推しの心臓、我が家の1LDKにあり
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病院の相談室には、微かに焦げたようなコーヒーの香りと、加湿器から噴き出す白い蒸気が漂っていた。 窓の外を走る車の走行音が、遠い潮騒のように途切れなく聞こえてくる。この静謐で文明的な空間に、あの巨躯の男が座っているという事実だけで、空間の密度が歪んでしまったかのような錯覚を覚える。
弟のオトウトが、机の上に一冊のファイルを開いた。そこには「身元不明」という無機質な四文字が躍っている。
「……さて。現実的な話をしようか」
オトウトは眼鏡のブリッジを押し上げ、プロの医師としての顔を作った。
「エルヴィンさんは、公式にはこの国のどこにも存在しない。指紋も、DNAデータも、網膜スキャンも、何一つ既存のデータベースと一致しないんだ。本来なら警察に引き渡すべき案件だけど……」
オトウトはチラリと、ナマエの顔を見た。彼女は膝の上で拳を強く握りしめている。
「……警察に渡したら、彼は『戸籍のない外国人』として収容施設に入れられる。最悪の場合、人体実験とはいかないまでも、各国の諜報機関や研究機関が放っておかないだろうね。あんな異様な身体能力と、出自不明の遺留品を持った男だ」
オトウトの言葉は冷静で、かつ残酷だった。 エルヴィンは、その会話をまるで他人の事柄のように静かに聞いていた。背筋を真っ直ぐに伸ばし、パイプ椅子という簡素な椅子に座りながらも、その姿は玉座に腰掛ける王のような威厳を放っている。
「私の存在が、この世界の法に抵触しているということか」
エルヴィンの声は、低く、重い。
「……かつて私の世界でも、壁の外から来た人間は、同じような扱いを受けたと聞いている。秩序を守るためには、異分子を排除するか、管理下に置くのが定石だ」
「エルヴィンさん、あなたは排除されるべき対象じゃない」
ナマエが、遮るように声を上げた。その瞳には、強い意志が宿っている。
「オトウト。私が身元引受人になる。私の家で、私の責任で彼を預かる」
「姉貴、簡単に言わないでくれ。不法滞在を助長することになるんだぞ。もしバレたら、お前のキャリアだって……」
「わかってる! でも、放っておけるわけないよ!」
ナマエの声が、狭い相談室に響いた。 彼女の脳裏には、物語の中で独り、多くの命を天秤にかけながら苦悩し続けた彼の姿が焼き付いていた。最後に彼が望んだのは、真実を知ること。そしてその代償として、彼は誰に看取られることもなく、泥に塗れて果てたはずだった。
(この人は、もう十分すぎるほど戦った。もう、誰からも管理されず、誰の犠牲にもならず、ただの『人間』として息をしていいはずなのに)
ナマエは、エルヴィンに向き直った。
「エルヴィンさん。私は一会社員として、リスク管理にはうるさい方です。でも、私の直感が言っているんです。あなたを独りにしたら、絶対にダメだって。……私に、あなたを助けさせてください。いえ、一緒にいさせてください」
エルヴィンは、碧い瞳をわずかに見開いた。 彼はこれまで、数多の人間から「選ばれて」きた。 父を死に追いやった罪悪感の中で、調査兵団の団長に選ばれ、人類の希望の象徴として選ばれ、そして最後には、死ぬべき英雄として選ばれた。
だが、それらはすべて、彼が持つ機能や価値に対して下された決断だった。 目の前の、このナマエという女性はどうだ。彼女は、彼の能力も、彼がもたらす利益も、何も求めていない。ただ「独りにしたくない」という、ひどく個人的で、非効率的で、けれどどうしようもなく純粋な感情だけで、自分の人生を賭けようとしている。
「……君は、奇妙な人だ」
エルヴィンが、ふっと小さく、掠れた笑みを漏らした。
「私のような、血に塗れた男を家に招き入れるというのか。君の平穏な生活を壊すことになるかもしれないというのに」
「私の平穏なんて、たいした価値はありません。……それに、私はもう決めたんです。頑固なのは、私の数少ない長所ですから」
ナマエはそう言って、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。 その笑顔を見た瞬間、エルヴィンの胸の奥で、氷が溶けるような微かな音がした。それは、かつてウォール・マリアの壁上で感じた絶望的な冷たさとは対極にある、春の陽光のような温かさだった。
オトウトは、二人の間に流れる空気を察し、深く溜息をついた。
「……やれやれ。こうなったら姉貴は止まらないな。わかったよ、僕が全面協力する。僕の病院の患者として、特別枠で経過観察という名目にしておく。その間に、知り合いのルートを使って、何らかの『公的な身分』をでっち上げる方法を探してみるよ。まあ、姉貴のコネもフル活用することになるけどね」
「オトウト……ありがとう」
「お礼はいいよ。……ただ、エルヴィンさん」
オトウトは、真剣な眼差しでエルヴィンを見据えた。
「姉を、悲しませないでください。彼女は強いけど、その分、無理をしてしまうところがある。あなたがこの世界で何を目指すにせよ、彼女の隣にいる間は、どうか彼女の『味方』でいてやってほしい」
エルヴィンは、オトウトの言葉を重く受け止めるように、深く頷いた。
「誓おう。ミョウジオトウト。……私の命が、彼女にとっての重荷ではなく、力になるよう、最善を尽くす」
「……団長、今は命とか言わなくていいですから」
ナマエが照れたように、けれど嬉しそうに口を尖らせた。
手続きが進み、エルヴィンが退院する日が決まった。 一週間。それが、彼が現代社会へ第一歩を踏み出すまでの猶予だった。
その日の帰り道、ナマエは病院の駐車場で夜空を見上げた。 都会の空は明るすぎて、星はあまり見えない。けれど、彼女の心はこれまでにないほど澄み渡っていた。
(知っている罪、か……)
彼女は、自分が「進撃の巨人」という物語を愛していた自分を否定できない。彼の凄惨な死に、心を震わせていたことも事実だ。 けれど今、目の前にいるのは、シーツの感触に驚き、水の味に感謝し、右腕があることに戸惑う、等身大のエルヴィン・スミスだ。
物語の読者としてではなく、同じ時代を生きる人間として。 彼女は、彼が選ばなかった「生」の続きを、一緒に歩むことを決めた。
(団長。……ううん、エルヴィンさん。あなたの第二の人生を、私が守ってみせる。もう誰も、あなたに『心臓を捧げろ』なんて言わせない)
ナマエの胸の中で、静かな決意が熱を持って宿り続けていた。 それは、戦略家としての計算を遥かに超えた、魂の叫びだった。
一方、病室に残されたエルヴィンは、自身の右手の掌を見つめていた。 拳を握り、開く。そのたびに、確かな生命の感触がある。
「……選ばれた、か」
一人呟いた彼の声には、かつてのような鋭い野心はなかった。 ただ、自分を受け入れたあの温かい瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。 自分はもう、死ぬための理由を探す必要はないのかもしれない。 初めて感じる個としての幸福への予感に、彼は少しだけ、震えるように息を吐いた。
弟のオトウトが、机の上に一冊のファイルを開いた。そこには「身元不明」という無機質な四文字が躍っている。
「……さて。現実的な話をしようか」
オトウトは眼鏡のブリッジを押し上げ、プロの医師としての顔を作った。
「エルヴィンさんは、公式にはこの国のどこにも存在しない。指紋も、DNAデータも、網膜スキャンも、何一つ既存のデータベースと一致しないんだ。本来なら警察に引き渡すべき案件だけど……」
オトウトはチラリと、ナマエの顔を見た。彼女は膝の上で拳を強く握りしめている。
「……警察に渡したら、彼は『戸籍のない外国人』として収容施設に入れられる。最悪の場合、人体実験とはいかないまでも、各国の諜報機関や研究機関が放っておかないだろうね。あんな異様な身体能力と、出自不明の遺留品を持った男だ」
オトウトの言葉は冷静で、かつ残酷だった。 エルヴィンは、その会話をまるで他人の事柄のように静かに聞いていた。背筋を真っ直ぐに伸ばし、パイプ椅子という簡素な椅子に座りながらも、その姿は玉座に腰掛ける王のような威厳を放っている。
「私の存在が、この世界の法に抵触しているということか」
エルヴィンの声は、低く、重い。
「……かつて私の世界でも、壁の外から来た人間は、同じような扱いを受けたと聞いている。秩序を守るためには、異分子を排除するか、管理下に置くのが定石だ」
「エルヴィンさん、あなたは排除されるべき対象じゃない」
ナマエが、遮るように声を上げた。その瞳には、強い意志が宿っている。
「オトウト。私が身元引受人になる。私の家で、私の責任で彼を預かる」
「姉貴、簡単に言わないでくれ。不法滞在を助長することになるんだぞ。もしバレたら、お前のキャリアだって……」
「わかってる! でも、放っておけるわけないよ!」
ナマエの声が、狭い相談室に響いた。 彼女の脳裏には、物語の中で独り、多くの命を天秤にかけながら苦悩し続けた彼の姿が焼き付いていた。最後に彼が望んだのは、真実を知ること。そしてその代償として、彼は誰に看取られることもなく、泥に塗れて果てたはずだった。
(この人は、もう十分すぎるほど戦った。もう、誰からも管理されず、誰の犠牲にもならず、ただの『人間』として息をしていいはずなのに)
ナマエは、エルヴィンに向き直った。
「エルヴィンさん。私は一会社員として、リスク管理にはうるさい方です。でも、私の直感が言っているんです。あなたを独りにしたら、絶対にダメだって。……私に、あなたを助けさせてください。いえ、一緒にいさせてください」
エルヴィンは、碧い瞳をわずかに見開いた。 彼はこれまで、数多の人間から「選ばれて」きた。 父を死に追いやった罪悪感の中で、調査兵団の団長に選ばれ、人類の希望の象徴として選ばれ、そして最後には、死ぬべき英雄として選ばれた。
だが、それらはすべて、彼が持つ機能や価値に対して下された決断だった。 目の前の、このナマエという女性はどうだ。彼女は、彼の能力も、彼がもたらす利益も、何も求めていない。ただ「独りにしたくない」という、ひどく個人的で、非効率的で、けれどどうしようもなく純粋な感情だけで、自分の人生を賭けようとしている。
「……君は、奇妙な人だ」
エルヴィンが、ふっと小さく、掠れた笑みを漏らした。
「私のような、血に塗れた男を家に招き入れるというのか。君の平穏な生活を壊すことになるかもしれないというのに」
「私の平穏なんて、たいした価値はありません。……それに、私はもう決めたんです。頑固なのは、私の数少ない長所ですから」
ナマエはそう言って、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。 その笑顔を見た瞬間、エルヴィンの胸の奥で、氷が溶けるような微かな音がした。それは、かつてウォール・マリアの壁上で感じた絶望的な冷たさとは対極にある、春の陽光のような温かさだった。
オトウトは、二人の間に流れる空気を察し、深く溜息をついた。
「……やれやれ。こうなったら姉貴は止まらないな。わかったよ、僕が全面協力する。僕の病院の患者として、特別枠で経過観察という名目にしておく。その間に、知り合いのルートを使って、何らかの『公的な身分』をでっち上げる方法を探してみるよ。まあ、姉貴のコネもフル活用することになるけどね」
「オトウト……ありがとう」
「お礼はいいよ。……ただ、エルヴィンさん」
オトウトは、真剣な眼差しでエルヴィンを見据えた。
「姉を、悲しませないでください。彼女は強いけど、その分、無理をしてしまうところがある。あなたがこの世界で何を目指すにせよ、彼女の隣にいる間は、どうか彼女の『味方』でいてやってほしい」
エルヴィンは、オトウトの言葉を重く受け止めるように、深く頷いた。
「誓おう。ミョウジオトウト。……私の命が、彼女にとっての重荷ではなく、力になるよう、最善を尽くす」
「……団長、今は命とか言わなくていいですから」
ナマエが照れたように、けれど嬉しそうに口を尖らせた。
手続きが進み、エルヴィンが退院する日が決まった。 一週間。それが、彼が現代社会へ第一歩を踏み出すまでの猶予だった。
その日の帰り道、ナマエは病院の駐車場で夜空を見上げた。 都会の空は明るすぎて、星はあまり見えない。けれど、彼女の心はこれまでにないほど澄み渡っていた。
(知っている罪、か……)
彼女は、自分が「進撃の巨人」という物語を愛していた自分を否定できない。彼の凄惨な死に、心を震わせていたことも事実だ。 けれど今、目の前にいるのは、シーツの感触に驚き、水の味に感謝し、右腕があることに戸惑う、等身大のエルヴィン・スミスだ。
物語の読者としてではなく、同じ時代を生きる人間として。 彼女は、彼が選ばなかった「生」の続きを、一緒に歩むことを決めた。
(団長。……ううん、エルヴィンさん。あなたの第二の人生を、私が守ってみせる。もう誰も、あなたに『心臓を捧げろ』なんて言わせない)
ナマエの胸の中で、静かな決意が熱を持って宿り続けていた。 それは、戦略家としての計算を遥かに超えた、魂の叫びだった。
一方、病室に残されたエルヴィンは、自身の右手の掌を見つめていた。 拳を握り、開く。そのたびに、確かな生命の感触がある。
「……選ばれた、か」
一人呟いた彼の声には、かつてのような鋭い野心はなかった。 ただ、自分を受け入れたあの温かい瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。 自分はもう、死ぬための理由を探す必要はないのかもしれない。 初めて感じる個としての幸福への予感に、彼は少しだけ、震えるように息を吐いた。
