推しの心臓、我が家の1LDKにあり
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病院の廊下に、硬い靴音が響く。 ミョウジナマエは、自身の心臓の音が耳元で鳴り止まないのを自覚していた。仕事帰りのタイトスカート、整えられた黒髪。いつもならクライアントを前に完璧なプレゼンをこなすはずのやり手営業の仮面は、今、ひび割れて剥がれ落ちようとしている。
(冗談だ。オトウトが、私をからかっているだけだ)
そう自分に言い聞かせなければ、足がすくんで動けなくなりそうだった。 弟からの電話。「お前の推しが、生きて、そこに寝てる」。そんな馬鹿げた話があるはずがない。彼は物語の中で、誇り高く散ったのだ。その最期にどれほどの涙を流し、どれほど彼の魂の安息を願ったか。
「……ここだ。入るぞ、姉貴」
病室の前で待っていた弟、オトウトが、心配そうにナマエの顔を覗き込んだ。その瞳が「冗談ではない」と告げている。ナマエは震える手で自身の喉元を抑え、深く、肺が痛むほどに息を吸い込んだ。
オトウトが静かにドアを開け、白いカーテンを引く。
その瞬間、世界から音が消えた。
窓から差し込む午後の柔らかな光が、ベッドの上に座る男の輪郭を縁取っている。 眩いばかりの金髪。彫刻のように整った、けれどどこか疲れを湛えた横顔。そして、彼がこちらを振り返ったとき、その碧い瞳に射抜かれ、ナマエは呼吸の仕方を忘れた。
「……オトウト先生。その女性は?」
低く、深く、耳の奥まで痺れるような声。 紛れもない。紙の上でも、画面の中でもない。そこに生身のエルヴィン・スミスがいた。
「僕の双子の姉です。ミョウジナマエ。……あなたの身元引受人について、話をしたいと思いまして」
オトウトの説明は、ナマエの耳には届いていなかった。 彼女の視線は、彼の右腕に釘付けになっていた。白い病衣の袖から伸びる、逞しく、温かみを持った右腕。失われたはずのものが、そこにある。彼があの日失ったはずの光景が、目の前に現実として存在している。
ナマエの目から、熱いものが溢れ出した。
「……ああ……っ」
声にならない嗚咽が漏れる。 エルヴィンは不可解そうに、わずかに眉を寄せた。彼の知る限り、自分は誰かに涙を流されるような存在ではない。ましてや、異世界の、見ず知らずの女性に。
「……団長……」
かすれた声で、彼女は呟いた。 その呼称を聞いた瞬間、エルヴィンの瞳の奥に鋭い光が宿った。彼はゆっくりと上体を起こし、逃さぬようにナマエを凝視する。
「……今、なんと呼んだ?」
「…………」
「なぜ、君が私を知っている。この国に私のデータはないはずだと、そこの医者に聞いたばかりだが」
エルヴィンの問いは、冷静で、かつ威圧的だった。 彼は無意識に、対峙する相手を分析しようとしている。目の前の女性は、軍人には見えない。戦いの匂いもしない。だが、その瞳に宿る熱は、自分を長年追い続けてきた者のそれによく似ていた。
ナマエは、必死に涙を拭った。 彼を怖がらせてはいけない。彼を不審がらせてはいけない。だが、胸の奥を刺すのは「知っている罪」だった。彼が何を背負い、何を諦め、どのように死んでいったか。それを「娯楽」として享受していた自分。彼の苦悩を、文字通り「物語」として読んでいた自分。
(私は……あなたの地獄を知っている。あなたが守ろうとした世界も、あなたの最期も。それを知っている私が、今、あなたの前に立っていていいの?)
「……ごめんなさい、エルヴィンさん」
ナマエは絞り出すように言った。 団長ではなく、一人の男としての名を。
「私は、あなたの……いえ、あなたのいた場所のことを、少しだけ詳しく知っている者です。……信じられないかもしれませんが」
エルヴィンは沈黙した。 彼は彼女の瞳の奥を覗き込み、嘘や敵意がないかを見極めようとしている。 やがて、彼はふっと視線を窓の外に逸らした。
「……天国にしては騒がしいと思っていたが。どうやら私は、死後の世界ですら、安らぎを得ることは許されないらしい。……君のような美しい女性にまで、私の業を知られているとは」
その自嘲気味な微笑みに、ナマエの心は激しく揺さぶられた。 目の前にいるのは、教科書に載る英雄でも、画面の向こうの偶像でもない。 自分の「生」の意味を問い続け、傷つき、それでも立ち止まれなかった、一人の不器用な男だ。
(違う。あなたは、もう苦しまなくていい。ここは、あなたが誰かのために命を投げ出さなくてもいい場所なんだから)
ナマエは拳を握りしめ、オトウトを振り返った。 その目は、すでに決意に満ちていた。
「オトウト。……この人のこと、私が引き受ける。手続きを始めて」
「姉貴……。本気か? 彼は戸籍もない、身元不明者だぞ。これから先、どれだけ大変か分かってるのか」
「分かってる。……でも、この人を……団長を、独りにしちゃいけないの。もう、誰にも選ばれずに消えていくなんて、させない」
ナマエの言葉に、エルヴィンは再び彼女を見た。 「選ばれる」という言葉。 自分は常に、誰かを選び、切り捨て、そして自分自身をも人類という天秤の皿に乗せてきた。誰かに無条件で選ばれるという経験が、これまでの人生に一度でもあっただろうか。
「……ナマエ、と言ったか」
エルヴィンが、彼女の名を呼んだ。ナマエの肩がびくりと跳ねる。
「君は、私を救うつもりか?それとも、監視でもするつもりか」
「救うなんて、そんなおこがましいこと言えません」
ナマエは一歩、彼に歩み寄った。 消毒液の匂いの中に、彼自身の……どこか遠い異郷の風のような香りが混じった気がした。
「ただ、お腹が空いたら一緒にご飯を食べて、眠くなったら安全な場所で眠ってほしいだけです。……あなたが、あなたとして生きていける場所を作りたい。それだけなんです」
エルヴィンは、その真っ直ぐな言葉を吟味するように目を細めた。 戦略家としての直感は、この状況を異常だと警告している。だが、彼の内側にある、ひどく疲れ切った「一人の人間」としての心が、彼女の差し伸べた手の温かさを、拒むことができなかった。
「……いいだろう。君の提案に乗ることにしよう。今の私には、選択肢というものが欠乏している」
エルヴィンはわずかに口角を上げ、それは彼なりの精一杯の歩み寄りのように見えた。
オトウトは、二人の間に流れる奇妙な、けれど確固たる絆の萌芽を見つめながら、深いため息をついた。
「……分かったよ。姉貴がそこまで言うなら、僕も医者として、そして弟として最大限サポートする。……ただし、エルヴィンさん。姉を泣かせるような真似をしたら、僕が容赦しませんからね」
オトウトの釘を刺すような言葉に、エルヴィンは驚いたように目を見開いた後、クツクツと喉を鳴らして笑った。
「……ああ。心に留めておこう。……どうやらこの世界も、戦場とは違った意味で一筋縄ではいかないようだ」
窓の外には、夕焼け色に染まり始めた空が広がっていた。 かつて彼が見上げた空と同じ色。けれど、そこにはもう壁も、巨人の影もない。
ナマエは、エルヴィンの視線の先を見つめながら、心に誓った。 彼が普通の幸せを知るその日まで、何があってもこの手を離さないと。
(冗談だ。オトウトが、私をからかっているだけだ)
そう自分に言い聞かせなければ、足がすくんで動けなくなりそうだった。 弟からの電話。「お前の推しが、生きて、そこに寝てる」。そんな馬鹿げた話があるはずがない。彼は物語の中で、誇り高く散ったのだ。その最期にどれほどの涙を流し、どれほど彼の魂の安息を願ったか。
「……ここだ。入るぞ、姉貴」
病室の前で待っていた弟、オトウトが、心配そうにナマエの顔を覗き込んだ。その瞳が「冗談ではない」と告げている。ナマエは震える手で自身の喉元を抑え、深く、肺が痛むほどに息を吸い込んだ。
オトウトが静かにドアを開け、白いカーテンを引く。
その瞬間、世界から音が消えた。
窓から差し込む午後の柔らかな光が、ベッドの上に座る男の輪郭を縁取っている。 眩いばかりの金髪。彫刻のように整った、けれどどこか疲れを湛えた横顔。そして、彼がこちらを振り返ったとき、その碧い瞳に射抜かれ、ナマエは呼吸の仕方を忘れた。
「……オトウト先生。その女性は?」
低く、深く、耳の奥まで痺れるような声。 紛れもない。紙の上でも、画面の中でもない。そこに生身のエルヴィン・スミスがいた。
「僕の双子の姉です。ミョウジナマエ。……あなたの身元引受人について、話をしたいと思いまして」
オトウトの説明は、ナマエの耳には届いていなかった。 彼女の視線は、彼の右腕に釘付けになっていた。白い病衣の袖から伸びる、逞しく、温かみを持った右腕。失われたはずのものが、そこにある。彼があの日失ったはずの光景が、目の前に現実として存在している。
ナマエの目から、熱いものが溢れ出した。
「……ああ……っ」
声にならない嗚咽が漏れる。 エルヴィンは不可解そうに、わずかに眉を寄せた。彼の知る限り、自分は誰かに涙を流されるような存在ではない。ましてや、異世界の、見ず知らずの女性に。
「……団長……」
かすれた声で、彼女は呟いた。 その呼称を聞いた瞬間、エルヴィンの瞳の奥に鋭い光が宿った。彼はゆっくりと上体を起こし、逃さぬようにナマエを凝視する。
「……今、なんと呼んだ?」
「…………」
「なぜ、君が私を知っている。この国に私のデータはないはずだと、そこの医者に聞いたばかりだが」
エルヴィンの問いは、冷静で、かつ威圧的だった。 彼は無意識に、対峙する相手を分析しようとしている。目の前の女性は、軍人には見えない。戦いの匂いもしない。だが、その瞳に宿る熱は、自分を長年追い続けてきた者のそれによく似ていた。
ナマエは、必死に涙を拭った。 彼を怖がらせてはいけない。彼を不審がらせてはいけない。だが、胸の奥を刺すのは「知っている罪」だった。彼が何を背負い、何を諦め、どのように死んでいったか。それを「娯楽」として享受していた自分。彼の苦悩を、文字通り「物語」として読んでいた自分。
(私は……あなたの地獄を知っている。あなたが守ろうとした世界も、あなたの最期も。それを知っている私が、今、あなたの前に立っていていいの?)
「……ごめんなさい、エルヴィンさん」
ナマエは絞り出すように言った。 団長ではなく、一人の男としての名を。
「私は、あなたの……いえ、あなたのいた場所のことを、少しだけ詳しく知っている者です。……信じられないかもしれませんが」
エルヴィンは沈黙した。 彼は彼女の瞳の奥を覗き込み、嘘や敵意がないかを見極めようとしている。 やがて、彼はふっと視線を窓の外に逸らした。
「……天国にしては騒がしいと思っていたが。どうやら私は、死後の世界ですら、安らぎを得ることは許されないらしい。……君のような美しい女性にまで、私の業を知られているとは」
その自嘲気味な微笑みに、ナマエの心は激しく揺さぶられた。 目の前にいるのは、教科書に載る英雄でも、画面の向こうの偶像でもない。 自分の「生」の意味を問い続け、傷つき、それでも立ち止まれなかった、一人の不器用な男だ。
(違う。あなたは、もう苦しまなくていい。ここは、あなたが誰かのために命を投げ出さなくてもいい場所なんだから)
ナマエは拳を握りしめ、オトウトを振り返った。 その目は、すでに決意に満ちていた。
「オトウト。……この人のこと、私が引き受ける。手続きを始めて」
「姉貴……。本気か? 彼は戸籍もない、身元不明者だぞ。これから先、どれだけ大変か分かってるのか」
「分かってる。……でも、この人を……団長を、独りにしちゃいけないの。もう、誰にも選ばれずに消えていくなんて、させない」
ナマエの言葉に、エルヴィンは再び彼女を見た。 「選ばれる」という言葉。 自分は常に、誰かを選び、切り捨て、そして自分自身をも人類という天秤の皿に乗せてきた。誰かに無条件で選ばれるという経験が、これまでの人生に一度でもあっただろうか。
「……ナマエ、と言ったか」
エルヴィンが、彼女の名を呼んだ。ナマエの肩がびくりと跳ねる。
「君は、私を救うつもりか?それとも、監視でもするつもりか」
「救うなんて、そんなおこがましいこと言えません」
ナマエは一歩、彼に歩み寄った。 消毒液の匂いの中に、彼自身の……どこか遠い異郷の風のような香りが混じった気がした。
「ただ、お腹が空いたら一緒にご飯を食べて、眠くなったら安全な場所で眠ってほしいだけです。……あなたが、あなたとして生きていける場所を作りたい。それだけなんです」
エルヴィンは、その真っ直ぐな言葉を吟味するように目を細めた。 戦略家としての直感は、この状況を異常だと警告している。だが、彼の内側にある、ひどく疲れ切った「一人の人間」としての心が、彼女の差し伸べた手の温かさを、拒むことができなかった。
「……いいだろう。君の提案に乗ることにしよう。今の私には、選択肢というものが欠乏している」
エルヴィンはわずかに口角を上げ、それは彼なりの精一杯の歩み寄りのように見えた。
オトウトは、二人の間に流れる奇妙な、けれど確固たる絆の萌芽を見つめながら、深いため息をついた。
「……分かったよ。姉貴がそこまで言うなら、僕も医者として、そして弟として最大限サポートする。……ただし、エルヴィンさん。姉を泣かせるような真似をしたら、僕が容赦しませんからね」
オトウトの釘を刺すような言葉に、エルヴィンは驚いたように目を見開いた後、クツクツと喉を鳴らして笑った。
「……ああ。心に留めておこう。……どうやらこの世界も、戦場とは違った意味で一筋縄ではいかないようだ」
窓の外には、夕焼け色に染まり始めた空が広がっていた。 かつて彼が見上げた空と同じ色。けれど、そこにはもう壁も、巨人の影もない。
ナマエは、エルヴィンの視線の先を見つめながら、心に誓った。 彼が普通の幸せを知るその日まで、何があってもこの手を離さないと。
