推しの心臓、我が家の1LDKにあり
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秋の夕暮れは、釣瓶落としに夜を連れてくる。
高層ビルの狭間を吹き抜ける風は冷たく、街を行き交う人々は一様にコートの襟を立てて歩みを速めていた。
独立したスミスコンサルティングの事業は、驚くほどの速度で軌道に乗っていた。エルヴィンの持つ天賦の才と、ナマエの誠実な営業努力。二人の戦略が噛み合うたび、かつての戦場での勝利とは違う、温かな成果が積み上がっていく。
ある日の仕事帰り、エルヴィンは銀座の目抜き通りでふと足を止めた。
ショーウィンドウの向こう、眩い光に照らされた指輪が、ベルベットのクッションの上で静かに呼吸をしていた。
(……団長として、誰かと添い遂げることなど、考えたこともなかった)
かつての彼は、人類の希望という名の重荷を背負い、自身の心臓を捧げることばかりを考えていた。私的な幸福、安らげる家庭、愛する女性。それらはすべて、壁の外にある真実に辿り着くための、捨て去るべき代償だった。
だが今、彼の碧い瞳に映っているのは、硝子の向こうの宝石ではない。
この世界のどこかで、自分の帰りを待っている黒髪の女性の、穏やかな微笑みだった。
「……選びたい、か」
独りごちた言葉が、白い息となって消える。
誰かに命じられるのではなく、役割に従うのでもなく。
一人の男として、一人の女性と共に生きる未来。それを自らの意志で「選びたい」と、心の底から渇望している自分に、彼は初めて安らかな敗北を認めた。
「……結婚、ですか」
オトウトの勤務する病院の屋上。冷たい秋風が吹き抜ける中、オトウトは手にした缶コーヒーを眺めながら、どこか呆れたような、けれど確かな温もりを含んだ声を漏らした。
「実務的なサポートなら任せてください。戸籍の件は、僕の知人のルートで『海外での長期滞在を経て帰国した、ミョウジ家の遠縁』として正式に受理されるよう手配を済ませました。……不備はありません」
「助かる。……恩に着るよ、オトウト」
エルヴィンが深々と頭を下げると、オトウトは慌てて視線を逸らした。
「お礼はいいですよ。……それより、本気なんですね。あの日、死に損ねた顔でベッドに横たわっていたあんたが、まさか姉貴と家族になろうなんて」
「ああ。私はもう、あの世界には戻らない」
エルヴィンは、遠く広がる都会の夜景を見つめた。
「ここで、ナマエと生きると決めたんだ。……それが、私がこの世界に来た本当の理由だと、今は確信している」
数日後、エルヴィンはオトウトに同行を頼み、再びあの指輪店の前に立っていた。
並外れた威厳を放つエルヴィンが、ショーケースの前で眉間に皺を寄せて真剣に悩む姿は、店員たちの間で密かな話題になっていた。
「これなどは、彼女の指を美しく引き立てるのではないか。……それとも、こちらのほうが強度が期待できるだろうか」
「エルヴィンさん、戦場じゃないんだから強度は二の次でいいですよ。……姉貴は、シンプルなデザインが好きです。仕事中もつけていられるような、細身のものがいいと思う」
オトウトの冷静なアドバイスに、エルヴィンは「なるほど、合理的だ」と深く頷いた。
彼が選んだのは、飾り気のないプラチナの台座に、一点の曇りもない小さな石が埋め込まれた、月光のように清らかな指輪だった。
週末の夜。
1LDKの室内は、加湿器が吐き出す繊細な霧と、淹れたてのコーヒーの香りに包まれていた。
テレビからは静かなジャズが流れ、都会の喧騒は厚いカーテンの向こう側に遮断されている。
ソファに隣り合って座り、ナマエは仕事の資料を読み、エルヴィンはチェスの本を開いていた。
かつての地獄のような日々が嘘に思えるほど、あまりに何気ない、愛おしい日常の一コマ。
「……ナマエ」
ふいに、エルヴィンが本を閉じ、低い声で彼女を呼んだ。
「ん? どうしたの、エルヴィン」
ナマエが顔を上げ、不思議そうに彼を見つめる。
「……少し、いいか」
エルヴィンの表情が、かつてなく真剣だった。
彼はゆっくりと、スラックスのポケットから小さな、ネイビーの小箱を取り出した。
ナマエの目が見開かれる。心臓の鼓動が、静かな部屋の中にまで響くのではないかと思うほどに跳ね上がった。
「……君と出会って初めて、俺は――」
エルヴィンは、ナマエの正面に向き直った。
その碧い瞳には、迷いも、偽りも、かつて彼を縛り付けていた「団長」としての重圧もなかった。
彼は箱を開ける。
柔らかな光を受け、プラチナの輪が静かに輝いた。
「“共に生きたい”と思った」
エルヴィンの声が、熱を持ってナマエの鼓動を揺さぶる。
「この世界で、君の隣で。……団長でも、英雄でもなく。ただ一人の男として、君と共に歳を重ねたい。……俺と、家族になってくれないか」
エルヴィンは彼が築き上げてきたすべての壁を取り払い、一人の人間として、剥き出しの魂を差し出した。
「…………っ」
ナマエの視界が、一瞬で熱い涙に覆われた。
あの日、病院のベッドで彼を見つけた日から。
彼の孤独を知り、彼の背負ってきた荷物を半分だけでも持たせてほしいと願ってきた、あの日から。
この言葉を、どれほど心の奥底で待ち望んでいたことだろう。
「ずるいよ……。そんなの、断れるわけない」
ナマエは、溢れ出す涙を拭うこともせず、何度も、何度も頷いた。
「はい。……はい……! 私の方こそ、あなたの隣にいさせて」
エルヴィンは、初めて見るような、心からの安堵に満ちた笑みを浮かべた。
彼の手が、わずかに震えている。
人類の命運を左右する決断の時ですら、微塵も動かなかったその指先が。
彼はナマエの左手を取り、ゆっくりと、永遠の契約を刻むように指輪を嵌めた。
「……ありがとう、ナマエ」
エルヴィンはナマエを力強く、壊れ物を扱うような繊細さで抱き寄せた。
胸板の厚さ、彼から漂う清潔な石鹸の香りと、コーヒーの匂い。
すべてが、現実にここに在るのだと教えてくれる。
「君は、俺の全てだ。……何があっても、一生離さない」
深く、けれど羽毛のように優しいキスが、二人の約束を封印した。
ナマエは彼の胸に顔を埋め、泣き笑いのような声を漏らす。
「これから、よろしくね。……団長……じゃなくて、私の旦那さん」
その呼び方に、エルヴィンは声を立てて笑った。
それは、かつて「翼」を背負っていた頃には決して見せることのなかった、ただの男としての、至福の笑顔だった。
「……ああ。よろしく頼む、ナマエ。……俺は今、幸せだ」
都会の夜景を見下ろす、この小さな1LDKで。
かつて空を飛び続けた英雄は、ようやく、永遠に続く愛という名の安息地へと帰還した。
高層ビルの狭間を吹き抜ける風は冷たく、街を行き交う人々は一様にコートの襟を立てて歩みを速めていた。
独立したスミスコンサルティングの事業は、驚くほどの速度で軌道に乗っていた。エルヴィンの持つ天賦の才と、ナマエの誠実な営業努力。二人の戦略が噛み合うたび、かつての戦場での勝利とは違う、温かな成果が積み上がっていく。
ある日の仕事帰り、エルヴィンは銀座の目抜き通りでふと足を止めた。
ショーウィンドウの向こう、眩い光に照らされた指輪が、ベルベットのクッションの上で静かに呼吸をしていた。
(……団長として、誰かと添い遂げることなど、考えたこともなかった)
かつての彼は、人類の希望という名の重荷を背負い、自身の心臓を捧げることばかりを考えていた。私的な幸福、安らげる家庭、愛する女性。それらはすべて、壁の外にある真実に辿り着くための、捨て去るべき代償だった。
だが今、彼の碧い瞳に映っているのは、硝子の向こうの宝石ではない。
この世界のどこかで、自分の帰りを待っている黒髪の女性の、穏やかな微笑みだった。
「……選びたい、か」
独りごちた言葉が、白い息となって消える。
誰かに命じられるのではなく、役割に従うのでもなく。
一人の男として、一人の女性と共に生きる未来。それを自らの意志で「選びたい」と、心の底から渇望している自分に、彼は初めて安らかな敗北を認めた。
「……結婚、ですか」
オトウトの勤務する病院の屋上。冷たい秋風が吹き抜ける中、オトウトは手にした缶コーヒーを眺めながら、どこか呆れたような、けれど確かな温もりを含んだ声を漏らした。
「実務的なサポートなら任せてください。戸籍の件は、僕の知人のルートで『海外での長期滞在を経て帰国した、ミョウジ家の遠縁』として正式に受理されるよう手配を済ませました。……不備はありません」
「助かる。……恩に着るよ、オトウト」
エルヴィンが深々と頭を下げると、オトウトは慌てて視線を逸らした。
「お礼はいいですよ。……それより、本気なんですね。あの日、死に損ねた顔でベッドに横たわっていたあんたが、まさか姉貴と家族になろうなんて」
「ああ。私はもう、あの世界には戻らない」
エルヴィンは、遠く広がる都会の夜景を見つめた。
「ここで、ナマエと生きると決めたんだ。……それが、私がこの世界に来た本当の理由だと、今は確信している」
数日後、エルヴィンはオトウトに同行を頼み、再びあの指輪店の前に立っていた。
並外れた威厳を放つエルヴィンが、ショーケースの前で眉間に皺を寄せて真剣に悩む姿は、店員たちの間で密かな話題になっていた。
「これなどは、彼女の指を美しく引き立てるのではないか。……それとも、こちらのほうが強度が期待できるだろうか」
「エルヴィンさん、戦場じゃないんだから強度は二の次でいいですよ。……姉貴は、シンプルなデザインが好きです。仕事中もつけていられるような、細身のものがいいと思う」
オトウトの冷静なアドバイスに、エルヴィンは「なるほど、合理的だ」と深く頷いた。
彼が選んだのは、飾り気のないプラチナの台座に、一点の曇りもない小さな石が埋め込まれた、月光のように清らかな指輪だった。
週末の夜。
1LDKの室内は、加湿器が吐き出す繊細な霧と、淹れたてのコーヒーの香りに包まれていた。
テレビからは静かなジャズが流れ、都会の喧騒は厚いカーテンの向こう側に遮断されている。
ソファに隣り合って座り、ナマエは仕事の資料を読み、エルヴィンはチェスの本を開いていた。
かつての地獄のような日々が嘘に思えるほど、あまりに何気ない、愛おしい日常の一コマ。
「……ナマエ」
ふいに、エルヴィンが本を閉じ、低い声で彼女を呼んだ。
「ん? どうしたの、エルヴィン」
ナマエが顔を上げ、不思議そうに彼を見つめる。
「……少し、いいか」
エルヴィンの表情が、かつてなく真剣だった。
彼はゆっくりと、スラックスのポケットから小さな、ネイビーの小箱を取り出した。
ナマエの目が見開かれる。心臓の鼓動が、静かな部屋の中にまで響くのではないかと思うほどに跳ね上がった。
「……君と出会って初めて、俺は――」
エルヴィンは、ナマエの正面に向き直った。
その碧い瞳には、迷いも、偽りも、かつて彼を縛り付けていた「団長」としての重圧もなかった。
彼は箱を開ける。
柔らかな光を受け、プラチナの輪が静かに輝いた。
「“共に生きたい”と思った」
エルヴィンの声が、熱を持ってナマエの鼓動を揺さぶる。
「この世界で、君の隣で。……団長でも、英雄でもなく。ただ一人の男として、君と共に歳を重ねたい。……俺と、家族になってくれないか」
エルヴィンは彼が築き上げてきたすべての壁を取り払い、一人の人間として、剥き出しの魂を差し出した。
「…………っ」
ナマエの視界が、一瞬で熱い涙に覆われた。
あの日、病院のベッドで彼を見つけた日から。
彼の孤独を知り、彼の背負ってきた荷物を半分だけでも持たせてほしいと願ってきた、あの日から。
この言葉を、どれほど心の奥底で待ち望んでいたことだろう。
「ずるいよ……。そんなの、断れるわけない」
ナマエは、溢れ出す涙を拭うこともせず、何度も、何度も頷いた。
「はい。……はい……! 私の方こそ、あなたの隣にいさせて」
エルヴィンは、初めて見るような、心からの安堵に満ちた笑みを浮かべた。
彼の手が、わずかに震えている。
人類の命運を左右する決断の時ですら、微塵も動かなかったその指先が。
彼はナマエの左手を取り、ゆっくりと、永遠の契約を刻むように指輪を嵌めた。
「……ありがとう、ナマエ」
エルヴィンはナマエを力強く、壊れ物を扱うような繊細さで抱き寄せた。
胸板の厚さ、彼から漂う清潔な石鹸の香りと、コーヒーの匂い。
すべてが、現実にここに在るのだと教えてくれる。
「君は、俺の全てだ。……何があっても、一生離さない」
深く、けれど羽毛のように優しいキスが、二人の約束を封印した。
ナマエは彼の胸に顔を埋め、泣き笑いのような声を漏らす。
「これから、よろしくね。……団長……じゃなくて、私の旦那さん」
その呼び方に、エルヴィンは声を立てて笑った。
それは、かつて「翼」を背負っていた頃には決して見せることのなかった、ただの男としての、至福の笑顔だった。
「……ああ。よろしく頼む、ナマエ。……俺は今、幸せだ」
都会の夜景を見下ろす、この小さな1LDKで。
かつて空を飛び続けた英雄は、ようやく、永遠に続く愛という名の安息地へと帰還した。
