物だとしたら、今こうして君の前に立ち、君の部屋の香りを感じているこの感覚は何なのだ?」
エルヴィンは一歩、ナマエとの距離を詰めた。 彼に見下ろされると、ナマエはその存在感に圧倒される。けれど、そこから伝わってくるのは恐怖ではなく、縋るような、切実な問いかけだった。
「私はここにいる。……そうだろう、ナマエ」
「はい……。あなたは今、ここにいます。私の目の前で、息をして、生きています」
ナマエは、彼のシャツの袖をぎゅっと掴んだ。
「物語の続きじゃない。あなたの、新しい人生がここから始まるんです。だから、その……もし辛かったら、今すぐ捨てます。目に入らないようにします」
エルヴィンはしばし沈黙した後、ナマエの頭に、大きな手をそっと乗せた。 それは、部下を労う指揮官のそれではなく、戸惑う少女を宥めるような、不器用で優しい手つきだった。
「いや、置いておいてくれ。……今はまだ見る勇気はないが、いつか、私が見落としたものがそこに描かれているかもしれない。私が死なせてしまった者たちが、何を想っていたのか……それを知る権利が、私にはあるはずだ」
エルヴィンはそう言って、わずかに微笑んだ。 その微笑みは、悲しみを含んでいながらも、どこか晴れやかだった。
「……さて。感傷に浸るのはここまでだ。まずは、この“1LDK”という戦場のルールを教えてもらおうか。私はどこで眠ればいい?食糧の調達はどうすればいい?」
「あ……はい! エルヴィンさんは、このリビングのソファベッドを使ってください。私は奥の寝室にいますから。食事は、私が作ります。あ、でも、まずは着替えとか、日用品の使い方を……」
ナマエは慌てて説明を始めた。 スマートフォンの使い方、全自動洗濯機の回し方、IHクッキングヒーターの火の付け方。 エルヴィンは、それらをまるで最新の戦術を叩き込むかのような真剣な眼差しで聞き入っていた。
その夜、ナマエは寝室のベッドの中で、壁一枚隔てたリビングにいる彼の気配を感じていた。 『ピッ』という電子レンジの音に驚く彼の声。 『これは……水が勝手にお湯になるのか』という感嘆の呟き。
物語の中の英雄が、日常という名の「初めての戦場」で右往左往している。 その姿は、痛々しくもあり、けれどどうしようもなく愛おしかった。
(知っている罪……。でも、それ以上に私は、あなたに生きていてほしい)
ナマエは、枕元に置いてあった『進撃の巨人』の最終巻を、そっと引き出しの奥に隠した。 いつか彼が、すべてを受け入れられる日が来るまで。 今はただ、彼が静かに眠れる夜を、一日でも多く積み重ねていこうと誓いながら。
リビングでは、エルヴィンが慣れないソファに身を横たえ、天井を見つめていた。静かだ。巨人の足音も、大砲の音もしない。 ただ、隣の部屋から聞こえる、一人の女性の穏やかな寝息だけが、彼が「生きている」ことを証明していた。
(天国……。いや、ここはもっと別の場所だ)
エルヴィンは、失われなかった右手を胸に当てた。 規則正しく刻まれる鼓動。 彼は、生まれて初めて、明日が来ることを恐怖ではなく期待と共に待ちわびながら、深い眠りへと落ちていった。
